君は今幸せだろうか…?
君は笑っているのだろうか…?
大切な人たちといつもの、あの笑顔で。

君はもう苦しまなくていい。
君はもう泣かなくていい。

君がいつか話した、夢のような幻想の世界。
そこが君にとって幸せな世界であるといいと、心から思う。

君とはもう二度と会えないけれど、君と違う世界でそう祈っているよ――。





  幻想世界





―――胸が痛い…。
あの優しかったものが、今はナイフに変わったかのように。
容赦なく、俺の胸を刺す。

―――君の笑顔が、今は胸に痛い…。

…誰だろう、誰かが俺を呼んでいる声が聴こえる。
――ああ、君か…。
夢の中で、君が俺の名前を呼んで笑ってるんだ。
楽しそうに、愛に満ち足りた笑顔で。
けれど、決して触る事は出来ない。
触ろうとすると、君は消えてしまうから。

夢の中でもしっかりと感じる、胸の痛み。
その痛さで、俺は夢から覚める。

思い知らされるんだ、暗い病室の中で。
君と俺とはもう違う世界の人間なんだってことを。

そして君のいない一日がまた始まるんだ。


今は8月。
君と出会ったのは、今の季節と反対の季節…去年の12月の冬の日だった。

病院に診察に来た時に、裏庭のほうから歌声が聴こえたんだ。
聴いてると切なくて悲しくなるような、でも泣きたくなるほど暖かくて、とても綺麗な歌声だった。
その歌声が聴こえるほうへ行ったら、裏庭のベンチに君が座って歌を歌っていたんだ。
君は俺に気が付くと笑いながら俺の方へ来て、こう言ったんだ。

『こんにちわ。あなた、幸村精市君ね?私、よ。っていうの。よろしくね』

白い雪がちらほらと降る中、そう自己紹介した。
それが君――との出会いだった。



それから俺が病院へ来ると、の病室へ寄るのが日課になった。
俺が入院すると、毎日のようにと話した。

普通の他愛もないことを話す。時にはが歌を聴かせてくれて。
だけど時々、はどこか謎めいたことを言う。

初めて会った時に、何故俺の名前を知っていたのかと訊くと、『私、この病院のことなら何でも知っているの。入院歴長いんだから。精市君のことも、よーく知ってるわ』なんて言うんだ。

これは後日、は立海生だということが判明した。
もっとも、あまり学校にはまともに行けてはいないようだったが、丸井と同じクラスらしい。丸井が『ってだろ?俺、1年の時から同じクラスだぜ。2年になってからあんまし学校には来てないけどな』と言っていた。

『でも精市君は有名よ?1年の時から王者立海テニス部のレギュラーだって』

案外有名人なんだよ、とはクスクスと笑った。


は時々、発作らしきものを起こす。
それは決まって、天気が悪い真夜中にだった。
が発作を起こしたときには、メールで一言『眠れないね』と送られてくる。
こうして俺を呼び出しては、『手を繋いで?』と俺に向かって手を差し出す。俺は言われるままにの手を取る。そうしての発作が収まるのを待つ。
こうしてると発作が早く収まり、よく眠れるのだと言う。

けれどが何の病気かという事は、語られることはなかった。

はいつも笑顔だった。
発作が起きたときもナースコールもしないで、『天気が悪い時はいつもだから』と力なく言って俺の手を怖々と握り、苦しそうに息をする。

…辛いだろうに、そんな時も笑顔だった。


が、幻想の世界について話すときも…笑顔だったな。

の病室には、1つの写真があった。
幼い頃に小児科病棟の友達と一緒に撮った写真らしい。
その友達は、が言う「幻想の世界」に行ったと言う。

は笑いながら、とんでもない事をさらりと言った。
『私ね、死ぬことはちっとも怖くないの』と。

遠い日の、幸せな日を想うような顔で写真を見つめながら。
『だって、待っててくれる人たちがいるんだから。会いたい人たちがいてくれるし。死ぬことは終わりじゃない。私にとっては再会なの』と。

