「ん、財前。お前、そんな癖あったか?」

 夏休みが明けてからだった。そんな指摘をされたのは。
 そしていつの間にかそれが自分の『癖』になってしまったのだと初めて気づいた瞬間、財前は。
 ――指先にありったけの力を込めた。





  Build a fire!





 夏休みに入ってすぐ、三年生で男子テニス部のマネージャーが背中の半分くらいまであった髪を切ってきた。それはもうベリーショートに。
 気心の知れた部員達が「失恋か?」などとからかい半分に訊ねるが、本人は「これからどんどん暑くなるから」と言って笑った。だが少し切り過ぎてしまったと眉を下げる。
 不美人ではないが十人並程度の容姿をしたがそこまで髪を短くして部員達に紛れていると、まるで男子のように見えた。
 そんな印象を持ったのがそもそものきっかけだったろうか。


 全国大会の為、テニス部員は東京にしばらく滞在する事になり、ついてきた女子マネージャーのは宿では当然一人部屋で。
 初日の夜、誰が呼んだのかレギュラーが集まるカオスの部屋へひょっこり顔を出してきた。
 それはいい。だが、何と言うか、がその髪型でいつもの部活のようにハーフパンツを穿いていて、どうも風呂上がりらしいのにあまり色気を感じなかったりしたものだから、つい馴染みの毒舌が口を衝いて出てしまった。
先輩、胸があるから辛うじて女やてわかるけど、俺らに混じってたらまんま男ですやん」
 ちなみに言っておくと、財前とは特別親しいわけではない。むしろ必要以上の会話を交わした事がない。
 そんなわけで、珍しく話しかけてきた財前の言葉に耳を傾けていたの表情は見事にぴしりと固まった。そして目元口元を歪ませ財前を指差しながら、白石の方を向いた。
「何この子。超、失礼じゃない?」
「すまんなあさん。こら財前、謝りなさい。女の子に対して失礼やろ」
 フェミニストの白石がそう窘めるが、財前が今気になるのは目の前で怒りにぷるぷる震えるの人差し指だった。
「人を指差さんといて下さい。そっちも充分失礼やと思いますけど」
「む、ムカつく…!」
「俺は思った事言ったまでですよ。謝る必要なんてないです」
 それに、がショートにした姿を初めて見た人にも何度か言われていた事ではないか。もちろん、親しい人間に、だが。財前の口は止まらなかった。
「それに先輩には元々、女らしさっちゅうモンを感じんのですわ。今みたいに男しかおらん部屋に一人で来るとか、女の自覚ない証拠です」
 さすがに言い過ぎたか、などとは思わない。全て本心だ。だから悪気もないし罪悪感で目を逸らしもしない。他の先輩達が何やらやいやい言ってくるが、財前は丸ごと無視した。
 じっとの顔を見ていると、は一瞬何かを堪えるように顔を顰めた後、キッと財前を睨みつけた。
「確かに、私は女らしくないですよ。ガサツで不器用だから、家庭的な事もろくに出来ない。自覚はある」
 あまりおしゃれに興味もないし男友達がいてもモテるわけではないし……と、自虐的な事をぶつぶつ呟いて、最後に一言。
「そんな事言われなくたって、解かってるんだよ」
 財前は一瞬、が泣くのではないかと思った。しかしそうはならなかった。
「……財前くんって、好きな子ほど苛めるタイプでしょ」
「何すかそれ。自意識過剰ですか」
 全然そんな気持ちはないのに、自分がを好きでに自分を見てほしくて構ってほしくて素直になれない小学生の如くちょっかいをかけているとでもいうような解釈をされてはたまらない。しかし反論は一喝される。
「黙れ。――財前くん、いつまでもそんなだといつか本当に女の子泣かすよ。絶対ね」
 何の根拠があってそう言うのか。その答えはすぐに貰えた。
「だって、現に私がさっき泣きそうだったからね!」
 否、捨て台詞か。はまたビシッと財前を指差してフンッとそっぽを向き、そのまま真後ろにいた千歳を振り向く。
「千歳くん、ジャージの上貸して! 被るから!」
「なんね、お籠もりばすると?」
「そうですよっ! 大きいから簡易テントや簡易寝袋になるよねっ!」
 やけくそになって奇行に走るの様子に、先輩達が無言で財前を見つめた。呆れや、明らかに「謝れ」と示唆する怒りの表情。
 財前はしょうがないといったように面倒臭げな溜め息を小さくつくと、「先輩」と声をかけた。千歳のジャージを無理矢理奪って被ろうとしていたは勢い良く振り返ると、やさぐれた口調で応えた。
「心の籠もってない謝罪なんぞいらん!」
 吐き捨てるようにそう言うを、財前は無表情で見上げる。
先輩。俺、先輩の事好きではないですけど嫌いでもないです。全然悪いとは思ってませんけど、泣かしたいわけやないんで……どうもすんませんでした」
 謝っているんだか開き直っているんだかさっぱり解からない財前の謝罪に、は頭を抱えた。正しくはその場にいた財前以外の全員が、だ。
「清々しいくらいに唯我独尊だね……何か怒ってんのが馬鹿らしくなってきた……」
 微妙な空気が漂う中、ぱんっ、と手を叩く乾いた音が部屋に響く。金色だった。
「はい、仲直りよ。ほら握手しなさい。それでおしまい」
 これは妙案でしょうと言うように、金色は財前の背中をバシンと叩いて促す。
 財前はちらりと浮かべた迷惑そうな表情を引っ込めて、素直にに左手を差し出した。利き手を差し出しているのだから、財前にとってこれは最大の譲歩だった。
 は財前の手をじっと見下ろした後、その手をゆっくりと取った。財前は軽く握り返して、ある事に気がつく。
「あ――」
 の手は、自分のものとはまるで違う。
 自分のようにラケットを握り肉刺(まめ)だらけのゴツゴツ硬い筋張った手と比べて、それは一回り程小さく、柔らかい。
 外見が男のように見えても、この手のひらはが女性である事を如実に物語っていた。
「――手だけは女らしいんすね」
 これは余計な一言だったのか、はとても良い笑顔を浮かべ財前の手を潰さんばかりの力で握り返してきた。これから財前が全国大会に出場するのだという事を失念しているのではないだろうか。
 風呂上がりの所為かの体温は少し高くて、平熱が普通の人よりも低い財前には熱いくらいに感じられる。
 もし、仮に、万が一、この人を抱き締めるような事などがあったら――ようやく握手を解いた中そんな事をぼんやり考えて、財前は緩く頭を振った。
 何故か、財前はほんの少しだけ、負けたような気分を味わっていた。





