そこはまるで籠の中。

 気づいた時には既にふたりきりで、その世界はとても狭かった。


 だから仕方がなかったんだ。


 何も知らない私達は、お互いが世界のすべてで。

 例え外の世界を覗けたとしても、そこから抜け出せなくて。



 これは――必然だったのだと。





  カイロウドウケツ





 私は幼い頃に、交通事故で両親を亡くしている。
 父にも母にも親戚がいなかったため、私はその時天涯孤独になった。
 だが施設に預けられるとなった時に、私の後見人が現れた。
 それが、亡き父の親友だったおじ様――景吾のお父さんだ。
 跡部家に来て一つ年下の景吾と出逢ったのは、物心がつくかつかないかという頃で、出逢いの瞬間なんて、朧気にしか覚えていない。
 それ以上に、まるでお城のような跡部家に圧倒され、そんな私の手を引くおじ様の力強い手のひらに安心した事の方が、ずっとクリアな記憶。


 やがて私と景吾は、同じ世界に存在するようになった。
 同じ教育を受け、同じ教養を身につけ、同じ愛情を注がれた。
 だがそれでも、性格は違っていくらしい。
 景吾はどこまでも俺様な自信家に育ってしまったし、私は――もしかしたらお世話になっているという引け目があったのかもしれないが――大人しく聞き分け良く育った。
 自分が思った事を素直に言えるのは、ずっと一緒にいた景吾にだけだった。

 私と景吾はまるで姉弟のように、ほとんどの時間をふたりで過ごした。
 だから私は、景吾の考えてる事がよく解かる。
 私が一年先に氷帝学園幼稚舎に入った時も、景吾はハタから見れば何とも思っていないようだったけど、実際はすごく拗ねていて、淋しがっているのが解かった。
 私に、自分の知らない友達が出来るのが悔しいらしい。しばらく口をきいてくれなかった記憶がある。
 翌年景吾が幼稚舎に入ってきた時には、たくさん友達が出来たのだと自慢気に語り、私に紹介してみせた。
 それでも私が卒業し中等部に進学する時には、また口をきかなくなり、不機嫌そのものだった。
 あまりの子供っぽさにいい加減腹が立ち、一度怒って訊いた事がある。
 「何がそんなに気に入らないの?」と。
 すると景吾はムスッとしたまま、「全部だ」と答えた。
 その時は意味が解からなくてますます腹が立ったけど、今なら解かる気がする。


 世界が広がってゆく。
 たったふたりだけの狭かった世界が、加速度的に広がってゆく。
 何も考えずただ一緒にいられた時とは違う。いつまでも一緒にいられるだなんて、幻想に過ぎなかったのだと。
 その事実に、愕然とする。
 …私も、きっと怖いんだ。




















 中学最後の夏が終わった。
 景吾はテニス部で部長になり、早くも部員達を引っ張っている。
 テニスも同じ頃から景吾と一緒にやっていて、女子テニス部のない中学の三年間マネージャーをしていた私としては、何だか羨ましいような気がした。
 景吾の友達とも仲良くなった所為かもしれない。私は、彼らと最後の夏を迎えたかったんだと思う。
 そう、歳を重ねるごとに、私の方が、景吾から離れられなくなってきたような気がするのだ。
 男女の幼馴染みは成長するにつれ自然と離れていくという話なんかもあるけど、私達は、幼馴染みよりもずっと近すぎて、とても微妙な関係だ。
 そのくせ、切っても切れない姉弟のような絆まである。
 姉弟以上恋人未満、というのだろうか。
 中途半端な関係のまま、あまりにも一緒にいすぎたんだと気づいた時には、もう遅すぎたのかもしれない。
 だから、これは足掻きと言うのだろうか。私は今初めて、景吾から離れる事を考え、ある事を決意している――





 秋に入ったばかりのある日、私は学校帰りに街で二人のナンパ男に絡まれた。
 軽くあしらって撒こうと思ったけどこれがしつこくて、逃げられないように腕を掴まれて。
 護身術を習っていたからぶん投げてやろうかと思った時に、横から別の手がナンパ男の腕を掴んで捻り上げていた。

「――汚ぇ手でコイツに触るんじゃねぇよ」

 そう言って男が怯んだ隙に私を背に庇ったのは、景吾だった。
 部活はどうしたんだろうとか、そんな事を考えるより先に、安心している自分に気づいた。
 こんなの、ひとりでも平気だと思っていたのに。

