溪内謙先生を悼む

 

塩川 伸明

 

 二〇〇四年二月一三日、溪内謙先生が亡くなられた(享年八〇歳)。

 先生は一九二三年九月二日(関東大震災の翌日)生まれ。生い立ちについて詳しいことは知らないが、金沢のお寺の出身と聞いたことがある。一九四〇年、金沢第一中学校を四年で修了して、第四高等学校文科甲類入学。四高を二年半で卒業し(これは戦時中の繰り上げのせいだろうか)、四二年一〇月に東京帝国大学法学部政治学科に入学した。つまり、旧制高校に入ったのは既に日中戦争が始まった後の時期であり、大学入学時には太平洋戦争も始まっていたということになる。もう一まわり上の世代の場合には、旧制高校から大学生時代にかけて、「大正デモクラシー」の残り香のようなものに接したり、「危険思想」視されていたマルクス主義文献にもかろうじて触れる機会をもったりした人がかなりいたようだが、この時期には、もはやそれは不可能だったのではないかと推察される。

 大学に一年あまり在学した後の一九四三年一二月、舞鶴海兵団入団。海軍二等水兵、海軍主計見習尉官、海軍主計少尉、海軍主計中尉を経て、一九四五年一〇月に予備役となった。おそらくこれとともに復学したものと思われる。この海軍時代については何も聞いたことがない。

 復学から一年半後の一九四七年春に大学を卒業して、すぐ大学院に入学した。当初の専攻は行政学であり、師に当たるのは辻清明だった。同年九月に大学院を退学して、設立まもない東京大学社会科学研究所の助手となり、五一年四月までつとめた(もっとも、そのうちの大半の期間、病気療養を余儀なくされていたようである)。なお、当時の社研のスタッフには、憲法・行政法の鵜飼信成、ソヴェト法の山之内一郎らがいた。もともと行政学を学んでいた関係上、直接ついたのは鵜飼の方ではないかと思われるが、山之内とも接触があったようである。後の『ソビエト政治史』の「はしがき」の謝辞では、E・H・カーと辻清明を別格とした上で、「数々の御指導をいただいた故山之内一郎教授、鵜飼信成教授にも同様の感謝を捧げたい」とある。また、山之内が総編集者となった『ソヴェト法律学大系』という翻訳シリーズ(巌松堂)でも二冊の訳書を出している(ストデニキン『ソヴェト行政法』、デニソフ編『ソヴェト国家と法の歴史』)。余談になるが、二歳年下の藤田勇氏は、学徒動員の直後にシベリア抑留にあい、一九四九年に帰国・復学して、五二年に卒業してから社研助手になっているため、社研では溪内先生とすれ違った形になっている。この数年はわずかな違いだが、助手期間中にスターリンの死にあったかあわなかったかの違いがあるということになる。

 一九五一年五月、名古屋大学法学部助教授に就任。おそらく、名大での担当は行政学だったはずである。なお、『社会科学研究所の三〇年』というパンフレット(一九七七年刊)に元助手の一覧があり、助手論文も記載されているが、溪内先生については助手論文の欄が空欄になっている。病気のせいで在任中には論文を仕上げられなかったのかもしれない。その代わりなのかどうか、名大に移った後の一九五四年に、「ソヴェト行政における統制組織の発展――官僚主義克服過程の一考察」という論文を『社会科学研究』第四巻第三号に掲載している。スターリン批判以前という時代状況が反映していることは否めないが、官僚制の研究という主題は、行政学者として出発したこともあり、終生のテーマの一つとなった。いずれにせよ、この頃から、いくつかの論文を公表している(先に触れたソヴェト法関係の翻訳もこの時期のもの)。

 一九五六年六月五七年五月、アメリカ合衆国に出張。これはちょうどスターリン批判直後の時期に当たり、また、当時たまたまアメリカに来ていたE・H・カーと知り合うという、二重の意味で画期的な経験となった。おそらくカーとの接触を続けるために、一九五七年六一一月、出張期間を延長してイギリスに渡り、さらに一九五九年八月六一年一月にもイギリスに出張した。つまり、一回目の在外研究が一年半、少し間をおいて二回目が一年四ヶ月ということになる(一九六五年九月六六年九月にもイギリスに出張)。そして一回目の後半以降は専らイギリスで研究し、主にカーのもとで学んだ。これが研究歴上、最大の転機となったことはいうまでもない。なお、こうした経歴と関係して、六〇年安保の時期には日本にいなかったということになる。

 長期在外研究からの帰国後、一九六〇年代を通じて一連の論文・著作を次々と発表した。その中には、まもなく結実する主著の準備稿と、やや啓蒙的色彩を帯びたソ連政治全般にかかわる論文とが含まれる。後には概説・評論の類はほとんど書かなくなったが、この時期にはそうしたものもいくつか書き、それらを含めて六〇年代は多産な第一の結実期だったといえる。六八年には、ワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキアへの軍事介入に抗議する知識人アピール(八月二九日現在で四九名連名)に名を連ねているが、このような政治的態度表明も先生の経歴の中では非常に珍しいものである。なお、このアピールは、「われわれは、米国がベトナム国民の自決権を無視して軍事介入を行なっていることに対し、強く抗議してきた。従来ベトナムでの米国の軍事行動に反対してきた者は、当然にソ連のチェコ占領にも反対の意思を明示すべきであり、またわれわれは、ベトナム戦争に一貫して抗議した者のみが、ソ連の武力行使に真の抗議の声をあげる資格をもつと考える」と述べている(『世界』一九六八年一〇月号)。