 全国大会をベスト4という結果で終え、東京観光もそこそこに大阪へ帰る日が訪れた。
 荷物をまとめ、財前が同室の部員と連れ立って旅館のロビーへ下りると、そこには誰よりも早くが部員達を待って立っていた。制服を着ている分には、その姿は当然女子に見えた。
 一週間分の荷物を詰めた斜め掛けの大きな旅行鞄の紐はの肩に強く食い込み、手提げ部分を掴んでいても実に重たそうだ。皆が集まるまで床にでも置いておけばいいのに、根が真面目なのかはそういう発想に至らないらしい。あるいは東京は危険だからと置き引きを警戒してそうしているのかもしれない。どちらでもいいが、財前にはとても目障りだった。
 財前はつかつかとに歩み寄ると、の鞄の手提げを掴む。外の方を見ていたはギョッとして財前を見上げた。
「えっ……なに?」
「重そうです。持ちますわ」
 衝動的に、そんな言葉を口にしていた。自分が何を考えているのか、自分でも解からない。
 ただ、重そうだ、と思った。小さく柔らかいと思ったの手のひらが、重荷を持って白く強張るのが許せなかった。
「え、いいよ。自分の荷物くらい自分で持てるから。それに財前くんだって荷物――」
「俺に罪滅ぼしもさせてくれへんのですか」
「罪滅ぼし?」
 はきょとんと首を傾げて、財前の言う罪が何の事だか考えているようだった。数日前の事なので忘れているのだろう。しかしすぐに思い至ったのか、今度は困ったような呆れたような顔をする。
「……何にも悪い事したなんて思ってないのに?」
 はそういうのはいい、と首を横に振る。
 確かに今でも悪い事をしたなんて思ってないが、財前は苛ついた。は別に当てつけでそう言ったわけではないし、むしろ極めて穏やかに断っている。それなのに、拒絶されたような気分になってしまうのはどうしようもなかった。
 ――何故なのだろう。あの初日の夜から、ずっともやもやしている。
 財前が憮然として黙り込むと、は何かに気づいて財前の胸元を指差した。
「ねえ、ここ、ボタンの糸が緩んでるよ」
 言われた箇所に目を落とせば、確かにシャツの上から二番目のボタンが緩んでいる。一番酷使しているボタンなので自然と緩んできたのだろうが、今まで気になどしていなかった。
 それよりもに話を逸らされたように感じて、僅かに落胆しながら財前は億劫に答える。
「……はあ、別にこのままでもええです」
 取れたらその時だ。つけるのは母にでも頼めばいい。
「何か気持ち悪いじゃない。新幹線の中で直してあげるよ」
「……は?」
 今度はこちらがきょとんとする番だった。何を言われたのか理解出来なくて固まっていると、は眉を寄せながら笑う。
「なに? ボタンつけも出来ないと思ってるの?」
「いえ、別に」
 そこまで軽侮してはいない。どうしてがそんな事を言い出すのか、その胸中が解からないだけだ。もしかすると自分を見返したいと思っているのかもなどと邪推もしたが、どうやら厚意であるらしい。
「ソーイングセットくらい持ち歩いてるんだよ、私。……あんまり活用した事はないけど」
 そう言って苦笑するの顔を見て、財前は自分でも気づかない程の小さな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、お願いします」