「あ? 氷帝のボッチャンは引っ込んでな」
「下種が…テメェらが消えやがれ」

 ナンパ男の威嚇も何のその、景吾は明らかに彼らを見下すような口調で言い返す。どっちもガラは悪い。
 きっとこのままではそのうち殴る蹴るの喧嘩になってしまうだろうと予想されたので、部の事を考えるとそれはまずいと思った私は、睨み合いを続ける景吾の手を引いてその場から逃げ出した。
 彼らが追ってくる気配が消えるまで、ひたすら走った。いつの間にか景吾の方が私の手を引っ張っていて、かけっこも敵わなくなってしまったのかとぼんやり思った。
 息を切らせながら立ち止まると、私は先程からの疑問を景吾に投げかけた。

「ねえ、部活はどうしたの?」
「今日は自主練日だ。俺は…――久々にお前と家で打とうと思ったんだよ」
「私と? 部の誰かと打った方が練習になるんじゃない?」
「俺が誰と打ちたがろうがどうでもいいだろ」
「…ご指名を受けたのは私なんですが…」

 相変わらずの俺様ぶりに苦笑が洩れ、頭が痛くなって思わずこめかみを押さえる。
 私のその様子に景吾はムッとして、私に指を突きつけながら偉そうに言った。

「お前が、部を引退してからこっち、勉強ばっかしてクサってんのが気に入らねぇんだよ」
「クサってないし! 言われるほど勉強ばっかりしてないわよ!」
「なら、今日くらい俺に付き合え。馬鹿共から助けてやっただろうが」
「はいはい…どうせ強制なんでしょう」

 小さく溜め息をついて呆れつつ、大人しく景吾に従う事にした。こういう時の景吾は何を言っても聞かない。
 それに景吾は、私がテニス部に未練があるのに気づいていて、こんな事を言い出したんだと思うから。
 嬉しいから、文句は言わない。でもお礼も言わない。
 優しくされると、余計に離れがたくなる。
 自然に離れていく幼馴染みのように、景吾もいっそ、私の事を忘れていってくれればいいのに。
 そうしたら、ナンパ男を振り切るのも自分ひとりでやって、テニス部への未練も、全部、自らの手で断ち切ってみせるのに。
 弱い私は、自立したい、と思う反面、このままでいたい、とも思ってしまう。
 この絆は、いつまで続くのか。
 景吾はいつまで、私の手を引いてくれるのだろうか。


  「おとなになっても、おれたちはずっといっしょだ。ぜったいだ!」
  「うん」


 幼い頃戯れに交わしたあの約束は、今もまだ生きているのだろうか――










 跡部家の室内テニスコートで、私と景吾は打ち合いをしていた。
 景吾が打ち返しやすい球を打ってくれているのに、私は上手いように打ち返せないでいた。久し振りだからというのもあるだろうけど、まるで私の心の迷いを映しているかのようだ。
 力んで返してしまった球が景吾の横を通り過ぎてアウトし、向こうの壁にぶつかり跳ね返った。またつまらないミス。
 構えていたラケットを肩に抱えて、景吾は明らかに不機嫌そうな表情をした。

「真面目にやってんのか? ここまでヘタじゃなかっただろ」
「…ブランクがあるのよ」
「ハッ、そんな大層な理由じゃねぇだろうが」
「…何よ…」

 私はリストバンドで汗を拭いながら、突っかかるような景吾の物言いに訝しむ。
 景吾はコートを出てベンチに座り、私も隣に来るようにと手招きした。
 大してかいてもいない汗をタオルで拭う景吾の隣に私は座り、脇に置いていたドリンクに口をつける。
 やっぱり私とじゃ練習にならないじゃないかと思っていると、景吾が手を止め口を開いた。

…お前――」
「ん?」
「――お前、氷帝高等部への進学を希望しないんだってな?」
「…おじ様かおば様に聞いたの?」
「ああ。…それから、ここから少し離れた高校に奨学金で入って寮に住むとか」
「そこまで知ってるんだ」

 そう、これが私の決意。
 私は15歳にして、跡部家から離れる事を選んだ。
 いつかはどこかへ嫁いでこの家を出るなら、これ以上この家に依存し過ぎてしまう前がいい。
 早めに景吾を忘れられるようにしたい。

 しばらくの間、重い沈黙が落ちた。
 景吾にだけ言わなかった事を怒っているのだろうか。でも私は卒業ギリギリまで景吾にその事を言うつもりはなかった。

「…どうしてもその高校に行きたいのか?」

 先に沈黙を破ったのは景吾だった。口調は割と普通だけど、こういう時こそ本気で怒っているのだと経験的に解かる。

「うん」

 それでも私はきっぱりと肯定した。間違っても迷いを口にしちゃいけない。
 決意が堅いのだと解かってもらえれば、景吾も何も言わなくなるだろうから。
 だけど、景吾が次に言った言葉は、私の経験や想像を遥かに超えていた。

