彼女の口から発せられた「好きだよ」という言葉を幾度となく反芻してしまう。
それがいつか特別な意味を持って、自分へと向けられる日を焦がれている。
Got a burn!
「……何がどうしてこうなったの」
差し出された糸つきのボタンを見てから、は目の前に立つその持ち主に顔を向けた。
「もしかして、私のつけ方が甘かった?」
シャツのボタンが取れた部分にちょろっと残る糸を見て少し不安げに窺うに、財前は首を横に振って答える。
「いえ、フック的な物にボタンが引っ掛かって、そのまま勢い良く動いたら千切れました」
「ふ、フック的な物って何…?」
の尤もな質問に、財前は首を大きく傾げた。胸の高さで引っ掛かるフック的な物とは何だろうか。
「さあ…? ようわかりません」
適当にデタラメを言っているだけなのだから説明しようもない。本当の『理由』など口にも出来なかった。
に逢いたくて自ら引き千切った、などと。口が裂けても言えない。
「――ただ、ボタンが取れた時、最初に浮かんだのが先輩の顔でした」
疑問を挟む間を与えず、精一杯の好意を込めて財前がそう言うと、は「おぉ…」と感嘆の声を洩らし、眉を下げながら笑った。
「それは嬉しいなあ」
は未だに、自分に好かれていないと思っているのだろうなと財前は思った。全国大会の時に植え付けてしまった悪印象は、簡単に消え去るものではなかったらしい。
しかしこんな風に嬉しいと言ってくれるという事は、どうやらからは嫌われてはいないようで、財前は心底ホッとした。口実を作ってまで逢いに来た甲斐があったというものだ。
「せっかくのご指名だから、ボタンつけてあげるねー」
気分を良くした様子のが、財前の手からボタンを受け取る。その瞬間、の指先が手のひらに触れて、ぞわりとした感覚が財前の背中を駆け上った。
自分の身体が自分のものでなくなってしまうような空恐ろしさを感じて、空になった手のひらを身体の横でぎゅっと握り込んで遣り過ごす。
そんな財前の変化には気づかず、常備しているらしいソーイングセットを鞄から取り出したは、笑顔で更に恐ろしくなるような言葉を吐いてきた。
「昼休みももう残り時間少ないから、シャツは着たままでいいよ」
「……は?」
「着たままでも縫えるんだよ。大丈夫、刺したりしないから」
問題はそこではない。いや、それも多少不安ではあるが。
考えを上手くまとめられないでいる間に、財前は空いていたの隣の席に座らされていた。そしてが自分の方へ椅子を引き寄せて目の前に来る。
その近さにひどく動揺して、財前は身体を軽く仰け反らせた。
は針の穴に白の糸をするすると手際良く通して糸の端に玉を作り、準備万端とばかりに針とボタンを構えて言う。
「刺さると危ないから、胸は張らずに少し屈んでくれる?」
出来れば遠慮したかった。が、今更後には引けない。財前は思いっきり眉を寄せた後、視線を誰もいない方向に向けながら、油の切れたロボットのようにぎこちなくゆっくりと上半身を屈めた。
はボタンを持った方の手でシャツの表裏を捲り見て布に残っていた糸を取り除き、そこを指で揉み解しながら呟く。
「あー…無理矢理千切ったから布も傷んじゃってるね。少しずらしてつけるよ?」
何やら色々配慮してくれているらしいが、財前は今それどころではなかった。
針を持って縦横無尽に動くの手の甲が肌を掠めていったり、視界の端にの顔や髪が映る度、不気味な衝動に襲われ、それを堪えるのに必死に歯を食いしばっていた。ので、端から見れば相当なしかめっ面をしていただろうと思う。
のクラスメイトやら廊下から教室内に顔を覗かせた誰やらの好奇の目に晒されクスクス笑われる事の方がまだ我慢が出来た。
その忍耐にも限界が来そうだという寸前で、は最後の玉止めを終え小さなハサミで余った糸を切り、つけたばかりのボタンを甲斐甲斐しく留める。そうしてポン、と財前の胸を叩いた。
「はい出来上がりっ」
ただ縫うのとは違った動きに反応して、迂闊にそちらを見てしまったのがいけなかった。
が至近距離で、実に満足げに笑って自分を見上げていた。
「っ……!」
カッ、と、爪先から頭まで一気に熱が駆け上る。
