《討論ペーパー》
「社会主義と全体主義」再論――「〈現存した社会主義〉の政治学」へ向けての準備ノート
文部省科学研究費重点領域「スラブ・ユーラシアの変動」研究報告集第14号(その中の「政治改革の理念とその制度化過程」班としては第3号)1996年9月刊
 
                                塩川伸明
 
〈1〉 はじめに
 
 筆者は、最近のいくつかの小論で、「〈現存した社会主義〉の社会科学」という視角を提示してきた(1)。まだ思いつきの域を出ず、今後練り直していく必要を感じているが、ここでは、そのための準備作業の一つとして、〈現存した社会主義〉の政治学へ向けた試論を、全体主義論再考という文脈の中で提出してみたい。
 近年における全体主義論リヴァイヴァルの徴候については、旧稿「社会主義と全体主義」(2)でも触れたが、この傾向はその後も続いている。それにはそれなりの背景があり、決して単純に無視することはできない。そこには、現状を踏まえたある種のリアリティーがあることは確かだからである。
 しかし、同時に、リヴァイヴァル論者の議論には、現にソ連その他の社会主義が崩壊したという既成事実を「勝てば官軍」的にとらえ、「勝利」の勢いに乗って、はしゃぎすぎているところがあり、それをそのまま受け取るわけには行かない。このことは、たとえば長谷川毅氏や木村汎氏によってパイプスやマリヤの所論の紹介と批判という形で適切に指摘されている(3)。現代ロシアでも、全体主義論が大流行であるとはいえ、「『ソヴェト全体主義』なるステレオタイプ」に対する警告が――しかも、決して保守的とはいえない、ブレジネフ期の抑圧経験をもつ革新的歴史家ヴォロブーエフによって――発せられている(4)。アメリカ政治学界でも、「全体主義モデルは、それが描き出そうとした社会以上にイデオロギー的だった」という反省が出ている(5)。私の旧稿も、これらの批判や反省と重なるところが多いが、なお若干の補足をしておくことにもそれなりの意味があろう。
 このような試論を執筆するもう一つの動機として、旧著『終焉の中のソ連史』(朝日新聞社、1993年――以下、『終焉』と略記)への伊東孝之氏からの批判の中でこの論点が大きな位置を占めていたということがある(6)。そこで、小論では、伊東氏への回答を先ず行ない、末尾で他の論点にも触れるという形で議論を進めることにする。伊東氏の批判に対しては既に「リプライ」を公けにした(7)にもかかわらず、なぜ改めてここでとりあげるかというと、『終焉』において私は全体主義論の問題をほんの脇道程度にしかとりあげていなかったため、この本を主たる題材とする限り、この問題にあまり多くの紙数を割くのは適当ではないと判断し、氏へのリプライでは、この問題について比較的短い言及にとどめたからである。しかし、伊東氏はどういうわけか、この論点に異常な熱意をもって取り組み、種々の角度から延々と論じている。そこには私の議論についての誤解も多数含まれており、これを無視することは、そうした誤解を放置することにもなりかねない。敢えて再論する所以である(8)*。
*なお、伊東氏自身は、その文章に表現されているよりもずっと洗練された見解の持ち主であることを私は承知しており、その意味では、氏と私の見解の距離は決して外見ほど大きくはない。にもかかわらず、氏の文章表現には、やや不用意な個所、即ち結論を急ぎすぎたり、誇張が過ぎたり、決めつけ方が一方的だったり、舌足らずだったりするところがあり、そのために、塩川批判として当を得ないものとなっている個所が多々ある。この小論の趣旨は、あくまでもそのような不用意な表現への反論を通して私見を多少なりとも明確化しようとする点にあり、決して氏の考えそのものの批判というようなことを課題としているわけではないということを断わっておきたい。
 
