続・屋上の天使









「ジロー!」




 昼休み。屋上へ来た私は、扉を閉めるとすぐに叫んだ。
 確認だ。あの天使に逢えたのは夢や幻なんかじゃなくて、現実だったんだと。

 数秒の間があって、私の横に小さな影が現われた。


「…ちゃん!」


 声のした頭上へ顔を向ける。
 そこには昨日出逢った屋上の天使がいた。
 私を見下ろして、ニコッと笑ってる。相変わらずきらきらしてること。
 私も笑顔を返し、ハシゴを登ってジローの元へ向かう。
 またハシゴのてっぺんでジローが手を差し伸べてくれたので、その手を取った。


「ほんとに来てくれた」


 嬉しそうにジローが言う。
 あ、でも眠たそうな顔してる。もしかして寝てたところを起こしちゃったのかな。
 だから返事が少し遅かったんだ。


「うん。ジローに逢いに」

「俺に?」

「うん。それから…」


 向きを変えて、そこから見える広い街を見渡す。
 昼だと、また違って見えるんだな。


「ここからの眺めを楽しみにね」


 そう言うとジローは「あはっ」と破顔し、私の手を引いて腰を下ろした。
 私はジローの向かいに座る。


ちゃん、昨日よりいい顔してるね」


 それはまさしく、大きな心境の変化があったからだと思う。
 だって昨日の私は、既に死んでしまっているかのような顔をしていただろうから。
 ジローに出逢えたからだよ。
 きみは命の恩人。


「ジロー。私、ジローに逢えてよかった」


 たった一度の出逢いでも、大切なことを教えてくれた。
 私は、自分ばかりじゃなく、もっとひとを見るべきだったんだ。
 昨日のジローの、「いなくなったらかなしい」って言葉で、気づけたんだよ。
 かなしむひとがいるのに、自分勝手に消えることの愚かさを。










 私は翌日の昼休みも屋上に来た。
 今度はジローがいるかどうかを確認せずに、ハシゴを登る。
 上ではジローが寝ていて、私は起こさずにその横に腰掛け、目をつむってただ風を感じていた。


 その翌日も、週明けの昼休みにも、私は屋上へ足を運んだ。
 たいていジローは寝ていて、私はその傍らで本を読んだり、じっと風景を眺めたりしている。
 そしてジローがそのまま予鈴が鳴っても起きなければ、私はなんにも声をかけずその場を去るのだ。
 いじわるとかじゃなくて、無理矢理起こしたって仕方ないし、ジローが起きたくなければそれでいいと思うから。


 時にはジローがいないこともあるけど、そんな時も私は構わず、いつもジローのいる場所に座って、静かに流れる時を楽しむ。
 この場にジローがいなくたって、気配は感じられるから。


 一緒に寝ようって言われて、一緒におひさまの下で眠って、授業をサボることもしばしば。
 だけどたまにジローが起きている間は、私たちは好きなものや好きなことの話をする。
 授業や成績のことなんてどうでもいいから。
 ひたすら、好きなものや好きなことを。

 だって好きなものの話をするのは幸せでしょう。

 ジローはテニスが好き。寝るのが好き。お菓子が好き。『ここ』が好きだと言う。
 私はそれをニコニコ笑って聴く。


「あと俺ね、ちゃんも好きだよ」


 ジローが屈託なく言った。


「私もジローが好きだよ」


 私も同じように答える。

 けれどそれはお互いに、恋愛感情じゃないんだ。
 ジローの「好き」は、にゃんこやわんこに「好き」って言うのと変わらないもの。
 私の「好き」は、憧れとか尊敬とか、もしくは崇拝とか、そういう意味のもの。

