設定      1〜羨望〜      2〜懇願〜      3〜憧憬〜      4〜疑議〜      5〜気宇〜 1
「ほな、頼んだで跡部」
「…ああ」

 忍足君の言葉に、跡部君は面倒臭そうに溜め息混じりで頷くと、私を横目で見下ろし、含みのある笑みを見せた。
 まるで新しいおもちゃを手に入れて、どう遊んでやろうか考えている子供のように。

 私は早くも、マネージャーを請け負った事を後悔し始めていた。





  4〜疑議〜





 …どう考えてもおかしい。
 やるとは言ったものの、氷帝テニス部にマネージャーが一人もいないのは、元々採っていないか入部試験が厳しいからなのかと思っていたのに、あの後なぜあっさり私の入部が認められたのか。
 榊先生にすら会っていないのに。それ以上に、マネージャーになりたい女子は間違いなくいくらでもいるはずなのに、だ。
 それに忍足君と跡部君の、あのやり取りは何だったんだろう。
 翌日朝。いつもより少し早めに登校した私は、職員室にいる音楽教科担当兼テニス部顧問の榊先生に入部届を提出しながら、そう思っていた。
 先生はその事については何も言わないし、この先生、何か怖くて訊けないし…

 榊先生はマネージャーの仕事を口頭で一通り教えてくれた。
 掃除洗濯のような雑用から、備品、消耗品等の買い出しや修繕、それにスコア付けや練習メニューの作成(当面はサポート付き)のような専門的なものまであるらしい。
 マネージャーって大変なんだ…頑張ろう。

 職員室を後にして、自分の教室へ向かう。
 思わず溜め息が零れた。放課後の部活で部員達に紹介すると言われたのだ。
 うぅ…自己紹介苦手……そうだよね、中途半端な時期に入った新入部員だもんね…
 友達が一人でもいる事が唯一の救いかな…

「――あ…」
 自分の教室が見えてきて、私はふと足を止めた。
 ――そうだ、もう一つの謎。
「…おし、たり、君…」

 まるでいつもとは正反対の光景。
 私の教室の前の窓際に、忍足君が立っていた。
 忍足君は外を眺めていたけれど、人の気配に気づいたのか、こちらを向いた。
 そして、柔らかく微笑う。

 私はゆっくりと、再び歩き出した。
 忍足君は微笑ってるけど、眼鏡の奥はどこか見透かすような目をしている。
 すごく苦手だ、あの目。

「おはようさん」
 少し離れた位置に立ち止まると、忍足君は声をかけてきた。
「お、はよう…」
「いつもと逆やな?」

 いつも朝のHR前や休み時間の廊下で遭遇する私達。
 大抵私の方が先にいて、後から忍足君がやってきて、その周りに女子が集まってくる。
 騒がしいのが好きじゃない私は教室に退散するんだけれど、その時一瞬だけ、忍足君と目が合う。
 私がすぐに目を逸らしても、彼はじっと私を見てるんだ。あの目で、いつも。

 私はぎゅっと手のひらを握り、小さく深呼吸した。
「…あの…どうして、私をマネージャーに誘ったんですか…?」
 訊きたかった。必要とされるのは嬉しいけれど、私達はただの顔見知りというだけなのに。
 私はたまたま忍足君と一緒にいた女子が、「忍足君」と呼ぶのが聴こえて名前を知っただけで、忍足君の方は私の名前すら知らないだろうに。
 どうして私がいいなんて言ったのか。どうして私だったの…?

「…何でやろなぁ」
 忍足君はぽつりとそう呟き、顔を窓の外に向ける。
「なぁ、ここから何が見えるん?」
「…?」
「いつも何眺めてるんやろなぁて思うて、今ちょっと眺めてみとったんやけど――」
 忍足君の話はどうも要領を得ない…答えになってないし。
 でも忍足君は構わず話を続ける。
「空を眺めとるにしては目線が低い。好きな男が外におるんかと思ったけどそれも違う」
 …何が、言いたいの?

