設定      1〜羨望〜      2〜懇願〜      3〜憧憬〜      4〜疑議〜      5〜気宇〜 1
 思いの外長かった部活が終わり、は正レギュラー用の部室へと向かった。
 準レギュラー以下の部員が使う更衣室はもちろん男子専用のみで、マネージャーが使う為の更衣室というものがない。なのではしばらくの間、正レギュラーが使う部室の、更衣室とは違うドアの先にあるトレーニングルームに鍵をかけ、部屋の隅に置かれた衝立の内側で着替えをする事になっていた。そこには、どこから持ってきたのか鍵つきのロッカーが一つだけ用意されていて、そこに制服や貴重品を仕舞っている。その状況に全く不満はないが、実際器具の邪魔になっているし不恰好この上なかった。

 しかし、昨日慈郎と忍足に連れられ跡部と対峙した時に、跡部が何だか理解しがたい事を言っていた。「マネージャー用の更衣室は、一ヶ月以内に造る」とか何とか。
 まるで一から工事を始めるような、それが何でもないような言い草。「造る」というのは、校長に造ってくれるよう申請するのか、それとも跡部が自費で業者を呼んで造らせるのか、どちらの意味だろうか。
 が周りから聞き知った話では、跡部は氷帝学園の中でも指折りの金持ちらしい。それを考慮すると、後者の可能性が高い気がするのがには恐ろしかった。の家も裕福と言える方だが、そんな事をおもちゃでもねだるように親に頼めるほどではないからだ。
 だが近い内に、誰の力も借りずに跡部の前に立って、お礼を言わなければならないと思う。大して親しくもない自分の為に一番奔走してくれているのは、きっと跡部だ。

 ブラウスに袖を通しボタンをかけながら、はこれからすべき事をあれこれ考えていた。
 まず、今の自分には何が出来るか。必要な事は。
(…とりあえず本屋かな…)
 情報収集。知識を持っていないのなら、自ら集めるだけの事。解からない事をいちいち部員に訊くより、自分で調べて解からなくなってから訊く方がずっといい。
 当面の目標はそれに絞って、後は、なるようになれといったところか。

 ボーッとしてネクタイを結ぶのにもたついていると、隣のミーティングルームから人の話し声が聴こえてきた。何を言っているかは聴き取れないが、正レギュラーの人達が着替えを終えて出ていくところなのだろう。は、出来れば部活以外では顔を合わせずに済めばいいと思った。どんなにマネージャーをやる気があっても、男性が怖いのに変わりはない。時間を稼ぐように、ぐちゃぐちゃになったネクタイを解いてゆっくり結び直す。
 几帳面にぴっちり絞め終えてブレザーを着、鞄を取り出そうとしたタイミングで、トレーニングルームのドアがノックされた。はビクッと震えて動きを止め、微動だにせず目だけをドアの方へ向かせた。
「――ー、まだいるー?」
 間もなくドアの向こうから聴こえてきた声に、はホッと肩の力を抜いた。を呼び捨てにする人間は一人しかいない。はロッカーを閉めると、少し大きめの声で外に応えた。
「いるよー」

「一緒に帰ろー」
 衝立から出てドアの鍵に手をかけようとした瞬間に聴こえた慈郎の言葉に、はまたぴたりと止まった。
 一緒に帰る、という行動に深い意味があるはずがない。もう時間も遅いし、部活に誘った者としての責任を果たそうとしているだけだ――は頭の中で自分にそう言い聞かせた。
 黙り込んでいたら変に思われるかもしれない。ワンテンポずれてしまったが、は「うん」と応えてドアを開けた。目の前にはニコニコ笑った慈郎がいた。





 部室を出ると、世界は夕陽で真っ赤に染められていた。だが家に着く頃には陽は沈みきっているだろう――そんな春の夕暮れ時だ。
 今までこんな時間に学校を出るという事がなかったは、その奇妙さに思わず足を止めた。幼い頃の、遅くまで公園で遊んでいてふと空を見上げ、もうこんな時間になっていたのかと気づく瞬間と似ていた。

