私以外の誰かがあなたに触れた、そんな時には。
 消毒をしてあげるわ。

 私にしかできない――世界一甘い消毒をしてあげる――。





  甘い消毒





 学校に来て、授業を受けて、放課後には部活があって…。
 そんな当たり前の日常の中で事件は起こった。

「…え? ブン太がいない?」
「ああ。…ったくもう少しで部活が始まるってのに」

 どこに行ったんだ、と顔をしかめるジャッカル。
 確かにコートにはまだブン太の姿はない。
 腕時計を見ると部活が始まるまであと20分弱。

「解かった。
 じゃあ私探してくるから」
「…えっ? ちょっと…?」
「大丈夫。部活が始まるまでには連れてくるから!」

 そう言って私は駆け足でコートを後にして、ブン太捜索を開始した。

 開始したまではよかったんだけど…ホンットどこに行ったのよ。
 部室、教室、屋上…どこにもいないんだけど!
 再び腕時計を見ると、部活が始まるまであと10分もない。
 ケータイ…はカバンの中だ…。

 あと…残るっていったら体育館裏くらいか…。
 それで見つからなかったら…まぁしょうがないよね!
 そう思って私は体育館裏へと足を向けた。



「だから、ずっと好きだって言ってるじゃないっ!」

 体育館裏から女の子の泣き叫ぶ声が聴こえた。
 私は反射的に物陰にさっとかくれた。
 そういえば体育館裏といえば告白スポット。
 しかし…まさかこれは修羅場とかいうやつですか?

「だから、俺はアンタと付き合う気もないし、彼女もいるっつってんじゃん」

 …ん? どこかで聴いた事のある声…。
 見つからないようにヒョコッと顔を出すと、まさに捜索のターゲット…つまり丸井ブン太がそこにいた。

 私の彼氏は案外女泣かせなんだとどこかズレた事を思っていたその時。
 私は自分の瞳を疑った。

 告白していた女の子がいきなりブン太の胸倉をつかんで自分の方に引き寄せて。

 ブン太の唇に…口付けた。

「ちょ…っ、離せよっ!」

 ブン太が慌ててその彼女から身体を離す。
 軽く触れ合う程度だったらしいけど…それでも…。

 ああ、頭の中が真っ白ってこういう事をいうんだろうなぁ…。
 うまく思考が働かない。

 ただ黙ってブン太を見つめていると。
 ふっとこちらを見たブン太と目が合った。

「……?」

 困惑したような動揺したような、どちらとも取れない微妙な表情で私を見る。
 唖然として何も言えずに、ただ私を見つめている。
 ブン太にキスをした彼女は、私をキッときつくニラみつけている。

「あ…えっと…別に見るつもりはなかったんだけど…。
 何かお邪魔だったみたい…だね。…ごゆっくり…」
っ!!」

 ブン太が叫ぶ声にも振り返らないで、走って私はコートへと戻る。
 これ以上、あの二人が一緒にいるところは見たくなかった。

 コートへと息を切らし戻るとジャッカルが話しかけてくる。

、遅かったな…ってブン太はどうした?」
「あ…忘れてた…」
「へ?」
「あ、ううん。もうすぐ来るよ」

 笑ってそう答える。
 ブン太を連れてくることより、あの場所から一時でも早く離れたかった。
 あれ以上あそこにいると、心にもない事を言ってしまいそうで怖かった。

「お、ブン太の奴やっと来たか」

 ジャッカルのあきれた声がすぐ後ろから聴こえて、ドキッと心臓がはね上がる。
 今は…ブン太の顔を見たくない。

、ちょっと待てよ」

 さり気なくその場から離れようと立ち上がった時、ブン太に呼び止められてしまった。

「…あのさ…」
「ブン太、遅刻だから罰としてグラウンド五周追加ね」

 何かを言いかけたブン太の言葉を無理矢理遮った。
 何とか笑顔をつくって。何もなかったかのように普通に。

「ほら、早く走ってきなさいよ」

 そう言ってその場を足早に去って、ブン太の傍から離れた。
 何とか笑顔をつくった…けれど目線は合わせないままで。

 今…ブン太はどんな顔をしているんだろう。
 マネージャーとしての仕事をいつものようにこなし、いそがしく手を動かす。
 けれど頭の中はさっきの映像が何回、何十回とグルグル回っている。

 当のブン太は何もなかったかのように部活に集中してるし。
 でもそんなブン太の態度がよけいに私を不安にさせている。
 ブン太は「キスの一つや二つ減るもんじゃない」とでも思っているんだろうか?

 そりゃあ、そう言っちゃえばその通りなんだけどさぁ…。
 不可抗力でも、もしそう思っているんだとしたら私って一体何だろう?
 キスの一つや二つでグチグチ言ってる私って…一体何?

