まさか君と離れる日が来るなんて思った事は無かった。
自分が子供だってだけでこんなにも無力なのを思い知った。
だけど、俺達にだって出来る事はあるんだ。





60kmの距離





「会えない距離じゃないんだし、きっとまたすぐに会えるさ。手紙も書くし、携帯で連絡したりメールしたり出来る。だから…」
「うん…そうだね。そうだよね…」

不安そうな顔をしたを、冷たい風から守るように抱きしめる。この暖かい温もりが消えてしまわないように。不安は少しでも消えてくれるように。

サエとが中学二年の秋、が転校する事になった。よくある親の都合というもので、こんな時には子供の意見なんて無いに等しい。まだ実際子供なのだから親の世話になるのは仕方ない事なのだけど。

の転校先は神奈川県。
千葉から神奈川の距離――約60km。
幼なじみで毎日一緒にいたから、幼なじみ以上の関係になっても遠距離恋愛なんて考えた事無かった。…今回の転校で初めて離れる事になる。






『皆元気?ケンカとかは…してないかな』

あはは、と笑いながら話すの声は電話越し。やっとこの電話越しの声にも慣れてきた。

「変わらず元気だしケンカもしてないよ。そっちはどう?学校にはもう慣れた?」
『もう二ヶ月経つし、何とかね。寒くなってきたから風邪なんて引かないようにね』
「はいはい、気をつけるよ。…もう二ヶ月経つんだね」
『…そうだね。早い気もするけど、でも……』
「ん…?」

電話の向こうの声が途切れる。
どうしたんだろう?落ち込んでいるような声。何かあったのだろうか。

『……何でもない。やっぱ今度でいいや』
「そう…?何かあったらすぐ俺に電話して。内に溜めないで、話せる事は話して」
『うん、そうするね。ありがとう』

だって今は話を聴く事くらいしか出来ないのだ。前のように家に会いに行って抱きしめる事も出来ない。泣いていても涙を拭ってやる事も、傍にいることすら出来ない。
だから何かあったらせめて…話を聴いてやりたい。少しでも気持ちが晴れるように。
今まで当たり前に出来た事が今度は当たり前に出来なくなる。
もどかしくて悔しくて、たまらない…。会って、あの笑顔が見たい。



人もまばらになった放課後の教室に一人、サエはぼんやりと窓の外を見つめていた。
クラスメイトの黒羽が、サエに心配したような声で話し掛ける。

「どうしたよサエ、ボケッとして。最近元気無くないか?」
「バネか…。いや、ちょっと気になる事があってさ」
「何だ、になんかあったのか?」

サエが何か話す前に黒羽はあっさりとサエの悩み事を見破った。そんな黒羽を見て、ふっと微笑んで、小さく息を吐いた。

「よく解かったね」
「何となくな。で?気になる事って?話せるなら聴くぜ」

黒羽はサエの前の席に座って、身体だけサエの方に向ける。
親友とも呼べる男が、親身になって相談に乗ってくれる。そんな友人が傍にいる事が嬉しかった。

「気になる事というか…何だかもどかしくてね」
「もどかしい?」
「今までは手を伸ばせば届く場所にいたのに、今は会う事だってままならない。だから何かあっても傍に行く事も出来ないだろ?時々…無性に会いたくてたまらない時があるんだ」
「…………」
「簡単にはもう会えないって解かっているのに、それでも会いたいって思う気持ちは強くなる一方でさ。電話で声を聴く事は出来る。でも電話の向こうで泣いていても、俺は何も出来ないんだ。涙を拭いてやる事も出来ないんだ…」
「…………」

黒羽は黙ってサエの話を聴いていた。
一体何を話してんだろう、と話しながらサエは自問自答していた。こんな事を言ったって聴いているバネが困るだけじゃないか、と。どうにもならない事を愚痴って、こんなにも弱い自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
がいなくなってもう二ヶ月が経った。なのに、未だにがいない教室に慣れない。ふとした時に、ついの姿を捜してしまう。電話で話す事が、電話越しの声が余計にを遠く感じてしまう。それが今、自分達が繋がる唯一の方法だとしても。
でもやっぱりそんなんじゃ足りないよ。君の声を聴くときには君の顔を見てその声を聴きたいのに。
――そして今まで黙って聴いていたバネが沈黙を破った。

