彼女は、ひどく目についた。
 本人は平凡に生きたいんだとか言っていたが、どんな集団の中に紛れ込んでいても、忍足は彼女を一目で見つける事が出来た。ただそれは、初めてまともに接触した時までは単なる好奇心によるものだと思っていた。
 なのに今のこの感情、この想いは、『一目惚れ』なんて陳腐な言葉では片付かないほどまでに育ってしまっている。

 いつまでもつかず離れずの変わらない攻防、それは忍足にとって心地好いものであった。しかし心のどこかで、この距離をゼロにしてしまいたいと思っていた。その欲求は常にあった。けれどもしこの想いをぶつけてしまったら、いよいよ本気で避けられるかもしれない、目も合わせてくれなくなるかもしれない。
 そんな事になってしまうくらいならば、いっそ彼女の煩わしい存在として視界に映り続けている事の方がどれだけ良いだろうかと、小学生じみた妄執に囚われる。
 『デートをしてくれ』とだけ言っている内は、彼女は忍足から決して目を逸らしたりはしなかった。それに、彼女とデートをしたいと願っているのは紛れもない事実で、いつか彼女が折れてくれるのではないかという甘い期待もしていた。
 デートには簡単に誘える。それなのに決定的な言葉を言えないのは、臆病だからに他ならない。
 自分はこんなに女々しい男だったのか。

 それでも、「一度だけ」と条件をつけてデートの約束を取りつける事が出来たのは快挙だと言えた。
 いつもと違う誘い方をしたのは、そうすれば彼女が頷くと計算していたからというのももちろんあるが、いい加減けじめをつけたいと思ったからだった。これだけ誘っていて少しも靡く気配がないという事は、彼女は本当に自分に微塵も興味がないのだ。ようやくそれを頭で認めてから、『一度きりのデート』をずっと考えていた。きっとそれがお互いに後腐れのないやり方だと思ったのだ。
 しかし、それは大きな間違いだったとデート当日になって気づいた。

 結論から言えば、その日のデートは叶わなかった。待ち合わせの時間前に彼女が風邪を引いたと連絡をしてきたからだ。彼女の性格からして、それが体の良い断り文句だとは思えなかった。ただ、それなら心配だと思って――気がついたら彼女の家にまで来ていた。何も考えずに家を飛び出したので何も用意出来なかったが、ここまで来たのだから軽く見舞いくらい出来ればいいと思った。
 なのに、忍足の当てはことごとく外れてゆく。それが良い事なのか、悪い事なのか。
 彼女は寝巻き姿で玄関に現れ、熱で弱った声で家に誰もいないのだと告げた。これが放っておけるだろうか。どう見ても彼女は衰弱していて、誰かの看病が必要に見えた。この時の決断は、天啓にも似ていた。
 だからそれからの行動には何の迷いもなかった。彼女の部屋に上がる事も、他所の家の救急箱や台所を漁る事も、彼女自身に触れる事も。忍足は、看病相手が彼女だという事を差し引いても、もしかしたら自分は父の職業にちょっとは向いているのかもしれない、とこっそり思ったりもした。
 その浅慮がどんな結果を招いたのかも知らずに。

 そう――間違いは、たった一つだけだったのだ。





  告白





 腕が痛い、と確かに感じるのに、腕の感覚がない。そう思って忍足は目を覚ました。頭の下には血流が止められて感覚のなくなった自分の右腕。辛うじて動く左手を使って右腕を身体の横に垂らし血を送らせる。肩がジンジンと痺れた。
 この一連の行動を半覚醒な状態で行ってから、忍足は顔を上げ首を軽く振って辺りを見回す。見慣れない部屋の見慣れない布団、その端に腕を乗せて自分は眠っていた。そしてこのベッドの本来の主は――不在だった。
 もっと頭を働かせようと、くしゃっと前髪を掻き上げながら身体を起こす。と、眼鏡をかけていない事に気がついた。寝ている間に外れたのか、布団の上を手探りしつつ何気なく別の場所を目でも探す。窓の外では陽が落ち始めていた。
 ぱさり、肩から何かが滑り落ちた。床に視線を遣ると、そこには彼女が羽織っていたカーディガン。温もりが失せ、背中が途端に寒くなる。だがそれを凌ぐ程に、内側がカッと熱くなった。