〈2〉 「完全統制」の想定をめぐって
 
 伊東氏の塩川批判の最大の眼目は、「完全統制」の想定という問題にかかわる。即ち、氏の主張を私なりにパラフレーズすると、「100%の統制など本来あり得ないことは自明だ。塩川が全体主義論にそれを要求するのはお門違いだ」ということになろう。私の回答は次の通りである。
 確かに、学者が正面から本気で議論をする場合には、誰も「100%の統制」などとはいわないだろう。しかし、「通俗的な全体主義論」のイメージでは、そうなりがちであり、学者にしても、「正面から本気で」ではなく軽い言及の中では、それに引きずられていることが少なくない。こうした現象が時たまみられる程度であるならば、単に放置すればすむことだが、時流に乗って広範囲に広がっているという状況がある場合には、それを完全に無視するわけにはいかないだろう。
 さて、専門の学者の場合、確かに「100%」とは滅多にいわないだろうが、分かりやすく比喩的表現を用いていうならば、「97−98%、従って統制外の部分はネグリジブル」と考えがちである。あるいは、「どう考えているか」よりも「どう表現しているか」の方が重要だというべきかもしれない。2−3%の統制外の部分を認識してはいても、少なくとも結論部ではそれへの言及を省き、ひたすら97−98%の方を強調した書き方をしがちだということである。これに対して、全体主義論批判者(1970年代アメリカの「修正主義」的ソ連政治研究者によって提起された「条件付きプルラリズム」論(9)など)は、「97−98%までもいかず、80−90%だった」と論じることが多い。これは、「民主主義体制や権威主義体制との質的な違い」を見落とした議論だろうか。そうではない。80−90%でも十分に高い数字であり、30−40%ぐらいしか統制しようとしない自由主義社会や、せいぜい60%前後の統制にとどまる権威主義体制とは、大きく隔たっている(繰り返し断わっておくが、上記はあくまでも比喩的表現であり、何%という数字そのものに実質的意味があるわけではない)。だから、この種の議論がそれらの体制の「質的な差」を無視したというのは妥当ではない*。ただともかく、全体主義論者とこれらの論者との違いは、後者が統制外の部分をネグリジブルではなく相当程度有意性をもつものととらえる点にある。
*もっとも、何が「質的」で何が「量的」かの区別も絶対的なものではない――「量は質に転化する」が、いつ、どの段階で「質に転化」し、どこまでは「量的な差にとどまる」かは一義的ではない――ので、「質的」という表現を実際にとるかどうかにこだわる必要もそれほどはないのだが。
 伊東氏の書き方は、あたかも塩川の全体主義論批判はかつてのソ連の論者のそれと似ていて、欧米の議論とはかみあわないとほのめかすかの如くであるが、実は、私の議論自体が1960年代から80年代前半にかけて欧米で展開された全体主義論批判の――部分的な修正・補強を伴った――復習なのであって、拙論が欧米の議論とかみあわないというのは、氏の奇妙な偏見である。この問題はある意味では70年代にほぼ片がついたものであり、今頃蒸し返す必要はないという見方もできる。ただ、それでも一応復習しておく価値があると考えたのは、90年代の今日、かつての確認点が忘れられる傾向が一部にみえるからである。このような復習が全く無意味でないことを示す例として、イギリスの若手および中堅研究者がごく最近あいついで刊行した二つの著書においても、拙著とほぼ同様の視角からの全体主義論批判がなされていることを挙げておこう(10)。
 私がこのような全体主義論批判者(繰り返すが、70年代アメリカの「修正主義」的ソ連政治研究者であって、かつてのソ連のイデオローグでもなければ、マルクス主義者でもない)に共感を覚えるのは、一つにはもちろん、どんなに小さい要素でもネグリジブルとしない発想の方が、きめの細かい議論を可能にするからであるが、問題はそれだけにはとどまらない。たとえ統制外の部分がさしあたっては非常に小さいとしても、ともかく「相当程度有意性をもつ部分」だととらえておくならば、それが時間の経過の中でもっと大きくなり、やがては「内側からの変化」を引き起こす要因にもなりうるので、変化可能性を説明しやすいという点も重要である(全体主義論が「内側からの変化」を説明しにくいことは伊東氏の指摘するとおり)。
 以上の点を踏まえて、種々の議論の関係を再度整理して考えるならば、伊東氏、70年代アメリカの「修正主義」的ソ連政治研究者、その批判を取り込んだ新しい「ソフィスティケートされた全体主義論」者、そして私の四者の間には、ソ連政治把握の実質においてはかなりの程度の共通性があるということになりそうである。ただ、「ソフィスティケートされた全体主義」論といえども、「全体主義」という言葉を使うと「通俗的な全体主義論」と混同されやすい――後者の方が伝統の重みがあり、その後も人口に膾炙している上、前者も後者との違いをそれほど痛切には感じていないようにみえる――という意味で、用語法としては適切を欠くというのが私の考えである(11)。そこで、別の用語法として、例えば「行政的=指令的システム」とかリグビーの「単一組織社会」の方がよいのではないかと新著で書いたのだが(『ソ連』55−57、61−62ページ)、これは伊東氏の見解と完全に一致している。
 実質論においてかなりの共通性があるならば、言葉尻をとらえてどうこういう必要もないではないかという考えも十分なりたつ(12)。それにもかかわらず、私がただ一点こだわるところがあるとすれば、それは次のようなことである。これは私の邪推かもしれないが、「ソフィスティケートされた全体主義論」者の少なくとも一部には、次のような「二枚舌」があるように思われてならない。つまり、非専門家の一般読者に対しては、「通俗的全体主義論」に近いイメージ――これは単純明快であるために非専門家に受けいれられやすく、鮮烈な印象を与えることができる――を提示してアピールし、他方、学者から批判を受けると、「いや私はそんな単純な考えはもっていない。条件付きプルラリズム論者からの問題提起もちゃんと取り込んでいる」といって言い逃れるというやり方である。このような「二枚舌」による言い逃れはズルイのではないか、もし「ソフィスティケートされた全体主義論」者が本当にその「ソフィスティケート」性を誇りたいのであれば、もっと厳しく「通俗的全体主義論」との間に一線を画さねばならないのではないか――そしてそのためには、結局「全体主義」という用語を放棄した方がよいということになるのではないか――というのが私の印象である。どなたか、これが純然たる邪推に基づく無益な思弁だということを証明してくださるだろうか。
 
