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 帰りに廊下で、慈郎君に声をかけられた。
 友達にするみたいに、肩をぽんって叩いて、笑顔で「ばいばい」って。
 ただ嬉しくて、私も通り過ぎて行く慈郎君に小さく微笑って手を振った。

 その様子を隣で見ていた友達のちゃんが、興味ありげに訊ねてきた。
「いつの間に芥川君と名前で呼び合う仲になったの?」

 私はまだ、彼をちゃんと名前で呼ぶ覚悟が出来たわけじゃないけれど。
 友達、に、なったんだよね?
 それを教えると、ちゃんは何か企むようにいたずらっぽく笑って、こう言ったのだ。

「じゃあ、観に行ってみない?」





  3〜憧憬〜





 学校の敷地の奥にある、体育の授業でも使った事のない初めて見るテニスコートは、実際に見ると思った以上の広さと設備だった。
 3つのコートをぐるりと囲むギャラリー席。ナイターの証明。
 真っ青なハードコートは見目に涼しかったが、冬なんかは逆に寒々しいのではないだろうか、とか考えていると。
 弾けたように、突然ギャラリーから黄色い声が上がった。

 そう、このギャラリー、いるのは私とちゃんの二人だけではないのだ。
 跡部君やら他の先輩やらの見学に来ている女子がわらわら。
 今の黄色い声にはちゃんも混ざっていて(彼女は跡部君のファンらしい)、コートに跡部君が現れたのが解かった。

 それと同時に慈郎君もコートに入ってきて、私の心臓はわけもなく鼓動を速めた。
 あの紺青色のジャージ姿の男子はたまに見かけた事があるけど、慈郎君が着ているのを見るのはもちろん初めてで。
 何か…似合うなぁ…

 ぼーっと見つめていると、準備運動をしていた跡部君が突然こちらを向いた。
 私を見てるわけじゃないんだろうけど、目つきが鋭くて少し怖い。
 そして今度はこちらを指差したかと思うと、その隣にいた慈郎君が顔を上げた。
 目が合う。
 すると慈郎君は大きな目をさらにまんまるくさせて、ギャラリーに上がる階段に向かって走り出した。

 わ、わ。やっぱり私の所に来るのかな?
 何て言われるだろう? 何て答えればいい?
 やましい事があるみたいに動揺してしまう。

っ!」
 すぐに慈郎君はやってきて、私を呼んだ。
「あ…くたがわ君…」
 …今、思わず苗字で呼んでしまった。
 心の中じゃ、もう『慈郎君』って呼んでるくせに。

「なんでいるの?」
「友達に、観に行かないかって誘われて…」
 そういえばと隣を見るが、ちゃんの姿がない。
 いつの間にか跡部君ファンの中に紛れていってしまったようだ。
 全然気づかなかった…
 急に心細くなる。

 でも慈郎君は嬉しそうに笑った。
「ね、ね、これから跡部と試合するんだ。応援しててね!」
「あ、そうなんだ? 頑張ってね」
 慈郎君の試合? わ、何か楽しみ。
 簡単な知識はあってもテニスの試合を生で観るのは初めてだ。

「うんっ! じゃ、行ってきます!」
  慈郎君はしゅたっと敬礼の真似をすると踵を返した。
 でもふと立ち止まって、笑顔で振り返る。
「『ジロー』、ね?」
「あ…」
 今になって指摘されてドキッとした。
 …時間差攻撃。
「うん……慈郎、君…」
 うわ。心の中で呼ぶのと口にするのとじゃ全然違うよ。
 何か、恥ずかしいな…

 私が俯いていると、慈郎君は静かに「…うん」とだけ言ってコートへと下りていった。
 私はゆっくりと顔を上げて、その後ろ姿を見送る。
 …顔が熱かった。

 私は…もう慈郎君を好きになってるわけ…?
 …なんて単純なの。
 こんなに相手から歩み寄られた事がないから、余計になのかもしれない。

 好きになったって、手に入りはしないのに。
 私の望むものはいくら掴もうとしても、いつもこの手をすり抜けてしまうのに。

 だから私は、いつまでも『友達』のままでいい。
 男友達っていう存在ですら初めてだから、それだけで充分。
 求めて失うのは、辛いから。


 一番右端のコートで試合が始まろうとしていた。
 慈郎君はどんなプレーをするんだろう。強いって噂、本当なのかな。

 慈郎君からのサーブらしく、跡部君は向こう側で構え、慈郎君はテニスボールを何度か地面にバウンドさせていた。
 やがて球は宙に浮く。
 伸ばされた左腕。軽く浮いた足。掲げられるラケット。伸びる右腕。
 球とラケットとがぶつかり合い、パコンッという小気味良い音がして、ざわっと鳥肌が立った。
 なんて綺麗な動作と音。

 その球は跡部君のラケットに触れる事なく、向こうのギャラリーの壁にぶつかった。
 すごい、いきなりノータッチエースだ。

 慈郎君は次の球を取り出して、またバウンドをさせる。
 サーブの動作に入ると、私はわけもなくドキドキした。
 跡部君は今度の球を難なく取り、慈郎君のコートに返す。
 慈郎君はサーブと同時にネットへ走っていて、その球をポンッと軽く打った。
 すると球は左のラインギリギリに落ちて、静かに転がった。

 …今、何が起こったんだろう。
 まるで動と静が合わさったような攻撃だった。

 ネットプレーは難しいって聴くけど、慈郎君はそれから何度も、迷わずネットに駆け出した。
 あれが慈郎君のプレースタイルなんだ。
 跡部君は動作がとても綺麗で、無駄がないって感じ。
 すごいなあ。わくわくする。










 コートとサーブを交替してすぐ、跡部君がノータッチエースを決めた時だった。
「…すっげー」
 慈郎君が、ぽつりと洩らした。

 …笑ってる?
 何で…?

