フランス革命からソ連消滅までの200年
  ――塩川伸明東大法学部教授(ロシア史)に聞く
(『毎日ムック・シリーズ・20世紀の記憶、新たな戦争、民族浄化・宗教・電網、1990-1999』毎日新聞社、2001年)
 
 
 
茶番劇かギリシャ悲劇か
 
塩川 ソ連、あるいは社会主義の歴史ということについて関心を持つ人の関心の所在は、もちろん人によって様々だと思いますけれども、特に日本で、ある世代以上の人たちに比較的多いと思われる一つのパターンは、ある時期まで社会主義というものに対する期待感といいますか幻想を抱いていた人たちが、その期待感が裏切られたということに対する一種感情的なリアクションというのがあって、それ自体は当然のことだと思いますが、そこから、俗っぽい言い方をすると「かわいさ余って憎さ百倍」というような、そういった反応をする人が比較的多いような気がします。
 それは心理的には自然なことであって、別にそれがいけないとも言い切れないんですけれども、やはりそこだけにとどまるとすれば、「どこに、どのような問題があったか」ということの冷静な分析にはならないのではないか。しかも「裏切られた」という思いが強いと、そこから、ややもすれば非常に事態を安易に、一種マンガのようにカリカチュアとして描き出して、「悪い連中が悪い事をして自分たちを騙したんだ」ということで(笑)、単純な悪罵を投げつけるだけに終わってしまうことがしばしばあるのではないか、という気がするわけです。
 もちろん、マンガというものがいけないというつもりはありません(笑)。マンガというものは、デフォルメした表現によってある側面を非常に印象深くえぐり出すことができる、という意義はあると思います。しかし、デフォルメされた絵というものとリアリズムで描かれた写実画というものはもちろん違う。そのことは誰でもわきまえた上で、これを見るわけですね。ところが、遠い国の歴史の場合、そこらへんの見極めがちょっとつきかねて、デフォルメされた絵をあたかもリアリズムの絵であるかのように思いこんだりすると、これは非常に見当違いのことになるのではないかということです。
 マンガ的ということにこだわるようですが、歴史のマンガ的な説明というのは、つまり、あれこれの指導者が、例えば非常に邪悪な人間(スターリンの場合)だとか、単なる馬鹿者だった(フルシチョフ)とか、ボケ老人でヨイヨイで何もできない(ブレジネフ)とか、あるいは先見の明がなくて右往左往していた(ゴルバチョフ)というふうなことを、よく問題にすることになるわけです。
 そういう側面がなかったとは言いませんけれども、それだけで説明してしまうと、歴史の全体が一種の茶番劇のようなものになってしまうのではないだろうか。これは私の個人的趣味かもしれませんが、茶番劇よりはギリシャ悲劇のほうが、見ていて見応えがあるわけです。ギリシャ悲劇というのは、単純に悪い奴とかバカな奴がバカなことをやるというのではなくて、登場人物が悲劇的な結末を避けるべく精一杯誠実に努力をする。にもかかわらず、事態の絡み合いが否応なしに悲劇的な結末に導いてしまうということですね。そういうふうなものとしてソ連の歴史をとらえることができないだろうか、というのが、私などが日頃いつも念頭に置いている問題なわけです。
 
改良は革命よりも難しい 
 
 では具体的にどういうふうに見たらいいのかということになりますが、まあ70数年間もの歴史ですから、とても一言では説明できませんけれども、さしあたり思いつく点として二つ三つのことを申し上げたいと思います。
 一つは、「革命」と「改良」というものを比べてみますと、革命というのは非常に犠牲の大きな変革、つまりいろんなものをぶち壊して、大きな変化のときにはいろんな犠牲があるのは仕様がないんだという、そういう変革で、ぶち壊しを優先する。これに対し、改良というのは、より小さな犠牲での変革を目指すというふうに仮に理解するとします。その場合、改良によって大した変革が得られないならこれはしょうがないわけですけれども、仮に変革の実質がほぼ等しいならば、その実現のための手法としては改良のほうが革命よりも望ましい、というのが一つの考え方としては成り立ちます。特に昨今のように、社会主義革命というものが権威を失墜した状況の中では、そういうふうな考え方がかなり多くの人に共有されているのではないかと思います。
 ところが、ここにもう一つの逆説がありまして、社会が激動する時期には、非常に多くの人々が、改良路線というのはまどろっこしいものだと感じ、こんなものでは飽き足りないというふうな雰囲気が広まって、大衆の支持が革命路線のほうに集まる。そうなりますと、革命路線のほうが現実的であって、改良路線のほうが非現実的であるという結果になります。抽象論としては「改良路線のほうが現実的だ」というのが、書斎の中で考えているときの普通のイメージだと思いますが(笑)、世界が激動する時代にあっては、これはむしろ逆になって、「革命路線のほうが現実的」ということになってしまう。それが実は、ソ連の最初と最後の両方の時期に現れたのではないかと思います。
 