 忍足君は私に向き直ると、静かに言った。
「アンタ…何も見てへんかったんやろ?」
「っ…!!」
「アカンで。あれはアカン。健全な女子中学生のする目と違うやろ。
 こう言っちゃ失礼かもしれんけど、死んだ魚の目みたいやったわ」

 ――見られてた。気づかれてた。
 っ…どうして、私は……どこかで嬉しいなんて、思ってるの?
 誰かに気づいてほしかったから?

「せやから、俺は…」
 動揺する私に構わず忍足君は尚も続けようとする。
 でも私がじっと待っていても、その先を何も言わなかった。
 片手で口元を隠して、何か考えるように目を逸らす。
 どうしたんだろうと思って見つめていると、やがて忍足君は視線を私に戻したので、私は慌てて俯いた。

「……ごめんな」
「え…?」
 突然謝られて、強張っていた身体の力が抜けた。
「スマン。俺、何言うてんのやろ…」
「……」

「なぁ…アンタを勧誘した理由、今必要か?」
 今度は何言うの?
 理由もなしに、きまぐれにマネージャーに誘ったわけ?

 …違う。この言い方…言いたくないんだ。
 私の事なのに。
 慈郎君も昨日、私の事を知ってると言った後何か言いかけて、結局言わなかった。
 私の事なのに。
 …何なのさ、もう。はっきり言ってよ。

「あー、そないな顔せんといて。
 俺は、伊達や酔狂でアンタにマネージャーになってくれ言うたんと違うから。
 ホンマ、それだけは解かってな…?」
「…もういいです」
 何だか腹立たしくて、教室前のもう一つの窓へとズカズカ歩いた。
 いつもと違う窓から外を眺める。
 あーいい天気だこと。私の胸の内のモヤモヤとはえらい違いだ。

「…怒っとるん?」
 忍足君は少し近づきながら、苦笑して窺うように言ってきた。
 ええ怒ってますとも。
 理由を言ってくれない事にも、本人に言えないような事を他人に持たせてる自分にも。
「…でも教室に行こうと思えば行けんのにそうせぇへんのは、ちゃんの優しさやね」
 どこか嬉しそうな声。
 違うもん。私はここが好きなんだもん。
 そう自分に言い訳する。私はただ、誰からも嫌われたくないだけだから。

 …ていうか今…何て言いました?
 『ちゃん』…?

「っ…」
 瞬時にかぁっと顔が熱くなる。
 何で? 何で私の名前知ってるの!?
 ああそうか昨日慈郎君が呼んだもんね。
 …じゃなくて!
 『ちゃん』…名前に『ちゃん』なんて…
 有り得ない! 恥ずかしいっ!

「ああ、馴々しかったか。サン、やったっけ?」
 苗字まで知ってて…わざとだ。絶対わざとだ。
 何なのこの人は。私からかって楽しいの?
 …何で…私に構うの?
 楽しい話が出来る相手なんて、いくらでもいるだろうに。

「いずれ、ちゃあんと理由話すから。
 …もうちょい仲良うなったら、な」
 ――仲良く?
「だから、よろしゅう」
 忍足君は微笑みながらそう言い、スッ、と私に右手を差し出した。
 …握手?

 私は逡巡して胸の前で右手をぎゅっと握りしめたけれど、ゆっくりと、その手を忍足君に向かって開く。
 すると忍足君は一瞬驚いたような顔をした後、先ほどよりも少しだけ嬉しそうに微笑って私の手を取った。大きい手のひら。
「よろしゅう、マネージャーさん」
「よ、よろしく…」

 …………いつまで手握ってるんだろ。
 上下に振るでもなく、ただ中途半端な位置に吊られた手。
 握手なんて、するっと自然に離れるものかと思っていたのに、なぜか離されない。
 無理矢理引き抜くわけにもいかないしなぁ…
 忍足君をちらと見上げると、どこか真剣な顔で私を見ていて、ドキッとした。