 私はそれからずっと、慈郎君の動きを目で追っていた。
 一番目を惹かれるのは、その表情。
 始まりから今までずっと笑顔で。
 どんなにポイントを決められても、ピンチになっても、そうなればなるほど笑みは増す。

 「マジマジすっげー!」とか「ワクワクするっ!」とか。
 どうして彼は、相手を称賛する言葉を、何の衒いもなく言えるんだろう。
 何の打算も計算もない。
 ただ思った事を口にして、なのにその言葉には後悔がない。
 すごく眩しかった。


 彼はなんて、自由なんだろう…

 これは…憧憬だ。

 自分も彼のように生きられればいいのにと。
 羨ましくて遠くて、胸が苦しい。


 頬が熱かった。
 目の前がよく見えなくなって、そっと目頭に手を当ててみる。
 指に何かが触れて、そのまま指を伝った。

 まさか…泣いてるの、私?
 泣いたのなんて…いつぶりだろう…

 そう気づいたら、溢れて止まらなくなった。
 こんな顔を見られたくないと、咄嗟に顔を覆って背中を丸める。
 止まれ。止まれ。

 止まらない涙と格闘していると、コートから「っ!」と叫ぶ慈郎君の声が耳に届いた。
 そしてタッタッタッという走る靴音。
 次にダンッ!という踏み切る音が聴こえて、慈郎君がここに上って来たんだと解かった。
 何で涙は止まらないのに、頭の中はこんなに冷静なんだろう。

どうしたの!?」
 慈郎君が私のすぐ傍に立って、声をかけてくる。

 だめ。心配かけちゃいけない。
 私の所為で、楽しんでいた試合を妨げたりしたくない。
 涙を見られたくない。
 必死に首を横に振った。
「…なん…でも、ない…」
 ああ、だめ。何でこんな震えた声しか出ないの。
「なんでもないわけないだろ!」
 慈郎君が怒鳴った。
 心配してくれているのが解かるから、余計に辛かった。


 でもごめんね、言えないんだ。
 いつも全てを諦めている私には、「あなたに憧れを抱いた」、なんて、言えるわけがないの。
 私なんかが口にしちゃいけないの。


 何とか涙を止めようと、深く息を吸って吐き出す。
 …よし。もう、もう止まった。
 ハンカチを取り出して涙を拭い、そのままぎゅっと目をつむる。
 何事もなかったように振る舞うんだ。得意だもん。大丈夫。

 小さく笑顔を作って、慈郎君の方を向く。
「…ごめんね? 試合中断させちゃって…
 もう、大丈夫だから…」
 納得はしてもらえないだろうけど、私には「大丈夫」って言う事しか出来ないから。
 お願いだから、「解かった」って言って。
 なかった事にしてくれて構わないから。
 嫌なんだ。私なんかの為に誰かが心を砕くのが。辛い。

「試合なんか…!」
 慈郎君が何か言いかけると、横から誰かの声が挟まった。

「なあ、アンタ」

 聴き覚えのある低い声。
 ギャラリーの真下からこちらを見上げている声の主は、廊下でよく見かける隣のクラスの男子だった。
 いつも周りに女子をはべらせてる人。名前は、確か忍足。

 彼は私をじっと見上げている。
 もしかして、私に声をかけたの?
 自分を指差し首を傾げて確認する。
 すると忍足君は子供っぽく笑った。
「そうアンタや。
 なあ、アンタテニス部のマネージャーせぇへん?」

「……は? え?」
 ちょっと、待ってください?
 マネージャーって、何の? ここの? 何で? 何の為に?
 これは何の冗談ですか…?

 混乱する私を尻目に、慈郎君が「それいい!」と叫ぶ。
「ね、部活なにも入ってないんだろ? だったらマネージャーになってよ!」
 だから、マネージャーってあれよね?
 「はいタオル」とか笑顔で部員に渡したりするあれよね?
「いや、でも…っ」
 私にあれは無理です。
「えぇやんか。マネージャー言うても、ほとんど1年が手伝うてくれるから」
「だったら、いらないんじゃ…」
 何で忍足君がこんなにしつこく言ってくるの?
 私と忍足君は、ただ廊下で顔を合わせるだけの他人同士でしょう?
「いるよ! 1年も後半は練習厳しくなって大変なんだぜ! マネージャーはいる!」
「あの、私じゃなくても…」
 そう、私じゃなくてもマネージャーになりたがる女子なんていくらでもいるでしょ?
 何で私なの。

がいいんだよ!」「アンタがえぇんや」

 慈郎君と忍足君が同時にそう言った。
 無意識にビクッと身体が震えた。

 なに…だから、何で私なの…?
 「がいい」なんて。
 「アンタがいい」なんて。
 どうして…そんな事言うの?

「私で…いいの…?」

がいいんだよ」「アンタがえぇんや」

 間髪入れず返ってきた答え。
 止まったはずの涙が、また込み上げてきそうになる。だめ。止まれ。

 今、私は必要とされてるんだろうか?
 勘違いや自惚れじゃない?

 …勘違いでもいい。自惚れでもいい。
 私を必要だって言ってくれる人がいるのなら、私はその人の為になりたい。
 いいんだ、嘘でも。

「…やります…」


 私はずっと、誰かから必要とされたかった…





to be continued…





************

中書き
 2話のヒロイン視点。
 慈郎の試合を見て泣いたっていうのは実話です(アニプリの対不二戦)
 笑いながら球を追いかけてるのを見て、犬みたいだなとか思ってるのに泣いてんの。あまりの自由さに。
 あの時ですかね、本気で惚れたの。


 2004年5月28日


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