ボリシェヴィキ革命とエリツィンの革命路線
 
 1917年2月のロシア革命のときに帝政が倒れる。そのときにリベラルな改革を求めた人々とボリシェヴィキ革命を求めた人たちがいて、リベラルの側が敗れて、ボリシェヴィキが勝利したというのが1917年10月、ソヴェト体制の始まりですね。他方、1980年代末から90年代初めのソ連末期に、ゴルバチョフ政権のペレストロイカという改良路線が失敗に終わって、エリツィンの革命路線が勝利を収めた。この二つは実は同じようなことではないか。というのは、一見すると逆なんですけれども、つまりソ連を始める過程と終わらせる過程、社会主義を始めるほうと終わらせるほう、方向としては逆なんですけれども、その際にどういう手法をとるか、革命路線でいくか改良路線でいくかという点でいえば、実はどちらにおいても改良路線というものが非常に困難であって、そのために現実性を持ちえなかった。で、革命路線が勝利を収めた、ということですね。
 そうなりますと、それは指導者がどのような政策を選択したかというだけの問題ではなくて、それを支える大衆がどういう路線を支持したか、ということが問題になります。
 最近、一部で、ロシア革命というのは、レーニンを初めとする少数の人々が陰謀的に権力を奪取しただけで、大衆は何の関係もなかったんだ、という議論をする人が増えておりますが、私はこれは正しくないと思います。結果的に見てどんなに大衆のためにならなかったとしても、その当時においてはやはり大衆的な支持を獲得していたからこそ10月革命というのは起きたんだ、というふうに見たほうが、歴史の事実には合っているだろうと思います。
 そこで、指導者と大衆という、非常にやっかいな問題にぶつかるわけです。例えばスターリンという人を取り上げてみれば、この人は非常に邪悪な指導者であったと(笑)、単純に言ってしまえば…これは誰もが言ってることであって、ほとんど論争の余地がないわけですけれども、しかしそのような人が指導者たりえたのはどうしてなのか、という問いをもう一つ出してみる必要がある。それはやはり、括弧付きかもしれないけれどもある種の大衆の支持があったからこそである、という側面を見ないわけにはいかないのではないか。これは、ソ連についてはこういう議論が少ないので、やや耳新しく聞こえるかもしれませんが、ほかの国についてであれば、例えばナチス時代のドイツについて、ヒトラーだけを悪者として糾弾するとか、戦時中の日本について、東条英機一人が悪かった、というようなことだけではすまないんだという議論は、むしろ今では当たり前になっていると思います。
 指導者にもちろん責任はある。それを免罪するわけでは全くないんだけれども、しかしそこで起きた事柄というのは、それの支えになった大衆の責任というものもまたあるのではないか…南京大虐殺とか、従軍慰安婦を狩り出したとか、そういうことについて、数多くの日本の庶民が全く関与せずに起きたわけではない、ということは明らかだろうと思います。それは、実はスターリン時代のソ連で行われた多くの悲劇についても、同様のことが言えるんじゃないかということです。それが一つですね。
 
社会主義を「先端」たらしめた時代とその終わり
 
 それからもう一つ、やや角度を変えることになりますけれども、20世紀という時代のかなりの期間、最初の3分の2ぐらいかなと思いますけれども、大衆であれ、知識人であれ、多くの人々が社会主義に対する幻想的な期待を大なり小なり抱いていた、そういう時期があったわけですね。今日では、「それは幻想だった」という広範な合意があるように見えますが、しかし、かつて相当広い範囲の人々をとらえた幻想であったならば、それは単純に一握りの詐欺師がペテンをかけた、ということだけで片づけるわけにはいかないんじゃないか。そういう幻想が広まる時代状況、それを信じたいと思う心性、メンタリティーが、世界的規模で大衆の間にも知識人の間にも広がっていた、それが20世紀という時代だったということではないかということです。
 そのことの中身は、詳しく展開するとややこしいことになりますけれども、単純につづめていえば、「科学技術進歩と人間理性」というものに対する非常に楽観的な信頼があって、人間が、科学的、合理的に、計画的に社会を組織化していく、そのことによって人類は進歩していく。こういう発想が、これは社会主義圏に限らず資本主義圏の側でもかなりあって、それをどんどん突き詰めればその延長上に社会主義があるんだ、というイメージがあった。これは必ずしもマルクス主義者とか、あるいはソ連に友好的な立場をとる政治家とかだけじゃなくて、もっと広い範囲の人々に広まっていた共通の発想ではないかということです。
 それからもう一つは、1930年代というのは、スターリンの独裁が絶頂に達した時期ですけれども、この時期にもう一つファシズムという現象があって、ファシズムにどのように対抗するかということを多くの人々が意識したわけですね。そこで、ファシズムに対抗するためには、ソ連が「反ファシズムの砦」になるということで、これを味方としなければならないという発想が広まる…これは30年代の大きな特徴でした。
 その後、戦争および戦後復興という時期の中で、極度に軍事がすべてに優先する時代があり、ありとあらゆる物的・人的資源を限られた分野に集中的に投入する必要がある、そういう時代がかなり続いたわけです。そういう時代には、計画経済型の社会の組織化というのが比較的適合的と見えたということで、必ずしもマルクス主義者ではないような人々も社会主義の要素を部分的に取り入れる、あるいは模倣するということが、ニューディールであれ、統制経済であれ、福祉国家であれ、様々な形でなされた。これが30年代をピークとしながら、50年代、あるいは60年代初頭ぐらいまで続いた流れではないかと考えるわけです。
 逆にいえば、その後、そのような時代がだんだん終わりに向かっていった。科学技術進歩と人間理性への信頼も掘り崩されるし、ファシズムというのは、少なくとも同じ形で繰り返される恐れはまずなくなった。また、戦争や戦後復興のときのように、ありとあらゆる資源を一極に集中するのではなく、むしろ非常に多様な分野に分散的に利用する、そのバランスを考えなければならない。こういう時代になりますと、時代の基本的な前提が変わってくるわけですね。それが最も深いところで社会主義の時代を終わらせたのではないかと考えるわけです。
 
