2007年8月12日 (日)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか11─”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結─

 イザヤ・ベンダサンが「朝日新聞のゴメンナサイ」で、本多勝一氏の「中国の旅」の「殺人ゲーム」について指摘したことは、「日本教」における「謝罪の不思議」ということでした。ベンダサンは、それを人間同士の「相互懺悔・相互告解」と理解し、朝日新聞はこの特集を通じて、中国に対し懺悔・告解することによって相互に和解が成立し、中国と「二人称の関係」に入りうると考えているのではないかと指摘したのです。問題はそのように「私の責任です」と言いまわることで「責任は解除された」と中国が考えるかどうかだと。

 また、この記事を契機に始まった本多勝一氏との論争において、ベンダサンは本多氏に対し、「言葉の踏絵」を逆用した誘導術を使って、「殺人ゲーム」は事実だと証言させ、それを証明する数多くの証拠(=信憑性のほとんどない伝聞証拠)を提出させることに成功したといっています。これによって、ベンダサンは、日本教徒がどのようにして「相手に迎合してオシャベリ機械」になってしまうかを紙上で再現し得たとしてこの主題を打ち切っています。また、それに続けて次のような驚くべき見解を述べています。「日本人は世界一謀略に弱い・・・これによって日本人をある方向へ誘導することは、そう難しいことではない・・・とすれば『真珠湾攻撃』の謎も解けるはずです。」と

  なお、この時、本多勝一氏が証拠として提出した「百人斬り競争」の新聞記事についても、ベンダサンはフィクションだと断定し、「もしこの一九三七年の記事の記者も、あくまでもこの記事が『事実』だと主張したら、そのときは前回と同様に『調書』の中の非常に類似したものと対比しつつ、一つ一つ論証いたします。」と述べています。この論証については、本エントリーのサブタイトル──ベンダサンのフィクションを見抜く目──で紹介しましたのでご覧下さい。

 こうしたイザヤ・ベンダサン独自の主題設定とは全く別の観点から「中国の旅」の「殺人ゲーム」に疑問を持ち、その「事実」解明に立ち向かったのが鈴木明でした。
 鈴木明は、「中国の旅」の「殺人ゲーム」の記事について、これを東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事と比較し、次のような感想を述べています。

 「今の時点で読めば(東京日日の「百人斬り競争」の新聞記事は)信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。
 これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 では、こうした鈴木明の疑問が、その後どのように解明されていったかを見てみたいと思います、がその前に、まず、ベンダサンが提出した疑問─「『殺人ゲーム』と『百人斬り』は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし『百人斬り』が事実なら『殺人ゲーム』はフィクションだということになります。・・・どう読めばり『百人斬り』が『殺人ゲーム』の証拠となりうるのか」について、その答えを紹介しておきます。

 この疑問については、洞富雄氏が指摘していることですが、「中国の旅」で中国人の姜さんが本多勝一氏に語ったという「殺人ゲーム」の話は、「これは当時日本で報道された有名な話」だと姜さん自身が断っているように、当時の東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がもとになっているのです。では、なぜ、この二つの話に、場所、時刻、総時間数、周囲の情景描写、登場人物の違いが生じたのでしょうか。

 その理由は、この「殺人ゲーム」のもとになった東京日日新聞の記事は、実際は1937年11月30日の第一報から1937年12月13日の第四報まであり、これが東京で発行されている英字紙『ジャパン・アドバタイザー』に転載されたとき、1937年11月6日の第三報と12月13日の第四報の記事のみが紹介され、第一報及び第二報の記事の紹介が漏れていたのです。これを、当時上海にいたティンパーレー(マンチェスター・ガーディアン特派員、その実国民党中央宣伝部顧問)が『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』の「付録」として掲載したものが、「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この(東日の第一、二報抜きの)話が中国人に知られるようになったのです。

 洞氏は、このように「殺人ゲーム」が東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事をもとにしていることを知りつつ、さらに、「百人斬り競争」の二少尉の職務が、大隊副官(野田)と歩兵砲小隊長(向井)であり、この二人が、歩兵小隊長のごとく第一戦に出て戦えるわけがない、と戦闘行為としての「百人斬り」を否定しつつも、実は、この東日の「”百人斬り競争”はやっぱり虐殺だったのだ。野田少尉もまた、百人以上の中国兵を虐殺しながら、恬として「私は何ともない」といってはばからないような精神状態の持ち主に仕立てられていた、若手将校だったのである」『南京事件』洞富雄P212~3)と述べています。

 それにしても、この二つの話は句容という地名や八九や七八という数字は合っていますが、物語としてはずいぶん異なっています。こうした相違点の分析を通して、どのように「事実」に肉薄するかが、問われていると思うのですが、しかし、洞氏は、「殺人ゲーム」の出所となった「百人斬り競争」の新聞記事の信憑性を自ら否定しながら、「殺人ゲーム」=伝説には向かわず、逆に、「百人斬り競争」を「戦場では不可能であるが・・・捕虜の虐殺なら・・・ありえたと思う」という形で「殺人ゲーム」を「事実」と推断しているのです。(『南京大虐殺』洞富雄P37)

 では、この東京日日新聞の「百人斬り競争」に関する第三、四報の記事が、どのような経路を経て「殺人ゲーム」に変化したのかを見てみましょう。

A1 東京日日新聞の「百人斬り競争」第三報(12月6日朝刊)は次のようになっています。
(見出し) 八十九─七十八/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

A2 同第四報(12月13日朝刊)は次の通りです。
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦       (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ、と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

 この記事の第三報が、昭和12年12月7日付のジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。(東京高裁判決3資料より転載)
B1「百人斬り競争の両少尉 接戦中
 日本軍が完全に南京を占領する前に,どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか,仲良く競争中の句容の片桐部隊,向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。
「朝日新聞」によれば,句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は,向井少尉89人,野田少尉は78人であった。」

 次いで、第四報が、1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。

B2「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦
 向井敏明少尉と野田厳少尉の,日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった,と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人,競争相手は105人を斬ったが,どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに,目標を50人増やすことにした。
 向井の刀はわずかに刃こぼれしたが,それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で,二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う,と言った。
 土曜日の早朝,日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると,別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが,砲弾が頭上を飛び過ぎる間,呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は,一発の弾も私には当たりませんよ。"と彼は自信満々に説明した。」

 これを、ティンパーレーが『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』に「付録」として掲載しました。(『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明より転載)

C1〔南京”殺人レース”
 一九三七年一二月七日「日本新聞(The Japan Advertiser)」という東京にあるアメリカ人経営の英字日刊紙が、次の記事を掲載した。
 陸軍少尉、中国人百人斬りレースで接戦す。
 句容(Kuyung)にあった片桐部隊の向井敏明少尉と野田毅少尉は、日本軍が完全に南京を占領する前に、刀による単独の戦闘(individual sword combat)でどちらが先に中国人百人を切り倒すかという腕くらべ(friendly contest)でギリギリの終盤戦に言っているが、ほとんど五分五分の競り合いを演じている。彼らの部隊が句容郊外で戦っていた日曜日には、『朝日新聞』(原文のまま)によれば、その”スコア”は向井八十九人、野田七十八人であった。

C2 一九三七年一二月一四日、同紙は次の追加記事を掲載した。
 向井少尉と野田少尉とで争われたどちらが先に日本刀で中国人百人を殺すかという競争の勝者は決まっていない、と、『東京日日新聞』が南京郊外紫金山麓から伝えている。向井は百六人を数え、彼のライバルは百五人を片づけたが、二人の競争者はどちらが先に百人の目標を超えたか決められないことがわかった。討論でそれを解決するかわりに、彼らは目標を五十人だけ増やすことにした。
 向井の刀身は競技中少し痛んだ。彼はそれを彼が中国人を鉄カブトもろとも一刀両断にした結果である、と説明した。この競技は、”遊び(fun)”だ、と彼は言明した。そして二人とも相手も百人を超しているとは知らずに百人の目標を超えたことはすばらしいことだ、と彼は考えている。「この刀を肩にかついでいれば、一発も当たらない」と彼は自信たっぷりに説明した。〕

 このティンパーレーの紹介記事をもとにしたと思われる「殺人ゲーム」では
D 「AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
 二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
 この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」
 となっています。

 そこで、このA,B,C,Dの記事を、①表題、②行為の性質、③対象者及び方法、④場所・時間、⑤結果、の各項目について比較すると次のようになります。

  A ①「百人切り競争」 ②刀による「私的盟約」に基づく戦闘行為。(第一報では向井少尉は、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたとなっており、個人的戦闘行為か集団的戦闘行為か明確でない) ③中国人兵士 ④無錫から南京まで約180キロの間 ⑤第一報では無錫から常州まで向井59、野田25、第二報では丹陽まで向井86、野田65、第三報では句容まで向井89、野田78、第四報では紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったかは不問、ドロンゲームとし、改めて150人を目標とする。(数字は第一報から四報までそれぞれの到達点における累計を示す。8/20修正)

 B ①「百人斬り競争」 ②刀による個人的戦闘行為。 ③白兵戦で中国兵100人を日本刀でどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、話し合いで決着するかわり目標を50人増やす。

 C ①「南京”殺人レース”」 ②刀による単独の戦闘(individudal sword combat) ③中国人(戦闘員か非戦闘員かはっきりしない)100人をどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、討論で解決するかわりに目標を50人増やす。

  D ①「殺人ゲーム」 ②上官がけしかけた個人的殺人ゲーム ③中国人(非戦闘員)  100人を先に殺した方に賞を出そう(武器の指定なし) ④句容から湯山まで約10キロの間 ⑤向井89人、野田78人にとどまった。上官は、湯山から紫金山まで約15キロ間にもう一度100人殺せと命令、結果は、向井106人、野田105人。上官は、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”と命令した。
 
 次に、これらの4つの記事を比較すると、次のようなことが明らかになります。
1 Aの、無錫から南京まで約180キロ間における、戦闘行為としての百人斬り競争の 話が、B、Cでは、句容~紫金山まで25キロの間における白兵戦での、百人斬りを競う個人的戦闘行為となっている。 ただし、Cでは対象が「中国人」となっており、戦闘員か非戦闘員かの区別が曖昧になっている。Dでは、句容から南京城までの間に、非戦闘員百人をどちらが先に殺すかという殺人ゲームを、3ラウンド繰り返した話になっている。これは、B、C、DがAの第3,4報の記事によっていることの証拠であるとともに、Cは非戦闘員殺害をほのめかし、Dは、事件の残虐性を明確にするため、はっきりと非戦闘員を対象とし、湯山という地名を新たに設けて、殺人競争を3ラウンド繰り返すなど、もとの記事にはない創作が加えられ、ほとんど”伝説”と化している。

2 Aは、第一報の、数をきめて時間を争う方法の非現実性に気づき、第四報で、その矛 盾を隠蔽する答弁を向井にさせている(野田に対して、何時100人に達したか聞かず に、現在までの到達人数を尋ねさせていること。つまり、数を決めて時間を争う競技を、時間(=場所)をきめて数を争う競技であったかのような表現にしている。どちらとも逃げられる表現で、実際の競技ではあり得ない)さらに、そのルールを曖昧にしたまま、改めて150人を目標としている。しかし、これも、プラス50人という意味か、改めて150人という意味わからない。つまり、競技のルールが明確でないということで、虚報であることの決定的な証拠となる。この点、B、C、Dではルールーの自覚は明確で、B、Cでは、うっかり100人を超えてしまい、どちらが先に100人斬ったか話し合いでは決められなかったので、仕方なく目標を50人増やしたとしている。Dは、数を限定して時間を争う競技を、3ラウンドやり直させたことにしている。ジャパン・ アドバタイザーの記者及びティンパーリー、さらに中国人は、この競技のルールをそのように理解し、それが一貫して適用されたとものと理解しているのである。(ベンダサンの分析)