〈3〉 テロルの規模について
 
 次に、テロルの規模と全体主義問題の関連について考えてみよう。この点に関して、伊東氏は塩川がテロルの規模を論じるのは全体主義論批判のためだという前提から出発して、あれこれと批評をしているが、この前提は読み込みすぎに基づく誤解である。そもそも、私の問題意識は、伊東氏が想定するように「全体主義論を批判したい→テロルの規模を相対的に小さいものと考えたい」という風に展開したのではなく、単純にテロルの規模の問題をあれこれ考えているうちに「おや、これは全体主義の問題ともある程度までは関係しているかな」と感じるようになったというに過ぎないのである。
 確かに、テロルの規模について相対的に大きな数字を出す人(コンクェスト、ローズフィールドら)は全体主義論に傾き、相対的に小さな数字を出す人(ウィートクロフト、アンダソン、ダニーロフら)はそれに批判的という傾向がある(『終焉』第Y章の注5に挙げたサーストン、アンドレなども同様)。そして、私自身はどちらかといえば後者に好意的である。但し、完全に賛成というのではなく、やや中間的であり、あくまでも暫定的結論としてどちらかといえば相対的に小さい数字の方に近いということである。そもそも、具体的な規模というものが量的な問題であるのに対し、「全体主義概念が適当か否か」という問題は質的な問題なので、この二つの問題は同次元で論じられるべきものではない。両者の関係はあくまでも緩やかな相関にとどまるのであって、リジッドな対応関係にあるわけではない。だからこそ、「イメージがある程度まで変わってくることはありうる」という程度の漠然たる言及にとどめた(『終焉』325ページ)のだし、具体的規模の推定については「中間的な議論もありうるので、この対比は絶対的なものではない」ということも同じ個所で指摘しておいた。だから、氏の想定は、ごく大まかな傾向性としてであれば根拠が満更なくはないとはいうものの、それ以上の議論を展開しようとするのは強引というほかない。
 氏はまた、「スターリンのテロルは、初期の全体主義論者が予想したよりもはるかに大きく」とも書いている。だが、これは勇み足というものであろう。現に、代表的な全体主義論者のコンクェストは非常に大きな数字を唱えており、最近の着実な研究はそれが過大だったことを示しているという事実があるからである。ひょっとしたら、全体主義論者の中にも、テロルの規模について慎重な推計をしている人もいるかもしれないが、それはさしあたりクルーシャルな問題ではない。なぜなら、先に書いたように、「テロルの規模の問題と全体主義論の関係は、あくまでも緩やかな相関にとどまるのであって、リジッドな対応関係にあるわけではない」以上、代表的な全体主義論者の一人(コンクェスト)に対する私の批判が成り立ってさえいれば、「緩やかな相関」の議論としては足りるからである。
 なお、この問題に関し、私の旧稿執筆後の新しい研究状況について、簡単に補足しておくなら、先ずアメリカおよびイギリスであいついで発表された最近の論文はともに私の旧稿とほぼ一致する内容で、私を勇気づけた(13)。他方、ロシアでは、ゼムスコフに対するラズゴンのやや感情的な非難があり(14)、これをうけて、マクスードフ(彼については『終焉』でも言及した)が、ロシアの雑誌にゼムスコフ批判の論文を掲載した。その批判には、アルヒーフ資料を単純に鵜呑みにすべきではなく、慎重な批判的検討と解釈が必要だという正当な指摘と、ゼムスコフは犠牲の規模を小さく見せようとしているに違いないという思い込みによる感情的な反撥とが同居している。これに対するゼムスコフの反論には、「売り言葉に買い言葉」的な色彩があり(自分の見いだしたデータへの過信、また過大な数字への反撥のあまり、小さい数字の方が正しいと断言し過ぎる傾向)、この論争はあまり生産的でない印象をうける(15)。ただ、マクスードフにしても、ソルジェニツィンらの過大な数字に同調しているわけではなく、彼の推計は中間的なものである。その意味で、1930年代に関する限り、マクスードフ説とゼムスコフ説は誤差の幅を大きくとることによって両立可能だとした『終焉』第Y章の叙述は維持できると考える(40年代については、戦争のからみもあって事情がより複雑であり、両者の差も一段と大きい。これは別個の検討課題である)。
 もう1点、この論点に関して付随的に気になるのは、伊東氏の文章だけを読む人は、あたかも塩川はテロルの規模は小さかった、大したことではなかったと主張しているかに受け取るかもしれないということである。たとえ伊東氏自身はそう考えていなくても、そのような印象を残す個所があるのである。一例を挙げると、「問題は所与の国で政治体制の質を変化させるに十分な規模のテロルである」という個所がある。これを読む読者は、「塩川はスターリンのテロルは政治体制の質を変化させるほど大きくはなかったと考えているのだな」と解釈するだろう。だが、そうではないのである。私も、「政治体制の質」は確かにスターリンのテロルによって変化した――もっとも、先にも書いたように、「質的」と「量的」の区別は絶対的なものではないので、ある基準でみて「質的な差がある」ものが他の基準では「量的差にすぎない」ということもあるが、それはさておき――と考える。ただその変化を「全体主義」という言葉で表現することに対して消極的なだけである。更に、私は「相対的に小さな数字」といえども絶対数としてみれば非常に大きな規模の犠牲であり、スターリン主義の悪逆非道を十分に示すことに変わりはないことを繰り返し述べており、決して「小さかった、大したことなかった」という主張をしているわけではない。この点を力説するのは、私の説がややもすれば、「南京大虐殺は幻だった」という類の議論と混同されやすいので(『終焉』277ページで南京大虐殺問題に言及しておいた)、特に注意してほしいのである*。
*本稿のもととなった最初の草稿(1994年秋)でこのように書いた後、1995年に入って、文芸春秋社の雑誌『マルコポーロ』が「ナチ『ガス室』はなかった」という論文を載せてユダヤ人団体の糾弾をうけ、廃刊になるという事件が起きた。私はこの事件についてよく通じてはいないが、新聞報道などによれば、問題の論文は、ホロコーストの存在そのものを薄弱な根拠で全否定するというお粗末なものだったようである。他方、それとは全く別に、アウシュヴィッツの犠牲者の数を厳密に確定しようとする学問的で冷静な研究もこの間積み重ねられており、それによれば、従来一部であまり根拠なしに広められていた数字はやや過大であり、それよりは多少低めの数字の方が妥当だったようである。私は、根拠もなしにホロコーストの存在そのものを全否定するようなセンセーショナリズムやデマゴギーに与するものではないが、冷静な学問的議論として、ある種の過大な数字を批判して、それよりも低めの数字を提出することは――たとえ、その試行錯誤の過程で、誤って、後になってみると多少低すぎたと分かるような数字が暫定的仮説として出されることがあっても――研究者として当然に許される行為であり、むしろ積極的になされるべきことだと思う。もちろん、「やや低めの数字」といえども、絶対数としては「十分に」大きな規模の犠牲であり、決してナチ免罪論に結びつくものではない。スターリンの犠牲についても同様である。
 