 しかも「お邪魔だったみたいだね」なんて…。
 どうしてあんな事言ってしまったんだろう、私。
 何か…何か言わなくちゃと思ったらあんなお決まりの言葉しか言えなかった。

 …素直じゃないって、こういう時に困る。
 聞きたい事も素直に言い出せないから。

 だからって「気にしてないから」なんて笑って言えるほど、私はそんなに良い子じゃない。

 …気にするよ、当たり前じゃない。
 付き合っている人が他の子とキスなんかしていたら、普通気にするじゃない。

 …私が考えすぎなだけなのかな…。

 もしかして…私は甘かったのだろうか。

 ブン太は私に対して優しくて、一途に想っていてくれるのも大切にしていてくれるのがよく解かるから…。

 たとえその想いが永遠じゃないと知っていても、今はブン太は誰のモノにもならないとそう思っていた。

 今は、私だけの傍にいて私だけのモノなんだと。
 何の根拠もないのにそう思って信じて疑わなかった。


 ねぇ、どうしてそんな普通にしていられるの…?

 ねえ、お願いだから「何でもない」って言ってよ。
 私が不安なの気づいてよ。

 そしてその日の部活が終了した直後にブン太に「部室へ来い」との呼び出しを受けた。





 部活が終了し、約一時間が過ぎた頃。
 学校の回りも活気があったコートやグラウンドがシンと静まった中、私は1人テニス部の部室へと足を運んだ。

「いきなり呼び出しなんてどうしたの?」

 部室のドアを開けて、中にいる人物に声をかけた。
 中にいる人物――丸井ブン太。

「………」
「………」

 …何? 何ですか、この沈黙は。
 何か用があって呼び出したんじゃないの?

 呼び出しをした当人は下を向いて私の顔も見ようとせず、ただ黙っていた。
 そして唐突に口を開いた。

「なんでだよ…?」
「……何が?」

 何となく解かっていても確信を持てず、聞き返す。

「なんでそんな普通にしてるんだよ」
「それは…私のセリフなんですけどね」
「……」

 また黙り込む。
 というか…どうして私が責められなくちゃいけないの。

「ブン太こそどうしてそんな普通にしていられんのよ。
 キスなんて私以外の誰としても大したことないって思ってるんでしょ」
「…なに…」
「違うの? でも可愛い子で良かったんじゃない?」

 少しばかにしたような薄笑いを浮かべてそう言い放つ。
 うつむいていて相変わらず表情は見えないけれど声の様子からして怒っているんだろう。

「…ふざけんなよ」

 一言低い声でそう言ったと思ったら一歩一歩ゆっくり私に近づいてきた。
 そしていきなり右手で肩をつかんで左手で右手をつかんでロッカーに叩きつけられた。

 肩を思いきりロッカーに叩きつけられて、バンッと激しい音を立てた。

「……っっ!」

 叩きつけられた瞬間、痛くて声が出なくて顔をしかめる事しかできなかった。
 そのままずるずると、床へ座る形となった。
 痛くて頭がクラクラする…。

 私が何か言うヒマもなくすばやく唇がふさがれた。
 なんとか抜け出そうとしたけれど、ビクともせず身動きができない。
 …すごい力…。ほどけない…っ。

 唇を割られて、舌を入れられて口内を舐め回される。
 静かな部室にくちゅ、といういやらしい音が響く。

「…んっ、ふぁ…っ…やだっ」

 少し唇を離された時に、甘ったるい息と共に拒絶の言葉を口にしたら、さらに深いキスをされた。
 角度を変えて。何度も。
 いつもとは違うとても強引なキスが続く。
 かすかに恐怖すら感じるような気さえしてくる。

(…痛…)

 いつの間にかブン太の手は私の両手首を押さえている。
 つかまれた手首が痛い。肩の痛みも時間が経つにつれてリアルになってくる。
 その二つの痛みで思考がまともに動かない…。

「…ん…。…ちょ…っと…」

 キスの長い時間が終わり、ブン太は私の首筋に舌を這わせる。
 そして乱暴にネクタイをほどかれた。

 …ちょっと…やだ…。
 こんなところで…冗談でしょ!?

