富田武『スターリニズムの統治構造』を読む
 
塩川 伸明
 
 
 ペレストロイカおよびソ連崩壊に伴う資料公開度の飛躍的向上が着実な歴史研究の基礎条件を大幅に拡大していることは、今更いうまでもない。ただ、注意しなくてはならないのは、原資料というものは、一つ一つをとれば退屈な文書の膨大な集積であり、その粘り強い咀嚼作業抜きに、短時間でセンセーショナルな発見をもたらすものではないということである。あたかもショッキングでセンセーショナルな発見がなされたかのように大宣伝している著作がもてはやされる傾向も一部にあるが、それは、以前から分かり切っていたことを確認して、さも新発見であるかのように装っているものがほとんどである。その意味で、ソ連崩壊は、俗悪な「きわもの」をはびこらせるきっかけにもなっているという憂鬱な状況があるのである。
 そうした中で、時間をかけて丹念にアルヒーフ文書を読み込んで、手堅い歴史研究を進めようとする努力の先頭に立ってきた人たちのひとりが著者であり、先に著わされた奥田央『ヴォルガの革命』に続く画期的な成果である。奥田が地方レヴェルの農業政策の履行を丹念に跡づけたのに対し、富田は共産党中央委員会政治局の関連文書を広く検討し、中央レヴェルの政策決定のメカニズムに迫ろうとしている。その意味で、両書は対照的でありつつ相互補完的にもなっている。
 
T 本書の構成と狙い
 
 本書は本格的な実証研究の書であると同時に、1930年代ソ連についての概観的叙述も与え、専門家以外の読者にも読みやすいものとなっている。とりあげられている論点も広汎にわたり、視野の広さを感じさせる。この点は本書の大きな長所である。ただ、逆にいうと、やや総花的な印象もあり、議論が十分絞り込まれていないという観もないわけではない。また、アルヒーフの調査によってはじめて明らかになったことと、以前から公刊文書によって解明可能だったことの区別も、必ずしも常に明確にはなっていない。
 本書の構成をみると、先ず第1章は1930年代全体を概観した通史的叙述であり、全体への導入部としての意味をもっている。要点を押さえた手際よい概説であるが、啓蒙書的な色彩もあり、モノグラフの一部としては多少の違和感がある。第2章は政治局をはじめとする党中央機関の活動の実態をアルヒーフ資料に基づいて解明したもので、本書の中で最もオリジナリティーのある部分である。第3章と第4章はそれをうけた各論であり、かなりの部分が旧稿をベースとしつつ(特に第4章)、アルヒーフ資料によって補強・改訂するという形で書かれている。こうして、第1章の概観を導入部として、第2章は機構論、第3章は政策論、第4章は政治意識論として組み立てられた書物とみることができる。
 著者は序言でソ連正統史学と全体主義論を批判し、どちらにも政策決定過程の分析という問題意識がなかったと述べて、このような研究状況は史料状況によるところが大きいという。この指摘には一応賛同できるが、研究視角と史料状況とは一対一的に対応するものではない。史料的制約が大きい状況の中でも相対的に的確な視角をもつことのできていた作品が皆無ではなかった反面、冒頭に述べたように、「新史料を利用した」という宣伝のもとで「きわもの」が跋扈しているという状況を考えるなら、この点はもう少し注意深い書き方をしてもよかったろう。
 本書の課題も序言で説明されており、3点が挙げられている。第1に、30年代政治史のダイナミクスを描くこと、第2にトップ・レヴェルの政策決定メカニズムを解明すること、第3にハイ・ポリティクスのみならず政治社会の底辺や周辺の像に迫ること、の3つである。そこで、以下では、本書の構成から離れ、この3つの柱に沿って検討してみたい。著者自身の整理とは異なった形で議論をまとめるので、整理の仕方がやや恣意的になることは予め断わっておかねばならない。
 
