日本人の国家観・憲法観と防衛意識について――一知半解さんとの対話
「護憲派の人たちと議論すると決まって、国家権力は憲法によって拘束されるべきであるという考え方(いわゆる立憲主義)というものを前面に押し出して、だからこそ、憲法改正してはならない、と結論付ける傾向が強いですね。 これは、単なる宗教的護憲論に比べて、理論的なので一見反論しづらいものがあります。そしてまた、彼らは立憲主義を主張する一方で、国民の義務とか国の在り方というものを憲法に記すことを非常に嫌がる傾向にあります。 憲法には、権力を拘束すると共に、国民の義務をキチンと記すべきだと思っていたので、この点については、私は非常に不満でした。(中略) 結局のところ、民主主義というものがキチンと機能するためには、主権者自らが、権力の負託について責任と結果を持たなければいけないということを改めて考えさせてくれるように思います。 いくら立派な憲法条文が出来ようとも、権力を監視するのは、主権者である国民自身であるはず。」 以上は、一知半解さんのご意見ですが、ではどうすればいいかというと、日本国民は国家の重要性に関する認識が薄く、「国民としての義務感」も薄い――こんな状態では日本民族が生きのびる事が危ぶまれる――ので、憲法には、権力を制限する規定と共に、国民の義務もしっかり書き込むべきではないか、ということを述べておられるようです。 このご意見についての私の意見は次の通りです。 日本人の伝統的な権力観は、儒教の影響もあって「権力性善説」です。ただし、中国の儒教の場合は、権力は儒学を修めた君子によって担われる一方、一般庶民は教養のない「小人」と見なされます。このため「由らしむべし、知らしむべからず」ということになります。つまり、政治と庶民との関係は上意下達であり、一方通行です。 これに対して日本の場合は、江戸末期の水戸学によって「忠孝一致」の国体観が主張され、家族倫理としての「孝」が政治にも拡大・延長され、権力と庶民との関係が、親子の関係と同様、家族主義的に一体であることが理想とされました。こうした国家観を宣明したものが教育勅語でした。 これに対して、欧米の権力観は「権力性悪説」です。もちろん、権力なしには社会の秩序は保てませんから、これが暴走しないよう、あくまで国民の自由通行を保障するものとなるよう、権力行使に一定のルールを課したのです。ここから近代憲法(立憲主義的憲法)の権力制限的性格が生まれました。 明治以降の日本には、前者の伝統的な家族主義的国家観と、後者の西欧的な権力制限的国家観とが併存しました。結局、前者の国家観が、後者の国家観に対して、伝統的であるが故に強みを発揮し、最終的な勝利を収めました。しかし、このために権力の暴走を招き、悲惨な敗戦を招くことになりました。 では、こうした日本の歴史的経験を踏まえて、日本人の憲法観はどのように修正されべきでしょうか。 その第一の課題は、教育勅語に示されたような家族的倫理観と家族的国家観の癒着した関係を、象徴天皇制によって整理し直す必要がある、ということです。つまり、教育勅語に語られたような家族的倫理観は今日にも通用する道徳観ですが、国民と政治との関係は、西欧的な権力制限的国家観を採用すべきだということです。そして、日本的な家族的国家観の方は、象徴天皇制の下に非権力的文化的な秩序観として深めていくということです。(実はこちらの方が、より日本に伝統的な政治秩序観なのですが) もちろん、国民の思想信条の自由は現行憲法上保障されているものであり、国民がどのような個人的倫理観・道徳観を持とうと、それは国民の自由意志に任されています。従って、こうした倫理観や道徳観を法律に規定する、などということはできません。これは、あくまでも個々人の内心の自由の問題ですから。 といっても、このことは、国民としての義務を憲法で規定すべきでない、ということを意味しません。日本国憲法には、国民の三大義務として、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)が定められています。しかし、これらは「具体的な法的義務としての意味はなく、国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは、立法による義務設定の予告としての意味を持つにとどまる」(WIKI「義務」参照)とされます。 というと、憲法上の国民の義務規定は極めて曖昧なもののように思われますが、実は国民の義務規定は、権力を行使するものに対しては「憲法を尊重し擁護する義務」を、国民一般に対しては、「法令遵守義務(実定法上の義務)」を課しているのです。これが現行憲法及び法律における、国民に課された最も重要な義務規定なのです。 