なあ、じじい。今や名を捨ててブックマンになったじじいにも、かつてこんな時期があったんかな。
 ここまで大きな戦いがなかったにせよアクマはずっといたし、じじいだって人間だ。きっと、あるはずだよな。

 ――そうじゃないと、オレは救われねェさ。





  空知らぬ雨





 日本へ向かう船が出航してからというもの、ラビの心を揺さぶる出来事が立て続けに起こった。
 その時のキーワードはいつも『仲間』だった。いずれブックマンとなるラビは、彼等エクソシストと本当の仲間になる事は出来ない。時を操る能力を持つ彼女の言葉を借りるなら、ここにこうしている事も『仮初』というのだろうか。
 常に彼等との間に見えない線を引き、ここから先に踏み出してはならないのだと自分を制御する。全てを記録し後世に残す為にいるブックマンは、自らの命を危険に晒してはならない。心はいらない、感情に流されるなど以ての外。傍観者であれ。
 まだ若いから、未熟だからといって甘えが許されるものではない。ブックマンの後継者であるが故に。

 けれどその決意に反して、旅を続けるうちに大切なものが増えていた。あれほど深入りはするなと師に釘を刺されていたのに。
 アレンが戦線離脱してしまった時から。リナリーがレベル3のアクマの元から戻ってこなかった時から。ミランダが確実に訪れる残酷な未来を嘆いた時から。船員達の切願を聴いた時から。
 いつだってラビの頭を悩ますのは、『仲間』という存在だった。『仮初』の、『大切』な――

 なあ、じじい。と、心の中で問いかける。こんなジレンマに思い悩んだ時期が、師にもあっただろうか。しかしそれは決して本人に訊ねたりはしない。ジレンマがあったにせよなかったにせよ、師は現在ブックマンなのだから。全てを乗り越えたはず。
 ならば、自分にも出来るはずなのだ。

 ラビはちょめ助が運ぶ小船の縁にもたれて座り、雨の止んだ静かな海を眺めていた。夜の海は墨を垂らしたようにどこまでも深い闇色を湛えていて、空との境目すらよく解からないその水面をじっと見つめていると飲み込まれそうだった。
 伊豆に向かう間、特に船を漕ぐ必要もなかったので、ほとんどの者が先のアクマの襲撃の対応に疲れ切って眠っている。ラビも先程まで体力回復の為に仮眠を摂っていたのだが、あまり深くは眠れなかった。
 海の藻屑となったアニタの船、それ自体に関しては、大した感慨は持っていない。でも、その時が来てほしくないとは思っていた。そしてそれとは相反して、早く来ればいいと待ち遠しくも思っていた。
 そんな矛盾した気持ちを抱く理由は解かっていた。前者は純粋に、多数の死者が生まれるのを目の当たりにしたくなかったから。後者は――

 キシッ…と、眠りについた者を起こさないよう配慮しながら誰かが静かに起き上がる音が微かに聴こえた。
 船の外を見て物思いに耽っていたラビはその音に気づきハッと見遣ると、暗闇に慣れた隻眼が少し離れた位置にいる女性の黒いシルエットをすぐに確認した。
 その人物――ミランダは、ラビがちょうど思考を傾けようとしていた相手その人だった。
 何日も寝ていない上に、船のダメージを一手に引き受けて体力を消耗しきっていたミランダは、ラビがもたれているのとは反対の縁までヨロヨロと向かった。
 ちょうどこちらに背を向ける形になっているので、ミランダはラビが起きている事に気がつかないようだ。ラビは敢えてミランダに声をかけずに、斜め後ろから彼女の様子を眺める事にした。
 風に乱される黒髪の陰から、ミランダの蒼白い横顔がちらちらと覗く。大きな怪我はしていないはずだが、濃い隈が出来た瞼やこの数日間でやつれてしまった頬は誰よりも痛々しく見えた。
 ミランダはしばらく微動だにせずに海をぼんやりと見ていたが、やがて何の前触れもなく顔を歪め、瞳から大粒の涙を零し始めた。

「ッく…うぅ…」

 彼女の風下にいるラビにはその小さな嗚咽が確かに聴こえた。ともすれば、その雫すら手のひらに掬えるのではないかと思えるほどにはっきりと。
 ミランダがなぜ泣いているのかなんて、そんな事は深く考えなくても解かる。けれどそれはミランダの所為ではないのだ、決して。決して。
 死者への涙の量が足りないと言うのなら、自分の方がよっぽど――ラビは、自分がまだ傍観者でいようとしていた事が口惜しくて堪らなかった。

