論題 引用文 コメント
「一握りの軍国主義者」論
『ある異常体験者の偏見』
260~262
「『一握りの軍国主義者』などという抽象的存在がこの世にいたのではない。そこにいたのは具体的存在としての個々の人間である。・・・この世に『生まれながらの悪玉』などは存在しないと同様『生まれながらの軍国主義者』などというものは存在しない。ある人間が、ある思想を抱き、その思想に基づいてある判断を下し、その判断の下に一つの発想をして、その発想の下に計画をたて、その計画を実行に移したのである。そしてその人は、そうする事を最善と考えた──ではなぜ最善と考えたのか。彼らの多くは誠心誠意それを実行した。それは残念ながら否定できない事実ではないか。そして誠心誠意やったという事は何ら正当性を保証しないことを、われわれはいやというほど思い知らされたのではなかったか。その人たちがどれほどまじめであったかなどということは無意味である以上に、その人たちを醜悪化し戯画化することも無意味である。・・・その一人一人が、その時点でなにがゆえにある思想・主義を絶対と考え、それに基づく行動を正しいとしたか。それを徹底的に究明せずに、ただ『一握りの軍国主義者』で片づけ、『オレは彼らを声高に非難している。従ってオレは彼らとは関係がない純正潔白な人間だ』という態度をしてそれですべてを終わりにすれば、かえって何もかも隠蔽してしまうではないか。・・・私が問題にしているのはそうなって行くことの底にある精神構造」だ。  ここに、山本七平の、「昭和」を見る独自の視点が表明されています。
 山本七平は、その根本原因を、その時代の多くの人が最善と考えた思想そのものの中に求めようとしたのです。
 確かに、「軍部ファシズム」というべきものの担い手はいたわけですが、山本七平はそれを、司馬遼太郎のように日本史の「異体」とは見ず、日本の伝統思想に根ざすものと見ていたのです。
 そして、この問題を克服するためには、それを「一部の軍国主義者」のせいにして自己正当化するようなことはせず、自らの思想の問題としてそれを対象化し、その弱点を克服すべし、としたのです。
青年将校の「矜りたかぶり」と「あなどり傲り」
『現代の処世』P43
まったく戦前の青年将校の「矜(ほこ)りたかぶり」と「あなどり傲り」は正気の沙汰とは思えないほどだった。彼らは中国も米英もあなどり切っていたが、事態を正確に見、正しく自己評価のできる真の勇気は持っていなかった。日露戦争をかろうじて切り抜けたことを、世界一の陸軍国への大勝利と錯覚したこともその一因であろうが、現実にこれを戦った明治の将帥は、日本軍が弱兵である事をはっきり知っていた。当時の満州の荒野では騎兵は重要な戦力であったが、日本の騎兵の父といわれる秋山好古は、馬格の点でも馬術の点でも、日本の騎兵は到底、有名なコサック騎兵の敵ではないことをよく知っていた。彼らは日本軍が「無敵皇軍」だなどという錯覚は全然抱いていなかった。そこでその弱点を何とか補おうとあらゆる努力をしたが、「智功何ゾ恃ムニ足ランヤ」ということも知っていた。彼らは何の妄想も抱かず「妄心」などはまったくなく、自らの弱さを自覚する勇気をもっていた。そこで常に、成功しなかった場合のことを考え、もしうまくいったら、なんとかそこで切り上げることに腐心しつづけていた。(中略)
 無謀にも中国に侵攻した日本軍は、ちょうど雄牛が垣根に突進して角が引っかかったような状態で、進むことも退くこともできない。これが太平洋戦争の遠因だが、雄牛に自らの角を折る覚悟があればその状態から脱しうるのと同じように、軍部が己の非と失敗を自ら認め、「己を罪して天下に謝すという心の勇気を持ちうれば不可能ではなかった。軍の内部でも冷静な「無条件撤兵論」があったことはあったのである。当時の中国は海軍が皆無であったから、日本側が一方的に撤兵してしまえばそれで終わる。それをしないで無目的の作戦をだらだら八年もつづけていたことは、垣根に角がひっかかった雄牛が、何とかしようともがいているようなもの、結局、心の勇気なき「矜高倨傲」のためそれができなかった。結局、個人であれ集団であれ国家であれ、自らの「矜りたかぶり」と「あなどり傲り」によって滅びるのである。だがそれは軍事であれ経済であれ同じである。こういうときには、無条件撤兵ずなわち謙虚に出発点にもどればよい。
 ここにいう青年将校とは、陸軍士官学校16期生以降の将校達のことを指します。実は彼らは陸士15期までの将校達とは、日露戦争を経験しているか否かで、世代を異にしていました。つまり、後者がいわば戦中派であるのに対して、前者は、そうした戦場における実戦経験を持たない戦後派に属していたのです。
 このことが、この戦後派である将校達の満州に対する思い入れを特別なものにしました。つまり満州は日露戦争で日本軍将兵が血を流して得たものであり、それを後輩としては手放すわけにはいかないという意識です。
 それと同時に、戦中派の将校達は、そのほとんどが日露戦争において赫赫たる戦功をあげ、個人感状や金鵄勲章をうけていましたが、戦後派はそうした機会を逸していました。つまり、そうした戦功への激しい渇望が、満州領有の思い入れと相まって満州事変を起こす大きな心理的原因となったとされます。
 
