集団的自衛に「専守防衛」理念を組み込むことの可能性について

2015年10月 5日 (月)

安保法案が成立した現在の段階での議論の整理を私なりにしておきたいと思います。私は今回の安保法案をめぐる議論は、70年安保以降棚上げされてきた日本の安全保障に関する議論を、戦後の日本の安全保障の現実を踏まえて総括する良い機会だから、徹底して議論すべきと考えていました。

世論調査によると、会期末の段階でも、この法案に対する国民の理解は深まっておらず、ほとんどの世論調査で、過半数を超える人が議論は不十分と答えていました。本来なら継続審議にして議論を続けるべきでしたが、野党の態度から見て、建設的な議論は不可能と思われました。

また、今後の政治日程から考えても、内政では、経済再生、TPP交渉、マイナンバー制導入、消費税再増税問題、外交では、中韓との関係、日ロ交渉、国連外交など重要課題が目白押しです。従って、安倍内閣がこれらの課題の処理に責任を負う限り、この段階で、与党が、再可決可能な安保法案の今国会での採決を見送ることはありえないと思われました。

そこで、野党は、来年夏の参院選に焦点を合わせ、今国会では対案を出さず、与党のイメージダウンを図ろうとしました。そのため、安保法案に対して「戦争法案」とか「徴兵制になる」とかのレッテル貼りに終始しました。また、日本の安全保障の問題を、憲法第9条をめぐるお馴染みの神学論争に持ち込もうとしました。

それが功を奏して、安保法制についての政府説明が不十分であるとの意見が、法案成立後も各種の世論調査で8割に達しました。といっても、ここには少なからず、政府の安保法案説明のマズさも影響したと思います。その最大の問題点は、この法案に関する議論が「集団的自衛権」の是非論に焦点化されたことでしょう。

このことについては、大阪市長の橋下徹氏が、この法案の「存立危機事態」認定の新三要件には、集団的自衛権の行使が国連で認められるための第一条件である「被攻撃国からの要請」が書かれてないこと。集団的自衛権といっても、あくまで、我が国の防衛に共同対処する他国の防衛だから、これは個別的自衛権の範疇では、との見解を示しています。

ただし、「存立危機事態」概念は曖昧なので、維新案ではこれを「武力攻撃危機事態」とし、「我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」と定義する。さらに、こうした事態に対処する「我が国と密接な関係にある国」を「条約に基づき・・・我が国の防衛のために活動している外国軍隊」つまり同盟国とし、その活動領域を「我が国周辺の地域」に限定する、としています。

確かに、こうすれば、現憲法の「専守防衛」の考え方に適合するし、「戦争法案」であるとか、憲法違反であるとかの神学論争に巻き込まれることもなかったかもしれません。ただ、政府があえてそうしなかったのは、万一日本が存立危機事態に陥った場合、その危機に共同対処する国をあらかじめ限定すべきでない、との判断に立ったためではないでしょうか。

ただ、残念ながら、論議はこうした方向に進まず、「集団的自衛権」の是非論に終始しました。私自身は、この法案に関する議論が始まってから、あらためて「集団的自衛権」について勉強しましたが、この概念を正しく理解するためには、まず国際連合憲章下の安全保障体制を知らなければならないと思いました。その上で、どういう時に集団的自衛権が発動されるのか、その条件は何かを正しく理解する必要がある。

そうすれば、いわゆる侵略戦争は国際連合憲章第2条で違法化されていること。個別的であれ集団的であれ、国家が自衛権を発動できるのは、同第51条により「安全保障理事会が・・・必要な措置をとるまでの間」とされていること。また、その発動には国連決議が必要なこと(訂正:「その発動には安保理の関与が求められている」)。さらに報告義務も課されていること、等を知ることができます。

また、こうしたハードルをクリアーして集団的自衛権を行使するとしても、この行使には先に述べたように被攻撃国からの要請が必要なこと。かといって、これはあくまで行使国の権利であって義務ではないこと。また、かつ、その実力行使は「他に手段がない」場合に限られ、さらに、その行使は「必要最小限度」に止められるべきこと。

つまり、これらの規定を見れば、集団的自衛権に基づく実力の行使は、たとえ、それが同盟国たる被攻撃国から要請があったとしても、簡単に発動できるものではないことがわかります。また、その発動もその方法や規模も、当該国内の政治的手続きを経て決定されるものであって、あくまで当該国の国益に沿って判断されるものだと言うことです。