3 Aは、二少尉による「私的盟約」に基づく戦闘行為としての「百人斬り競争」である。 しかし、徹底的な縦社会であり命令のみで動く軍隊組織では、こうした「私的盟約」に基づく戦闘行為は絶対に許されない。これが、B、Cでは個人的戦闘行為(Iindividual combat)とされている理由であり、Dでは、上官のそそのかし、または命令によったことになっている。これが、Aでは、第一報で、向井少尉が部下と共に敵陣に切り込んだとする記述があり、必ずしも個人的戦闘行為とはいえぬ部分があり、このことは向井少尉が「私的盟約に基づき陛下の兵を動かした」ことになり、そう認定されれば日本軍では「死」以外にない。これが、「百人斬り競争」報道に対する、野田少尉と向井少尉のその後の対応の差になっている、と山本七平は見ている。(『私の中の日本軍』上P203)

4 B、Cは、Aの記述を紹介した記事だから、そのまま、日本刀による「百人斬り競争」 の話になっている。しかし、Bでは、白兵戦での戦闘行為だが、Cでは、相手が戦闘員か非戦闘員かが曖昧になっている。これに対してDでは、平時における非戦闘員の殺人ゲームとなっている。また、「殺人ゲーム」の武器としての刀が明示されていない。非現実的な話ととられることを避けるためであろう。

5 Dでは、競技の勝者に賞を出す話になっている。中国ならではの督戦の方法か。「滅 私奉公」の「天皇の軍隊」には考えられない発想である。。(上掲書P210)日本軍の、いわゆる手柄に対 する報償は、「個人感状」あるいは「勲章」である。

6 Aでは、両少尉は、同一指揮下の歩兵小隊長であるかのような書き方がなされている。野田の場合○官と表示されその職務が故意に隠されている。だが、実際には、野田は大隊副官、向井は歩兵砲小隊長であり、両者とも前線に出て白兵戦を行う職務ではなく、彼らが自らの職務を放擲して「百人斬り競争」を行うことは不可能である。従って、A では両少尉の職務を隠した。これは、この記事を書いた記者がそのことを知っていたことの有力な証拠となる。(このことは『週刊新潮』の佐藤証言でも明らか。8/20挿入)(上掲書P209~214)B、C、Dは当然のことながら、二少尉を同一指揮系統下の歩兵として扱っている。

7 Aには、「鉄兜もろとも唐竹割」などという非現実的な記述がある。「鉄兜」という言葉は恐らく新聞造語であって軍隊にはない。軍隊では「鉄帽」であって、軍人は「鉄兜」などという言葉は口にしないものである。(上掲書下P91)Dでは、こうした表現はなくなっている。

8 (削除─別稿で扱う8/13)

 このようにAの記事の内容をB、C、Dと比較してみると、Aが虚報である故に隠蔽せざるを得なかったと思われる部分が、B、C、Dで必然的に浮かび上がっていることに気づきます。と同時に、戦意高揚のため戦闘中の武勇をたたえるはずの記事が、次第に、非戦闘員の虐殺を目的とした前代未聞の「殺人ゲーム」へと変化していることにも気づかされます。その結果、二少尉が、必死にそうした「残虐行為」はしていないと弁明しても、一切受け入れてもらえず、その新聞記事が「自白」に基づく唯一の証拠とされ、死刑判決が下され、さらに南京大虐殺を象徴する残虐犯人へと祭り上げられていったのです。

 こうした虚報のもつ恐るべきメカニズムの解明に立ち上がり、両少尉の等身大の実像を、南京法廷の裁判記録や両少尉の答辨書や手記や遺書等を発掘して明らかにしたのが鈴木明であり、こうした虚報のもつ罠に陥りやすい日本人の「日本教徒」としての弱点を指摘し、それを克服する視点を提供したのがイザヤ・ベンダサンであり、これらの視点を、日本軍の軍隊経験に照らして検証し、両少尉の無実を論証するとともに、「虚報」が日本を滅ぼしたという「事実」を、渾身の力で証明したのが山本七平であったといえます。

 では、次に、以上のような論証を一切無視して、Aの記事の「真相」について、それを捕虜や非戦闘員に対する「据えもの百人斬り競争」であったとする「恐るべき」主張について、果たしてそうした主張が成り立つものかどうかを、山本七平の論考等を参考に考えてみたいと思います。


2007年8月 2日 (木)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか10─ベンダサンVS本多勝一論争の帰結─

   本多氏は、「中国の旅」のルポの目的を、日中戦争時における日本軍の中国人に対する残虐行為を、被害者である中国人自身に語ってもらうことによって、日本人にその「素材としての事実」を知らせることにあった、といっています。このことは、それまで、こうした報道が日本人自身の手でなされることがほとんどなかったことを考慮すると、「危険」を冒してでも、こうした「事実」に迫ろうとした本多氏のジャーナリストとしての勇気は評価されるべきだと思います。

 一方、ベンダサンは、「日本人の謝罪の不思議」──「ゴメンナサイ」ということによって「責任が解除」され、それによって相手と「二人称の関係」に入りうる、という日本人独特の謝罪観──を指摘する中で、本多氏の『中国の旅』における、特に「競う二人の少尉」について、この両少尉の名を匿名にした(または書かされている)ことは、これは「日本人全部の責任です。ゴメンナサイ」という態度ではないかと指摘したのです。

 これに対して本多氏は、両少尉を匿名にしたのは朝日新聞の編集部であって、自分の原稿は実名になっているとして、ベンダサンに前言撤回を迫りました。ベンダサンは、この記事が無署名であればその通りだが、署名した以上「たとえ実情は本多氏の語る通りであっても、署名者がいわゆる内部的実情を口実に第三者に対抗することはできない(もしそれが出来たらあらゆる契約が破棄できます。)」といい、本多氏にはこうした署名という考え方は皆無だ、と反論しました。(『日本教について』P291)

 ただ、本多氏自身は朝日新聞の「中国の旅」の原稿も氏の著作『中国の旅』も、両少尉の名を実名で書いていましたから、氏に対してはベンダサンの「ゴメンナサイ」の指摘は当たらないと思います。(といっても、ベンダサンは「私が取り上げましたのは『中国の旅』であって本多様ではありません。従ってここに取り上げましたのも、上記の記事(『競う二人の少尉』)と(本多勝一氏の)『公開状』のみであって、本多様個人には私には何の関係もありません」といっていますが。上掲書P206)

 また、ベンダサンは、日本人がすぐ「私の責任だ」というのは、本多氏のいう「お人好し」とは無関係で、元来は「いさぎよい・いさぎよくない」という、日本教の価値判断から出ていることで、「漱石の卓見はこれを『私の責任・イコール・責任解除』と捕らえたことでした。(誤解なきよう『責任回避ではありません』)」と述べています。そして氏は、これを日本教=人間教における「相互懺悔・相互告解」と解しており、それ故に和解が成立する(従って責任解除となる)わけで、こうした日本の鎖国期(=徳川期)に発達した考え方は、今や「地球に鎖国された」状態に近づきつつある人類にとっても貴重な経験といえる、と述べています。(つまり、こうした考え方を否定しているわけではないのです)(上掲書p209)

 また、ベンダサンが本多氏に対して「個人名を出せ」といっているのは、「それは、その個人を『身代り羊』にして、みなで徹底的に叩いて、それを免罪符のかわりにしろ」といっているわけでもありません。「すべての人間には、釈明の権利がある、ということです。欠席裁判では結局何も明らかにされません。私が特にこの問題を感じましたのは、前記引用の文章(「競う二人の少尉」)に強い疑問を感じざるを得ないためです。」といい、続けて次のように述べています。

 「本多様は「とにかく事実そのものを示してみせるのを目的とするルポってものを、彼は知らないんだなあ」と安直に書いておられますが、本多様はこのルポで『中国人はかく語った語った』という事実を示しているのか、また『中国人が語ったことは事実だ』といておられるのか、私には本多様の態度が最後まで不明です。結局その時の都合で、どちらにも逃げられる書き方です。と申しますのは、この物語はおそらく『伝説』だと私は思うからです。事実、恐るべき虐殺に遭遇した人々の中から様々の伝説が生まれたとて、これは少しも不思議なことではありません。むしろ、一つの伝説も生まれなかったらそれこそ不思議でしょう。伝説の中心には『事実の核』があります。しかし伝説自体は事実ではありません。がしかし、それは中国の民衆がいい加減な嘘を言っているという意味ではありません。しかしルポとは元来、この伝説の中から『核』と取り出す仕事であっても、伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい。

 以上のように感じましたのは、『約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人』という記述です。この記述ですと軍隊は行軍しているはずで、一時間四キロとすれば、約十キロは百五十分ということになります。百五十分に八十九人を殺したとすれば、一分三十秒に一人ずつ殺したことになります。これは個人ゲームだと記されておりますから、武器は、軍刀か拳銃か三八式歩兵銃だということになります。軍刀と拳銃は問題外ですから、果たして三八式歩兵銃で、しかも行軍しつつ、一分三十秒に一名ずつ射殺することが物理的に可能かどうかです。この小銃にはスパイナーはなく、従って非常に精度が悪く、弾倉に五発入れられるとはいえ単発式で、一発ごとに槓杆を引いてもどし、その上で銃をかまえて照準して発射するはずです。従って私には、行軍しつつ、動き回る敵に対して、約九十秒に一発のわりで、命中弾を発射しうるとは思えません。・・・

 そして私の見るところで、本多様も、これが伝説であることを見抜いておられるはずです。もし見抜けないなら、新聞記者もルポライターもつとまりますまい。本多様はそれを見抜きながら、何かの理由で見て見ぬふりをされているのだと思います。とすると本多様が実名を出さないのは、もし出せばその人が前記のように反論するかも知れぬことをおそれてでしょうか。・・・

 本多様は『ベンダサン氏は、ちょっと調子にのりすぎて、ルポそのものが『ゴメンナサイ』だと書いちまったわけだ』と書いておられますが、以上のルポそのものが『日本人全部の責任です、ゴメンナサイ』という態度でないと主張されるなら、今からでも遅くありません。『中国の旅』全部にわたって本多様の知っている加害者の名前を明らかにし、かつ本多様が内心これは『伝説』だと思われていることをはっきり『これは伝説に過ぎないことはほぼ明らかだが・・・』とお書き出し下さい。それが出来ないなら、私は、自分の書いたことを撤回いたす必要を感じません。私が書いたのは、まさに、そのことなのですから。」(上掲書P200~203)

 これに対して本多氏は、ベンダサンが「中国の旅」の「殺人ゲーム」を伝説だといったことに対して、『東京日日新聞』の昭和12年11月30日の記事と12月13日の記事(第一記事と第四記事)、雑誌『丸』の昭和41年11月号に載った鈴木二郎氏の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」からの引用、雑誌『中国』昭和46年12月号に掲載された志々目氏の「日中戦争の追憶─”百人斬り競争”」(「hyakunin.htm」をダウンロード )からの引用の四つの資料を提示し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか、と反論しました。

 これに対してベンダサンは、次のようにいっています。
 「『中国の旅』の記者に前回記しました「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送りましたところ、反論と共に「事実である」という多くの「証拠」が『諸君』に掲載されました。この中には事件の同時代資料である1937年の新聞記事がありました・・・『中国の旅』の記述とこの「1937年の記事」を、一応前者を「殺人ゲーム」後者を「百人斬り」(見出しが「百人斬り競争」となっていますから)としておきます。この場合、『中国の旅』の記者が①「殺人ゲーム」という「語られた事実」を「事実」と断定して、その「事実」を証明するために「百人斬り」を提出したのか、それとも②「殺人ゲーム」も「百人斬り」も、ともに「語られた事実」にすぎず、この記述にはそれぞれ内部に矛盾があり、また相互に大きな矛盾があるから、これは実に喜ぶべきことであり、そこでこの二つの「語られた事実」を同一平面上に置いて、この矛盾を道標として「事実」に肉薄し、広津氏のいう「ぎりぎりの決着の『推認』までもって行って、もうこれ以上『推認』のしようがないところに到達して、『これで満足しなければならない』というところ」に行こうと言っているのか、それとも③これらの証拠で「ぎりぎり決着の『推断』に行き着いたといっているのか、それを判別しようと何度も読んだのですが結局不明なので、私は「ぎりぎり決着の」ところ①と「推断」せざるを得ませんでした。これは、結局この記者に、以上のように①②③と分けて考える、というような考え方が皆無なためでしょう。つまりファクタとファクタ=ディクタの峻別という考え方が全くないということです。