ヤンキー・ゴーホーム
『現代の処世』P105~106
 みな栄養失調で生気のない顔をし、とぼとぼと歩いている。その中を栄養満点のアメリカ兵がジープをとばしていく。日本が彼らのような生活水準になることは、もはや、私の生存中にはあるまいと思った。いわば彼らのように「万事がそろった幸福者」になろうと思ってもそれは無理だと覚った。進駐軍に勤めている友人と「そりゃ、無理だよな。なにしろ国上はカリフォルニア一州に及ばず、資源はゼロに等しく、恐るべき人口過剰で苦しんでいるわけだからな」などと話し合ったのもそのころである。そう覚悟がきまれば「レイコウもコウリョウより巧し(粗末な食べ物でも贅沢な食べ物よりおいしい)」として、心豊かに生きているほうがいい。そうなれば「編民(身分の低い庶民)」もアメリカ人に「譲ラズ」であろう。
 また私は進駐軍に勤めている友人から、彼らが大変な競争社会で「得ルコトヲ貪ル者」で、「足ルコトヲ知ル者」でないことも知った。その心情は結局「乞カイ二甘ンズ(賤しい心に甘んじる)」であろう。そういえば日本軍の中も昇進競争だったな。ただ戦地では昇進しても責任が重くなるだけで物質的には豊かになるわけではない。これが、昇進と物質的豊かさが合併すると、そりゃ、競争は大変で、上へ上へと望めば際限がなくなる。こんな状態より、ボロ家の中でかゆをすすっても、白分のやりたいことを、精神的余裕をもってやっていたほうがましだと思った。
 それと同時にアメリカは、今でこそ世界を圧する国力と豊富な物資でチヤホヤされているが、いずれ「ヤンキー・ゴーホーム」の声が起こるであろうなと思った。というのは、彼らが悪意をもつ悪辣な対象だったからではない。否、むしろ善意に満ちあふれていたのだが、彼らはアメリカ民主主義を絶対と信じていたから「己ノ情理ハ順ナル有リ、順ナラザル有リ(自分の情理にも道理に合うものと合わないものがある)」を知らず、そこで「どうして他人をして自己の道理に従わせることができるであろうか」という疑問さえもつことができなかったからである。このかつての植民地の成功者の子孫は「相観対治セバ(自他のことを相対的に観察すれば)」それが自らに資する修養になるという発想をもちえなかった。
 だが他人のことをとやかくいう資格はないな、戦勝におごった目本軍だってそうだったのだ。占領地の文化から学ぶべきものを学び「自他のことを相対的に観察する」ことなどまったくせず、まことに一方的に日本式を押しつけていた。だが、戦後も四十年たち、飽食の時代ともなるとこれらのことを忘れてしまった人も多い。こういう状態を経験していない者がほとんどになってきた。さらにそういう人が親になる。受験競争などは結局、「得ルコトヲ貪ル者」の一形態、また「戦後民主主義」の尺度で世界中の国々を批判する論説などは、「相観対治セバ」ができない状態に陥ったことを示しているであろう。
 終戦後の日本占領期に、アメリカは、善意に満ちた態度で、日本人に自分たちの道理を押しつけようとしました。そうしたアメリカの態度が、かえって相手の反発を招くことになるのだ、という指摘は、あるいは現代にもいえることなのかも知れません。
 また、彼らの「得ることを貪る」のみで「足ることを知」らない生き方は、環境問題が深刻になりつつある今日、一つの反省期にさしかかっているといえるのかも知れません。
 だが、ここで一番問題なのは、アメリカのことより、やはり日本人自身のことではないでしょうか。日本人はかって「植民地の成功者」である西欧諸国のまねをしたとき、「相観対治セバ(自他のことを相対的に観察すれば)」ということが全くできず、東南アジアの被占領国における住民の激しい反発を招きました。
 確かに、当時の日本人は、アジアの人びとをヨーロッパの植民地主義者の手から開放するために戦っているのだという、いわゆる解放者としての善意をもっていたことは間違いないのですが・・・。
近代天皇制の基本的矛盾
『存亡の条件』p104~106
 いうまでもなく、近代天皇制の成立そのものには、前記の諸事件に見られるような、西欧の近代化とそれに基づく諸思想の影響は見られず、もちろん西欧古典思想とその成果にも関係なく、朱子学の正統思想の日本的変形を基盤としている。確かに幕藩体制(これは厳密な意味ですでに封建制度とはいえない)は崩壊期に入っており、また、急激な改革期はいずれの形態をとるにせよ、一種の強力な集中的権力を要請するとはいえ、それらはそれだけの理由では近代天皇制へと移行した必然性を説明し得ない。西欧的な過程をそのままたどるなら、むしろ、将軍に権力が集中していき、諸侯が一種の上院を構成する文字通りの幕府藩閥政体となっても不思議でなかった。
 幕府の動きは一応この方向に向かっている。一方、当時の朝廷それ自体には、統治能力も行政能力もなく、もちろん軍事力もなかった。従ってこの時期に、幕府でも薩長でもなく、「天皇」を政治的権力の中枢に置いたものは尊皇思想であって、それ以外にその理由を求めることはできない。そしてこの尊皇思想は民衆にまで浸透し、その運動には民衆まで参加している。従って、それによって成立した国家は、たとえ政策はどう変更しようと(一例にすぎないが、攘夷から開港に一転しようと)そのイデオロギー的基盤を前記の思想に求めざるを得ず、その思想を一つの実践要綱として要約したものが『教育勅語』であろう。これが「外装的」明治憲法と併行する、否、明治憲法以上の力をもつ強力な規範、「思考の枠組と政権の基礎」をなす「先祖の律法」の集約化であったことは否定できない。何しろ明治維新という革命を実行し得た指導原理だから。
 では『教育勅語』とは何なのか、これについて、台湾人林景明氏から面白い話を聞いた。氏の父君は小学校の教頭(校長は必ず日本人で、教頭にいわば台湾人の最高位。ただし校長は転任するので実質的には校長であったという)で、いわゆる皇民化教育を率先して行った人であった。日本人から見れば、まことに頼もしくかつ信頼できる現地の協力者だったわけである。氏は朝に夕に『教育勅語』を奉読していたが、常に家族を「日本人でさえ、これだけのことを言えるようになったんだぞ」という形で訓戒していたという。
 中国人の目から見れば、『教育勅語』は儒教を基本とする一つの道徳律である。そして日本人はかって、「東夷」であり「化外の民」であった。その化外の民、いわば蛮族にもやっと中国の教化が及び、そこの皇帝か、このようなりっぱな勅語を出せるまでに進化した。彼らですら、これだけのことを言っている。まして、われわれにおいておや。中国人であるわれわれが、自分の伝統の履行において、彼ら(日本人)に劣ってよいであろうか。みな朝夕これを読んで、自戒するように―ということであったという。
 『教育勅語』・・・この語は「儒教的規範、特にその中の家という思想とそれに基づく体制」の意味である。だが、それならばこの「家」および「家の思想」からの個人の解放」は、明治末期から常に文学の主題であった。したがって「戦後の特徴」とはいえない。「家がなくなったら、(戦前の)日本文学の主題はなくなってしまう」と佐古純一郎氏がいわれたが、問題は「家そのもの」よりも、これに象徴される儒教的社会規範とその奥にある尊皇思想との抗争と、それからの脱却だったはずである。ただ政府ほぼ一貫してこの問題に目をつぷる以外になかった。というのはここに、明治政府のもつ基本的矛盾があったからである。昭和になっても『教育勅語』が存在するから「わか国には思想問題け存在しません」という珍答弁を政府が議会で行い、この問題は徹底的に避けていた。
 なぜそうなったか。権力の基盤を儒教的イデオロギーの絶対化に置く。そしてこれによって確立した絶対的権力によって、西欧化を極力能率的に推進する、この矛盾した行き方が明治の基本的態度だったからである。明治はその正(プラス)の面が最も効率的に発揮きれた時期、一方昭和前期はその内包する矛盾かあらゆる面で負(マイナス)へと噴出した時期、大正が一種の短い両者の平衡的時期といえるであろう。そしてこの矛盾は、象徴的に見るならば、「教育勅語=儒教的イデオロギー」と「明治憲法=西欧的制限君主制」という、相いれないものを共に絶対化して併存させていたという点に現れている。
 明治維新の性格をめぐっては、1927年からほぼ10年間にわたって、日本のマルクス主義学者の間で、講座派と労農派に分かれてくりひろげられた、いわゆる日本資本主義論争があります。前者はそれを絶対王政の成立であるとし、後者はブルジョア革命であるとしました。
 しかし、ここで述べられている明治維新の姿はそれらとは全く様相を異にします。それは、西欧の近代思想とは関係なく、朱子学の正統思想の日本的変形を基盤とする、いわゆる当時民衆にまで浸透した「尊皇思想イデオロギー」がもたらしたものだ、というのです。
 そして、その思想をj実践要項として要約したものが『教育勅語』であり、さらに、それが単なる「家」内の道徳規範を述べるにとどまらず、天皇を宗主とする国体思想(=家族的国家観)を説くものであったために、明治22年に発布された明治憲法下の「立憲君主」という天皇の位置づけと矛盾を来すことになりました。
 つまり、よくいわれる和魂洋才という言葉が、日本の伝統的な道徳思想と西欧の近代的法制度との予定調和を意味としているとするなら、この『教育勅語』の国体論と、明治憲法下の「立憲君主制」は、体制思想としては決して両立し得ない対立点を内包していたのです。
 確かに、明治時代までは近代化という共通目標に向かって双方は互いに排斥し合うことなく共存することができました。しかし、昭和になると、恐慌等を境に「近代」に対する懐疑が生まれ、代わって国家社会主義的思想が風靡するようになりました。
 そのため、そうした思潮をすくい取ることとなった『教育勅語』の国体思想、そこにおける天皇親政という位置づけと、立憲君主制下の制限君主としての位置づけの矛盾が自覚されるようになり、これが「天皇機関説問題」として爆発した、と山本七平は見ているのです。
 
青年将校の被害者意識と殉教者自己同定
『存亡の条件』p120~135
 (人間が人間である以上、またそれが社会を構成する以上、共に合理・非合理の両面をもつのが当然であろう。そして前述のように社会は常に合理性を要請する。そこで儒教は非合理性を自己に還元して、これを内心の問題として解決することによって、合理的に社会を構成し運営しようとした。その基本は「修身・斉家・治国・平天下」であった。ただ、社会的矛盾が内心で解決できない場合は、社会へと逆に爆発することになった。
 一方、西欧は、非合理的な面を社会の一部に組織化し、いわば非合理性に社会的枠をはめて、その外で社会の合理的処理を行おうとする。いわば国家と教会の相互不干渉(信教の自由)、宗教的・民族的・国民的伝統と現実政治との実質的分断という形で合理性を実現しようとした。そして、その場合の非合理性の処理は、伝統的な「殉教者自己同定による自己または特定集団の絶対化」であり、その最大の象徴が十字架と殉教者像への礼拝に象徴される。
 日本では明治維新以降の西欧化の過程で、前者の儒教文化と後者の西欧文化の混交が起こり、儒教的非合理性=社会的矛盾が内心で解決できない場合の社会への爆発と、西欧的非合理性=「殉教者自己同定と自己または特定集団の絶対化」という二つの非合理性が重なることになった。=筆者要約)

