<対局日誌>〜将棋と私〜
 

初手:▲将棋との出会い
 

 今や将棋は私にとって欠くことのできないライフワークである。といっても、平均月2回ある大会や例会に出場するのが精一杯だが。そんな将棋との出会いを振り返ってみたい。
 あれは確か、私が幼稚園に通っていたころだったと記憶している。ある日の夜、父が2階でパソコンの画面に向かっていた。(当時のパソコンはPC-8801という時代の遺物であった)画面を見ると、歩だの金だの銀といった文字がマスの中を動いている(もちろん読めない)。こども心に興味を持つのは当然の成り行きだった。だが、小さいころから私は自分の意志を伝えるのが苦手で、なかなか「ぼくもやりたい」と言えなかった。だから、父の対局をずーっと側で見ていた。実はこれが基礎力向上に役立った。そのゲームは駒を動かすときに、移動可能なマスが黄色で表示されるため、駒の動きを自然と目で覚えていたのである。さらに、反対向きになっている駒(敵の駒)のところへ動ける場合は、その駒を取れること、しかも取った駒は好きなところに打てることも何となく理解した。ただ、よくわからなかったことは、どうすればゲームが終わるかということだった。そのゲームは負けると「水戸黄門」のオープニングテーマが流れるので(今思うと粋な作りだと妙に感心してしまう)終わったということだけはわかったのだが。
 
ある日、あいもかわらず水戸黄門のテーマを流しつづける父が下にいった隙を盗み、ついに自分の番が回ってきた。どきどきしながら、7六の歩を動かす。飛車先の歩をついて飛車をビュンビュン動かす。角と飛車ばかり動かしていたことを妙に覚えている。そこへ父が上がってきた。その時のやりとりは覚えていないが、駒を自在にあやつっていた私に驚いていたと思う。何度も聞いたはずの水戸黄門も、なぜか新鮮だった。
 
あくる日、父は将棋盤と駒を買ってきた。その盤は今でも私の家にある。打倒「王将」(パソコンソフトの名前)を目指して、特訓が始まった。当時5歳と数ヶ月であった。


2手目:▽強敵あらわる

 小学校入学後間もなく、私は買い物先の生協で「早わかり!子ども将棋入門」を目にした。毎週土曜日の買い物に連れて行かれた私は、生協に着くと、約30分黙々と立ち読みをしていた。1ヶ月ほどして遂に意を決して「買って」と頼んだとき、親があっさり買ってくれたので拍子抜けだった。「キン肉マン超人事典」は一向に買ってくれるそぶりをみせてくれなかったのに・・・。
 それからは、その本が真っ黒になるまで読みふけり、手順を盤に並べていた。一番最初に気に入ったのは矢倉戦法だった(右図参照)。駒組みの形、全ての駒が働く点が私を夢中にさせた。たとえ相手がどんな戦法でこようと、私はこの形で戦った。だが、我流戦法の使い手(友人、といっても1年生)にこの陣形を破ることはできなかった。かくして私は2年生までの間、若き太陽として、将棋界(住人約4名)の天下をとった。
 パソコンソフト「王将」もこの矢倉戦法で軽々と撃破し、父親もいつしか私の敵ではなくなっていた。強くなった私とは指さなくなってしまったが、一番の原因は私に飛車落ちで負けたことだろう。「次は2枚落ちでやろう」などと私は言っていた気がするが、親としてのプライドをズタズタにされて、指したくない気持ちは大人になった今はよくわかる。でも、本当は子どもが親を越えていくのは親にとって喜ぶべきことだろう。そんなことをいえるのは私に子どもがいないからなのだろうか?
 というわけで、もはや敵なしと高をくくっていた私に思わぬ強敵が現れた。年に3回ほど我が家を訪れていたじいちゃんである。じいちゃんは名うての囲碁の打ち手で、頭は相当切れる人らしかった。(今も健在)将棋は駒の動かし方を知っている程度であったが、私など一ひねりであった。どんどん駒を落とされ6枚落ち(飛角桂香なし)でどうにか勝負になるかという所だった。悔しくて泣きじゃくる私(子どものころは何にでも負けるとすぐ泣いた)に大きな壁が現れた。当時小学2年生であった。