 しかし、①と考えるとさらに不思議になります。というのは「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションだということになります。すると、どうして①でありうるのか、どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか、──といえば『中国の旅』の記者はなんと反論して来るか。実は一番聞きたかったのはこの反論で、①を主張する以上これが含まれているはずなのですが、それがないのです。

 何と想像すべきか理解に苦しみますが、もし今から反論があるとすれば、おそらくそれは「松川事件」を担当した田中最高裁判所長官の「雲の下」論に似た議論を展開してくるはずです。この「雲の下」論というのは、「雲表上に現れた峰にすぎない」ものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・・立証方法としては十分である」、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって「事実」がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない、という議論です。・・・

 (これを)「殺人ゲーム」にあてはめれば、百人斬りの「実行行為という事実」が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り」の間の場所・時刻・時間・登場人物数、周囲の状況等の矛盾した点を、非常にクローズアップし、それが否定されると、犯罪事実の存在自体が架空に帰すかのように主張し、そしてこれに引き込まれてさような錯覚に陥ることは正しくないし、同時に、そういう議論の進め方をする人間は正しくない人間であるということになります。

 そこで共に「雑音」に耳を貸すな、となるわけですが、この場合も同じで、百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなります。・・・従って①であるとすれば、この記者も「雲の下」論者であるというより「雲の下」論を自明の前提にしていることになりましょう。」(上掲書p271)

 つまり、「殺人ゲーム」も「百人斬り」も百人斬りという犯罪についての「語られた事実」にすぎず、従って、百人斬りの「実行行為という事実」に肉薄するためには、こうした相互に矛盾する「語られた事実」(複数)を分析することによって「ぎりぎり決着の『推断』に到達するほかない。にもかかわらず、本多氏は、ベンダサンの問いかけに対し『これは伝説にすぎないことは、ほぼ明らかだが・・・』などと書き足すような次元の問題ではないとして、その「犯罪事実の存在自体」を、「今更問題にする必要もない歴然たる事実」と結論づけているのです。

 ベンダサンは、なぜそうなるかということについて、それは、本多氏には中国への迎合があるからだ。そのため本多氏にとっては「殺人ゲーム」は一種の「踏絵」になってしまう。従って、少々意地の悪い言い方で「あなたは中国に迎合して、フィクションを事実と強弁しているのだろう」といえば、「冗談いうな。事実だから事実だと言っているのだ」といわざるを得なくなる。迎合していなければ、「君は迎合しているではないか」といわれても平然として、「現地の惨状を目前にすれば、意識しなくても多少は迎合する結果になった点もあるだろう」ということが出来、かつ、こう言った瞬間、その人は完全に迎合していなくなる、といっています。

 また、ベンダサンは、このように本多氏が証言したからといって、それは「殺人ゲームは事実だ」と彼が証言したわけでもない。また、そう証言しなければ氏が不利な立場に立つとも考えられない。これをフィクションだと証言してならない理由は、氏には全くない。にもかかわらずこうした結果になるのは、日本人は言葉を、相手の政治的立場を判別するための踏絵として差し出すからで、そのために「語られた事実」と「事実」との区別がつかなくなり、結果的に、二少尉の犯行のデッチ上げに加担することになった、ともいっています。

 このように、ベンダサンvs本多勝一論争における、ベンダサンの主張の基本的性格は、あくまで『日本人とユダヤ人』の中で取り上げた「日本教」を、「あるユダヤ人(=アメリカの高官)」のために解説・敷衍しようとしたものです。その中で、「日本教」における「言葉の踏絵」、その操作法としての「天秤の論理」、「二人称の世界」における「迎合」という問題を指摘し、その論理を松川事件で検証するとともに、さらに、本多氏との論争を、その「松川事件」の「鸚鵡的供述」を再現するために使った、といっています。

 ベンダサンの、このような「殺人ゲーム」や「百人斬り」を共にフィクションと断定する主張と平行して、それを新資料の発掘によって裏付けようとしたのが鈴木明であり、また体験的に裏付けようとしたのが山本七平であったといえます。しかし、本多氏はこうした論証を全く受け入れることなく、その後、百人斬り競争の「実行行為としての事実」を、それを戦闘行為としては否定しつつ、その核となる「事実」について、それを捕虜や非戦闘員を対象とした「据えもの斬り競争」であった、と主張するに至るのです。

 そこで次に、「百人斬り競争」における「実行行為としての事実」とは一体いかなるものであったかを、鈴木明や山本七平の論証外その後の研究成果等も合わせて考えてみたいと思います。

2007年7月16日 (月)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか9─ベンダサンが「中国の旅」を取り上げたワケ─

 ベンダサンが朝日新聞の「中国の旅」を取り上げたのは「昭和47年1月号の『諸君』です。ベンダサンはこの時「日本教について─あるユダヤ人への手紙」と題するエッセイを『諸君』に連載中で、これはその第9回目にあたり論題は『朝日新聞の「ゴメンナサイ」』となっていました。

 ベンダサンのこのエッセイは、その前年に出版されて大評判となった『日本人とユダヤ人』の内容を敷衍するもので、『日本人とユダヤ人』が主として「日本教」の長所と思われる部分(=政治天才など)を論じていたのに対して、ここではその逆に「日本教」の短所と思われる部分を論じていました。

 それは「言葉の踏み絵と条理の世界」に始まり、日本人は言葉を「踏絵」として差し出す。この踏絵は一宗教団体が正統、異端を見分けるためのものである。この踏絵の基礎となる教義を支えている宗教が私のいう日本教である。そして日本語とは、その日本教の宗教用語である。その基礎は教義であって論理ではない。日本語には論理はない。論理がないから、厳密な意味の叙述もない、など、かなり思い切った論述がなされていました。(立花隆氏などはこれに猛反発していましたね)

 では、日本人の論理(論理ではないが、何かそれに似た順序で、結論を追っていく方法)とはどういうものかというと、それは「天秤の論理」とでもいうべきもので、天秤皿の一方には実体語(=本音に近い言葉)が載っており、他方の分銅を乗せる皿には、その尺度としての空体語(=建前に近い言葉)が載っており、この二つの言葉を(日本人の言う)「人間」という支点でバランスをとることによって、提示された問題についての政治的決着がはかられる、というのです。

 また、こうした政治的決着に至るためには、その相手と「お前と、お前のお前(=自分)」という二人称の関係に入ることが必要で、そのためには両者の「話し合い」が極めて重要になると論じています。また、日本人はこのような二人称の関係に入ることを「民主的」と考えている、というのです。

 そしてここから、日本人における「責任」という問題に論及し、夏目漱石の「坊ちゃん」の狸校長の「私の寡徳の致すところ」(=自分の責任)という言葉を引き合いに出して、日本人の謝罪の不思議を指摘しました。いわく、日本人は「自分の責任」ということによって自分の純粋性を証明し、それによって、逆に「自分の責任が免除される」ことを当然としている、と。

 こうした論述の流れの中で、冒頭に述べた朝日新聞の「中国の旅」がとりあげられたのです。つまり、今、朝日新聞が、中国で日本人が行った虐殺事件の数々を報道しているが、不思議なことにこの記事にも、この記事への反響にも、その虐殺事件を起こした個人に対する責任追及が全くない、というのです。

 そしてベンダサンは、「『ソンミ事件』の報道がカリー裁判となったように、この報道が中国における虐殺事件の責任者を日本の法廷に立たせることが起こりうるか、と問われれば、この連載はまだ終わってはいないが、終わった時点においても、日本ではそういうことはもちろんのこと、個人の責任の追求も、絶対に起こらないと断言できます。」

 といっても、「もちろん日本人は一部で誤解されているような『フェアーでない民族』ではありませんから、以上の考え方を自己弁護のため自らにだけ適用しているのではなく、自らが被害者になった場合にも等しく適用しているのです(これは見落とされがちですが)。たとえば『原爆反対』の運動はあっても『ヒロシマに原爆投下を命じたトルーマン元大統領(故人)の責任を追及する』ということは起こらないのです。」

 「では一体『朝日新聞』は何のためにこの虐殺事件を克明に報道しているのでしょうか。これによって『だれ』を告発しているのでしょうか。『だれ』でもないのです。・・・(それは)『戦争殺人』『侵略殺人』『軍国主義殺人』を告発しているのであって、直接手を下した下手人個人および手を出させた責任者個人を告発しているのではないのです。そしてこの虐殺事件を起こしたのは『われわれ日本人』の責任だといっているのです。」

 そこで、こういった日本人の態度について、「坊ちゃん」の狸校長への批判の言葉を適用すると、「われわれ日本人の責任だというなら、そう言っているご本人も日本人なのだろうから、そう言う本人がまずその責任をとって、記事など書くのはやめて、自分が真っ先に絞首台にぶら下がってしまったら、よさそうなもんだ」ということになります。

 「しかしそう言えば、この記者はもちろんのこと、『朝日新聞』も識者も読者も非常に怒り、・・・『そういうことを言うやつがいるから、こういう事件が起こるのだ』と言われて、この言葉を口にした人間が『責任』を追求されますから、これはあくまでも『ひとりごと』に止めねば、大変なことになります。」

 つまり、「日本教=二人称の世界では、『それは私の責任』ということによって『責任=応答の義務』はなくなるのに、この論理は逆に『(私の)責任だと自供したのなら、自供した本人がその責任を追及されるのは当然だ』としているからです。もう一度申し上げますが、これは日本教では絶対に許されません。もしこれを許したら、日本教も天皇制も崩壊してしまうからです。」

 以上のように述べた後、ベンダサンは再び『朝日新聞』の「中国の旅」にもどり次のように言います。
 「私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本には現在『日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ』という強い意見があります。一見、誠に当然かつ正しい意見にみえますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。すなわち『私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係に入りうる』と言う考え方が前提に立っているとしか思えないのです。・・・

 しかし中国側からこれを見れば『日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ』ということになります。これは『債務を認めます』と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いされたと同じような怒りを中国人に起こさせるわけです。」

 今「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関の共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は皆無と言って過言ではありません。・・・理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは『お前のお前』という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。」

 そして「以上のことは、もちろん、別に日本の政府や新聞を批判するために書いたわけではありません。ただこれらのことを絶えず念頭に置いておきませんと、これからのべる『世にも不思議な物語』が、全く理解できないであろうと考えたからです。」といって、「松川事件」における被告の、ほとんど「鸚鵡的供述」ともいうべき「自供」「証言」の「不思議」について論究していくのです。(以上『日本教について』「朝日新聞の『ゴメンナサイ』」)

 これに対して、朝日新聞の「中国の旅」の記者である本多勝一氏は、同年の『諸君』2月号に「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し、次のように反論しました。

 「あの一月号のベンダサン氏の文章を読んだら、最初から『あ、これはアラビア人の目で日本人を見たときと同じだ』(本多氏の「アラビア遊牧民」参照=筆者)そのような共通な視点にある僕に対して、ベンダサン氏は『責任を持って追及すべき相手は〈ゴメンナサイ〉といわなかった者でなく、この行為の下手人と責任者なのだ。それをしないで〈ゴメンナサイ〉といわない者を追求しても、それで〈日本人は責任を果たした〉と考えるのは日本人だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか』とかみついているんだなあ。困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いているんだから。」といって、氏の著作『極限の民族』「秘境日本」(p410)の一節を引用しています。

 〈・・・とにかくだまされたら命がないのだから、人間は絶対に信用してはいけない。また、たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのだ。100円の皿を割って、もし過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれないからだ。だからサラを割ったアラブはいう─『このサラは今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない』

 さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない─『まことにすみません』。ていねいな人は、さらに『私の責任です』などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと『イタリアのサラならもっと丈夫だ』というようなことをいうだろう。

 私自身の体験ではせますぎるので、多くに知人、友人または本から、このような『過失に対する反応』の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。『私の責任です』などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどいない。日本とアラビアとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い〉

 本多氏は、このように、日本人にすぐ「私の責任です」と謝る習性があることについて、それは世界の主な国においてはまことに特殊なことだと、ずっと前に私自身指摘していると述べた上で、次のような内容の、氏が、「中国の旅」の取材に協力してくれた人たちに対して述べたお礼の言葉を紹介しています。