 (ところでこの)「殉教者自己同定による絶対権の獲得」には三つの前提がいる。①殉教者の存在、②被害者(殉教者の側に立つゆえの)という自己規定、③”見えざる牢獄論”―その獄卒=加害者の責任追及である。そして昭和初期の右翼=青年将校は、この三つをことごとくもっていた。・・・
 まず、②からはじめよう。”軍は加害者”は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。しかし私が入隊した昭和十七年、いわば”勝った勝った”の絶頂期ですら、彼らは被害者意識の固まりであった。まず、前に述べた軍縮による四個師団廃止である。彼らはこれを外圧と受けとっていた。事実、円切上げのときと同じように、当時は政府もマスコミもこれを外圧としているから、そう受けとった責任は、必ずしも彼らにはない。
 現実問題としては、軍縮は軍人への”首切り”師団駐留地の”基地経済の崩壊”を意味するから、現在における「国鉄の人員整理」よりはるかに難問であったろう。幕末以来、こういう問題はすべて外圧として処理され、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」という「内心の解決」にその最終的解決を求めたのは、伝統的に今も通用する当然の処置といわなければならない。
 だがこれは「堕落政治家と軟弱外交のため、戦わずして四個師団が殲滅された。」 そのため軍は不当な犠牲を常に強いられてきた、という強烈な被害者意識となり、昭和十七年当時ですら、いわば一種の「軍隊内常識」であった。従って彼らは、すべての責任をこの点に転嫁し、日華事変でもノモンハン事件でも、その失態はすべて「政治家が悪い」のであって、軍の責任ではない、という自己正当化に生きてきた。同時にこれは国軍を統率する天皇が”股肱”を失ったことであり、従って、天皇こそ最大の被害者と規定された。彼らは自らを被害者とし、かつ被害者=天皇の側に立ったわけである。
 次に①と③だが、まず維新の志士を殉教者に見立て、これと自己を同定化するとともに「皇室=見えざる牢獄論」いわば「天皇囚人論」をとり、同時に全日本人が”見えざる牢獄”にあると規定した。この間の彼らの考え方が最も的確に表れているのが、二・二六事件の将校の言動である。もちろん彼らには、教育勅語的”口伝”以外には明確な政治思想は何一つなく、また政権を自ら奪取する考えも、具体的な将来への構想もない。否、それどころか、政治に関与する者、また政党に属する者ないしは政権獲得をめざす者を、徹底的に蔑視していた。
(中略)
 彼らの殉教者=維新の志士への自己同定は、自らの行為を昭和維新と称し、部隊を離れて横に連結することを「脱藩」と称したことにも表れている。しかし、維新はすでに終わり、どこにも安政の大獄はないから、彼らがいかに尊皇を叫んで殉教者自己同定を行おうと、「死刑執行人の目が光る」はずはない。そこで「喜劇役者であることを認める」ことを拒否するなら、尊皇思想か弾圧された幕末に生きていると信じなければならない。
 確かに維新以前には、朱子学的思想からすれば、天皇は京都の「見えざる牢獄」におり、これを″解放″して政権の座にすえることか彼らの目的であったろう。だが、昭和の時点では、天皇は立憲君主制の統治者であり、牢獄にいるわけではない。否、それだけでなく、彼らの指揮官である。しかしそう規定したのでは、彼らは喜劇役者になり、殉教者自己同定はなり立たない。したがって、お定まりの通り昭和の天皇も同様に牢獄にあり、そのため、全日本人が牢獄にあると規定せざるを得ない。
 このことは、二・二六事件の実質的な主謀者磯部浅一の遺書にはっきりと表れている。彼は、天皇が”牢獄”の中にいながら、愚かにもそれに気づかない。おそらく、天皇の周囲の獄卒たちを殺して「その返り血をあびなければ」自らが牢獄の中にあることを自覚できないであろう、といっている。そして天皇さえ牢獄にいるのだから、全日本人は牢獄の中にいる。軍はその最大の被害者である。だが民衆は愚かにもその牢獄を自覚しない―これが、彼らの愛唱歌『昭和維新の歌』の一節「盲(めしい)たる民、世におどる」の意味である。
 この「民衆は盲目である、従って彼らを覚醒させなければならない」という奇妙な使命感は、青年将校のほぼ全員がもっていた。それはしばしば入営者を見送る家族への激烈な演説になって表れている。だがその内容は、新左翼の演説同様、聞く者には一向に通じないのが通常であった。この例は、二・二六事件の直前にもある。
 だが以上の彼らの規定に一つの根拠があったことは否定できない。それはもう説明の必要がないであろう。彼らの被統治意識が逆にたどった忠誠の対象である天皇は、伝統的儒教的尊皇思想の”口伝”(=『教育勅語』)に基づき、それが西欧の非合理性「殉教者自己同定」との結びつきにおいて規定されている対象であっても、西欧的合理的産物、美濃部機関説の「国家法人」の総攬者としての天皇ではなかった。彼らは、このように規定された天皇に対しては、被統治意識をもっていなかった。従って彼らの被統治意識からすれば、立憲君主制は天皇への一つの”牢獄”と規定しうる。
 従って明治憲法に基づくその権限を行使しているものは、すべて”獄卒”となるであろう。これが二・二六事件の標語が「尊皇討奸」であり、君側の奸すなわち”獄卒”を排除して、”見えざる牢獄”から天皇を救出するという発想が出てくるわけである。従って、その基本にあるものはやはり、最初述べた出発点の矛盾である。
 そしてここに、尊皇思想に基づく天皇の絶対化によって強力に西欧化を推し進め「制限君主国」となった近代目本の内包する矛盾が、その西欧化に基づく西欧の非合理性の援用による”非合理性の攻撃”を受け、それへの対抗手段が見つからぬままに瓦解した理由がある。

 これは、「昭和の悲劇」をもたらした昭和初期の右翼=青年将校たちの思想と行動を、宗教社会学的見地からみごとに解明したものです。この見地によれば、彼ら青年将校たちは決して「狂人」
だったわけではなく、その思想と行動の根底には、当時の政党政治に対する強烈な被害者意識があり、それが、彼らに「殉教者自己同定による自己絶対化」を引き起こし、軍事力を背景とした政権奪取へと駆り立てていった、ということわかります。
 この場合、彼らのこうした行動を正当化したものが、明治以降『教育勅語』という形で口伝化し、当時の国民に膾炙した尊皇思想でした。つまり、青年将校達は、この思想の持つ天皇親政的統治イメージの中で、自らを天皇に直結させることによって、明治憲法下の立憲君主制のタガ(=法秩序)を外そうとしたのです。天皇機関説排撃はこのようにして起こりました。
 では、なぜこのような非合理的なエネルギーの爆発を当時の日本人は巧くコントロールできなかったのでしょうか。それは、前項で紹介したように、明治維新をもたらした尊皇思想と、近代化の過程で導入した立憲君主制を支える思想との矛盾対立関係に無自覚であったということです。つまり、その矛盾を思想的あるいは制度的に調整できなかったのです。そのため、国民の被統治意識が、明治憲法下の立憲君主制下の天皇にではなく、『教育勅語』の天皇親政下の天皇におかれることになったのです。
 もちろん、こうした尊皇思想の影響は、青年将校グループの中では「皇道派」に顕著でしたが、2・26事件以降、彼らは壊滅し、それに代わって「統制派」といわれるグループが軍の主導権を握ることになりました。その彼らの信奉した思想が、日独伊三国同盟でもわかるように国家社会主義思想でした。では尊皇思想はどうなったかというと、それは、天皇を頂点とする、それも「現人神」として神格化された天皇が統べるところの超国家主義的「国体」として観念されました。こうして2.26事件の以降、軍部大臣現役武官制が復活し、さらに一国一党的な大政翼賛会組織が作られ、次第に超国家主義的軍部独裁国家へと変貌していったのです。
 こうした歴史的経緯から、天皇制のその超国家主義的側面が危険性視されることになるのですが、しかし、明治憲法下における天皇の位置づけは、あくまで立憲君主制下の制限君主だったのです。(その根拠は、憲法第55条に各国務大臣の輔弼責任とすべての法令詔勅は国務大臣の副署を必要とすると規定されていること、及び同第64条に国家の歳入歳出は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経るべしとなっていたことです。)そして特に昭和天皇の場合は、その「君臨すれども統治せず」という「制限君主」としの自己規定が明確で、その意味では現在の象徴天皇制と変わりありません。
 では、ここにおける問題は何か。それは、国民の被統治意識の合理的側面と非合理的側面が故意に混同された結果、後者が前者を破壊した、ということではないかと思います。はたしてこの問題、私たちは克服しているのでしょうか。
昭和天皇に対する無謬性の寄託
『存亡の条件』p161~163
  *前項に続く(このような社会の合理的側面と非合理的側面がどうして生じるのか、ということだが、それは一個の人間における無謬性と可謬性という問題に帰着する。そして、もし人が自分は「無謬=正しい」と信じ、さらに社会の全員がそう考えるようになると、「私は正しい、社会は悪い」となり、社会的統合は失われることになる。それが、プロテスタント病といわれるもので、言論の自由が保障される民主主義社会が内包する症状の一つである。日本の大正デモクラシーの時代は、こうした症状に陥ったため、その時代に対して被害者意識をもつ軍部から、「自由主義」(=政党政治)排撃の名のもとに攻撃された。さらに彼らは、自らの無謬性を天皇に寄託することで無謬集団と化し、「自分たちは正しい、社会は間違っている、天皇は正しい」から、さらに「日本は正しい、世界は間違っている、天皇は正しい」と、その無謬性を世界的に拡大・膨張させた。この場合その無謬性の寄託対象たる天皇は「無意志」とされた(2.26事件でその虚構性が明らかになった。また、政権奪取によって自己集団の無謬性を体制化した統制派も米英との戦争によってその無謬性は頓挫した)。では、このような自滅に至るまでの自己無謬の悪循環を克服する方法はあるのか、ということだが、それは、「物事を対立概念で捉えた時はじめて全体を把握できる」という認識方法を身につけることだ。つまり、「善人も、悪人も実在しない。一人格の中に善人と悪人がいる」という考え方で、その個人の中における善人と悪人の比率が多数決となって現れ、それが議会制度へと発展したのである。日本人の場合は、このように対立概念で物事を把握するという伝統はなく、むしろ対立なき「一枚岩的」な対象に対して感情移入し、それを臨在感的に把握し絶対化するという傾向が強い。そのため、逆にその感情移入した対象から支配されてしまうことになる。また、このような臨在感的な対象把握の方法は、空間的になされるだけでなく、歴史的にもなされ、常に自分が生きてる今の時代を正当化し、過去の時代を間違っているとして消してしまう。こうした生き方は、その時代の前提となるものが変わらない間は確かに効果を発揮するが、その前提がなくなり、自らの発想で次の時代を創っていかなければならなくなった時は、過去の前提にしがみつくか、自己の非合理性に訴えるしかなくなってしまう。そこで、今日まず必要なことは、自己の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということを、他との対比の上に再確認・再把握することである。そのことによって、自分が生きていく基準をつかむことができる。)