「…俺な――」
「――忍足何やってんだ?」

 何か言おうとした忍足君の声を掻き消したのは、同じクラスでテニス部員の宍戸君だった。
 その所為かお陰か、握られ続けていた私の右手はやっと解放された。
 ほっとした反面、忍足君が今何を言いかけたのか少し気になりもした。
 でも考えを巡らす間もなく、宍戸君が通行人の邪魔にならないように近くに寄ってくる。
 そんな宍戸君に、忍足君はめんどくさそうな顔を向けた。
「何や、宍戸かいな…」
「何だとは何だよ! 朝錬途中で抜けやがったくせに!」
 …え?
 それってもしかして、まさか…私と話をする為に、途中で抜けたって事?
 だって、忍足君待ち構えてたって感じだったし、私を待ってた…?
 あんな会話をする為に? どうして…?

「…ん? 忍足、昨日も思ったけどよ、と知り合いなのか?」
 私の顔を一瞥して、宍戸君は訝しげな顔をする。
「ちょっとな〜…俺の『窓辺の君』やねん」
「はァ?」
「何ですかそれっ!?」
 宍戸君が何言ってるんだというどこか呆れた声を出したのと同時に、私もあまりにもビックリして思わずツっこんでしまう。
 だって『〜の君』なんて…何のつもり?
 忍足君は先程とは打って変わって楽しそうに笑っている。
「せやから俺の――」
「――ふわあぁ〜ぁ…おはよぉ〜…」

 気の抜けるようなあくびと共に聴こえたのは、慈郎君の眠そうな声。
「…ジロー…」
 忍足君は二度も言いたい事を邪魔されて機嫌が悪くなっているように見える。
「あれぇ? こんなとこで三人揃ってなにしてんの〜?」
 慈郎君はやっとこの不思議な取り合わせに気づいたようで、きょとんと首を傾げた。
「別に何でもねぇよ。俺は忍足がに話しかけてるから、声かけてみただけだ」
 宍戸君がぶっきらぼうに返す。そしてハッとした。
「っていうかお前また朝錬来なかっただろ! よく平気な顔して話しかけられるなぁ!」
「怒んなよぉ亮ちゃん。ごめんごめん」
「っ! …殴りてぇ…!!」
 軽く受け流す慈郎君に、宍戸君は拳をギリッと固めそれを左手で抑えていて、今にもキレそうなのが窺えた。
 険悪なような、そうでないような雰囲気に、私はちょっとビクビクしていた。

〜おはよぉ〜」
 宍戸君を無視し、慈郎君はニコニコ笑って私に挨拶をしてくる。
「おはよう。だめだよちゃんと朝錬行かなきゃ」
「ねむかったんだもん〜…」
 眠いのは皆同じだと思うんだけど…慈郎君の眠さは尋常じゃないのかな…
「おっ! 早速マネージャーのお仕事やな? 部内の問題児にお説教!」
 忍足君が再び明るさを取り戻してそう言った。
 それってマネージャーの仕事なの…? だとしたら嫌だな。

 そんな私達のやり取りを見て、宍戸君は混乱したようだった。
 多分、この三人を繋ぐ共通点が見当たらないんだろう。…かく言う私も不思議だ。
「…なあお前ら、いつからそんな仲良くなったんだ?」
「何やまだおったんか宍戸」
 今思い出したかのように忍足君が宍戸君を振り向く。宍戸君は顔を引きつらせた。
「……(ぷちっ)」
「忍足それはひどいよ〜…宍戸あのねぇ、俺きのうと友達になったんだ〜」
「あ゛ぁ?」
 未だ寝ぼけたままの慈郎君の言葉にも、宍戸君はドスをきかせた声で反応した。正直怖い。
 その原因であるはずの忍足君はこんな事は意に介さず、ニコニコと横槍を入れた。
「俺も昨日オトモダチに」
 えっ!? い、いつの間にお友達に!?
 今、すごいどさくさ紛れに言った気がするんですけど…

