何だか、身体が重くて頬がくすぐったい。
 私はいつの間にか仰向けに寝返りを打っていたようで、後頭部が痛くなってきて目を覚ました。とは言ってもまだ眠いので、目は閉じたままだったけれど。
 覚醒しきっていない頭で認識したのは、風が吹くとふわふわしたものが頬をかすめる不思議な感覚だった。何だろう、長毛の猫でもいるんだろうか。
 そちらとは反対の手を持ち上げて、撫でてみる。ふわふわで毛並みもいいから、これは飼い猫かな。
 その動物がどういう向きになっているのか確認する為に、手を下げていく。すると、毛ではなく布地に触れた。服? …犬?
 服を伝ってどんどん手を下げていくと、途中で肌に触れた。そして、それは私の腰まで続いていた。これは…人間の腕なんじゃないかなあ?

 そこにいるものを確認する為、恐る恐る目を開けてみると…
「――ギャー!」
 私の叫びがやかましくわんわん響き、そこにいたものもビクッと目を覚ました。
「んぇっ? なになに? チカンでも出た?」
「チカンはあんただっ!」
 ふわふわの毛の正体はジローくんで、横向きになって私の腰に腕を回していたのだ。それだけじゃない、ジローくんの足も私の足の上に乗せられていた。まるで抱き枕のごとく。道理で身体が重いわけだよ。何よりも一番驚いたのは、ジローくんの顔がものすごく近くにあったことだ。
「ちょっ、ちょっ…放してよ!」
「え〜あったかくてやわらかいのに〜…」
 私が肩を押し返そうとすると、ジローくんは余計にぎゅっと抱きついてくる。ちょっとそれホントにチカンっていうかセクハラ発言だよキミ。問題問題。
「放してったら! えーっと…ほらっ、もう夕方みたいだし、起きよう? 帰ろう?」
 天井の穴から夕焼けで赤く染まった空が見えて、私は取ってつけたように付け加えた。

「…かえりたくない」
 ジローくんのセリフに、思わず「はあっ!?」と返しそうになってしまったけれど、その表情が曇っているのが薄暗い中でも解かって、私は言葉を飲み込んだ。
「……ごめん、うそ」
 淋しげにそう笑って、ジローくんはようやく私の身体を解放して起き上がり、何も言わずに外へ出た。
 何だかそのままいなくなってしまいそうに感じられて、私は慌てて枕にしていた紙袋を手に持ち、後を追う。
 寝起きに夕焼けが眩しくて目を細めながら、首を左右に動かしてジローくんを捜す。
 …もういない…うそ!?
「ここだよー」
 声がした後方へハッと顔を向けると、先程までは中にいた山の頂上にジローくんが座っていた。私を見下ろすその姿は、夕焼け色に染まってとてもきれいだった。
 何そのフェイント、とか、どっか行っちゃったかと思ったじゃない、とか、込み上げた怒りや焦りがすっと内側で消えていく。ただただ安堵の溜め息が洩れた――いてよかった。

ちゃんも登っておいでよ」
「…二人も座れる?」
 と言いながら、私は山の横に段違いに並んだ手すりを伝って登っていく。
 頂上の傾斜はなだらかではあったけど、子供用に作られた遊具なのでやはり二人並んで座るには狭いというか、滑って危ないかもしれない。
 私がどう座ろうかとまごまごしていると、ジローくんが私の手を引いて自分の横に座らせ、ぐっと身体を引き寄せてきた。
「俺がちゃんを落とさないから、だいじょうぶ」
 ものすごい密着度で少し恥ずかしいんだけど、ジローくんはよかれと思ってやってるんだよね。
「あ、ありがとう…」
 体勢を立て直しながら私からもちょっとだけくっついて素直にお礼を言うと、ジローくんはニコッと笑った。

 あの淋しそうな表情は何だったんだろうか。
 「帰りたくない」って言ってたけど、家に帰りたくないのかな。私の知る限りでは、ジローくんの家族は皆いい人で、帰りたくなくなるようなことはないと思うんだけど。
「…ねえジローくん、どうしてここへ来ようと思ったの?」
 それにどうして、ここへ私を連れてきたのか。
 私の問いに不意を突かれたようで、ジローくんはパッと気まずそうに俯いた。気の所為でなければ、心なしか耳が赤い。
「…ちゃん、あのね…今日ちゃんがうちの店に来たの、偶然じゃないんだ」
「えっ?」
「先週の部活帰りに、ちゃんのお母さんにたまたま逢ったんだけど…その時に、今日、ちゃんをうちの店に来させてほしいって、頼んだ」
 だから母はあんなに出かけろとしつこかったのか。
「な、何でまた…」
「…あいたかったから」
 ジローくんはぽつりと告げ、顔を上げて夕焼けを見つめた。
「逢って、確かめたかった」

