論題 引用文
ベンダサンの司馬批判
ブログ「一知半解」コメント
g21.5.26
 時々の書き込みですがご容赦下さい。ご質問の点だけお答えしておきます。
 標記の件ですが、三島が割腹自殺をしたとき司馬遼太郎は「毎日新聞」に『異常な三島事件に接して』という1文を書きました。その要旨は、「思想というものは、本来、一大虚構であり、現実とはなんのかかわりもない。ところが、思想は現実と結合すべきだという不思議な考え方がつねにあり、特に政治思想においてそれが濃厚である。三島は、自分の思想を現実世界のものにしようという、神のみにできる大作業をやろうとした。それを現実化する方法はただ一つ狂気を発することであり、この狂気の果てに三島の死があった」というものでした。

 これに対して、ベンダサンは、こうした考え方は日本教徒の「天秤の論理」から出てくる考え方で、要するに「人間は言葉では規定できない」という日本教の教義第一条に基づく考え方だといったのです。ベンダサンは続けて司馬氏に対して次のような質問をしています。

 「思想は思想自体として存在し・・・」というあなたの思想もまた思想なのだから、それも「大虚構」ではないか」と。
 その上で、では日本教における人間の価値はどうして決まるかというと、それは人間の「純粋度」によって決まる。これが日本教の教義第二条だといっています。だから三島は「純粋」ゆえに今も左翼からも支持されるのだと。
 要するに、ベンダサンがいっていることは自分の行動を支配している思想を客体化すべきだ(捨てるべきといってるわけではありません)、ということなのです。

 このあたり、言葉によらず「感情(あるいは情緒)で人間を理解し得ると信じている日本文化の神髄に触れる問題だと思いますが、この点については小林秀雄も「おもしろい」といっていましたね。

 トラウトマン工作の失敗についてベンダサンが指摘している「感情が条約に優先した」ということについても、実はベンダサンのこうした認識がベースになっています。といっても、どこの国の国民も「感情的」なわけで、日本人の場合は、それを「論理=ロゴス=言葉」によって制御する事が「天秤の論理」ゆえにできない、といっているのです。

 これに対しては、立花隆氏が激しく反発していましたねえ・・・。要するに、「論理(学)がないなんて”言い過ぎだ”」ということなんですが。でも、確かにベンダサンの論理には「言い切りすぎている」所がありますね。トラウトマン工作の分析などはそういう荒っぽい点があります。私はこのあたりは山本七平ではなくユダヤ人ベンダサンではないかと思っているのですが・・・。続きは、後日余裕があるときにしたいと思います。
浅見氏の「にせユダヤ人論」について
ブログ「一知半解」コメント
H21.5.31
 サンヘドリンの「全員一致の議決は無効」云々についての議論がなされていますが、私見を申し述べさせていただきます。山本七平を批判される方の多くは、浅見定雄氏の『にせユダヤ人と日本人』のこの箇所を持ち出します。でも受け売りが多いようですね。大切なことは自分で調べて自分の頭で考えることです。そこで私見ですが、まず、浅見氏がこの本を書いた動機がよくないと思います。氏は山本七平を、ベンダサン=山本=右翼と決めつけていますが、まずこれが両方とも間違い。次に、山本の「日本人論」に直接挑戦せず、彼の「聖書学」がいかにインチキかを証明することでそれを抹殺しようとした。これは議論ではなく”インネン”です。また、議論の立て方自体もおかしいですね。「全員一致」に関する議論については次の通りです。

 浅見氏は、『日本人とユダヤ人』の「全員一致の審決は無効」の章の論旨の要約を次の二つにまとめています。(三つ目については後述)

(一)旧約聖書のミカという預言者は、神に絶対服従すること自体が罪であると言った。なぜならそれは無批判な態度であり、従って何事につけても「全員一致」を生み出す結果となるからである。