「…つまり、何でか知らねぇがお前ら三人は昨日から友達なんだな?」
 宍戸君が自分を落ち着かせるように溜め息混じりに言った。忍足君が心外と言った風に付け足す。
「一括りにせんといてや。ジローはジローでちゃんの友達。俺は俺でちゃんの友達やねんから」
 あっさりそう言い切った忍足君に、今度は慈郎君が反応して詰め寄る。
「えっ!? 忍足俺のこと友達だと思ってないのっ?」
「…………それはまた別や」
 今、すっごい間があった。しかもまた、『ちゃん』って言ってるし…
 私はいよいよ話に入り込めなくなっていた。確か、私の話をしていたはずなんだけど…
 どうもこの人達は、主題の当人を差し置いて話を進めるのが好きらしい。
 それともただ、私一人がオドオドして何も言えないでいるのが悪いんだろうか。

 ――キーンコーンカーンコーン…

 その時タイミング良く、救いの鐘が鳴った。これ以上男の子に囲まれているのは息が詰まりそうだった。
 本当に今さらだけど、こんな私に男子テニス部のマネージャーなんて務まるんだろうか。

「おっ、予鈴や。ほなちゃん、また部活でな」
 忍足君がひらひらと手を振って隣の教室に入っていく。私はつられて手を振ってしまった。
「俺たちも教室入るか〜」
 と言って慈郎君もさっさとF組の教室に入ってしまった。宍戸君もそれに続いた。

 私も二人から遅れてついて行こうと思ったけれど、ふと足を止めて廊下の窓を振り返ってみた。
 柔らかな青色の空が、長い一日の始まりを告げていた。




















「いや驚いたわ。まさかちゃんが男子テニス部のマネージャーとはねぇ」
 一限目が終わった後、ちゃんは私の前の席に後ろ向きに座り、机に頬杖をついて、はふぅと溜め息をつきながら開口一番にそう言った。

 昨日は慈郎君と忍足君のとんでもない発言によりテニス部員ファンが混乱したまま、ちゃんとははぐれてしまってゆっくり話す機会がなかったし、朝はまた別の事情があって話す時間がなかったから、ずっと気になっていたんだろう。
 私は嫌でも苦笑してしまうのを抑えられなかった。
「へ、変だよね、やっぱり…」
 元々、私はテニス部にお目当ての選手がいたわけでもなければ、マネージャーになりたいと思っていたわけでもない。なのにそんなぽっと出の私が、競争率の高い――かどうかは知らないけど――マネージャーに抜擢された事を、跡部君のファンのちゃんはどう思ってるだろう? 嫌われたら悲しいな…

「別にいいんじゃない? 跡部君の傍にいられるのは羨ましいけど」
 特に気にしていないちゃんの様子に、私はホッと胸を撫で下ろした。
 …嫌だな、友達を信じてないみたい。
「――あのさ、良ければ跡部君の隠し撮りなんかを…」
「えっ!?」
 いきなり利用されてしまうのかとドキッとしたけれど、ちゃんはすぐに「あははっ」とからかうように笑った。
「うそうそ。ちゃんがそういうの請け負う人じゃないってわかってるから。――だから、異例のマネージャーに大抜擢されたんじゃない?」
「そうかな…よく解かんない…」
「そうだよ。あたしみたいに下心たっぷりの女子があのテニス部のマネージャーなんかになってごらんよ、大変なことになるから」
 ちゃんはおどけてそう言ったけれど…何となく理解した。ちゃんがどうこうっていうわけじゃなくて、好きな人と一緒にいる事ばかり考えて、マネージャーとしての仕事がおろそかになっては部として困るって事なんだ。それだけ、責任重大って事で。
 …放課後の部活の事を考えたら、今から緊張して胃が痛くなってきた。