「何を?」
 ジローくんの真意を知りたくて、私はさっきから何度も質問を重ねている。
 そう、知りたかった。わざわざ私の母に今日という日を指定して私を店に来させるよう頼むなんて回りくどいことをしてまで、どうして私に逢いたいと思ったのか。さっぱり解からない。解かったのは、ジローくんがお店を手伝うと言い出したのは私と逢う為だったということだけだ。でもそれは全ての答えではない。
「…俺ね、ちゃんとよく遊んでたころ、ちゃんのことが好きだったんだ」
「え」
 突然の告白にぎょっとした。
 子供の頃、ジローくんはそんな素振りを見せたっけ? おぼろげな記憶を巡らす。
「なにも言わなくてもずっといっしょにいられると思ってた。でもさ、幼稚舎に入って、お互いに新しいともだちができて、あうことも少なくなって、俺たちにどんどん距離ができてきちゃったじゃん? モチロンさみCとは思ったけどさ、俺、それを自然と受け入れられた」
「…うん。私もそうだった」
 それなりに淋しいとは思ったけれど、新しい環境はそれを補って余りあるほど心地好くて、幼い私は過去を振り返るなんてことはしなかった。同性と過ごしていたら、ジローくんと離れていくのはむしろ自然なことだと思った。

「――でさ、今はどうなんだろうって。昔はホントにちゃんのこと大好きだったけど、今は俺、ちゃんを好きなのかどうなのか、わかんなくて。だから昔と同じように遊んでみて、あのころと気持ちは変わったのかどうか確かめたいと思ったんだ」
「どうして今になって?」
 それにもきっかけがあるはずだ。そうでなければ、おかしいじゃないか。私と話す機会なんて、見つけようと思えばいくらでもあったはず。
 ジローくんは私の不意打ちの質問にまたも俯いてしまい、私からはジローくんの拗ねたように尖った唇だけが見えた。
「…こないだ学校のろうかで、ちゃんが、俺のしらない男子と、なんか楽しそうに話してんの見ちゃったから」
「は…? あー…そんなこともあったかもね…」
 同じクラスの男子とバカ話でもしてた時かな。でも、それで確かめたくなったってことは――順番がおかしくないだろうか。それってやきもちって言うんじゃないのかな。

 ジローくんはふうっと溜め息をつくと、ちらっと私の方を見た。
「今日さ、俺の誕生日なんだ」
 今までの話題から唐突に外れて告げられたジローくんの言葉は、本日一番の衝撃を私に与えた。
「えっ…――あっ…あー! そうだ、忘れてた! ごめん!」
 ゴールデンウィーク祭日最終日、端午の節句、鯉のぼり、ジローくん。これだけのキーワードが揃っていたのにどうして思い出さなかったのか。昔はよくお誕生会とかにお呼ばれされて、私も一緒にケーキを囲んで祝っていたはずなのに。
 どうしよう、当日本人に言われてやっと気づくって最悪じゃない?
 ジローくんは苦笑しながら、首を横に振った。
「んーん、なん年もたってるからしかたないよ。それにさ、『忘れてた』ってことは、『覚えてはいた』ってことじゃん。「そうだったっけ?」とか言われるよりずっとうれC」
「いや、でも、なんか、ごめん」
「いいんだ。今日だけはワガママ言ってもゆるされると思って、こうしてちゃんと並んでいられてるんだから。じゅうぶん」
 今日という日を指定したのは、そういうわけだったのか。謎が少しずつ解けていく。

 残った謎は、あと一つだろうか。
「…それで、今日、私と逢って、どうだったの?」
 好きだという気持ちは変わらなかったのか、それとも失くなってしまったのか。
 問いかけながら、私はなぜか緊張していた。
 ジローくんは考えるように「うん…」と呟き、少し黙ってから、口を開いた。
「気持ちは変わってた――」
 その答えに、私はどこかがっかりした。期待していたというのか、何を?
 頭の中で自問していると、ジローくんがニッコリ笑い、私の顔を覗き込んで続けた。
「――子供のころよりも、ずっと、好きになった」
 今度は私が不意打ちを喰らってしまって、俯きたいくらいに顔が熱くなり、鼓動が早鐘を打ち出した。
「確信したのは、砂場のトンネルの中で手ぇつないだ時かな。ちゃんが、「トンネルがなくても繋がってる」って言ってくれた時、俺この子のことがすっげー好きだ、って思った。好きだったことを思い出したって言うよりもね、同じ女の子にもういっかい恋したみたいだったよ」
 もういいもういい、とわーわー叫び出したくなった。何でこの子は恥ずかしげもなくそんなことを言ってるんだろう。こっちは初めて異性に告白されて、心臓も頭もオーバーヒートを起こしそうなのに。