 一歩前にいた慈郎が立ち止まったに気づき、振り返って「どうしたの?」と声をかけた。遠い目で空を見上げていたはハッと我に返って、目を覚ますように首を横に振る。
「ごめん。もうこんな時間かぁ、と思って」
 は後ろを向いて、誰もいなくなった部室の鍵をいそいそと閉めた(ちなみに部室の鍵は部長とマネージャーが所持している)。
「今日から毎日この光景を拝むことになると思うよ」
 晴れてればね、と気楽な感じで慈郎がの背中に向けて言った。
 これから、毎日――逃げ出さなければ、投げ出さなければ、この光景を毎日見る事が出来る。何気ない一言だったが、にとってはとても大きな意味を持っていた。頑張るんだ。
 は顔を上げて慈郎を振り返り、笑顔で「そうだね」と言った。ピンクグレープフルーツみたいな色に染まった慈郎の髪が眩しかった。

 は、男の子と並んで歩いた記憶がない。ない事はなかったのだが、どれも幼い頃の事で、ほとんど思い出せない。ましてや、この歳になってからなど。
「ふわぁぁ〜…つっかれたなぁ〜眠ぃ…」
 通学路を歩きながら、慈郎は伸びをしながらあくびをした。そんな慈郎に、は「お疲れ様」と声をかける。
「へへっ、もお疲れさま。初めてのマネージャー業はどうだった?」
「んー…――」
 は首を上向きに傾げて、今日一日(と言っても四時間ほどだが)の仕事について考えを巡らせる。
「――体力勝負だよね。ずっと動いてた気がする。あと、人数多いからその分怪我人もたくさん出るし」
 部活が終わる頃には、は今日だけで傷の大小問わず十人近く部員の手当てをしていた。運動部ならではと言うか、保健医ですら一日で十人も診る事は体育祭でもない限り滅多にないだろうと思った。それだけの男子と接触するのは怖かったが、皆一様にマネージャーに対して好意的だったし、は出来るだけ口を開かず、事務的に仕事をこなしていれば何とかなるものだった。あとは、ひたすら雑用に追われていた感じがする。

 慈郎は窺うようにの顔を覗き込んだ。
「…嫌になっちゃったりしなかった?」
「ううん。大変だけどやり甲斐があって、楽しかったよ」
 正直な感想だった。運動が嫌いなわけではないが今まで運動部とは縁のなかったは、マネージャーという新しい世界に小さな喜びや楽しみを感じていた。そして上手くやっていけるのではないかという、淡い期待も。
 慈郎はホッと息をついて、ニコッと笑う。
「よかった〜。誘ったの俺だしさ〜」

(最初に誘ってきたのは忍足君だけどね…)
 この場では敢えて口にはしなかったが、はまだ忍足の言動に疑問を持っていた。もう少し仲良くなったら話してくれるという、を勧誘した理由について。
 私を好きだから――なんて甘い答えは思いついた瞬間に打ち消した。何かの陰謀か策略か――そんな事に巻き込まれる謂れがないし、何より、忍足の態度には悪意が見られなかった。少なくとも、誠実には見えた。
 自分は騙されやすい人間なのかもしれない、とちらりと思って、はそれ以上考えるのをやめた。それ以上に気になる事があったからだ。
「…慈郎君は、どうして私にマネージャーになってほしいって思ったの?」
 ずっと訊きそびれていた、慈郎の勧誘理由。もしかしたら忍足の理由以上に気になっていたかもしれない。
 知りたかった。「がいいんだ」と、あそこまで強く断言した理由を。

 慈郎は先程のと同じように「んー」と言って首を傾げ、そのままの状態で口を開いた。
「俺さ〜、できたての友達が俺のいる部活のマネージャーになるかもって思ったら、すっげー嬉しくなっちゃってさ〜、思わず忍足の提案に乗っちゃったって言うか…――」
 慈郎から飛び出した爆弾発言に、は自分の耳を疑った。
(まさか、まさか…それだけ…?)
 もしそうなら、忍足がにマネージャーの話を持ちかけていなければ、慈郎はを勧誘する気にはならなかったかもしれない、という事だ。いや、それならまだいい。もっと恐ろしいのは、「がいいんだ」と言ったあの言葉が、あの場限りのものだったかもしれないという事の方だ。
 が愕然としていると、その不安を打ち消すような慈郎の明るい声が降ってきた。
「――で、が「やる」って言ってくれたじゃん? それがまた、すっげー嬉しくて。でも無理に誘っちゃったようなところもあったから、が後から嫌になったりしなくてよかったよ」
 満足げにニッコリ笑いかけられて、は自分でも呆気なく感じるくらい、理由などどうでもよくなってしまった。結果的に慈郎が喜んでくれているのが、単純に嬉しい。
「…そっか…うん、そっか」
 は目を伏せながら、自然と笑みの形に持ち上がってくる口元を手で隠して呟いた。