社会主義崩壊後の現在をどう見るか――勝利したのは、政治的リベラリズム抜きの経済的リベラリズム
 
 ここまでがソ連の歴史と社会主義の時代ということなんですが、最後にもう一つ別のことを付け加えたいのは、社会主義崩壊後の現在をどう見るかということです。
 常識的には、民主主義、自由主義が勝ったと言われているわけですけれども、実はリベラリズムというのはいろんな意味があるので、ある側面が勝ち誇ると別の側面が後ろに引っ込むという、ややこしい関係があるような気がいたします。リベラリズムという言葉をもう少し厳密に考える必要があるのではないか、ということを感じております。最近、リベラリズムという言葉の意味を分けて考える議論がときおり出されておりますけれども、ただその場合、どうもアメリカの用語法に引きずられがちなように思います。アメリカでは、いわゆる福祉国家指向をリベラルと言うので、これは古典的なリベラルとは随分違います。世界的に見れば、アメリカ的な用語法のほうがむしろ特殊ではないか。福祉国家指向というのは「大きな国家」になるわけですから、それは古典的な意味でのリベラルと非常に違うというのは当然なんで、社民勢力がアメリカにはいないから、それに代替するものとしてリベラルという言葉が使われているに過ぎない。むしろ私が注目したいのは、「政治的リベラリズムと経済的リベラリズムの違い」ということです。
 つまり、ややもすれば経済的リベラリズムが実現されれば政治的リベラリズムは後からくっついてくると考えられがちですけれども、実は違うのではないか。「政治的リベラリズム抜きでの経済的リベラリズム」というものがあるのではないか、ということです。例えば戦後日本で「自由民主党」という名前の政党の政権の下で一貫して重視されてきた自由主義というのは、経済的リベラリズムであって、政治的リベラリズムでは全くないわけですね。実は今のロシアでも同じことが言えて、社会主義に対して勝利したのは、「政治的リベラリズム抜きの経済的リベラリズム」ではないだろうか、というふうに思います。
 経済的リベラリズムが勝てば自動的に政治的リベラリズムになる、ということが、ソ連解体の時期には、まだ先のことが十分読めなかったので、そういう期待感がかなり広く持たれていました。しかしこれはちょっと考えて見ればすぐ分かることですけれども、経済的リベラリズムの政策というのは、非常に厳しい、いわゆる痛みを伴う改革、財政赤字を削減するために社会保障を切り下げるとか、不況を耐え忍べということですから、非常に大衆の犠牲を伴うわけですね。それをあえて押し切るためには、むしろ権威主義的な統治スタイルと親和的なわけです。
 そこで、合理主義的に発想するテクノクラートが、外圧を利用しながら非常に強引に上から押しつけるのが経済リベラリズムの政策だということになります。しかし、もちろんこれをあまりトコトンやると、政権の人気が悪くなりすぎて、選挙で勝てない。選挙というのは、どうしても無視するわけにはいかないというのが現代ですから、そうすると、今度はポピュリズム的な民主主義というものがこれに対抗する。そこではナショナリズムの要素がかなり大きな役割を果たします。そこで、片や外圧を利用して経済リベラリズムを進めるテクノクラート、片やナショナリスティックなポピュリスト派が対峙するというのが、ロシアその他の旧社会主義国の構図じゃないかと思います。そして政権担当者は、どちらか一方だけに純化することはできないので、この両方の要素を、その時に応じて使い分けている、そういう構図ですね。
 こういう構図の下では、民主主義は必ずしも否定されていない。といいますのは、経済的リベラリズムを推進する潮流は、「これこそが民主主義なんだ」と言うわけですし、ポピュリズムというのも、ある種の民主性の現れでもあるわけです。ですから外観的には民主主義が維持されている。しかし一貫して欠けているのは政治的リベラリズムである。こういった現状があります。実は、これは形を変えて、現代の日本でも同じ問題があるのではないだろうか、という気がしております。
 