〈4〉 テロルの原因について
 
 テロルの原因の問題に移ろう。この点に関し、伊東氏は「どうしてスターリンの役割は大きくなかった、などという予断をもてるのだろうか」という。しかし、私は「大きくなかった」などとは決していっていない。ただ、全能視することには反対だ、また「大きかった」としてもそれはマスタープランに基づくものとはいえないのではないか、といっているだけである。従って、この批判は完全に的外れであり、塩川説を歪曲して描き出すものである。
 氏は続いて、「資本の原始的蓄積のような客観条件だけによっては、断じて説明できない」ともいう。この点についても、私は「だけ」などとは一度もいっておらず、氏の批判は私の主張を歪曲するものである。私の理解はあくまでも多重的説明論であって、原始的蓄積はそのうちの一つの要素として挙げているに過ぎない。
 テロルがあれほども大きな規模になったことの説明として、これが十分条件だとはいえないが、少なくとも必要条件ではあるというのが私の主張である。やや形式論理的な一般論をすると、あることが「なぜ生じたか」の説明をするには、十分条件をもれなく列挙しなくてはならないが、「なぜ生じなくなったか」の説明としては、一つの必要条件が消えたというだけで足りる。スターリンのテロルについても、それが「なぜ起きたか」の十分な説明は非常に難しく(現状では不可能ではなかろうか)、いくつかの主要な条件を数えあげる――それが私の四層説(『終焉』第U章)である――程度で我慢せざるを得ない。他方、「なぜ緩和されたか」については、原始的蓄積および対外緊張という二条件――伊東氏は何故か、私が後者を挙げていることを無視しているが――の縮小・緩和だけでも、ともかくある種の説明にはなるはずだというのが私の考えである。
 
〈5〉 アトム化の度合などについて
 
 「全体主義」発生の一つの基盤とされるアトム化、デラシネ化、デクラセ化の問題についても、簡単に触れておこう。伊東氏は、後進国ではあっても近代化途上においてこうした問題にぶつかることがあるので、近代化が遅れていたからといってこれらと無縁ではないと指摘している。これはもちろん正しい。私自身、『ソ連』74ページでそのことを指摘した。『終焉』でも、「デクラッセ化現象を反駁」など、どこでもしていない。それどころか、『終焉』102ページでは、「農村から切り離されたばかりの新労働者のデラシネ性」をスターリニズム成立の一つの要因として挙げてさえいる。要するに、私は、アトム化、デラシネ化、デクラセ化を、それ自体としては決して否定していないのであり、氏の論述は塩川説を補強するものでこそあれ、その批判になるものではない。
 私がいいたかったのは、それらの現象があったかなかったかということではなくて(あったのは自明である)、その度合・段階・形態において大きな差のあるロシア・ソ連とナチ・ドイツ――ましていわんやカンボジアと旧東ドイツ――をいっしょくたにし、一つのカテゴリーの中に押し込んでしまうような用語法には問題があるということである。この点は『ソ連』第V章で詳しく論じたので、ここではこれ以上触れないことにする。
 なお、この論点にすぐ接続して、伊東氏は、「ちなみに、全体主義社会は本来的な意味での階級社会とは両立しない」ということを論じている。第一に、『終焉』では、私はこの問題には触れておらず、氏の議論は拙著とは無関係なものである。第二に、『ソ連』第V章で私は、極限的な理念型としての全体主義概念について論じたが、そこでは表現こそ異なるものの、内容上、氏の理解と近い考えが述べられている。というのも、ソ連では旧エリートの破壊がナチ・ドイツ以上に徹底していたので、その観点からみれば後者以上に全体主義に近かった――但し、「近かった」ということは「そのものだった」ということを意味しない――と書いているからである(この部分は、92年秋に伊東氏から私信をもらう前に書いていたものである)。そこでいう「旧エリート」には資本家や地主も含まれ、その破壊は「階級社会」の構造的破壊を意味するから、この認識は伊東氏の認識とほぼ重なる。氏が塩川説を自説と大きく隔たるものと解釈したのは、この点でも誤っている。いずれにせよ、この個所の氏の議論は、拙著とは無縁なモノローグである。
 