 新幹線の中で財前は、今自分に起こっている異常を案じていた。
 選り抜きの洋楽が入った音楽プレーヤーは持ってきている。なのにそれを聴くどころか出そうともしていない。誰と会話をしているわけでもない。現在のBGMは「器用やな」とを褒める白石と、それに同調するいくつかの声だ。
 財前はシャツを脱ぎ、代わりにジャージを羽織っている。シャツを預けたは一つ前の座席で、先輩達に囲まれながら針と糸を操っているらしかった。
 ボタンつけ如きで器用も何もないだろうと思わないでもなかったが、それ以上に、彼等の会話に聴き耳を立てている自分が非常に気持ち悪くて仕方がない。
 単に自分のシャツの安否が気になっているだけだ、そう強く思い込んだ。そう思わなければ、何かとてつもない答えに行き着きそうで恐ろしかった。
 一つ溜め息を吐いて、車窓の外を眺めて落ち着く事にする。
 ――しかし心の安寧はそう簡単には得られなかった。
「光ちゃん、ひょっとして恋煩い〜?」
 向かいの席に座っていた金色から唐突に、予想だにしなかった言葉がぶつけられて。財前はびくりと小さく肩を震わせた。
「…………は、あ?」
 これでもかというくらい眉を寄せ、金色の方へ目を向けると、金色は隣の座席の一氏といつものようにベタベタくっつきながら、ニヤニヤといやらしい眼差しで財前を見つめていた。
 まともに相手をしたくなかったので、適当に嘘をついておく。
「……すんません、よう聴こえませんでしたわ」
「あぁらホンマに〜? それとも具体的に言うてほしいのかしらぁ〜ん?」
 挑発的なセリフに軽くカチンときたが、その手は食わない。
「興味ないです。遠慮しときます」
「あらあら。恋を知れば、光ちゃんも少しは丸〜くなって、も〜っと可愛くなると思ったのにぃ」
 金色は座ったままクネクネと不気味に動いて、不気味な事をのたまう。
 これ以上勝手な事を言われるのは気に食わなかったので財前は反論しようとしたが、それも叶わなかった。
 が、金色と背中合わせの席から顔を出して、財前にシャツを差し出していたのだ。
「はい、ボタン付け終わったよ」
 財前は身を乗り出してシャツを受け取ろうとしたが、その前に金色がそれを掠め取る。
 そして縫い付けたボタンを凝視しながら、先程までのニヤニヤ顔が嘘のように、菩薩のような笑みを見せた。
「まあ。上手に付いとるわねぇ」
 は、金色の賛辞に対して嬉しそうに笑う。金色はその笑顔を満足げに見てから、財前にシャツを差し出した。
「はい光ちゃん。ちゃんとお礼言うのよ」
 そう他人に口出しされると、素直に言おうと思っていた礼も言いたくなくなるから不思議だ。
 でも、もしここで「ありがとう」と言えたなら――
 財前は目を伏せ、金色からシャツを受け取ると、口を開いた。
「……ありがとうございました、先輩」
 ぼそり。そう言って、の様子を窺うように伏せた目線をゆっくり上げれば、そこには。
「どういたしまして」
 初めて自分へと向けられた、の満面の笑顔。
 が元の座席へ着いて、返ってきたシャツを着直して、そろそろ大阪へ着こうという時分になっても。
 じりじりと胸が痛む。苦しいような、見えない靄で覆われているような、違和感。
 財前は胸を押さえ込むかのように、ずっと、の付けた第二ボタンを弄っていた。










「ん、財前。お前、そんな癖あったか?」
 夏休みが明けてからだった。そんな指摘をされたのは。
 昼休みに他愛もない話を交わしていたクラスメイトが、財前の胸元を指差して言う。
 何がだと思い目を落とせば、自分の指がシャツの第二ボタンを摘んでいるのが見えた。そして摘んでいたそれを、無意識にぐりぐりと捻っていたのだ。
 いつかやった動作。ずっと、ずっと、胸の内側で燻る見えない何かに火を熾すように。
 ――何故かなんて、己に問うまでもない。
 いつの間にかそれが自分の『癖』になってしまったのだと初めて気づいた瞬間、財前は指先にありったけの力を込め、そのボタンを引き千切った。
 呆然とするクラスメイトを置いて席を立ち教室を出て、廊下を早足で進む。
 このシャツとボタンを差し出して「つけてくれ」と頼めば、彼女はどんな反応をするだろうか。
 明らかに力任せに千切られた糸の状態を見て、苦笑する?
 それとも、何も不審に思わず快く請け合ってくれるだろうか。

 どちらでもいい。今はとりあえず――の顔が見たかった。





END





2010年2月26日





ドリームメニューへ
サイトトップへ