「…起きたの?」

 ドクン。静かなはずのその声に異常に心臓が跳ねて、動揺のままに振り向いた。
 開いたドアの向こう側に、彼女が立っている。パジャマは大分汗を吸っていたので、別のものに着替えたようだった。
 忍足は完全に目が覚めた。自分が寝ている間に――という事は。

「っ、あ……悪い。俺、寝て…」

 看病の為にここにいるのに、居眠りしてしまっては意味がない。そんな事に今頃気がついて咄嗟に謝ると、彼女は軽く首を横に振った。

「いいよ。私が寝てからは暇だったろうし」

 だから帰れと言ったのに、とは彼女は言わなかった。ただどこか申し訳なさそうに微笑う。

「なんか、ごめんね、色々と」
「いや…俺が好きでした事やし…――なあ、中に入らんの?」
「えっ」

 いつまでそうしているのか、彼女はドア枠の向こうにずっと立ったままで、一歩も部屋の中に入ろうとしない。その事を指摘すると、彼女はギクッと肩を揺らした。熱が上がったかのように、頬が赤らんでいく。
 まだ具合が悪くてまともに動けないのかと心配に思い、忍足は立ち上がって自分からドアの所へ赴き、中へ促そうと彼女の手へ腕を伸ばした。

「良うなってへんのやろ? まだ寝てな――」

 しかし忍足が言い終わらないうちに、彼女の手が掴むか掴まないかのところで反撥する磁石のようにバッ!とすり抜けた。
 一瞬何事かと目を見張って空を掴む手元を見遣り、再び彼女の顔に目線を戻して、更に思考が凍る。

(……何。何やねん、その反応)

 掴まれそうになった手首をもう片方の手で胸の前に庇って、迷うように瞳を逸らして、頬は赤く染まっていて――部屋の中へ入ろうとしない彼女、動揺に震えた肩、掴まるまいとすり抜けた手――ああまるで、まるで――自分を意識しているみたいではないか。
 彼女の風邪が伝染ったかと思えるほどに頭がクラクラした。自分が何の為にここにいるのかを忘れそうになる。…そう、看病、彼女は病人だ、と胡乱な頭に言い聞かせようとするが、こんな態度をされてしまっては理性も素直に働いてくれない。折角ここまで意識しないよう冷静に努めてきたのに。彼女はなぜ、今になって。

 彼女の方も、自分の行動の不審さにすぐ気がついたようで、逸らしていた目がハッと小さく見開かれ瞬きが止まった。正気づいたかに見える彼女の様子に、忍足も何とか僅かばかり冷静さを取り戻す事が出来た。

「……何か、あったんか?」

 自分は何も感じてませんよちょっとビックリしたけどただ心配してるだけなんですよと聴こえるように忍足は訊ねた。声が少々掠れているのはきっと寝起きだからだ。
 彼女は顎を引いたまま、何かを探るような上目遣いで忍足の顔を窺った(それはまた忍足の劣情を掻き立てた)。

「……何も、ない」

 やがてそれだけ答えて、がっかりしたか、もしくは拗ねたかのように目が伏せられる。そして忍足の脇をすり抜け、自らベッドに向かった。
 まただ。彼女のこんな態度は見た事がない。いつもなら断然とした答えが返ってくるし眠る前ですらそうだったのに、今に限ってなぜか曖昧だ。

 忍足は開いたままのドアを静かに閉め、彼女を振り返る。と、訝しげに眉を寄せた。ベッドに腰掛けた彼女が、忍足の眼鏡を両手に持って差し出していたのだ。

「つけたまま寝てたから、外しておいたの」

 はい、と更に手を突き出してくる。忍足は受け取ってそれをかけると、指で押し上げながら隠れてホッと息をついた。度は入ってないとは言えこれくらいの防御壁がないと、うっかり何をしてしまうか解からない。通常と状態が違うというのは、それだけで心を乱されるものだ。
 それから忍足は床に落ちていたカーディガンを拾い上げ、彼女の肩にかけてやった。