「…じゃあ、もう一つ訊いてもいい?」
「うん。なに?」
「……何で私なんかと友達になろうなんて思ったの…?」
 蒸し返すようだが、これもずっと気になっていた事だった。あまりにも唐突だった友達宣言。さすがにこれは、名前で呼ばれたかったから、などという理由だけではないだろう――そう思いたい。
「へ? …嫌だった?」
 慈郎はきょとんとした目をに向けた。今さらなぜそんな事を訊くのか、と言いたげだ。
「違うよ……嫌なのは…そっちなんじゃないかって…」
「どうして?」
 俯いて横髪に隠れてしまったの顔を見つめて、慈郎が訊き返した。
「私は…自分から話題振れないし、流行り廃りにも疎いし…明るくも、ない。…一緒にいたって、楽しくなんか…ないから」
 いつも思っていた――自分の友達には、また別の友達がいる。自分なんかいなくても、誰も困りはしない。それ以前に、彼らの目の前から自分がいなくなったとしても、自分以外の誰もが明日を迎えられる。それは創めから誰ともひとつになれないと決定付けられている、絶対の『孤独』だ。不安は消えはしない。

 慈郎は髪に隠れて見えないの顔を、まだじっと見つめていた。からも慈郎の顔は見えないが、次に発せられた声は、どこか厳しさを持っていた。
「…って今のクラスに友達いるよね? 他のクラスにだって一年の時の友達がいるでしょ?」
「うん、いるけど…それが?」
「それって他の誰でもなく、『と友達になりたい』って思う何かがあったわけだろ? じゃあ俺とだってなれるよ。それにさ、話題なんて俺から振るし、なくたって、一緒にいるだけでいいよ。友達ってそういうもんじゃない?」
 だんだん柔らかく変わっていった慈郎の声に、は恐る恐る顔を上げてそちらを見た。目が合うと慈郎はニッと笑って頷いてみせた。慈郎は友達になると言った事を覆すつもりなど、微塵もないようだった。
「だから自分がどうだからとか、気にしないで。俺達まだ友達になったばっかじゃん? お互いのことなんて、これからどんどん知ってくしさ。俺がをどう判断するかは、それからだよ」
「…嫌じゃないなら…いいんだけど…」
 は複雑だった。そう言ってくれるのはもちろん嬉しい。だけどこれから付き合っていって、そのうち切り捨てられはしないかという恐怖が付き纏う。自分は見限られる人間なのではないかと思ってしまう。こんなに優しい慈郎にでさえそう思ってしまう自分が嫌になった。相手の表面的なものには騙されやすいくせに、本当は中身を全て疑っている。そんな自分が、すごく嫌だった。信じたいのに。

 慈郎は自分の意見を言えてスッキリしているようだったが、はいつまでも気まずさを引きずっていた。何か気分の変わるものがないかと周囲に視線を巡らすと、道路の向こう側の本屋が目に入った。着替えをしている時に、本屋に行こうと考えていた事を思い出した。
「…あ、私本屋に寄るつもりだから、ここで…」
「ん? 本屋? 俺もついてくよ。もう結構暗くなってきたし、危ないからね。家まで送ってく」
 としてはここで慈郎と別れるつもりだったのに、いきなり出端を挫かれてしまった。
「えっ? あ…いいの…?」
 断ってしまうのも申し訳なくて、は戸惑いながら確認する。慈郎が頷くと、「じゃあ…お願いします」とだけ言って信号を渡り、本屋へ入った。
「俺はマンガでも立ち読みしてるからさ、ゆっくり見てきていいよ」
 そう言ってくれた慈郎と店内で別れ、は奥の方にあるスポーツ関連の書棚の所へ行った。初心者の為のルールブック等を全て吟味し、これと言う物を一冊選んで、今度はスポーツ雑誌の棚へ移動した。テニス雑誌も同じように何冊か中を見て、中学テニス界にも触れている『月間プロテニス』を選んでレジへ進んだ。思わぬ出費だったが、満足だった。
 会計を済ませたは、マンガ雑誌のコーナーにいた慈郎に声をかけ、本屋を後にした。

