First part     Sight      Food & Smile      Invitation      Decision
Waiting      Reason      Pieces      start
Interval     Monologe 桑原仁王切原
Second part     It's still early? 1      He'll obstruct it 1
    
 ブン太はの後を追って二階へと上がり、の部屋に案内された。八畳ほどの広さのその部屋は水色や白などの涼しげな色が基調となっているようで、そこに本棚と勉強机、ベッドなどの家具が静かに佇んでいる。それだけなららしいシンプルと言うか殺風景な部屋だなと思っただろうが、意外だったのが、年季が入ったような大きなクマのぬいぐるみが部屋の片隅に悠々と座っていた事だ。
 ブン太はあれについて訊ねていいものか迷ったが、好奇心には勝てなかった。
「なあ…の部屋にぬいぐるみがあるのって何か意外だな」
 一足先に部屋に入っていたは机にお盆を置き、床に座って勉強する為のテーブルを出しながらそれに答えた。
「ああ、両親からのプレゼントでね。うんと小さい頃に買ってもらった物なんだけど、あれだけは今でも捨てられなくて」
 そう言ってブン太の方を向いたはどこか子供らしく見えて、は両親の事を好きなんだろうなとブン太は思った。ぬいぐるみは近くで見ても、年月による多少の汚れはあってもホコリ一つ乗っていなくて、大切にしている様子が解かり、少し暖かい気分になった。

 は用意したテーブルにお盆を移し、床にクッションを二つ敷いて奥の一つにブン太を座らせ、自分はその斜めに腰掛けた。
「――さて、どれからやろうか? 何が苦手なの?」
 そう言われてブン太は初めて、は自分に勉強を教えてくれるつもりで家に呼んだのだという事に気づいた。四季の手元には勉強道具が一切ない。
 ブン太はありがたい気持ちでリュックの中からテスト対策用プリントを取り出して、テーブルに広げた。
「数学、と物理、英語」
 社会なら死ぬ気で暗記すれば何とかなるが、計算や応用を必要とするこの三つはもうお手上げだ。暗記が出来るなら公式も暗記してしまえばいいのに、と解かりやすく教えてくれながらは言ったが、それとこれとは話が違う。

 苦手科目を必死に勉強する事約二時間、の教えの甲斐あって、ブン太の理解はまずまず深まった。
 ブン太はキリの良いところでペンを置き、んーっと背筋を伸ばす。そしてフル活動させた脳を癒す為、甘いクッキーを何枚も口に運んだ。
「ほんふぉたふかったへ」
 口の中に目一杯物を入れたまま喋って何を言っているのか解からない上行儀が悪いので、は不快そうな顔をしてブン太にジュースを押しつけた。ブン太は「悪ィ」と言うように片手を顔の前に立ててからグラスを受け取り、ゴクゴク喉を鳴らしてクッキーを流し込んだ。ぷはっと息を吐いて、再びに向き直る。
「――ホント助かったぜ、がいてくれて。あんな恐ろしい教科をこんな短時間で理解できるようになるなんて信じられねぇ」
「大袈裟」
 も教え疲れたのか、軽く溜め息を吐いてジュースを一口飲み喉を潤した。

「少し休む? クッキーもなくなりそうだから、他の物取ってくるよ」
「あ、待って」
 がテーブルに手をついて立ち上がろうと腰を浮かせた時、ブン太は咄嗟にその手を掴んでそれを阻止した。は首を傾げて元の位置に座り直す。
「何?」
「えーっと…」
 何か目的があってそうしたわけではないのだ。ただ、もう少し一緒にいたかっただけで。
 ブン太は掴んだの手を引き寄せて身を乗り出し、の唇に自分の唇を重ねた。

 触れるだけのキスをして、目を開きながらゆっくり顔を離すと、も同じく夢から覚めたような表情をしていて、ブン太はドキッと心臓を震わせた。
 この後どうすればいいのか解からず手を握ったままぼうっとしていると、はブン太のその手を空いている方の手でポン、と優しく叩き、そっと外させて立ち上がろうとした。
 だが――のその行動は、再びブン太の手によって阻まれた。
「行くな」
 ――また思わず手が伸びてしまった。また勝手に口が動いた。
(俺ぁ一体、何がしたいんだ?)
 自分でも解からない。でも、これは何かの啓示だと思った。言いたい事、伝えたい事があるなら今だと。

