君を、追いかけていたい。

 いつか君を追い抜いて、君に追いかけられるような俺になりたい。


 そうしてずっと、君と――





  カノン





 俺には憧れの人がいる。

 山吹中陸上部中距離選手の、さん。

 俺と同じ三年だけど、クラスは違う。
 ある日部活を抜け出して、グラウンドに可愛い女の子はいないかと目を凝らしていた時に初めて、彼女を見つけたんだ。
 彼女を見た時、俺は一瞬鳥肌が立った。
 コースを駆け抜ける姿、横顔、その瞳。
 誰よりも真っ直ぐで、迷いも曇りもない。あんな瞳をした人を生まれて一度もお目にかけた事がなくて、衝撃が走った。どうして今まで気がつかなかったんだろう。
 もちろん俺は、彼女に声をかけるのを忘れなかった。

「ねぇ君、名前はなんていうの? 何年?」

 休憩中の彼女に近づいて、友好的な笑顔を見せる。
 彼女はそんな俺を無表情で見遣り、「。三年」と、通った声で答えた。
 そしてそのまま、自分に何の用なのか訊く事もなく、彼女はさっさと練習に戻っていった。
 俺は不審に思われてしまったんだろうかと考えたけれど、すぐに違うと解かった。
 練習を再開した彼女の眼差しは先程と何も変わらなくて。

 彼女の瞳には、俺なんか映っていなかったのだと、思い知らされた。


 それから俺は、暇を見つけては彼女を見に行くようになった。
 だけど、もう声をかけようとはしなかった。
 あんなショックを受けるのはもうごめんだ。
 俺はただひたすら、彼女を見つめていた。
 一応テニスコートから離れた位置にいるようにしてたけれど、一週間も経つと南に居場所がバレてしまい、連れ戻される確率が高くなった。
 それでも、彼女を見に行くのはやめなかった。
 南もそれが解かってきたのか、諦めてしまったのか、二週間も経つと連れ戻しに来る時間が遅くなった。それどころか来ない日もあった。

 だが彼女を見る為とはいえ練習をサボってもいいと思っていたなんて、俺はかなり慢心していたのかもしれない。
 翌週、都大会の決勝戦で、青学の選手に敗れた。
 『昨年のJr.選抜』、『山吹中テニス部のエース』、というご立派な肩書きが、俺に傲慢さを植えつけてしまったんだと思うと、情けなくなった。
 二年だからなどと、最初から相手を格下だと決めつけ嘗めてかかるから、負けたんだ。

 こんな俺を、彼女はどう思うだろう?
 今の俺が声をかけたとしても、彼女は振り向きもしないんじゃないだろうか。
 想像すると、より一層みじめな気分になって、ドスンと胃が落ち込んだ。




















 翌日、俺は重い足取りでグラウンドへ向かった。
 こんな気分でも、習慣というものはすぐに消えないらしい。
 昨日よりは立ち直ったとはいえ、今彼女を見たら、俺はまた落ち込んでしまうんじゃないかと思った。
 でもちょうど彼女が走り出したところだったので、俺はそれをぼんやりと眺め始めた。

 長い脚が地面を蹴る。
 細い腕が合わせて前後する。
 風の抵抗を受けにくそうなショートヘアが元気に飛び跳ねる。
 瞳が、前だけを見据える。


 どうしようか。
 涙が出そうだ。

 君は怖くないんだろうか、挫折の時が。
 それとも、それを乗り越えたから、君はそんな瞳ができるんだろうか。
 君を追いかければ、俺もそんな風になれるんだろうか…――


 俺はいつの間にか彼女から目を離し、しゃがんで膝を抱えていた。
 気づいて、意味もなく乾いた笑いが洩れた。

「ハハ…俺ってちっぽけー…」

「何がちっぽけなの?」

 声がして顔を上げると、目の前に彼女がいて、静かに俺を見下ろしていた。
 俺は目を見張った。
 本当に、いつの間に練習を終えていつの間に俺の目の前にまで来たんだ?
 ていうか、何で?
 これまでずっと、俺の存在になんて気づいてすらいないようだったのに。

「ぁ…あー…」

 言語障害に陥った俺を見て、彼女はきょとんとした後、クスッと笑った。
 それで俺はやっと正気に戻り、バネ仕掛けの人形のようにぴょこんと立ち上がって彼女とちゃんと向き合った。
 うわ、すんごい心臓ドキドキいってる。
 憧れの人に話しかけられちゃってるよ俺。

「あああ、あの!」

「はい?」

「俺、テニス部三年の千石清純っていいます!」

「はい」

「あのっ、今度、関東大会の試合があるんだけど……さん、見に来てくれませんか!」

 言いながら、何言っちゃってるんだと思った。
 突然名乗って試合見に来てくれ、なんて。おかしいだろ。
 彼女はまたきょとんとして、それから顎に指を添えて、少し考えるような素振りをした。
 その間僅か三秒ほどだっただろうか。
 彼女は顎の指を下ろして、「うんいいよ」とあっさり言った。
 今度は俺がきょとんとする番だった。

