「なぁ、俺とデートしよ」

 幾度となく聴いたセリフが、目の前の男からまた吐き出された。
 そして私は、その度に幾度となく答えたセリフで返した。

「嫌。他所を当たって」





  息もできない





 忍足侑士――我が校のテニス部で二百分の七人しか得る事の出来ない正レギュラーの称号を持つ一人であり、私のクラスメイトであり、私が今最も関わり合いになりたくない相手だ。
 二年生時のクラス替えで同じクラスになって以来、私のどこを気に入ったのか、忍足は三年生になった今でもしつこく私をデートに誘ってくる。しかも自分がモテるのを知っているから私がファンの女子に目をつけられないよう、わざわざ人気のない場所にいる時に限ってあくまでさりげなく声をかけてくるという気遣いがまた忌々しい。
 私はただ平凡に生きたいのだ。間違っても、学園中の女子の人気者と付き合いたいなんて露ほども思わない。デートだけだろうが、少しも関わりたくないのだ。
 モテているのは本人の意思とは無関係なのかもしれないが、そんなの知ったこっちゃない。興味もないから構わないでほしい。
 本人に対してそう言ったのも一度や二度ではなかった。しかしその時は決まって必ず、忍足は笑顔でこう答えるのだ。

「そっちの事情も俺には知ったこっちゃないなぁ――俺とデートして?」

 と、聴く耳を持たない。ここまでしつこいと腹が立つが、こんなに冷たくあしらっているのに一つもめげないタフさは称賛に値した。
 だからだ。迷惑だと思うのに、ズタズタに引き裂くほどまでに忍足自身を拒絶しきれないのは。
 嫌なら無視すればいい、けれどそこまで無情にはなれなかったし、私は迷惑さを充分アピールしているはずだ。そもそも、迷惑だが忍足を嫌いなわけではない――いい加減そろそろ嫌いになるかもしれないが。
 どうして私にこだわるのか、それを訊ねたのももちろん一度や二度ではない。すると今度はこうだ。

と一緒にいたいからかなぁ」

 こんな歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言う奴はうさん臭い。そして質問の答えにもなっていない。

「とにかく、私はあなたとデートするつもりなんてありません」

 もう何を話す気もしなくなり、私がそう締め括ってその場を立ち去るのがいつものパターンだった。
 本当に、息が詰まる。「付き合ってくれ」も何もなしに、一足飛びで「デートしてくれ」はないだろう。いや、軽い女なら乗ってしまうのかもしれないけれど、私はその限りではない。好きなら好きと言えばいいし、違うなら放っておいてほしい。
 それに私が去ろうとしても、忍足は決して追い縋ろうとはしない。つまり本気ではなく、大した執着もないという事だ。嫌になる。

 しかし今日は違った。忍足は私が去ろうとすると、腕を掴んで引き留めてきたのだ。
 ある意味通例となっていたやり取りから逸脱したその行動に驚いて、私は動けなかった。

「一度だけでええ」

 忍足は真剣な表情で私を見据える。私は動揺した。

「そ、そんな事言われても…」
「誰かに見られんのが嫌なら、映画観て、ちょっとお茶するだけでもええ」

 初めて具体的な案を述べられ、ますます動揺する。今まで忍足は、「デートしてくれ」としか言った事がなかったのに。
 ていうか映画観てちょっとお茶してサヨナラって――それってデートって言うのかしら。それくらいなら付き合ってもいいかと思う。それっきりにしてくれるのなら、こんなに楽な事はない。
 私は充分思案してから、ようやく心を決めた。

「……解かった。一度だけ」


 そうして週末、約束の日を迎えた――が。

 頭が重い。身体が熱い。悪寒がする。吐き気がする――これは間違いなく、風邪の症状だ。
 よりにもよって、この日に熱を出してしまうだなんて。いくら迷惑だったとはいえ、一度だけでもデートしようと約束したからには、それを果たしたかった。
 ああ、でも、無理。だるい、気持ち悪い。
 仕方がない、別の日に延期してもらおう……気が進まないけど。
 きっと遠回しにフろうとしてるんだとか思われるんだ。そして謂れのない怒りを買うんだ。ちくしょう怒りたいのはこっちの方だ。
 ――いけない。熱で頭が朦朧としておかしな考えに囚われそうだ。もうとっとと忍足に電話しよう。幸い待ち合わせの時間までにはまだ余裕がある。