 その要旨は、南京大虐殺が行われていた当時私は幼児だったので、この罪悪に対する直接の責任はない。本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。だから、私自身が皆さんに謝罪しようとは思わない。だが、日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年過ぎた今なお、中国で日本が何をしたかという事実そのものを知らされていない。その事実を日本国民に知らせ、現在進行中の日本における軍国主義の進行を阻止することこそ、真の謝罪になる、というものです。

 そして、その終章で「真の犯罪人は天皇なのだ」として、ベンダサンが発した、朝日新聞の「中国の旅」の記者は「これによって『だれ』を告発しているのでしょうか」という問に答える形で、次のような、氏が『月刊社会党』に書いた一文を紹介しています。

 〈中国人が何千万人も殺された行為が、どのような構造によってなされたかを、素朴に、原点にさかのぼって考えてみよう。・・・天皇制。すべては天皇に象徴される天皇制軍国主義によってなされた。・・・すべては天皇の名において駆り出され、殺されたり、殺させられたり、あるいは本土でも大空襲や原爆で殺された。・・・ところが、そのわかりきった最大の戦争犯罪人を日本の私たちは平然と今でもそのまま保存している・・・

 天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだということは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。少しでも、ましな民族になってほしいと、いたたまれない『愛国』の気持ちで、こんな文章も書いている。・・・

 戦後、天皇は人間になったなどといわれたが、『象徴』という奇妙な存在として、結局は天皇制が残された。この曖昧な存在。こういう思想的甘さが、どれだけ残酷な結果をもたらしてきたことだろうか。天皇が断罪されるかどうか。まさにこれこそ日本人がアニミズムから脱却できるかどうかの「象徴」なのだ。・・・このような天皇制について、一切口をぬぐっている者は、中国やアジア諸国に対して「謝罪」の如きを決して口にしてはならない〉

 そして、最後に、ベンダサンが、「中国の旅」を「謝罪」だと決めつけたことに対して、あれは、とにかくまず素材としての事実を知ることを第一の目的とするルポであるといい、ベンダサンの視点と自分の視点は「ある限界までは同じ」だが、「基本的には同じ」ではないとして、ベンダサンに対して、その名解釈を期待したいとする次のような問題を出しました。

 「『責任者個人』を追求して裁判にかけないのは日本的特徴だと彼は書いているが、またこれには僕自身も大賛成なのだが、それでは、アメリカ人が主体となってやった東京の極東軍事裁判は、どうして天皇を裁判にかけなかったんだろうか。これでは日本人のやり方とアメリカ人のそれと全く一致してしまうじゃないか」と。

 こうして、イザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争が開始されたわけですが、ここにおける本多氏の論を見れば、この論争が「日本人の謝罪」論に止まるものではないことは明らかです。しかし、それにしても、この本多氏の公開状に対するベンダサンの返書は驚くほど挑発的なもので、慇懃無礼というほかないものでした。識者の中にはこれを惜しむ意見もありましたが、その後の、ベンダサン自身の「種明かし」によると、これはなんと、氏が「日本教について」で論じてきた、日本人の証言における「鸚鵡的供述」(=オシャベリ機械)を、本多氏を相手に紙上で再現するためであった、というのです。(『日本教について』p277)
 なにはともあれ、次回以降、その論争の跡をたどってみましょう。ここから「据えもの百人斬り競争」という恐るべき主張が姿を現すことになるのですから。

2007年7月 4日 (水)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか8─ベンダサンのフィクションを見抜く目─

 以下の文章は、前回紹介した山本七平からベンダサンに宛てた質問状に対するベンダサンの回答を山本七平が要約したものです。大変おもしろいので、長くなりますが、そのまま引用させていただきます。

 〈これは競技の記事である。たとえ場所を戦場に設定しようと、競技の対象が殺人という考えられない想定であろうと、これは競技の記事であって、戦争の記事ではない。言うまでもなくすべての競技には「ルール」「審判」「参加者」が必要であり、それを記録するなら「記録者」が必要であり、そしてその全員がルールを熟知していなければ、競技も競技の記述も成立しない。全員が自分たちが何を争っているかわかっていない競技は存在しない。従ってこの二つの記事にも、もちろん最初にまずルールが記述されている。ルールは「本多版」も「浅海版」も同じで、それは「本多版」に次のように明確に記されている通りである。

 「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本人がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。従って、この競技は、「フィールドの範囲を示し、次に数を限定し、時間を争う型」の競技である。従ってその原則は基本的に百メートル競走と差はない。「一人斬り」を「一メートル走り」となおせばそれでよい。すなわち競技者は、どちらが早く百に達するか時間を争っているはずであって、時間を限定して数を争っているのではない。

 通常、競技は、ルールという多くの確定要素の中の一つの不確定要素を争うもので、不確定要素が二つあっては競技は成立しない。またこの不確定要素すなわち争点が絶えず変化する競技も存在しない。

 しかしこれはあくまで原則であって、実際には、不確定要素が二つある場合もある。これがいわば「百人斬り競争」であって、百という数は確定していても、これは百メートルのように予め設定されているわけではなく、現実には、競技の進行と同時に発生していく数である。

 この種の競技に審判が判定を下す方法は原則として二つあるが、通常採用されているのは「ストップ」をかける方式である。一応「ストップ方式」としておく。すなわち、一方が百に達した瞬間にストップをかける。その際、もちろん、相手の数が百を超えることはありえない。この際、相手が九十八ならその差は数で示されるが、この数はあくまでも時間を数で表現しているのであって、争われているのは時間である。

 この方式は、通常、減点方式がとられるはずである。明らかにこの「ストップ方式」を想定しているのが「本多版」である。これについては後述するが、いかにフィクションとはいえ、戦場においてストップ方式を採用させることは出来ない。理論的には別だが、実際問題において、この種の競技はストップ方式しかとれないのが普通だから、「事実」にしようと思うなら、戦場もしくは戦闘行為という想定をはずさなければならない。従って「本多版」は、実質的に戦場ではない。前記のルール通りなら、こうする以外には不可能である。

 ここで「浅海版」を見てみよう。恐るべき論理の混乱ではないか。この点「本多版」から本多氏の加筆を除いた部分は、論理の混乱は全くない。中国人は日本人より論理的なのかも知れぬが、これは恐らく「浅海版」が、基本的には上記と同じ論理を戦場にあてはめようという「不可能」を無理に行ったため生じた混乱であろう。

 「百人斬り競争」という言葉自体が、「数を限定して時間を争う」ことを規定しており、同時に部隊が移動していることは、場所の移動が時間を示している。言うまでもなく、向井少尉の「丹陽までで云々」は丹陽につく時間までには、百というゴールに到達してみせるぞ、という意味であって、この場合の彼の言葉は、あくまでも「百という数を限定して、それを争っているこの競技において、おれは、時間的に相手を切り離したから、俺の勝ちになるぞ」といっているわけである。ここで彼は、はっきりと数を限定して時間を争う競技と意識しており、これへの野田少尉の返事も同じである。ところがいつの間にか、このルールをあやふやにして、時間を限定して数を争う競技でもあったかの如く、次のように変えている。

 野田「おい俺は百五だが貴様は?」向井「俺は百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、改めて百五十はどうぢゃ」

 いかなる競技であれ、本当に競技を行ったのなら、そしてそれが「時間を争う」競技なら、百に達した時間を記憶していないと言うことはない。第一その時に出てくる質問はあくまでもまず相互に「お前は何時何分に(場所にかえて「どこで」でもよい)百に達したか」であっても数ではない。次のそれにつづく「改めて百五十」とは何を意味するのか。数を決めて時間を争うというのか、時間を決めて、百五十を目標に争うと言うのか。

 もし、本当にルールが設定され、競技が行われ、その結果を摘記要約したのなら、いかなる競技の記事であれ、このような混乱は生じえない。たとえばオリンピックの百メートル競走において、百メートルという数を限定してそれに到達する時間を争っている、と書いているものが、途中で、時間を十五秒にきめてその間に何メートル走れるかを争っている、と書きかえていたら、すべての人が、この記述はおかしい。何かの混乱か、誤記か、とまず考えるであろう。私の考えでは、そう考えない人のほうがおかしい。だが、事実を記述した場合の混乱は、記者の認識不足から生ずるのであって、「事実」が混乱を生じているのではない。従って事実を整理すれば、記者の認識不足が浮かび上がる。そしてこの場合は、フィクションではないと考えるのが本当であろう。だがここで、この点で「本多版」の検討に移ろう。

 「本多版」は論理的構成においては破綻を来しておらず、ルールの設定、審判の態度、その他すべて筋が通っており、二人は終始、はっきりとそれを意識して数を限定して時間を争っている。第一回は百に達しなかった。これは百メートル競走において一人が八十九メートル、もう一人が七十八メートルで転倒したに等しい。これでは競技をやりなおすより仕方がない。しかし第二回においては、一方が百に到達した瞬間にストップをかけよと審判に注意すべきものが失念し、二人が共に百を超してしまったときに、はじめて審判がこれに気づいた。いわばゴールにテープをはるのを忘れて、一方が百六メートル、一方が百五メートルまで走ってしまったときにそれに気づいたに等しい。当然審判は不機嫌になり、コースを百五十メートルにのばして、もう一度競技を再開することを命じた。

 この設定を読んだ場合、本多氏のように、「・・・二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」と見ることは少しおかしい。そうでなく姜氏は、三回目には審判もストップ係も緊張して、一方が百五十に達したときにストップをかけ、従って一方は百五十以下にとどまり、競技は成立したであろうと見ているはずである。記者の認識不足により生ずる混乱はこのような形で起こる。従って本多氏がこの話を聞いたという事実は、絶対にフィクションではない。これが、事実を整理すれば記者の無能と理解力の欠如に基づく誤認及びこれに基づく混乱がわかる例である。だが「浅海版」はそうではない。しかし「本多版」をさらに検討しよう。

 なぜ上官が登場したか。これは、審判である。前述のように不確定要素が二つあるに等しいため、ストップをかけて時間を数に還元して勝敗を決めるという方式の競技は、実際には、審判の目の前で行い、審判がストップをかけねば成立しないからである。従って、数に異常な誇張がなければ、「本多版」は、論理的には「ありえなかった」とは断言できない。

 従ってこのように記者の誤認を整理すれば、論理的設定が完全な場合の真偽は、数を単位に還元して調べる以外にない。たとえば長距離競走の記事があり、その論理的構成は完全であっても、逆算すると百メートルを三秒で走ることになっていたら、そういうことはあり得ない。しかしこれは人間の能力測定の問題であって議論の対象ではないから、これを議論の対象にすることはおかしい。

 ではここで「浅海版」へもどろう。戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。

 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。従ってそれによって生じた混乱は、「本多版」の混乱とちがう。

 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。

 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・〉

 高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげています。しかし、このことは35年前に始まったこの論争の認識の出発点だったのです。前回のエントリーで、山本七平が『週刊新潮』の常識的判断に疑問を投げかけたことを紹介しましたが、ベンダサンもこのことを基本認識に据えた上で、この話をフィクションと断定していたのです。(下線部筆者)

 

2007年7月 3日 (火)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか7─山本七平からベンダサンへの質問状─ 

 山本七平が自分の手で「百人斬り競争」に関する資料を集め始めたのは、昭和47年7月29日号の『週刊新潮』の記事や、『諸君』8月号の鈴木明の記事を読み、向井少尉が歩兵砲小隊長、野田少尉が大隊副官であることを知った後の9月頃からだといっています。その後、二人の上訴申辨書を書いた中国側弁護人(山本は催文元、鈴木明は崔培均、洞富雄は薛某としている。以下原文のまま)の公正な態度に感銘を覚えるとともに、その弁論の限界点も知りました。すなわち、催弁護人は両少尉の新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。従って、催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと、山本七平は考えたのです。

 しかし、山本七平は、こうして「百人斬り」を究明していく内に、何とも解しかねる問題に改めてつき当たらざるを得なくなった、と次のように言っています。

 「これは私にとって余りに不思議であり、不可解なことであった。この記事は、35年間も事実であった。事実だったが故に、二人の処刑が事実になった。「おかしい」と思った人も昔も今もいたであろう。しかし、「おかしい」というのは、事実ともフィクションとも判断がつかないということであっても、「フィクションだ」ということではない。事実という証拠はなくても「フィクションだ」という証拠もなかったはずなのである。従って、資料が出てこない限りあくまでも「おかしい」で終わるはずである。