ロシアの後進性と社会主義革命の可能性――ロシア革命は「マルクスに反する革命」か
 
Q 今のお話を受けて、いくつかの質問事項について、お聞きしたいと思います。
 先ず、ロシア革命は基本的にはマルクスの革命思想を基礎に考えられ、実行された革命だったと思いますが、マルクス自身は、社会主義革命は資本主義の高度な発達を前提にすると考えていたはずです。とすると、ロシアのような資本主義発達の遅れた国で、社会主義革命を起こすことが出来るのかというのは、ロシアの革命家たちの間でも非常に大きな論争課題だったろうし、あるいは、不適合だったのではないか、という問題があると思いますが、どうお考えですか。
塩川 せっかくのご質問に対してやや水を差すような形でお答えすることになりそうで、ちょっと気が引けるのですが(笑)、その問題は私たちが若かった、今から20〜30年くらい前に熱心に論じられた後、あまり実質的意味のないものではないかと考えられるようになり、今ではあまり流行らなくなっているように思います。けれども、やはりかつて熱心な論争問題だった以上、今から振り返るとどのように考えられるかということを改めて問うてみるのも無意味ではないかもしれません。
 まず、確認しておく必要があるのは、当時のロシアの社会主義者たちは、ロシアは後進国であり、まだ社会主義の前提条件が整っていないという見解ではみな一致しており、その意味ではマルクスに忠実だったということです。その上で、いざ革命情勢が起きたときにどのように振る舞うべきかということですが、素直な考え方としては、ロシアに社会主義の条件がない以上、まだ自分たちが権力を握るべきではないということになります。これは、メンシェヴィキに代表される、非常にオーソドックスなマルクス主義の考えです。他方、レーニンやトロツキーはどう考えたかというと、ロシアでプロレタリア革命が起きるなら、それを導火線としてヨーロッパをはじめ世界中で革命が起きるであろう、そうなればヨーロッパでは既に資本主義が高度に発展しているから社会主義建設が可能になる、そして「社会主義ヨーロッパ」に支援されることで後進的ロシアも社会主義に進むことができる、こういう風に考えたわけです。もし彼らがロシアだけで社会主義が出来ると考えて革命を起こしたのなら、それは「マルクスに反する革命」ということになるでしょうが、今いったような考えに基づいていたのであれば、「マルクスに反する」とは言えないでしょう。
 しかし、マルクスに忠実かどうかということは、当事者たちにとっては真剣な論争の対象でしたが、今日のわれわれがそうした問題設定にとらわれる必要はないように思います。今説明したレーニン、トロツキーの考えは、ロシアの革命が導火線となってヨーロッパで社会主義革命が起きるであろうという、今からみれば非常に幻想的な希望的観測に基づいていたわけですが、その期待が実現しなかった時にどうするのかという問題が、その後に起きたわけです。
Q 世界革命か、一国社会主義か、という論争ですね。
塩川 そうだと言ってもいいのですが、これも当事者にとっての意味と後世のわれわれにとっての意味を分けて考える必要があると思います。当事者たちは世界革命の早期到来を信じていたわけですね。これは当時の熱狂的雰囲気の中では、ある程度自然な面があったと思います。しかし、そうした熱狂、精神的高揚というものはそう長続きするものではなく、やがて夢は醒めていくわけです。そうして、夢が醒めてみると、世界革命の早期実現はありそうにない、ソ連は孤立の中で生きていかねばならない、という現実を突きつけられたわけですね。レーニンは、彼にとっては幸いなことに、そうした冷厳な事実に直面する前に世を去りましたが、その後の政治家たちは、革命時には予期していなかった現実の中で、どうやってそれに対処していくのかという問題にぶつかったわけです。
 その際、スターリンを批判する人たちは、世界革命が実現しなかったのは彼の裏切りのせいじゃないかなどと言ったりしたわけですが、これは現実離れした考えだと思います。世界のあちこちの国で革命が起きるか起きないかというのは、スターリンなりその他の誰かが「裏切った」かどうかというようなことで説明できるものではありません。確かにマルクスは先進資本主義諸国での革命を期待し、レーニン、トロツキーもそう考えたけれども、実は、そのような期待そのものが空しかったというのが冷厳な現実だったわけです。
 その意味で、スターリンはレーニンの考えていたのとは違った状況に直面して、レーニンとは違う道を歩むしかなかったわけですが、そのことをそういう風に正直に説明するのは得策でないと判断して、自分はレーニンの忠実な弟子であって、レーニンの路線を継承していると称したわけですね。「マルクス=レーニン主義」という言葉がそのことを象徴していますが、そこには明らかにごまかしがあります。ただ、そのごまかしを批判する側が、より現実的な選択肢を提示し得たかといえば、それも疑問です。もともとのマルクス、レーニンの期待が外れたわけですが、それを誰かの「裏切り」のせいにして、自分は本来の理想を守るのだと言っても、およそ空論でしかない。
 
「マルクス=レーニン主義」と「スターリン主義」とは何か?
 
Q ソ連で使われていた「マルクス=レーニン主義」という言葉を使い始めたのはスターリンなんですか。
塩川 厳密にだれが最初かというのはどうですかねぇ……。
Q レーニンが生きているときにはないですね。
塩川 それはないです。もちろんレーニンが死んだ少し後からでしょうね。しかし、一人の個人に還元する必要はないんじゃないかと思います。スターリンは、少なくとも20年代はそういう理論的なことにあまり関心がありませんでしたから、ほかの人に任せている中で、そういう言葉づかいがだんだん広まっていったんじゃないかと思いますけれども。
 では、そこで言う「マルクス=レーニン主義」なるものの意味は何かということになりますが、実は、あまりはっきりとした中身は無かったんじゃなかろうかと思います(笑)。もちろん、いわゆる唯物史観とか、階級闘争論とか、プロレタリア独裁論とかいった教義があるわけですが、どれも様々な解釈のできるものです。実際、ソ連でも、時期によって「マルクス=レーニン主義」の中身に関する正統解釈はくるくると変わっているし、時には正統解釈に異を唱える別の解釈が提示されたりもする。ですから、中身は一定しないのですけれども、むしろ重要なのは、中身はともあれソ連にはその政権を正当化する唯一絶対のイデオロギーが存在するのだという建前です。この建前のおかげで、唯一正しい「科学的」世界観によって支えられた政権という擬制がつくられ、それに挑戦するのは大変な勇気を要する、そういう状況がつくられたわけです。
Q 「スターリン主義」という呼ばれ方というのは、スターリンが生きているときから言われている言葉ですか。
塩川 それはないです。
Q 生きているときには、スターリン主義という言葉はない。
塩川 それ以降も、少なくともソ連政権の側の人たちはしないです。これは批判する側が貼るレッテルであって、ソ連では一貫して使われてない。ペレストロイカの時代になって初めて使われるようになった言葉です。批判する側が「スターリン主義だ」と呼ぶものを、擁護する側は「これはマルクス=レーニン主義だ」と呼ぶということです。
Q スターリンの時代には、ソ連の体制というのは、「社会主義」という言葉で言ってるのか、「共産主義」という概念で語られていたのですか。
塩川 それは「社会主義」です。まあ言葉はね、レトリックであって、あまり実質的な意味があるわけじゃないですが。とにかく当事者の意識としては、社会主義というのがとりあえず到達した段階であり、共産主義というのはその次の段階です。「もうすぐ共産主義になる」と言ったのはフルシチョフですね。予言によれば80年代になるはずだったんですけれども、ちょうどその頃にソ連自身が終わりになったという皮肉な結果となりました(笑)。
 