U 政治史のダイナミズムの解明
 
 「30年代政治史のダイナミズム」という言葉で何が念頭におかれているかは、必ずしも明確ではない。前述したように、第1章はこの時期のソ連政治史の流れ全体を一通り概観しきったという点で意義があるとはいえ、基本的には常識的な叙述である(この章ではアルヒーフ資料は断片的に紹介されるにとどまり、特に新しい発見はあまりない)。そこで、ここでは、全体像はさておき、いくつかのソ連史把握上の重要問題をとりあげて、著者の叙述を検討してみたい。
 先ず、「民主主義」「民主化」とスターリニズムの関係について考えてみたい。本書には、「民主主義」「民主化」とスターリニズムとを対置した感じの叙述が各所にあるが、そこにおける「民主主義」とは何を意味しているのかが気になる。今日のわれわれの考える「民主主義」を前提するなら、それとスターリン体制とが相容れないことは、あまりにも明白である。しかし、歴史に外在的な価値観を押しつけるのではなく、歴史に内在しようとするなら、当時の文脈で「民主主義」とは何を意味していたのかを考える必要がある。そのように考えるなら、当時における「民主主義」とはまさにスターリニズムの一つの側面だったのではないだろうか(1)。例えば、「スターリン外交と、反ファシズム人民戦線運動との矛盾」というような記述がある(45ページ)。もし人民戦線を、ファシズムと「ブルジョア民主主義」を区別して相対的に後者を支持するものととるならば、スターリン外交にとってそれが一時的な手段でしかなかったことは明白である。しかし、この時点ではまさにスターリン外交にとって手段的な意義があったからこそ人民戦線戦術がとられたのであり、そのことを「矛盾」と評するのは理解しがたい。あるいは、諸国における人民戦線運動がソ連外交の思惑と必ずしも合致しなかったということを指しているのかもしれないが、ある狙いで組織され始めた運動がその狙いとは異なった志向の人々をも引きつけるのはごく当然のことであり、そのことをもって「矛盾」ということはできない(強いていうなら、人民戦線に引きつけられた大衆運動の内部の矛盾であろう)。
 ブハーリンが憲法改正の「法理論的含意を察知し、自然法的権利観を示唆」したという記述(52ページ)にも、同様の疑問を感じる。「察知」という表現は、それが客観的に正しい認識だったという判断を含意するかのようだが、どうしてそのようにいうことができるのだろうか。ここにも、ある種の「民主化」の努力をスターリニズムに対置して想定したいという発想があるように思われてならない。別の個所で、和田春樹の30年代ブハーリン論(2)に肯定的に言及している(307ページ)ことから察するに、和田のブハーリン解釈に依拠しているのかもしれない。しかし、私見では、この和田論文は、ブハーリンその他若干の人物の中にスターリンとは違った志向をもつ人を見出したいという主観的願望に彩られた、きわめて恣意的な解釈に基づくもので、和田の数多い作品の中でも特に強い違和感を引き起こすものである。このような例によってスターリンと区別される「民主主義」の担い手を探し出そうというような試みは、いい加減にやめた方がよいのではないだろうか。
 163-164ページでも、「党内民主主義」と「警戒心」キャンペーンが対立的にとらえられている。しかし、まさに「党内民主主義」の名においてテロルが実現された点にこそ、スターリニズムの特異性があったのではないだろうか。「党内民主主義を逆手にとって」というのは説明不足で意味不明だが、先ず本物の民主主義(の志向)があり、次いでそれを政治指導部がねじ曲げて利用した、というニュアンスが感じ取られる。だが、そのような関係が立証されているとは思えない。
 時代像の全体的規定にかかわるもう一つの個所として、「『テルミドール』(トロツキー)、『大後退』(ティマシェフ)という評価はミス・リーディングだといわねばならない」という記述がある(58ページ)。およそいかなるレッテルも不可避に単純化を含み、もしそれを額面通りにとるなら「ミスリーディング」だということは当然である。しかし、ある側面に着目して一定の単純化をすることは、然るべき配慮さえ伴っているなら、悪いわけではない。問題は、その図式化がどの程度の射程距離をもつのか、そこで捨象されるものにどのような意義を認めるかといった点にある。そうした点を議論せずに、ある図式やレッテルを「正しい」とか「間違っている」とすることはできない。ここで著者は、どういう意味でトロツキーなりティマシェフなりに反対しているのか、はっきりしない。
 私見をいえば、「テルミドール」の方はフランス革命とのアナロジーが強すぎる上、「反革命」というニュアンスがあり、独特の政治的立場と強く結びつけられているので、避けた方が無難だろう。他方、「大後退」の方は、より曖昧である分、解釈の余地が広く、解釈如何で有意味にもなればナンセンスにもなる。1930年代後半にも国家主導での社会改造という趨勢が持続していることを見落として、「変革から後退へ」という図式ですべてを括ってしまうのが単純化に過ぎることはいうまでもないが、イデオロギーの内容に関する限りは、初期の熱狂が「後退」し、保守化したという指摘は一面の真実をついている。ソヴェト政権は「変革」「進歩」を掲げた政権であり、文字通りの意味での旧秩序復帰を実現するはずもないが、36年憲法採択時の社会主義建設完了宣言で、新秩序建設――いわば生産関係レヴェルにおける変革――はほぼ完了したとみなされ、以後は、その社会秩序を維持・強化し、生産力レヴェルでの「進歩」を実現することが課題とされるようになっていった。こうした秩序重視の時代状況の中で、革命前ロシアの伝統的な価値の要素もまた、部分的にではあるが吸収され、利用されるようになった。その意味で、「大後退」というレッテルは大まかな特徴付けとしてであれば、あながち否定するには及ばないのではなかろうか(3)
 結語では、「国家的動員・後見体制」という規定が打ち出されている(321ページ)。それ自体には賛成できるが、「動員」と「後見」の相互関係をどうとらえるかという問題が残る(4)。著者によれば、「動員」と「後見」は表裏一体だが、第1次5カ年計画の熱狂が冷めるとともに「後見」に比重が移り、更に戦後まで展望すれば「動員」の可能性はフルシチョフ前期で汲み尽くされ、「国家的後見体制」たるブレジネフ時代に至るという。結論自体には賛同できるが、「表裏一体」でありながら、時期によって重点が移行するということの論理的連関は更に詰める余地があるだろう。なお、「後見」とはパターナリズムの訳と思われるが、従来、しばしば「温情主義」という訳語が用いられてきた。どちらがよいかはさておき、ともかくそういう言葉で従来も多くの人によって論じられてきた(コルナイ、佐藤経明、筆者など)ということを断わっておくべきだった。
 