 ミランダのイノセンスの能力がどのようなものか、説明だけを聴いていたならば、攻撃も出来ないイノセンスなどこの戦いの何の役に立つんだと思う者もいただろう。しかし修理に何日もかかる船を一瞬で元に戻し、更に時間限定とはいえその空間内の傷をも預かってくれる能力は大きな助けとなった。これ以上を求める方が罰当たりというものだ。
 確かに刻盤の発動を解除する時がずっと来なければいいと思った、それは大勢の死者が生まれるのを見たくないから。
 そして逆に、その時が一刻も早く来てほしいと願ったのは、ミランダの身体の負担を減らしてやりたいからと言うよりも、ミランダ自身を早く解放してやりたいと思ったからだ。でもそれは彼女にとって解放ではないのかもしれない。
 神は、なんて残酷な力を彼女に与えたのだろう。この様子を見る限り、力は彼女の手に余っているではないか。時を一時的に操るだけの能力なんて、誰の手にも余るはずだ。
 『対アクマ武器』であるはずの刻盤は、主を哀しませ蝕むばかりで、何を彼女に与えたのか――

「――ミランダ」

 腰を上げてラビはミランダに歩み寄って傍らに膝をつき、そっと声をかけた。ミランダはビクッと震え、涙でぐしゃぐしゃになった顔でラビを見上げた。

「ラ、ラビく、ん…」

 ラビは人差し指を自分の口の前に立て、しーっと言って「静かに」とジェスチャーする。こんな狭い船で声を出せば、端から端まで届いてしまう――という建前の理由もあったが、本音を言えば誰にも気づかれたくなかった。船を運ぶちょめ助は見ているだろうが、今は黙っていてくれと願うほかない。
 ミランダは素直に手のひらで自分の口を塞ぎ、困惑したようにラビを見た。その瞳にはまだ幾らも涙が残っている。
 ラビは哀しげに笑うと、「ちーっと静かにな」と囁いて、ミランダを抱きしめた。もちろんミランダは混乱したのだろうが、それが極限に達したのかピクリとも動けず固まっていた。

「…これなら声が洩れねえだろ?」

 ミランダの後ろ頭を引き寄せて自分の外套に顔を押しつけさせる。何が起こったのか解からなくて口をパクパクさせていたミランダも、それでようやくラビの言いたい事を理解したように「ぁ…」と引きつった声を洩らした。
 ラビは彼女を救う為の言葉を何も持っていない。あり合わせの言葉を繋いでも、彼女の救いにはならないだろう。だからその代わりに何かしてやりたかった。それが抱きしめて泣き声を殺させてやる事だけとは、あまりにも滑稽すぎて口元が自嘲に歪んだ。
 ミランダは震えながらラビの外套に縋り、くぐもった声で泣く。

(なんて、素直なんさ…)

 泣きたい時に泣ける、幼子のようなその純真さが痛いほどに羨ましかった。自分には到底真似出来ようもない。もう許されない――はずなのに。
 ミランダの真っ直ぐな涙を見ていると、揺らぐ。
 リナリーを捜しに行こうと無茶をした時、ミランダに「あなたも仲間でしょ…?」と言われて、「もちろんそうだ」とも「それは違う」とも答えられずに逃げ出した中途半端な自分が歯痒かった。
 そして刻盤を解除する時を思い、泣きながら許しを乞うミランダに、「一緒に踏む道だからね」と言い聞かせるリナリーの言葉で更に浮き彫りにされたブックマンの孤独。リナリーのような言葉でミランダを慰めてやる事もラビには出来ない。『本当の仲間』ではないから。
 だからこそ、ミランダが仲間の死を悼み、悲哀に顔を歪ませ泣きじゃくる姿はひどく美しいと思った。こんな風に泣けたなら――

「……ラビくん」

 突然名を呼ばれて、びく、と反応する。ぎこちなく視線を動かすと、ミランダが顔を上げてラビの顔を見つめていた。ミランダの頬は濡れていたけれど涙は止まったようで、ラビはホッとするのと同時に残念な気がした。泣けない自分の代わりにミランダに泣いてもらおうだなんてバカな事を――それがおかしくて、思わず笑みを零した。
 そうすると、ミランダがハッと息を呑んで、今にも泣きそうな哀しそうな顔をした。一体ラビがどんな顔をしていると言うのか。
 ミランダは黒の手袋を脱ぐと、中央に痛々しい大きな傷跡のある細い細い手を伸ばして、ラビの両頬に触れた。意外なあたたかさに思いがけずドキリとしてしまう。

「泣いているの?」
「へっ…?」

 まさか、と思って何度かぐっと瞬きをする。何も零れはしなかった。
 けれどミランダは真剣で。真剣に、ラビを心配していて。まるで本当にそこに存在している涙を拭うように、労わりのある手つきで頬を包んだ。

「届くわ」
「ッ…!」

 流せない流さない涙も、悼みも、全て。彼女が彼等に届けてくれるようで。
 今度は自分が縋るように、ラビはミランダを抱きしめた。

(なあ、じじい。それを思うだけなら、想うだけなら、勝手だろ? きっと乗り越えるから)

 もう少しだけ、腕の中にいるこのあたたかいひとに救われていたいんだ。





END





『にびいろは不可視の夢を見る』様より
【お題:流れなかった涙、だけどきみは気付いてくれたね拭ってくれたね】


2006年11月12日


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