 ところが、本多・ベンダサン論争で、〈ベンダサンは、この二少尉の百人きり競争は伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」と、またしてもご指導下さいました。たしかに、ご指導されるまでもなく、そのとおりであります。自称ユダヤ人としてのあなたの目には、日本の新聞記者などは、かくもいい加減なものにみえるようですね、こういうひとにたいしては、やっぱりルポ的な手法でお答えすることにしましょう。まず、事実を列挙しますから、じっくりお読み下さい。〉

 という本多氏の前書き付きで、『浅海版』が三十五年ぶりに再登場したとき、ベンダサン氏はすぐに『浅海版』もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。
 ・・・初めはあまり気にもならなかったが、昭和47年7月『週刊新潮』を見、その後、鈴木明氏の『向井少尉はなぜ殺されたか・補遺』(「諸君」十月号)を読んで自分で分析しはじめてから、この疑問は日々に強くなった。というのはこれらの資料を一、二度読んだぐらいでは、このフィクションがどのように組み立てられていったかは、ちょっとやそっとでは解けないはずだからである。これは軍隊の記事だから、軍隊の実情を解明しつつ解かなければ、絶対に「フィクションと断定する証拠」は出てこないはずなのである。日本軍といっても最盛時には七百万もいたそうだから、兵科や境遇が違えば、その人の位置によっては、かえって事実にみえてくることもあるはずなのである。

 偶然としか言えないが、向井・野田そして私という三人が実に似た境遇にいたことが、資料以外の大きな解明のポイントのはずである。何しろ向井少尉は幹候の少尉であり(山本七平も同じ幹候=幹部候補生の少尉のことで士官学校出の本職の将校に対して臨時雇いの将校のこと──筆者)、しかも野田少尉も私も「ブヅキはコジキ」のブヅキ少尉(本部付将校とか指令部付将校の総称で、本部と現場の中間に位置し連絡調整・条件整備をする職で、同じ少尉でも本部付もいれば小隊長もおり、後者が殿様なら前者は乞食ぐらいの待遇の差があったという。──筆者)であり、向井少尉は歩兵砲とはいえ私と同じように「砲測即墓場」の一人であって、「ツッコメー、ワーッ」ではない。このほかにも共通点はあるが、何しろ七百万の中からこれだけの共通点がある三人が会い、私に二人と似たような体験があり、それを基にして資料を分析するから解けるので、そうでなければ、私ではフィクションと証明することは不可能なはずである。第一、もし二人が本当に第一線の歩兵小隊長であったら、もうそれだけで、私には何も論証できない。「おかしいと思うけどネ」が限度である。

 従って少なくとも私にとっては、これは、前記の三要素、すなわち資料・体験・共通性が、どれか一つでも欠けたら絶対に解けないはずなのである。そしてベンダサン氏は、そのどの一つも持っているはずがないのである。たとえ氏が日本軍に関する資料や情報をもっていても、それは、「本多版」「浅海版」という二つの記事だけから、これをフィクションと断定する根拠を提供(ママ)するはずがないからである。

 氏がフィクションと断定された直後、事務所に来られた「諸君!」の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言って笑ったおぼえがあるが、氏がフィクションと断定したので、私も二つを読み比べたのだが、私にさえ、フィクションと断定を下す鍵は見つからないのである。・・・

 私は資料を読んでいるうちに、資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがないという気になった。私がこれを解明していく根拠は、あくまでも資料・体験・同境遇の三つだが、氏はそのいずれももっていない。そして、この三つがない限り、絶対に解けないはずだ。何しろ、今までに何百万人という人が、あらゆる体験者がこれを読んだはずなのに、結局、記事だけでは、誰一人シッポをつかまえることはできなかった。その記事を初めて目にした人間が(ひょっとしたら始めてではなかったかも──筆者)その記事だけを見て、なぜすぐにフィクションだと断言できるのか。それは不可能のはずだ。・・・

 私は、自分の方法で解明を進めていけば行くほど、この疑問は強くなった。そしてついに氏に質問状を送った。要旨は簡単で、「これは確かにフィクションである。しかし二人が、同一指揮系統下の歩兵二小隊長であれば、フィクションと証明することは不可能である。そして記事は、二人が歩兵小隊長ではないという事実を、伏字まで使って消している。そして不可能なゆえに事実とされてきたはずである、あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」ということであった。

 大分かかったが返事が来た。一読して私は驚いた。軍隊経験とか資料とか同一体験とかいったものが全くなくとも、いや軍隊も戦場も中国も何一つ知らなくても、「本多版」「浅海版」の二つだけでこれをフィクションと断定しうる鍵はちゃんとあったのである。まさにコロンブスの卵、といわれればその通りで、今となるとなぜそれに気づかなかったか不思議なくらいである。以下氏の分析を要約しておこう。氏は次のようにいわれる。」(『私の中の日本軍』p240─44)(次回につづく)

 ここで、読者の皆さんも、「本多版」と「浅海版」(「百人斬り競争報道から何を学ぶか2」参照)をごらんになって、分析してみられてはいかがでしょうか。あるいは、読者の中には、この「百人斬り競争」論争は、最高裁で原告敗訴となったことで決着済み、と理解されている方もおられるのではないかと思いますが、私見では、決着したのは、民法上の「名誉毀損」等をめぐる訴訟であって、その敗訴の理由は、結局、この問題は論争としては未だ決着していないということなのです。東京高裁判決4争点に関する裁判所の判断(2)参照 は次のように述べています。

 「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、現在まで肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。以上の諸点に照らすと、・・・本件摘示事実(これが実は曖昧なのですが、ここでは浅海版新聞記事の内容としておきましょう──)が全くの虚偽であると認めることはできないというべきである」

 つまり、「浅海版百人斬り競争の新聞記事の内容が全くの虚偽である」ということは未だ証明されていない、といっているのです。私が、再度、この論争の歴史的経過を再点検してみようと思い立った所以です。


2007年7月 1日 (日)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか6──週刊新潮の常識的判断──

 この上訴申辨書は、鈴木明が昭和47年4月10日、向井少尉の長女恵美子さんをキャンプ・ザマに訪れて話を聞き、それが終わって東京に帰ったとき、もう一人の「犯人」(?)である野田少尉のお母さんから届いていた手紙に同封されていたものです。ただし、これが公開されたのは『諸君』8月号(8月1日発売)ですから、それまで、鈴木明は、実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏、そして、この裁判を担当した裁判長(石美瑜氏)を台北市に訪ねるなど、取材を重ねていたわけです。(石美瑜氏を5人の裁判官の一人としていたのを訂正H19.7.5)

 この間、『週刊新潮』昭和47年7月29日号に、「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事が掲載されました。この記事は、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」(『諸君』s47.4)の内容を紹介した後、この”鈴木レポート”をさらに広げ、深める作業を行う、として「東京日日」の「百人斬り競争」の記事作成に関わった「同僚記者二人の証言」と「浅海記者の華々しき戦後」(毛主席一辺倒、文化大革命礼賛の「日中友好促進派」として「毎日」を代表する記者として活躍)を紹介したものです。

 この中の「同僚二人の証言」では、まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか──を問うことから始めています。『東京日日』の記事は第一報から第四報までありますが、この第四報(「百人斬り”超記録”向井106─105野田 少尉さらに延長戦」浅海、鈴木特派員発)には、城門の前に立つ二人の少尉の写真が、「常州にて佐藤振寿特派員撮影」というキャプション付きで掲載されていました。そこで『新潮』は、記事は創作することもできるが、写真をデッチあげることは難しいとして、この写真を撮った佐藤カメラマン(58歳フリー)を取材し次のような証言を得ています。

 「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」

 「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。―それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」

 この証言によって、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、〔常州にて廿九日〕と日付のある”第一報”取材の時点で撮ったものであることが、判明しました。

 さらに、”第四報”に名前の出て来る「鈴木」特派員(「鈴木二郎」65歳、当時毎日系別会社役員)にも取材し証言を得ています。

 「鈴木氏は抗州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、『そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです』
 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、『今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ』といわれた。
 『そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです』」

 こうした証言を受けて『新潮』は次のように結論づけています。
 「ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると『十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた』という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。

 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。『本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです』

 記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、ニ将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者の方が、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった―と考えるのが妥当なのではあるまいか。」(この結論からすると、この記事のタイトル「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした・・・」は言い過ぎということになりますね──筆者)

 この『週刊新潮』の記事は発行直後山本七平も見ており、その時の感想を次のように述べています。
 「『南京百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事を読んで驚いた。半年ほど前には断固たる『事実』として立派に通用していた物語が、いつのまにか当然のことのように「虚報」とされており、この記事の焦点は、どのようにしてこの虚報が出来上がったかにむけられていることである。昨日の事実が今日の虚報とは、世の中の流れは全く速いものである。

 『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60)

 つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということであり、そのことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事では、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかということです。

 実は、この事実を、山本七平も『週刊新潮』の佐藤振寿氏の証言を読むまで知りませんでした。「従って、・・・何の疑いもなくこれを歩兵小隊長向井少尉と、同じく歩兵小隊長野田少尉と受けとり、当然のことだから(新聞記事では)『歩兵小隊長』を略した」と考えていたのです。「私自身もこの記事を読んだとき、当然のこととしてそう読んでいた。そう読んでしまえば、この記事は全くしっぽが出ないし、さらに何となく『同一指揮系統下』と思いこませれば少しの疑念も湧かないのである。ただ一つ私がひっかかったのは、『僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ』という野田少尉の言葉だった」といっています。(同書p207)

 「ところが鈴木明氏の調査で、驚くなかれ(これが)副官だとわかった。つづいて『週刊新潮』に佐藤振寿カメラマンの驚くべき証言がのった。氏はこの二少尉に会ったのがただ一回なのに、35年後の今日でも、驚くほど正確に証言している。「・・・野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲の小隊長なんですね」そしてその傍らに浅海特派員もいっしょにいたと証言しているのである。従って浅海特派員は、はっきりと二人の正体を知り、一人が歩兵砲の小隊長、一人が大隊副官であって、全く指揮系統も職務も異なることを知りながら、同一指揮下にある第一線の歩兵小隊長として描いているのである。

 関係者は『見たまま聞いたまま』を書いたと証言している。しかしそれは嘘である。といってもこれは『百人斬り競争の現場を見ていないのではないか」という意味ではない。現に目の前に見ている二人、すなわち副官と歩兵砲小隊長を、見たまま書かず歩兵小隊長に書き上げているという意味である。従って二人はすでに、筋書き通りに歩兵小隊長を演じさせられている役者であって、副官でも歩兵砲小隊長でもない。これが創作でなければ、何を創作といえばよいのであろう」(同書p212)

 この二人の職務が、最前線の白兵戦で「百人斬り競争」を行うようなものでないことは南京軍事法廷に提出した答辨書にそれぞれ明快に述べています。
 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」(向井s22.11.6答辨書)
 「当時、私は、・・・昭和12年9月から昭和13年2月まで、冨山大隊副官にして常に冨山大隊長の側近にあって、戦闘の間は作戦命令の作成、上下への連絡下達、上級指揮者への戦闘要報の報告等を、行軍の間は、行軍露営命令の作成下達、露営地の先行偵察、露営地の配宿、警戒警備線の実地踏査、弾薬、糧秣の補充及び指示、次期戦闘の準備等で忙しく、百人斬りのようなばかげた事をなし得るはずがない。」(野田s22.11.15答辨書)「百人斬り」東京地裁判決その3:事実及び理由その2参照

2007年6月30日 (土)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか5──南京軍事法廷判決と上訴申辨書──

 向井少尉が復員したのは昭和21年4月です。秦郁彦氏の「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実」によると、「中国政府は1946年6月頃、百人斬りの容疑者として向井、野田の捜索と逮捕を東京裁判の事務局であるGHQ法務局(カーペンター局長)に依頼したらしく、復員局と地元警察を通じて6月末に三重県に居住していた向井を召喚」し、7月1日から5日まで数回尋問を行いましたが、5日には向井を不起訴処分とし釈放しています。
 同じ頃、東京日日の浅海、鈴木二記者も法廷事務局に呼び出され取り調べを受けましたが「書類不備」(要するに伝聞証言だけだということ)ということで却下となり「もう二人ともこなくてよい」といわれたと証言しています。