(以上の文脈において、戦前の天皇が「無謬性寄託」の対象となったことについて、その問題点を次のように指摘しています。)

 この点、戦前の天皇制には実に面白い面かある。それは天皇は偶像であり、当然のことだがそれは仏像の如くに感情移入の対象であり、従って、天皇が自分の意志で判断を下して何かするであろうなどとは、だれも信じていなかったことである。それは、仏像がそうすることはあり得ない如く、絶対にあり得ないことであった。従って無謬性寄託の対象であり得たわけである。天皇を対立概念で把握するなどということはだれも考えなかった。否、今でも天皇を対立概念で把握するとは、具体的にどういう状態なのか理解しえない人もいるであろう。いうまでもなく、その対立は、天皇制下に、数として表れる一言でいえば「陛下の野党」ができるのが当然、そうならなければ、天皇という対象を把握していない証拠だとする考え方だが、そういう考え方は到底起こりえない。
 前に記した二・二六事件のときの、大変に興味深い軍隊内エピソードには、当時の陸軍には、天皇が自分の決断、自分の意志で、自ら行動を起こすだろうと思った人間は一人もいなかったというのがある。それは、仏像にそういうことかあり得ない如くに、あり得ないことであった。従って、天皇が自ら意志表示をしたと知ったとき、彼らが何よりも驚いたのはこのことであった。これは考えてみれば当然であって、感情移入に基づく臨在感的把握は、人間をも、偶像という物質同様、自らの意志をもたずに感情移入の対象になってくれると、信じ込んでしまうわけである。これがいわば、現人神の意味内容であろう。さらに興味深いのは、以後陸軍は、表面的にはともかく、その内心では絶対に天皇を信じなかったという。これも当然であって、仏像が勝手に歩き出しては、人はこれを、信仰の対象とするわけにはいかないからである。従って、天皇とて、自らの意志で行動しうる対象であると気づいたときには、もう、絶対的信仰の対象にはならなくなってしまうのである。
 臨在感的把握とは、常にこの形にならざるを得ない。これは常に同じことであって、たとえば毛沢東でも一時のアメリカでも、これを偶像化して感情を移入し、臨在感的に把握していたところが相手が一方的に自分の意志で動き出すと、急に、みなが不信感を抱き出す。いわば対者との 「平和」が崩れてしまうのである。従ってこの世界には「平和=契約」などという関係はもとよりあり得ない。何回も述べるように契約とは「対者と自己」を自己の中に対立概念として把握している平和であり、一方、臨在感的把握は、対者に自己を没入さぜた「神人合一的」な平和だからである。そしてこの際は自己も「無」であることが要請される。
 そしてわれわれは、対者の意志によって、その臨在感的把握が崩壊したときに、これを自らの内心の問題として心理的に処理し、その処理した結果に基づいて再び対者を臨在感的に把握しなおすという、一種の、断続的関係で対者を把握している。
 左の( )内の文章は、『存亡の条件』p134~183の内容の要約です。本文は、前項の「青年将校の被害者意識と殉教者自己同定」の文章に引き続いて、そうした「殉教者自己同定」の根ざす社会の非合理性が、より根源的にはどこから生じるのかを解説したものです。しかし、少々長すぎてわかりづらいですので、全体の意味をつかみやすくするよう要約文を付しました。
 ところで、ここにいう「プロテスタント病」についてですが、プロテスタントの立場から言えば、これは「自己義人」=「自分は正しい」ということではなくて、「信仰義認」=「人は生まれながらにして罪人」であり「人が義とされるのは、これらの言葉への信仰のみにある」という意味なのだそうです。
 ただ山本七平は、「こうした主張により「自己義認」の連鎖が打ち破られるのは、それがカトリックとの緊張関係にある場合に限られる。・・・しかし、プロテスタントがその緊張関係を失いやすい環境におかれた場合、いわばそれのみで社会の主流となったアメリカのような場合は、当然にプロテスタント病的症状は強くなる。・・・しかしこれが、「緊張関係」という伝統から全く切り離されて、東アジアの儒教圏に来た場合はどうなるか。日本・南朝鮮またかっての南ベトナムなどは、その実験場のようになってしまう」といっています。
 昭和15年戦争における陸軍幼年学校や海軍兵学校出身のエリート軍人=青年将校たちの、すさまじいまでの「自己絶対化」の心理状況は、今日の私たちにはほとんど理解不能で、「気でも狂っていたか」と思うほかないのですが、山本七平のこの宗教社会学的な説明は、これを見事に解明しているように思います。
 問題は、こうしたプロテスタント病は民主主義社会にはつきものだということです。戦前の日本は、大正デモクラシーの時代にこうした状態に陥り、これが国民の政党政治に対する幻滅をもたらし、これが、軍部の「一枚岩」的な行動力への期待に変わっていったのです。
 ではこうした問題点からどうすれば脱却できるか、山本七平は、この問題を個人の「自己義認」からの脱却ととらえているのです。
 
 
 
「派閥」と「法と権利の世界」
『派閥』p232~236
 「板垣死すとも自由は死せず」と彼はいった。しかし皮肉なことに現実は前述のように「板垣去るとも派閥は死せず」であった。星亨が暗殺され、政党出身の総理が次々に殺されても派閥は消えなかった。そしてそれに代わって登場した「純粋」な青年将校で構成されているはずの軍部もまた「派閥争い」の世界であった。これは「軍閥史」という別の主題になるが「長州閥」「反長州閥」の争いは、少々ものすごい。ある時期、長州出身だというだけで陸大に入学させなかったほどである。さらに皇道派と統制派の争いは、まるで時計の針を逆もどりさせ、水戸の功利派と因循派の争いを思わせるようになる。前述の万朝報の主張が実現し、「拝金宗の国民ならずして武士道の国民なり、外交的国民ならずして、戦闘的国民なり、ハイカラ的国民ならずして、蛮骨的国民ならざる可からず、後進青年一に之を以て心とせずんば、他日第二の星亨の紐を結ぶの恥あらん」を文字通り「心とする蛮骨的人間や集団」が現れても、実態はさらに悪化し、ついに日本を破滅に追い込んだだけであった。

 (ではどうすれば、この問題の合理的な解決法が見つかるか。)派閥解消をスローガンにしたとて、新聞が派閥を糾弾し断罪したとて、それは問題解決にはならない。軍部が登場し、政党を解消して大政翼賛会をつくったところで、何の解決も招来しなかったのだから。そこでまず老子の前提を確認することだが、老子は解決不能といっているわけではない。問題はまず「紛を解き」それがどのような「条理」のもとに機能しているかを把握することである。解決の模索はそこからはじまる。

 (その答えの一つは)京極純一教授の次の言葉である。「『事実の世界』と区別して『司法と権利の世界』を構成する技術は、『西洋』に始まる制度である。そこでは、事実の世界でおきる人間の接触交際の要点に、法と権利の世界の効果が対応する。そして事実上の『政治』には、国家機関ないし政府、諸官庁などの法令上の政治制度、また、政党などこれに準ずる政治制度がこれに対応する・・・」と。これは「『西洋』に始まる制度」であり、日本はこれを輸入したが「虎を描いて猫となる」結果となった。理由は西洋では「事実の世界」も「法と権利の世界」も共通の社会的・文化的基盤から出ている。だが日本はそうではなく、足利時代、否おそらくそれ以前から連綿と続く「事実の世界」があり、それはそれなりの「情理の整った一つの複雑さ」をもって運営されてきた。そして「事実の世界」はいずれの国でも完全な合理性を持つものではない。それを一応認めつつ、この「事実の世界」を基にして、それとは別に一定の合理性をもつ「法と権利の世界」を構成すること、そしてこの「法と権利」の世界が、人間の接触交際の要点に対応しつつ、法が歯止めとなり、それによって一定の合理性をもって事実の世界を検証し、制御していくこと、同時にそれが統合の原理となること。要請されるのはこの点だが、残念ながら明治以降、日本の政治はこの点においては成功していない。(中略)
 

 
 「派閥」とはなにか。その淵源は足利時代南北朝期の武家政権が混乱した時代、地方小領主が所領安堵のため「一揆」という一種の集団安全保障体制が作られたことに由来します。
 その組織の特徴は、一揆内のメンバーは基本的に平等で、そのリーダーは、その一揆集団の所領安堵=共同利益を守るために能力主義で選び、問題が生じた場合はまず一揆内で談合し総意を持って意志決定する、というものでした。
 この一揆がブドウの房のように根茎=人脈によってつながったものが戦国時代の分国大名の組織であり、その大名間の争いを凍結し、将軍=公方の監視下においたのが江戸幕府でした。
 実はこの一揆組織が日本における基本的な組織形態で、これが明治には薩長の藩閥となり、大正時代には利権脈を根茎とする派閥となり、昭和時代には士官学校などの人脈を根茎とする軍閥となるのです。
 問題は、こうした日本の伝統的な一揆=閥組織が、明治期に西欧から樹木型=ピラミッド型組織が輸入されそれがモデルとなったために社会の裏組織となったことです。このため、この両組織間に葛藤が生じヘゲモニー争いが生じるようになりました。

