見えない将来が不確かなのは当たり前。
だけどこんな時代は「今」だって不確かで仕方ない。一分一秒の先だってどうなるか解からない。
現実主義の君は、そんな怖さなど知らないのだろうか――?



『ずっと大好きだ』とか、『離れても想いは変わらない』とか、君が傍にいない時にそんな言葉を支えにして笑っていられるほど、私は強くない。





REALIST





が所用で職員室で行った時に、榊監督の机の上にあった書類に目が止まった。
それはテニスの海外留学の書類だった。
テニスの海外留学なんて話、誰に来たかなんて解かりすぎてて嫌になる。そんな人、氷帝テニス部には一人しかいないのだから。

跡部が海外留学をするらしいという話は、いち早く正レギュラーの耳に入り、噂好きの岳人がその話を切り出した。

「跡部、高校進学と同時に海外留学するかもって話だぜー?」
「行けば、軽く2〜3年は帰ってこないんやろ?」
「さすがだよねー。もしかしたらそのままプロになっちゃうんじゃない?」

さらりと、あははと笑って言ったにジローが顔をしかめる。

「跡部、外国に行っちゃうかもしんないんだよ。、それでいいの?」
「良いも何も、それが跡部の可能性ならそれを摘んでしまうことはしたくないし」

実際、が何を言ったとしても、跡部自身に行く意志があるのなら迷わずに行くのだろう。その才能を潰す事なんてしたくないのも本当。だから行かないで傍にいて、なんて事は絶対に言えない。だけど本当は……。
矛盾してるなぁ、とは薄く笑った。
跡部がテニス留学するという事を、今まで一度も考えなかったわけではなかった。きっとまだ先の事だと思って目を逸らしていたのだ。今その事を思うと、いつか来るこの現実から知らず知らずの内に逃げていたのだろうか。
いざ、その現実を目の前にするとどうしていいか解からなくなる。頭の中には、その事がいつもどこかにあったはずなのに…。



「ねぇ、もう一回しよっか」

跡部の部屋で行っていた行為。ただ今、一回目が終了したところである。
から催促する事は珍しいのだが、は跡部に抱きついて迷いなく、そう囁いた。
そんなのお誘いに跡部は一瞬呆気に取られて、それから回された腕を解いて、ゆっくりと首を横に振った。

「駄目だ」
「どうして?」
「どうしてって…お前、そんな青い顔してるくせに、これ以上無理させられるか。どうせ、また眠れてねんだろ」
「…………」

は何か悩み事や気にかかる事があったら、そのストレスが睡眠に表れる。夜に眠れなくなり、その分の睡眠が夜以外に急に襲ってきて倒れてしまう。小学生の頃は、保健室の常連だった。
今回眠れなくなってるその原因は、間違いなく跡部なのだけれど。

「大丈夫」
「嘘つけ。そう言うやつに限って大丈夫じゃねぇんだよ。いいから今日はもう寝ろ」
「私が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なの!大丈夫、だもん…」
「…………」

今日はいつもとどこか様子が違うを跡部はそっと抱きしめる。それこそ、壊れやすい宝物を扱うように、そっと優しく。親が子供に安心を与えるように、片手で背中をポンポンと叩いて、もう片方の手で頭を撫でて、ちゅ、と額に触れるだけのキスをして。
だけど今のには、そんな優しい腕なんて望んでいないのだ。忘れる事が出来ないように、きつく強く抱きしめてほしいのに。

「……お前、最近変だぞ。何をそんなに急いでいる?」
「だって…時間がないじゃない……」

ボソッと小さく呟いた。
そうだ、もう後少ししか時間は残されていない。あと数ヶ月すれば、跡部はの傍からいなくなってしまう。
こんなに楽しくて大切な今の時間。後数ヶ月なんて、きっとあっという間に過ぎてしまうんだろう。その僅かな間、出来る限り傍にいて、抱き合えるだけ抱き合って彼の全てを感じていたい。

――今は快感を感じるためにしたいんじゃないよ。ただ、刻み付けてほしいだけなんだ。景吾がここにいた証を、私を好きだったっていう証拠を私の中に。景吾が帰って来るまで、忘れる事なんて出来ないように。