 また謎が増えてしまった。ジローくんは、私にどんな答えを求めているのだろうか。そして私の答えは。
 この謎だけ、このままうやむやにしてしまえればどんなに楽だろう。
 だって私は、たった今ジローくんを一人の異性として意識し始めたばかりなのだから。どう答えることも出来ないじゃないか。
「ねえ、俺、今はどんな答えもいらないよ」
 私の心を見透かしたかのように、ジローくんは穏やかな声音で言った。
「ただ、またこうして――公園じゃなくてもさ、ふたりで逢いたいなって思うだけ」
 恥ずかしさに俯いた私の頭をそっと撫でながら、「それもイヤ?」と優しく問いかけてくる。
 私はぶんぶんと首を横に振って、決死の覚悟で顔を上げた。どうか夕陽が顔色をごまかしてくれますように。
「ううん…私も、ジローくんとこんな風に変わらず遊べたこと、嬉しかった。楽しかった。またこんな時間をくれるのなら、いつでも誘って」
 それだけは迷わず言える、心からの思いだ。
 ブランコで久しぶりに遊んで思ったことと同じ。どうして手放してしまえたんだろう。
 記憶を共有し合える相手は、とても貴重で大事なものじゃないか。
 ジローくんは嬉しそうに微笑んで、「もちろん!」と大きく頷いた。

「俺、ひみつきちを作りたかったんだ」
 好きな女の子に、と言うよりも、まるで十年来の友達に次は何して遊ぼうか相談を持ちかけるように、ジローくんは唐突に言った。
 『ひみつきち』という響きは、なぜだか遠いもののように思える。
「あれ、ダンボールとかで作らなかったっけ?」
「それは家ででしょ。それにここも――」
 と、自分たちが座っている場所をトントンと指で叩く。
「ここも、ひみつきちだなんて言ってたけどさ、ほんとは、草がボーボーにはえてる空き地の奥とかに、だれにも知られないようなのを作りたかった。でも子供が行けるような距離にそんな場所なかったじゃん?」
「うん、なかったね」
「だから、欲しかった。俺とちゃんしか知らないひみつきち」
 二人だけが知っている秘密の場所。わくわくするような、それでいて甘やかな、空想。
「…作れそうな場所、探す?」
 今ならどこへだって行ける。大きな道路は危ないからと大人に行動範囲を制限されることもないし、バスでも電車でも保護者なしで乗れる。郊外にでも行けばきっと、ひみつきちを作れる候補地はいくらでも見つかるだろう。
 ――でも、多分、そういうことじゃないんだ。ジローくんも、私も、ひみつきちを、子供として過ごせる時間を、もう手に入らないものだとどこかで諦めている。だから全てが過去形なんだ。だからジローくんは帰りたくなかったんだ。

 ジローくんが何か答える前に、私はその場に立ち上がって、足場の悪さにちょっとよろめきながらジローくんを見下ろした。
「ひみつきちは、誰でも、どこにでも作れるんだよ、ジローくん」
 ジローくんは呆然と私を見上げている。
 私はそこからタッ、とジャンプして飛び降り、着地して、ジローくんを見上げた。
「今、ここが、私たちだけが存在するこの空間が、既にひみつきちなの」
 解かる?と微笑んで問いかける。
 ここで起きたことは私たちだけしか知らない。二人で共有する一つの記憶そのものが、ひみつきちになり得るんだ。覚えている限りずっと失くなりはしない。
 今度は私を見下ろす形になったジローくんが、くしゃっと顔を歪ませた。あ、泣いちゃう。