その勢いのまま、財前は手で口元を覆い、後退るように椅子を蹴飛ばし立ち上がった。
ガタン、と、今の今まで座っていた椅子が後ろに倒れる音が響き、喧騒の教室が一瞬しんと静まり返る。
財前の突然の行動に驚いて、は目をまん丸に見開いていた。
「ど、どうかしたの? 具合でも悪く――」
自分を案じるの声を最後まで聴く事なく、財前は逃げるようにの教室を後にした。
を訪れた時とは別種の気の逸りを感じ、廊下を行く上級生にぶつかりそうになりながら自分のテリトリーへと急ぐ。
に触れられた胸元が、まるで焼け焦げたかのように熱かった。
痛みにも似たその感覚に、目頭までもが熱くなる。
「何やねん、これ……」
ボタンごとシャツを握り締めるだけでは、もうどうしようもなかった。
「それは『恋』ねぇん!」
「ああ、『恋』やなあ!」
芝居がかった唐突なセリフは金色と一氏のものだ。
放課後の部活、財前は誰とも話したくないと思いコートの隅で気配を消して佇んでいた。金色達はそんな財前が洩らした一瞬の溜め息を耳聡く聴きつけたのだろう。財前はいい加減慣れたもので、陽気に自分を囲む二人を横目でちらりと一瞥すると、ぼそっと低い声で応えた。
「……言われんでも、知ってます」
意外な返答に、金色は「あらっ」と珍しく本気の驚嘆の声を上げた。
「ようやく自覚したん?」
「自覚も何も……こんなん、否定したってしゃあないっすわ」
胸に灼きついた焦げ痕は、つまりそういう事なのだろうと己に知らしめる。否定も拒絶も、余計に苦しくなるだけで無駄だ。
そんな風に認めた上で、一刻も早くこの泥沼から抜け出したい。しかしどうすればいいのか解からない。
病は気からと言うが、たった数時間で痩けたように目の下に影を作った財前を痛ましげに見ながら、金色は頬に手をあて、事もなげに言い放つ。
「告白したらええやないの」
「簡単に言わんで下さい。明らかにフラれるて解かってて、告白なんぞする気になりません」
「どうしてフラれるって解かるのよ」
詰め寄るような金色の言動に、財前は苛ついた。お説教など真っ平御免だ。
「じゃあ逆に訊きますけど、小春先輩も先輩の事が好きっすよね。どうして告白せんのです?」
財前がへの想いを自覚して、最初に気づいた事がそれだった。
人を好きになると、その相手を見る周りの目すら意識するようになる。そして察したのだ。本人が知る知らないに拘わらず、に向けられていた大小の好意に。
財前の暴露じみた発言に、一氏が「浮気か!?」といつものツッコミを入れるが、金色は財前も一氏も一絡げにあしらうように手をひらひらと振って笑う。
「それは違うわよ〜。あのねえ光ちゃん、『好き』っちゅう感情にも色々あるんよ? それを何もかも恋愛に当て嵌めたらあかん」
初めての恋(はぁと)に浮き足立つのも解かるけど〜、などと言ってクネクネし、金色は財前の眼前にびしっと指を突き立てた。
「い〜い? アタシ達三年はもうすぐ引退なのよ? 引退したら、それに卒業しちゃったら、二度と逢われへんかも。そういう事考えたん? それで後悔せえへんの?」
と二度と逢えない。そう考えるだけで、じくりと胸が痛んだ。
「アタシを恋敵かもなんて思う暇があんのやったら、当たって砕けたらどうやの!」
金色の言葉には、不思議と迷いを拭い去るような強い力があった。それはやはり金色がの事を好きだからなのではないかと再び邪推してしまうが、だから何なのだという気もして、財前は小さく笑う。
「……俺、今初めて小春先輩を男前やと思いました」
「まっ、失礼ね。アタシは乙女よ!――それで、決心はついた?」
「当たって砕ければええんでしょう?」
「まあ人聞きの悪い。アタシが焚きつけたみたいやないのっ」
そうやって嘯く金色は、信じがたい事に、やはり男前に見えたのだった。
テニスコートと部室がある3号館の間を、マネージャーとしてバタバタ行き来するを捕まえたられたのは、ちょうど人目も人気もないくいだおれビルと3号館の間だった。
財前の姿を見るなり、は心配そうに近寄って声をかけ、顔を覗き込んでくる。