 最初の主著『ソビエト政治史』(勁草書房、一九六二年、新版『ソヴィエト政治史』岩波書店、一九八九年)がわが国におけるソ連史研究上画期的な作品であることについては、今更いうまでもない。この著作にはいくつかの書評が出た。荒田洋(『歴史学研究』第二七五号、一九六三年四月)、庄野新(『史学雑誌』第七三編第一一号、一九六四年一一月)、中澤精次郎(慶応大学『法学研究』第三六巻第三号、一九六三年三月)、福島徳寿郎(『朝日ジャーナル』一九六二年一一月一八日号)などである。当時の事情を直接知らない私は、これらの書評を知る前は、何となく、当時は無視されていた――もっとどぎつくいうと、イデオロギー的な攻撃によって孤立させられていた――のではないかというイメージをもっていたが、この四つの書評を見る限り、一応まともな反応にあっていたことが窺える。その他、梅本克己、佐藤昇、丸山眞男の鼎談『現代日本の革新思想』上、岩波現代文庫、二〇〇二年(初版は河出書房新社、一九六六年)、一二四、一二八頁にも言及があり、それなりの注目を集めていたことが分かる。

 一九六八年四月、名古屋大学から東京大学法学部に転任。ちょうどその直後に、大学が多端な時期に当たったが、そのことが研究にどのような影響を及ぼしたかはただ推測するしかない。一九七〇年八一一月、ソ連およびイギリスに出張。それ以前にも短期訪ソの経験があるとはいえ、本格的な訪ソはこれが最初ではないかと思われる(一九七五年三一〇月にもソ連およびイギリスに出張し、一九七八年六七月には一連の東欧諸国、一九七八年八一〇月には再度ソ連に出張している)。この時期には、『現代社会主義の省察』(はじめ雑誌『世界』に連載したものを岩波現代選書として一九七八年に刊行)を除けば、ほとんど啓蒙的文章や概説の類を書かず、専ら『スターリン政治体制の成立』(岩波書店)に全力を傾注した(この時期には、第一三部が一九七〇、七二、八〇年に出た)。外面的には発表するものを減らして、再充電と主著完成に集中した時期ということになる。なお、『東京大学法学部研究・教育年報』第六号(一九八一年)に、教授就任一三年を区切りとする「研究結果報告書」というものが載っているが、そこでは、「教育的あるいは啓蒙的性格をもつ著書・論文」は「研究結果」には含まれないとする考えから、『現代社会主義の省察』や『岩波講座世界歴史』第二六巻、第二七巻収録の論考が業績の中に挙げられていない。これらの作品を「研究結果」のうちに数えないというのは、研究というものに対する厳しい姿勢を物語っている。

 一九八四年三月、東京大学を定年退官し、一九八四八九年には千葉大学法経学部、一九八九九〇年には帝京大学文学部に勤めた。この時期の一九八六年に、年来の大著『スターリン政治体制の成立』全四部がついに完結した。ちょうど時を同じくして、ソ連でペレストロイカが始まり、八七年秋には僚友ダニーロフがはじめて来日した。これはペレストロイカ前半期の希望に満ちた時期であり、ソ連の改革派知識人にとっても、溪内先生にとっても最良の時期だったといえるように思われる。

 その後、ソ連の状況は暗転し、一九九一年のソ連解体に至った。九〇年代から二一世紀初頭にかけて、先生にしては珍しく、エッセイ風の文章をいくつか書いているが、そこではソ連解体後の荒廃した世相への憤りともいうべきものが相当率直に吐露されている。社会主義圏崩壊直後の時期には、いわば教条的社会主義の裏返し的な「逆イデオロギーの跋扈」ともいうべき安易な風潮が一部で噴出したから、それに先生が苛立ちを感じたことは十分理解できる。これらのエッセイの中には、日頃ストレートな価値観の表出を禁欲してきた先生にしてはやや異例なものも含まれ、悲痛な印象を与える面もあるが、おそらくやむにやまれぬ思いからの発言だったのだろう。一部には、そのメッセージを短絡的に受けとり、特定の政治的立場から利用主義的に接近しようとする試みもあった。しかし、そのような時論的発言が晩年の先生のすべてだったわけではない。主著の続編を書くべく、近年新たに利用可能となった資料類の探索を八〇という歳に至るまで継続し、いくつかの準備的作品を公表した。その集大成が、病床で最後まで推敲を続けた遺著『上からの革命――スターリン主義の源流』(岩波書店、近刊予定)である。

 このように振り返ってみると、溪内先生の研究歴は、外面的には起伏の少ない学究生活の持続のようにもみえるが、実は、いくつかの大きな曲折を経ていたことが分かる。確かに現実政治に直接関与することは避けてきたが、常にそれとどのように対峙するかという問題意識が背後にあり、そしてその研究対象が現代史上の一大トピックであるだけに、スターリン批判、ペレストロイカ、ソ連解体などに際して大きな屈折を経験せざるを得なかったのである。それをどのように受けとるかは人によって異なるだろうが、ともかくそうした現実との格闘の過程およびその産物としての一連の著作は、われわれに残された遺産としてある。

 

(『ロシア史研究』第七五号、二〇〇四年)

 

参考資料:故・溪内謙教授年譜および著作目録

 

トップページへ