福島第一原発、危機は回避できるか(2)

2011年3月21日 (月)

 破局的な状況にあった福島第一原子力発電所の爆発放射能漏れ事故は、関係者の自己犠牲的な努力によって、なんとか小康状態を保ちつつあります。今後、電源が回復し、故障している機器の修理・取り替えがなされれば、中央制御室の機能も回復します。それによって、より正確な原子炉システムの現状把握がなされ、より有効な対応策をとることができるようになります。
 
 また、これによって原子炉の冷却装置の機能が回復すれば、放射能漏れも徐々に減少して行くことになるでしょう。といっても、これはあくまでも素人考えですが、原子炉に注入した海水をそのままにして、電源が回復した後の冷却装置の運転が支障なく行えるのでしょうか。廃炉は仕方ないとしても、核燃料の完全冷却までいけるどうかということです。(どうやら冷却装置は真水を循環できるシステムになっているみたいです。3/23)

 それにしても、原子炉建屋外壁が水素爆発によって、使用済み核燃料の冷却プールが破損し、水漏れを起こすような事態に至らなくて良かったですね。報道されたところによると、アメリカはこの点を最も恐れていたようですが、冷却プールの設置されている位置から考えて、その恐れは極めて大きかったと思います。それに耐えるほどプールが頑丈に作られていたということでしょうが、幸運というしかありません。

 また、今回の、まさに国家的危機とも言うべき難局に際して、自衛隊、機動隊、東京都消防庁、とりわけ東電の現場技術者・作業員の皆さんが、まさに自己の生命の危険を犯して、危機回避のための勇気ある行動をとられました。その結果、ようやく、この小康状態を得るに至ったことに対し、日本国民の一人として心から感謝申し上げたいと思います。併せて、彼らの勇気に敬意を表します。

 さて、反省をするにはまだ時期が早いわけですが、今後起こって来るであろう議論を整理するため、いくつかの論点を提起しておきたいと思います。

 第一の論点は、まさに想定外の大地震の発生によって原子炉施設が津波に会い、原子炉は緊急停止し、冷却装置は津波によって起動しなくなって後の東電の緊急対処法が、果たして適切だったかどうかということです。結果から見れば、この段階で最も注意すべきことは、炉心の冷却がうまくいかず、核燃料が露出して水素爆発を起こす危険性をいかに回避するか、ということだったのではないでしょうか。

 東電は、この危険性を予測できなかったのでしょうか。それとも、冷却装置が動かなくなった後に緊急に取り付けた補助ポンプでは、十分な冷却水を供給できず、早急に海水を注入したとしても同じことだったのでしょうか。いずれにしても、この爆発によって、コンクリート製の原子炉建屋外壁が破壊され、放射能が漏れ出しました。また、使用済み核燃料プールが破損する危険性もあり、それはまさに、破局的状況をもたらすものでした。

 おそらく欧米各国は、この爆発事故が起こったことによって、福島原発が破局的事態に陥ることを不可避と見たのではないでしょうか。それが自国国民を日本からの緊急避難させるという措置につながったものと思われます。実際、東電自体も、この段階で被爆を避けるため、50名程度の作業員を残して他の社員を退避させました。この措置が、現場放棄のように誤って伝えられたのでしょう。

 実際、その後の修復作業は、炉心の冷却作業、外部からの使用済み燃料プールへの注水作業、施設の電源回復作業、津波で故障した機器の修理・取り替え作業など、全て、作業員の被爆線量をコントロールしながらの極めて困難な作業となりました。しかし、冒頭述べたような関係者の努力によって、なんとか、電源供給が可能となり、冷却装置が自動運転できる段階に到達することができました。

 とはいえ、原子炉本体の損壊――伝えられるところでは第二号機の圧力抑制器が壊れているらしい――がどの程度のものか。使用済み核燃料の冷却プールには本当に水漏れはないのか。原子炉に注入した海水はそのままでも機能回復した冷却装置に問題は起こらないのか(この点は先述の通り3/23)。さらには、以上のような措置に伴う作業を、誰が被爆覚悟で行うのか等々・・・についてはまだ判りません。

 ところで、こうした危機的状況に的確に対処する上で最も大切なものが、政治的リーダーシップであることは言うまでもありません。管首相の場合は、その総合的判断力や組織を動かす力において疑問符がつきました。氏の指揮下で官僚組織や民間の力がどれだけ引き出されたのか疑問です。枝野幹事長は終始冷静に対応しましたが、はたして国民に対してどれだけ的確に事実を伝えることができたか。

 以上は、私が、この事件が発生して以降、ようやく小康状態を得るに至った今日までの情況を踏まえて考えたことですが、この際、より根本的な議論をするならば、それは、この原子力発電施設を維持する中で、なぜ、10メートルを超える津波の発生を予測できなかったかということです。それが予測できてさえいれば、これに有効に対処するための危機管理システムも構築でき、今回のような非常事態に陥ることもなかったと思います。

 また万一のことが起こった場合の、放射能を防ぐ防護服や冷却剤の準備、破損した機器のバックアップシステムの構築、放射線量を気にすることなく被害現場を撮影したり、消火作業を行ったりできる機器や機材の準備等・・・。今回は、こうした、私たち素人でも容易に考えつくような対応策さえ、その導入が遅れ、関係者を被爆の脅威にさらすことになりました。

 こうした万一の事故に備える準備がなされなかったその根本原因としては、日本人の思考において「事実論」と「価値論」の区別ができない点を指摘しなければなりません。そのため「事実」を「事実」として徹底的に究明することができなくなる。原子力発電賛成派について言えば、その安全性の絶対性を強調する余り、万一の場合の危機回避対策を講じることを怠たりました。

 また、原子力発電反対派について言えば、原子爆弾を投下された経験から、原子力エネルギーの危険性を強調する余り、原子力の平和利用とその安全性の確保に関する議論を全くしてこなかったということです。その一方、水力発電という、自然エネルギーを利用した発電方法についても、執拗にダム建設反対運動を繰り返し、その結果、なし崩し的に原子力発電に頼ることになってしまいました。

 おそらく、今回の事故を機に、上記のような議論が再び蒸し返されることになるでしょう。その際、大切なことは、日本はものを作りそれを売ることによって存立している国であって、一定のエネルギーの確保なしには生きて行けないということです。そのエネルギーをどういう方法で安全に確保するか。水力か、火力か、原子力か、太陽力か、風力か、それとも波力かということについての、事実に基づいた徹底的な議論が必要です。

 そうした「事実」に基づいた議論の上に、今後の日本のエネルギー政策が決定されるべきです。今回の事故を起こした福島第一原子力発電所は、日本でも最も古い型の原子力発電所であり、その安全面の脆弱性を露呈しました。しかし、今や原子力は小型化し、船に積めるようになっているのです。それだけ安全性を確保する技術が進歩していることも事実です。最近は冷却装置も不要な小型のものができているといいます。

 しかし、その安全性が崩壊した際に人体に及ぼす影響は深刻であって、そのことを、今回改めて思い知らされることになりました。願わくば、万一の場合にも、人体に与える害を最小限に食い止め得る技術が確立されることを望みたいと思います。今日、地球温暖化を防止すための二酸化炭素排出抑制も求められており、これを機に日本のエネルギー政策論が、「事実論」を戦わす中で徹底的に行われることを期待したいと思います。

最終校正(3/22 15:00)