〈6〉 大衆の体制への支持について
 
 大衆の体制への支持という論点に移る。伊東氏の塩川批判を私流に要約すると、次のようになろう。「塩川は大衆の支持があったことを強調し、それが全体主義論批判になると思いこんでいるが、そんなことはない。全体主義論は大衆の支持を十分説明できるものである」。この点は、私も前から気になっていながら十分明確化していなかった論点なので、ここで簡単に私見を述べたい。
 確かに「大衆の支持」という点だけをとってみれば、全体主義論と矛盾はしないだろう。問題は、それをどのような根拠から説明するかという点にある。私の理解では、全体主義論は大衆の支持を強烈なイデオロギー教宣による洗脳やテロルを伴う厳しい統制から説明する。これに対し、私の年来の主張は、国家の統合政策の空回りの結果として「一種の自由」が残されていたことが大衆の消極的受容を支える一要素となったということである(16)。前者は体制の統合力の強さを強調し、後者はその限界に注目するという点で、明らかに対照的である*。
*このパラグラフで念頭においている「全体主義論」とは、「通俗的な」それか、それとも「ソフィスティケートされた」それか、と問われるかもしれない。私の回答は次の通り。「通俗的な全体主義論」はもとより、「並の程度にソフィスティケートされた全体主義論」では、私の議論は取り込めないはずである。「極度にソフィスティケートされた全体主義論」なら、あるいは取り込めるかもしれないが、そこまでくると、それはもはや事実上「全体主義論」の域を脱してしまうのではなかろうか。ひょっとしたら、伊東氏はそのような「極度にソフィスティケートされた全体主義論」を主要に想定しているのかもしれない。氏が、私への対抗上、全体主義論者を「かわいそうに思う」のはよいが、時として同情の度が過ぎて、やや美化しすぎている場合があるように思われてならない。
 関連して、氏は、全体主義体制は何よりもエリートに対する統制を重視し、大衆まで統制する必要を感じないというが、これは言い過ぎであろう。私は氏のエリート重視の発想に基本的には賛成なのであるが(『ソ連』72、76ページなど参照)、ここまでくると行き過ぎだというのが感想である。政治的支配の強度にとって国民大衆よりもエリートの掌握度が決定的に重要だというのは、どのような支配体制についても一般的にいえることであって、それだけでは、「現代的独裁」としての全体主義(その理念型)の独自性が浮かび上がらない。理念的に想定される全体主義の大きな特徴は、エリートのみにとどまらず国民大衆までをも広汎に動員し、統制するという点にこそあったのではなかろうか。リンスにおける「全体主義」と「権威主義」の区別の一つの要点もそこにあったはずである。
 確かに、一つの考え方としては、広汎な社会・大衆の問題はひとまず括弧に入れ、狭義の政治の世界のみを対象として「全体主義」を定義すればよいという考え方もなりたたないではない。しかし、それでは、他の独裁と区別される「全体主義」(その理念型)のもつ独自の迫力が失われてしまうのではなかろうか。歴史上多数存在した種々の独裁と区別される特異な現代的現象を指示しようというのがこの概念の本来の役割だったのではないか。だとすれば、社会・大衆の問題を括弧に入れた全体主義論は、牙を抜かれた猛獣のようなものだという気がしてならない。
 もう一つ関連して、氏は「政治学の世界では一般に『暴力のみによる支配』はないと考えられている」という御教示を垂れてくださっている。これは正しくその通りであり、政治学の常識中の常識といえよう。問題は、そのような常識を「通俗的な全体主義論」イメージはものの見事に無視しているという点にある。「ソフィスティケートされた全体主義論」者の場合には、もちろんそのようなことはないはずだが、にもかかわらず「通俗的全体主義論」と自己との間に厳しく一線を画していないために、その辺が曖昧にぼかされているのではないかというのが私の印象である。この点はこれまでに述べてきたことと重なるので、繰り返さない。
 この項の最後に、奥田央氏の最近の記念碑的な著書『ヴォルガの革命』の含意について触れておきたい。奥田氏は、その結論部で、「社会科学的な思考に慣れている人々は、一つの体制には必ずそれを支持する社会的基盤が存在すると考えるもの」と皮肉っぽく書いており、これだけ読むと、あたかもスターリン体制の「社会的基盤」の存在を否定する趣旨であるかにとられかねない。しかし、それに続く個所の叙述を読むと、農民が体制を宿命として受容したという側面も指摘されているし、何よりも重要な点として、「国家に対する義務を果たすかわりに、国家は自分たちの面倒をみてくれなくてはならない」という観念への鋭い指摘がある。そして、こうした要素が「スターリン時代を支えた(積極的に支持したのではなく客観的には支えることになった)人々の像」だとしめくくられている(17)。これは私の年来の主張と完全に重なる。こうみてくると、奥田氏の研究はスターリン体制の「社会的基盤」の存在を否定するものではなく、それどころか、まさに独自の――いわばねじれた形での――社会的基盤の存在を見事に描きだした書物であるように思われる。
 