 再び並んで歩き出すと、慈郎が興味津々にの手元の紙袋を覗いてきた。
「なに買ったの? マンガ?」
「ううん、えっと…テニスについての、本なんだ。私基本的な知識しかないし、勉強しなきゃなって。今買ったこの本、ルールとかだけじゃなくて他にも細かい事がたくさん書いてあるから、サポート役に回るならこういう細かい事の方が大事だろうなって思って、一番いいと思うの選んだんだ」
 ははにかんで微笑い、鞄の中に紙袋を仕舞った。その動作を目で追いながら、慈郎は感心したように溜め息を洩らす。
「…って、すっげーな。努力家だな」
 率直に思った事を言った慈郎の言葉を、は手を振って否定した。
「ああ、違う違う。『努力』じゃないよ」
「じゃあ何?」

 問われて、またこんな話をしようとしている自分を、は止められなかった。
「……『保身』」
「ほしん?」
「私ね、負ける戦いは、したくないんだ。負けると解かってる事を、したくないの。今で言えば、マネージャー。今のまま、丸裸のままで挑んで…失敗をして恥をかくのが怖いだけ。こうやって、今得られる知識を全て詰め込んでいないと、安心出来ないの。だから、『保身』」
 今日だけで、こんな話を何回した?――がこんな事ばかり言うのは、相手に同情されて、フォローされて、一瞬だけのその言葉に安堵したいからだ。そして何よりこれも『自分を知ってほしい』心の表れで。恋愛の対象である慈郎には特に、自分を知ってほしかったのかもしれない。知った上で、それでも傍にいてくれる事を望んでいるからかもしれない。
「努力なんて綺麗なものじゃ…ないんだよ…」
 この類いの話をする時、話しながらは、いつも自己嫌悪に陥っていた。どうして自分で自分を傷つけるのか。傷ついた自分に酔っているのか。最悪だ。

「っ〜〜〜…!」
 慈郎は口をぎゅっと結んで、眉をぎゅっと寄せて、声にならない呻きを洩らした。
「――そこまで言われたら、俺なにも言えないじゃん…! だって、あんま踏み込んでほしくないだろ?」
「…っ」
「てゆーかってさ、そういうの…たくさん持ってるんだな。たくさん持ってて…でも言わないんだろ? 今日俺に話したことだって、ほんの一部なんだろ?」
 労わるような慈郎の声から逃げるように、は俯いて顔を背けた。
(違う…違う! 私は 薄っぺらな人間で、本当は自分の事全部曝け出したくてしょうがないんだよ! 何も言わずに聴いてくれるのなら、いくらだって話したいんだよ!)
 喉を絞られるような感覚に襲われながら、それを振り切るように首を振る。
「ごめん…! ごめん! 今まで話した事、全部、全部忘れてくれていいから…! むしろ忘れてほしい。恥ずかしいよ。くだらないよね、ごめんね忘れて…? ごめん…」
 心の中は痛みに泣き叫んでいるのに、無理に明るく務めようとするものだから声が上擦る。

 ふと、慈郎が立ち止まった。それに気づいたが数歩先で振り返って慈郎を見ると、怒った顔をしていて。
「くだらなくなんかない!! 言っただろ? 「これからお互いのこと知ってく」って! 今まで話したこと全部、の思ってることだろ? 俺嬉しかったよ! が、自分のことたくさん話してくれて! 最初に名前のこと話してくれた時だって俺、もっとのこと知りたいって思ったんだ! だから、忘れない!!」
 周りの目も気にせず一気に叫んだ慈郎は、肩で息をしながら我に返った。
「…あ、ゴメン…怒鳴って…」
「……」
「…怒った?」
 慈郎が不安げに問いかけると、は放心したように、地面を見つめて呟いた。
「…そこまで言われたら、何も言えないよ…」
「あ、俺のセリフ取った」
「ふふっ…あはは」
 笑いながら、は涙を堪えていた。泣いちゃだめだと、自分に言い聞かせて。

 ――欲しいものが今、目の前にある。手を伸ばせば掴めるかもしれない。
 けれど、は手を伸ばさなかった。手のひらの中には何もなく、指は堅く握り締められ、爪が食い込んで皮膚に血を滲ませているだけ。
 こんなにも強く何かを欲しいと思う事は久し振りだった。だが、一歩踏み出す勇気はない。