(二)従ってミカの末裔であるユダヤ人は、「全員一致」を認めない。その代わり決まったことは絶対守る。
 まず(一)ですが、これは要約として間違っていると思います。つまり、ベンダサンは「ミカは神に絶対服従する事自体が罪であるといった」などどとは言っておらず、「神殿(現体制を象徴するもの)を壮大にすることは、神を賛美し神に仕える行為」だが、それが貧者を搾取するものならば「神の意志に反する=罪」である、ということを言っているに過ぎません。そのためにわざわざ「ミカ書」二~五章の言葉を引用しているのです。そのまま読めば宜しいと思います。

 また、(二)については、ベンダサンが、「全員一致の議決は無効」の論を一般論化しているとの指摘で、そう理解される書き方をしているのは事実ですが、もともとこれは「イエスの死刑判決が全員一致でなされたとの記述が聖書(マルコ、マタイ福音書=筆者)にあるのは、聖書の著者達(ユダヤ人でありキリスト教徒であった)が、当時『全員一致』で処刑するのは違法だと言うことを知っていて、この判決は違法だと言いたかったのだろう」という記述のなかでなされているものなのです。従って、その本旨は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方がユダヤ人の血や肉になっている、ということを言っているのであって、私はこれ自体は間違いではないと思います。また、こうした指摘は、「人間」教徒である日本人には大変有益だと思います。(だから売れたのです。)

 それから(三)「日本人は何事につけても「全員一致」が好きである。そのくせ決まったことにはあまり拘束されない、というのは、たとい「全員一致」でも、もし「人間性」に反してるならそれを無視しても世間が許すから」についてですが、これについては浅見氏は「ああそうですか」と二度”切り捨て”ているだけです。きっと氏は山本の「日本人論」には深入りしたくなかったのでしょう。もともと氏は山本の論を「右翼の論」と決めつけているのですから仕方ありませんが、山本七平(私はベンダサンとは一応区別しています)の「日本人論」は、到底”切り捨て”できるものではありません。私は、山本七平の言葉は「日本人に対する預言として今後も生き続ける」と思っています。

 一方、浅見氏の言葉ですが、残念ながら浅見氏自身の「人間」としての「品位」はこの本でかなり落ちましたね。「専門家の役割は専門外の人を貶めることではなくアシストし励ますこと、とは小室直樹氏の弁ですが、私はそれを聞いて安心しました。

 それにしても、タルムードを参照できる人はほとんどいないはずなのに、サンヘドリンの規定解釈に関する議論をよくやりますね。冒頭申し上げましたが、自分の意見は自分で調べられる範囲でなすべきだと思います。(浅見氏の議論は今後も私なりに点検していこうと思っています)。いずれにしても、お互いに「参考になれば」という謙虚な姿勢が大切ですね。
apemanさんとの論争
「一知半解」コメント
2001.6.1
「対話編」における「浅見氏のにせユダヤ人論について」という私のコメントに対して、apemanさんが反論してきました。その結果以下の通りの論争になりました。

apemanさんへ
 私はただの学習者に過ぎませんので、以下自分が理解している範囲内でお答えします。間違いがあればよろしくご教示下さい。(*を付した部分が私の回答です。)

>つまり、ベンダサンは「ミカは神に絶対服従する事自体が罪であるといった」などとは言っておらず、「神殿(現体制を象徴するもの)を壮大にすることは、神を賛美し神に仕える行為」だが、それが貧者を搾取するものならば「神の意志に反する=罪」である、ということを言っているに過ぎません。

ape へえ。「過ぎません」ですか。では次の文章をどう弁護されますか。

「すなわち、神の戒命(律法)に、一点一画もおろそかにせず絶対的に従うこと自体が、神を信じないこと(すなわち神に従わないこと)になる、という考え方である。」(角川文庫版、100ページ)

*神に対する信仰(=絶対服従)は、神殿を壮大にしたり戒名を守ることで表されますが、しかしそれが民を搾取するものであったり、民に対する哀れみやいつくしみを欠くものであっては、逆にそれは神の意志に反することになりますよ、といっているのです。つまり、神を賛美する行為や戒名にも軽重(?)があって、キリスト教では「汝の隣人を愛せよ」を最も重要視(十戒一とともに)しているのです。
新約聖書「ガラテヤ人への手紙」5:11には次のように書かれています。〈律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。〉