「あ、でもさー…」
 ちゃんは何か言いかけて、周囲を気にするようにちらちらと見ると、私を手招きして内緒話をするように口元に手を添えた。私は何だろうと思いつつも、ちゃんに耳を傾ける。耳元に息がかかって少しくすぐったい。
 しかしそんなくすぐったさなど、次のちゃんの言葉で掻き消えてしまった。

「…ちゃんて、芥川君のこと好きでしょ」
「はっ!?」
 驚いて飛び退く。いきなり心臓がバクバク鳴り出して、変な汗がぶあっと噴き出した。
「あっはっは!」
 何がおかしいのか、ちゃんはお腹を抱えて笑った。
「可愛い! ちゃん真っ赤!」
「〜〜っ」
 恥ずかしくて両手で頬を押さえる。真っ赤になってるつもりなんてないのに。
 ちゃんはニヤッと笑って、また声を潜めて続ける。
「ね、そういう自覚あった? どういう経緯で好きに至ったのかは知らないけど、昨日廊下で彼を見送った時のちゃん、明らかに恋してる顔だったよ。跡部君との試合前の会話の時もね」
「そっ、そう…?」
「うん。バレバレだから」
「…そうです、か…」
 ちゃんにバレバレって事は、他の人にもバレバレって事なんだろうか。そんなに私って解かりやすいヤツだったんだ…
「だからといって、ちゃんは仕事をおろそかにはしないよね。真面目だから」
 …ごもっともでございます。

「まぁとにかくさ、頑張って。恋も、マネージャーも。
 部員にいじめられたり、部員のファンに睨まれたりしたらあたしに言うんだよ? カタキとってあげるから!」
「う、うん…」
「心配だなぁ。ちゃん大人しいし、無理するし。ホントに、何かあったらあたしに言ってよ?」
 ちゃんはお姉さんみたいに言う。
 心配、してくれてるんだ。

 …いけない。昨日から、どうも涙腺が緩くて。目が潤み始めているのを悟られないように、私はちゃんに笑ってみせて、すぐに俯いた。
「うん…ありがとう」



















 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、やっとお昼の時間だと小さく伸びをして、私は鞄からお弁当を取り出し、いつも一緒に食事をするちゃんの所へ向かおうとする。
 …しかし、視界に映ってしまった。昼休みに入ったというのに、まだ机に突っ伏して寝ている慈郎君の姿が。
 普段慈郎君の世話を焼いている(ように見える)宍戸君は今いないようだし、起こした方がいいのかな?と思うのだけれど。
 昨日友達になったばかりの人にどういう言葉をかければいいものだろうと少し悩んだ。
 でも昼食を摂り損ねたら可哀想なので、私は意を決して慈郎君の肩を軽く叩いて声をかける。
「…慈郎君、もう昼休みだよ…? お昼ご飯食べないの…?」
「んぁ…? ひるめしぃ〜?」
 「お昼ご飯」の言葉に反応したのか、慈郎君はゆっくりと顔を上げる。
 それでもまだ眠そうに見えて、もしかして迷惑だったかな、という不安が過ぎった。

「あぁ…もう昼休みなんだ……ふぁあ…起こしてくれてありがと〜」
 慈郎君はんんーっと伸びをして、首をぽきぽきと鳴らす。その様子に私は苦笑した。
「授業中も起きてなきゃだめだよ?」
「だって〜こんなにあったかいと眠くなるよ〜」
「…解かるけどね」
 私もそれには同感だった。
 窓際の私の席には特に春の暖かな陽射しが酷なほど降り注ぎ、眠りを誘う。
 その為退屈な授業中などでは、私は何度もあくびを噛み殺していたりした。

「とにかく、お昼ご飯ちゃんと食べてね。じゃあ――」
 じゃあね、と言って去ろうとした瞬間、私の腕は慈郎君に掴まれた。
 予想だにしなかった行動にビックリする。
「――え…なに…?」
「一緒に食べよ」
「えっ!?」