が言う「幻想の世界」――それは…。

『…約束は守ってもらわないと』
『そうだね』


1つ、約束をした。
その約束が果たされることはなかったけれど。

この話を聞く少し前に、屋上でこんな話をした。
が唐突に、『私、精市君がテニスしてるところ見てみたいな』と言ってきた。

『私さ、テニスはルール程度しか知らないけど。でもすごく強いんでしょ?だから見てみたい。…精市君がテニスしてるところ』
『…いいよ。が元気になったら全国大会の決勝においで。最高のテニスをに見せてあげるよ』
『本当にっ!?じゃあ、約束ね!絶対だよ!』
『ああ』


俺のテニスをに見せるという「約束」…。

俺とが交わした最初で最後の「約束」…。

は本当に嬉しそうに笑っていたけれど。
その「約束」は守られることは…叶わなかった…。



白い一人きりの病室で、と話した日を思い出す。
入院してから一週間程してから、手術の日程が決まったと医師から話があった。

「手術の日が決まったよ、幸村君。…頑張ろうね」
(…頑張ろう…か)
「…はい、頑張ります」


「頑張る」という言葉…はその言葉を嫌っていた。

いつの日か、はとても不機嫌だった。
どうしたのかと理由をきくと、はこう答えた。

『私の主治医の先生ね、いつも頑張れって言うの。私ね、その言葉嫌いなの』
『どうして?』
『そんなこと言われなくたって、私達はいつも頑張ってるわ。…辛い治療も頑張っているのに、全然認めてもらえてないみたい。じゃあ、あとどれだけどんな風に頑張ればいいの!?私達の事なんて解かってないんだわ』
『…そんな風に言うものじゃないよ』
『…解かってる。でも私ひねくれているから、こういう考えしかできないもん』



そんな風に子供っぽく怒ってるを思い出して、ふふ、と小さく笑いがこぼれた。
ああ、そうだったな。
は変なところで頑固で、気丈で、少し意地っ張りで…。
俺の前では、いつも笑っていてくれた。

…どうして気付いてやれなかったのか。
それは、の精一杯の強がりだったということを。
にだって弱い部分があったことを。
心の奥に、拭いきれない大きな不安があったことを。
俺が一度退院が決まったときの、『良かったね』と言ったの笑顔の裏の寂しそうな表情に、どうして気付いてやることができなかったんだろう…。


そんな表情が、俺が見たの最期になるなんて…その時は思いもしなかった。



その事が知らされた日は、4月の日差しが暖かく僅かな風が桜の花を揺らす、そんな日だった。
俺が退院して、一週間程経った頃だった。

桜が粉雪のように散る光景を見る。
何だかと初めて会った日を思い出すな。
そんな事を思いながら、の病室に向かったんだ。

でも、なかったんだ。…何もかも、そこにはなかったんだ。


…いつもそこにあったはずの、笑顔がなかった。
俺の名前を呼んでくれた人が、そこにはいなかった。


『…?』

いつもの光景と違いすぎて、思わず唖然としながらの名前を呟く。
いるはずの人がいなくて、誰もいない白い病室、きれいに片付かれたベッドが何を意味しているのかその時の俺には理解できなかった。
…いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。

が「死んだ」という、事実を…。

『…あら、幸村君?』

呼ばれて振り返ると、によく付いていた看護士さんがいた。

『…あの、は…?病室…変わったんですか?は、どうしたんですか?』

期待、していたんだ。
自分が思っている答えが、否定されることを。
期待…していたのに…。

残酷にも、その期待は崩れ去った。

俺の質問に看護士さんは顔を悲しげに伏せて、言葉を濁す。
心臓が、ドクンと高鳴った。手が汗ばむ。
そして、もう一度同じ質問をした。

は…どうしたんですか?』と…。
看護士さんは静かに言った。

『数日前に大きい発作が起きて、昨日の夜遅くに亡くなったわ…』
『………』

何も言えなかった。
「亡くなった」という言葉だけが頭の中を駆け巡る。
まるでその言葉しか知らないように…。
…これは、何の冗談だろう?