「今までずっと傍にいたからな…。会いたい奴に会えないってのは…案外辛いよな」
「離れる事なんて、考えてもいなかったよ」
「親の都合とか言われちゃ子供って何も出来ないからな。子供って色んなものに守られて…それだけ自由じゃないって感じがするな。でもな、サエ」
「…何?うわっ」

黒羽はサエの頭に手をやって、くしゃくしゃと頭を撫でまわした。サラサラなサエの髪が乱れてボサボサになる。

「今お前がそう考えてるって事は、向こうも同じような事思ってんじゃないか?子供だけど、何か出来る事だってあるはずだろ。俺は偉そうな事言えねぇけど…」

滅多に見ない、黒羽の真面目な顔。そしてニッといつもの力強い笑顔になって一言。

「60kmの距離なんてぶっ壊せ」
「何…?60km?」
「千葉から神奈川までの距離?」

「ぶっ壊せ」と言った黒羽にキョトンとして、千葉から神奈川までの距離を自信たっぷりに言いながら、最後の語尾は疑問系の黒羽の言葉にサエは思わず吹き出してしまった。

「プッ…あはっ、何で疑問系なんだよ。全く、バネは…ハハッ」

多分、黒羽の言葉は黒羽なりの励ましの言葉なんだろう。
サエは久しぶりに声を上げて笑った。半分、嬉しくて笑っていたのだけれど。目が潤んでいるのを隠すように顔を覆ってサエは笑った。
――ありがとう、バネ。君という親友がいてくれて本当に良かった。
黒羽は笑ってるサエの頭を軽くパシッと叩く。

「ほら、そろそろ帰ろうぜ」
「ああ、そうだね」


――、今君は一体何に不安を感じているんだろう?それを俺に教えて。どんなに情けないことでも構わないから。
君が不安に思っている事を、俺が励ましてあげられたらいい。親友が、俺にそうしてくれたように。君の不安を拭い去ってやりたい――。



「はー、寒い…。日も短くなったなあ」

どんよりと空は暗く、なんだか雪が降ってもおかしくない空模様だ。明日は土日と連休で部活も無い。晴れればどこか買い物にでも行きたかったのに。
息を吐くと色は白く、その色が一層寒さを感じさせる。冷たい風が吹くと、身震いをして家路に急げとサエは小走りで家へ向かった。
と、家の前に人影が見えた。部員の誰かじゃなさそうだし、六角ジュニアでもなさそうだ。ピタ、とサエの足が止まった。
――…女の子?何だろう、すごく懐かしいような…その姿形には見覚えがある。俺のよく知ってる……。まさか…?でも……。
その人影がサエに気づいて、ゆっくりと微笑んだ。

「サエ」
「っ……!」

彼女はサエの名を呼んで微笑みながら小さくひらひらと手を振った。その瞬間、サエはその人に向かって走り出していた。
――見間違いなんかじゃない、夢なんかじゃない。俺が今一番会いたくて触れたい人がそこにいるんだ。会いに来て、くれたんだ。から、俺に…!

っ……!」
「きゃっ」

走った勢いでガバッとサエはに抱きついた。
まだその時間はそんなに遅くもなく、人もまばらにいたのだが、そんな事気にならなかった。人の目を気にするほど悪い事をしているわけではないし、人目よりもがここにいるという事を確かめたかった。

「サエ…ちょっと…痛い…」
「うん……でも…」

抱きしめるのに力を加減するのを忘れてしまったらしい。痛いとから抗議の声が上がったが、でも今は強く抱きしめたい。
サエはの肩に顔を埋めたら、少しだけ伸びた髪からふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。はサエの背中をポンポンと優しく叩く。
そしてそっと抱きしめてた腕に力を緩めて、腕の中のの顔を見る。は照れくさそうにはにかみながら笑った。その仕草を見るのも久しぶりだ。

「へへ…来ちゃった」
「うん…すごく嬉しい」

急に会いたくなったと言うに、サエはがその想いを行動に移してくれた嬉しさを素直に口にした。
笑うの頬を触ると、ひやっと冷たい感触がした。

「冷たいね。いつから待ってたの?」
「うーんと…1時間ちょっと、かな?」
「寒かっただろ?携帯に電話くれればよかったのに…」
「あ、そっか、そうだね。でも待ってる間も「やっと会える」って思って楽しかったよ。サエに会うのにこんなにワクワクしたのって久しぶり…クシッ」