 私は枕元の携帯電話を手に取ると、連絡用にと教えてもらったばかりの忍足の番号に電話をかける。
 数回のコール音をぼんやりと聴いていると、それがプツッと途切れ、「もしもし?」という忍足の低い声が聴こえてきた。

「私」
「ああ、どないしたん?」
「風邪ひいたの…だから、今日は無理…別の日に変えてもらってもいい?」

 喋るのが辛くて、たったこれだけ話すのにも体力を消耗した。電話なんぞでどれだけ真実が伝わるのか解かったものではないが、せめて合間にぜいぜい言っているのが、忍足にリアリティを感じさせてくれるといい。
 それが通じたのか、電話の向こうから、忍足の気遣うような声がした。

「ホンマに?――解かったわ…待っとき」

 電話が繋がった時と同じようにいきなりプツッと通話が切れ、無愛想なツーツーという音しか聴こえなくなる。忍足に一応理解してもらえたのかと思い、ホッとして一気に意識が遠のきそうになった。
 眠る一歩手前で振り返ったのは、忍足の最後の言葉――「待っとき」…?
 私は熱で思考能力がかなり低下していた為に、その結びの言葉の不自然さに気づけなかった。気づいたとしても、発熱時の睡魔の誘惑には勝てなかった。

 ――すぐに対処しなかった所為で、こんな事態に陥ったのだ。

 私は玄関口に立つ忍足を、熱に浮かされて見える幻覚であってほしいと願った。が、紛れもなく現実だった。
 私が眠っていたのは三十分程度で、家のインターホンが鮮明に聴こえたような気がして目を覚ました。そして、ああ出なくては、となぜだか無意識に思い、パジャマの上にカーディガンを羽織ってフラフラと玄関を開けたのだ。そこには忍足がいて、私を見るなりギョッと目を見開いた。

「何でジブンが出るん!?」

 こっちが訊きたい。何であなたがここにいるのでしょうかね。ああそう、突然のキャンセルの理由が本当かどうか確かめに来たってわけ。どうよ見事に病人でしょう、これで満足?
 否が応でも穿った考え方をしてしまい、そんな自分の情けなさに自嘲的な笑いが浮かぶ。

「…家族、今いないの」

 だから無意識にも客に応対しようと起きたのだ。今思うと、馬鹿である。

「アホ! そないな状態で出てくる奴がおるか!」

 忍足にまで言われてしまった。怒鳴られたけれど心配してくれているのは解かるから、身体が反射的に竦んでしまっても怖いとは思わなかった。
 忍足は玄関に上がってドアを閉めると、私の額に手を当ててきた。ひんやりとした手のひらが気持ち良くて目を閉じる。

「あっつ…熱計ったんか? 薬は飲んだんか? 飯は?」
「ううん、どれもまだ。寝れば治ると思うし…」
「ホンマに、アホやな…」

 忍足は悲痛そうな声で呟くと、私を腕の中に包んだ。その力はまるで壊れ物を扱うかのように優しい。抱きしめられているという意識はなかった。重たい身体を支えてもらっている感覚で、とても楽だった。
 正直、忍足が来てくれて助かったと思う自分がいる。もう身体がだるくてだるくて、涙すら出てくるくらいなのだ。
 腕を上げて忍足の服を力なく掴むと、忍足は弾かれたようにバッと私の身体を勢い良く離した。私はポカンと忍足の顔を見つめる。

「っ…ス、マン」

 忍足が何を謝っているのか理解出来ない。それよりも、しっかりとした支えを失って足の力が抜けそうだ。
 私が立ったまま危なっかしくユラユラしていると、忍足は今度は腕を掴んで支えてくれた。

「…取りあえず、部屋行こ。ちゃんと水分と栄養摂って、寝なあかん」

 忍足は、私が返事をするかしないかのうちに私の向きを半回転させ、軽く肩を押して階段の方へと向かわせる。
 そうして忍足に支えられながら部屋に入ると、私は脇目も振らず倒れ込むようにベッドに横になった。後から入ってきた忍足が布団をきちんと被せてくれた。
 それから体温計やら薬やら冷えピタやらの在処を聞き出すと、「後で台所も借りるで?」と言って忍足は足早に部屋を出ていった。
 呼んでもいないのに、忍足はすっかり私を看病してくれるつもりらしい。今となっては、素直に有り難く思った。