は…今、どこに…?』

消え入りそうな声で、やっとでそう訊いた。

『今は、霊安室に…幸村君!?』

看護士さんの言葉を最後まで聞かず、その場を後にして、霊安室へと走り出した。

、どうして…?
どうして君が死ななくちゃならないんだ。…あんなに頑張って生きていた君がどうして今、その命を失わなくちゃいけないのか。どうして運命というものは、そんなにも残酷なんだろう。
そんな、いくら考えても答えが出るはずもない問題がいくつも浮かんでくる。

「霊安室」と書かれた部屋の前に立つ。
ゆっくりとそのドアを開けて、「…」と名前を呼ぶ。
暗い部屋に入り、もう起きる事の無いに近づいた。

は昨日、「幻想の世界」に旅立ったんだ。

俺との約束を守ることなく…。
たった1つの約束を果たすことなく…。
一生守る事のできない約束を、俺の胸に残して…。

の冷たくなった手を握った。
が発作を起こしたときみたいに、優しく。
その手は、俺の手を握り返すことはしなかったけれど。
一番君が苦しい時に傍にいてやることができなかった…。

もっと、君に話したいことが沢山あったはずなのに。
もっと、君の歌声が聴きたかったはずなのに。
もっと、君の笑顔が見たかったはずなのに。

俺のテニスが見たいと言った君。
『じゃあ約束ね!絶対だよ!』と、嬉しそうに無邪気にそう言った君。
『最高のテニスを見せる』と言ったのは、決して嘘ではなかったのに。
けれどその約束は、がいなくては意味が無いんだ。
がいなくちゃ叶えられない。

君は…君と交わした、たった1つの約束を守ることさえ許してはくれないんだね。

恨むべきは「運命」。
憎むべきは自分の「無力さ」。

考えてしまう。輝くはずだった、あるべきだったの人生。

硬く、閉ざされたの瞳。
の唇にそっと、自分の唇を重ねる。
…現実は、物語のように上手くいかない。

はじめて自分からのキスは、悲しいほどリアルに「死」の味がした…。


それから看護士さんから聞いた。
の家庭は複雑で、両親はが幼い頃に別々に外国に行って仕事をしているのだという。表面上には出さなかったが何年も会っていなくて、そうとう寂しい思いをしていたんだそうだ。

『でもね、幸村君が来てからの4ヶ月はちゃん本当に楽しそうにしてたのよ。あと、それからこれ…』

手渡されたものは、1つの手紙だった。

『幸村君に渡してくれって、ちゃんが…』




再び入院した、現在8月。
一人きりの病室で、看護士さんから手渡された、からの手紙を開ける。
もう何回読み返しただろう。

手紙の内容は短かった。
ただ、約束を守れなくてごめんと…もう少し生きていたかったと、そう書かれてあった。
それから、精市君の夢が叶いますように祈っていると。
最後に、ありがとう…と。
それだけ、書かれてあった。


ありがとうなんて…俺は一体君に何をしてやれた?
何を、残してやれた?
「幻想の世界」へ旅立つ君を見送ることさえできなかったのに。


ナイフが、俺を貫く。
――胸が痛いんだ、…。
君の笑顔が、胸に痛いんだ。
そんなに、無邪気に笑わないでくれ。

君の笑顔、怒った顔、綺麗な歌声――…。

何もかもが俺の中に残っている。
一生消える事の無い鋭い痛み、それは――君がいた証。


けれど、君がのこした一番強いものは。
身体を切り裂くような――この胸の痛み…。





END 04.9.9





ドリームメニューへ
サイトトップへ