 しかし、中国側がこれで納得したわけではなく、引き続きBC級戦犯の中国法廷への召喚を求めたものと思われます。この間の事情を秦氏は、GHQ法務局は、「二人の引き渡しについては「一事不再理」の原則もあり引き渡しを渋ったもの思われる。しかし、昭和21年8月頃から東京裁判法廷で検事側証人が次々に登場して生々しく南京の惨状を語りはじめ内外の世論を衝動するに及び、向井たちの引き渡し要求を拒みにくくなった」のではないかと推測しています。

 そんなわけで、野田は昭和22年8月15日鹿児島の実家において、向井も同じ頃(9月1日)、妻の実家のある三重県に居住していたところを逮捕され、市ヶ谷の軍事法廷に送られ取り調べを受けました。その後、巣鴨拘置所を経て10月12日に南京に送られ、11月4日に起訴され、11月6日から審理開始、そのわずか一ヶ月半後の12月18日、半年近く前に南京に送られていた田中軍吉とともに「捕虜及び非戦闘員を屠殺した罪」により死刑判決を受けたのです。判決文は次の通りです。

〈判決文〉
 「向井敏明及び野田厳(「野田穀」が正しい─筆者)は,紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し,その結果,野田厳は105名,向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」
 その理由は,以下のとおり記載されている。
 「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は當時南京に在留しありたる外籍記者田伯烈(H.y.Timperley)が其の著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず(谷壽夫戦犯案件参照)即遠東國際軍事法庭中國検察官辯事處が捜獲せる當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。尚被告等が兇刃を振ってその武功を炫耀する為に一緒に撮影せる写真があり。その標題には「百人斬競争両将校」と註しあり。之亦其の証拠たるべきものなり。

  更に南京大屠殺案の既決犯谷壽夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり。之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。更に亦本庭の其の発葬地点に於て屍骸及び頭顱数千具を堀り出したるものなり。

  以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。

  然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。

  所謂殺人競争の如き兇暴'惨忍なる獣行を以て女性の歓心を博し以て花嫁募集の広告となすと云うが如きは現代の人類史上未だ嘗て聞きたることなし。斯る抗辯は一つとして採取するに足らざるものなり。」
(データ参照)http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/hanketsu-3.htm

 この判決を受けた時の印象を、野田は獄中手記(『「南京大虐殺」のまぼろし』p110)の中で次のように述べています。

「二十二日判決文が参りました。相手にとって不足がないぐらい、物凄い判決文でした。われわれは南京大屠殺に関係があり、向井君と私は、残虐なる百人斬りによっての獣行によって日本女性の歓心を買わんとしたことは、現代人類史上聞いたことがないといふのです。思はず笑い出してしましました。」

 そこでただちに、向井と野田は、両者連名で中国側弁護人を通して南京軍事法廷に上訴申辨書を提出しています。その要旨は次の通りです。(番号は筆者による)

1 原判決は、被告等の「百人斬り競争」は田伯列(ティンパーレ)の著作「日本軍暴行 紀実」に記載されていることをもって証拠としているが、この記事は当時の日本の「東京日日新聞」の「百人斬り競争」に関する記事を根拠としたもので、田伯列が南京において目撃したものではない。然るに、原判決に「詳明シ記載アリ」とあるのは如何なる根拠によるものか判知し得ざるところである。

2 いわんや、新聞記事を証拠となし得ざることは、すでに民国最高法院の判例にも明ら かであり、単に事実の参考に供するに足るもので、唯一の証拠とすることはできない。 なお、犯罪事実はすべからく証拠によって認定すべきことは刑事訴訟法に明らかに規定 されている。(この証拠とは積極証拠を指していることはすでに司法院において解釈されている。)()内は8/20追加挿入

3 然るに、貴法廷は、被告等が殺人競争をしたという直接間接の積極的証拠は全くない にもかかわらず、被告等と所属部隊を異にする部隊長たる谷寿夫の罪名認定をもって南 京大虐殺に関する罪行ありと推定判断しているが、かかることの不可能であることは些 かも疑義はない。

4 原判決は、「東京日日新聞」と「日本軍暴行紀実」とは符合すると認定しているが、 後者の書籍の発行期日は前者の発行期日後であって、田伯列が新聞記事を転載したこと は明瞭である。いわんや、新聞記者浅海一男は民国36年(昭和22年)12月10日に記述した証明書に、この記事は記者が直接目撃したものではないことを明言しており、 すなわち、この記事は、被告等が無錫において記者と会合した際の食後の冗談であって 全く事実ではない。この件は東京の盟軍(GHQ法務局)の調査でも不問に付されたものである。〈民告36年(昭和12年)〉を(昭和22年)に修正8/20

5 被告等の所属大隊は、民国26年(昭和12年)12月12日、麒麟門東方において行動を中止し南京に入っていないことは富山大隊長の証明書により明瞭であり、被告野 田が紫金山付近で行動せざることを明白に証明している。また、被告向井は、12月2日、丹陽郊外で負傷し事後の作戦に参加せず紫金山付近に行動せざりしことも富山大隊長の証言で明瞭である。

6 また、この新聞記事の百人斬りは戦闘行動を形容したものであって、住民俘虜等に対 する行為ではない。残虐行為の記事は日本軍検閲当局を通過することはできなかった。 ゆえに、貴法廷が日本軍の検閲を得たことをもって被告の残虐行為と認定したことは妥 当ではない。以上の如くであり新聞記事は全く事実ではない。

7 貴判決書に多数の白骨が埋葬地点より出たことをもって証拠とする記述があるが、被 告等が入っていないところで幾千の白骨が出ても、被告等の行為と断ずる証拠とはなら ない。

8 被告等は全く関知しない南京大虐殺の共犯とされたることを最も遺憾とし、最も不名 誉としている。被告等は断じて俘虜住民を殺害することはしておらず、また断じて南京 大虐殺に関係ないことを全世界に公言してはばからない。被告等の潔白は、当時の上官、 同僚、部下、記者が熟知するとKろであるのみならず、被告等は、今後帰国及び日本国 は恩讐を越えて真心より手を握り、世界は岩の大道を邁進せられんことを祈願している。

  以上陳述したとおり、原判決は被告等に充当することはできないと認めれれるので、 何卒公平なる複審を賜らんことを伏して懇願いたします。            (以上)

 山本七平は、「私にこういうもの(『私の中の日本軍』)をかかしたのも、実はこの中国人弁護士催文元氏の態度であり、また二人が創作記事によって処刑されるのだということを、的確に見抜いた最初の人は、おそらく彼なのである。彼はこういうことを平然とやっている日本人を、内心軽侮したことであろう。心ある一人の人の軽侮は、「殺人ゲーム」で惹起された百万人の集団ヒステリーの嘲罵より、私には恐ろしい。」『私の中の日本軍』p293)といっています。

 また、この申辨書は、「実に問題の核心を突くとともに、それまでの裁判の経過を明らかにし、この軍事法廷で、「無罪か死刑か」が最後まで争われたその争点が何であったかをも明確にしている」として、次のようにいっています。(以下、山本引用文、注1及び浅海、鈴木両氏の尋問調書の一部を追加しました。h19.7.1)

 つまり、彼は、まず原判決が田伯列(ティンパーレ)の記述が東京日日新聞と符合するといっても、ティンパーレが新聞記事を転載したことは明瞭であるとしてこれをしりぞけ、その他の物証も一切ないことを証明し、さらに、新聞記事を証拠となし得ないことは、判例にも明らかであり、それは単に事実の参考に供するに足のみであって、唯一の罪証とすることはできない、と主張しているのである。そしてここが、彼がいかに誠意をもって努力しても、もう彼の力ではどうにもならない限界なのである。

 「すなわち新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。──これが「浅海証言」(注1)が二人を処刑させたのであって、この処刑は軍事法廷の責任ではなく浅海特派員と毎日新聞の責任であると前に書いた理由であり、また私が催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと考えた理由だが──・・・だが少なくとも中国人が誠心誠意弁護しているものを、何も日本人がその足をひっぱる必要はないはずだ。両者の関係は、催弁護人の「申弁書」と「浅海証言」「本多証言」を比較すれば、だれでもおのずと明らかであろう」(同書p294)

注1 「浅海証言」(向井少尉の実弟向井猛氏が、昭和22年10月12日に南京に送られる以前、市ヶ谷の軍事法廷の軍検事局に拘留中の向井少尉を訪ねたとき「とにかく証拠が要る。今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうには、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼むほかはない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったんだということを、是非証言してもらってくれ。それから、戦友たちの証言ももらってくれ」と頼まれた。彼は、まだやけビルの後も生々しい有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ね、次のような証言を得ました。彼はできればあの記事は創作であると書いてほしかった、といっています。

①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。②両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲局をパスすることはできませんでした。③両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でありました。④右の事項は昨年七月、東京における連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります。

 また浅海記者及び鈴木記者は昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室において米国のパーキンソン検事から尋問を受け、次のように証言しています。参照

(問)毎日新聞に掲載されたニュース記事を2本お見せした上で,あなたがその執筆者かどうか,あるいはいずれかの記事の執筆に携わったかどうかをお聞きしたいと思います。
(答)1937年12月5日付けで掲載された記事は自分が書いたものではありません。しかし,12日付けで毎日新聞に掲載された二つ目の記事は私が浅海さんと一緒に書いたものです。
(問)日本語版に掲載された写真は同じようにあなたが送ったものですか。
(答)この写真はサタさんという別の従軍記者が撮影しました。常州で撮影したものです。
(問)この写真は別の人が撮ったということですが,自分の記事の一部としてあなたが送ったものですね。
(答)私はこの写真について知りませんが,浅海さんは知っています。実際は彼が送信したものですから。
(問)しかし,写真は浅海さんが撮ったのではありませんね。
(答)佐藤という名の別の従軍記者が撮ったものです。
(問)それから鈴木さん,あなたが浅海さんと共同で,記事の一部として送ったのですね。
(答)浅海さんが送った,と言った方がいいでしょう。
(問)浅海さんと協力して執筆した記事をあなたが送ったのですか。それとも浅海さんが執筆に加わった記事を彼が送ったのか,またはあなたが参加した記事を彼が送ったのか。
(答)その記事は浅海さんが主に執筆したものです。
(問)しかし,加わったのは…。
(答)鈴木さんが加わりました。
(問)つまり共同執筆ですか。
(答)そうです。
(問)では,12月5日付け東京毎日新聞に掲載された記事を執筆したのは誰ですか。
(答)5日付けに掲載された記事については,私は何も知りません。
(問)浅海さん。鈴木氏に対する質問と答えを聞いていましたね。彼が言ったことが正しいと思いますか。
(答)その通りです。
(問)1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか。
(答)はい。私がこの記事の執筆者です。
(問)では,鈴木さん。あなたは12月12日の記事の執筆に関わりました。あなたはその記事に事実として書かれていることが真実か虚偽か知っていますか。
(答)はい,知っています。
(問)真実ですか,虚偽ですか。
(答)真実です。
(問)浅海さん。たった今,鈴木さんに尋ねた質問をお聞きになりました。あなたもこれらの記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか。
(答)真実です。
(問)では,この新聞発表2本を確認する上で,お二人の共同供述書に署名を頂くことができますか。執筆者であること,そしてその記事が真実であること,つまり,記述内容が真実であることを供述してください。
(答)はい。供述します。


2007年6月22日 (金)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか4──野田少尉の弁明そして遺書──

 ここまで、鈴木明が朝日新聞の連載記事「中国の旅」の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)を読んで以降翌年3月までに発掘した資料を紹介してきました。ほぼこれと平行してイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏との論争が始まっていたのですが、本多氏が『諸君』紙上に「百人斬り競争」に関わる4つの資料を提示したのは『諸君』4月号(4月1発売)ですから、鈴木明は、彼らとは別に、独自の視点で調査を進めていたことになります。(洞富雄氏は「鈴木氏は、〈ベンダサン〉とともにお窮地に追い込まれた『諸君』編集部によって頽勢を一挙に挽回せんものと送り出された」などどいっていますが・・・)『南京大虐殺まぼろし化工作批判』p38