V トップ・レヴェルの政策決定メカニズム
 
 第2の課題たるトップ・レヴェルの政策決定メカニズム解明は、主に第2章で扱われているが、本書の3つの課題の中では最も手堅く、最も成功している。何といっても、政治局関係文書を読むことは、中枢のメカニズムを考える上で重要な材料を提供している。もっとも、結論自体はそれほど驚天動地のものではない。著者が主として依拠した政治局会議議事録というものは、正規の議題および決定を記録するのみで、討論の内容までは分からない。議事録に付随する「特別ファイル」は、議事録本体よりは内容豊富だが、それでも討論の実態を明らかにしない点では同様である。その意味で、やや物足りないという印象を受ける読者もいるかもしれないが、今後の研究のための貴重な礎石となるものである。
 
〈政治局の役割〉
 著者によれば、政治局会議の出席者は政治局員(およびその候補)だけではなく、中央委員(およびその候補)、中央統制委員会幹部会員なども含み(但し、地方在住者の出席は稀)、60-70名の規模にのぼり、1回の議題の数は20から40にのぼった。1932年までは10-20人からなる小規模会議と拡大会議とが交互に開かれていたが、33年からはほぼ拡大会議のみになったという(107ページ)。
 こういうことから考えるなら、真の「奥の院」は正規の政治局会議ではなく、もっとインフォーマルな数人の会合だったのではないか――少なくとも、専ら拡大会議として開かれるようになった1933年以降については――という気がしてくる。レーニンの晩年に形成された「3人組」(スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)以来、政治局内の少人数の非公式会議が実質的な「奥の院」をなしてきたらしいことは、古くから論じられてきた(もっとも、資料的な基礎は薄弱だったが)。最近のある書評論文は、1923年4月12日の政治局決定により、官庁指導者が極秘の問題について政治局に提案を行なうときには、その理由を文書の形で提出することはせず、書記局との事前相談によって行なうと定められたこと、また最重要の決定は正規の指導機関によってではなく少数の指導者会議でなされたが、そうした会議は速記録も議事録も残さなかったといった事実を挙げて、政治局資料(「特別ファイル」を含む)のみに依拠することの限界性を指摘しているが、この批判は本書にも当てはまるように思われる(5)
 こうした限界は、著者も意識していないわけではない。それを補う意味もあって、116‐126ページでは政治局小委員会の活動を論じている。ここで紹介されている一連の小委員会は、従来ほとんど知られていなかったもので、本書の中でも特に興味深い部分である。ただ、気になるのは、ここで取り上げられている、いわば公式に設置された小委員会と、非公式に事実上存在した「3人組」や「7人組」との関係である。後者は政治局小委員会の一種のようにもみえるが、特定の政策領域に関して明示的な委任をうけた存在ではなく、むしろあらゆる領域にわたる最重要決定についてスターリンの相談を受ける存在という役のようであり、その意味では前者とかなり性格を異にする。116ページに、小委員会には常設のものとアドホックなものとがあったと説明されているが、常設の中でも、任務が狭く特定されているものとより包括的なものとの差があったのではないか。1937年4月に外交・軍事・治安関係と経済関係の2つの常設小委員会が設置された(92,129ページ)のは、「5人組」の公式制度化であるようにもみえるが、明確な説明はない。
 129ページには、そうした最高指導部の非公式会議が「インスタンツィヤ」と呼び慣わされていたことが指摘されている。この用語法はこれまで断片的に知られていたが、その実態は十分明らかでなかった(6)。その点に迫ったのは本書の功績である。ただ、そうした非公式会議の存在は、依然としてフルシチョフ秘密報告に主に依拠して叙述され(それ以外の資料における言及は、そうしたものが存在することを暗に前提した上での用例であり、存在自体の詳しい説明はないようである)、正確な位置づけはなお不明である。おそらく、これを資料に基づいて解明するのは、今なお極度に困難であり、本書がそこまで立ち入っていないのはやむを得ないのだろうが、断片的なことはこれまでも知られていた以上、問題の所在はもう少し明確に指摘されてもよかったのではないか(7)。 
 「奥の院」を探るもう一つの手がかりとして、スターリンの側近たちの政治局会議への出席頻度、およびスターリン執務室の訪問頻度の統計が紹介されており、これも非常に貴重なデータである(127,128ページ)。スターリンと会う頻度でモロトフとカガノヴィチが群を抜き、この2人にもう2人(1934-36年ではヴォロシーロフとオルジョニキーゼ、37年から38年にかけてはオルジョニキーゼに代わってエジョフ、そしてエジョフ失脚後はジダーノフとベリヤ)を加えた4人が「側近中の側近」だったという結論自体は、それほど驚くべきものではないが、これまで漠然と想定されていたイメージをより確実なものにしてくれる。スターリンにこれらの人物を加えたのが「インスタンツィヤ」の実態だろうという推測も納得できる。スターリン執務室で何が話しあわれたかまでは分からないという意味で隔靴掻痒の感が残るが、ともかく、こうした点は、今後の着実な研究への基礎としての意味をもっている。
 