 そう、恋愛感情じゃない。
 だってジローは私にとって『命の恩人』だから。
 それ以上を求めようとは思わない。


 そしてきみが何組だとか、クラスではどんな感じなのかとか。
 私はきっと興味なんかない。

 屋上で逢うきみが私にとってすべてで。
 それ以上でもそれ以下でもないんだ。

 だから三年が終わる時には、自然と別れが訪れるんだろう。
 …あ、冬の屋上は寒くてお互い来なくなるだろうから、秋までか。

 淋しいかな。
 悲しいかな。

 その時には、どんな自分になっているかな。




















 春の初めにジローと出逢って、ジローに逢えない長い夏休みがやっと終わって、ふたりして貯水タンクにもたれて涼んでいた始業式の放課後。
 ジローが私の顔を覗き込んでぽつりと言った。


「ね、チューしてもいい?」

「…どうして?」

ちゃんが好きだから。
 ちゃんも、俺を好きだって言ってたから、してもいいでしょ?」

「…だめ」

「えーなんでー?
 俺のこと好きじゃないの?」

「好きだよ。でもチューは絶対にだめ。絶対しない」


 だめ、絶対に。
 壊さないで。
 せっかく手に入れた安らげる場所を、あと少ししかいられないのに、壊すようなことはしたくないの。

 だってジローは、にゃんこやわんこにキスするのと同じようにしか思ってないから。
 私とは違う。すぐに壊れてしまう。


「けちぃ…」

「けちとかじゃないよ…ジローは何もわかってない」

「??」


 それに…私は天使を堕としたくないと思ってる。
 ジローはいつまでも、私にとってきれいな存在でいてほしいって。
 今だけは。別れが訪れるまでは。
 私にとってジローは、とくべつなんだよ。


「…ね、ちゃん。チューがいやなの?
 それとも俺とチューするのがいやなの?」


 ジローが、真剣な顔で問いかけてきた。
 その質問と表情にドキッとした。


「…どっちも、違う、よ…」

「じゃあなに?」

「なにって…」


 ジローが詰め寄ってくる。
 近づいて、近づいて。
 顔が、至近距離。

 こわい。


「俺は、ちゃんとキスしたい」


 「チュー」から「キス」に言葉が変わって。




 ――ジローのくちびるが、私のくちびるに、触れた。




 離れたジローの顔は、今まで見たこともないような、『男』の顔で。
 それを見た瞬間、ぶわっと涙があふれて、頬を伝った。


 …私が、天使を堕とした。


「…ちゃん?」

「っ…!」


 私は立ち上がって駆け出すと、私が一度死んだあの場所から、勢いよく飛び降りた。

 今度は助走がついていたから墜ちる速度が速くて着地を少し失敗してしまい、片手と片膝をつく。


ちゃん!」


 上からジローの声が降ってきた。
 私は涙で視界がぼやけたまま、ジローを見上げ、叫ぶ。


「私もう、ここには来ない!」

「えっ!? ちょっ、ちゃんっ!」


 引き止める声。けれど私はためらわずに屋上を駆け去った。

 階段を駆け降りて、人がほとんどいない廊下を自分の教室目指して走り続ける。
 辿り着いた教室には誰もいなくて、涙でぐしゃぐしゃのこんな顔を誰にも見られずに済んだことにほっとした。


 …どうしてこんなに涙が出るの?

 ファーストキスだったからだとか、嫌だったからだとかじゃないのはわかる。

 じゃあなに?

 …好きだからだ。

 私はジローを本気で好きになってしまったから。
 そしてジローの「好き」は、私の「好き」同じ意味の「好き」じゃないことがわかるから。
 その上で、にゃんこやわんこにするキスと変わらないキスをしてきたから。

 たまらなく切なくて悲しいのだ。


 もう逢えない。
 欲しがってしまうから。
 離れられなくなるから。
 これ以上ジローを好きになるのが怖い。


 着地を失敗した時にひねったのか、足首が今になって痛み出した。
 足痛い…

 …胸も、痛いよ…




















 翌日の昼休み。
 あんなに毎日のように通っていた屋上へ、断言通り私は行かなかった。

 今日なんか天気がいいから、ジローはきっといるんだろうな。
 でも、もう行かない。
 逢いたいけれど。

 友達と他愛もない話をして、なにもかも忘れようと努力する。
 話の内容なんてなにひとつ頭に入ってはこなかったけれど、きっといつかこの日常が当たり前になるんだと自分に言い聞かせた。