「熱は下がったんか?」
「あ…うん…大分。もう少し休んでれば治ると思う」

 言いながら、彼女は自分の首に手を当てて熱を測る。そしてもう一度、うん、と呟いた。

「まだ誰も帰ってきてないけど、忍足君、私もう一人で平気だよ」
「…平気、な――ほんなら、帰る前に一つ訊かせてもらおか」

 忍足はよっこらしょと彼女の真ん前の床に腰を据えた。答えてもらえるまで帰る気はない。こんな、モヤモヤした気持ちのままで帰れるものか。
 真下から見上げる形になってしっかりと覗き込める彼女の表情が、目に見えて引きつった。

「え、何、を…?」
「なぁんか、隠しとるみたいやから。俺が寝てる間に、何かあった?」

 単刀直入に、誤魔化しとぼける余裕も与えず、ピンポイントで訊ねる。彼女の様子がおかしくなったのは睡眠を挟んでからだ。そこに何かある。
 それを裏付けるように、彼女の表情がまた変わった――怒りの方向に。口を引き結んでむうっと眉を寄せる様は可愛らしいが、予想外の事態に忍足は内心怯んだ。もしかするととても答えにくい事を訊ねているのかもしれないが、それでもいきなりここまで怒るだろうか。

「…忍足君、夢は見た?」
「夢…? 覚えてへん、けど…」
「本当に目が覚めたのはいつ?」
「い、今さっきやけど…」

 詰問調の矢継ぎ早な質問の意図が解からないまま答えながら、自然と後退る。まずい、何か地雷を踏んだような気がする。彼女の目が段々つり上がっていった。

「へえ! じゃあ、自分がルール違反をしたっていうのも覚えてないの! 全部無意識だったっておっしゃるわけ!」
「えーっと、何の話…?」
「「何の」!? 「何の」って……」

 突然噴火したかと思ったら、すぐに鎮火した。怒りで顔が赤くなっているのは変わらないが、ふうふうと息を吐いて落ち着こうとしている。急に怒鳴ったりして熱がぶり返しはしないだろうかと忍足は少し心配になった。それ以上に、怖くて何も言えなかったが。
 彼女は頭を押さえ、ふうっと一際大きく息をつくと、幾分か落ち着いた声で続けた。

「……あなたが寝ぼけてとんでもない事を言った、とでも言えば少しは解かる?」
「…………」

 覚えていない夢、とんでもない寝言、目が覚めたのはいつか、無意識のルール違反、忍足を避け始めた彼女――それらを総合して推理すると、頭の痛い解答しか浮かばなかった。顔がカアッと熱くなったような気がして、慌てて片手で隠す。
 忍足は何と言ったのかを彼女が具体的に言わなかったのは、つまり、そういう事なのだろう。敢えて言わなかったのではなく、言えるような事ではなかった、あるいは言いたくなかったのだ。

(寝言で告白、したんか俺…)

 だとしたら相当な間抜けだ。寝たフリをしてて彼女の反応を試していただけなんですよーという方がどれだけマシか。ルール違反だと怒るのも頷ける。そんな事、無意識でも言うべきではなかった。言うならば直接、彼女の目を見て言うのが道理というものだ。
 ふと思った――今からでも間に合うだろうか、と。

 「あー」と声を出そうとして、その声がひどく掠れている事に驚いた。今更緊張しているのかと自嘲して、生唾を飲み込む。

「…その、寝言の事は、無意識とはいえ、スマンかった」

 姿勢を正し、素直に頭を下げた。ゆっくり顔を上げると、彼女が困り顔で見下ろしている。
 ああ彼女が好きだ、と忍足は当然のように思い、眩しげに目を細めた。

「きっとそれは、俺が本気で思っとる事で、嘘やない。けど、忘れてくれ」
「え…?」
「もう一遍、今度はちゃんと言うから、忘れて」
「っ…」

 忍足の赤面が伝染ったかのように彼女の頬にサッと朱が走った。
 忘れろなどと、無茶な事を言っているのは解かっている。けれど寝言なんかよりもずっと真っ直ぐに、正直な気持ちを今すぐ伝えるから。