〈7〉 「民主主義」概念をめぐって
 
 伊東氏への回答の最後に、「全体主義」概念と対をなす「民主主義」概念についても触れておきたい。伊東氏は、民主主義とは「衆愚政治という言葉が象徴するように、もともとユートピアではなかった」という。それはその通りだが、民主主義が錦の御旗でなかった戦前はともかく、今日の状況では、そのようなことを意識しているのは、政治思想史に通じた少数の特殊な人だけではなかろうか。むしろ、圧倒的多数の人は、強い価値判断を含んで「民主主義=理想」ととらえているというのが実情だろう。伊東氏の好きなロバート・ダールが、わざわざ「ポリアーキー」という造語をつくったのは、「民主主義」というと価値観がこもりすぎるので、それと区別される中立的概念としてではなかったろうか。
 それはともかく、この個所を読んではじめて、私は氏が「民主主義」という言葉を無造作に使う理由が分かったような気がした。現代の東欧について、氏は「多元的民主主義への移行」という言葉を使い、私はそれに引っかかるのだが、それは「民主主義という言葉をそんなに軽々しく使ってよいのか」という気持ちからだった(18)。ところが、氏にとっては、まさしく「民主主義」というのは、ごく軽い気持ちで使える、一つの中立的な言葉だったらしい。これはこれで一つの態度だろう。ただ、世の中の多くの人は、「民主主義」というとイコール「素晴らしいもの」と受け取りがちなので、そこから誤解が生じがちだということは、注意しておいてもよいことである。「民主主義の定義については、手続的な定義による」と、一見中立的な断わり書きをつけて出発した議論が、いつのまにかそれはよいものだという暗黙の価値判断を滑り込ませている例は決して少なくない。
 多くの政治学者は「民主主義」「全体主義」「権威主義」という三分法をごく当然のもののように使う。だが、それは、あたかも経験的な分析概念であるかのような体裁をとりながら、実際には、「全体主義=悪いもの」「権威主義=あまりよくないが、全体主義よりはましなもの」「民主主義=よいもの=目標」という価値判断を暗黙のうちに前提している(19)。私が全体主義概念の安易な使用に消極的なのは、この点ともかかわっており、従って私は「民主主義」という言葉についても、氏のように無造作に使う気には到底なれない。
 もっとも、伊東氏自身も、このような問題を全く意識していないわけではない。氏の書評の「四 全体主義論を批判する」の節には、「全体主義概念は一定の西欧的偏見を反映していて、文化的な制約から免れていない」という個所がある(90ページ)。これは鋭い指摘であり、私も大賛成である。だとするならば、「全体主義」と表裏をなす「民主主義」概念もまた、往々にして西欧的エスノセントリズムから自由でないということが同時に注意さるべきだったろう。氏が御自身のこの指摘を更に深めてくださることを期待したい。
 