つまり、集団的自衛権は文字通り自衛権の一種であって、自衛と関係なしに他国を防衛するものではなく、あくまで「自衛のため」の他国防衛なのです。ところが、集団的自衛権の一般的定義「ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う権利」には、この「自衛のため」がはっきりしない。

そのため、先に紹介したような理解抜きに、今回の安保法案を「集団的自衛権の容認」としてしまうと、必然的に、自国と関係のない「他国の戦争に巻き込まれる」との危惧を生むことになります。そうした誤解を避けるためには、この法案は、世界の安全保障環境の変化を踏まえ、まず、日米安保体制下の「自衛力」の強化を図るものと説明すべきでした。

言うまでもなく、日本国憲法は日本の自衛権は認めていると解釈されています。ただし、その「自衛力」は「戦力」ではなく、「交戦権」は認められていません。これはどういうことかというと、この自衛力を行使する自衛隊は軍隊ではなく、ただ、自国に対する武力攻撃を排除するためにだけ「武力の行使」が認められている、ということです。

しかし、この「自衛力」だけが認められた自衛隊だけでは、日本の安全は守れないので、アメリカと同盟を結び、「戦力」であるアメリカ軍を日本に駐留させ、日本の防衛力の不足を補っているのです。ところが、ソ連崩壊後、中国がアジアに覇権を求め、アメリカとの棲み分けを主張するようになったため、従来の片務的な日米安保体制が揺らいできた。

そこで、こうした日米安保体制の揺らぎを補強し、その自国(日本)防衛に果たす機能を強化しようというのが、今回の安保法案=「平和安全法制」整備案なのです。この補強策が、いわゆる日本の「存立危機事態」に対処するに当たって共同防衛に当たっている米軍等が攻撃された場合、日本がこれを「武力行使」し排除することを可能にすることです。

では、なぜこれがなぜ問題になるかというと、この米軍等の防御が、日本が直接攻撃を受ける前になされた場合、それは国際法上「集団的自衛権」の行使に当たる。しかし、従来の政府解釈では、日本は国際法上「集団的自衛権」は「有するが行使できない」としてきたので、そこで、「自国防衛」の為には「行使できる」と解釈変更しようとしたのです。

これを「矛」と「盾」の関係で言えば、日米安保体制下の日本の安全保障は、矛の役割を米軍が、盾の役割を米軍と自衛隊が共同して担っており、今回の安保法案は、この後者の盾の機能強化を図ることで日米安保体制を補強しようとしたのです。従って、これを、日本が矛となって他国を攻める「戦争法案」だと避難するのは正しくありません。

まして、今回提出された安保法案は、あくまで現行憲法の「専守防衛」の枠内にあるものであって、繰り返しますが、自衛隊は「戦力」ではなく、相手の武力攻撃を排除するだけの最小限の「自衛力」とされているのです。さらに「交戦権」も否定されていて、従って、その自衛権発動に伴う「武力の行使」には、次のような3つの条件が付されています。

第1、我が国に対する急迫かつ不正の侵害があること、第2、これを排除するために他に適当な手段がないこと、第3、必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。なお、この自衛権行使のための防衛出動は首相が命じ、また、発動後も無制限に許されるわけでなく、戦時国際法の順守や、事態に応じた合理的判断などが求められています。

こうした自衛権発動に伴う「武力の行使」は、今回の法案では「武力攻撃事態」と「存立危機事態」だけに認められています。それ以外の「重要影響事態」では「後方支援」だけが認められています。またPKOは、停戦監視などの「平和維持活動」であって、こうした活動中における「武器の使用」は、警察行動に準ずるものとして取り扱われます。

つまり、この場合の「武器の使用」は、警察官職務執行法第7条に基づく警察行動であって、あくまで「正当防衛」若しくは「緊急避難」に該当する場合を除いて、人に危害を加えてはならないことになっています。言うまでもなく、この警察行動の対象となるのは「基本的に犯罪者か犯罪集団」であって、国家間の戦争とは区別しなければなりません。

では、なぜ野党は、この法案に対して「戦争法案」などのレッテルを張り、廃案を主張するのでしょうか。それは先に述べた通り、同じ土俵に立って議論すれば、結局、修正論議に応ぜざるを得なくなるからです。つまり党利党略な訳ですが、ここには、「戦力放棄」を謳った日本国憲法と日本の安全保障の整合性をめぐる神学論争が影響しています。

