うららかな春の午後。
こんな日は、どこかへ行きたくなる。
Andante
「『どこか』って〜?」
屋上の柵に腕を乗せ、雲ひとつない淡い青い空を仰いで呟いた私の言葉を、隣で同じ体勢をしながらうとうとしていたジローが聞きとがめた。
おや、眠ってると思ってたのに。
「いやなんかさぁ…知らない場所を、当てもなくただずーっと歩いてみたいなぁ…って」
空を塞ぎ緑を失った冷たい都会の道なんかじゃなくて、田んぼや蒼く茂った木のアーチが続くあったかい道をのんびりと歩きたい。
そんなことを春になるたび思い浮かべる私は、現実逃避っ子なんだろうなぁ。
「何だろ、平凡な日常に退屈してんのかな」
特に夢もないのに、同じ場所で変わらない毎日を過ごすよりも、ゆっくりでも常に歩いている方が有意義でしょう。
…なんて、寝るのが大好きなジローに言うことじゃないか。
私たちはいつも一緒にいるけれど、別に付き合ってるわけじゃない。気の合うともだち。
両想いだってのは知ってるんだけどね。
そう、私がジローを好きだってことをジローは知ってるし、ジローが私を好きだってことを私は知っている。自惚れじゃなく相思相愛。でも付き合ってない。
『付き合う』とか、そういう概念は必要じゃない。必要なのは気持ちだし、このひとを縛ってしまう関係になりたくない。
だから『どこか』へ行く時も、私はジローを置いて行く。
私は私が行きたいところへ行くし、ジローはジローの道を行けばいい。
さっきの言葉だって、独り言みたいなものだ。
「ね、ね、じゃあさ〜」
ジローが腕に頭を預けたまま、私の方を向いた。にこにこ笑ってて、半覚醒状態。
私も「んー?」とジローに顔を向けて、目を合わせた。
「俺と一緒に歩こ? きっとたのCーよ」
「……」
「お菓子やジュースをいっぱいリュックに詰めてさ、時々原っぱで休んで、昼寝して、いろんな話をして、ふたりで笑いながら、手ぇ繋いで歩こう?」
おお。今ジローが言った情景が、容易に想像できてしまった。
歩きたい場所は、ふたりとも同じだったってことなんだろうか。
思わずふふっと笑っていた。
「…いいね。雨が降った時には木陰で雨宿りして?」
「それもいいし、ふたりでカサさして、雨粒がパタパタいう音を聴きながら歩くのだっていいよ」
「…うん、楽しそう」
穏やかで、優しい空気。
ジローといると、自分も穏やかで優しい人間になれるような気がする。
だから好きだよ、ジロー。
「――」
ふいにジローの瞳が真剣味を帯びた。
心を読まれたんじゃないかと思って、わけもなくドキッとした。
「ずっと俺と歩いて」
…それはどういう意味なのか。まるで。
「プロポーズみたいだね」
「そうだよ?」
見つめ合ったまま時間が止まる。あたたかな春風がふわっと頬を撫でた。
このまま本当に時間が止まればいいのに、なんてガラにもなく乙女チックなことを思っていたら、ジローが身体ごと私の方を向いて私の手を取り、今さっき頬を撫でた春風のように、ふわっと微笑んだ。
「俺、大好きだもん。俺のオヨメさんになってほしいし、ずっと一緒にいてほしいし」
――遅すぎるくらいの愛の確認。
駆け足で過ぎる現代の若者の色恋とまったく正反対なくらいの、歩くほどのスピード。でもその第一歩がものすごく大股だ。告白云々すっ飛ばして、いきなりお嫁さんと来たか。
ジローらしくて苦笑が洩れた。
「ふつつか者ですが、どうぞよろしく」
ジローの傍にいられる権利をくれるなら、私は卑しく飛びつくよ。
本当はふたりで歩きたいから。
私の行きたい『どこか』は、ジローが簡単に見つけてくれるだろう。
ふたりで歩く旅路は、穏やかであたたかで、きっと幸福だ。
これまでふたり過ごしてきた時間のように。
これからふたり過ごしていく未来のように。
君とゆっくりのんびり、歩いていく。
END
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後書き
欲のないのんびりカップル。こんなのもたまにはいい。
夏も旅に出たくなりますが、暑いからやっぱり春がいい。
andante(アンダンテ)=ゆっくり歩く速度
2005年3月11日
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