「――やめろ」

 一瞬何を言われたのか理解出来なくて、前を見つめたままの景吾の横顔を見上げて、口をぽかんと開いた。

「…は!? 何言って――」
「やめろ」
「ど、どうして景吾に命令されなきゃ――」
「命令だ」

 ことごとく疑問の言葉を遮られる。
 それからやっと、景吾は私の方を向いた。いつもみたいに威圧するような瞳ではなく、何故か、どこか、自分でもどうしたいのか解からないと言うような瞳だった。少し辛そうに見えた。

「お前、俺から離れられるのか?」
「…何それ。まるで私達が付き合ってるみたいな言い方ね」
「……「大人になっても、俺達はずっと一緒だ」」
「!?」

 覚えていたんだ、あの約束を。
 そして今頃、その約束を盾にするというの?

「覚えてるな?」
「…忘れたわ」

 目を逸らして答えると、景吾の眉間に皺が寄り、探るように目が細まった。
 嘘なんて景吾にはバレているんだろう。でもその理由が解からないといったところだろうか。
 景吾は私の腕を掴み、自分の方へ向かせるように引っ張った。その弾みでまた目が合う。

「「絶対だ」」

 こんなに必死な景吾は見た事がなかった。景吾は、私にも自分にも言い聞かせるように、続きの「絶対」を口にした。
 あの約束を忘れられず縋っていたのは、景吾もだったの?
 決心が揺らぎそうになる。

「俺が言った言葉だ。そしてお前は、「うん」と言った」
「子供の約束でしょ…」
「俺は「絶対」と言ったんだぜ。ガキの約束だろうが何だろうが、俺は嘘をつかねぇ」
「…私の意思は?」
「ない」
「勝手だわ」
「そうか? 俺達には最初から、選択肢が少なかった」

 景吾の口からこんな言葉が飛び出すとは思わなかった。だって、景吾はいつだって自分のしたいようにしてきたから。
 私との関係だって、切ろうと思えば切れる事なのに。

「この家でお前と出逢ってから、偕老同穴の中なんだ、ずっと。抜け出せない」
「カイロウドウケツ? …『偕老同穴の契り』の?」
「違う。その語源となった、胃の中に海老のつがいを一生住まわせる海綿動物だ。俺達は閉じ込められた海老」
「…もっとマシな例えはないの?」
「これ以上適切な表現はないと思うぜ。つまり――」

 景吾は重苦しい息を吐いて一呼吸置き、続けた。

「――閉じ込められた俺達は、そこ以外の世界を識る事が出来ない――いや、出来なかったと言うべきか」
「何が言いたいのよ」
「今は外の世界を識った。だが、やはり出られない。少なくとも俺は」
「どうして?」
「お前がここにいる事を識っているからだ。手の届く安全な場所に、傍にいるからだ」
「……」
「離れたくない」

 そう言って、景吾は顔を近づけてきた。私は反射的に、手でそれを遮る。
 景吾はとても不満そうに私の手首を両方とも掴むと、さらにずいっと顔を寄せた。

「お前は何を考えてる?」
「何をって…こんな事して、景吾が後悔しないのか…」
「しない。今聞きたいのは――必要なのは、お前の気持ちだ」
「私…私は…」

 私は…今さら何を迷ってるの?
 真剣な顔の景吾を見て、私は、今まで何の為に意地を張っていたのか、解からなくなってくる。
 私は、いつも一緒にいる事で、当たり前のように景吾に惹かれるのが嫌だった。
 心まで籠の中に閉じ込められていって、視野が狭くなってしまうのが嫌だった。
 ――違う。少なくとも幼い頃はそんな事気にしてなくて、一学年違う生活を送るようになってから疑問を抱いて、それが嫌になってきたんだ。
 だから、わざと離れようとしたのに――

「…お前を引き留める為なら、俺は、お前が欲しがってる言葉を言う」
「私が欲しがってる言葉…?」

 なかなか答えを出せずにいる私を見て、景吾は私の両手を放すと、今度は両肩を掴んできた。
 そして、真剣な瞳で私を覗き込んで言う。

「――…好きだ」
「っ…!?」

 思わず息を呑み、手のひらで口を覆った。止める間もなく涙が勝手に零れ落ちた。

 その言葉を、私が欲しがっていた…?