「誰かさんがいなくなる前に、出来る事はできるだけしたいだけ」

はすっと跡部の腕から離れて、床に落ちた制服を拾い上げて服を整える。
的を射ないの物言いに、跡部は怪訝そうな顔をした。

「は……?いなくなるって…お前何言って…」
「何って…誤魔化さないでよ。……いなくなるじゃないっ…。卒業したらここからいなくなるんでしょっ!景吾のバカ!」
「ちょ…、待てよ!」

引き止める跡部の声を無視して、は跡部の部屋を飛び出した。
涙は何とか堪える事は出来た。けれど、最後の方の声は震えていたけれど。

跡部は大事な事はに何も言ってくれない。
いつも後から気づいて、何も出来なかった自分に対して悔しく思うのがパターンなのだ。この留学の話だって、跡部から話す気配は何もなかった。相談も何もしてくれない。最後には自分の決断が決める事に対して跡部は「どうしたらいい?」なんて事はに限らず誰にも相談せずに、迷いなく納得して決断を下す。
跡部の心が決まっているのなら離れ離れになっても、が「行かないで」と言っても聞き入れてはくれないだろう。それが解かっているから、は引き止めても無駄なのだ。無理しながら笑ってでも「頑張って」と言うしかない。「行かないで」という事は、の我侭でしかないのだ。たとえ相談してくれても、にはそう言う事しか出来ないのに。
は急いで家のドアの鍵を開けて、乱暴に玄関を閉めた。玄関に入ったら堪えていた涙が溢れた。そのまま玄関に座り込んで、一人泣いた。

――…最悪。私は一体何を期待していたのか。相談されたとしても、何も役に立つ事が出来ないのに…。私の方がバカみたいだ。
また眠れない日が続く。
……ああ、眠れない筈なのに…――何て眠いんだろう。
眠って目が覚めたら、数年経ってて景吾の留学が終わってたりしたらいいのに――。



次の日の朝練。ジローがを見て、ギョッと目を見開いた。ジローはおそるおそるに話し掛けた。

…何、どうしたの、その顔色…」
「え?何か変?」
「何って…顔色悪いってもんじゃないよ。めちゃめちゃ土気色だよ…。大丈夫?」
「うん、気分が悪いわけじゃないから」

いくら本人が大丈夫だと言っても、顔色が土気色した人間がそんな事言ってもまるで説得力がない。そろそろ寝不足が顔に出始めた。
気分が悪くないというのは嘘ではない。ただ、ふとした時に抗えないほどの眠気が襲ってくるだけで。夜に寝たいのに、寝れないというのは案外辛いものである。
はそのまま何とか4時限までは授業を受けたが、気を弱めたら瞼が下がってくる自分に気づいて、さすがに何だかもう無理のような気がして、昼休みに急いで屋上に駆け込んだ。
今日はそんな暑くもなく、屋上で昼寝をするには最適だった。ここならあんまり人も来ないしラッキーと思っていたら、いきなりドアがバンッと乱暴に開けられて、はびっくりして反射的にドアの方に振り向いた。
そこには跡部の不機嫌そうな顔があった。昨日はあんな別れ方して、今日は一度も口を聞いていない。何だか気まずくては少し下に目を逸らした。

「そんな顔色してんなら無理に登校して来んじゃねぇよ。それにこんな解かりやすいトコにサボりに来るかよ、フツー」
「……保健室行って、説明、メンドクサイ」
「……今日はもう帰れ」
「イヤ。命令、ムカツク」
「…………」

なぜかカタコトで話して聞き入れないに、刺のある言い方にムッとしながらも跡部は溜め息を漏らさずにいられない。

「昨日の話の続きがしたい」

そんな跡部の申し入れに、の肩がピクッとかすかに揺れた。絞り出すように、小さな声では答える。

「…続きも何も、そのまんまだよ。私には話す事なんて何もな……」
「お前、ワケ解かんねぇよ。いなくなるとか…何言ってんだよ」

跡部はイラだった声での言葉を遮る。ここまで来ても誤魔化す跡部に、もいい加減カチンときた。

「〜〜っだからそのまんまだって言ってんじゃない!何でっ…何で解かんないのっ!?一体どこまでとぼければ気が済むのよ!いつまで誤魔化すつもり!?フザけてんじゃないわよ!!もうっ…もういい加減にしてよ!」
…?おい、落ち着け」