が小さいクシャミをした瞬間に冷たい風が吹き抜けた。冷たくなったの肩を抱いて、家の中へと招きいれた。

「ここじゃ冷えるから、とりあえず家の中に入ろうか」


のいきなりの訪問に、サエの家族は温かく迎えてくれた。
親はを本当の娘のように可愛がり、姉もを妹のように可愛がっていたから、皆何かとに構いたがり、二人がゆっくり話が出来たのは夕食の後だった。

「ごめんね、着いた早々大変だったろ?」
「そんな事ないよ。いきなり来たのに、夕食までごちそうになっちゃって…。…本当に泊まっちゃっていいの?」
「ああ、遠慮なんかしないで。うちの家族、の事気に入ってるから喜ぶさ」
「ふふ、それは嬉しいなぁ」

そう言って笑うに、サエも思わず顔が綻ぶ。
先日の電話では明らかに元気がなかっただが、見たところ何かあったようには見えない。何か言いたそうで、でも何も言わなかった。

…前に電話で話したときに何が言いたかったか…教えてくれるかい?」
「……うん」

は少し考えたような顔をしてから短く返事をして、少し淋しげに笑って俯いた。そして小さな声で話し始めた。

「…私ね、サエと電話で話すの好きよ。いつもと少し違った声で、ドキドキするから。私が引っ越してまだ二ヶ月で、サエの電話の声好きだけど…でも」
「でも…?」
「でもやっぱりね、時々すごく会いたくなるの、今日みたいに。電話じゃなくてやっぱり顔見て、会って本当の声が聴きたいなって思う。でも会いたいなんて言っても、前みたいにすぐ会えるわけじゃない。無理を承知で会いたいなんて言えなかったの」

黒羽の言った通りだった。もサエと同じ事を思っていたのだ。
――電話の向こうでが不安そうなのは解かっていたのに。も同じ事を思っていてくれていたのに。何も出来ないと決めつけて自分を責めて、自分の事ばっかりで、今何が出来るかなんてそんな事考えた事もなかった。

「今まで近すぎるってくらい一緒で…離れる事なんて考えた事なかったから。……淋しいよね」

も淋しいと、会いたいと、離れる事なんて考えた事なかったと、そう思ってくれていた事に、不謹慎ながらも同じ思いだった事に、サエは嬉しく思った。
そしては何も出来ないと嘆くだけじゃなく、会いたいと思う気持ちを行動に移してくれた。

、俺に会いに来てくれて…ありがとう」
「ううん、だって私も会いたいと思ったからここに来たんだもん」

抱きしめた腕から、お互いの身体から温もりが伝わってくる。冷え切っていた身体に温もりが流れ、それが感じていた不安も埋めてくれる。
嬉しくて愛しくて、サエは初めて人を想って涙を流した。



連休が終わる日曜日、神奈川へ帰るをサエは見送る。

「じゃ、また電話するね。会いたくなったら…また来てもいい?」
「いや、今度は…俺から会いに行くよ。…案外、すぐになるかもしれないけどね」
「…ふふ、うん、じゃあ待ってる」

離れる事なんて考えた事もなかった。いつも一緒にいたから。
でも離れた事によって気づかされた事がある。サエはが、はサエが、どれだけ自分にとって大きな存在かという事だ。
そして諦めない事。今自分に何が出来るか探して、自分に出来る精一杯の事に全力を尽くす事。
そうだ、会いたかったら会いに行けばいいのだ。ただ少し、距離が離れただけではないか。簡単には会えないけれど、会いに行けないわけではないのだから。



「何だ、スッキリした顔してんなー、サエ」
「あ、バネ。60kmぶっ壊す方法解かったよ。サンキュ」
「あーそーかい、そりゃ良かったな」

呆れたような笑みを浮かべる黒羽が片手を上げた。サエも片手を上げて、黒羽の手にパシッと自分の手を当てた。
ふと外を見ると、小さい雪がちらほら降ってきた。そういえば、もう少しで冬休みだという事を思い出す。

短い冬休み。終業式はクリスマスイブ。
そして冬休みが始まったクリスマスの日には――真っ先に君に会いに行こう。





END 07.4.28





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