「…やだってば…。もう…待って!
 〜〜っ待ってって言ってるでしょ!!」
「…ンだよ…」

 私のいきなりの大声でなのか、行為を途中で中断させられたからなのか、不機嫌そうな顔と声。
 上目遣いでニラまれてもひるまない。
 …でも、キスの途中から悪寒が止まらない…。

「何だよじゃないわよっ!
 こんなところでいきなり…何のつもりよっ!」
「…解かっていないようだから、解からせてやろうと思ってさ」
「…何を?」
「俺がお前の事、どれだけ本気かって事を、だよ」

 ブン太がめずらしく不敵そうにニッと笑う。
 でも…目がちっとも笑ってなんかいない。
 その瞬間、全身にざわっと何かが一気に走った。
 ああ、そうか…。この悪寒の正体は。

 ……「恐怖」だ…。

 そう確信した時、身体が震えだした。

「…やだっ! やめて!! ブン太、やめて!!」

 あまりの恐怖に目線をそらして、大声でそう叫んだ。
 …ブン太を「怖い」なんて思うのは初めてだった。

 身体の震えが止まらない今もブン太の手は行為を再開。

 …どうしよう…。このままじゃいけない。
 何とかして抜け出さないと…っ。

 でも…身体が震えているせいか、肩の痛みのせいか、うまく力が入らない。

「…っんぅ…っ!」

 再びまた深いキスをされる。
 ブン太の手はYシャツのボタンをはずそうとしてる。

 …っやばい…!
 何とか…何とかしないとホントにこのまま…。
 そんなの…冗談じゃないし、自分で何とかしなくちゃ。

 キッとキスしてるブン太の顔をニラんで。
 ガリッとブン太の唇の端を噛んでやった。

「…っつぅ…」

 痛みで顔がゆがんだ時、フッと力が弱くなったスキをみて、すぐさまブン太から離れた。

 …どうだ、ざまあみろ。
 私の肩の痛みに比べれば、そんなの大したことないはずだものね。
 ムリヤリ、こんな事されたことに比べたら、そんなキズ…大したことないじゃない…。

 乱された服をササッと直して。
 安堵感からか、涙がにじんできて1つポタッと床に落ちる。

 …不覚だ。
 人前で涙をこぼすなんて。
 ブン太の前でさえ一度も泣いた事ないっていうのに…。

「…ふ…」

 一度こぼれた涙は止まる気配はない。
 次々と私の頬を伝ってポタポタと床に一つ二つと跡をつける。

 もう、最悪ったらないわ…。
 ブン太が他の子とキスしてる場面を目撃するわ、いきなりこんな事されるわ、人前で涙は見せるわ…。
 こんな日を厄日と言うんだろうな。

「…ブン太…こんな事して楽しい?」

 震える身体。声もかすかに震えていたけれど、何とかしぼり出した声。
 痛む肩を押さえながら、泣きながら、私をジッと見ているブン太に目線を合わせた。

「私が困ってるの見てそんなに楽しい?
 私が泣いているの見て…そんなに楽しい!?」
「…っ違う…っ。、俺は…」
「俺は何よっ! 言ってみなさいよ!
 …違うって…? 全然違わないじゃないっ! …ふざけてんじゃないわよっ!!」

 私はね、ブン太。
 何も特別な言葉なんて望んでいなかったんだよ。

 綺麗な言葉なんていらなかったんだよ。

 「何でもない」

 その一言だけ聴ければそれでよかったのに。

「…っもう…やだ」
…」

 何とかなぐさめようとしたのか、それとも他の何かをしようとしたのか…。
 私に伸びてきたブン太の手を見て、私はびくっと身体を硬くする。

 いつもは温かい手が今日はとても冷たく感じた。
 そしてその手は今は恐怖を与えた手。

 そんな私の様子を見て、ブン太はその手を引いた。

 下を向いて顔を伏せる。
 だって今はブン太の顔なんて見たくない。
 そうよ、ブン太なんて…。

「…ブン太なんて…嫌いよ。
 ブン太なんて…大っ嫌い!!」

 そう大声で言い放って、乱暴にドアを開けて部室を飛び出した。
 一度も振り返らずに、走った。

 …いつの間にか…雨が降ってたんだ…。

 良かった…雨が降っていてくれて。
 だって泣いた顔なんて濡れたら解からないもの。いくらでもごまかせる。

「…痛…っ!」

 肩がズキッと痛んで立ち止まる。
 はぁ…とため息を一つ吐いて、そして小さくフフッと笑う。

 私って…何てバカなんだろう。自分であきれるくらい。
 「嫌い」だなんて言っても…あんな事されても、ブン太の笑った顔が恋しいと思うなんて…バカみたい。

 たとえ怖くて震えていようとも、笑って抱きしめて欲しいと思うなんて…。

 今、心から感じるわ。
 自分の一途な想いが憎くてたまらない。

 「嫌い」なんて口ではいくらでも言えるけど、心まではそうはいかない。
 自分の心なのに、どうする事もできないのにイラだつ。

 どんな事されても嫌いになれないなんて…。

 容赦なく雨が私の身体を濡らしていく。
 ああ、冷たい雨が痛む肩に心地良い。

 この雨と一緒に今日という日がどこかに流されてしまえばいいのに――。





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