 そうだよ。ジローからの卒業がちょっと早まっただけ。
 なんにも問題なんかない。

 雨に降られて逢えない日が、永遠に続くだけだ。


 5限が始まって、私は窓の外をぼーっと見ながら、ジローは今日もサボりかな、とか思った。
 ああ、なに考えてんだろ。
 もう忘れろ、私。
 なんて未練がましいの。


 6限が始まって襲ってきた睡魔に逆らわず、私はすぐに眠りについた。
 夢を見た。
 どしゃ降りの雨の中、私はひとりで、屋上にいるのだ。
 そして私は夢の中の私に、もうやめろと叫ぶ。
 と。ずぶ濡れの夢の中の私は私を振り返って、なにかを言った。
 口の動きでわかった。




 「私は、どうしたい――?」




 …そこで目が覚めた。

 いつの間にか6限は終わっていて、みんな帰り支度をしていた。
 HRも終わったんだ。

 ひとつため息をつく。
 私は、夢にまで見るほどあの場所が恋しいのか。
 どうしたいかなんて、私が訊きたいよ。
 もう一度寝て、さっきの夢の私に文句を言ってやろうか。

 またもうひとつため息をつく。
 どうしたいって、行きたいに決まってる。
 雨が続けば行かなかった。休みが続けば学校にすら来ることはなかった。のに。
 たった一日あそこに行かなかっただけで、こんなにも。

 ジローに逢いたい。




「――ちゃん!」




 もう帰ろうと席から立ち上がると、聴き慣れた声がドアの方からして、まさかと思いながらそちらを向く。
 …ジローが、少しだけ疲れたような顔で立っていた。
 クラス教えてないから探したのかな、とかぼんやり思う。

 初めて、屋上以外の場所で声をかけられた。
 お互いに、校内で干渉はしなかったから。
 それが暗黙の了解だった。

 ジローは、またそれをやぶるんだ。
 神様を裏切った堕天使のように。

 もう、嬉しいんだか悲しいんだかわかんないよ。

 まだ教室に残っているクラスメイトたちの注目を浴びていることも気にせず、ジローは私の席に向かってきて、イスの横に立った。
 泣きそうな顔、して。


「…ちゃん、ごめんね…ごめんなさい…
 ちゃん、いやだったんだよね?
 俺とキスすんの、いやだったのに…俺…」

「ジロー」

「もう、しないから…来ないなんて言わないで…お願い…
 今日、ちゃんが来なくて、すごく淋しかった…
 ちゃんと、友達に戻りたいんだよ…」

「ジローっ!」


 私がさえぎるように怒鳴ると、ジローはびくっと震えた。
 きみは、なんて残酷なことを言うの?


「…友達になんて、戻れるわけないでしょう…?」

「もう…俺のこと嫌いになった…?」

「違う!」


 どうしてわかってくれないの?

 もどかしくて、涙が出てきた。

 私はジローを本気で『好き』で、ジローは友達に戻れる程度の『好き』なんだから。
 質が違うんだ。変わってしまった。
 だから友達になんて今さら戻れるわけがない。
 私は、相手を好きだと気づいてしまったのに友達のフリを続けるなんて器用なマネ、できない。
 そんな気持ちのまま、ジローの傍になんていられないよ。


 私がうつむいて涙をぬぐってこらえていると、突然ジローが私の腕を掴んできた。
 顔を上げると、ジローは、怒っているような悲しそうな顔をしていて。


「…来て」


 そう言うと私の腕を引いて、早足で教室を出て、廊下にいる人たちを縫って進んで、階段を上っていく。
 ジローは終始無言だ。
 でも屋上へ行こうとしているのはすぐにわかった。
 抵抗したかった。
 またあの屋上へ行ってしまったら、今度こそ依存してしまうんじゃないか。
 そんな恐怖があった。