 少しうとうととしていると忍足が戻ってきて、有無を言わさず私の口にデジタル体温計を突っ込んだ。私が体温計を舌の下側に来るようにモゴモゴとずらしている間に、忍足は冷えピタをおでこに貼ってくれた。
 一分経って体温計がピピッと鳴り、忍足は私の口からそれを引き抜いて数値を覗き込む。

「三十八度四分…重症やんか」
「うーん…」

 私は瞼の上に手の甲を乗せて、唸るように気のない返事をした。目の奥が熱い。
 忍足は外に出た私の腕を布団の中へ仕舞わせ、調子を取るように布団をポンと叩くと、もう一度部屋を出ていった。

 ゆっくりと階段を上ってくる足音が聴こえてきたので、目を開けて枕元の時計を確認すると、三十分ほど時間が飛んでいた。
 どうせならもっと眠りたかったと思いながら寝返りを打とうとすると、忍足がお盆を持って部屋に入ってきた。お盆の上には一人用の鍋と水の入ったコップが乗せられている。
 忍足は枕元に座り込み、私の顔を覗き込んできた。

「お粥作ったんやけど、食べれるか?」
「ん、食べる…でも、戻しちゃったらごめんなさい…」
「ほんでも、少しは食べた方がええ」
「うん…」

 のそりと起き上がり、膝の上にお盆を置いてもらう。忍足が鍋の蓋を開けると、綺麗な黄色をした卵粥が湯気を立てた。美味しそうで、その時になってやっと自分は空腹なのだと気がついた。それに、私が病人である事をふまえて作ってくれたからか量はそんなになかったので、ちょうど全部食べられそうだった。
 レンゲでお粥を一掬いし、二、三度息を吹きかけて口に運ぶ。

「…美味しい」
「そら良かった」

 忍足は少し嬉しそうに微笑って、私の様子を眺めていた。
 忍足が料理上手だなんて、意外のような、そうでもないような。それ以前に、自分が忍足の手料理を食べる日が訪れた事の方が意外だった。
 あんなに忍足を苦手に思っていたのに、これまでのような息の詰まる思いはない。人間、弱っている時に優しくされると簡単に寄りかかってしまうものだ。でも忍足の方は、私が弱っているから優しくしてくれているわけではないと思う。もちろん、相手が私だから優しくしてくれているんだ、とも思わない。
 何か、多分…――そう、この人はすこぶる面倒見がいいんだろう。その結論に辿り着くとなぜだか可笑しくなって、私はクスッと小さく笑った。忍足がどうかしたのかと訊いてきたけれど、私は口元に笑みを残したまま、何でもないと答えた。
 ゆっくり時間をかけてお粥を完食すると、忍足が解熱剤を渡してきたので、コップの水を飲み干しながらそれを流し込む。それから軽くなったお盆を忍足に渡し、私は頭を下げた。

「ありがとう。忍足君が来てくれて本当に助かった」
「ええよ、礼なんか」
「いいえ、迷惑かけてごめんなさい。それと、今日の約束…」
「それも気にしてへん。出かけるんは別の日にも出来る。むしろ付きっきりで看病出来て、これ役得って言うんと違う?」
「看病が、役得…?」

 そのちぐはぐな言葉の組み合わせに、私は首を傾げた。
 すると忍足は、布団の上にある私の手に、自分の手を軽く重ねてきた。ただでさえ高い体温が、さらに高くなったような気がした。
 忍足は穏やかに微笑って言う。

「肝心なトコが抜けとったな。『の』看病が出来て、役得やねん」
「ど、して…?」
「――…訊くん?」

 忍足はスッと目を細めて私の顔を見据えた。熱が一気に頭に上ってきてぼうっとする。もしかして、この人いない方が早く熱下がるんじゃないかしら。
 私が弱っているところを忍足が狙っているとは今でも思わない。この看病はあくまで厚意であり善意であると思っている。
 でも、今は忍足の答えを聞きたくはなかった。聞いてしまったら、もっと症状が悪化しそうだ。出来れば治ってからがいい。

