彼女が俺を見上げて小さな声で「好き」と言う、その笑顔が愛しいと思う。
彼女にそう言われると、何だかくすぐったいような、暖かい気持ちになる。
そんな気持ちになるのは、初めてだった。





  初恋





二年の秋に告白された。
「南君が好きです」と。
「これからも一番近くで、南君のテニスを見ていきたい。特別な存在として」と。
顔を下に向けて、返事を待ってる彼女に俺は「お願いします」と答えた。
その時の嬉しそうな顔が忘れられない。



彼女の名前は、
俺と同じ学年で、一年の夏休み前くらいに山吹中の男子テニス部のマネージャーになった。
特別に親しかったというわけではなかったが、部活になると、自由奔放な千石の面倒を見るのは同じ学年の俺たちの仕事となった。面倒見がいいというのは、時にこういった不運を招く。
彼女はマネージャーとしての仕事もあるのに、それをおろそかにすることもなく、いやな顔一つせずに俺に付き合ってよく千石の面倒を見てくれた。
そんな彼女に対して親近感が沸くのは、ごく自然なことなのかもしれない。
そしてその気持ちは恋と発展していったわけなんだけど、その気持ちに気が付いたのは彼女に告白されたときだった。それまで気がつかなかった自分の気持ちの鈍さに少し情けなく感じても、付き合い始めて八ヶ月、今までなんの問題もなく俺たちは順調だ。


彼女――はなんの前触れも無く俺に「好きだよ」と告げる。
誰にも聴こえないように、俺だけに聴こえるようにそっと、小さな声で。
そんな風に素直に想いを伝えてくれる事が嬉しくて、「ありがとう」と俺は答える。
がそう言うのは、思えば俺が落ち込んでいる時が多いことに気が付いた。がそんな俺を気遣ってそう言ってくれていると思うのは自惚れだろうか。
たとえそうだとしても、のその言葉を聴くだけでまた明日も頑張ろうと思える。
笑いながら「好き」だと言ってくれる事が、俺には大きな救いになっている。
と付き合ってからは、初めて感じる気持ちがたくさんある。
誰かをこんなに大切にしたいと思うのは、初めてだった。

今思えば、俺は恋と言う恋をしたことがなかった。
山吹にスポーツ特待生として入るほど、テニスに打ち込んできたから。
だとすると、は俺にとって正真正銘の初恋となるわけで…。

そんな話を千石にしたら、「すごい初恋だね…南」と少し引かれたっけか。その後にいつものへらっとした顔で「まぁでもさ、南らしくていいんじゃない?」なんて笑ってたな。


その時の俺は幸せそのものだった。
大会もそれなりに順調に進んで、隣にはがいる。

だけど、が「好き」だと言った後に笑顔がかすかに曇ることに俺は気が付いていなかった。



夏休みのある登校日に、二年の女子に呼び出しを受けた。
「先輩、好きです」と告白をされた。
千石みたいに告白というものに慣れていない俺は、思わず顔を赤くして「あー…ありがとう」と言った。
彼女は赤い顔をして、俺に一通の可愛らしい手紙を渡した。
「読んでください」と言う彼女に、俺は「ごめん、受け取れない」と謝り、その手紙の封を開けないまま彼女に返した。


その日の帰り道、の様子がなんだかおかしかった。
落ち込んでいるというか、沈んでいた。
そしてまたは「好きだよ」と唐突に言った。
いつもは笑って言うはずが、今日は顔を下に向けたままでどこか泣きそうな声だった。
そのいつもとはあまりに違う様子に俺は戸惑いながら、何かあったんだろうかと心配になってきた。

「…、どうかしたのか?」
「どうして…?」
「え?何が…?」
「どうしてそんなに困った顔するの?」

の眼には涙が溜まっている。俺には状況がさっぱりで、半分混乱していた。
が泣くのなんて付き合い始めてから初めてのことだったから、俺はどうしていいのかオロオロしていたら、が話し始めた。

「いつもそうだよ。私が好きって言うと、南君いつも困った顔するの。どうして?」
「俺は…困った顔なんて…」
「してるのっ!好きって言ったら南君はありがとうしか言わなくて…。私、南君が私のことどう思っているのか解かんないよ」

本格的に泣き出しそうになってるを見て、俺は自分の耳を疑った。
俺の想いはには伝わってなかったんだ。
が「好き」だと言って俺にその気持ちを向けてくれる。


……あれ?何かが…おかしい。
俺は何かとても大切な事を…やり忘れてる…?