では、この論議のどこがおかしいかということですが、これを知るには、まず、日本国憲法第9条2項の「戦力放棄」条項がどうして生まれたかを知る必要があります。この「戦力放棄」条項の発案者は、時の首相幣原喜重郎ですが、氏がこれを憲法に書き込もうとしたのは、敗戦後の日本を取り巻く次のような歴史的事情が背景にあったためです。

幣原は、日本の天皇制を存続するためには、連合国の日本に対する軍事的脅威と天皇制の関係を断ち切る必要があると考えた。同時に、戦後の米ソ対立を予見し、日本が米国の先兵となる危険性を未然に防ごうとした。そこで、マッカーサーに原爆発明後の世界平和のためには、日本が「狂人」となって究極の軍縮=戦力放棄を行うことを提案した。

また、マッカーサー自身も、日本の占領を成功させるためには天皇の力が必要と考えていた。日本の占領を成功させることでアメリカ大統領になる野心も持っていた。さらに言えば、マッカーサーは敬虔なカトリック教徒であって、「アメリカのキリスト教系新興宗教の『通俗的終末論』」の信奉者であり、原爆投下=終末後の千年王国を夢想していた。

つまり、幣原は、これらのことを総合的に勘案し、原爆投下後の世界平和は、アメリカによる原爆の管理と、その下での「世界の軍縮」によって実現できるとマッカーサーを説いたのです。そして、そのためには、日本が「狂人」となって「戦力を放棄」し、「世界の軍縮を先導する」ことが、世界に平和をもたらす唯一の道だと説得したのです。

つまり、日本国憲法第9条2項の「戦力放棄」は、以上のような歴史的事情を背景に幣原の狡知によって生まれたもので、私は、その真の目的は、幣原の「負けて勝つ外交戦略」、つまり、戦後の米ソ対立の代理戦争に日本を使わせない、だったと思います。日本が戦力放棄して世界の軍縮をリードする、は、これを隠蔽する仮構の論理に過ぎなかった!

従って、日本の憲法学者らが日本国憲法第9条を世界平和のシンボルとするのは、少なくとも歴史的には間違いです。だから、幣原はその人を「狂人」と呼んだのです。従って、今日その実現可能性を追求するなら、それは、日本国憲法の「戦力放棄」に固執するのではなく、世界の軍縮、特に弾道ミサイルなどの攻撃用兵器の削減を求めるべきです。

実は、これこそが、日本の平和憲法が指し示す「専守防衛」の考え方なのです。こうした観点から見れば、今回の安保法案は、あくまで日本国憲法の「専守防衛」の枠内で、「日本の存立危機」に対処する日米同盟の「盾」のあり方を模索するものと言えます。もちろん、この場合の「矛」の役割は米軍が担うわけで、片務的であることに違いはありません。

繰り返しますが、日本国憲法を守ろうとする人たちが、先ずやるべきことは、こうした「専守防衛」の考え方を、日本だけでなく世界に広めること。こうした考え方に基づいて世界の軍縮を主張すること。特に、各国軍隊の攻撃用兵器の順次削減を求めることです。できれば国連憲章に「専守防衛」の規定を書き込むよう頑張ってもらいたいと思います。

なお、小林よしのり氏は、憲法第9条を改正しないまま集団的自衛権を論ずることの危険性を指摘しています。要するに、現憲法は自衛隊を軍隊と認めておらず、従って軍隊としての主体的な判断も行動もできないから、この状態で集団的自衛権を容認すれば必ずアメリカに追随せざるを得ない。だからこの法案は「戦争法案」といわざるを得ないと。

要するに、先ず憲法改正をして自衛隊を軍隊として認めることが先だと言っているのですが、その場合「専守防衛」の理念をどうするか。言うまでもなく「専守防衛」は憲法との絡みで生まれているのですが、これを空想に終わらせず、集団的自衛から集団安全保障へという流れの中で、各国の安全保障の基本理念として「専守防衛」を導入できないか。

そのためには、今回の安保法案のように、まず集団安全保障の中に「専守防衛」を組み込み、それがうまく機能するかどうか。それが世界平和に貢献すると認められるかどうか、一度やってみる価値があると思います。もちろん、それが認められれば、その実績を基に、自衛隊を「専守防衛」の軍隊として認めることも可能になるのではないでしょうか。