《書評》大野健一『市場移行戦略』(有斐閣、一九九六年)
 
塩川 伸明
 
 
 ソ連・東欧の社会主義圏の崩壊後、それらの国を研究する研究者の世界にも、いくつかの変化が生じている。従来から「社会主義経済」とか「社会主義圏の政治」「社会主義法」などの研究に携わっていた人々が方法上の反省に取り組んでいるのはいうまでもないが、もう一つ注目されるのは、従来「社会主義」にほとんど関係のなかった研究者が、「体制移行」という新しいテーマに引きつけられ、それらの国への援助という実務的関心ともかかわって、この地域の研究に参入してきたことである。同じ地域の研究について、異なるバックグラウンドから出発した人々がかかわるということは、議論の多彩化を促すものとして歓迎すべきことである。ただ、これまでのところ、元からの「社会主義圏」研究者と、最近「体制移行」問題に取り組み始めた人たちとの相互交流は極めて細く、討論の場もない。ここでとりあげる書物は後者の代表例であり、評者は前者に属するわけだが、十分な論評能力がないことをおそれつつ、敢えてここでとりあげるのは、こうした対話の欠如を打破したいと考えるからである。
 著者は一九九一年までIMFに勤務していたエコノミストであり、エジプトなどへの開発援助に携わっていたという。そのような経歴をもつ人が、「三十歳を越える経済学者は新理論に感染することはない」というサムエルソンの言葉に反して、IMF退職と日本帰国後に「転向」し(「おわりに」における著者自身の表現)、IMF流の開発援助(体制移行援助)論およびその理論的基礎としての新古典派経済学パラダイムに鋭い批判の矢を向けて著わしたのが本書である。
 旧ソ連・東欧諸国の体制移行に関し大きな影響力をもったIMF路線(ショック療法)に対しては、早い時期から日本では佐藤経明氏が批判の論陣を張っていた。また、そのあまりにも大きな副作用があからさまとなった今では、ショック療法批判は一種の常識と化しつつあるようにもみえる。しかし、ただ単に現象をとらえて「失敗した」と批判するのは、無批判的な賛美と同様に安易であろう。私自身は経済学者ではないが、IMF路線への無批判な賛美から一挙に全面否定へと流れるような極端さが、一部のジャーナリスティックな解説にはみられるような気がして、もっと本格的な批判的検討の必要性を感じていた。
 そうした観点からみるとき、本書は、さすがにかつてIMFの内部にいた人の著作だけあって、内在的な理解に基づいて行き届いた議論を展開しており、説得力に富む。「複数の融資交渉国を担当する多忙な〔IMF〕幹部職員は、ワシントンからその国に向かう機上で最新の職員報告を読み、到着後その情報にもとづいて政策対話を行うということが、誇張ではなく日常的に起こっている」(五二ページ)などという指摘も、内部にいた人ならではのリアルさをもっている。
 本書全体を読んで強く印象づけられるのは、「社会に埋めこまれた経済」(ポラニーの言葉だが、本書では第二章のタイトルに使われている)という表現にみられるように、経済を孤立的・抽象的にとらえることなく、社会・文化・政治・歴史等々の複雑な文脈の中でとらえようとする志向である。経済人類学や文化人類学の視点が強調され、政治や民族問題の重要性が、経済にとって外在的ではないものとしてとらえられているのである。このような視点に立つなら、経済を完結した孤立系ととらえ、純粋に市場の論理での説明を追求する新古典派経済学が、特定の条件下でしか適用可能でなく、それ以外の条件下での適用はミスマッチをおこすという主張はごく当然の結論となる。
 誤解を防ぐために補足しておくなら、著者は、いま述べたように新古典派経済学の適用可能性の条件如何を問題にしているのであって、頭から全否定しているわけでもなければ、その意義を完全に忘れ去っているわけでもない。ただ特定の条件下では有意味であるものが、それ以外の条件下では不適切になるという点を重視しているのである。そのことと裏表の関係にあるが、最近一部で流行している「東アジア・モデル」や「日本モデル」への著者の態度も、単純にIMFモデルに対置して飛びつくというのではなく、条件次第で適用可能だが万能薬ではないという、冷静で落ち着いたものである。一方の極から他方の極に走るという「転向者」にみられがちな安易さは避けられており、その点も好感がもてる。
 もう一つ興味深いのは、上記の視点と関連して、一口に市場経済といっても社会構造との関係で種々の型があり、決して一様ではないことを日米比較の例に即して論じている点(特に第四章の3)である。この議論は、市場移行における方法論争と、日米経済摩擦に代表される「資本主義システム間競争」論とを結びつけて論じることを可能にする。前者のテーマは、ややもすれば旧社会主義圏だけにかかわる特殊な問題であるかに受けとめられがちだが、実は、後者を含む広い理論的含意をもっているということが示されているのである。
 著者は「知の二つの方向性」として、一般理論追求(その典型が新古典派経済学)と、ある時代・ある地域の内側からの理解(その典型が地域研究)を挙げ、「双方向性をもった研究態度」の必要性を説いている(五四‐五六ページ)。それ自体としては正当至極な指摘であり、全面的に賛成である。ただ、前者から出発した著者がそれだけに安住せず、後者をも視野に入れようと考えるに至ったのはよいとして、後者の吸収が具体的にどのようなものであるかについては、まだ手探りの域を出ない。この点を深めるためには、政治学なり、文化人類学なり、旧ソ連・東欧諸国の地域研究なりで蓄積されてきた膨大な知見の着実な摂取の作業が必要とされよう。これは著者への一方的要望としていうのではなく、「(旧)社会主義圏」の地域研究者の側からもこうした理論的作業に接近し、対話を心がけねばならないという自戒をこめながらの提言のつもりである。
 一つの疑問として、末尾にある後発国発展の四段階図式は、いささか単線的であるように思われる。著者の主張の力点は、段階が違うところで画一的な政策を押しつけてはならないという点にあり、それには共感できるが、どのような段階を経るかということ自体が、国によって異なるという問題は見過ごされている。特に問題なのは、旧社会主義国と発展途上国とが区別されずに一括されている点である。これはIMF的開発援助論の残滓ではなかろうか。
 確かに旧社会主義国と発展途上国との間にはいくつかの共通点があり、その限りで共通の土俵で論じることには意味があるし、これまで「開発経済論」や「アジア経済論」の文脈で論じられてきた理論問題を「体制移行論」の文脈に吸収するのも、興味深い作業である。しかし、多くの旧社会主義国は、特異かついびつな形ではあれ、既に工業化・都市化を達成し、多数の工業労働者、大規模な労働組合、建前としては完備した社会保障制度などをもっている。このことは、一面では、移行期の衝撃をやわらげる「遺産」のようでありながら、他面では、本格的な移行を妨げる「後遺症」ともなっている。ここでは立ち入れないが、旧社会主義国における政治体制の移行も、途上国とは大きく異なる初期条件・環境のもとで進行しており、「権威主義から民主化へ」といった一般論の枠では論じきれない。こうした特殊性を踏まえるとき、旧社会主義国の体制移行は発展途上国における開発の処方とは異なった独自性をもたないわけにはいかないだろう。
 いくつかの注文をつけたが、全体として明快で、問題提起的な著作である。これを契機に、「(旧)社会主義圏」地域研究者と「体制移行」専門家との間の対話が発展することを期待したい。
 
『へるめす』(岩波書店)一九九七年三月号
 
 
トップページへ