民主制とは、法を創出し制度を作る体制
『派閥』p235~237
 明治から現在に至るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にある。有泉氏の言葉の一部をもう一度引用すれば明治は「統一的な国家意志は、制度上、各機関を満している藩閥という非制度的人脈集団を媒介としてはじめて形成される仕組になっていた」。これが藩閥が派閥に変っても変らず、派閥を中心にした根茎的人脈集団を媒介として統合がなされているのが現状である。・・・そしてこれが、「統合は、法的には無権限な派閥のボスの刑事被告人が行う」という異常な状態を現出するに至って極限に達した。

 ではその問題の基本はどこにあるのか。明治には統合は不答責の天皇が行うという名目で実質的には人脈集団を握る藩閥のボスが握り、戦後は首相がこれを行うとされながら、その手足たるべき内閣官僚は存在せず、補佐官は閉鎖共同体である各省からの、大臣は派閥からの、益荒男派出夫であって、統合機関としての実体をもたなかった。ここに、最大派閥の長が「自分は馬主で首相はジョッキーだ」と豪語し得る原因があった。派閥に問題があるよりむしろ、派閥の長が統合の権限を持つという明治以来の制度の欠陥に問題があるであろう。克服さるべきものは、まずこの欠陥である。
 
 前に『一九九〇年の日本』で、二十一世紀を迎えるまでにわれわれがなすべき最も大きな問題は「制度の見直しと改革」であると述べた。戦後に大きな改革があったように見えながら、その制度の実態は、前述のように明治以降、変っていない一面がある。というより本質は変っていないといえる。われわれは伝統的に「制度」に手をつけることを嫌う。これは儒教的な伝統だと私は理解しているが、少なくとも民主制とは、法を創出して制度をつくり得る体制のはずである。だがこの民主制の伝統は日本になかなか根づかず、制度問題は棚上げされ、現行の制度の中で何とか改良するか糊塗しようとし、国民もそれを不思議としない。ロッキード事件が起れば、制度よりも政治倫埋となり、教育が問題になれば抜本的な制度の見直しより、文部省が家庭教育にまで口を出すという結果になる。制度をそのままにして倫理やお説教で問題を解決しようというのもまた儒教的伝統であろうが、その本家である中国が、制度の改変によってどのように大きな変化を招来しているかは、今さら云々する必要はあるまい。妙な言い方だが、この点では日本が遅れをとっている。

 もっとも時代は少しずつ変化し、制度を変えねば改革はあり得ないこと、同時に制度とは、変える意志があれば変え得るという発想は、徐々にだが国民に浸透している。電電や専売の民営化、国鉄の分割案、さらに健保への私企業の参入計画等、過去には考えられなかったことが八○年代に入って徐々に出て来たのは、制度の改革ないしは見直しが基本であることが理解されて来たからであろう。国鉄をそのままにしておいていかに「親方目の丸でなく私企業的なマインドをもて」とお説教をしてもそれは無理な話であり、義務教育を国家独占に等しい戦時中の国民学校のままにして「教育の荒廃」を文部省のお説教で何とかしようとしても、それははじめから無理である。このことは、政治についてもいえる。否、政治にこそそれが最も強く主張されねばならない。民主制とは「法と権利の世界」が「事実の世界」に正確に対応せねばならぬ政治制度のはずである。ところが、それがそうなっていないことを明らかにしたのが「ロッキード裁判」で、首相でも何でもない一刑事被告人が統合の中枢にあるということ、この裁判から引き出すべき最も重要な問題点はここにあると私は考えている。その改革の根本であるべき政治制度の見直し・・・はまだはじまっていない。だが、派閥の領袖たちでなく、内閣という統合の中枢機関が、真にその機能をもってはじめて、「責任内閣制」という制度が「法と権利の世界」に正しく対応するはずで、それを現実化し得る制度が確立すれば、明治以来最大の改革となるであろう。これを主張し、制度の内容を提示することが、新しく要請される「正論の政治」であろう。(中略)
 以上の制度の改革や意識の変化が実現しても派閥は残るであろうが、その性格は著しく変わったものとなるであろう。
 明治の「大日本帝国憲法」は天皇親政の建前(実際は「凡て法律勅令その他国務に関する詔勅は国務大臣の副署を要す」となっていて、天皇は不答責とされた)のため内閣に関する規定がなく、首相も、他の国務大臣と同様に天皇を輔弼するものとされていました。ただ「内閣官制」第二条「総理大臣は各大臣の首班として機務を奉宣し」により国務大臣の首班としての地位が規定されていました。
 また、その任命は天皇より「組閣の大命降下」を受けた人が総理大臣となり国務大臣を選びましたが、もし国務大臣の一人が首相と意見を異にして、その人が辞職することを拒んだ場合、首相はその大臣を首にすることができず、内閣総辞職となりました。
 このような統合の中心を欠いた憲法体制のもとで、ではどうして統一的な国家意志が形成されたかというと、これが派閥をを中心とした根茎的人脈集団を媒介とすることで、かろうじてその統合が確保されていたのです。
 しかし、明治時代はこの派閥が藩閥の利害を共有する中で、この国家的統合が確保されていましたが、政党政治が次第に主流となり、、政党閥=権益を脈として形成された政治派閥が力を持ってくると、軍閥と政党の間に政治的ヘゲモニーをめぐって対立が生じるようになりました。
 軍部大臣現役将官制の問題や統帥権の問題は、こうして生じたものです。つまり裏組織としての派閥と表組織としての法制度のどちらが優先するかという問題です。こうした問題は戦後も持ち越され、政党内の派閥、民間業者の談合組織の問題として、その問題点の克服が課題となっています。
 最近では、こうした「一揆」的談合より、一般的法規範の方が優先されるようになり、政党閥も政治資金の交付金化や総理府の権限強化などによって問題の解決が計られつつあります。各種談合の内部告発による摘発等も同様の流れと見ることができます。
明治維新は「疑似中国化革命」
「日本人と中国人」
p234~237
 この連載を始めてから「明治維新が中国化革命であった」という話は生まれてはじめて聞いて驚いた、といった手紙が余りに数多く来たので、私の方が驚いた。私か書いていることは「常識」であって「学問」ではない。この程度の知識もなくて「日中友好」などという言葉を口にするのは非常識である。そしてそういう非常識入を生み出した責任の一半は、篤胤にあるであろう。(p237)
 (p234より)山陽と篤胤はほぼ同時代である。彼はまるで『日本外史』のため先払いをしたような形になったが、なぜ、このような形になったのであろうか。そしてそれは中国人「天孫論」「犬猿論」とどういう関係にあるであろうか。 これは、第二次大戦後の日本の「アメリカ化」の時代と対比すればすぐに理解できるであろう。アメリカを絶対の権威として何もかもこれから学び、これを尺度としようとするなら、まずアメリカなるものを理念化し体系化し図式化しなければならない。これは対象が中国であろうとアメリカであろうと同じである。 次にその尺度で自己の歴史を計り、たとえ全日本人を賊軍と規定しても、また全歴史を非民主的で封建的で野蛮と規定しても、何しろその尺度で過去を一応再構成してしまう。
 ところが、理念化し体系化し図式化した尺度で、こんどはそれぞれの本家を見ると、中国であれアメリカであれ、その歴史も現状も、全くその基準からはずれてしまう。そうなると「日本こそ真の中国だ」「民主主義の本家は日本だ」ということになる。いわば山鹿素行の『中朝事実』になるわけである。