「…え…ホントに?」

「うん。私も大会があるからいつでもってワケにはいかないけど、空いた時には行けるよ。
 テニスのルールとかよく解かんないけど…それでいいなら」

「じゃ、じゃあ、それまでずっと、負けないでいるから!」

「それからもずっと負けない方がいいんじゃない?」

 彼女が微かに眉を顰めてそう言ってから俺は気づいて、サッと血の気が引いた。
 …浮かれて余計な事言っちまった。
 『それまで』なんて言葉、彼女はきっと嫌いだろうと解かっていたのに。

「うん…うん、そうだね。ずっと、負けないよ…」

 取り繕うようにそう言って、彼女に大会の日程と会場を伝え、俺はそそくさとその場を逃げた。

 やばかった…嫌われたらどうしようかと思った。

 誰に嫌われてもいい。
 でも彼女に嫌われたら、俺は二度と立ち上がれなくなるんじゃないかと思う。
 それくらい、彼女は俺の中で『絶対』の存在になっていた。










 彼女が見に来てくれる、それが俺の活力になっていて、練習にも熱が入る。
 もしかしたらあれは嘘だったのかもしれない、そう思わないこともないけど、彼女はその場しのぎの嘘なんてつかないと、恋は盲目よろしく俺は信じていた。
 だからもう、サボって彼女を見に行く事もなくなった。
 次に会うのは、俺が真剣にテニスに向き合った後がいい。

「千石、最近あっちに行かないんだな」

 南が、グラウンド側を顎でしゃくって俺に言った。
 俺はわざと、おどけるように答える。

「行ってほしいの?」

「まさか。お前がやる気を出してくれて、部長の俺としてはありがたい限りだよ」

 「部長の俺としては」、ね。
 じゃあ部長じゃない南としては、どう思ってるんだろうね?
 俺には、彼女と何かあったんじゃないかって心配してるようにしか見えないんだけど。
 素直じゃないなあ。

「ありがとね、南」

「は?」

 訝しむ南に、「いいからいいから」と手を振って笑顔を返し、練習に戻る。
 ラケットを振りながら、向こうも練習中だろう彼女に思いを馳せた。

 ねぇ…今の俺は、少しだけでも、君に近づけているのかな…?










 関東大会一日目が始まった。
 彼女が来てくれるんじゃないかと思うと、試合が始まるまで俺はガラにもなく緊張しっぱなしで――それがムダだったと気づいたのは試合を終えてからだった。
 この日、彼女は来なかった。

 よくよく考えると、陸上の大会も土日のはずだ。
 彼女は言っていたじゃないか。
 「空いた日」じゃなく、「空いた時」って。
 暇なんて、そうそう出来ないのかなあ…

「…南部長、俺達勝ったんですよね?」

「ああ」

「じゃあ何で千石さんはあんななんですか。試合中もソワソワしてたし」

「…そっとしといてやれ」

 膝を抱えてどんよりしている俺を尻目に、室町くんと南がそんな会話をしていた。
 試合に勝ったというのに、俺は胸にぽっかり穴が空いてしまったかのように、その日一日落ち込んでいた。





 関東大会二日目。
 ベスト4を決める戦い、相手は都大会でまともに戦いそびれた不動峰中だ。
 目をつけてた学校だから、もう一度ちゃんと戦えるのは願ってもない。
 しかし、さすがあの青学を苦しめただけはある。
 うちのダブルス2とシングルス3が敗れ、後がなくなった。
 シングルス2の俺が勝ったとしても、向こうには橘くんが残ってる。
 かといって、ここで負ける気なんてさらさらないけどね。
 俺の相手は神尾くん。また二年だけど、二年だからといって油断はしないよ。
 下手な小細工はもうやめたんだ。

 スコアが3−2となって、コートチェンジの際にある1分ちょっとの休憩を終え、ベンチの横に立ってラケットを持った俺は、ギャラリーに目を遣った。
 …いない、か。
 残念、とコートに向き直ろうと視線を落とした瞬間――視界の端に、今まさにここへ辿り着いたかのような彼女の影がちらりと映った。
 バッ、と顔を上げ確認すると、紛れもなく彼女だった。
 もしかしたら陸上部も、今日は大会だったのかもしれない。もう終わったのか途中で抜けてこられたのか解からないけど、彼女はジャージ姿だ。走ってきたようで、頬が微かに紅潮していた。
 俺が目立つ場所に立っていて自分の方を見ている事に彼女はすぐ気づき、俺に向かって微笑して、軽く手を振った。約束を守れたよ、というような、誇らしげで照れくさそうな笑顔だった。
 自然と俺の顔に、ぱあっと笑みが広がっていく。顔の高さに上げた手をぶんぶん振っていると、伴爺に笑顔でその腕を掴まれ力一杯下ろされるまで、俺は審判がコートに入れと言っていた事に気がつかなかった。