「俺のさ、お気に入りの場所があるんだ。そこで一緒に食べよーよ」
 ふにゃっと笑ってそう言う慈郎君の誘惑に、私が抗えるはずもなく。



 ――とりあえず私は、一緒に昼食を食べるはずだったちゃんに事情を話してみた。すると。
「行きなさい」
 いきなり命令口調でズバッと言われた。
 怒ってるんじゃ、ない、よね?
 これは…何て言うか…

 ちゃんはニコニコ、というよりニヤニヤ笑って小声で言った。
「チャンスじゃん」

 やっぱりそういう事か…!
 何か…うん、応援してくれてはいるんだろうけど、面白がってもいるよね、ちゃん。

「あたしは適当に他のコと食べるから、ごゆっくりね〜」
 ちゃんは最後に「ガンバ!」といらないエールを送り、私を回れ右させて背中を押した。

 絶対楽しんでるよね…?



 慈郎君の席に戻り、またうたた寝し始めていた慈郎君に再び声をかける。
「友達に言ってきたよ。
 ――…慈郎君、寝ないの」
「…んっ? あ…ごめんねぇ。じゃ行こっか〜」
 慈郎君は顔を上げて、へらっと笑った。

 …今思わず「寝ないの」とかお母さんみたいな事言っちゃったけど、言っちゃったというより言わせられたと感じるのはなぜだろう。
 つくづく、慈郎君て不思議な人だと思う。










 慈郎君の案内についていくと、なぜか外に出た。
 校舎を迂回し、裏側に辿り着く。
「全然人いないね…」
「静かでいいんだ〜」
「うん」
 校舎裏は窓も少なく閑散としていて、人気が全くない。

 人の多い所が苦手な私としては本当に静かでいい場所だと思うのだが、そんな所に慈郎君と二人きりになってしまうのは落ち着かなかった。
 別に何があるわけでもないだろうけど、それでも好きな男の子と二人というのはなかなか色々精神的にキツいかもしれない。さっきのちゃんのニヤニヤ笑いが頭をよぎった。

「はい、ここ。座って座って」
 慈郎君が指定するその場所は大きな木の陰になっていて、窓に面した廊下を人が通ったとしても気づきそうになかった。
 しかも木の陰になっているにも拘らず陽射しがいい具合に葉の間から降り注いでいて、気持ち良い。
「すごい。穴場だね」
 芝生の上に腰を下ろしながら率直な感想を言うと、慈郎君も私の向かいに座って満足げに笑った。
「でしょ? 時々ここで部活サボったりしてるんだ〜。絶対バレないんだぜ」
「ええっ?」
「あ、これヒミツね? 誰も知らないんだから」
 人差し指を口の前に立てて悪びれもせず言う慈郎君に、私は困った顔を返す。
「言わないけど…でもこれからマネージャーになる人に言う事じゃないと思う…」
 もしマネージャーの仕事として、サボってる慈郎君を捜してこいなんて頼まれたら、どうすればいいんだろう。連行しなきゃいけないんだけど、寝かせておいてもあげたいような…

「あははっ。それもそうだね〜。でも、には教えてあげたかったんだ」
「え…?」
 ドキッとした。嫌だ、変な期待しちゃいそう。
って人の多いとこあんま好きじゃなさそうだな〜と思って。そんで、自然のあるとこが好きそう。俺の思い込みかもしんないけど」
「う、うん。確かにこういう所は好きだよ」
 好きだけど、今はそれを堪能する余裕がないって言うか…ね。