そして、これらの憲法や、その他法令の諸規定を制定あるいはそれを改廃する権利は、国民に委ねられているのです。そしてこの権利は、国民の投票による代議員の選出から議会における立法手続きを経て、具体的に行使されることになっています。 その意味では、一知半解さんの言われる「いくら立派な憲法条文が出来ようとも、権力を監視するのは、主権者である国民自身であるはず」という意見はその通りで、憲法条文そのものは、主権者たる国民が権力を監視するための手段に過ぎないのです。 従って、それが現実的・社会的に効果を発揮しないということになれば、いつでもそれをより有効なものとするよう関係法令を改廃しなければなりません。そうした主体性を主権者が持つということが、民主政治をうまく機能させるための基本的な条件なのです。 従って、国民と権力との関係は、中国儒教的な「由らしむべし、知らしむべからず」ではもちろんだめで、また、日本の水戸学的「忠孝一致」でもだめです。あくまで、権力を社会の秩序維持のために機能させ、それによって国民の自由闊達な言論・活動を確保し、それによって国民(あるいは民族)文化の維持・発展を図るべく権力をコントロールすること。その(最終)権力は、国民の判断に委ねられているのです。 この点、日本人には、いまだ、先に述べたような家族主義的国家観の伝統が根強く残っていて、つい、政治にそうした家族主義的な道徳観念を求めてしまいがちです。しかし、それでは、「君は君たらずとも、臣は臣たらざるべからず」ということで、権力に対する批判精神は抑制されてしまいます。従って、こちらの方は立憲主義的に、その合理性・機能性を徹底すべきです。 かって、教育基本法改正問題で、愛国心を教育基本法に規定すべきかどうかということが議論されたことがあります。そこでは、日本の教育課題として「自由で公正な社会の形成者として、国家・社会の諸問題の解決に主体的に関わっていく意識や態度を涵養すること」(教育基本法改正に伴う中教審答申)が求められました。 では、そうした主体的な社会の形成者としての国民を形成していくためにはどうしたらいいかというと、「一人一人の国民が、自らの価値観をもち、独立して判断できる能力を身につける」ということになります。つまり、法律に対しても批判的な判断ができるようになることが最も大切だ、ということになります。 かってコンドルセは「教育の目的はすっかり完成している法律を人びとに賞賛せしめることではなく、この法律を評価したり、訂正したりする能力を人びとに附与することである」(『公教育の原理』)といったといいます。 「ところが教育基本法に徳目を並べる以上、それらも真理として教えるのでなければ意味がない。しかし、それらを真理として教えることは法律を評価し、訂正する能力を人びとから剥奪することでになる。したがって、現行法に徳目を追加して規定するという答申の提案は国家・社会の諸問題の改正に主体的に参加する国民の育成を図るという・・・趣旨に矛盾することになる。」(『教育基本法を考える』市川昭午p186) 「民主主義・個人主義・平和主義に反するような理念の場合は言うまでもないが、たとえ民主主義・個人主義・平和主義の理念であっても、法規に規定された理念を教え込まれて育った人間は、本当の意味で民主的な公共の担い手・国家・社会の主体的な形成者にはなり得ない確率が高い。したがって、『国家による道徳のする込み作業がうまくいけばいくほど、国家に依存して独立の判断能力を失った個人を生み出し、危機の状況にあって国家や社会を支えていく主体を失わざるを得ない』(西原博史「”主権者”を問い直す」) 実は、これを書いた市川昭午氏は、私HP「山本七平学のすすめ」の談話室で紹介したように、第二次世界大戦以降の日本の中央教育審議会答申等には、「有事」に関する言及が全くなされてこなかったことを、大きな問題だと指摘した人なのです。 かって、日本人の愛国心の不足が問題とされ、教育基本法にそれを盛り込むべきだ、といった議論がなされ、教育基本法改正がなされましたが、これによって「有事」に備える国民の意識が向上した訳ではありません。有事に備えるということは、愛国心の問題というより、国民が万一の危機に際会した場合にとるべき心構えのことなのです。 その「有事」を、日本人は殆どリアルに認識することなく、平和な毎日を過ごしているわけですが、実は、その平和は、日米同盟に基づく安全保障政策、それに基づく米軍基地などの存在によってかろうじて保たれているものなのです。この事実を、権力(その行使における最強の手段が軍事力)の統制主体たる国民自身がほとんど知らないということは、大変危険なことなのではないでしょうか。 *本文最終校正(5/15 1:17) |