〈指導部内対立問題――その一〉
 本書では全体として、指導部を一枚岩的にとらえる見方への批判に重きがおかれている。この論点は、これまでも全体主義論批判という文脈で多くの論者によって取り上げられてきたものであり、それだけみるならば、必ずしも新しいものではない。問題は、「対立があった」ということそれ自体ではなく、そのことの意義付けにある。では、本書では、どのような意義付けが行なわれているだろうか。
 4ページでは、「30年代前半における政治局内の意見の相違、対立は『穏健派』対『急進派』のグループ対立ではなく、むしろ省庁的利害を反映したものであった」というフレヴニュークの見解を、共感をこめて紹介している。これに対し、178ページでは、「一貫した急進論者と穏健論者の存在を浮き彫りにしたい」という。前者は30年代前半、後者は30年代後半にかかわるから、必ずしも矛盾とはいえないが、少なくとも方向性としてはかなり異なるのだから、もっと掘り下げて議論する必要があろう。私見では、 急進論者と穏健論者の差は、ある程度まではいえるにしても、それほど「一貫した」ものといえるかは疑わしい。これに対し、「省庁的利害」の方は、より摘出しやすいが、それが最高指導部レヴェルにどのように反映されるかは微妙であり、ストレートな対応がいえるとは限らない。
 官庁間対抗の問題の例としては、第2次5カ年計画およびその初年たる1933年の工業成長目標をめぐる対抗が挙げられる。この点に関し、著者は「建設の原価引き下げをはかるゴスプラン(クイブィシェフ)およびインフレを抑制しようとする財務人民委員部と、投資拡大をめざす各人民委員部、とくに重工業人民委員部(オルジョニキッゼ)」の対立があり、「スターリン、モーロトフが前者を支持した」、そして「第17回党大会では、妥協的な16.5%という統制数字が採択された」としている(46ページ)。この文章には舌足らずで分かりづらいところがあるが、それはさておき、この説明はやや単純化に過ぎる感じがする。
 引用文にみられるように、著者は、ゴスプランと重工業人民委員部という官庁間の対抗と、それぞれの長たるクイブィシェフとオルジョニキーゼの対抗とを重ね合わせて理解しているようである。ここで著者が依拠しているのはデイヴィスとフレヴニュークの論文であるが、元の論文を読むと、もう少し微妙な書き方をしており、本書にあるとおりのことが論証されているわけではない(8)
 推測を交えた私見を述べるなら、〈ゴスプラン・財務人民委員部が慎重論、工業管理の各人民委員部が高成長論〉という構図になるのは、官庁利害からして自然だが、そのトップに立つ指導者――ゴスプランのクイブィシェフ、重工業人民委員部のオルジョニキーゼ――となると、その立場はより微妙である。一面で自らの率いる官庁の立場を代弁しながらも、他面では、最高政治指導部の一員として、自官庁の主張を抑制する側に回ることもあるからである。それはスターリンに押し切られたからということもあるだろうし、そうではなくて、「大所高所の見地からみて、あまり自官庁の立場にこだわるべきでない」と自発的に判断することもありうる。デイヴィスとフレヴニュークの論文によれば、1933年のクイブィシェフはゴスプランの慎重論を離れてテンポ引き上げに賛成しているし、逆に第17回大会におけるオルジョニキーゼ発言は下部の工業担当者のテンポ引き上げ論を抑えて成長率引き下げを説いている。本書63ページの注40には、「オルジョニキッゼが折れて」とあるが、少なくとも表面的な構図としては、この時期におけるクイブィシェフとオルジョニキーゼは攻守ところを変えて、〈クイブィシェフ=高成長論、オルジョニキーゼ=低成長論〉という形になっているのである。
 もう一つ押さえておかねばならないのは、投資額の問題と工業生産成長率の問題とは同じではないということである。確かに、デイヴィスとフレヴニュークの論文によれば、ゴスプランは一貫して双方を引き下げようと努めていたようであり、それは官庁の立場上自然なことである。しかし、工業管理担当者の側からすれば、投資の引き下げは非常に困ることであるのに対し、工業生産成長目標引き下げは、威信にはかかわるとしても実質的には任務を軽くしてくれることでもある。実際、第17回党大会における第2次5カ年計画修正は、成長目標のみを引き下げ、投資はそのままにしているのであって、これは工業官庁にとって比較的受けいれやすい変更といえる。この点から考えても、オルジョニキーゼが折れたという評価はうなずけない(9)。ともかく、官庁間の対立が比較的あとづけやすいのに対し、最高指導部レヴェルの対抗関係は、たとえ存在したとしても前者を単純に反映するものではないだろう。
 