明治維新とは「擬似中国化革命」
 そこで、この本家の基準で輸入先を計ると、みな「犬猿国」になってしまうのである。そして、ここの論理は非常に面白い形になる。というのは、篤胤が中国を罵倒した基準をそのまま日本にあてはめれば、日本でも、全日本人が実は「賊」となってしまうからである。朱舜水のころの日本人や蕃山は、それを規準としたから、「中国人=天孫」論になる。
 ところが篤胤はそれを逆転し、中国の基準にかなう例外的日本人を「全日本人」とし、それを基準にして中国を計るから、今度は孔子という例外を除けば、全中国人が「賊=犬猿」になってしまうのである。いわば中国を「天孫」とすれば日本は「賊」、日本を「天孫」とすれば中国は「犬猿」で、これは全く同じ論理にすぎない。そしてこの図式は、そのまま日米関係にもあてはまるのである。
 今はまた「中国=天孫・日本人土下座時代」であろう。これは当然いずれは逆転する。従って私は、最初にのべたように、日本人の中国観は南京攻略戦当時と少しも変わっていないと考えている。この問題は今のうちに処理しなければならない。そうしないとまた恐ろしい結果を招く。そして処理の方法はすでに白石が示しているはずである。
 林大学頭の篤胤評〔226ページ〕は大体正しいと思うが、前述のように「一時世を欺くに過ぎず」は、少し安易な見方だと思う。というのは「日本天孫・中国犬猿説」は、さまざまに形を変えながら、非常に根強く残ったからである。なぜそうなるか。いうまでもなく、中国の思想で再構成した日本の歴史を日本独自のものと主張するには、中国を抹殺しなければならないからである。
 白石のような立場に立てば、こういうことは起こりえないのだが、篤胤のような行き方をすると、日本が中国化すればするほど中国を抹殺して行かざるを得なくなる。従って明治維新という「疑似中国化革命」が成功した途端に、まず、日本国内の尊皇思想中の中国的要素を歴史から抹殺してしまう。尊皇とは尊中であったことも、「日本こそ中国だ」という『中朝事実』も、中国人天孫論もすべて抹殺してしまったので、一部の専門家を除いて日本人自身がこのことを全然知らないという珍現象が起こるのである。
かって、日本の歴史を西欧の歴史思想に当てはめて、明治維新が絶対主義革命だったか、ブルジョア革命だったかを論ずる、いわゆる「日本資本主義論争」がありました。これが全く無意味ということではないでしょうが、しかし、こうした見方からは「明治維新は疑似中国化革命」だったというような、独自の見解は到底生まれようがなかったと思います。
 このために、ここに紹介されているような「明治維新が疑似中国化革命であったという話は生まれて初めて聞いた」というような”驚き”を、多くの読者にもたらしたのです。私自身も、当時、これを”驚き”をもって聞いた一人でした。また、こうした見方は今日でも、多くの日本人にとって「意外な明治維新解釈」として受け取られるのではないかと思います。
 従って、こうした見方を、その後の「大東亜戦争」の理解に生かす試みはほとんど為されてこなかったと思います。いわゆる「自虐史観」はもちろんですが、最近の修正主義史観においても、それは十分生かされているとは思えません。
 その結果どういうことが起こるか。この本が書かれた1972年当時は、確かに「中国=天孫・日本土下座時代」でした。しかし、この図式はいずれ逆転する、つまり、「中国=犬猿」論の時代がくる。・・・ここには、そう予見されています。はたして、今後、そのような不毛の循環論に再び三度陥るようなことがなければよろしいですが・・・。 
中国人「天孫論」と「犬猿論」について
『日本人と中国人』
p234~237
(なぜ、中国人「天孫論」から「犬猿論」になるのか。)
 これは、第二次大戦後の日本の「アメリカ化」の時代と対比すればすぐに理解できるであろう。アメリカを絶対の権威として何もかもこれから学び、これを尺度としようとするなら、まずアメリカなるものを理念化し体系化し図式化しなければならない。これは対象が中国であろうとアメリカであろうと同じである。
 次にその尺度で自己の歴史を計り、たとえ全日本人を賊軍と規定しても、また全歴史を非民主的で封建的で野蛮と規定しても、何しろその尺度で過去を一応再構成してしまう。
 ところが、理念化し体系化し図式化した尺度で、こんどはそれぞれの本家を見ると、中国であれアメリカであれ、その歴史も現状も、全くその基準からはずれてしまう。そうなると「日本こそ真の中国だ」「民主主義の本家は日本だ」ということになる。いわば山鹿素行の『中朝事実』になるわけである。

明治維新とは「擬似中国化革命」
 そこで、この本家の基準で輸入先を計ると、みな「犬猿国」になってしまうのである。そして、ここの論理は非常に面白い形になる。というのは、篤胤が中国を罵倒した基準をそのまま日本にあてはめれば、日本でも、全日本人が実は「賊」となってしまうからである。朱舜水のころの日本人や蕃山は、それを規準としたから、「中国人=天孫」論になる。
 ところが篤胤はそれを逆転し、中国の基準にかなう例外的日本人を「全日本人」とし、それを基準にして中国を計るから、今度は孔子という例外を除けば、全中国人が「賊=犬猿」になってしまうのである。いわば中国を「天孫」とすれば日本は「賊」、日本を「天孫」とすれば中国は「犬猿」で、これは全く同じ論理にすぎない。そしてこの図式は、そのまま日米関係にもあてはまるのである。
 今はまた「中国天孫・日本人土下座時代」であろう。これは当然いずれは逆転する。従って私は、最初にのべたように、日本人の中国観は南京攻略戦当時と少しも変わっていないと考えている。この問題は今のうちに処理しなければならない。そうしないとまた恐ろしい結果を招く。・・・というのは「日本天孫・中国犬猿説」は、さまざまに形を変えながら、非常に強く残ったからである。なぜそうなるか。いうまでもなく、中国の思想で再構成した日本の歴史を日本独自のものと主張するには、中国を抹殺しなければならないからである。
 白石のような立場に立てば、こういうことは起こりえないのだが、篤胤のような行き方をすると、日本が中国化すればするほど中国を抹殺して行かざるを得なくなる。従って明治維新という「擬似中国化革命」が成功した途端に、まず、日本国内の尊皇思想の中の中国的要素を歴史から抹殺してしまう。尊皇とは尊中であったことも、「日本こそ中国だ」という『中朝事実』も、中国人天孫論もすべて抹殺してしまったので、一部の専門家を除いて日本人白身がこのことを全然知らないという珍現象が起こるのである。

   
 「天孫論」や「犬猿論」がなぜ問題なのかというと、これが民族性に関する一種の決定論だからです。そのため、特に外交問題を処理しようとするとき、これが固定観念となって、適切な判断ができなくなってしまいます。
 「昭和の悲劇」を振り返って見る時、そのターニングポイントは、満州事変から華北分離工作に至る時期ではないかと思います。そして、このころの日本人の中国人観を決定していたのが、この中国人「犬猿論」で、「中国人には近代国家建設の能力が欠けている」といった意識でした。
 こういった日本人の意識が、満州事変を正当化しこれを既成事実とするとともに、これに抵抗する中国人を抗日・侮日として批判し、彼らに反省を求め続けるという、この時期の日本人の倒錯した心理状況を生んでいたのです。
 おそらく、当時の中国人にも近代国家建設に必要な基礎的訓練が不足していたと思いますが、それを中国の近代化に向けた一過程として客観的に評価する冷静さが、当時の日本人には求められていたのではないかと思います。
 このように、民族国家の発展を歴史的、相対的に把握する訓練が、今日の私たちにも求められているのではないでしょうか。再び中国人「犬猿論」に陥らないためにも。
  
日支事変の原因を世界はどう見たか
『日本人と中国人』
p25~47(要点を引用要約)
 日支事変が始まったとき、世界の列強の殆どは、これを・・・「満洲領有確認=満州国承認獲得戦争」、すなわち中国政府に満州国の独立を承認させるための軍事行動乃至は軍事的示威行動と見た。そして蒋介石自身も明らかにそう考えていた。・・・(というのは)昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提示した。すなわち排日停止・満州国承認・赤化防止の三ヵ条である。この一年前すなわち昭和九年十月十六日、中共軍は大西遷を開始し、十一月十日に国府軍は瑞金を占領し、蒋介石の勢威大いにあがったときであったから、日本もそろそろ「火事泥」の後始末にかかるのも当然の時期であろう、と蒋介石も世界も考えたのもまた当然である。・・・蒋介石ももちろん問題解決のため、模索していた。彼は前に近衛文麿公(首相就任前の)に試案を送っていた。その第一条は「満州問題は当分の間不問に附する」であり、その説明は、公の語るところによれば「現在の空気では支那に於いては取り上げられないから」であった。・・・ところが軍の反対にあった。軍(の要求)は、・・・これを承認とあらためよ、であった。(このためこの時の外交交渉は挫折した。そしてその後日支事変の勃発となり、事態を憂慮したドイツが仲介に立っていわゆるトラウトマン和平工作が開始された。その時の条件は)、(1)満州国承認、(2)日支防共協定の締結、(3)排日行為の停止その他であった。そして、一二月二日、蒋介石はトラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会議の開催」を申し入れてきた。・・・日本は(これによって中国による満州国承認という日中戦争の目的を百パーセント達成することができた)。・・・だがここに、全く、想像に絶する事件が起こった。・・・日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?
(いろいろな解釈がなされたが、その理由が全く分からない。そのため)結局、当時の世界の、この事件へのやや感情的な結論は「日本人は好戦民族なのだ」ということであった。・・・そこへ「南京虐殺」のニュース〔日本軍の南京入城は十二月十三日〕が入る。一方、これと合わせて日本に新聞の狂態的報道ぶりを見れば、全日本人が血に狂って驚喜しているとしか見えない。この三つが重なって描き出した像は、あまりにグロテスクであった。戦争中、連合国側が描いた日本人像とは、ほぼここから生まれた像である。
 