 は浮かせた腰を下ろし、促すようにじっとブン太を見つめた。
 条件は整っているはずなのだ。ブン太はこくりと唾を飲んで息を吸い、口を開いた。
「…抱きたいんだ」
 付き合って四ヶ月、それを望むのは人によって早いと言えば早く、遅いと言えば遅い。だが少なくともブン太は我慢していた。キスだけで満足出来ないわけじゃない、でも何か足りない。
 ブン太が真剣な表情でを見つめると、はその視線を真っ直ぐに受け止めた。
「セックスがしたいの?」
 今ブン太が口に飲み物を含んでいたら、ブーッと噴き出していたところだ。全く的外れな質問ではないのだが、間違った事を言っているわけではいないのだが、そこまでストレートな言葉にされるといささか怯む。は至って真剣な態度だが、それが余計に動揺を煽った。
「せ、せ、せっくすって…」
「違うの?」
「…違わ、ない。したい」
「そう…」
 は息を吐いて目を伏せ、何度かゆっくり瞬いた。ブン太は黙ってその睫毛の動きを見ていた。

「……私はね、親に養われて生きてる間は、あんまりそういう事、したくない」
 断られる事は予想の範疇だったとはいえ、面と向かってそう言われると落ち込む。しかも「親に養われてる間」と言う事は、少なくとも高校、大学を卒業するまでおあずけと言う事なのか。
「セックスって愛の確認だとか何だとか言うけど、結局はただの種族保存本能。生殖行為以外の何物でもないでしょう? 相手に求められたからだとか流されてするなんて愚の骨頂だと思うの――ああ、別にそれをしたいと思う事について非難するつもりはないよ、思春期だしね、興味もあるんだろうし」
 まるで犬猫の発情期みたいな言い方だ、とブン太は少しムッとする。しかし次のの言葉に、小さな怒りはあっさり吹き飛んだ。
「私だって、相手がブン太ならしてもいいと思うよ」

「…………」
「…………」
「……今?」
「ううん」
 やっぱりな、とブン太は自嘲的な溜め息をついた。相手が自分ならいいという部分は嬉しいのに、今は駄目だと言われると悲しいを通り越して虚しい。そんな風に思ってしまう自分も嫌だった。
 はそれを察してか、先程掴まれたままの手を外した時のように、優しくブン太の手を叩いた。今度は離さず手を重ね合わせて、俯いてしまったブン太の顔を覗き込んだ。
「…こんな彼女でいいの? 面倒臭くない?」
 そっと訊ねたの声音は平淡としていたが、そんな事を言わせた事にも腹が立って、ブン太は悔しげに食いしばった歯の間から唸るように声を絞り出した。
じゃないと嫌だ」
「…うん、知ってる。ブン太が一途なの、もう知ってるよ。ありがとう」

 降ってきた声があまりにも柔らかくて、ブン太は思わず顔を上げた。は柔らかい声そのままに、柔らかく微笑んでいた。
「私、ブン太が好きだよ」
 ブン太の顔がカッと火がついたように熱くなった。がブン太に「好き」だと言ったのは初めてではないが、は普段はそんな素振りを見せないし、正確に数えれば、がその言葉を使った場面はこれが二度目だった。一度目の時はの方が動揺していたのでブン太は照れる暇がなかったが、今度は違う。完全に不意を突かれてしまった。
 いつだってそうだ。ドキドキさせられるのはいつもブン太の方で、ブン太はそれが嬉しくも悔しい。
(ちくしょう、俺だってが好きだ…好きだ)
 だからこそ抱きたいと思うのだ。短絡的だと言われてしまえばそれまでだが、好きだからこそその存在を肌で感じたいというのも曲げようのない事実。

 重なっているブン太の手が下にあるの手を握る力が少し強くなったので、は宥めるように上の手でブン太の手を撫でさすった。
「そうだね…――テニス部の全国大会が終わって引退した後なら…うん、考えてもいい」
 は上の手を伸ばし、ブン太の頭を一撫でしてそう言った。
「引退したら…?」
 ブン太は自分の頭を通り過ぎたの手のひらの感触に地味に感動し、その手を捕まえながら、「そのココロは?」と訊ねた。
「セックスした次の日って動き悪くなるらしいからね。部活の時真田君に怒られたくないでしょう? それに今年で引退だから、それまで部活に集中していてほしいっていうのもある。…ブン太の妨げになりたくないし」
 がブン太の妨げになった事など一度もないが、が言いたいのはそういった表面的な事だけではないのだろう。ブン太はその言葉の意味を噛み締めるように暫し黙り、一つ頷いてみせた。
「そっか…――全国大会が終わったら、いいんだな?」
 ずいっと身を乗り出してきたブン太の目が期待にギラリと光る。はその視線を見事に軽く受け流した。
「さあ…その時にならないと何とも言えないけど――」
 その言葉でブン太は目に見えて落胆したが、の話はまだ続いていた。
「――私はその時まで、真剣に考えるから」

