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SHOBAR's

Profile


1962年生まれ
大学教員・作業療法士・心理学専攻(行動主義の立場)


    個人史

 

 こどものころスポーツや遊びや書くことや話すことが苦手だった。大学に入ってようやく落ち着くことができた。クラブ活動のおかげかもしれない。能楽研究会という能を媒介とした個性的な人が多いクラブであった。

 日本大学では心理学を勉強した。人間の真理の追求、科学や学問は面白いと思った。けれども自分にこつこつと勉強研究を続ける能はない、自分の対人技能に自信がない、そのころは大学での研究は臨床、障害者への福祉とは違うのだなと思っていた。

 

作業療法士になったのは社会人になって、家族と離れてから。呉服屋の仕事をしていたが、3年がんばってみて疲れた。でも、世の中で生きていけるような自信はついた。なにかほかに働ける道はないかと探していて作業療法士の学校をみつけた。治療すること、病院で回復することに携われるかもしれない期待がそこにあった。作業療法士がリハビリテーションのなかで身体障害も発達障害にも対応すると知ったのは入学してからである。学校の隣の療養所に烏山病院闘争の発端となった精神科閉鎖病棟の開放を行った松島医師が非常勤で診察にきていて、少しだが臨床というものを教わった。松島医師の診察は精神療法で話をじっくり聞くというより、薬の処方を的確に、手早く簡潔に行っていた。地域の活動・診療所作業所が拠点で自然な人間の営みが大事といっていたように思う。地域での仕事・援助をする前にやっぱり少し病院にも関わりたいと思い、病院に就職した。

 

病院では作業療法部門を開設する仕事。最初の5年間は無我夢中だった。病院の名前が変わったころから、仕事がうまくやれている気がしなくなった。空回りも多かった。研修や勉強会にもでかけた。作業療法教育の講習会、大学院も試した。臨床では、関わった患者さんが500人を超えていた。でも、自分の力の限界が感じられた。そこを離れるのは勇気がいった。

2001年春,ロンドンの戦争博物館でアウシュビッツの展示を見た。大量に残された靴の山を見たとき、人がそこでたくさん死んだ、殺された、と実感した。身体障害者や精神障害者が社会に役に立たないと判断され医療従事者がそれを支持していた事実をそこで知り衝撃を受けた。学者・研究者・支援者と称する人の中にはご自分の目的を果たすことが大事で学問の興味の対象として近づいてきて、なにかを発見して論文にまとめて去っていく人がいる。それが多数で占められるとこうなるということがよくわかった。事実を論理的に判断されっぱなし、理解されっぱなしでは当事者が救われないのは小さいころから身にしみている。どうしたらよいか何をしたらよいのか知恵を出すこと実行すること。医療福祉の専門家こそは権威や政治に迎合せず「正義」をもって、それをすべきではないかと考えていた。

 

兄の死があった。10年以上も勤務した精神科の病院を辞めた。私の人生には常に兄がいて兄は障害者と呼ばれた人でもあった。子供のころから病院に通っていたし、学校も別だったけど、とても影響を受けていたと思う。気象や天文の専門書を読むような兄は21世紀をみずに多臓器不全で逝ってしまった。長年の服薬の影響もあると思う。実家の両親も家を建てて別に引っ越した。辞めて3ヶ月ほど府抜けていた。

 

縁あって大学での教育に加わることになって、正直困った。大学での活動・研究開始は年齢的に相当不利でもある。いま勤務している大学ではいろんな人の仕事と可能性も多く見ることもできる。地域で暮らし、活動しているところにも世話になり、協力したりしているうちに、経験を加えて相互に楽しい展開もある。研究のほうは、勉強をやりなおしながら実学の道を模索する毎日である。大学院の山のてっぺんをめざそうとは思わない。登る人もあれば眺める人もある。山はたくさんある。それぞれ、自分で自分の人生の山をみつけ、あるかなければならないから、若い人や、障害を持つ人には 山道の途中の風景を一緒に見ながらガイドできればいいなあというくらいの気持ちである。

 

 

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