 ここでの指摘は、当時の欧米人の目には、日中戦争はどのように映じたか、ということにそのポイントが置かれています。(註:ベンダサンの見解であるということ)
 つまり、トラウトマン和平工作の結果、中国は日本側の提示した”満州国承認”という和平条件を受け入れたのに、日本は軍事行動を止めず南京城総攻撃を行った。欧米人にはその理由がわからず、そのため、そうした日本軍の好戦的行動に対する感情的反発が、当時の連合国の対日イメージを決定的に悪化させた、というのです。
 実際は、日中戦争を欲したのは中国側であり、日本は全面戦争は避けたかった(一撃で片がつくと思っていた)。それゆえにあわてて独逸を仲介としたトラウトマン和平工作に手をつけたのです。また、その時広田が提示した7項目の条件には「満州国承認」は含まれておらず、しかし第二項で満洲国境に沿う非武装地帯の設立を要求していましたので、これが事実上の満州国黙認を意味していたのだと思います。
 ただ、これが11月5日に蒋介石に伝えられたとき、蒋介石はその受諾を拒否しており、しかし、その約一月後南京城攻撃開始後の12月3日にようやく「この条件を基礎とする」和平交渉に応ずる旨トラウトマンに伝えてきました。といっても、彼自身の対日不信は依然根強く、必ずしも交渉成立に期待していたわけではありません。
 ただ日本側としては、この時、日中戦争の「戦争目的」を「満州国承認」と明確に自覚できていたならば、その後の和平交渉は欧米人にも判りやすく有利に展開できたのではないでしょうか。しかし、実際には、この「何のための戦争か」ということが日本側に自覚されないまま軍事行動が継続されたために、これが「南京大虐殺」に象徴される残虐な対日イメージを国際社会に植え付けることになってしまったのです。
犬が去って豚が来た
「一つの教訓・ユダヤの興亡」
p196~198
「解放」より「日々の生活への侵害」の方が問題

 日本は中国を侵略し、その国土の主要部分はことごとく被害をうけたといって過言ではない。しかし日本の敗戦で陸軍が引き揚げるとき、すべての地方が同じように日本軍を扱ったのでなく、そこには大変大きな「まだら」があったことは、終戦時の記録が示している。
 住民から惜しまれながら去った――というと語弊があるが――、それに等しい状態で引き揚げた部隊もある。理由はすべて、そこの部隊長が公正な人で、その部隊の兵隊が中国人に何らかの不正を働けば遠慮なくこれを処罰したような部隊である。もちろんその逆もある。
 また台湾などは、日本の植民地から解放されたはずなのに、林景明氏によると、「犬が去って豚がきた」という言葉を生じ、ついに大暴動になった。彼らは確かに大日本帝国から解放され、「犬」すなわちすべての実権を握って、吠えかつ威張っていた日本軍も日本人も去った。しかし日本は一応ここに法的秩序を、それが手前勝手なものでも、確立していた。しかし、新しく駐留した国民党軍はそうでなく、温順な庶民の生活を侵害した。それが大暴動の原因であった。
 彼らにとっては、「解放」されたことより、「日々の生活への侵害」の方が大問題であった。これは当然である。
 このことは、いずれの場合でも同じではないであろうか。
 アメリカの日本占領は、史上最も成功した占領であるといわれる。皮肉な言い方になるが、 これは両者の生活水準が当時余りにかけ離れており、アメリカ人が「侵害」の誘惑にかられるような直接的対象が当時の日本には何もなかったからだといえる。――大和撫子を除けば。
 事実、焼野原になった大都市の防空壕に屋根をかけて住んでいるシラミだらけの日本の一般庶民の生活に、当時、世界最高の給与を誇ったアメリカ軍の一般兵士が、「侵害」の誘惑を感ずるものが何もなくて不思議ではない。
 だが、東南アジアを占領した日本軍はそうではなかった。もちろんこの地は一般的生活水準は低いが、富裕者は、当時の日本の庶民が全く知らないものをもっていた。
 日本軍はまず最高級の車を徴発してこれを各宮家に贈呈した。これには当時の副官の証言がある。さらに、一級落ちる普通の車はみな軍用に徴発した。以下は省略するが、その実体は収容所へ運ばれる日本軍への彼らの罵声が「ドロボー」であったことに象徴されている。
 温順な一般庶民を怒らすのは、政治的暴動への弾圧よりも、徴発という名の「ドロボー」が公然と歩きまわり、それを訴えれば逆に処罰されるという状態なのである。