 それは、がブン太を『好き』になるのを待ち望んでいた時にも似ていて。
 ブン太は否応なしに気が引き締まり、強く頷いていた。
「俺も真剣に考える。その時になって断られてたとしても、狼狽えたり落ち込んだり怒ったり、そんなバカみたいなことしないように」
 断られた事を不満に思うのは男側の独り善がりな考え方だ。はそういう子供のような行動を何よりも嫌うだろう。だから、どちらに転んでも良いように今からでも覚悟を決めておかねばならないのだ、とブン太は決断した。

 は少しだけ驚いたように瞠目し、ふっ、と困ったように微笑んだ。ただ笑うのとは違い、珍しく他の感情を交えたの笑顔を、ブン太は不思議な気分で見つめた。
「…大人になったね」
 まるでそれまで子供だと思っていたとでも言いたげなセリフだ。ブン太が喜ぶべきなのか怒るべきなのか迷って微妙な顔をしていると、は取り敢えずといったように「ごめん」と謝った。
「正直に言えば、付き合う前後の頃のブン太はちょっと子供っぽいと思ってた。と言うか、アホっぽいと思ってた」
「…容赦ねぇな」
「うん――でもそれが悪い事だとは思ってなかったよ。まだ中学生だし、子供らしいところがあったっていい。前にも言ったように、アホだからって嫌いになるわけじゃない。ただ、今みたいな話題にもなると、大人になってもらわなくちゃ困るっていうのも正直な気持ち。事は子供の行動の範疇を超えてるからね――言ってる意味解かる?」
「ばっ、バカにすんなよ。俺だって、その…せ、っくす、を、するっていうことの意味くらい、ちゃんと解かってらい」
 その単語を使うのが殊の外恥ずかしいのか、ブン太はうっすら頬を染めて目を逸らしながらに抗議した。
「うん、それならいいの。ただ付き合う前のブン太ならそういう風に考えただろうかと思って――付き合ってもいない女にキスしたくらいだしね。それを思うと、たった四ヶ月でブン太は随分大人になったなと」
 からそう遠くない過去の話を持ち出されて、ブン太はますます恥ずかしくなった。今思えば、あの時の自信は一体何だったんだろうとすら思う。現在は完全に主導権をに握られているというのに。
 ブン太は過去の恥に耐えるように頭を抱えた。
「やめてくれ…それ言われると何も言い返せねぇ…」
「言い返す事なんてないでしょ? 本当の事だもの」
 事も無げにさらに痛いところを突かれて、ブン太は「うぐっ」と小さく呻いた。もう一刺しされたら、意味もなく「すいませんでした」と言ってしまいそうだ。

 しかしはそれ以上は何も言わず、頭を抱えるブン太の片手を掴んで離させ、顔を上げさせた。
 ブン太が顔を赤くしたままきょとんとしていると、次の瞬間には視界いっぱいにの顔が映り、唇に温かいものが触れていた。
 からのキスは初めてで、その事実だけでブン太の体温は上がった。今なら押し倒しても大丈夫なんじゃないかという欲情が浮上してくるが、の唇が離れていくと同時に理性が戻ってきてやがて沈下していく。
 それからは何事もなかったかのように立ち上がり、「追加の食べ物持ってくる」とだけ告げて、部屋を出て行った。
「……危なかった」
 どうにか理性の崩壊を留められて、ブン太はホッと息をついた。キスの時間があとコンマ数秒でも延びていればどうなっていた事か。

 落ち着いたところでブン太はの部屋をぐるりと見回し、最後にクマのぬいぐるみを眺めて、それに手を伸ばした。
 膝の上にぬいぐるみを乗せて、の温もりを探るように抱き抱え目を閉じる。
(どういう意味のキスだったんだろ…)










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