 ジローくんの向こうに見える空からは夕闇が迫り始めている。子供はもう家に帰る時間。
「ジローくん、おいで。一緒に帰ろう」
 過去と今とがオーバーラップする。そういえば、以前にもこんなことがあった。
 幼稚舎に入ったばかりの頃だったろうか。夏休みに私の家族は一週間ほど祖父母の家に泊まりに行くことになって、その予定をジローくんと公園で遊んでいた時に何気なく話したら、もう私が帰ってこないものと勘違いしたのかジローくんは「かえりたくない」と駄々をこね始めた。そしてそんなジローくんを、私は「またすぐあえるんだよ」と言って必死でなだめて、手を引いて家まで送ってあげたんだ。「だいじょうぶだから」と何度も繰り返し言い聞かせながら。
 一週間という概念が解からないままどこかへ行かれてしまうのと、この先ずっと一緒にいられるという保証もないまま別れてしまうというのは、ジローくんの中では同じことなんだ。
「大丈夫、またすぐに逢えるから」
 もう子供の頃のようには遊べないかもしれない、過去には戻れないけれど、いつだって逢えるよ。
「…ほんと?」
 今にも涙が零れ落ちてしまいそうな瞳で、ジローくんが問う。眩しいくらいの純真な瞳。守ってあげなきゃ、と思ってしまう。
「うん。私からも逢いに行くし、ジローくんも私に逢いたくなったらいつでも来て」
 私はジローくんに手を差し伸べた。
 ――降りておいで。一緒に帰ろう。そして、また何度でも遊ぼう。

 ジローくんは私の手を掴み、横向きにぴょんっとジャンプして降りてきた。
 私は空いている方の手でジローくんの頭を撫で撫でする。
「誕生日おめでとうジローくん。忘れててごめんね」
 祝いの言葉と一緒に、はにかむジローくんの頬にそっとキスを贈った。
ちゃん…」
「あげられるもの何も持ってないから、即席だけど一応これがプレゼントってことで」
 目を見開いて驚くジローくんに苦笑いを向ける。
 すると、繋いだ手はそのままに、片腕でジローくんに抱きすくめられた。
 意外と厚い胸板や力強い腕に、落ち着いていた心臓がまた太鼓のようにドコドコと激しいリズムで肋骨を叩き始めた。当たり前だけど、女の子同士で抱き合うのとは全然違う。
「…ありがとう」
「い、いいえどういたしまして…」
「だいすき」
 カッと頭の中まで熱くなった。脳みそがぽやんぽやんする。どれだけ異性と触れ合うのに免疫ないっていうの私。
 願わくば、私がこうなってしまうのはジローくんだけだといい。それなら、ジローくんの傍にいるのに理由なんて必要なくなるからだ。好きだから、で済む。そんなのがいい。

 カチコチに固まってしまった私の様子に、ジローくんは「ははっ」と少しだけ笑い、ゆっくりと私の身体を解放した。
 ジローくんは私の両手を取って軽く持ち上げ、祈るように目を伏せてから、すっと私と目を合わせて微笑む。
「かえろっか。今度は、俺が送っていくよ」
「…うん」
 ああ、やっぱり記憶は私だけのものではない。ここにも消えずに残っていた二人だけのひみつきちがひとつ在る。

「今度はどこで遊ぼうか」
 懐かしい公園にさよならをして、すっかり薄暗くなってしまった帰り道を、仲良く繋いだ手をぶらぶら前後に揺らされながら歩き、私は言う。
 とりあえず頭に浮かんだ遊び場などを指折り数えてみた。
「ゲームセンター、遊園地、水族館、動物園、映画館…はジローくん寝ちゃうか。夏になったら海とかもあるね。ジローくんはどこか行きたいところある?」
「跡部んちでかくれんぼ!」
 突拍子もないジローくんの提案に、私はぎょっと目を丸くした。
「跡部くんって…私面識ないんですけど」
 彼は有名人なので顔と名前くらいはもちろん知ってるけど、向こうは私なんか知らないだろう。何より、他人の家でかくれんぼって…
「へーきへーき。あんね、跡部んちってすっげーデカいんだよ! あの家でいっぺんかくれんぼしてみたかったんだよなー!」
「そ、それはやめとこうよ…」
「えー、じゃあー…――」
 何か面白い遊びでも考え出してやろうというのか、ジローくんは首をひねって思案顔。
「ゆっくり考えよう。私はいくらでも付き合うからさ」
 離れていくことが当たり前だなんて、もう思ったりしないから。

 色んな場所へ行って、色んな経験をして、色んな話をして、色んな記憶を積み重ねて。
 そうしてずっと、数え切れないほどのひみつきちを、二人で作っていこう。

 ――ほら、今ここにもひみつきちが、ひとつ。










END










2006年5月     佐倉 四季