 ミカが言ったことは、おそらく、イエスがパリサイ派を批判した論理と同じというよりその原型なのではないでしょうか。
〈忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23)〉
 こうした考え方が「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方につながり、従って「全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはず」という考え方にもなるのです。(そんな国がありますよね)

> また、(二)については、ベンダサンが、「全員一致の議決は無効」の論を一般論化しているとの指摘で、そう理解される書き方をしているのは事実ですが、もともとこれは「イエスの死刑判決が全員一致でなされたとの記述が聖書(マルコ、マタイ福音書=筆者)にあるのは、聖書の著者達(ユダヤ人でありキリスト教徒であった)が、当時『全員一致』で処刑するのは違法だと言うことを知っていて、この判決は違法だと言いたかったのだろう」という記述のなかでなされているものなのです。

ape 違います。まるで逆です。偽ユダヤ人はまず「いわばもう血となり肉となって」いるというミカ的発想の「一例として、表題にかかげたサンヘドリンの規定」、すなわち「全員一致の審判は無効」という「規定のことをお話しよう」と述べたうえでイエスの裁判について言及したのです。ですから議論の大枠は「サンヘドリンの規定」であり、それについて語るためのよすがとしてイエスの裁判を引き合いに出したに過ぎません。だいたい、あの章からイエスについての言及をすべて削除してもその趣旨は変わりませんが、「全員一致の審決は無効」を削除したらあの章全体が成立しなくなるじゃないですか。

*「お話しよう」の前には全員一致の審判は無効という文章は出てきませんよ。もっとも章題は別ですが。議論の大枠は「サンヘドリンの規定」ではなく「ミカ的発想」で(だからミカの話が最初に出てくる)、そこから、イエスの死刑が全員一致でなされたと聖書(マタイ27:1、マルコ14:64)に書いてあるのは、初代キリスト教徒(ユダヤ人)が、これは違法だと言いたかったからだろう、とというベンダサンの話につながっているのです。
 また、仮に「全員一致の審決は無効」を削除したら、それはapemanさんはお困りでしょうが、それを削除しても章全体が成立しなくなるということはありません。この章の主題は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」ということですから。だから本筋でないところに噛みついても意味はないと言っているのです。「全員一致・・・」が章題に選ばれているのは、日本人が全員一致を疑う発想を全く持っていないから、それとの対比上選ばれたわけで、この章の論述の落としどころは「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」なのです。
 だって、裁判の議決ルールだけに固執すれば、解釈の仕方はいろいろあるでしょうし、時代によっても変わる。まさに浅見氏が蘊蓄を傾けて解説しているようなことになるのではありませんか。そんな議論専門家以外だれができます?まただれが関心を持ちます?この本はそういう専門家を対象にした学術論文ではないのです。私のような一般庶民を相手にしたエッセイであり、「なるほど、おもしろい発想だ」と参考にしてもらえばいい、というものなのです。そこから、さらに専門的に勉強する人も出てくるわけで、それでいいのではないでしょうか。私は、こうしたベンダサンの指摘を面白いと思う人が多かったからこそ、この本は売れたのだと思います。またapemanさん達の努力にもかかわらず、売れ続けると思いますよ。

>従って、その本旨は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方がユダヤ人の血や肉になっている、ということを言っているのであって、私はこれ自体は間違いではないと思います。

ape 「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という発想から「全員一致の審決は無効」は必然的に帰結しません。しかし偽ユダヤ人は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」ではなく「全員一致の審決は無効」を章のタイトルに選んだのです。

*ここがapemanさんの解釈ポイントだと思いますが、私はapemanさんの理解不足だと思います。後段の論述は意味不明ですね。

>これについては浅見氏は「ああそうですか」と二度”切り捨て”ているだけです。

ape 実につまらない嘘をつきますねw

*私が所有している『にせユダヤ人・・・』は朝日新聞社刊単行本1984.1.30第三刷です。そのp61及びp62に「ああそうですか」が二度出てきます。書き換えたんでしょうかね?どうでもいいですけど。