ネップと農業集団化――工業化のテンポで対立するスターリンとブハーリン
 
Q スターリンが行った農業集団化のときの、すさまじい富農に対する弾圧がありましたけれども、ネップを終わらせるというのは、レーニンが最初にネップを始めたときに、レーニンがもう考えてたことなんですか。ずっと続くということじゃなくて、ある一定段階のところで切るという。
塩川 それは微妙なところです。レーニンはネップ導入後まもなく死んだわけですね。その後の事態を、彼自身がはっきりと予期しているわけではない。ネップ導入の時点で予想されていたのとは違うシナリオが生じた場合にどう決断するか、という問題になるわけですね。もちろんレーニンの考え方は、永遠にネップを続けるということではなくて、どこかで終わるということは考えていたと思いますけれども、しかしそれは強引に打ち切るのではなくて、無理なくすんなりと終わっていくということを、おそらく期待してたでしょうね。つまり農民が自発的に集団化に賛成していくということですね。
 ところが、実際問題としては、穀物を農民がつくって、価格が自分にとって損か得かを見て、今売るのが得じゃないと思えば売らずに蓄えておく、という行動様式を農民がとる。そういうことを放っておくと、都市の人は、農民が穀物を売ってくれないのでは飢えてしまう。あるいはその当時まだ輸出すべき資源もほとんどなくて、穀物を輸出して外貨を稼いで、機械を買って工業化をするしかないのですが、そのためにも穀物が必要不可欠です。しかし「この価格じゃ売らないよ」と農民が言う。そうしたらどうしたらいいか。こういう問題はレーニンがまだぶつかっていなかった問題ですね。
 そこで、レーニンならこうしたであろうということを、スターリンはスターリンなりに考え、ブハーリンはブハーリンなりに考える。ブハーリンのほうはあくまでも農民に対する譲歩を続けて、無理のない形で工業化を進めていく。そうすれば国内の平和は維持される、あるいは農民に対する暴力をふるう必要はない、ということですね。その場合には、工業化のテンポを非常にゆっくり進めなきゃいけない。それで済むのならそれで一つの選択肢ですけれども、工業化のテンポをあまりゆっくりしている間に、外国との戦争がまた始まるかもしれない、軍事力がまだない段階で外国から戦争を仕掛けられたらどうするんだ、こういうことを考えると、一刻も早く軍事工業を中心とする工業化を進めなければいけない。そのためにはブハーリンのようなのんびりしたことは言ってられないのである、こういう考え方が優勢になってくるんですね。これはこれで一つの考え方としては筋が通っている。もちろん、非常に大きな犠牲が伴うという条件付きですけれども。そういう非常に厳しい選択が問われたということですね。
Q 行われるかもしれない戦争の仕掛け人というのは、ドイツを想定してたんですか。
塩川 イギリスとフランスです。ドイツとは20年代には非常に仲が良かった。27年にイギリスと国交断絶が生じてますし、フランスでもロシア革命によってロシアが発行していた外債がパーになったということで、フランス人で非常に頭に来ている人が多かった。ロシア革命の直後にいわゆる干渉戦というのがあったわけで、それがまたくり返されるのではないか、という恐怖感がありました。第一次大戦の直後には、英・仏が疲弊してたから干渉戦はそんなに続かないで終わったけれども、ある程度経済が復興したら、英・仏はまた攻めてくる。これは非常に強い固定観念としてあったわけですね。この恐怖感は非常に強いものがあったと思います。
 結果的にいえば的が外れていたといえばいえるかもしれないけれども、当事者の意識の中では相当強くあっただろうと思いますね。
 主要敵が英・仏だった時期から、ドイツに変わるのは、33年にドイツにナチス政権ができますから、そこでガラッと変わるわけです。もう一つは満洲事変以降の日本の脅威があり、東西から挟み撃ちにあうことを非常に恐れるということになりました。
 