 曖昧に笑いながら、私はお弁当の包みを開け始める。そうだよ、お弁当食べに来たんだった。
 それを見た慈郎君もハッとして、自分の手元に視線を移した。
「あっ、弁当食いにきたんだっけ。忘れてた」
 あははと笑って自分のお弁当を広げると、視界に映ったのか私の手元の方を見る。
「わっ! の弁当おいしそう…もしかして自分で作った?」
「うん…一応…」
「マジで? すっげー…いいなー…三色そろっててきれいだなー…」
 慈郎君は箸の先を咥え、物欲しそうに私のお弁当をじっと見つめた。
「慈郎君のだって、美味しそうだよ?」
「俺のは好きなのばっかり入れてもらってるからな〜…野菜ちょっと苦手でさ〜…」
 確かに慈郎君のお弁当には野菜がほとんどなく、結構おかずが偏っていたけれど、規則的に並べられた面白味のないお弁当より、好きなものばかり集められたというお弁当の方が美味しそうに見えた。
「でも私のが美味しそうに見えるの?」
「うん。野菜食べてもEかなーって感じ」
「…食べる? ていうか野菜は食べた方がいいよ?」
 私は慈郎君の目の前にお弁当箱をずいと持ち上げてみた。
 育ち盛りの中学生が栄養をちゃんと摂らないのは良くない。しかも彼はスポーツマンなのだ、野菜を食べないというポリシーがあったとしても、そんなものかなぐり捨てて嫌でも食べた方がいいと思う。そこまでは言わないけど。

 慈郎君は少し考える風にして、
「ん〜…じゃあもらうっ」
 つまようじのついたカイワレハム巻きをひょいっと取って口に運んだ。
「…美味しい?」
 もぐもぐと口を動かす慈郎君に向かって問いかける。特に味付けをする必要のない食材なのでそのままの味がすると思うんだけど…
「…苦い」
 思った通りの答えが返ってきた。
「カイワレだからねぇ」
「苦いけど…ハムがいい感じに中和してくれてるかな〜」
「そう、良かった」

「ありがと。俺のもあげるよ。それだけじゃ足りないんじゃない?」
「え?」
 慈郎君のお弁当箱に比べて私のそれは一回り小さい。でも男と女なのだから、食べる量が違って当たり前だ。
「い、いいよ。足りてるよ」
「いいからいいから! はい、カラアゲ!」
 遠慮する私を無視し、慈郎君は箸を使ってぽん、と私のお弁当箱に自分のカラアゲを入れた。
「あ、ありがとう…」
 一応礼を言ってそのカラアゲを口に運びながら、ふと、さっきまであの箸口に咥えてなかったっけ…?と気づき一瞬咀嚼を止め、今さらだし、と思い再び顎を動かした。こんなの、間接何とやらには含まれないよね。
 でも意に反して、速まる鼓動は抑えられなかった。





 それからしばらく私達は黙々と昼食を取っていた。人の沈黙は苦手だけど、不思議と気まずさを感じなかった。それに慈郎君は、目が合えば無邪気に私に笑いかけてきた。それが嬉しかったけど、私は上手く笑い返せたか解からない。
 あともう少しで二人とも食べ終わる、という時に、突然慈郎君が話し出した。
「――俺さ、普段はほとんど学食とか購買のパンとかなんだ〜。弁当は週に一、二度でさ、結構ひもじい…」
「あ、そうなんだ…私もたまに寝坊しちゃって時間ない時なんかはおにぎりとかだよ」
「…いいな弁当…」
 慈郎君はぽつりと最後に呟いた後、再びお弁当をつつき始めた。

 それは…作ってきてほしいって事かな…? それは構わないんだけど…
 今の言葉の真意が解からなくて、とりあえず、訊くだけ訊いてみる事にした。
「…ね…時々、うちで用意しようか?」
 だって、違ってたら恥ずかしいけど、このまま流しておくには少し淋しい話題だったから。
「へ…?」
「だから、お弁当がない日があらかじめ解かるなら、お弁当うちで作るよ?」
 慈郎君の動きが私を見上げた状態で止まる。しばらくビックリしたように目を見開いていた。
 言うんじゃなかったかな、と思い始めていたその時。
「……マジで!? マジマジっ!? うれCーっ!! 頼んでもいいの?」
 慈郎君が狂喜乱舞し、キラキラした瞳で見つめてきた。
 その瞳があまりにもまっすぐすぎて、私は直視出来ず目を泳がせてしまう。
「う、うん…」
の手作りだよねっ?」
「うん…嫌じゃない?」
「全然! こっちこそ、ホントに頼んでもいいの?」
「うん。いつも二人分作ってるし、一人増えても平気」

