中等部から氷帝学園に入った私は、二年のクラス替えで彼を初めて知った。
彼――芥川慈郎は、一部ではそこそこの有名人らしい。
名門氷帝テニス部の期待の選手だとか、今年準レギュラーは間違いないとか、もしかすると正レギュラーになるかもだとか。
別のクラスにいる超金持ちお坊ちゃん跡部景吾の方が有名なので、私は知らなかったけど。
芥川君は先生にも目をつけられている。
遅刻・居眠り・サボりの常習犯だとか。
まあそれはちょっと見ていれば解かったけど。
彼はいつも寝ているから。
芥川君は、周りの人間とは少し違うようだった。
芥川君はいつも寝ていて、叩き起こされても懲りずに寝て。
私なんか、授業に後れないようにとか問題のない生徒に見られようとしか考えていないのに、芥川君は、そんな事を気にしない。
とても自分の気持ちに正直だ。
先生達ももう諦めているというか、よほど厳しい先生以外は「しょうがないなあ」と、どこか憎めずにいるようで。
彼の周りには自然と人が集まってきて。
ああ、芥川君は誰からも愛される人間なんだなあと気づいた私は、妙に冷めた気持ちになった。
――私とは違う世界のひと。
あちら側へ行けない事を、私は識っている。
1〜羨望〜
ゴールデンウィーク明けの今日は、天気も良く4限はグラウンドで体育の授業。
新館の更衣室で指定のTシャツハーフパンツに着替えて、友達と外へ出ようとした。
しかしこの時私は教室に貴重品を忘れてきた事に気づいて、友達には先に行っててと告げ、慌てて本館へ戻った。
ああもう、確かに連休明けでぼーっとしてたけど、こんな疲れる失態を冒すとは。
時間がないので全速力で階段を駆け上がって、3階の教室を目指す。
ぜーはー言いながら、勢い良く教室のドアを開け放つ、と。
そこには、信じられない光景があった。
こんな事、予想出来るもんじゃない。
…どうして、私の机で寝てるの? …芥川君。
芥川君は制服姿のまま私の席で腕を枕にして、こちらに顔を向け俯せに眠っていた。
春の太陽に照らされて、きんいろの髪が光って、きらきらして。すごくきれいな画。
あまりの衝撃に、私は数秒間固まってしまっていた。
しかし当初の目的を思い出し、おそるおそる自分の席に近づいていく。
近くで見ると、芥川君はいっそうきれいだ。
こうして近くにいても、やっぱり違う世界のひとに見える。
…あ、よだれ垂れそう。
制服に跡がついてしまうと思って、咄嗟にポケットの中に入れていたティッシュを一枚出して口元を押さえてやる。
「…ん〜…」
肌に触れる異物に気づいたのか、芥川君が声を洩らした。私は慌ててティッシュをそのままに手を離す。
芥川君は頭を持ち上げて片手でティッシュを掴むと、無意識だろうか、自分で口元を拭った。
そして腕をぐぐーっと伸ばしながら身体を起こすと、しばらく目をつむったままぼーっとし。急に、眠りから覚めきっていない目でこちらを向いた。私の顔を見上げてはいないけど。
でもやっと声をかけるチャンスを見つけてほっとする。
「あの、芥川君、次体育の授業ですよ。着替えないの?」
「ぁー…たいく?」
「はい…」
「…眠ぃ…」
芥川君はそう答えると、また驚くような行動をし出した。
真横に立つ私の腹部に頭をもたれさせたかと思うと、腰に腕を回してきたのだ。
そしてすぐに聴こえてきた規則的な寝息。
これっていわゆる…抱き枕?