ロシア・アヴァンギャルドの抑圧――政治家にとって、文化というのは周辺的な問題
 
Q レーニンがまだ生きている間に、文化政策の中で、1921年前後に、かなりロシア・アヴァンギャルドに対する評価の機軸が動いちゃうと思いますけれども、あのへんのボリシェヴィキの文化政策というのは、どの辺が指導権を握って決めていたんでしょうか。
塩川 そうですねぇ、ちょっと話が長くなりますけれども。まず基本的に、後世の人々で、特に文化に関心の深い人は、文化政策が非常に重要だと思うのは当然ですけれども、その当時の生きるか死ぬかの闘争をやっている政治家にとって、文化というのは周辺的な問題だ、という食い違いがあることを念頭におく必要があると思います。文化にあまり関心のない政治家にとっては、文化への評価は、その時々の便宜でどうにでも動くものです。つまり基本的に文化の中身は関係がないと思うんです。どういう文化潮流であろうが、例えば古典的な手法であるのがいいか、ロマン的な手法がいいか、アヴァンギャルドがいいか、というのは実はあまり関係ない。とにかくソ連で政治的に反対運動を起こさなければそれでよし、反対運動をやればだめ、ただそれだけのことです。単純化していうと。
 もちろん、政治家の中でたまたま文化の問題に深い関心を持った人も何人かいますが、それはトロツキーとかブハーリンとかルナチャルスキーとか、非常に限られております。ですから、文化政策というのは、実は政治家よりも、文化人の中で自分が政権に取り入ろうと思った人が政治家に働きかけてつくらせている、という性格がかなりあるんじゃないかと思いますね。
 政権の文化政策が固まっていくのはもっとだいぶ後の話でしょう。もちろん文化人への政治的な抑圧は早い時期から、いっぱいありますけれども、それは何か固まった政策があってというよりは、政治闘争のとばっちりをくらったといいますか、そういう側面のほうが、私は強いのではないかと思いますね。
 「ロシア・アヴァンギャルド」というのは、後になってつくられた言葉で、その当時意識されていたわけじゃないですけれども、政治家にとってはどちらでもよかったんじゃないかと思いますね。最初のうち支持されて後に否定された、というようなことではなくて、政治家にとって都合がよければ使うし、都合が悪ければ切り捨てる。そういう中で文化人の側も、政治家にすり寄る人とすり寄らない人がいるという、身も蓋もない話になりますけれども(笑)、政治闘争というのはそういうところがあるわけですね。
 
宗教と革命政権
 
Q 宗教に関しても同じようなことが言えますか。
塩川 宗教のほうがもっとずっと切実で深刻な問題だと思います。というのは、文化人というのは、乱暴な言い方になりますけれども、文学作品を読んだり、美術館に行って絵画を見る人というのは限られているわけですね。しかし宗教というのは、1920年代のソ連の人口は約1億5000万ですが、その大半にかかわることですから、重みはずっと重いと思います。これも、しかし単純に否定か肯定では済まない。
 というのは、これを全部押しつぶすのは、国民の圧倒的多数が何らかの宗教の信者である以上、不可能だということは目に見えているわけですね。しかし全く放置するわけにもいかない。特に革命直後は、この政権が長持ちするかどうかということが全然分からないわけですから、教会の側も、すぐ倒れるだろうと思ってるときには、わりと遠慮会釈なく政権の悪口を言うわけです。つまり教会の首脳が、「この政権は神をおそれぬ大悪人である」というふうに信徒に呼びかければ、それは非常に政治的な力になるわけですから、政権の側はそれを放っておくわけにはいかない。ですから真剣勝負になるわけですね。革命直後に非常に激しい、そういう対立があった。
 しかしある程度時間がたつと、宗教界の側から見れば、この政権がそうすぐは倒れないだろうというのが分かるし、政権の側からいえば、教会というものを絶滅するわけにはいかないというのも分かる。一種の中間的な妥協が成立していくわけですね。もちろん妥協はあくまでも妥協でしかないわけですけれども、しかし血なまぐさい衝突というのは一時収まっていくわけです。
 その後は、その時々の政治状況によって左右されますけれども、一番端的な例は、第二次世界大戦、独ソ戦ですね。その時に教会がスターリンを支持するわけです。つまりドイツがロシアを攻めてくる、それに対してイデオロギーと関係なく国を守らなきゃいけないという態度を教会はとる。スターリンはこれを非常に歓迎する。こうしてスターリンと教会の間で一種のハネムーンが現れるわけですね。ですから戦時中から戦後にかけてというのはスターリン独裁のピークをなした時期ですけれども、いちばん政権と教会の仲が良かった時期です。
 これが一番端的な例ですけれども、独裁がひどいということと宗教弾圧がひどいということは、必ずしも直接対応しない。利用価値がその時点の状況でどれだけあるかによって、あれば非常に密接な関係になるし、なければ疎遠になるという、そういう変化があるということですね。
 
ニューディールとソ連5カ年計画の同質性――アメリカ的生産力とソ連の社会システムを合わせればそれが社会主義
 
Q E・H・カーの『ロシア革命』(岩波現代文庫・塩川訳)の中にも出てくるんですけれども、ドニエプル河のダム建設に関して、アメリカのテネシー河のダムを建設したアメリカ人技師を招請してつくる、ということが実際に行われていますね。ということは、ニューディール型のアメリカ社会というか、そういう社会と、ソ連の5カ年計画でスターリンが目指した社会というのは、かなりイメージ的に同質だというふうに…
塩川 それは自然だと思います。まず基本的に押さえておかないといけないのは、両大戦間期にあっては、アメリカというのはまだ国際政治の主人公ではないですね。大西洋の向こう側というのはあまり国際政治とは関係ないというか、つまり南北アメリカ大陸は一つの別の世界をつくっていて、ヨーロッパ大陸とその周辺だけが国際政治をやっている、そういう構図です。ソ連がいちばん激しく対立したのは英・仏で、アメリカというのはどこか海の向こうにある別天地なわけですね。なんだかよく分からないけれども、非常に生産力が高いらしい、科学が発展しているらしい、そのことに対するあこがれというのは非常に強く、その当時のソ連の人たちは、スターリンに限らず、レーニンもトロツキーもみなそのように見ていたと思います。
 つまり、20年代から一貫して、ソ連の人たちはアメリカに対しては非常に強いあこがれを持っていて、たくさん技師やら熟練労働者を招聘したり、あるいはソ連からアメリカに送ったり、そういうことを盛んにしているわけですね。アメリカ的な生産力とソ連の社会システムを合わせればそれが社会主義である(笑)、こういうイメージでわりと常識的にとらえられていた。それはそういう時代だったと思いますね。逆に、アメリカもソ連に影響を受けた面があり、ニューディールにもその要素があると思います。戦時下日本のいわゆる「統制経済」も同様です。
 