 こうして新しく発掘された資料をもとに書かれたものが「向井少尉はなぜ殺されたか」(『諸君』8月号掲載)でした。ここには、先に紹介した向井少尉に関する資料だけでなく、野田少尉の母親から送られてきた「上訴申辨書」(死刑判決後に、最後に弁護人が裁判所に出したもの)や、東日の「百人斬り競争」の新聞記事をもと書かれたティンパーレの「南京殺人レース」と題する英字新聞記事の概要、南京法廷における向井少尉の無罪を証明す「証言」集めに奔走した実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友の証言、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏の証言、さらに、台湾の台北市に行き、この裁判を担当した五人の裁判官の内の一人(石氏)の証言も得ています。

 この内、石氏の証言次のようなもので、きわめて貴重な証言といえます。

 「南京事件は大きな事件であり、彼らを処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には可応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。私個人の意見はいえないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まできたのであろう。・・・最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけはいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と──」

 こうした取材のエピローグとして、鈴木明は次のようにいっています。

 「本多勝一氏は『中国の旅』の連載途中で、読者への断わり書きとして、『かりに、この連載が中国側の”一方的な”報告のようにみえても、戦争中の中国で日本がどのように行動し、それを中国人がどう受けとめ、いま、どう感じているかを知ることが、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と書いた。

 いま僕も、全く同じように『かりに、この小文が、”銃殺された側”の”一方的な”報告のようにみえても、終戦後の中国で、二人の戦犯がどのように行動し、それを、関係者や遺族がどう受けとめ、いまどう感じているかを知ることも、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。

 そして、同じく『百人斬り』を取材しながら、このルポで僕が取材した内容の意識と、朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき、僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持ちにならないではいられなかった。」と(同書p109)

 その後、鈴木明は、もう一人の戦犯である野田少尉が死の寸前に書いたと思われる獄中手記を入手したとして、その一部を紹介しています。この全文は、向井少尉の遺書と同じ『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)に収録されていますが、ここでは、平成一三年三月に、野田少尉の実妹、野田マサさん(当時七二歳)が保管していた遺品の中から見つかった「新聞記事の真相」と題する手記と、死刑当日(昭和23年1月28日付)の日記に記された「遺書」を紹介しておきます。

 新聞記事ノ真相

 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
 十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
 記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
 向井 「関ノ孫六デス」
 野田 「無名デス」
 記者 「斬レマスカネ」
 向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
 記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
 向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
 記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
 向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
 野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
 記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
 向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
 記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
 シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
 尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
 野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ

 記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
 野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
 記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
 野田 「ソウデスカ」
 記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
 
 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
 右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
 貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

野田毅氏の「遺書」(昭和23年1月28日日記より)

 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々

 死刑に臨みて

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。
 只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴らさんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が、到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

 野田毅

『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p4


2007年6月20日 (水)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか3──向井少尉の弁明そして遺書──

 鈴木明が、向井少尉の申辨書と彼の遺書の一部を読んだのは、昭和47年3月中旬頃のことです。また、向井少尉から彼の母宛の遺書(全文)を読んだのは、成田に住む先妻の次女千恵子さんを訪れた3月24日です。この遺書や申辨書が中国からどのようにして持ち出され遺族の手に渡ったかというと、それは「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活した」人たちの手によるもので、このことは、その中の一人当時島根県江津市に住む小西さんという方が、鈴木氏に次のような手紙を送ったことで判明しました。

 ─「私は当時南京戦犯拘留所で、向井、野田、田中その他の人たちと一緒に生活し、彼らが内地から送られてきたときから、死刑になるまで、ともに語り合ったものです。
 当時拘留所は木造の二階建てで、元陸軍教化隊のあったところとききました。一階が各監房、二階半分が監理室、半分が軍法廷あてられていた関係もあり、耳を澄ませば二階の裁判の模様がききとれるような環境でした。
 谷中将と向井、野田両氏が何時送られてきたかのはっきりした記憶はありませんが、彼らが着いて直後、予審とも記者会見ともわからないようなものをやり、この人たちがはじめから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。『事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である』といっていたそうで、大虐殺の犯人(「南京大虐殺」─筆者)として事件に結末をつける政略的なものであろうと、我我も話をしていました。

 彼らは死刑判決後、柵をへだてた向こうの監房に移されましたが、書籍や煙草を送ることや、会話は許されました。彼らは、この事件は創作、虚報であるとくり返し訴え、浅海記者がそのことを証明してくれるだろうといっていました。

 判決後、その浅海記者の証言を取り寄せるため、航空便を矢つぎ早に出しました。その費用を出すため、私たちも衣類を看守に売ったりして援助しました。やがて待望の証言書が届き、その時は彼は声を上げて泣きましたが、この証言内容は、よく読むと老獪というか、狡猾というか、うまく書いてあるが決して『創作』とは書いてありませんでした。そして、彼らは処刑されました。

 残された我々は当時、皆涙を拭いながら、浅海記者の不実をなじったものです。記者が、どういう思惑があったかは知りませんが、何物にもかえ難い人命がそこにかかっていたということを、知っていたのでしょうか。

 たしかに、裁判もでたらめでした。二回の審議で、つぎは判決だったと思います。証拠も新聞記事が主なものでした。彼らは日記をつけていたので、私たちが遺族にとどけようということになり、私は向井、酒井隆、鶴丸光吉のものを引き受けました。向井の分は上海拘留所に移された時、無罪で三重県に帰る人がいたのでお願いしました。後に、確かに渡したという照会も致しました。

 私はこの手紙を書くに当たって、今更このようなことを書いても、余りに空しいと思いましたが、刑の執行の朝、彼らが、軍事法廷になっていた二階で、”天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇ってくるので、あえてここに筆を執りました。まずは、ご参考までに。」(『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明p121」)

 また、この時、鈴木明の見た「上申書」は、向井少尉の弁護人(『偕行』記事によると薛弁護士)が南京軍事法廷に提出したと推定されるものです。(南京軍事裁判所の検事による二人に対する審問は昭和22年11月6日に始まり、12月18日に死刑判決が下されるまで数回なされていますが、この審問の後二人が裁判所に提出したものが「答辨書」で、起訴事実に対する論駁として提出したものが「申辨書」です。ここで鈴木の見た「上申書」はこのいずれかの草稿と思われますが、日付の記載がないのでわかりません。)また、この本には、この「上申書」(カナ書きで長文のもの)を鈴木明が要約したものが掲載されていますので、ここでは、平成17年8月23日に言渡された本裁判(東京地裁)の判決資料として付された向井少尉の答辨書(s22.11.6)─おそらく最初の審問後に裁判所に提出したもの─を紹介しておきます。

*次のファイル資料は、「読める判決『百人斬り』」のサイトより転載しました。http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/hanketsu-3.htm

(向井少尉の答弁書11.6警察庭における審問後提出)
 「昭和12年11月,無錫郊外において,私は,浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は,浅海記者に向かって,『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから,花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は,笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので,『できない。』と答えた。浅海記者とは,『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。」

 「私は,無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら,砲撃戦の位置は,第一線よりも常にはるかに後方で,肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では,冨山大隊長の指揮から離れて,私は,別個に第十二中隊長の指揮に入り,丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ),その後,第十二中隊とも離別し,看護班に収容された。」

 新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い,かつ,百人斬りを続行したかのような記載があるが,事実においては,句容や常州においては全く戦闘がなく,丹陽以後,私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃,湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は,引き続き砲兵学校に駐留していたが,昭和13年1月8日,北支警備のため移動した。その間,私は,臥床し,治療に専念していた。」

 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」

 「私の戦争参加に関しては,新聞記事に数回連続して報道されたが,私は,中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで,かつ,無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが,記事には数回会合したかのように記載してある。しかも,私は負傷して臥床していたにもかかわらず,壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。」

 「昭和21年7月1日,国際検事団検察官は,私と新聞関係者,1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果,百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと,私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと,私が戦闘に参加したのは,無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること,私が丹陽の戦闘で負傷し,野戦病院に収容され,爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し,本件に関しては再び喚問することがないから,安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて,同月5日,不起訴釈放されたものである。」

 鈴木明はこの「上申書」を読んで、すぐに北岡千重子さんに会いに行きました。(3月19日)そこで、彼女から向井少尉との出会いや、昭和21年の夏に向井少尉が復員して以降約1年間の生活のこと、そして、東京の市ヶ谷の軍事法廷に連れて行かれた時の様子をきくことができました。「ある日、警察が『MPが向井敏明という人を探しているが、お宅の敏明さんは、本人ではないのか』と照会してきた。向井敏明は、彼女の実家である北岡家の養子という形で入っていたので、姓も北岡と変わっており」、警察は「姓も違うし、もし本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に逃亡をすすめたといいます。

 しかし、彼は「僕は悪いことをしていないから、出頭します」といい、「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるのかも知れない。大丈夫だよ。連合軍の裁判は公平だから」といったそうです。(*すでに21年7月に国際検事団の審査を受け不起訴となった経験があったからと思われます─筆者注)彼女が、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・?」と彼にきくと「あんなことは、ホラさ」とこともなげにいい、「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いていたんだから。そんなこといい出したら、国中がホラ吹きでない人は一人もいなくなる─」とまじめな顔をしていったといいます。

 その後、鈴木明は向井少尉の先妻(先の北岡千重子さんは再婚)の次女にあたる向井千恵子さんに合い、彼女の所持していた、向井少尉から祖母(つまり向井少尉の母)宛ての遺書を見ることができました。千恵子さんは祖母のフデさんに(実母は終戦後ほどなく死亡)親代わりの愛情をそそがれて育ちました。フデさんのこうした苦労の支えになったのは、この『孫を頼むといった敏明の遺書』だったそうです。

 その遺書は次のようなものです。(『「南京大虐殺」のまぼろし』にはその一部が紹介されているだけですので、ここでは、その全文を紹介しておきます。)

向井敏明氏の遺書

  辞 世
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の若杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本の敢奮を祈る

 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明

  遺 書
 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
 野田君が、新聞記者に言ったことが記事になり死の道ずれに大家族の本柱を失わしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。
 猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした、兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明書も猛の手紙も見たです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間がする事ではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねてご不自由の御身老体に加え孫二人の育成の重荷を負せまして不幸これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当に苦労する事は明かですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互に相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生る為に収入の道も拓かねば成りますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です、早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理は申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。
 母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりお姿が浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不幸の連続でたまらないものを感じます、赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮して下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過して下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不幸の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と三名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝え願います。(下線は筆者)

『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p41─42


2007年6月16日 (土)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか2──「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問──

 まず、「百人斬り競争」といわれる事件の概要を述べます。

 この事件は、1937年7月7日北京郊外で勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争が、北京、天津陥落後8月に上海に飛び火し激しい市街戦となり、10月からは上海周辺に築かれたゼークトライン(ドイツ軍事顧問団の指導により塹壕要所に機関銃ポスト(トーチカ)を設けたもの)での攻防、そして11月5日、日本軍が杭州湾に上陸(第10軍柳川兵団)して以降、全面潰走となった国民党上海攻囲軍(約50万)を南京城まで追撃する間、二人の日本軍将校が、11月26日頃から12月11日までの約2週間余りの間、無錫‐南京間(約180㎞)において、どちらが早く日本刀で100人を斬るかを競ったとされる事件です。

 この事件は、東京日々新聞(今の毎日新聞)の従軍記者だった浅海一男等により、武勇談として当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日の支社)に4回にわたり掲載されました。戦後、この記事が東京裁判の国際検事団の注目するところとなり、昭和21年6月、関係者が召喚され尋問を受けましたが、同7月「書類不備」(証拠不十分)ということで不起訴釈放(向井少尉)されました。ところが、昭和22年になって再び戦犯として身柄を拘束され、巣鴨刑務所から南京軍事裁判所に移され、同年11月頃南京軍事裁判所の検察官の尋問を受けました。二人は、この記事は、無錫における記者を交えた「食後の冗談」を浅海記者が戦意高揚のため武勇伝化したものであり事実無根と訴えましたが、二人は12月18日「捕虜および非戦闘員を屠殺」したとして死刑判決を受け、翌年1月28日南京郊外で処刑されたものです。