「ま、また今度にしておく……えーと、あの、迷惑ついでに、もう一杯水ついできてもらえるかな?」

 喉がカラカラに渇いていた。さっきコップ一杯分の水を飲んだばかりなので、風邪だけが原因ではないだろう。間違いなく目の前の男も原因だ。
 忍足は何事もなかったかのように「お安いご用や」と請け合い、お盆を持ってさっさとドアの向こうへ消えていった。
 私の体調を気遣い、敢えて答えを言わなかったのだろうが――ああ、本当に忌々しい。風邪で弱って私の警戒心は今やゆるゆるに緩んでいる。感謝はもちろんしなければいけない、けれど、ほだされてはいけない。これはその場の流れや勢いでどうにかしていい問題じゃないはずだ。
 ハァ、と溜め息が出る。私は何をドギマギしてるんだか。
 ギシッと関節が軋むのを感じながら、私は忍足が触れた手の甲を額の冷えピタの上に当てた。冷却面じゃないけれど、手が特に熱くてそうせずにはいられなかった。ここの熱を、全部吸い取ってくれればいいと思った。

 それから忍足が持ってきてくれた水を飲み、今度こそ眠ろうと布団を深く被る。
 これ以上は迷惑になるし風邪が伝染るかもしれないからもう帰っていいよ、というような事をカドが立たない程度のニュアンスで告げると、忍足は首を横に振った。

「まだ熱も高いみたいやし、せめて家族が帰ってくるまではここにおるよ」

 ――の一点張り。私の「でも」も「だって」も受け付けない。
 「ええから大人しく寝とき」、と軽く頭を撫でられ、私は諦めて素直に目を閉じた。
 まあ忍足が病人の寝込みを襲うとは思わないし、もし風邪が伝染ってしまったらそれは忍足の責任だ。私は来てくれとは一度も言わなかったのだから。
 うん、けど――

「…りがとう」

 死にそうに掠れた私の呟きが正確に聴こえたかは目を閉じていたので確認出来なかったけれど、忍足がふっと微笑んだような吐息の音が、耳に心地好く届いた。










 強い光が瞼を射してきて私は眉を顰め、薄く目を開けた。
 光源の方を見遣ると、窓から西日が入ってきていた。空は夕焼け色に染まっている。ああ天気が良かったんだな、と知って、今日出かけられなかった事を少し残念に思った。
 首に手を当ててみる。そんなにだるくなくなっているし、熱は大分下がったようだった。そしてふと、違和感に気づいた――汗をかいていない?
 そんなわけがない。現に頭や身体は汗で濡れている。けれど、首周りと顔だけは汗のベタベタ感がまったくなかった。

 ハッとして、ベッドの横に視線を向ける。視界にそれが映ると、心臓が飛び出すのではないかというほどに驚いた。忍足が、ベッドの端に腕と頭を預け、こちらを向いて眠っていたのだ。
 忍足の傍には水を張った洗面器とタオル。これで私の身体に触れられる範囲だけを拭ってくれたのか。やけに紳士でむず痒い。
 私は忍足を起こさないようにそうっと上半身を起こし、忍足の顔を覗き込んだ。
 あーあー、眼鏡したまま寝ちゃって、顔に変な跡がついたらどうするの。私は手を伸ばして眼鏡の左右の弦に指をかけ、そのまま手前に引いて外してあげようとする――と。突然がしっと手首を掴まれた。また心臓が飛び出るかと思った。
 忍足が起きたのかと思って顔を窺い見る。しかし瞼は閉じられたままだ。

「忍足君…?」

 一応声もかけて確認をするが、反応はない。
 その時だった。

「――や…」

 忍足の口元が小さく動き、ぼそっと何か寝言を言った。語尾しか聴き取れなかったので耳を近づけてみる。
 もう一度言葉が発せられるのを暫し待っていると、忍足は再び何事かを、呟いた。

「…ッ――!?」

 私は驚いて忍足から身体をバッと勢い良く離す。立ち眩みのように頭がくらっとした。心臓がバクバク鳴り出して、掴まれた手はブルブル震えている。
 呼吸が苦しくなって、私は熱がある事を思い出したかのようにぜいぜいと喘いだ。あまりにも苦しくて涙が浮かんでくる。

 私は「また今度にしておく」って言ったのに。どうして今言うの。
 バカ、バカ、卑怯者。せめて自分が起きている時に言え。寝言だなんて、バカにしているにも程がある。
 ああでも直接言われたら何だっていうの。昨日までの私なら絶対に、即座にゴメンナサイしていた。今はどう、たった半日以下の時間で何かが変わるなんて思わない。そんなの認めない。なのに、どうしてこんなに胸が苦しい。


『――好きや…


 ねえ忍足、起きて。起きてから、もう一度さっきの言葉を聴かせて。
 そしてこの息苦しさは熱の所為なんだって、証明させてよ。





END





2006年10月30日


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