ソ連は自信は無かった――一極集中の弱さの認識
 
Q そういう構造で社会主義を維持していけるという、何というか自信をソ連が持った時点というのは、5カ年計画の終わりのころでしょうか。
塩川 いゃー自信なんかないと思います。表向きは強がりを言っていて、外部の人たちもそれを真に受けたりしたけれども、実は内心、戦々恐々としていたというのが実際のところでしょう。スターリンの強硬路線は内心の弱さを押し隠すものだったと思います。フルシチョフまで行ってもまだ自信がもてなかったかもしれないですね。フルシチョフがどう考えていたかというのは微妙ですけれども。
Q 宇宙に最初に行ったことでも、まだそんなに自信を持っていなかったということですか。
塩川 ええ。アメリカのほうはスプートニク打ち上げにショックを受けたようですけどね。戦後は今度はアメリカが国際政治の主柱になりますから、米ソ対抗の構図が出てきて、あまり戦前みたいに開けっぴろげなあこがれを口に出すことはできなくなって、むしろ「敵」という位置づけ方になりますけれども。おおっぴらには認めたくないけれども、まあ内心かなわないという意識がずっとつきまとっていたんじゃないでしょうかね。
Q スプートニク・ショックという、アメリカ側が受けたショックというのは、どちらかというと誇大妄想的な部分というのが多いんですか。
塩川 フルシチョフという人は非常に微妙な人ですからね。どこまで本心なのか、どこまで演技なのか分からない面がありますけどね(笑)。
 社会主義というのは、とにかく一極集中的に資源を投入するということにはわりと強いところがありますから、最も優秀な人材を戦略的な分野に集中すれば、宇宙開発、核開発についてはそれなりの成果を上げることができる。それが一種の誇りだったわけですね。ただ、一極集中ということは、それ以外のところには手が回らないということでもあるので、強さと弱さが裏表の関係にあるわけです。指導者がどこまでそれをはっきり知ってたかはちょっと確定しにくいですね。やはり成果が得られれば、それでもってそれを過大評価して安住するということはありうることです。特定の指導者だけじゃなくて、その周りの人たち、学者なんかまで含めていえば、弱さの認識というのは少しずつ積み重ねられていたんだと思います。
 
フルシチョフからブレジネフへの政変はクーデター?
 
Q フルシチョフからブレジネフに代わるときの政変というのは、あれはやはり一種のクーデターということなんですか。
塩川 言葉の定義次第ですけどね。クーデターという言葉をどのように定義するかです(笑)。トップリーダーを、それ以外の人が引きずり降ろすということをクーデターといえばクーデターだし。しかし、他のリーダーたちが合議して、多数派を形成して、共産党中央委員会総会で決定したというのは党規約に則った手続きである、といえばそうでもあるし。それにフルシチョフの政策は行き詰まっていましたからね。フルシチョフの退任自体は、かなり多くの人がわりと自然なことと受け止めたんじゃないかと思います。
 問題は、その後どういう政策をとるかということにあったわけです。ブレジネフになってすぐ方向が確定したということはないと思います。ブレジネフ自身があまりリーダーシップをとらない人でしたから。数年後にチェコスロバキア軍事介入があり、これが一つの非常に大きな転機になって、「インテリに勝手なことを言わせてたら、何が起きるか分からん」という、そういう警戒心みたいなのが非常に強まっていったわけですね。ですから70年代のソ連は、ひきしめが強くなっていきます。
 
KGBとソ連軍――ともに党に統制されて、自立的ファクターに成り得なかった
 
Q ソ連の場合、KGBというものと軍というもの、軍という大きさというのは、時代によってももちろんバランスが違うでしょうけれども、どんな感じだったんでしょうか。
塩川 力というのをどういうふうに計るかというのは、ハカリに乗せて計れるわけじゃないですけどね(笑)。どんな国でも、軍事力を持ってる機関というのは非常に恐れられる存在であり、と同時に、だからこそ警戒して、様々な形でくつわをはめるといいますか、そういうこともされるわけです。ソ連軍の一つの非常に大きな特徴は、共産党によって非常に強く統制された軍であって、軍が共産党と別個の自立した組織になるということをほとんど最後近くまで許さなかったということですね。そういう意味ではあまり自立的なファクターではない。もちろん大きいことは大きいけれども、共産党と別の主体ではない。もっとも、ペレストロイカ期になりますと共産党自体がバラバラになっちゃいますから、また話は違いますけれども、それまでは党による統制がかなり効いていたと思います。
 KGBも基本的にはそういうことです。特にスターリン時代の経験がありますから、治安機関が独走すると、どんな高い地位の政治家もいつやられるか分からないという、そういう不安感がありますから、逆に治安機関が独走しないようにくつわをはめるということは、スターリン以後の政権では非常に重視してきたことです。アンドロポフ書記長は確かにKGB長官をやってましたけれども、彼は生え抜きのKGB出身じゃなくて、共産党の活動歴が長くて、そこからKGBに送り込まれるという形ですね。ですから、KGBにしろ、軍にしろ、独立した主体というふうには、私は考えないんです。ただ、むしろ共産党の中で軍を担当している人とかKGBを担当してる人というのが、党内で重きをなすという面は当然あります。しかし最後のところはやっぱりトップリーダーがそれを全部押さえるという格好になっています。
 力関係を計りにくいというのは、これが独立した主体であれば、1個1個別々に取りだして計ることができますが、独立した主体でなくて、絡み合いながら微妙な綱引きをしている場合に、どこがどれだけの力を持っているかというのは非常に分かりにくいですね。
 