……何を……?

そんな奇妙な感覚を覚えたけれど、今はとにかくの涙を止めたいと思った。
俺が泣かせているのは確かだから。
そして俺にはが必要なのだという事を解かってもらいたかった。

…聞いて?俺はのことが大切なんだ」
「違うよ、南君無理してる…」
「してないっ!無理なんてした覚えはないよ!」
「じゃあ何で?…何で南君は『好き』って言ってくれないの?」


……あ。何だろう、解かりかけた。
やり忘れてたこと…言い忘れてたこと…。

「いつも私ばかり。南君は付き合ってから一度も私に『好き』って言ってもらったことないよ…」
「!!」


……そうだ、そうだったんだ。
俺は一度もにそうはっきりと好きだと言ったことがなかった。
はいつも好きだという気持ちを俺に向けていてくれたのに、その気持ちに対して俺はに何も返してなかたんだ。今まで何もにしてやれなかった。

「…
「もういいよ、…もう、いい」

は短くそう言って、俺に笑顔を向けた。
頬に伝っていた涙を拭いて、極上の笑顔で。



「バイバイ」


そう言って、俺の前から踵を返した。


は俺に求めていたもの。
それは「ありがとう」なんて言葉じゃなかった。まして、「大切」とかそんな言葉でもなかった。
ただ一言、「好き」だという言葉…それだけだった。
今思い返せば、は付き合ってからの八ヶ月、どんなに不安だったんだろう。
好きな人からその気持ちを伝えられないこと、傍にいるのに自分のことをどう思っているのか解からないのは…どれだけの不安だったのか。

そうだ、想いは伝えなきゃ始まらない。傍にいるだけで想いが伝わるはずがないし、まして大事な事だったらちゃんと口に出して言わなくちゃ。
それはとても勇気のいることだけど。


伝えなきゃ伝わらない。
君が好きだという事を――。


俺はすぐにを追いかけた。
すでにの姿はもう見えなくなっていたけど、全速力でを追いかける。
の姿がかすかに見えて、俺はを呼んだ。

っ、待って!」

俺の声が聴こえていないのか、振り向きもしないでは走り続ける。
ああ、重いテニスバッグが忌々しい!こんな重いもの持ってたら追いつけないじゃないか。
こんなとき千石ならどこからかラッキーが降ってきて何とかなるんだろうなぁ。
普段はやっかいなそのラッキーが時々は羨ましい。特にこんなときは。

「待てって言ってるのに…くそっ」

俺には降ってこないラッキーは諦めて、独り言を小さく呟き、力を振り絞った。
なんとか追いついて、の腕を掴んだ。

「待てって言っただろっ!」
「離して!触んないでっ」
、とにかく落ち着け。…っ!」

掴まれた腕を振り払おうとするけど譲らなかった。強くの名前を呼んで、乱れた息を整えた。

「…だったね」
「え?」

が小さく何かを言った言葉を聞き取れず、聞き返した。

「今日南君に告白してた後輩の子、可愛い子だったね」
「見てたのか?」
「偶然ね。私、あの子のこと少し知ってるけど、素直で良い子だよ」
「ちょっと…?」

いきなりの話題に、話が読めない。
は一体何を言いたいんだろう。

「今ならまだ間に合うよ。南君は私なんかよりその子のほうがいい…」
「…何だよそれ。勝手に決めるなよ」

さすがの俺もカチンときて、の手をぐっと掴んだ。
ここからなら俺の家が近い。しかも今日は家に誰もいないはずだから、ゆっくりと話ができる。
俺はの手を掴んだまま黙って歩き出した。

「ちょっと…南君、どこ行くのっ?南君ってば!」
「黙って。少し俺に付き合ってもらう」

の戸惑った様子が伝わってきたけど、ここまできて引くわけにはいかなかった。
俺の家に着いたとき、今まで大人しくしてたが抵抗の力を強めた。
無理矢理玄関に入れて逃げられないように鍵をして、目線を合わせたと同時にキスをした。