 ジローは屋上の扉を開けて、まっすぐ、フェンスの方へ歩いていく。
 そして私の手を掴んだまま向かい合って、険しい表情で口を開いた。


「…ちゃん。俺、まちがってた」

「…?」

「今までちゃんとここで、ただ好きなことばかりを話してたこと」

「……」

「それでいいと思ってたよ。
 でも、それだけじゃだめだったんだ」

「ジロー」


 やめて、と叫びたかった。
 でもジローは続けるのをやめなかった。


「もっと、いろんな場所で、いろんなこと、話すべきだった」

「ジロー」

「俺、ちゃんのことなんにも知らないよ…
 クラスも、どんな友達がいるのかも…いつもどんなことを、考えてるのかも」

「ジロー」

「俺は、ちゃんのことをもっと知りたい。
 どんなことを考えてるのか、知りたいよ」

「っ…ジロー…」


 また泣き出した私を、ジローがそっと抱きしめた。
 出逢った時にはほとんど同じくらいだった身長がいつの間にか超されていたことに、この時初めて気づく。
 私はうつむいたままつぶやいた。


「…ジロー」

「なに…?」

「私…ジローが、好きだよ…」

「うん。俺もちゃん大好きだよ」

「違うよ…ジローのはライクで、私のはラブだもん」

「らいく? らぶ? どう違うの?
 俺は、キスしたいくらいちゃんが好き。それじゃだめ?」


 …ジロー、それどういう意味だかわかって言ってるの?
 いい加減私、自惚れるよ?


「…言っておくけど、友達には戻らないからね?」

「えーっ!?」


 きっぱりと言い切った私のセリフに、ジローがあわあわしだす。
 顔を見てみると困り果てたように眉を八の字にしていたから、なんだかおかしくて、私はちいさく噴き出した。


「友達じゃなければ、いいよ」

「友達以外…?
 ん〜……あ、わかった!」


 ジローは答えを見つけたようで、ぱあっと表情を輝かせると、ちゅっと私のくちびるに軽くキスを落とした。


「こいびと! なら、いい?」

「…ホントに私を好き? 犬猫とは違う?」

「好きだよ。もっとずっとキスしたいくらい好き」

「……」


 なんか、今まであれこれ考えてた私がばかみたいじゃない。
 ま、いいか。
 ジローの愛情表現は、わかりやすいようだけどわかりにくい、ってことにしておこう。

 だって、どうしよう。
 今すごく嬉しくて、幸せだ。


「ね、ちゃん…こいびとになってくれる?
 キス、もっとしていい…?」


 私が(おそらく)赤面して頷くと、ジローは嬉しそうに笑って抱きしめる力を強めて。
 しつこいくらいの長いキスをしてきた。


 目をつむって、されるがままの状態になりながら、私は今までのことを思い返していた。
 反省、って言うのかな。

 だって、ジローはなにも変わってない。もちろんいい意味で。
 天使のままだ、ってこと。
 堕落なんてしてない。そんなの私の思い込みだった。
 ジローはいつだって、自分の気持ちに正直に生きてただけ。
 私がひねくれてただけだったんだ。

 私は、遠回りばかりしてた。
 変わったつもりでいて、なにも変わってなかった。
 ばかみたい。


 やっとジローがくちびるを離すと、微笑んで私を見つめ、こう言った。


「…これからは、もっといろんなこと話そう?
 そんで、ずっと一緒にいよう?」


 秋が過ぎて、冬が訪れて、春になっても。
 ふたり、一緒にいられればいい。

 私はジローにもたれかかり、肩に顔をうずめる。
 そして、ぽつりぽつりと、話し始める。

 屋上で出逢った天使の話を。
 どんな想いで傍にいたのかを。


 彼を私に使わしてくれたなにかに深く感謝しながら。




 この屋上の天使が、ずっと、私だけの天使でいてくれるよう願った。





END





********************

あとがき
 失敗、した…
 続編なんか書かんきゃよかったかと激しく後悔…無駄に長いし。
 続編っちゅうのは、得てして失敗するものですよね…えへへ言い訳だ☆(涙)
 でも貧乏性なのでお蔵入りにも出来ず、こうして恥を晒している次第でございます…


 2004年4月22日


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