〈指導部内対立問題――その二〉
 次に、政策論争の問題を最も集中的に論じた第3章第1節をとりあげてみよう。ここで著者は、3つの論点(エムテエス政治部、スタハーノフ運動、「敵」の認識と党の役割)をとりあげて、様々な人物の発言の微妙なニュアンスの差をとらえている。それはよいとして、問題は、そこにおける対抗関係をどうとらえるかである。本節の冒頭に、「一貫した急進論者と穏健論者の存在を浮き彫りにしたい」とある(178ページ)ことは先に触れたが、本節第3項の叙述は実際にはそれを裏切っているように思われる。それによるならば、スターリンはある時期までエジョーフ路線に歯止めをかけていたが、その後「エジョーフ路線をほぼ採用する」(201ページ)。そうなると、誰もこれに対抗できなくなる。唯一の抵抗の論理は、「階級闘争の行き過ぎは経済活動を損ない、経済を破局に陥れるという論理しかない」が、「かかる論理を用いるのはスターリンの方であった」(203ページ)。こうして、37年4月28日のドンバス決議(10)、38年1月総会へと至る。
 このような叙述から浮かび上がるのは、「一貫した穏健派」など存在せず、むしろスターリンこそが、巧妙な手綱さばきで、あるときは「警戒心」キャンペーンを煽り、あるときはそれを抑制するという態度をとっていたというイメージである。確かに、本書は、一部の指導者たちの発言における微妙なニュアンスの差をとらえて、エジョフシチナの行き過ぎに危惧を示した人がいた可能性を示唆しており、これはこれで貴重な指摘である。しかし、先に触れた官庁間利害対立の問題を思い起こすなら、内務人民委員部は「敵」の摘発拡大に利害をもつ官庁であるのに対し、他の官庁は自官庁から多数の人材を奪われるのは当然痛手であるから、この点でのニュアンスの違いは「穏健」「急進」というよりは「官庁間利害対立」の一例とみられなくもない。それに、テロルの過度の拡大に対する危惧はスターリンも百も承知であり、それ故に彼のイニシャチヴでテロルが収束していくというのが、少なくとも本項から浮かび上がる構図である。
 それと関連して、「少数ながら、テロルに抵抗する者も存在した」(81ページ)という書き方も気になる。当該個所で紹介されているような事実への注目自体は重要だが、「抵抗」とはどのような意味で、どのような範囲でかということをもっと明確にさせるべきではないだろうか。叙述されている限りでみると、「抵抗」とはいっても、大量に忍び込んでいる「敵」を摘発せねばならないという基本的発想そのものについてではなく、具体的な個々の例について、「あの人はそうではない」という形での擁護であるようにみえる。もちろん、そのような擁護でさえも多大の勇気を要しただろうから、決してどうでもよいようなことではない。ただともかく「抵抗」ということの意味をもう少しはっきりと限定しないと、誤解の余地があるだろう。なお、内田健二は、「古参ボリシェヴィキの一部に、大量弾圧への『抵抗』とまではいかないにせよ、『ためらい』ないし『消極姿勢』があったという仮説」を提起している(11)。「仮説」にとどまるとはいえ、「抵抗」と「ためらい」ないし「消極姿勢」を区別する視点は興味深い。
 
W 底辺および周辺の像――「社会史」の視点
 
 政治史を本領とする著者が「底辺や周辺の像」をも視野に入れた意欲は多としたい。とはいえ、著者自身、「社会史研究の著作ではな」いというように、部分的な解明にとどまっている。一つの本でここまで課題とするのは、やや欲張りすぎたのではないかという気もする。
 先ず、本書の第4章を通して、大衆の政治意識の解明という課題について考えてみよう。なお、この章は2節とも、旧稿に基づきつつ、それをアルヒーフ資料で補強している(12)。そのこと自体はよいが、アルヒーフ利用によって旧稿の認識がどの点で新たにされたかが論じられるべきだったろう。全体的印象としては、旧稿よりもある程度詳しくなったものの、とりたてて認識が改められた点はあまりないような気がする。
 さて、スターリン体制下における「世論」・政治意識という論点の重要性はいうまでもない。結語で、「大衆の側からの同調、支持、あるいは無関心の構造を分析することの重要性」がいわれている(319ページ)のにも賛同できる。だが、その課題を果たすには、大衆の意識とその政治的操作の関係という難問をもう少し突き詰めて考える必要があろう。例えば憲法の全人民討議の中で警戒心が強調されたり、市民の権利に関して抑制的な意見が表出されたり、スターリン崇拝が煽られたという指摘は重要だが、それがどこまで「自然な」声の発露なのか、あるいはむしろ「やらせ」ではないかという点は、これだけでは確定できない。ソヴェト体制下の「大衆の声」(らしきもの)をすべて「やらせ」に違いないと断定するのはもちろん乱暴な議論だが、だからといって、それがないと言い切ることもできない。公的見地と合致しない意見の表明は、それが間違っているという説明を与えるためのきっかけとしても十分利用されうるからである。
