山本七平著『日本人と原子力』について

2011年3月31日 (木)

 山本七平は、「原子力発電」の問題を「エネルギーの歴史」という文脈の中で捉えていました。つまり、原子力は「人類のエネルギー史の一段階」として存在するものであり、同時に、「現代のエネルギー問題の一環」として存在るものである、というのです。(山本七平著『日本人と原子力』参照)

 つまり、原子力は「究極エネルギー」でもなければ、全てこれに帰一すべき「唯一のエネルギー」でもない。いわば人類が、脱水車、脱風車、脱木炭、脱石炭、そしてやがて脱石油をするように、将来はおそらく「脱原子力」の時代を迎えるであろう、と。

 といっても、こうしたエネルギー源の変化は、ある時期に一斉に切り替えがなされるのではなく、いずれの時代も数種が併存して使われてきた。そこで、脱石油後の主要なエネルギー源は何かということになると、それは原子力しかなく、従って「脱原子力」の時代が来るまでは、これを改良しつつ使うほかはない。

 日本は、明治以降、欧米諸国が試行錯誤の末に開発したこれらのエネルギー技術を、完成品として取り入れてきた。そのため、常にその技術に絶対安全を求め得た。ところが、そうした従来の日本のやり方が、今日の原子力の時代を迎えて、技術的にも不可能になりつつある。

 一方、少子高齢化に伴う労働人口の減少(=技術者の減少)が進む中で、さらに充実した高度福祉社会を維持して行くためには、相当のエネルギーを必要とする。しかし、当面その電力需要に応えるものは原子力しかない。従って、日本は、この未完成の原子力の安全利用に努めるとともに、それを、次の脱原発後のエネルギー開発へとつなげていかなければならない、というのです。

 この本は昭和51年に刊行されたもので、こうした山本七平の原子力発電に関する主張は、当時、原発に反対する勢力によって激しく批判されました。要するに原子力発電は危険!ということなのですが、これは言葉を換えて言えば、原子力を安全に平和利用する技術は、まだ未完成だ、ということに他なりません。

 不幸にして、今回の東北関東大地震に伴う福島第一原子力発電所の事故は、この原子力の平和利用における安全確保の技術に重大な隘路があったことを示す結果となりました。しかしこれは、地震の揺れと言うより想定外?の津波によるもので、もし、これが想定され、所要の対策が採られていたなら防げたはずの事故でした。

 従って、今回の事故は、日本にとっては誠に厳しい結果となりましたが、世界の原子力発電の安全性の確保という点から見れば、大きな教訓をもたらすものとなったことは間違いありません。これが想定外の天災によるものか、それとも当然想定さるべきことを怠った人災というべきかは、今後議論がなされることと思いますが・・・。

 私自身の印象としては、貞観の巨大地震の発生が学者により指摘され、また、万一の場合の電源喪失の対策についても、国会で指摘がなされていたとの報道もありますので、これは技術上の問題と言うより”人災”的要素の方が強いと思います。といっても、世界的に見れば原子力発電所がミサイル攻撃を受けることもあり得るわけで、今回の事故はその危険性への教訓にもなったと思います。

 もちろん、日本は、今回の事故を引き起こした当事国として、こうした安全対策上の技術を向上させていく歩みを止めるわけにはいきません。しかし、それと同時に、その他の自然エネルギー源の開発、例えば、水力発電技術(直流送電や小規模発電など)とスマートグリッドの蓄電技術などを組み合わせた新技術の開発なども進めるべきです。

 残念ながら、福島第一原発の放射能漏れ事故が収まるまでには、まだ、かなりの時間がかかりそうです。しばらく落ち着かない日が続くことになりますが、以上紹介したような山本七平氏の所論も参考にしながら、今後の日本のエネルギー政策のあり方について、冷静かつ合理的な議論を積み重ねていく必要があると思います。

 なお、次の文章は、この本(『日本人と原子力』)の「あとがき」です。以上紹介した山本七平の主張を簡潔にまとめていますので、参考までの紹介しておきます。

 あとがき

 あるいは鉄器ができたとき、あるいは水車が発明されたとき、石炭、蒸汽機関、鉄道、汽船、石油、内燃機関、航空機等々が登場したとき、人類の歴史は大きく転換した。そして新しく登場したものは、しばしば夢のような未来を想定させた。ライトがはじめて飛行機で空を飛んだとき彼は「人間が空を飛ぶようになれば、戦争はなくなる」という非常に面白い言葉をのべている。これは冗談でなく、彼は本気でそう信じ、まじめにそう考えたのである。しかしこの発明家の夢想は破れ、航空機は戦争の苛烈さを増し、世界の政治勢力の地図を大きく塗りかえただけであった。

 とはいえ、そのことは航空機が平和利用にも人類の相互理解にも役立たぬ無益な発明であったということではない。これは、人類がはじめて石器をつくって以来、常にくりかえしてきたことだとも言える。新しい技術、新しいエネルギーの開発は、人類の政治地図を大きく塗りかえ、その過程で恐るべき惨禍を人類に及ぼす。同時にそれは、人類にとって不可欠の存在となり、その利用は新しい技術の出現までつづき、この間、大きな便益を人類に提供しつづけたと。

 とはいえその便益は、常に「人類に平均」ではなかった。否、政治地図の塗りかえ自体が、それを独占したものの、一種の恐るべき支配力を物語っている。そしてわれわれは好むと好まざるとにかかわらず、石油時代の終りに位置し、新しいエネルギーの時代を迎えようとしているわけである。それは人類が常に経験してきたことだともいえるし、また、全く新しい事態だともいえる。というのは「終り」は常に一つの混乱を招来し、始まりもまた一つの混乱をもたらす。

 しかしいままでは、「終り」が来る前に、新しい技術が過去を葬って行ったわけ――いわば、水流が途絶えたわけはないのに、石炭と蒸汽機関にとって変わられたのであり、石炭が涸渇したのでないのに石油にとってかわられたという形で、相当に長い新旧並存期間があったわけである。だが石油に関する限りこの状態は同じでなく、今年就職した人が停年を迎えるころに、果して、今のような「ガソリンエンジンつき自動車」が存在し得ているかどうか、だれも明言できないのが実情なわけである。この意味では、今まで経験しなかった新しい時代なのかもしれぬ。

 多くの人は、生活水準の向上、完全雇傭、社会福祉、社会保障の充実、住宅問題の解決、老後の完全保障等、多くの問題が解決されねばならないと主張している。だがそういう主張をする人が、無意識のうちに前提としていることは「今の状態が半永久的につづく」ということなのである。それが本当に「保証」されているなら、その基本的な保証を基にして、さまざまな保証を行うことが可能であろう。だが本当にその「基本保証」は存在するのであろうか。

 どこかの国が、あるいは天が、それを 「日本と日本人」に保証してくれているのであろうか? 実をいえば、それはどこの他人も他国も保証してくれず、それを保証するものは、基本的にいえば「われわれの英知」だけなのである。そして英知とは、われわれが置かれている実情を正しく把握し、これに合理的に対処する能力に他ならない。

 エネルギー問題という、すべてを支えている前提の処理を誤れば、一切は空中楼閣として消えて行くであろう。(後略)