いきなり大声を出したに驚きながらも、とりあえず落ち着かせようと、肩を掴んだ。その手から逃れようとは身を捩るが、跡部はそれを許さない。

「痛っ…ちょ、離して!!今は話したくないし、私は眠るためにここに来たの!もうここから出てっ…て…?………っ!」

いきなりの視界が真っ暗になった。は瞬時に思った。ヤバイ、と。
――足の力が抜ける…。ああ、また倒れちゃうんだ、私。そしていつものように景吾に迷惑かけちゃうんだ…。
意識が薄れていく中で聴こえた、自分の名を叫ぶように呼ぶ跡部の声。そして自分を支えてくれた暖かくて逞しい腕。
そこでの意識はぷっつりと途切れた。



「おい、っ、!………?」

いきなり倒れたは、跡部の腕の中で静かに寝息を立てていた。どうやら寝不足が限界に達したらしい。その寝顔を見て、何だ眠っただけかよと、跡部は安堵の息を漏らした。
幼い頃から何度かこういった事があったが、未だに慣れない。いきなり目の前で倒れられたら驚くのが当たり前だろう。
取りあえず保健室に運ぼうとを抱え直したその時、死角になっていた部分から、聴き慣れた声が聴こえた。が来る前から先客がいたらしい。

「――ちゃん、大丈夫なんか?」
「何だ、忍足か。びびらせんじゃねえよ。…心配いらねえよ、寝ただけだ。まあ、今日はもう帰らせたほうが良さそうだな」
「そやねー。今日はゆっくり休ませた方がええやろ」
「今日は付き添いで俺も帰る。そういう訳だから、お前、教室に行って俺との分の荷物持って保健室に来い。いいな」
「はぁ?何やねん、ソレ。…まったく人使い荒いで、ホンマ…」

どこまでも偉そうな跡部に、一応一言文句を言って跡部の言う事を聞くのだった。



跡部は携帯で車の迎えを呼んでを連れて帰り、そのまま跡部の部屋に運んだ。
ベッドにゆっくりと寝かせて、その顔色の悪い寝顔を見つめた。頬にそっと触れて優しく撫でる。
保健室で車の迎えを待っていた時、忍足に言われた事を思い出す。

ちゃん、不安なんと違う?跡部の留学の話、皆知ってんねんで。もちろんちゃんも例外やないし。ちゃんと話、したれや。答えが出とるなら、それをちゃんと伝えとき?』

――チッ、忍足のくせにナマ言いやがって。

「……そうか、知ってたのか…。そういう事かよ…」

跡部はベッドの脇に座り、ワックスで整えられた前髪をくしゃっと崩し、ハァと息を吐いた。
今までの的を射ないの物言いに合点が行った。「いなくなる」と言っていた事にも、今回が眠れなくなった理由も。何かに急いで見えたのは、こういう事だったのか。

「いなくなるとかそうじゃないとか…勝手に決めんじゃねえよ」

独り言をボソッと呟いた時に、が「んー…」と僅かな声を出して目を開けた。

「お目覚めか?」
「あれ…景吾…?何で…ここは……」
「俺の部屋だ。覚えてないか?お前屋上で倒れたんだよ。で、早退させてここに運んだ」
「あー……そっか…。ごめん、迷惑かけて…」

まだ半分寝ているような顔で眠気が残ってる頭でも、どうやら全てを察したらしい。
眠気が残っている所為か、どこか舌足らずな口調で、面倒を掛けただろうと跡部に謝罪の言葉を口にした。
その言葉にフッと小さく笑って、の髪を手に絡ませ優しく撫でた。

「バーカ。もう慣れっこなんだよ。気にすんな」
「うん…。でももうこんな事がないように気をつける。もう倒れても助けてくれる人はいなくなっちゃうんだし」

寝返りを打つみたいに、ふいっと顔を背けた。毛布をぐいっと持ち上げて顔を隠す。

「…留学の話か。お前、勝手に決めつけてんじゃねえよ。いなくなるって…一度もそんな事言ってないだろうが」
「言うも何も…何にも話してくれなかったくせに……」
「悪かった。それは悪かったよ。だから今話す」

毛布から少しだけ顔を出して、目線だけちらっと跡部に向けた。その目には少しだけ涙が浮かんでいる。

「結論を言うぞ。俺は、留学はしない。このまま高等部へ上がる。プロになるのはその後でも充分だ」
「……へ?行かないの…?何で…」

てっきり行くものだと思ってたものだから、この跡部の答えにはきょとんとした。

「何でって…。まだここでやる事…現実にしたい事があるからだ。それを叶えない内は留学なんてしてられるか」
「やる事って何?」
「今の氷帝メンバーで全国制覇だ。それをどうしても現実のものとしたい。それが今の俺の目標だからな」
「…………」