 もっとも、たとえそのようなものだとしても、投書者自身は真剣に考えた上での本音を書いたのかもしれないし、その表現形式のうちに当時の人々の心性や無意識の議論の枠が反映されているということもある。その意味では、「やらせ」だから無意味だということになるわけではない。そうした素材も、読解の仕方如何によっては新しい発見を導く可能性がある。ただ、それは、結論のみに注目して、それが公的政策と合致するか否かを基準とする――そして合致しなければ「自然な」声だとみなす――のではなく、むしろ表現の仕方や暗黙の前提に注目するレトリック解読法が必要とされるだろう。本書では、そのような作業がなされているわけではない。
 もう一つ考えるべき点は、紹介されている「民衆」の声が、どのようにしてわれわれに届いたのかということである。新聞に掲載された投書は、たとえ体制の公的見地と合致しない要素を含んでいても、編集部が掲載を決定したものである以上、「ガス抜き」とか「やらせ」といった考慮が働いていた可能性を否定しきれない(特に、それが「権威の高い」中央紙である場合)。これに対して、当時は掲載されなかった投書がアルヒーフに保管されていた、あるいは最近のロシアの資料集に公表されたというような場合には、その可能性は比較的小さい(もっとも、この場合も、例えば内務人民委員部の活動家は、その組織利害によって、「反革命的」な声の採集に熱意を傾け、そこに一定のバイアスが作用するといった要素を考えねばならないが)。本書には、その双方が紹介されているが、こうした点を考慮するなら両者の性格の違いをもっと明示的に論じるべきだったろう。
 「社会史」にかかわるその他の若干の問題にも簡単に触れておきたい。労働と経営にかかわる部分では、全体として、経営への視点が乏しい。例えば、労働規律への言及(91ページ)やスタハーノフ運動についての分析(197ページ)の中で、労働者に対しての厳しさが専ら問題とされ、経営者に対しての厳しさという点が言及されていない。私見では、現場経営者は、労働者に対して厳しい規律政策を法文通りに実行しない傾向があり(一つには労働力不足のため、またもう一つには、経営上の自立性がない以上、あえて合理化や規律強化を推し進めるインセンティヴがほとんどなかったため)、中央指導部は労働規律政策の履行を回避する経営者の責任を厳しく追及したが、そうした側面を押さえないと、国家・経営・労働関係の構図が明瞭にならない。
 教育問題についていうと、通常の政治史では見落とされがちな教育の問題に目を向けたのは大いに意味がある。ただ、ざっとみた印象では、先行研究に付け加えるものはそれほどない。小さな点だが、ロシア共和国の識字率についてポリャコフらの1981年の著作に依拠して書いている(36-37ページ注43)が、孫引きのために、元の本の誤りをそのまま引き継いでしまっている(ロシア共和国についての数字は実はウクライナに関する数字)(13)。宗教問題を取り上げた(265,269-271ページ)のもよいが、部分的に不正確な個所がある。
 家族関連法をめぐる人民討議を扱った個所(272-276ページ)もおもしろいが、ここではアルヒーフ資料は使われていない。従来からも若干の研究のあったテーマだが、それは踏まえられていない。紙幅の都合という理由で「中絶の是非」論に絞った紹介をしているが、妊娠中絶の禁止が多くの女性にとって過酷な内容をもつのに対し、離婚手続の厳格化、養育費不払いに対する刑事罰強化、多子家庭への援助などは多くの女性にとって歓迎される面をもっていたから、どの論点をとりあげるかによって同じ法への評価が変わってくる点が注意されるべきだった。また、本書では触れられていない点だが、中絶禁止法の効果をみると、翌37年には出生率が上昇したが、38年以降は、おそらく闇中絶が増えたため、出生率はまた低下に向かっている。政治に掌握され切らない社会の領域をみようとするなら、『プラウダ』に掲載された投書などに注目するよりも、むしろこうした点に目を向けるべきではないだろうか。
 