>それにしても、タルムードを参照できる人はほとんどいないはずなのに、サンヘドリンの規定解釈に関する議論をよくやりますね。

ape これはまず山本七平に向かっておっしゃったらどうでしょうか。

 山本七平は、私は『日本人とユダヤ人』の著者(著作権者)ではないと繰り返し言っていました。また、この本の記述にはタルムードを縦横に引用できる人でないと書けない部分があり、私には書けないともいっていました。そんなことより、まず自ら顧みることが大切なのではないでしょうか。
自己絶対化を克服すること
H22.3.18

司馬遼太郎には昭和が書けませんでした。精神衛生上悪いといって・・・。山本七平はその昭和を、戦場の自分自身を語ることでその実相を伝えようとしたのです。それは自虐でも美談でもなく、戦争で露呈した日本人の弱点を言葉(=思想)で克服しようとする試みでした。

そのポイントは”自己を絶対視する思想をいかに克服するか”ということで、そこで、尊皇思想における現人神」思想の思想史的系譜を明らかにしようとしたのです。氏の聖書学はそのためのヒントを与えるものでした。
mugiさんは、浅見定雄氏を山本批判の切り札に援用されますが、浅見氏はmugiさんが最も嫌う”非寛容な一神教”クリスチャンで、思想的には”先鋭な”反天皇制、反元号、反靖国、反軍備、親中・朝論者です。 氏の著書を見ると、氏の意見に賛成なら”できの悪い”生徒でも及第点をもらえるが、その逆なら大変な目にあう、そんな恐ろしさが感じられます。

 この強度のイデオロギー性は教師としては問題ですね。確かに、氏の山本批判(ただし、ベンダサン=山本七平とは言えない)には肯首すべき点もあります。しかし、それを台無しにするものがある。上記の点もそうですが、その論述に憎悪が感じられる点学者としては不名誉だし、クリスチャンとしては致命的です。(同様の指摘は立花隆、小室直樹氏もしています。)

 そのため、氏は、山本七平の「日本人論」の優れた部分が全く見えなくなっている。もちろん、その動機はキリスト教左派(?)の立場からする日本の伝統思想批判ですから仕方ありませんが、これでは自虐どころか自国否定にしかなりません。

 山本七平の日本人論の独創性は、こうした日本人の思想形成における自国否定とその反作用としての自国肯定の非歴史的循環論からいかに脱却するかということ。これを日本思想史の課題として捉えることで、そのベースとなる伝統思想を思想史的に解明することにありました。
 
 私が山本七平を紹介するのは、その日本人論が、私たちが無意識的に生きている伝統思想を自覚的に把握し、それを対象化できるようにしてくれたと考えるからで、それが、次の時代の日本の思想的発展を考える際の議論の土台になると考えたからです。

 残念ながら、私にはまだ有用な議論を喚起するに至っていませんが・・・。一知半解さんは、辛抱強くそうした議論の場を提供されていますね。提起される題材もタイムリーです。それが幅広い対話を呼び起こしている理由だと思います。私もこの対話に参加できることを有難く感謝しています。

 なお、浅見氏の山本批判についての総論は以上の通りですが、具体的な各論については、今後私なりにじっくりと時間をかけて検証していきたいと思っています。

『にせユダヤ人の日本人』における浅見定雄の山本七平批判について
H22.3.20
まえがき
 教科書問題について
アジア「侵略」→「進出」
南京大虐殺→「大」虐殺ではない
架空のユダヤ人を世界中のユダヤ人と一緒にしたり、昔の本を引用して日本人は皆同じだ→「特殊によって一般を推定するエピソード主義」
ユダヤ学、聖書学がいかに非常識なものか
日本国が取り返しのつかない方に・・・ファシズム

Ⅰイザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』のまちがい
 はじめに
 ・新手の国粋主義・軍国主義
 ・本当にユダヤ人だろうか、その目に映る日本人が本当に日本人の真の姿か
 ・ベンダサン=山本七平である証拠 英訳本の「原著」がないこと、ものの考え方や詭  弁の操り方まで酷似