「あ、あああ芥川君っ!?」
「zzz…」
「あのちょっ…」
再び目を覚ます気配ナシ。愕然。
芥川君は、もたれてるだけだから楽かもしれないけどさ。この微妙な体勢はなかなか重かったり辛かったりするんですけど。
それに、男の子とこんなにくっつく事なんてないし、むしろ怖いし、でも何だか…可愛く思えたりもして…ああ混乱。
とにかく何とか抜け出さなきゃ。もぞもぞ動いてみるけれど、腰をがっしり掴まれていて離れられない。
――キーンコーンカーンコーン…
あっ…本鈴鳴っちゃった…
…なんか泣けてくる。
「…芥川くーん…」
…返事はナシ。
もうっ、君の勝手に私を巻き込まないでよ。私はサボりなんかしたくないのっ。
「あーもう!」
自らの髪に手を差し込んでくしゃっと掻き上げる。
何でこんなにイライラしちゃうんだろう。
きっとそれは、芥川君にとってはあくびが出るような下らなさで。でも私にとっては下らなくなんかなくて。だけどやっぱり本当は、下らない事なのかもしれないから。
私は馬鹿みたいなプライドとか、意地とか、そんなもののカタマリだから。
正反対な生き方の芥川君を見てると、羨ましくてイライラするんだ。
…あー…足疲れた。
もうサボりでいいから座りたい。
早く起きてよ芥川君。
私はすっかり無気力気味になっていた。
教室の時計に目を遣ると、いつの間にか授業開始から10分過ぎていた。
でもすごく長い事こうしてる気がするんだけどな。
時間を確認したら、急に今を退屈に感じた。
動けないので、眼下にあるものをじっと見てみる。
…つむじ、みたいな部分。頭のてっぺん。
可愛いなー、つむじ。あ、この金髪、地毛に近いのかな。生え際が薄茶色い。色素薄いんだ。へぇ、いいなあ。肌も白いもんなあ。そりゃ金髪にしても似合うよねえ。わぁふわふわだあ。
はたと気がついたら、芥川君の髪に思わず手で触れていた。
わ、私ってば何やってんだろ。でも、こんな触り心地良さそうなものが目の前にあったら触らずにはいられないよね。
正直な話、以前からちょっと触ってみたいなとは思ってました。
…どうせだから、今のうちにいっぱい触っちゃおうかな。こんな機会もう二度とないだろうし。拘束料って事で。
ふあふあなでなで。
気持ちいいなあ。天然パーマかな。とうもろこしのヒゲみたいな柔らかさだなあ。でもそれより細くてずっとふわふわ。動物を撫でてるみたい。おひさまの匂いする。
「んー…」
くすぐったいのか、芥川君は少し腕の力を強め、首をきゅっとすぼめた。
目が覚める前触れのような気がして、私は手を引っ込める。
様子を見ていると、芥川君はやはりもう一度モゾッと動いた。
腰に回された腕の力が緩んで、頭も腹部から離される。
そうして、芥川君は初めて私を見上げた。
私と目が合うと、そのぼーっとした眠たそうな目が、だんだん、見開かれていく。口も、ぽかんと開かれた。
「…あー…ごめん、なさい…」
そう言い、私のTシャツを掴む手がずるっと落ちた。
芥川君は恥ずかしそうに自分の顔を両手で覆う。
「ごめん…俺、寝ぼけてたみたいで…」
「はい…」
「抱き枕に、しちゃってた…?」
「はい…ちなみに今、体育真っ最中です」
「…ごめんね」
ああ、一応申し訳ないとは思ってるんだ。まだ眠そうな顔してるけど。
今さら怒っても仕方ないし元より怒る気もないし、私は何も言わなかった。
とりあえず足が痛いので、隣の席に腰掛けて膝をさすった。足が棒みたいになっちゃってる。
「…あ…」
芥川君が私を見て何か思い出したように呟いた。
私は少しだけ顔を上げて、「何か?」と訊いてみる。
「えーと…」
…確かに、このクラスになってから一ヶ月しか経ってないけれどもね。
しかし全くもって失礼な話だ。今まで抱き枕にしていたクラスメイトの名前すら知らないとは。
私はぶっきらぼうに「です」と名乗る。
「あそうそうサン! ごめんちゃんと名前覚えてなくて。
…でも俺、君のこと知ってる」
「…?」
真っ直ぐに微笑んで見つめられて、私は戸惑う。
どういう意味だろう。どういう意味で、名前も知らない私の事を『知ってる』の?
何で微笑ってるのに、どこか淋しそうなんだろう…
「だって君さ…」
「……」
「…まあいいや!
それにしても、ホントにごめんね。授業サボらせちゃって」
「いえ…もう、別に…」
言いかけてやめないでほしい。
間が空いた一瞬目を逸らして、すごく悲しそうな顔してたじゃない。
私が何だと言うのだろう。
気になるけど、触れたくないのかな…私の事なのに。
「…そういえば、どうして私の席で…寝てたんです?」
「え? あ、ここサンの席?