X 資料とその公開の問題をめぐって
 
 各種資料の公開のあり方を分類するなら、@当時から公表されていたもの、A当時のソ連では公表されなかったが、各種のルートで以前から欧米に伝わっていたもの、Bペレストロイカ期およびソ連解体後の「歴史の見直し」の中で公表されたもの、C今なお未公開で、ロシアのアルヒーフ文書に当たらねばみられないもの、といった風に分けられる。
 また、原文が知られていたかということとは別に、間接的資料によりおよその見当がついていた事柄と、そのような見当さえもつかなかったものの違いもある。ソ連解体後の新しい研究が明らかにしている史実の大半も、これまでのところ、管見の限りほとんどが前者に該当し、本書においても同様である。もちろん、原資料に即した歴史研究というものが気の遠くなるほど長期の作業を要することから考えれば、それは当然のことであり、とがめるべきことではないが、ともかく「発見」ということの意味を明確にしておく必要がある。こうしたことを考えるなら、アルヒーフを調査してある資料を見つけたという場合、それぞれがこれらのどれに該当するかを区別することが望ましい(もっとも、ペレストロイカ期以降の新資料公開はあちこちに分散して行なわれているので、そのすべてに当たるのは非常に困難であり、見落としがあるのはやむを得ないが)。
 以前はスモレンスク・アルヒーフでしか知られていなかったが、ペレストロイカ期にソ連でも公表されたものの例として、「大テロル」の火蓋を切って落とした1936年7月29日の中央委員会秘密書簡がある。これについて、本書は「政治局ではまったく検討されなかったようで、議事録にも同『特別ファイル』にも記録されていない」(94ページ注7、また149ページ注100)、「スターリンがエジョーフら側近数人と相談して決定したに相違ない」(135ページ)と書いている。「記録されていなかった」という事実自体が注目に値する発見である。このように重要な文書が政治局で正規に取り上げられていなかったとしたら、当時の政治局とはいったい何だったのかという疑問を提起するからである。
 以前から国外ではよく知られていた情報のもう一つの例として、ヤゴダ更迭に関するスターリンとジダーノフの電報(1936年9月25日)がある。これはフルシチョフのスターリン批判演説に引用されており、この秘密報告のアメリカ国務省版は古くから世界中に知られていたが、ソ連では長らく非公開であり、ようやくペレストロイカ期に『党中央委員会通報』誌に公表されたのは周知の通りである。著者も、この電報については、フルシチョフ報告に依拠している(73,134ページ)。そこで気になるのは、フルシチョフの記述が他のアルヒーフ資料によって裏付けられたり、修正されたりするのかどうかという点が検討されていないことである。フルシチョフ秘密報告は有用な情報を多数含むとはいえ、部分的には不正確な個所もあり、すべてを信用できるとは限らない。また、フルシチョフ報告が正確だとしても、それが政治局関連資料からは確認できないとしたら、こうした資料類は一体どこに保管されていたのだろうかという疑問もわく。
 1933年5月8日のスターリン・モロトフ秘密訓令(49-50ページ)について。この訓令は、奥田央も『ヴォルガの革命』で同じアルヒーフから紹介しているが、実は、スモレンスク・アルヒーフにあるため、欧米では古くから知られており、日本語文献としては、私がいまから十数年前に詳しく紹介したことがある(14)。今さら、こと改めて紹介する必要のあるものではない。
 政治局が「党中央委員会決定」あるいは「人民委員会議・党中央委員会決定」と称する決定を採択した場合、当時公表されたものとそうでないものとがある。ところが、著者は、「人民委員会議・党中央委員会決定」はすべて当時公表されたと思いこんでいるらしいふしがあり、たいていの場合にそう書いている。例えば、テロル収束をはかる1938年11月17日の決定について、「人民委員会議・党中央委員会決定として公表」とある(82ページ。どこに公表されたかは注記されていない)。しかし、この決定は秘密決定であり、私の知る範囲内では、1992年に初公表されたものである(15)。1938年3月13日のロシア語教育義務化決定についても、「党中央委員会・人民委員会議決定として公表」とある(88ページ)が、実際には公表された形跡がない。内容的には古くから知られており、様々な文献に言及されている有名な決定だが、テキストそのものを紹介したり、直接の典拠を示した文献は、私の知る限り一つもない(16)
 以上では、本書が「公表された」と書いているのに実は公表されていなかったものをいくつかあげたが、逆に、公表済みだったのに本書がそのことに言及していないものもいくつかある。必ずしも見落としたということではなく、気づいていながら単に省いたものもあるだろうが、資料公開の進展度ということが本書の一つの大きなテーマである以上、できる限り詳しく言及し、必要な場合には既刊資料と新発見資料との突き合わせを行なうことが望ましい。例えば、1930年1月30日の有名なクラーク絶滅決定のテキストは、ようやく1994年になってロシアの歴史雑誌に発表された(17)。本書では、144ページの注45に適切に指摘されているが、本書の初出個所(25ページ)でそのことに言及すべきだった。公刊された資料であるにもかかわらずアルヒーフのみから紹介している例は他にもいくつかある。
 その時点で公表されたのに、そのことがあまりよく知られていなかったような決定の例として、キーロフ暗殺直後の有名な法令がある。これは新聞にも公式法令集にも公表されたのに、従来、多くの研究者はフルシチョフ秘密報告における要約に依拠してきた。著者の場合、当時の新聞に速報として要約が載ったことに注目しているのはよいが、その翌日号に決定正文が載ったのを見落としている(65ページ注62)。なお、この決定について、「中央執行委員会幹部会決定として公表された」としているのは不正確である。確かに、著者が注であげている新聞記事は「幹部会で」と題されている(18)。しかし、そこで採択されたのは、名目的には「幹部会決定」ではなく「中央執行委員会決定」である(政治局が「中央委員会決定」を採択するように、中央執行委員会幹部会が「中央執行委員会決定」を採択するのは驚くに当たらない)(19)
 従来の研究および資料状況との関係でもう少し深く掘り下げるべきだった論点の例として、国際連盟加入および東欧ロカルノに関する叙述(41ページ)がある。従来のソ連文献では、33年12月12日の集団安全保障に関する党中央委員会決定が「歴史的な決定」とされ、またそれを具体化する計画を外務人民委員部が策定し、その計画が12月19日あるいは20日に政治局の承認をうけたとされている。そして、12月12日決定のテキストは公表されておらず、19あるいは20日に承認された計画の方はかなり詳しく紹介されていた、というのがこれまでの資料状況だった(20)。第2の決定の日付が19日か20日かという点は、従来のソ連文献で混乱があり、本書によって19日であることが確認された。その点は本書の功績であるが、12日決定の内容は依然不明であり、それと19日決定との関連も不明なままである。19日決定の概要はこれまでも紹介されてきたということを念頭におくと、従来の資料状況に本書が何を付け加えたのかがはっきりしない(21)
 
おわりに
 
 やや細部にわたって、かなり多くの注文を付けてしまった(他面では、紙幅の関係で、本書の中で大きな位置を占めている地方党組織の位置づけや党=国家関係の問題をはじめとする多くの論点を省かざるを得なかったが)。しかし、そうした注文を付けたくなるのも、本書が資料に密着した本格的な歴史研究であればこそである。本書を出発点として、スターリン時代に関する実証研究が進展することが期待される。
 