一 実在しない「ユダヤ人」の話(原題 安全と自由と水のコスト――隠れ切支丹とと隠 れユダヤ人)   
 ・ 「日本人」といえば、みな軍備不要論を唱える民族だと考えるのがおかしい。大勢  はむしろ逆ではないか。
・ 日本が「少なくとも過去においては」安全も自由も水も「常に絶対に」豊富だった  とは、この人、果たして正気か――安全も自由も水も乏しかった

(安全)
 ・ ユダヤ人=「安全」のためにはコストを惜しまない→ニューヨーク市(第二次大戦  後三人半に一人がユダヤ人)は豪華ホテルより郊外の方が安くて安全。アストリア・  ホテルは特別警戒のホテルではない。

(自由)
 ・ ゲットー=1516年ベニスで初めて制度化、キリスト教ヨーロッパで発達、普遍  的な制度ではなかった。また、ゲットー的「不自由」など決してユダヤ人の本質でも  宿命でもない。他の差別同様、かならず消滅の方向に向かうものである。

(水)
 ・ 水の問題=土地の問題であり民族の問題ではない

二 お米はお米・羊は羊(原題 お米が羊・神が四つ足――祭司の務めが非人の仕事)
 ・ 家畜に対する態度が、日本人と欧米人とでは何か根本的に違う→ユダヤ人135年  (バルコクバの乱)以来世界に離散、「牧畜民」的意識持っていない。
 ・ 今の日本人、米を大切にしているか。動物虐待の話?聖書羊神聖視しない。「命の  糧」でもない。
 ・ 家畜は=「畜生」である。家が一間、高い方に人、低い方に家畜→間  違い、日  本では家畜(四つ足)との同居は東北では多い。
 ・ イスラエル軍隊、豚用食器と他の食器区別→嘘、伝統的ユダヤ教の教えを守ってい  るユダヤ人多くない。
 ・ 奴婢など奴隷制、イスラエル実質的に奴隷制なかった→あった。
 ・ アウシュビッツは  家畜の伝統→ユダヤ人が書いたものとは思えないほど不快な  表現

三 ユダヤ人がクロノスの牙に追われ、日本人がその首に乗る話(原題 クローノスの牙 と首――天の時・地の利・人の輪)
 ・ 日本人と遊牧民の時間観念の違いについて=日本人は「天の時を敬み、地の利にし  たがう」ユダヤ人は「千年も一瞬もともに神の時」→その説明が混乱している。
・ 日本人は「まだか、まだか」と待つ、遊牧民は「時の流れに乗って」待つ。

四 物騒な「別荘」日本と「ハイウェイ」から姿を消したユダヤ人(原題 別荘の民・ハ イウェイの民――じゃがたら文と祝砲と西暦)
・ 祝砲の話→オリンピックではやらない。元号問題→国際儀礼。非武装中立に対する  批判への反論
 ・ 中世の日本史の戦争は西洋に比べたら「事件の中にすら入らない」→むなしい出ま  かせ
・ 日本人=箱庭の別荘の民、ユダヤ人=ユーラシアとアフリカをつなぐハイウェイの  民→一部の日本人と二千年前のパレスチナユダヤ人の話
 ・ アラブ遊牧民の略奪の話→略奪ではなく交換の話、略奪は「ベドウィン性」と関係  なく誰でもチャンスがあればやりがちなこと。
・ 「じゃがたらおはる」の話→祖国喪失の苦しみ、差別が無くなれば定着

五 差別の天才と評論の「低脳」(原題 政治天才と政治低脳――ゼカリヤの夢と恩田木 工)
 ・ →日本人の九割九分読んだこともない本を持ち出して「日本人」一般を論じる方法  論上の愚かしさ 

六 全員一致は有効(原題 全員一致の審決は無効――サンヘドリンの規定と「法外の法」)
 ・ ミカ=神に絶対服従すること自体が罪であるといった。それは無批判な態度だから  だ。そこから全員一致は無効という考えが生まれた。→神の意志に反する行為、つま  り搾取したお金で神に捧げ物をする行為を批判した。
 ・ ひたすら神にしたがう態度=多数決に盲従する態度→=厳しい孤立に耐える態度
 ・ →全員一致の議決は無効→死刑判決は全員一致であろうとなかろうと翌日まで繰り  越す。ダニエル・ロプス「イエス時代の日常生活」では、死刑罪で有罪の場合、無罪  弁護人をつけたので全一致にならなかった。要するに「死刑の判決は慎重の上にも慎  重に」である。つまり、一切のことについて「全員一致は無効」という嘘を作り上げ  た。