無意識になのか、が逃げようとするのを俺は許さなかった。
腰を引き寄せて、深く口付けた。
それでもは抵抗を諦めずに、軽く胸を押しやるが、それも無視してキスを続ける。

「…ふは…」
「………」

一度唇を解放する。
苦しそうに息をしながら顔を赤くしているをほんの少しの間見つめて、角度を変えてまたキスを再開した。
見つめたときは困惑した表情をしていた。だけど抵抗しても無駄だと思ったのか、力では敵わないと思ったからなのか・・・解からなかったけれど、俺の胸を押しやっていたの手は俺の制服をきつく掴んでいた。

「……っん…ふぁ…」

舌を入れたら甘い声が漏れる。

今までと一度もキスをしたことがないわけじゃなかった。
けどこのキスは今までのどれとも違ってた。こんなに甘くて激しいキスは今日が初めてだ。そんなことを思いながらゆっくりと唇を離すと、が俺の首に手を回してきた。
まるでまだキスを終わらせたくないみたいに。
そんな誘うような仕草をするのに、俺を見つめるその眼はどこかすがっている様にも見えて、もう一度優しく唇を合わせた。

キスが終わっても、俺たちはずっと抱き合ったままだった。
は一応今は大人しいし…もう逃げない、よな?
これなら落ち着いて話が出来るかな。

、俺の話…聞いてくれるか?」
「………」

何も言わず、でもかすかに頷いたのを確認して俺は話し始める。

「俺な、が告白してくれたのはすごく嬉しかった。が告白してなかったら、きっと俺がしてた」

きっとが好きだという気持ちを自覚するのは、が告白してこなくてもそう時間はかからなかっただろう。

が傍にいてくれて、それだけで気持ちは通じ合ってると思ってたんだ。
でも違うんだよな。口に出さなきゃ伝わらない気持ちだってあるし、そうしなきゃ不安にだってなるよな。…ごめんな」

黙って俺の話を聞いてるをぎゅっときつく抱きしめて。の首筋に顔を埋める形になって。
そしてがずっと求めていただろう言葉を初めて口にする。


「好きだよ…好きだ」


俺の突然の告白にその言葉を求めていた本人のは、ポカンとしている。
その顔に小さく笑いを零して、もう一度言った。
今度は眼を合わせて。


「好きだ」

どんどん状況を把握してきたのか、の顔は徐々に赤くなっていった。
耳まで真っ赤に染まったは視線を下に向けてボソッと言った。

「赤い…」
「え?」
「南君…顔、赤い…」

はかすかに笑いながらそう言った。
「お前も赤い」なんて言いながらも、そう言われたら確かに顔が熱い…。心臓もすごいバクバクいってる。

くすくすと笑うを引き寄せてはーっと息を吐いた。

「当たり前だろ?生まれて初めての告白なんだから」
「そうなんだ、どうしよう…すごい嬉しいかも。ふふっ」

まだ顔は赤いままで、照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに笑う。
初めて見せる、その笑顔を見た瞬間に俺の心臓がドクンと大きく鳴った。
思わずきつくを抱きしめた。

…覚悟しとけよ」
「…何の?」
「何があっても、俺は絶対お前から離れてなんかやらないからな」





「すごい告白だったよね」
「もういいよ、その話は…」
「あははっ」


あれから俺たちは何とか元サヤに戻った。
が「すごい告白」と言うが、今考えたら我ながら本当に凄い事を言ったと思う。
がその話をするたびに、俺は照れくさくてどうしようもない。
「離してなんかやらない」なんて子供みたいな事を言ってしまったけど、がその後に「絶対だよ」と言った。



は今も変わらずに俺に『好きだよ』と言う。
あの愛しい笑顔で。

「南君、好きだよ」
「そうか、俺は大好きだ」

俺の切り返しが変わった。
そうサラリと言った俺を見て、ちょっとムッとしながらが顔を赤くする。
そんなの顔が可愛いと思いながらも、可笑しくて俺は笑いを零す。

「何笑ってるのよぅ…」
「いや、別に?」


この初めての恋の気持ち。
これからは声に出して、君に伝えていこうと思う。





END 05.7.9





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