4年前に私はイエス・キリストに出会い救われました。そのきっかけは主人がある女の方を慕う気持ちへと傾いたことでした。とてもショックを受けました。その後、主人からその方への思いは断ち切ったと言われましたが、主人への信頼は崩れ、心がすっきりしない日々を過ごしていました。「ここは何とか頑張らねば、気を強く持たねば!」と気ばれば気ばるほど、私の心は反対にすさんでいきました。
 嫌なことを忘れるために、気を紛らすために、いつの間にかお酒を飲むようになりました。日増しに飲む量も増えていき、主人に向かって怒り狂うようになり、家族にも不快な思いを与えるような状態になりました。私は焦りました。このままではどんどん暗闇に落ちていくような恐怖を感じ何かにすがらなければだめになるという切羽詰まった思いに押されるかのように、ある夜真っ暗な部屋の天井に向かって「だれかこの私を助けられる者はいないのか」と泣き叫んでしまったのです。それから1週間後ころんで腰を強打し、片方の腎臓が2倍の大きさに膨れあがってしまい内臓出血していると診断され、ベッドに寝たきりの絶対安静の入院となりました。腎臓の圧迫により、十二指腸が塞がれてしまい、4週間口からは何も飲食することはできませんでした。
 死ぬのかなと思いました。2ヵ月余りの入院を終え、家の商売のお店に出てみたら、新しいパートの方が働いていました。彼女はクリスチャンでした。私は以前、観音信仰に熱心でいた。彼女と話しをしていて、ぶつかるものもありました。
 しかし、聖書から御言葉が語られたとき、私は言いかえすことができませんでした。観音には言葉がないことがわかり、「負けた」と思いました。そして話を聞いていくうちにいつしか、イエス・キリストにひかれていきました。私は推理小説が好きだったのですが、彼女はいつも聖書を熱心に読んでいました。聖書にはなにか良いことが書かれているのかなと思い、開いてあった個書に目を通したところ思わず「これだ、ここに信頼すべきものがある!」といままで求め続けてきたものに出会った思いがしました。御言葉が私の心にせまってきたのです。迷っている私を力強く引っ張っていってくれるという希望が湧いてきました。暗闇のなかで光を見たような感動でした。いつしか主人も、「君も彼女のように聖書を読んでみたら」と言うようになり神様がわたしだけにとどまらず、主人にも働いてくださっているのを感じました。
 聖書を求め読んでいくうちに、しだいに私の心が平安で満たされていくのがわかり、閉ざしていた心が開いていくのを感じました。御言葉が明確な指事を与え、導いてくれたのです。
 一方的に私は被害者だと思い込み、このことが主人との間に壁を作っていたことに気づかされました。この壁もイエス・キリストによって取り除かれました。また、主人や家族と一緒の時を過ごせるようになりました。神様は、あの夜の泣き叫びをお聞きくださり、救いの御手をさしのべてくださいました。彼女をパートとして送ってくださったのも神様でした。私は彼女に導かれて、救いの祈りをし、イエス・キリストの十字架の購いを信じ受け入れ救われました。救いの直後にお店にお客さまがきました。なんと、その方は彼女の知るクリスチャンで、この私が救われたのを知ると「ハレルヤ」とともに喜んでくださいました。「神様が祝福してくださっている」と思いました
 この不思議な偶然に、いまも生きておられる神様をみた思いです。「私はあなたとともにいる」と語られたような気がします。
 夫婦に許された問題を通して真実で、とこしえに変わることのないキリストの愛に出会い求めていた確かなもの、イエス・キリストにおすがりすることができました。もうお酒などに依存する必要はなくなったのです。今は、家族に一日も早い救いをと願い祈っています。
                       神様に感謝します。
          「私は恵みの時にあなたに答え、救いの時にあなたを助けた」
                  第2 コリント人への手紙 6章

証しのページ

・・・ 私は救われた!! ・・・ 

「御言葉が心にせまって」

                                                      
                                                       ハンナ 常山