 ようし、俄然やる気が出てきた。
 次もその次のゲームも取られてしまったけれど、俺は自分の集中力が増してきているのを感じていた。
 青学の菊丸くんが、注目されるほど調子が上がるっていうの、何となく解かる気がする。
 でも神尾くんも粘りに粘る。あと1ポイント取れば終わりというところまできたのに、ものすごいスピードボールで巻き返されたし、それをずっと目で追っていたから疲れも出てきた。それでも何とか6−6に持ち込んで、タイブレーク。
 自分が負ける事なんて考えてもいないけど、それは以前のような驕りじゃなくて。
 これって、きっと、勝ちへの執念ってやつ。

 俺は、もう――


「ゲームセット、ウォンバイ神尾。7−6」


 ――負けたくないんだ。




















「伴爺…もっかい一から自分のテニスを変えようと思ってます……勝つために」

 負け続ける事がこんなに悔しいなんて。
 もう負けたくない。もっと強くなりたい。

 伴爺は俺の肩をぽんと叩くと、そのまま俺から離れていった。
 俺はしばらくタオルを頭に被ってベンチに座っていたけれど、そろそろ観客もハケてきたようなので、汗を軽く拭うとタオルを下ろした。
 その手元をじっと見つめていると、何かが俺の周りの光を遮り、影を落とした。

 顔を上げると、そこには彼女が立っていた。まるで、初めて彼女から話しかけられた時みたいだと思った。
 正直言うと、俺はその時まで彼女の存在をすっかり忘れていた。それだけ試合に集中していたって事かな。彼女のように、前だけを見てたって事なんだろうか。
 彼女は穏やかに微笑んで俺を見下ろし、こう言った。

「お疲れ様」

 その一言で、俺の疲れが一気に抜け落ちていく。
 嬉しいような泣きたいような気持ちになって、俺は彼女に苦笑を向けた。でもこの笑顔は、作りものなんかじゃない。

「…ごめんね。せっかく来てくれたのに、負け試合で。カッコ悪いとこ見せちゃったね」

「ううん、カッコ悪いなんて思わないよ。
 私も今日負けたけど、そんな自分をカッコ悪いとも思わない」

 彼女は微笑んだままだった。俺を慰めようとか、そんな感じは微塵もなくて。嘘も偽りもない正直な気持ちなんだと、目を見てわかる。
 今俺は憧れの人と向き合っている。その人が、俺の負け試合なんかを見てもカッコ悪くないと言ってくれた。負けてもまだ伸び上がれる事を、やっぱり知っていた。
 こんなに嬉しい事はない。救われたようだった。
 俺は彼女を真っ直ぐに見上げる。

さん、俺――俺、君に憧れてるんだ」

「え?」

「初めて走る君を見た時から、君の真っ直ぐな眼差しに憧れて、俺も、君のようになれたらいいと思った」

 俺の告白に、彼女はきょとんとして首を傾げると、それからすぐに笑った。眩しい笑顔だった。

「私も、あなたに憧れた」

「え?」

「試合をしている姿。さっき、伴田先生と話していた時に見せた眼差しに…ドキドキした」

「…え?」

「自分もあの人のように在れたらいい――これって、千石君が私に抱く憧れと同じじゃない? 違うかな?」

 …彼女が、俺に?
 『憧れ』? …『ドキドキ』…?

 急激に身体中の熱が顔に集まってきたようで、頭がボーッとしてクラクラした。頭に心臓が移動してしまったんじゃないかと思うほど、耳の近くで鼓動の音がドクドクドコドコうるさく聴こえる。

 違うと思う。彼女の言う『憧れ』と、俺の彼女に対する『憧れ』は、似てるけど微妙に違う。
 …違うかもしれない。だけど、確率が限りなく0に近くても、同じかもしれない。
 その低い確率に賭けてみようか? いいや――


「俺っ、君のこと――」


 ――今は、この気持ちが君に届かなくてもいいんだ。
 自分をちっぽけだと思っていた時よりは少しは大きくなれて、君の瞳に映れるようになって、憧れたとまで言ってもらえるようになったんだ。今はそれだけで充分。


 男が後ろを走ってるなんてカッコ悪いかもしれないけど、君が俺の前にいる限り、俺は君を追いかけ続けるから。
 時には並んで、いつかは君を追い抜いてしまっても、君が追いかけたくなるような俺になるから。

 そうしてずっと、君と、永遠にイタチごっこをしていたい。
 走り続けたい。



 俺と君の無限カノン。










END










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後書き
 カノンは追走曲という意味です。『かえるの歌』や『静かな湖畔』などをイメージしてくださればよろしいかと。
 カノンの意味を知ったのが最近で、その瞬間にキヨが頭の中に浮かびました。女の尻を追いかける感じが…(失礼)
 こんな感じの音楽用語好きなので、また何か使えたらいいなぁ。


 2004年10月24日


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