3手目:▲いざ将棋クラブへ

 小学校4年生になると週1時間毎週クラブ活動が始まった。私は迷うことなく将棋クラブを選択。修業の成果をいかんなく発揮し、同学年では敵なしであった。
最大の強敵は、5年生のおしゃべり男だった。(名前はそのときも良くわからなかった。)
この男、とにかく口うるさい。相手が指すといちいち講釈をたれるのである。
「その手は、ここを狙っているんだろうけど、そうはいかないよ。」
とまあ、こんな感じでとにかく疲れてしまう。私がよーく覚えているのは
「美濃囲いの弱点を知ってるかい。軽く破ってやる。」
この言葉が妙に記憶に残っているのだ。
この言葉から推察できるのは、私が振り飛車を指していたことだが、おそらく石田流だと思われる。というのも、子ども将棋入門の石田流のところに線がひいてあったのだ。今では想像もつかないが、いろいろやっていたんだな、小さい頃は・・・・。ちなみにそのおしゃべり男とはほぼ互角だった気がする。
 絶対かなわなかったのが、顧問の先生。他の子は駒落ちでやっていたが、私は平手で相手をしてもらった。この先生の美濃囲いの崩し方ははっきり覚えている。一段竜から62歩▽71金▲53角からの▲71竜。あの筋は今でもはっきり覚えている。あまりの鮮やかさに泣く気にもなれなかった。
 そんなこんなで月日は流れ、将棋クラブの大会が行われることになった。


4手目:▽屈辱の将棋大会

 将棋大会の日がやってきた。
私の1回戦の相手は同学年の幼馴染。おそらく一蹴したと思う。
2回戦は、転向してきた男子。練習では負けたことがなかったのでおそらく楽勝と思われた。
だが、それが大きな過ちであった。
私の先手で飛車先を破り、勝利は目前。
そのとき彼が放った手が▽95角!
間接的に自玉を狙っている。だが77の地点には桂馬が跳ねていたので恐るるに足らず。悠然と竜を作って後手玉を左辺に追いやりあとは詰めるだけだった。
だが、悪夢はそのときにおきた。
あろうことか、▲65桂と跳ねてしまったのである。おそらく詰み手順のひとつだったのだろう。
相手の角が、59の地点に飛んできた。
わざわざ玉を駒台に乗せ、馬まで作りやがった。

私の夏は終わった。
ちなみに優勝は例の講釈男だった。

その後のクラブ活動は、5年生で百人一首クラブに配置転換。6年生はドッジボールクラブとなり、だんだんと将棋から疎遠になっていった。
強敵の祖父から念願の平手初勝利を上げたのは確か高学年のころだったように記憶している。
また、わずかな記憶として残っているのだが、私は新聞の将棋欄を切り抜き、棋譜並べをしていた。小学生のくせになかなか粋な勉強をしていたものだ。
ちなみに解説の意味はほとんどわかっていないはず。力にはなっていないと思う。ようするに自己満足。


5手目:▲自惚れの将棋祭り大会

 中学の頃は将棋とはほぼ無縁の生活になってしまったが、一度だけ将棋熱が再発したことがあった。
東急将棋祭り大会にふらっといったのである。
お目当ては北海道出身の中井宏恵女流を見にいくことだった。というかあとの棋士は良く知らなかった。今思えばもったいない話だった。
もうひとつ、将棋大会に参戦もした。初級者クラスに出た。あやうく初段獲得戦に出るところだったのだが、ギリギリでやめた。この落差もすごいが、恥知らずもいいところである。
トーナメント一回戦は、シードで2回戦。私の先手だった。得意の矢倉戦法へ〜と思ったが明らかに手順がおかしい。
実は私は矢倉に組むとき、76歩-66歩と指していたのだ。相手が初級者とはいえ、そんなことを見逃すはずもない。すかさず急戦矢倉に組まれてあっという間に討ち取られてしまった。
自分の実力を思い知らされ、将棋から遠ざかることを決意した14の冬だった。(注:年齢の記憶はあいまいです)


6手目:▽びびびっと

 高校時代は100%将棋とは無縁だった。大学に入ってから一人だけ将棋をやる男がいて、授業中に指したことがある。彼とはほぼ互角だった。
休日のある日ふとテレビのチャンネルを回しているとNHK将棋講座が目に入った。
そのときやっていた講座は「三浦弘行の速攻振り飛車破り!右四間飛車パーフェクトマスター」なる講座だった。
といってもその講座は最後の1回だったので、あまり意味がよくわからないまま見ていた。
が、ここで錯覚を起こす。
三「次の一手がわかりますか」
アシ「難しいですねー」
私は一瞬で見えてしまった。それがなぜなのかは未だによくわからない。
「俺って強いじゃん」
この錯覚がにわかに将棋熱を呼び起こしたのだった。しかも、次の講座が
「ファイター豊川のパワーアップ戦法塾」
というなんとも魅力的なタイトル。戦法無知の私にとって、まさにうってつけの講座だ〜ということですかさずテキストを購入。
毎週日曜日が待ち遠しくてしょうがなかった。さらにNHK杯も見るようになった。これで棋士をどんどん覚えていった。このとき鈴木大介5段と堀口一五段がすごく印象的だったが、鈴木八段はA級。堀口はB1級まで登りつめている。絶対上にいくな、と思っていたが本当に行ってしまった。藤井竜王と三浦七段がトントン拍子で順位戦を駆け抜けていったのもこの後からだった。