「ねえ、昼休み、どうかしたの? 気分が悪いなら、今日の部活は休んでも――」
「先輩、話があるんです」
皆まで言わせず言葉を被せる。
財前の真剣な表情に、は戸惑ったように小さく首を傾げた。
「ん、なに?」
すう、はあ、ひとつ深呼吸。
「――……俺、先輩が好きです」
「……え?」
緊張はしたが思ったより簡単に言えた。そんな事に安堵し、財前はの驚いた顔を見納めて、踵を返す。
「そんだけです――ほな」
「ちょ、ちょっ、ちょーっ!!」
元来た道を引き返そうと歩き出した財前の腕を、が慌てて掴み引き止める。
財前は若干面倒に思いながら、仕方なく、に向き直った。
「……何ですか」
「何ですかっていうか、え、今の何? 言い逃げ?」
びっくりしたー、と驚嘆しながら、は財前の腕を放さない。財前は自分を掴むの手を見たまま、平然と答えた。
「……何って、告白ですけど」
「いやでも私、財前くんには、好かれてないと思っ――」
「それは違います」
予想していたの言葉を、バシッと遮る。
「ええ加減、その認識は捨ててもらえませんか」
かつての自分の所為だと解かってはいるが、いつまでも根に持たれては前に進まない。
財前の不機嫌な様子を感じ取り、は素直に謝ってきた。
「ご、ごめんなさい……」
「…………」
そんな顔をさせたいわけではないのに、いつの間にか落ち込ませている。
財前は誰に対してもキツい物言いをしてしまう自分の性格に溜め息をつきながら、掴みっぱなしでいた財前の腕を放そうと力を緩めるの手を取った。特に抵抗はされない。
俯いて伏せられたの睫毛を見つめ、財前は改めて想いを告げる。
「……俺は先輩が好きです。恋愛の意味で」
「……うん」
「それで、ええんです」
「……うん?」
見事に怪訝な表情をしてが顔を上げる。ので、簡潔に答えた。
「付き合えるとか思うてへんし」
「なんで?」
「先輩が、俺を好きやないて思うから」
だから言い逃げで充分だと思った。諦めの境地とでも言うのだろうか。
しかしはぐっと身を乗り出し、力一杯に声を張り上げた。
「好きだよ!――可愛い後輩って意味で!」
「……そんなもんやろと思いました」
はあ、と小さく溜め息が洩れる。にとって自分は、やはりそんなものなのだ。
「好きだよ」と言われた一瞬でも嬉しいとか思った単純な自分をどつきたかった。
「でも! これからは一人の男の子として見てみるよ!」
「は?」
何か、思いも寄らぬ事を言われた気がした。
「告白されたのなんて初めてで、その、意識せざるを得ないっていうか……受けるにしても断るにしても、今すぐは無理だけど、ちゃんと考えて返事をするから」
だってそうしないと気持ち悪いでしょう?と、はうっすら頬を染めて照れたように苦笑する。
――ああ、だから、困るのだ。どんな答えを用意されようとも、自分はきっとを好きなままなんだろうと思い知らされる。
初めてに触れた時の事を思い返す。財前はあの時の柔らかな手を握りながら、抱き締めてみたいと思ったのだ。その気持ちが今になって大きく膨らみ、口を衝いて出る。
「――先輩、抱き締めてもええですか」
これはお伺いを立てたわけではなく、決定事項をお知らせしただけ。
言うが早いか、財前はの手を引き寄せ、その身体を腕の中に閉じ込めた。
真正面からひとを抱き締めるのなんて初めてで、の肩を背中を抱く腕がひどくぎこちないのが自分でも解かる。拙さを気持ちでカバーするように、ぎゅうと力を込めた。
熱い。残暑よりなお熱い、好きなひとの柔らかな体温。そしてそれ以上に熱くなっているであろう、自分の体温が。熱い。
は固まってしまっているのか身動ぎもせず、緊張でか少し震える声で笑った。
「は、はは……財前君、すごいね、心臓の音」
「……黙っといて下さい」
仕方がないだろう。火傷した心臓が、痛みと喜びとで抑えようもなく暴れるのだ。
にも伝染ってしまえばいいのに――
そんな仕様もない事を思いながら財前は、このまま放せと言われるまで放さないでいようという意地悪な気持ちで、ここからどうやって放したらいいのか解からない自分を誤魔化した。
END
2011年4月28日
ドリームメニューへ
サイトトップへ