その跡部の答えに呆気としながら、すごい、と思った。
遠い未来を思い描くのではなくて、すでに跡部はその目標を現実のものとする為に歩き始めているのだ。
あの青学戦の結果に満足をしているとしても、負けたままで終わるような人ではない事は知っていたはずなのに。

「まぁ、海外のジュニア大会とかに出てる奴らから見れば俺のスタートは少し遅いだろうな。今の時代、十代でプロになるのが当たり前だ。しかし、俺にとってみればそんなもん関係ないんだよ」

いつもの自信に満ちた強い瞳でニッと笑う。言葉にしてきた事は全て叶えてきた、あの有言実行の瞳で。

「俺はそんな奴らにハンデを与えてやってるにすぎない。世界なんて、それくらいやってやんなきゃつまらないだろ?俺はいずれトップを取る男だぜ?」

とんでもない事をさらっと言ってのけた跡部。は跡部に「留学はしない」と答えを聴いた時よりも、こっちの方が衝撃的だった。
あまりにとんでもない発言を聴いたは、すっかり言葉を無くし、目の前の跡部をただ見つめるしかできなかった。
――いくら有言実行だとしても、世界を相手に「なんて」呼ばわりするなんて結構すごい事なんじゃないの…?
自信家もここまで来ると、感心すらしてしまう。しかし、跡部なら本当にやってくれそうな気がすると、はそんな事を疑いも無く思えてしまう自分にくすっと笑いを零した。

「……何笑ってんだよ」
「ううん、別に」

くすくすと笑ってるを見て、こんな笑顔を久しぶりに見たな、と跡部は安心した。そのの両の頬に手をやって、自分の方を向かせる。の瞳を見つめて、静かに跡部は口を開いた。

「高校を卒業したら、俺はすぐに渡米する。その時は…お前も一緒に来い」
「は……?一緒にって…」
「俺が渡米する時は、お前も連れて行く。いいな」

今日は衝撃的な事ばかりだ。「行かない」の答えも、世界を「なんて」呼ばわりした事も、きわめつけに「一緒に来い」と言った事も。全てが衝撃的。
その強い瞳に見つめられて、言葉に首を横に振る事なんて出来やしない。嬉しくて返事も言えなくて、言葉にならないので返事の代わりには跡部の首に手を回して抱きついた。
跡部の肩に顔を埋めて、涙が出そうになるのを堪えて小さく訊いてみた。

「それって…プロポーズ?」
「そうだな。まぁ随分と言う予定が早まっちまったけどな。向こうで式でも挙げるか?」
「……教会で真っ白なウエディングドレスが着たい」
「はいはい、そうだな」

留学して離れ離れになる事を心配していた事はどこへやら、二人は結婚の約束までしてしまった。これは事実上の婚約である。
こんな夢みたいな事も、有り得る現実の一つ。
だって跡部は出来ない約束なら初めからしない。出来るという自信、叶える事が出来るからこそ約束をするのだ。

跡部はが自分と共に渡米する事を当たり前のように言った。自分達が離れるなんて、これ以上有り得なくてバカバカしい事なんて無い。
『ずっと大好きだ』とか『離れても想いは変わらない』なんていう言葉はもういらない。
そんな言葉を支えにする必要もないのだ。
跡部とが支えとするもの、それはお互いの存在なのだ。

「何だか今日からは良く眠れそう」
「そうかよ。だったら一緒に寝るか?」
「え、いいの?じゃあ、お言葉に甘えてそうしよっかな」

跡部のからかいの言葉もには慣れっこで、ニコッと笑って跡部の傍に寄り添った。

「ついでに腕枕もしてくれると嬉しいな」
「お前、少し甘えすぎだろ…」

そんな事を言いながら跡部はの甘えを断わる事は出来ず、腕枕を実行するのだった。朝になればは跡部の抱き枕状態になっていたのだが、それはそれで幸せ気分で朝を迎える事が出来た。

――君がトップを手に入れて、立った場所から見える景色はどんなものなんだろう?
その景色を私も見てみたい。
誰よりも近く、君の隣で。

正夢になるだろうか?
君に抱かれて目が覚めた朝に。
…そんな、夢を見た。





END 07.4.17





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