 さあ、仕切り直そうか。
 息を深く吸って、吐いて。もう一度吸って、口を開く。

「…俺は、の事が――」
「ちょっと待って!」

 忍足の顔の目前に彼女が開いた手を伸ばし、待ったをかけた。出鼻を挫かれ、視界一杯に広がる手のひらを見つめながら暫し呆気に取られる。
 ちら、と開いた指の間から忍足は抗議の目を向けた。どんな弁解をしてくれるのか聴こうではないか。

「私、答えはもう決めてあるんだけど……それでも言う?」

 何を今更、と思った。一度覚悟したものを、今更止められるか。
 制止の手を掴み、今度こそ邪魔されないように強く握り締める。意外に抵抗がなかったので、少し力を緩めた。
 遮るものがなくなり、もう一度彼女を見上げる。すると揺れる瞳と視線がぶつかって、合点がいった。
 そうか、彼女は不安なのだ。自分の答えに因って何をもたらしてしまうのかが計り知れなくて。

「言う。答えなんてどうでもええ。ええから」

 宥めるように言いながら、これはフラれるかもな、という考えが頭を過ぎったが、口にした通りどうでも良かった。むしろ不思議と気持ちが軽くなった。
 もう何も怖くない。

「――好きや」

 握り込んだ手がビクリと震えた。もしかしたら震えたのは自分の手であったかもしれない。

が好きや。俺と付き合うてほしい」

 一気に告げて、彼女をじっと見据えた。答えを用意しているのなら、次はそちらの番だと言うように。
 怯むな、躊躇うな、同情するな――欲しいのは、真実の言葉だけだ。そんな思いを、眼差しに込める。
 彼女の眉がぎゅっと寄せられた。覚悟を決めたような強い瞳に鳥肌が立つ。そうだ、それでいい。数秒もしない内に告げられるであろう答えを静かな気持ちで待つ。

 果たして彼女は重い口を開いた。

「…お友達からでいい?」
「…………はい?」

 あまりにも予想だにしなかった答えに、忍足は一瞬停止した後思わず聞き返してしまった。
 上手く伝わらなかったのかと焦った彼女は、アワアワと言葉を続ける。

「だって私、忍足君の事何も知らないもの。その先に進むのは、もう少しお互いの事を知ってからがいい」
「あー…と、それは……『お付き合いを前提としたお友達』って意味なん?」
「そっ、そう、いう、事に…なります、かな…」

 『お友達の先に進む可能性がある』と自分で示唆してしまった事に、彼女はカアァと顔を真っ赤にして、油の切れたロボットのようにぎこちなく返答した。
 それはえらく都合の良い提案に思えた。少なくとも、忍足にとっては。
 ああでもっ、と彼女は苦悶の色を浮かべて頭を抱えた。

「でも、これって何だか生殺しみたいだよね。長々と引っ張った挙句、結局ゴメンナサイって事になったらどうしよう」
「ああ、その辺は心配してへんよ」
「え?」

 なんで?と視線で問い掛けてくる。

「俺、自信あるし」

 何の、とは言わない。言わなくても、彼女は理解したようだった。その証拠に耳まで赤い。
 そしてその反応こそが、自信の根拠でもある。
 あとは少しずつ距離を詰め逃げ場を無くしてしまえばいい。もう出し惜しみはしない。

。『お友達』として、よろしゅう」

 彼女の右手を取って握手の形に握り、軽く上下に揺らして、ふつりと離す。
 それが始まりの合図。


 ――さて、間違いはどこからだったか。
 この取り交わしに因って自動的に破棄となった、『一度きりのデート』とやらを持ちかけた時だろうか。それが受け入れられた時?
 もし彼女が病欠する事なくデートが成されていたとしても、忍足はきっと彼女の事を諦められなかっただろう。
 即ち、『けじめをつける為』に『後腐れのないやり方』として『一度きりのデート』を思いついた時点で、忍足は間違っていたのだ。
 彼女を本気で諦めようと思うのならば、何もするべきではなかった。

 まったく、どうしようもない――忍足はふっと溜め息をつき、今となっては無意味になってしまった諦めをあっさりと捨てて、目の前に在り続けた恋情を掬い上げた。





END





2006年12月30日


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