 この事件は、戦後は特に注目されることはなく、ほとんど忘れ去られていましたが、朝日新聞の本多勝一記者が、昭和46年8月から12月にかけて、朝日新聞紙上に「中国の旅」(日中戦争時における日本軍の残虐行為を紹介)を連載し、同年11月5日この事件を「競う二人の少尉」という見出しで、中国人の姜さんの話として次のように伝えたことから、この話が事実か否かをめぐって大きな論争に発展しました。

 「”これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが”と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。
 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
 二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
 この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さん(日本軍の南京攻撃の際に日本兵に家族が虐殺された経験を持つという人物─筆者注)はみている」

 この記事を見た鈴木明(『南京大虐殺」のまぼろし』(1973.3.10)の著者)は、「ちょっと待てよ、・・・この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には『許される』残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の『殺人ゲーム』を許すという人はいないだろう。では、何故、本多氏はあえてこのような記事の書き方をされたのだろうか?」と疑問に思い、そのモトの話とは、一体どんなものなのだろうか、と当時の新聞をしらみつぶしに調べたところ、すぐに上述の東京日日新聞に該当する記事を見つけることができました。(この本で紹介されているその新聞記事は第1報と第4報のみですが、ここでは第2報、第3報も併せて紹介しておきます。なお、この記事は、東京日々新聞(毎日新聞の東京支社)と大阪毎日新聞だけに掲載され、他紙の後追い報道はありませんでした。また、この両紙に掲載された記事内容には若干の違いがありますが、追って検討したいと思います。)

(以下の新聞記事データは次のサイトより転載しました)http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nichinichi.htm

1937年11月30日付朝刊(第1報)1937年11月30日付朝刊(第1報)
(見出し)百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人
(本文)[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

 1937年12月4日付朝刊(第2報)
(見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
(本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

1937年12月6日付朝刊(第3報)
(見出し) 89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

1937年12月13日付朝刊(第4報)
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦
(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

 鈴木明は、この記事は、「今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている」として、次のような指摘をしました。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。

 その上で次のような感想を述べています。

 「これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 こうした感想を、氏は昭和47年4月号の『諸君』に「『南京大虐殺』のまぼろし」と題して発表したわけですが、この同じ号の『諸君』には、本多勝一氏のエッセイ「雑音でいじめられる側の目」が掲載されていました。これは、私が前回のエントリーで紹介したように、イザヤ・ベンダサンが同誌に「日本教について」の連載中1月号で「朝日新聞のゴメンナサイ」と題して、日本人の謝罪の不思議について論じたところ、本多勝一氏がこれに「公開質問状」(同2月号)を寄せ、これに対してベンダサンが「本多勝一様への返書」(同3月号)と題して、朝日新聞の「中国の旅」における日本軍の二人の少尉の「殺人競争」の話を伝説だといい、このA、B二少尉の実名を明らかにするよう求めたことに対する反論として掲載されたものです。

 この中で本多勝一氏は、私の原稿では実名を出していると述べた上で、先に紹介した東京日日新聞の第1,4報の外2資料を示し、次のように述べました。

 「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして”伝説”だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年一二月八日、また向井は一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。惜しいことをしました。と申しますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもお知らせできたでしょうに」(死刑は二人とも昭和二三年一月二八日─筆者注)

 これを読んで、鈴木明ははじめて二人が南京で二十数年前に銃殺されたことを知り大きな衝撃を受け次のような感想を漏らしました。
  「『美談』が『真実』とうけとられ二人の人間が衆人の前で銃殺され、更にその『真実』は『神話』にまで高められ、『日中国交回復に当たって、まず日本人が中国に土下座して詫びなければならない残虐行為の代表的なもの』にまでなってしまった」と。

 ところが、こうして「百人斬り神話」はそのまま「神話」として、永劫の彼方に消え去るかに見えましたが、ある日、『諸君』編集部に「北岡千重子」さん(向井少尉の未亡人)から手紙が送られてきて、その手紙には向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井敏明付弁護人の上申書が添えられていたのです。そしてこれ以降、先に述べたような鈴木明の疑問を解き明かす新たな事実が次々と明らかにされていくのです。


2007年6月 8日 (金)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか──イザヤ・ベンダサンと山本七平──

 wikipediaの「山本七平」の項目では、山本七平の評価について「山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。」と前置きし、「死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。・・・その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。・・・」としています。

 そして、その具体的な批判として、朝日新聞の本多勝一記者との、いわゆる「百人斬り競争」をめぐる論争を取り上げ次のように批判しています。
 「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がるものの、この理論がユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい。」

 こうした主張は、wikipediaの、この項目の「ノート」を見ていただければ判りますが、「らんで」さん外、山本七平を批判される方が執拗に主張しているものです。しかし、「彼(山本七平)はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、・・・」というのは、以下に述べる通り事実に反していますし、山本七平が「百人斬り競争」の新聞記事を批判した根拠は、「日本刀の性能」だけではなく、また、そこで使われた論理が誤っていたわけでもありません。さらに、「この論理がユダヤ人からわざわざ『ヒントをもらった』とは考えにくい」という批判も意味がわかりません。

 「百人斬り競争」をめぐる論戦におけるイザヤ・ベンダサンの主張は、「朝日新聞のゴメンナサイ」(『諸君』S47.1)で、朝日新聞の「中国の旅」を日本人の謝罪=責任解除の問題として取り上げたことが最初です。これに対して本多勝一氏が「イザヤ・ベンダサン氏への公開質問状」で、私も「日本的な『謝罪』の無意味さ」を指摘してきた。また、私は「南京大虐殺事件」当時幼児であり直接の責任はない。従って、中国に「ゴメンナサイ」とはいわない。そのかわり、その真の責任者である天皇の戦争責任を追及することが真の謝罪になる、と反論しました。

 これに対して、イザヤ・ベンダサンは、「日本人がすぐ『私の責任』という」のは、本多氏のいう「責任回避」の意味ではなく「責任解除」(一種の「懺悔告解」)という意味だ。また、本多氏が、中国民衆への真の謝罪は「天皇の戦争責任」を追求すること、と断言する以上、天皇裕仁個人に公開書簡を送るなど個人責任の追及をすべきではないか。また、そのように天皇の責任追求を主張する方が、「中国の旅」の「百人斬り競争」(=殺人ゲーム)における加害者の名前をなぜ匿名にしたか(といっても「身代わり羊」にしろということではなく、すべての人間には「釈明の権利」があるということ)。また、一体、本多氏はこの「百人斬り競争」報道で、「中国人がかく語った」という事実を示しているのか、それとも「中国人が語ったことは事実だ」といっているのか。おそらく、私は、この物語は「伝説」だと思うが、ルポとは、この「伝説」の中から事実の「核」を取り出す仕事ではあっても「伝説」を事実だと強弁することではありますまい、と反論しました。

 これに対して、本多氏は、「責任回避でなく責任解除だ」というベンダサンの論は理解しない(できない?)まま、あなたのおしえてくれた天皇の『責任の糾弾』の方法は、ばかげた、ムダなことなのでしない。「中国の旅」には加害者個人の名前を全部出したが新聞社の編集権によりA,Bとなった。また、あなたは、この「百人斬り競争」を伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」といったが、ではルポ的な方法でお答えする、といって、『東京日々新聞』(1937.11.30、12.13)の「百人斬り競争」の2本の記事、月刊誌『丸』(1971.11)の鈴木二郎もと特派員の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」の記事、月刊誌『中国』(1971.12)の志々目彰氏の「日中戦争の追憶」の資料を提出し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおもダンコとして『伝説』だと主張いたしますか」と反論しました。

 これに対して、ベンダサンは、「中国の旅」の記者に「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送ったところ、反論とともに「事実である」という多くの証拠が『諸君』に掲載された。しかし、ここで提出された「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は3人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションということになる。一体どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか。というのは、これらの記事はともに「語られた事実」にすぎず、従ってその相互の矛盾から、ぎりぎりの推断によって事実の「核」に迫るべきであるが、この記者は「語られた事実」と「事実」を峻別することができず、いまだ証明されてもいない「語られた事実」を事実と断定して、それと矛盾する資料でも量を集めればそれの証拠となる、と考えているらしい。もし、本多氏があくまでもこの記事が『事実』だと主張するなら、それがフィクションであることを一つ一つ論証する(『日本教について』p271)と反論しました。

 こうしたイザヤ・ベンダサンの主張に対して山本七平は、この時点で提示された「百人斬り競争」関連資料(鈴木明氏の発掘したものを含む)だけで、この事件をフィクションと断定することはできないのではないかと考え、次のような会話を訪れた記者と交わしたといっています。「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫ですかな。事実だったら大変ですな」と。そこで「いかなる論拠でフィクションと断定できるか」という趣旨の手紙をベンダサンに出し、しばらくして返事をもらったとして、その内容を紹介しているのです。(『私の中の日本軍』p240)

 つまり、山本七平は、イザヤ・ベンダサンとは全く別の手法で、自分と、この事件の首謀者とされる向井少尉、野田少尉との共通体験(向井とは同じ幹部候補生出身で砲兵、野田とは同じ副官経験を持ち、また日本刀で手足を切断したというような)を手がかりに、この東京日々新聞の「百人斬り競争」記事は、この記事を書いた新聞記者の創作ではないかと論証していったのです。(この論証の内容は、大変おもしろい、というよりここで紹介された日本人の行動様式は、日本人が、戦争という危機的状況におかれたときどのように行動するか、を考える上で誠に貴重な体験といえるものですから、是非ともこの『私の中の日本軍』をご一読いただきたいと思います。)

 話はもとに戻りますが、wikipediaのノートで「らんで」氏は、このようにイザヤ・ベンダサンと山本七平の主張をごちゃ混ぜにすることによって、山本七平はその著作において虚偽、捏造を行った人間であり信用できないときめつけているのです。(そんなに言うなら「らんで」なんていう匿名も使うべきではないと思いますが。)

 驚くべき事に、この種の「ためにする」批判が、山本七平に対する批判の主要な根拠となっているのです。つまり、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物視することで、「出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。」といった批判が作られているのです。現在では、『日本人とユダヤ人』の著作は山本の外2名のユダヤ人が、それ以降のベンダサン名義の著作は山本の外1名のユダヤ人が関わっていることが明らかとなっているにもかかわらず。

 この件に関して、『日本人とユダヤ人』には英語の原著がなく、日本語で書かれたものであることをもって、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物と見なす意見がありますが、この謎について、山本七平は「昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた三人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本になった」と説明しています。(『怒りを抑えし者』P409)ただ、稲垣氏自身は、「それは多分、ローラーとホーレンスキーの語った部分を日本語にしたものを、山本が参照したものにすぎないと思われる。」としていますが。

 私自身は、今まで論じてきたように、この問題は、山本七平の言葉によって理解すべきだと考えているわけですが、たとえ、稲垣氏のいうように『日本人とユダヤ人』のコンセプトは山本七平自身のものであったとしても、イザヤ・ベンダサン名義の著作に出てくるエピソードのうち山本七平自身の体験とは思われないものは、当然、ローラーやホーレンスキーによりもたらされたものと考えるのが筋だと思います。山本七平は自らの名義で、ベンダサン名義のものとは別のコンセプトでこの問題に関する著作をしているのですから。

 そこで次回から、本多勝一氏が1971年に朝日新聞に連載した「中国の旅」においてとりあげた「百人斬り競争」をめぐる論争において、山本七平がどのような主張をしたかを、詳しく見てみたいと思います。この問題は近年裁判でも争われ(2006.12.22最高裁で原告敗訴)、その結果をめぐって誤解も生じているようですが、この問題から私たち日本人が何を学ぶべきかということについては、すでに、イザヤ・ベンダサンと山本七平によって論じ尽されている、と思うからです。

 ネットにおけるこの裁判に関するコメントも見てみましたが、こうした観点からなされたものを見つけることはできませんでした。「天秤の論理」の世界では、ものごとを歴史的に把握する視点がなく、「今」の勝ち負けだけで物事を判断する傾向がある、と山本七平は指摘しています。そこで、次に、この「百人斬り競争」をめぐる論争の経過を、「歴史的」に検証してみたいと思います