七 「日本教徒・ユダヤ教徒」の無知と詭弁(原題 日本教徒・ユダヤ教徒――ユーダイ オスはユーダイオス)
 ・ シュラクター氏書評=独創的でよく考えられたアイデアによって日本人の性格の側  面を理解しやすいものにしている→日本人は何宗に改宗しようと「日本教徒」ではな  い。ユダヤ人(ユーダイオス)はユダヤ教徒の意味にはならない。従って、日本教徒  キリスト派にはならない。
 ・ 「日本人はいつの時代も憲法を改正したことはない」→この人、正気なのだろうか。 ・ ユダヤ人が「どこの国籍をもとうとそれと関係なしにユダヤ人なのであって」→キ  リスト教ヨーロッパで作られた差別である。

八 再び「日本教」の無知と詭弁(原題 再び「日本教徒」について――日本教の体現者の生き方)

九 さらに「日本教」の無知と詭弁(原題 さらに「日本教徒」について――是非なき関係と水くさい関係)
 ・ 「日本教」→「日本教徒」の論拠としたギリシャ語が一つ残らずであらめである以  上「日本教徒」などどこにも存在しない。     
・ →『氷川清話』の引用どんなに不正確で歪んでいるか、批判の方法を学ぶしかない  本をなぜ取り上げたかという学生の質問→この素朴な健全さ!優秀な学生ではないが  彼に卒業後「詫び状」を出した。私の意図は「ベンダサン氏の意図はファシズムと再  軍備のすすめ」だったが、この学生のような感想を抱いてくれることも意図の一つで  あったから、その点に免じて、日頃点が辛いをいう伝説に悩まされている私も、安心  して良い点をつけた。この学生もめでたく単位を取得した。

十 すばらしき正訳「蒼ざめた馬」(原題 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」――目次的世界とムード的世界)

 ・ 「蒼ざめた馬」誤訳→正訳、山本流めちゃくちゃな聖書の常識には染まらないこと。
 ・ 「狭き門」日本人にとっては、「だれにでも知られ、みなが入りたがるが、多くの  人が門外に残るという意味」→マタイ福音書の「狭き門」はその教えを本格的に考え  る時に注意すればいいこと。欧米人も日本人と同じ意味に使う。
・ ユダヤ人「抽象的な言葉を重ねる表現に満足できない」→なぜユダヤ人は「愛」だ  の「義」だの「平和」だの抽象名詞を頻りに使うのだろう。
 ・ 『蒼ざめた馬』ヨハネ黙示録から取られたもの。その小説の中に「暁の明星」が出  てくる。=「夜明けが近い」という日本伝来の意味、「明星」の意味=イザヤ的意味  →ロープシンの小説ではなく日記の文がイザヤ書の六章と関係がある。だがそれが「暁  の明星」とどう関係するか説明されていない。それどころか「日記」は一体何を言っ  ているか理解できないだろうという。その後イザヤ書6章と日記を引用し「ある程度  理解できよう」という。(訳が分からない!)「また暁の明星にもどって」今度はイ  ザヤ書十四章の引用し「暁の明星」とは「バビロン王」同時に「地獄の底に落ちたル  シファー」という。前の引用と合わせて読めば「われ、汝に暁の明星を与えん」の意  味をある程度理解していただけるだろう、という。(理解できない。)
 ・ フォークナーの小説『アブサロム、アブロサロム』の日本語訳の話→訳者の反論は  なかったか?「暁の明星」の意味は専門家の間でさえ定説はない。
・ こういう言葉はヘブル的用法(黎明の子=ルシファー)とギリシャ的用法(暁の明  星)を訳しわけるべき→「宵の明星」「暁の明星」でよい。ルシファーはバビロン王  への当てこすりでありダンテの堕落天使「ルチフェロ」ではない。「黎明の子」と「明  けの明星」は同じ意味でバビロン王のこと。イザヤ書の「誤解」どころか、原典にも  存在しない。