〈8〉 ポスト・スターリン期の位置づけ
 
 岡田裕之氏は拙著への書評およびそれと関連する論文で、あたかも塩川がポスト・スターリン期をスターリン期と一括しているかにとらえ(「〔スターリン期とポスト・スターリン期の〕間に格別の区別を設定しないのが塩川説である」と書かれている!)、両時期を区別しさえすれば全体主義概念は保存されると主張している(20)。しかし、これはほとんど言いがかりともいうべき曲解である。私は旧著においてはっきりと、全体主義論にもいろいろの種類のものがあり、両時期を一括するものもあれば、区別してスターリン時代だけを全体主義とするものもあると指摘し、それぞれについての疑問を提起した(『ソ連』64−65、78−86ページ)。こういうわけで、氏の書評および補足論文はおよそ内在的な批評とはいいがたく、とりあげるに足りないものである。ただ、スターリン期と区別されるポスト・スターリン期をどう考えるかは一つの重要な論点であり、これまで私としては十分取り組むことのできていない問題なので、ここで簡単に補足的に触れておきたい。
 「全体主義」の語をスターリン期に限定する論者は、ポスト・スターリン期を「ポスト全体主義」ととらえることになる。リンスもその一人である。これはこれで示唆的な問題提起ではあるが、そこにもなお多少の不明確さが残っている。リンスについていえば、スターリン後のソ連について、一方で「ポスト全体主義的権威主義」といい、他方で「テロなき全体主義」という言葉を使っているが、この二つの概念の関係があまりはっきりさせられていない。「ポスト全体主義」ならもはや全体主義ではなく、「テロなき全体主義」は依然として全体主義であるということになるはずで、両者は両立しないはずなのに、並列されているのである(21)。
 リンスに限らず「テロルなき全体主義」という言葉を使う人は多いが、このとらえ方には実は二通りのものがあり得る。一つは、顕在的テロルを必要としないほど大衆統制が強まっている(潜在的なテロルの脅し、強烈な洗脳などによって)というものであり、もう一つは、カリスマの日常化に伴い、統制が緩みつつあり、全体主義から権威主義に移行しつつあるというというものである。前者だと統制の強化(極限化)、後者だと統制の緩和ということになり、意味がまるで違う。「テロルなき全体主義」というような言葉を使う場合には、その点をはっきりさせておくべきであろう。
 「ポスト全体主義的権威主義」というとらえ方のもう一つの問題として、その後の体制転換(脱社会主義)をどうみるかという問題がある。「民主主義への移行」という見方が――少なくとも、中欧など恵まれた一部の諸国を除き、短・中期的にみる限り――楽観的に過ぎることは、この間の現実が示した。とすれば、やはりある種の権威主義への移行だろうか。そのように見える側面が多々あることは否定しがたい(22)。体制移行(脱社会主義)前夜の政治体制が「ポスト全体主義的権威主義」だったとすると、その後の状況は、それよりも後であり、かつ権威主義の一種であるという意味で、「ポスト『ポスト全体主義的権威主義』的権威主義」ということになりそうである。しかし、こういう風に言葉を並べることにどれほどの意味があるだろうか。
 問題は、ただ単に「権威主義体制」であるとかないとかいったレッテル貼りを行なうことではなく、どのような権威主義かを考えることにあろう。この点でも、もちろん種々の先行業績を参考にすることはできるが、それらが万能だというわけではなく、自己流の再検討と彫琢は不可欠である。リンスの場合、権威主義体制を特徴づける基準として、@限定された多元主義、A政治動員の低さ、Bイデオロギーよりもメンタリティー、の3点を最重要の指標として挙げている(23)。ここでの類型論は必ずしも成功しておらず、また全体主義・民主主義との対比も万全ではないが、これを組み替えて、諸政治体制の比較の基準としてとるならば、興味深いものを含んでいる。
 私見では、種々の政治体制を全体主義・権威主義・民主主義ときれいに3分してしまうのはしばしば不毛である。そうではなく、どの政治体制もみな大なり小なり権威主義的であるととらえた上で、それらの比較の基準として、多元主義の程度、政治動員の度合、権力者の利用するイデオロギーの体系性・強烈さ・浸透度、といった指標を使ってみることが有効なのではないだろうか。『ソ連』V章で萌芽的に問題提起したのはそのようなアイディアである。もちろん、これ自体まだ思いつきにとどまっており、今後更に練り上げて行くべき試論であることはいうまでもない。
 