 は生まれた欲を少しでも息に乗せて吐き出そうと、深呼吸をした。どうにか涙も引っ込んでくれる。
「…ごめんね…ありがとう」
 渇いた喉を潤す為に唾を飲み込み、絞り出した言葉はそれだけだった。慈郎は困ったような笑みを見せたが、何も言わなかった。





 昼休みの時のように気まずさの感じない沈黙のまま、二人は暗くなった住宅街を歩いた。
「…あ、家、ここ」
 が指差した一軒の家の前まで着くと、一人の少年が自転車を下りている姿が見えた。は別れの挨拶をする為に慈郎の方を向いていたので気づいていなかったが、慈郎がの向こう側に視線を遣っていると、自転車を立てかけるカシャンという音がして、もハッと後ろを振り返った。
 少年もこちらに気づき、の姿を認めると微笑んだ。
「おかえり」
「うん、ただいま」
 に向かって親しげな笑みを浮かべていた少年だったが、の向こう側にいる慈郎の姿が視界に入ると、その笑みは一瞬にして消えた。
「…そいつは?」

 訊ねられたは、今初めて慈郎の存在に気づいたかのように驚いて慈郎を振り返った。
「えっ? あっ、同じクラスの友達の、芥川慈郎君。、「そいつ」なんて失礼でしょ」
「ふーん…」
 と呼ばれた少年はの窘めを無視し、値踏みするような眼差しを慈郎に向けた。その視線を受けて、慈郎はまるで睨まれているように感じた。引き込まれそうな深い瞳。
の弟…だろうな。目がソックリだ)
 そんな発見がなぜだか嬉しくて、慈郎はニッと笑顔を見せた。は逆に怯み、ぎゅっと眉を寄せて今度こそ慈郎を睨んだ。どうやらと違って感情を隠さないタイプのようだ。

 の敵意の眼差しに気づかず、慈郎の方を向いて彼を紹介した。
「慈郎君、この子双子の弟なの」
「うん、似てるね」
「そうか、な…――」
 は曖昧に笑って首を傾げながらに視線を移す――と、の険しい表情にギョッと目を見張った。
「――、何か怒ってるの?」
 に気づかれ、はフイッと顔を背けた。
「…別に。姉ちゃん、家入んないの?」
 それだけ言うとは自転車のカゴから荷物を取り出し、慈郎の方を一瞥してから家に入っていった。

「あ、うん――」
 は慈郎を振り返ってお礼を言った。
「――えっと、慈郎君、送ってくれてありがとう」
 慈郎はニッコリと笑った。
「どういたしまして」
「ここから家までどれくらいかかるの?」
「うん…まぁ、何分かだよ」
 煮え切らないその答えに、は怪訝そうに首を傾げる。
「…「何分か」?」
 もしかして遠回りだったのでは?――とが訊こうとすると、慈郎が先回りした。
「気にしないで。んじゃ、また明日」
 それ以上の追及から逃れるように、慈郎は手を振って背を向けた。来た道を戻っていく慈郎を見て、はまた目を見張った――間違いなく遠回りではないか。
「あっ…ありがとう!」
 慈郎の背中に向けてもう一度お礼を言うと、慈郎は振り返らないままひらひらと手を振った。

 慈郎の後ろ姿を見つめたまま、は鞄を持っていない方の手のひらをぎゅっと握り締めた。

 強烈すぎる。あんなにも真っ直ぐに優しさをくれる存在なんて、いなかった。
 そしてあの自由さ。決して自分のものには出来ない強さ。広さ。
 全てが、眩しい。
 ――でも。
 きっと、慈郎は手に入らない。はそう思った。

 自分のものには、ならない。
 その諦めが皮肉にも、心の安寧を保たせてくれるのだと識っている。
 求めなければ失う事もないのだから。

 今はただあの優しさに、少しでも長く浸かっていたかった。





to be continued…





********************

中書き
 やっと二日目が終わりまして…次は三日目です(また長々と…)
 弟君がちょろっと出てきましたが、彼にはまたちょこっちょこっと出てきてもらおうかと思っています。オリジナルキャラはどうにでも動せるのでありがたい。

 『きっとこれからも蛇足が続いていくんだろう。
 誰が見ても蛇足に見えるそれは、私にとっては蛇足ではないのかもしれない。』

 ↑二年半前、これの元小説を書いていて、あまりにも無駄が多いのではないかと気づいた時の自分への言い訳。


 2005年8月26日


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