−注−
 
(1)この点に関する私見については、塩川「盛期スターリン時代」田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編『世界歴史大系・ロシア史』第3巻、山川出版、1997年、211-221ページで述べたので参照されたい。なお、この論点に関し、著者は「『スターリニズムの統治構造』書評後の感想」(ソビエト史研究会会報、1997年6月)で、合評会における私の発言への回答を提出している。ごく短い非公式の文章なので、ここで再反論するのは控えるが、この回答を読んでも私の疑問は解消されなかったことを記しておく。
(2)和田春樹「ソ連における反ファシズムの論理」東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会』第8巻、東京大学出版会、1980年。
(3)なお、コトキンは、英文で書かれたほとんどすべてのソ連史教科書は「大後退」論に則っているとの誇張に立って、土地や生産手段の私的所有が復活しなかったのだから「後退」とはいえないとしている。これは「大後退」論を極度にカリカチュアライズした上での批判である(一体、誰が私有の復活がなかったのを知らないというのだろうか?!)。彼は続いて、ナショナリズムや家族の復権は「社会主義建設の課題から社会主義擁護へ」という戦略的重点移行によると述べているが、これはまさしく、本文で記した「大後退」論(そのありうべき種々の解釈のうちの有意味なもの)の主たる内容と重なる。コトキンは表口から追放したものを裏口から密輸入している観がある。Stephen Kotkin, Magnetic Mountain: Stalinism as a Civilization, University of California Press, 1995, pp. 356-357.
(4)この点については、内田健二の書評(『週刊読書人』1997年3月21日)も触れている。
(5)《Вопросы истории》, 1996, 11-12, с. 150.
(6)横手慎二「ソ連外交の『転換』」溪内謙、荒田洋編『スターリン時代の国家と社会』木鐸社、1984年、162-164ページ参照。
(7)前掲書評も、同様の指摘をしている。《Вопросы истории》, 1996, 11-12, с. 149-151.
(8)Р. Дэвис, О. В. Хлевнюк. Вторая пятилетка: механизм экономической политики. 《Отечественная история》, 1994, 3, с. 98-102.
(9)第17回大会における討論に関しては、かなり古いものだが、塩川「1930年代ソ連における政策論争に関する一試論」(1)『社会科学研究』第32巻第1号(1980年)、60-65ページ参照
(10)これについては、塩川『ソヴェト社会政策史研究』東京大学出版会、1991年、368-370ページ参照。
(11)内田健二「大テロルの一側面」『大東法学』第6巻第2号(1997年)、197-198ページ。
(12)富田武「大テロル前夜の政治状況――スターリン憲法の制定過程」溪内謙、荒田洋編『スターリン時代の国家と社会』木鐸社、1984年、同「ソ連のスペイン連帯運動と外交政策」スペイン史学会編『スペイン内戦と国際政治』彩流社、1990年。
(13)Ю. A. Поляков (Ред.). От капитализма к социализму, т. 2, M., 1981, с. 269, 271; 《Народное хозяйство СССР. 1922-1972 гг.》, M., 1972, с. 500, 516, 531, 556参照。なお、1959年センサス報告書にも同様の数字があげられており、細かく見比べるとわずかな違いがあるが、だいたい一致している。《Итоги Всесоюзной переписи населения 1959 года》. Сводный том. M., 1962, с. 88-89.ソ連解体直後に刊行された1939年センサス報告書では、9-49歳層と50歳以上層とに分けた数字があげられており、これも1959年センサスに引用されている数字とわずかに食い違うが大まかには一致する。《Всесоюзная перепись населения 1939 года》. M., 1992, с. 39-40.
(14)奥田央『ヴォルガの革命』東京大学出版会、1996年、573-574, 637ページ。塩川「1930年代ソ連における政策論争に関する一試論」(2)『社会科学研究』第32巻第2号、1980年、117-119ページ。
(15)《исторический архив》, 1992, 1, c. 125-128.また、《Московские новости》, 1992, 25 (21 июня), c. 19にも抜粋がある。
(16)このテキストについては、塩川「ソ連言語政策史の若干の問題」(北海道大学スラブ研究センター、重点領域報告輯No.42、1997年)で紹介した。
(17)《исторический архив》, 1994, 4, с. 147-152.
(18)《Известия》, 4 декабря 1934 г., с. 1; 《Правда》, 4 декабря 1934 г., с. 1.ついでながら、フルシチョフ秘密報告も、この要約記事を利用している。《Известия ЦК КПСС》, 1989,  3, с. 138.
(19)《Правда》, 5 декабря 1934 г., с. 1; 《Собрание законов СССР》, 1934, 64, ст. 459; 《Сборник документов по истории уголовного законгдательства СССР и РСФСР. 1917-1952 гг.》. M., 1953, с. 347.最後の文献では、どういうわけか「中央執行委員会・人民委員会議決定」となっているが、何かの誤りであろう。私自身、この文献に引きずられて、「盛期スターリン時代」、209ページでは「中央執行委員会・人民委員会議決定」と記してしまった。
(20)《История второй мировой войны 1939-1945》. в 12 томах. т. 1, M., 1973, с. 283-284; 《Документы внешней политики СССР》, т. XVI, M., 1970, с. 876-877; 《История внешней политики СССР》. т. 1, M., 1976, с. 308-309; 《История внешней политики СССР》. т. 1, M., 1980, с. 302-303(このうちの第2の文献については、本書の注でも言及がある); 横手慎二「ソ連外交の『転換』」、182ページなど。
(21)なお横手慎二は、中央委員会決定が先に採択され(12日)、次に政治局決定(19あるいは20日)があったという順序は異様であり、「いわれるところのスターリンの地位弱化という状況の産物なのかもしれない」としているが、これは当たらない。そもそも、「中央委員会決定」とは、「中央委員会総会決定」とは異なり、実質上は政治局が採択するものであるから、レヴェルを異にする2つの決定があったわけではなく、どちらも政治局が採択したと考えるべきである。つまり、12日の「中央委員会決定」も実質上は政治局の決定であり、19日の方は、それをうけた上で、それを更に具体化する第2の政治局決定と考えれば、少なくとも形式的には整合性があることになる(内容的に、第1の決定と第2の決定の間に差異があるか、もしあるとすればそれは何を意味するかなどは、第1の決定のテキストがはっきりするまでは依然として分からないが)。
 
 
北海道大学『スラヴ研究』第45号、1998
 
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