 
(1)『朝日新聞』1995年3月15日夕刊、「『現存した社会主義』の社会科学へ向けて」『比較法研究』第57号(1995年)、"Toward a Historical Analysis of the 'Socialism That Really Existed'," in Shugo Minagawa (Editor in Chief), Socio-Economic Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World, Slavic Research Center, Hokkaido University, 1996; 「文化としての『現存した社会主義』(講演要旨)」東京女子大学『史論』第49集(1996年)など。
(2)塩川伸明『ソ連とは何だったか』(勁草書房、1993年、以下『ソ連』と略記)第V章。
(3)長谷川毅「ロシア革命と歴史学の課題」和田春樹、家田修、松里公孝編『スラブの歴史』弘文堂、1995年、木村汎「ロシアをどう見るか」木村汎編『もっと知りたいロシア』弘文堂、1995年。
(4)E. Iu. Zubkova, Obshchestvo i reformy 1945-1964, M., 1993, s. 189. ズプコヴァの著書へのヴォロブーエフの後書き。
(5)Adam Przeworski, "The 'East' Becomes the 'South'?: The 'Autumn of the People' and the Future of Eastern Erurope", PS: Political Science & Politics, vol. 24, no. 1 (March 1990), p. 20.
(6)『ロシア史研究』第56号(1995年)。
(7)同上所収。
(8)前注の「リプライ」に書ききれなかった種々の論点について、私は「リプライ・補遺」を私家版ワープロ原稿として作成し、ごく少数の人に配布した。本稿の2−7は、その中の全体主義論にかかわる部分をもとに、若干の改訂を施したものである。
(9)条件付きプルラリズム論については、『ソ連』94ページの注28に挙げた文献の他、そこではうっかりして挙げ忘れたが、Susan Gross Solomon (ed.), Pluralism in the Soviet Union, New York: St. Martin's Press, 1982も参照。
(10)Chris Ward, Stalin's Russia, London: Edward Arnold, 1993, pp. 187, 206-210; Vladimir Andrle, A Social History of Twentieth Century Russia, London: Edward Arnold, 1994, pp. 196-199.なお、前注5も参照。
(11)J・リンス『全体主義体制と権威主義体制』法律文化社、1995年(原著は1975)はいうまでもなく、ここでいう「ソフィスティケートされた全体主義論」の一つの典型であって、内容的には全体主義論批判者の議論を相当程度取り込んでいる。にもかかわらず、用語法としては「全体主義」の語を手放さない方がよいとするのであるが(103−114ページ)、その立論はあまり説得的でない。例えば、この概念が元来冷戦の文脈で論争的に使われたという点について、「こうした批判は政治科学の最も重要な概念の多くに当てはまる」と簡単に片づけているが、それは度合の問題であって、これほどまでに濃厚に政治論争の文脈に彩られてきた例は少ないのではないだろうか。また、リグビーの所論についてリンスは、「政治システムよりも社会システムや経済システムを対象としたもののように思える」というが、「全体主義」が政治にとどまらない全社会構造にかかわる問題だとすれば、それはむしろメリットと考えるべきだろう。リンス自身の叙述には「不完全な全体主義」といった語義矛盾的な表現も出てくるが(251−252ページ)、こうした概念上の混乱も、この言葉に固執することから来るように思われる。
(12)逆にいえば、「ソフィスティケートされた全体主義論者」の場合、わざわざこの論争的な言葉にこだわる必要性もないはずである。
(13)J. Arch Getty, Gabor T. Rittersporn, and Viktor N. Zemskov, "Victimsof the Soviet Penal System in the Pre-War Years: A First Approach on theBasis of Archival Evidence," American Historical Review, vol. 98, no. 4 (October 1993); およびR. W. Davies, "Forced Labour Under Stalin: The Archive Revelations," New Left Review, No. 214 (November/December 1995).
(14)Stolitsa, 1992, No. 8, s. 13-14 (L. Razgon). ラズゴンは、ゼムスコフはスターリン弁護の意図をもっているに違いないという前提から出発して彼を論難しているが、これは明らかな誤解である。
(15)Sotsiologicheskie issledovaniia, 1995, No. 9, s. 114-118 (S. Maksudov); s. 118-127 (V. N. Zemskov).
(16)塩川『「社会主義国家」と労働者階級』岩波書店、1984年、終章、『ソヴェト社会政策史研究』東京大学出版会、1991年、第9章などを参照。なお、伊東氏は、中国に限定してではあるが、「粗放な自由」という表現をかつて使ったことがあり、私の印象に残っている。伊東孝之「中国のなかのロシア」『中央公論』1981年11月号109−110ページ。
(17)奥田央『ヴォルガの革命――スターリン統治下の農村』東京大学出版会、1996年、686−687、696、697ページ。
(18)『ソ連』第X、Y章の他、「1993年の歴史学界――−回顧と展望(ヨーロッパ・現代・東欧)」『史学雑誌』第103編第5号、1994年、375ページも参照。
(19)3分法の代表的な業績はリンスの前掲書であるが、その冒頭で、「ここでは、民主主義とはどういうものなのかわれわれにはわかっているという仮定から出発し、われわれの民主主義の定義があてはまらない、あらゆる政治システムに注目することにしよう」と述べている(3ページ)。まさしく、この出発点こそが問題である。この点について、藤原帰一「政治変動の基本要素」矢野暢編『講座東南アジア学・7・東南アジアの政治』弘文堂、1992年、151−152ページの指摘参照。ハンチントンはよりあからさまで、「私が本書を執筆したのは、民主主義それ自体良いものであると信じているからであり」、「アメリカ合衆国は現代世界で最高の民主主義国であり」などと書いている。S・P・ハンチントン『第三の波――20世紀後半の民主化』三嶺書房、1995年、序文ixページおよび29ページ。もっとも、こうした価値コミットメントとは別に、彼の「民主主義」定義は手続き的定義に徹した、それなりに一貫性あるものであり、その所論にもいくつかの示唆的な問題提起が含まれている。それをどのように批判的に摂取するかは別に検討しなければならない(なお、ハンチントンはこの本では「全体主義」の語をほとんど使っていない)。
(20)『大原社会問題研究所雑誌』436号、1995年3月掲載の書評、および岡田裕之「ソ連史における全体主義論について――訂正と補論」『経営志林』第32巻第1号(1995年)11−24ページ(引用個所はページ)。
(21)リンス、前掲書、253−274ページ参照。
(22)『ソ連』第X章、Y章の他、同書191ページ注7に挙げた一連の拙稿などで、旧ソ連諸国の権威主義化傾向を指摘した。もっとも、事態が流動的であり、また一定の歯止め要因もあるので、「権威主義体制」と断定的に書くことは避け、「権威主義化の傾向」とか「権威主義的な統治手法への傾斜」といった、含みのある表現をとってきた。
(23)リンス、前掲書、第4章。
 
 
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