十一 処女降誕のある民族(原題 処女降誕なき民――血縁の国と召名の国)
 ・ 萬世一系には日本には処女降誕はない(牧畜経験がないこともよる)。一方、ユダ  ヤ人は生まれる時は平凡だが召名により偉大になるので、処女降誕はない。遊牧民は  生殖が利殖の手段、一方日本は性を神秘的で幽玄なものにした。→日本処女降誕伝説  いくらでもある。 
 ・ 旧約聖書のユダヤ人には処女降誕の考えはなかったが、ルカ福音書の処女降誕がユ  ダヤ人に関係ないというのはウソ。マタイはユダヤ的書物で「精霊により身ごもった」  と書いてある。また、イザヤが預言した人とは「マタイのギリシャ語では処女から生  まれた人」である。モーセは奇跡的に生きのびた子、サムエルは「うまずめ」のハン  ナから神の恵みにより生まれた。
 ・ 農耕民である日本人は性を幽玄で神秘的なものにした、一方遊牧民はそうではない  ので処女降誕が生まれる。→ユダヤ人は遊牧民だったのでは?源氏物語は性が「日常  化」しているのでは。
 ・ ギリシャ語の「カリスマ」の原意は「贈物・下賜品」→「恩恵・賜品」以外の訳語  はない。
 ・ →萬世一系のみで「処女降誕を拒否したとは信じられない」

十二 無理もない、「しのびよる日本人への迫害」(原題 しのびよる日本人への迫害―  ―ディプロストーンと東京と名誉白人)
(迫害の類型的パターン)
 ・ 寄留地で頼りにしていた権力が崩壊する時発生する
 ・ 民族の違いにから生まれる「動物的本能」(友人k氏のシカゴ大学で学んでいた時   のクラス旅行の話――”におい”で分かる。金嬉老事件直後のタクシー運転手の話   ――朝鮮人のにおいの話。関東大震災時の朝鮮人虐殺の話)
 ・ ベンダサンは「民族」「人種」とは何なのか、初歩的な勉強しているのか。
・ 「朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄を築いた、この言葉が事実   であろうとなかろうと安易に聞き流してはいけない。」→朝鮮語・韓国語に訳され   るべき。
 
十三 「少々、苦情を!」に少々苦情を(原題 少々、苦情を!傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ)
 ・ 嘆きの壁の話(ユダヤ民族の不屈の最盛を示す壁)→第一神殿と第二神殿の滅亡の   記念日=バル・コクバの反乱が敗北に終わった悲しい日を嘆く
 ・ ユダヤ人はパレスティナを去ったことは一度もない→パレスティナにユダヤ人がい   なくなったという話ではなく、どういう「国家」がパレスティナに存在すべきか、   という話 
 ・ パレスティナの争いは民族の争いでも土地の争いでもない、「大地主・農奴・軍閥 ・ 利権・買弁体制とキブツ・モシャブ・協同組合体制との争い→パレスティナ人とア   ラブ産油国の金持ちをごた混ぜにしてないか、イスラエルに軍閥・利権・買弁はな   いか、軍事国ではないか。なぜ占領地が拡大しているのか。
 ・ 「ウーリー」は「ウーレイ」という話→ささいな耳の感じの違いを「異論の余地の   ない誤り」等という暇があったら・・・。
・ 「テル・アビブの話」→
 ・ 「目なら目」「歯なら歯」の話→日本語として不完全。「目には目」「歯に歯」では

十四 プールサイダー――または「ソロバン」式にことばを覚えるユダヤ人の話(原題 プールサイダー――ソロバンの民と数式の民)
 ・ 「ソロバン的思考と数式的思考」の話→言葉の覚え方の違いと理解して、どこでも   同じと批判している。

十五 終わりに――『日本人とユダヤ人』は書く必要がなかった!(原題 終わりに――三つの詩)

 ・ 三つの詩→詩で相互理解ができるならなぜ相互理解は不可能等といったか。