「大義」が妄想を生む

 それは、もちろん彼らが「植民地」という状態に満足していたということではない。
 だが、一方で「ドロボー」をしつつ、一方で「大義」や「東亜新秩序」や「白人支配からの独立」を説いたところで、それは無駄である。
 昭和12年から終戦までの8年間、日本軍(支那本土で65万から105万の間を推移)は中国大陸の占領地(主要都市の大部分、当時の中国人口約4億の約4割、耕地面積で54%を占めたとされる)で一体どのような生活をしていたのでしょうか。
 占領地といってもそれは、平津、揚子江下流三角地帯を中心に、鉄道沿線沿いの都市を連ねる点と線に過ぎず、これらはなお、国民政府や共産勢力の攻撃やゲリラによる遊撃作戦の脅威にさらされていました。
 一方、占領地では日本の国策会社が設立され、大産業、中小企業が進出し、日満支一体の経済開発が進められました。しかし、膨大な駐留軍の現地自活に必要な物資や軍事資源・物資の供給を余儀なくされ、経済工作ははかばかしく進みませんでした。
 つまり、日本軍は中国との戦争を継続するための戦略要点を確保しつつ、初期においては中国軍の撃滅大作戦を行い、その後は間歇的に討伐戦を繰り返し、その一方で、占領地の治安維持や経済工作、民政安定に努めたのです。
 本項は、中国をはじめアジア各地の占領地に駐屯し、現地自活部隊と化した日本軍駐留部隊が、終戦時に現地人によってどのように取り扱われたか。去るのを惜しまれた部隊もあれば、石もて追われた部隊もあった。その違いはどこで生じたかを説明したものです。   
「大義」が「妄想」を生む
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p199~208
 「武器」と「大義」、この二つが結びつくと個人的倫理観を喪失させ、その結果いかに人を狂わせるか、60歳以上の日本人(註:本書の発行日は昭和62年1125日)なら、直接にあるいは間接に体験しているし、戦後の人も連合赤軍の「総括」の一端を垣間見たであろう。そして、これによって「狂わせられた」のは何も日本人だけではなかった。全ての人間が狂うといって良い。・・・
 いわば「・・・からの解放の大義」を呼号されれば、人はそれに反対できない。しかしこの呼号している者は、そのためには庶民の平穏な生活などは考慮しない。そうなると、同じくそれを考慮しない盗賊や暴力団がこれに一体化する。(註:”・・・”は本文では「ローマ」)
 というのは、現象として現れる点では、庶民にとっては同じだからである。共産党による銀行強盗が戦前にあり、それはもちろん、日本を資本家の支配から解放するために資金として用いるつもりであったのであろうが、強盗された側にとっては普通の強盗に入られたのと何の変わりもない。
 しかし、「イデオロギーを掲げて強盗する側」の論理では、自分は解放の「大義」を掲げ、それを遂行するための資金を獲得しているのだから、なんら良心に恥ずることはないという結果になる。これが巨大化すれば、東亜解放の「皇軍」が同時に「ドロボー」であるという現実を生ずる。
 (戦前の新聞は)この「現実」を無視して戦争中は「大義」を掲げた者を「大義」とし、戦後は自らの戦時中の報道にほおかむりをして、これを一方的に「ドロボー」と決めつけている・・・「南京大虐殺」・・・当時日本の新聞はこのことは一行も書かなかった。・・・だが、このことは逆に、事態が一変すれば、その事件の内容は無限にふくれあがるということなのである。
 小さな事件、または不可抗力であった事件が無限にふくれあがってそれが自らの「大迫害」を招くということは、彼ら(=ユダヤ人)は、その二千年の歴史で何度も経験している。これが、執拗に事実を調査し、正確に記録して後世に残すという伝統を生じた。・・・
 われわれにはこの体験がないゆえ、この点では彼らに学ぶべきであろう。というのは、当時はこれを隠蔽した新聞が、戦後は、「百人斬り競争」などというあり得ない事件を事実として報道し、それを報道することが「大義」であるかのごとき態度をするからである。
 日中戦争において日本が「大義」を口にし始めたのは1938年11月3日の近衛声明「東亜新秩序建設」以後のことです。これは日中戦争の泥沼化による日本軍の焦慮と自信喪失が、自らの行動に対する反省に向かうのではなく、逆に独善的・排他的・誇大妄想的な「大義」に縋る暴走へと向い始めたことを示すものです。
 こうして、日本の支那占領及び日満支三国を通じた排他的経済統制が正当化され、さらに、それがアジア全域に拡大され、大東亜共栄圏へと発展していったのです。そして、それを「邪魔する」英米に対する敵意が煽られ、大東亜戦争が欧米帝国主義及び共産主義に対する「聖戦」と見なされるようになりました。
 しかし、その実態は、現地軍が現地自活主義を採ったことから、多くの場合、「大義」を口にしつつ占領地で「ドロボー」を行うような結果となり、「皇軍」ではなく「蝗(いなご)軍」と揶揄されるようになりました。さらに問題なのは、こうした実態を当時の新聞は一行も書かず、軍に対する迎合記事ばかりを書き、「事実」を逆に隠蔽したということです。
 「大義」に振り回されず「事実」を正確に記録することの大切さについては、山本七平は、別稿で、組織の名誉や時代の空気に支配されずに「ホントのことを言う」伝統の確立が日本には必要だと説いています。可能・不可能と是非論の区別、及び事実認定と思想信条は関係ない、ということとも併せて。
希望的観測
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p220~224
 後代の歴史家は記すかもしれない。このような無謀な戦いをしたもの、すなわちアメリカ帝国の領土を爆撃して自ら戦端を開いたのは、日本人だけであったと。さらにサイパンとその他の島で・・・「すごい光景を呈しながら全滅し」、・・・捕虜になるよりも集団自殺の道を選んだのも日本人だけであったと。
 この、どの国もやらなかった狂信的行為をなぜ日本人はやったのか。なぜ、どう見てもあり得ない自らの勝利を信じたのか、と。・・・その一番大きな理由は、情報を「希望的観測」の下に理解したからである。
 この「希望的観測」に支配されるという人間の弱みは、昔も今も変らないものだとつくづく思う。現代の日本人もこの点では同じだが、これは太平洋戦争の前の日本人も同じであった。
 そしてひとたび希望的観測に支配されると、それを裏づける情報ばかりが耳に入ってくる。そして始末が悪いことに、その個々の断片的情報は、それ自体の内容に関する限り事実でありかつ正確なのである。
 これについては私白身、思い出がある。私か学んだ時代の青山学院は、この時代の学校では非常に珍しいことだが、教授の大部分がアメリカ帰りであった。長い人は十年近く、短い人で四、五年、アメリカ大の中で生活しかつ学んできた人たちである。当時は日本人留学生の数は極めて少なかったから、留学期間中全く日本人に会わず、日本語を全く耳にしなかったという人がほとんどであった。いわば当時としては珍しい知米派たちであった。
 軍部は表向きには「英語弾圧」などをやっていたが、やはりこの人たちの実力を知っており、戦争がはじまると、多くの人が司政官として徴用されて南方に派遣された。
 私たちはこういった「知米派」の講義をうけていたわけである。そしてこの人たちが口をそろえていったことは、「アメリカは絶対に戦争をしない」ということであった。
 「アメリカの大統領には戦争なぞ起せませんよ。アメリカの女性など、”戦争”という言葉を聞くだけで『おお、こわ』と身震いします。何しろこれらの女性も選挙権をもっているし、言論が自由のあけっぴろげの国ですから、『大統領は戦争を決意している』などと新聞に出りゃ、次の選挙でたちまち落選ですよ。そこを政敵が狙うし――。あれじゃ戦争はできませんな」
 後で調べてみると、これらの人が留学したのが大体一九二〇年末から三〇年代の初期にかけてであり、「オンリー・イエスタディ」の時代なのである。いわばフーヴァー大統領が「モラトリアム宣言」を出しかころからルーズベルトが大統領として登場し、「ニューディール」がはじまろうとする時代である。
 従って、アメリカ全体が大変に志気が沈潜し、すべてに消極的になっていた時代であった。もっとも相当に景気が回復しても、「一体何で、白分たちの生活に関係のないアジアやヨーロッパに戦争に行かにやならんのだ」といった気風は根強く残っていた。
 ルーズベルト大統領も、絶対にアメリカは参戦しないと公約していたから、これが「真珠湾の陰謀」の背景であろう。・・・だが、人間の心理は固定的なものでなく、徐々に変化するし、何かの衝撃でそれが一変することもある。ということは、その心理を一変さす「陰謀」を巧みに行えば、人為的に一変さすことができるということなのである。
 そのように人間の心理はあてにはならないものだが、人間が「こあってほしい」という希望的観測をもつと、相手がつねに、自分の欲する状態に固定していると思いたがり、それが落し穴になる。
 太平洋戦争開始前の日本人の判断を狂わした「希望的観測」とは、アメリカは自由主義・個人主義の国であるから、アジアにかかずりあうような「戦争は絶対できない」というものでした。こうした観測は、一部の狂信的軍人が下したというものではなく、ここに紹介されているようなアメリカ帰りの教授たちの判断でもあったのです。
 また、もう一つの「希望的観測」は、仮にアメリカと戦争になっても、アメリカ人は「ヘッピリ腰」(こうした観念は、アメリカの砲艦パネー号を日本軍が揚子江上で撃沈した事件で、アメリカがこれを「事件」として処理したことから生まれたと山本七平は言っています)だから、日本が大和魂で戦えば負けることはない、というものでした。
 こうした情報判断を一夜にして覆し、日本人に対する敵愾心を植え付け、対日戦へとアメリカの世論を急展開させたものが「真珠湾攻撃」であったことは疑いをいれません。それは、もともと「米国民をして救うべからざる程度に士気を阻喪せしめる」(山本五十六)ためのものでしたが、これこそ、アメリカ人「ヘッピリ腰」という「希望的観測」が生んだ致命的誤判断だったのかもしれません。
 山本五十六「愚将論」が今日なお鋭く指摘されるゆえんです。
希望的観測2
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p224
 さらに当時の多くの日本人は、自分たちが立ちあがれば、植民地として圧迫されているアジアの民が、ともに立ちあかって全面的に協力してくれるであろうと信じていた。この現象が部分的にあったことは事実である。
 だが、多くの国々は数百年にわたって欧米の経済圏に組みこまれ、貧しくともそれによって日々の生活を維持している。そこに日本車がくれば、欧米との経済的関係は切断され、日々の生活すら困難になるという事態に落ちこまざるを得ない。
 というのはマレーの錫とゴム、フィリピンの麻、砂糖、煙草などを日本がすべて引き受けて、そのかわりに生活必需品を潤沢に供給することなどは当時の日本には到底できない。さらに、鉄道のほとんどないこの地方では自動車が唯一の輸送手段だが、それを提供することも当時の日本にはできない。それは地元の経済を麻庫させる。
 石油はいくらでも日本がもっていくが、対価として支払われる軍票は、購入すべき物資の裏づけがない紙切れである。そのため、それらの地の多くの産物は、立ち腐れになるか日本に収奪されるかだが、いずれになっても日々の生活が維持できない状態にされる。
 生活を侵害されれば、協力よりも反感になる。これは前記のように、非政治的な平凡な人間を暴動に決起さす要因にもなる。それなのに、アジアの民だから立ちあがって協力してくれるだろうなどと漠然と信じていたことは、文字通り希望的観測にすぎない。
 日本軍は補給を軽視し「現地調達」主義をとったため、各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければなりませんでした。本来は軍票で購入することになっていましたが、実際には食糧略奪となることが多く、軍票も何時紙切れになるか解りませんでした。こうした現地住民の生活侵害が日本軍に対する協力より反感を生むことになったのです。
 しかし、こうした「現地調達」主義も、中国など人が住んでいるところでは可能でしたが、人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがありませんでした。ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはそのためです。
動乱、殺害、略奪は人を変えていく
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p255~256
 「残虐人間」とか「残虐民族」という言葉がある。そして日本人=残虐民族説や、アメリカ人=残虐民族説が堂々と新聞に載ったこともあった。面白いことにそれを書いているのもまた日本人なのだが、書いている本人は自分だけは別だと考えている。さらに世界のどこかで残虐事件が起ると、それは自分たちには関係のない異常人間の行なったことだとして平然と糾弾する。もっともこの傾向に警告する文章が新聞に載ったこともなかったわけではないが、それは例外的であった。この世の中に「残虐人間」という特別な人間がいるわけではない。戦場において残虐な行動をした人間が、故郷に帰れば最も温和な通常の人間であるのが普通の状態である。そして二千年前のヨセフスは、同胞が虐殺されるのを見ながら、このことを正しく見ていた。彼は記している。「昔から極めて柔和な人とすべての者が考えていた人びとでさえも、欲望に動かされて、敵を殺すようになった」と。そして敵の財産を略奪するのを当然とするようになる。
 現在のイスラエルには約百五十万のパレスチナ人が住んでいる。この人たちと会って話をすると実に温和であり、非政治的であって、新聞などに見る「パレスチナ人」の印象とは全く別の人であるといってよい。そしてこのことを不思議に思うのは私だけでない。
 あるアメリカのカメラマンが、イスラエルに関するニュースといえば戦争に関するものだけ、パレスチナ人に関するニュースといえばPLOやテロ、さらに、日本では報じられていないが、南レバノンにおける現地人への残虐行為だけなのを少々不審に思った。そこで彼は、現にイスラエルに住んでいるパレスチナ人を、非政治的に、克明に、カメラとペンで追究してみた。その結果彼が得た結論は、この人たちはみな、ごく平和に、ごく当然のこととして、自らの伝統文化を生きているということであった。
 その写真を見、文章を読み、自己の体験と重ねあわせてみると「まさにこの通りだ」といわざるを得ない。そしてそれは、PLOのあの闘志満々といった攻撃的な写真からうける印象とは全く違うし、「マアリブ」はじめイスラエルの多くの新聞に載っている南レバノンの主としてマロン派キリスト教徒に対する残虐行為からうける印象とも全く違うのである。
 また同じことは、マロン派の人びとにもいえる。この人たちがサブラのパレスチナ人キャンプにおける下手人と同じだなどと考えることは不可能である。
 だが、動乱、殺害、略奪は人を変えていき、徐々に抵抗感を喪失させる。そしてそれが「大義」の名の下で行なわれると完全に人を麻痺させる。これはすべての人間に共通していることで、この世の中に「残虐人間」とか「残虐民族」とかいった特殊な人間や民族がいるわけではない。
 そして人間は相手に対して恐怖をもっていないとき、また圧制者でもなく競争関係にもないときは、このような態度にはならない。