 お互いにこれまでずっと、はっきりとした言葉でこの気持ちを表現した事がなかった。
 大人になってもずっと一緒だと約束したあの時でさえも。
 姉弟のような関係だと思っていて、それ以上を望んでいなかったから。
 それなのに。だから。
 私を引き留める景吾のその想いが……嬉しかった。

 自問自答する。私は、景吾と一緒にいて、惹かれて、一度でも不幸だった?
 …ううん。私も、きっと。


「…私も…ほんとは離れたくない…」


 それが私の本音。どんなに気持ちを偽ろうとしても、結局辿り着いたのは離れたくないという想いだった。
 確かに、私は景吾から「好きだ」の一言が欲しかったのかもしれない。それが今までなかったから、私達は曖昧なままだったのかもしれない。

 景吾が掴んだ両肩ごと私を抱きしめて、優しく囁いた。

「…言えるじゃねーか」
「っうー…」
「泣くなよ…悪かった。何も言わなくて、放ったらかしで」

 すまなそうな景吾の声に、私は首を振って否定する。何も言わなかったのは私も同じだ。
 景吾は私の気持ちが解からなくて、不安じゃなかったんだろうか。
 それを思うと、止めどなく涙がぼろぼろ出てきて、景吾のウェアに染みを作っていく。景吾が溜め息をつきながら、私の背中を撫でた。

「どっちが年上だか解かんねーな…おら、顔上げろ」

 言われた通り顔を上げると、濡れた目尻に景吾の唇が触れた。
 幼い頃、私が泣いていた時に景吾が、どうしたら泣き止むのか解からなくて、戸惑いながら服の袖で涙を拭ってくれた事をふと思い出した。

 両目にキスされじっと目を瞑っていると――唇にもキスが落ちて。
 驚いてパッと目を開けると、不敵に笑んだ景吾と目が合った。

「…もう拒む理由もねぇだろ?」
「ま…まだ早いっ!」
「アーン? どこの純情乙女だよお前は。ガキじゃねーんだ」

 私は言葉に詰まった。いつまでも子供のままでいられないのは解かってるんだけど…家族同然に関わってきた人とキスって、結構勇気要るものよ? でも景吾は違ったらしい。
 恥ずかしくなり、身を捩って景吾の手から逃れ立ち上がると、景吾は呆れたような顔をして、私に向かい合うように立った。

「…

 ドキッとした。景吾は普段、あまり私を名前で呼ばない。いつも「おい」とか「お前」とかで、今この時になってやっと、私は景吾から年上扱いされていなかったのだと気づいた。景吾は始めから、私を『姉』だなんて思っていなかったのだと。
 『家族』だけど、『姉弟』じゃなく、『異性』として見ていたんだ。
 私は恐る恐る景吾を見上げてみる。
 景吾の背はいつの間にか私を追い越していて、昔は女の子みたいに可愛かったのに、顔も身体も、骨格は男のそれに変わっていた。
 まるで知らない人みたいだ、と、最近思う。
 でも景吾は、景吾のままで。私の『家族』なのは変わらない。そして『異性』だった。最初から。ドキドキした。

「高校、氷帝に行けよ」

 突然、景吾が確認なんだか命令なんだか解からないような感じの口調で言った。私は頷く。

「…うん」
「もう二度と余所へ行くだなんて言うなよ」
「…うん」
「俺も一年後には、同じ所に行くんだからな」
「…うん」

 単調に私が答えていると、景吾は短く溜め息を吐いた。その表情にはちょっとだけ、安堵が見え隠れしていた。
 景吾は私を抱き寄せると、ぼそりと呟く。

「俺の傍にいろ」

 その声には、もう迷わせない、という意思が込められていて。私はずっとここにいたのに、何故だか、ようやく安住の地を見つけたような気分になった。

 私は景吾の傍にいていいんだ。
 世界が広がっても、隣には景吾がいるんだ。

「…うん…!」





 偕老同穴の中に迷い込んだ私達。
 そこはまるで籠の中。
 気づいた時には既にふたりきりで、その世界はとても狭かった。
 だから仕方がなかったんだ。
 何も知らない私達は、お互いが世界のすべてで。
 例え外の世界を覗けたとしても、そこから抜け出せなくて。
 どんなに足掻いても、強い強い引力には決して抗えなくて。
 私達が惹かれ合うのは、必然だったのだと。
 私はそれに逆らうのを諦めたのではなく、愛しさや惑いの感情ごと受け入れた。景吾も、きっとそうだったんだ。



 私は誓う。
 景吾から決して離れず、傍にいる。
 だから景吾も、私の傍にいると誓って。


 ねえ、今度こそ。

 偕老同穴の契りを交わそう――?





END





********************

後書き
 『へんないきもの(早川いくを著)』という本の中にカイロウドウケツが紹介されていました。
 その名前や生態に一目惚れ。
 是非これをテーマに跡部様でお話を描いてみたいと思い……見事に玉砕しました。


 2005年1月5日


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