「ふたりぶん?」
 慈郎君が聞き咎めて首を傾げた。
「うん…弟の分」
「へぇ、弟いるんだ? に似てる?」
「…ううん…顔もそんなに似てないし、私と違って明るくて、勉強も運動も私よりずっと出来るの…全然違うよ」
「そうなんだ…?」

 慈郎君は地面に食べかけのお弁当箱を置くと、少し難しそうな顔をして、考え事をするように胸の前で腕を組んだ。
 それから腕を解いたと思うと、地面に手をついて、ずいっと私の方へ身を乗り出してきた。急に顔が近づいた事に驚いた私は、後ろへ手をついて身体を離す。
「――…ね、どうしてそんな言い方すんの?」
「え…?」
「「自分と違って」とか「自分より」とか。弟は弟で、じゃん。比べることないよ」
「…!」
 その事を指摘されて恥じ入る気持ちと、何も知らないからそんな事が言えるんだと責めたい気持ちが生まれた。

 嫌だ。これ以上入ってこないで。
 違う。本当は壁なんて全て取っ払ってしまいたい。

「…?」
 私は今どんな顔をしていたんだろう。慈郎君の眉間が怪訝そうに寄って、窺うような顔で私を見つめたまま慈郎君はゆっくりと元の位置に腰を落ち着け、ばつが悪そうに俯いた。
「…まあ俺はの弟のこと知らないけどさ。でもが誰かに劣ってるなんて思わないよ。は、俺が昼めし食べそこねないように起こしてくれる優しさがあるし、おいしそうな弁当だって作れる。それってすっげーいいトコロだと思うよ?」
「……」
「そうだろ?」
 顔を上げてそう言った慈郎君の眼差しは、ひどく強くてきれいだった。譲らない瞳。
 私は咄嗟に視線を外し、小さく首を横に振って「解からない」と独り言のように呟いた。

 私は何も解からない。どれだけ自分が他人に劣っているか、そればかりを識っていて。自分が何に優れてて、何が出来るのか。それはどうすれば解かるのか、解かるようになるのか。自分じゃ何も解からない。

「――
 自分の考えに耽ってしまっていたようで、突然声をかけられて無意識にビクッと身体が震えた。
 恐る恐る目だけ慈郎君の方に向けると、なぜか慈郎君は微笑んでいた。私と目が合うと、余計に優しげに目が細まって。
「…が自分で自分のいいトコロがわからないなら、これから俺が教えてあげるよ」
 当たり前のように。彼はそう言った。
 「ね?」と子供に言い聞かせるように囁く。――そうか。あらゆるものに怯えて何も知らない私は、子供同然なのかもしれない。さしずめ慈郎君は保父さんみたいなもので。

「…教えてくれるの…?」
 喉が渇いてごくりと唾を飲み、掠れた声で聞き返す。縋るように。
 慈郎君は大きく頷いてみせた。
「うん! いっぱい見つけてに教えるよ、まかせて!」
 眩しい笑顔は希望に満ちていて、胸が詰まりそうだった。


 この人が、私を変えてくれるだろうか。変わる為の力をくれるだろうか。

 生きる世界が変わらなくても、どこへも行けなくてもいいから、その場に踏みとどまれる強さが欲しい。





to be continued…





********************

中書き
 本当はもっと続くはずなのですが、これ以上入れるとあまりにも長くなりそうだったので次へ回しました。
 次回は放課後の部活になります。まだこの一日が続きます…(汗)


 2005年3月2日


連載トップへ
ドリームメニューへ
サイトトップへ





template : A Moveable Feast