いや、ここちょうどおひさまの光が当たってぽかぽかしてて、寝るのにいいなーと思って」
「そう、ですか…」
そんな理由だったんだ。うん、確かに私の席はあったかくて時々眠くなる。
芥川君は昼寝スポットを発見したわけだ。…私の席だけど。
「…サンはなんで敬語なの?」
「え…?」
「同じ学年なのに」
「あー、っと…友達以外には、皆こう…です」
それは半ば無意識なのだけれど。
今指摘されるまで、自分でも気づかなかった。
男は怖い。というイメージが、インプットされてしまっているんだ。
「ふーん…?
あ、ねぇ、サンの、下の名前はなんていうの?」
「え? えと、です…」
何で突然私の名前? どうでもいいじゃない。
「いい名前だねー」
「…私は、あんまり好きじゃない」
「なんで?」
「…ひとから呼ばれる事の少ない名前を、お前の名前だって言われても…自分のものにはならないよ」
どっちかっていうと、私の名前は『お姉ちゃん』なんじゃないのかと思う。
名前なんて、最後に呼ばれたのはいつだろう。
呼ばれなくなった名は、何の為のものなんだろう。
芥川君はきょとん、としていた。
私は、言ってから、すごく後悔した。何でこんな話してるの?
何でこんな話を、芥川君にしてるの。
解かるわけ、ないのに。
「…ごめん、芥川く」
「『ジロー』」
謝ろうとした私を、芥川君が遮った。
相変わらずワケが解からないけど。
「は?」
「『ジロー』でいいよ。『あくたがわくん』って、長いだろ?」
「え、いやあの…」
「俺も『』って呼ぶから」
…同情なんじゃないか。そう思った。
でも同情されたがってるようなワケの解からない遠回しな事を、無意識にも言ったのは私だ。
きっと、『自分の弱さをぶちまけたい』『私を知っていてほしい』という気持ちが存在している。
もし自分がいなくなった時、自分がいたという事を、存在したという事を、少しでも憶えておいてほしいから。
その相手は、誰でも良いのだ。
そんな事を思う自分に腹が立った。
「…私は、友達でもない人を名前で呼び捨てになんか出来ません」
「友達じゃないとダメ? …じゃあ友達になろう!」
「はっ!?」
「じゃあ」って何、「じゃあ」って?
ていうか、何でこの人名前呼びに固執してるの?
私と友達になんかなってどうしようって言うの?
「俺と友達になるの、いや?」
「や、嫌って言うか…嫌ではないけれども…」
「じゃあ友達ね!」
がしっ、と。両手を掴まれた。
きらきらした笑顔と瞳に見つめられて、体温が上がる。
あ…もしかしたら、芥川君がこんなに覚醒してるとこ、初めて見たかも…
なんて、場違いな事を考える。
ああ、何なんだろこの人。こんなキャラだった?
急展開についていけない。
「!」
「っ!?」
元気よく名前を呼ばれて、ビクッとした。
よ、呼び捨てなんだ?
「はい、も『ジロー』って!」
「じ…ジロオ…?」
顔引きつってないか、私。
男の子の名前なんか呼び捨てにした事ないからすっごい緊張する。
それに、なんて不思議な感覚。
下の名前で呼んだだけなのに、相手の存在を改めて認識したって言うか、よりリアルに感じた。
「…慈郎」
もう一度、ちゃんと発音してみる。
違和感が無く、とても似合うその響き。
…きれいな名前だね。そう言うと、芥川君は嬉しそうに笑って。私はまた体温が上がったような気がした。
「へへっ。ありがと、」
そして。
芥川君が呼ぶ私の名前は、知らない人の名前みたいで。
それが、逆なんだと。今まで呼ばれていたものが虚で、心も込められていないただの番号みたいなものだったんだと、気づいた時。
私は初めて『』になれたような気がした。
嬉しくてたまらなかった。
諦めていた『あちら側』へ行きたいと、私は思い始めてしまっていた。
ねぇ、きみが見る世界はどんな感じなの?
教えてよ。
きっとすごく、鮮やかなんだろうなあ。
私も見てみたいなあ。
――いきたい。
to be continued…
********************
中書き
ああ懐かしいこの感じ。
このお話は、一年前から書き始めた自己満足小説を、出来るだけ万人向けになるように最初から書き直したものです(どの辺が万人向けなんだか)
設定がかなり変わったけど、陰気臭い感じは変わらないなあ。
2004年5月6日
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