ソ連における3つの軍事組織――内務省・国防省・KGB
 
Q KGBという組織が軍隊を動かすことは可能なんですか。それはできない? 
塩川 それは全く別組織ですから、できません。
Q バルト三国に91年1月に軍隊が出ますね、ソ連から。あの時、軍は治安部隊とは言わずに…
塩川 それは内務省です。ソ連には3通り軍事組織がありましてね。
Q 内務省にもある?
塩川 国防省と内務省とKGBです。KGBは主に国境警備ですね。内務省は国内保安部隊。日本の機動隊のもっと大きいようなものですね。国防省は元来国外向けのはずなんだけど、内務省だけでは足りない場合に内務省と国防省とが一緒に治安出動するということですね。KGBは、部隊としてはおそらく小さいと思いますね。主として国境警備ですから。
 話が違いますが、今のロシアのチェチェン作戦だって、国防省の系列と内務省の系列と両方でやってますね。国内だとすれば、本来なら内務省だけでやるべきことですけれども、それだけでは力が足りないから、国防省のほうからも出しています。とにかく、これら3種の軍事組織は確かに武力を使うという点では共通した性格を持っているので、連携プレーはありますけれども、組織としては別々ですね。それぞれ長官がいて、その長官というのはみんなかなり政治的ランクが高くて、共産党書記長に直属するという型だったわけですね。
 ただ、91年ぐらいまで行きますと、もうゴルバチョフの権威がゆらぎ、コントロールが効かなくなりますから、影で独走するということが可能になってくるわけです。ブレジネフはわりとそれは注意して、70年代から国防大臣とKGB長官は必ず共産党の政治局に入れて、共産党書記長に直属させるという形でコントロールを図ったわけですね。そういう形で党中央でコントロールする。シビリアンコントロールと言っていいかどうか分からないけれども、党によるコントロールですね。
Q 軍の最高司令官というのは、結局、党の書記長ということになりますか。
塩川 具体的職名や機構は時期によっても違いますし、私は軍事は専門ではないので、あまり細かい点まで正確に言えませんが、ともかく大きな型としては、国防大臣と別に最高司令官というような職があり、後者は共産党書記長が兼ねるのが普通だったと思います。
Q 核のボタンは党の書記長が持っていたということですか。
塩川 そうですね。
 
経済の行き詰まり――経済改革論の起源
 
Q ソ連の国内で、経済的な意味での行き詰まりが出てきて、何らかの改革をしなければいけないというムードというか雰囲気というのは、もうフルシチョフ時代ぐらいから出てきているものなんですか。
塩川 まあそうだとも言えます。ただ、行き詰まりとか変革の必要性というものが、どのくらいの重みを持つのかは、時期によっても違うし、どういう側面に注目するかによっても違うわけです。経済改革論そのものは、早い時期からくり返しくり返し出ているわけですね。実際に経済成長が鈍化するからということもあるといえばあるんですけれども、ただ経済の実態というのはいろんな要素によって変動しますから、「完全に行き詰まってどうにもならない」ということには、そう簡単にはならないわけです。特にブレジネフの時代には石油価格が大幅に上がり、ソ連は石油輸出国ですから得をするわけですね。ほかの要因ではだめでも、石油のおかげでもつという面があるわけです。今のロシアもそうですけれども(笑)。
 ゴルバチョフにとって非常に不運だったのは、ゴルバチョフ政権になった途端に石油価格が暴落したんですね。こういうふうに具体的な経済の動きというのはその時々の条件によって変わります。絶対にどうしようもないという状況というのは、そう簡単にはできない。ただ経済学者がいろいろ分析して、長い目で見るとこのままじゃ高度成長は維持できないな、というようことは、これはだいぶ前からいえるわけですね。そのことと、だから人々が誰もかれももう絶対に我慢できないから打ち壊しをやるんだということにまでなるかといえば、それはまた別問題です。
 ひどいひどいと言われてますけれども、ソ連時代の経済はずっとプラス成長ではあるわけですね。プラスの幅がだんだん小さくなってきてはいるんだけれども。経済が純然と落ち込んだのはソ連解体後の話であって、ソ連体制の間は、いちばん末期は別ですけれども、基本的にずっとプラス成長です。一般民衆からすれば、食っていくことはできるし、長い目で見れば少しずつ生活は改善している、という意識もあるわけですね。
 ただ、もっと豊かな外国の実例を横目で見る機会がある人は、これでは満足できないという人もいるだろうし、それはその人がどういう環境にいるか、どういう基準で自分を位置づけるかによって違う。私は基本的には、ペレストロイカまでは大多数の民衆は、もちろんいろいろ不満はあったけれども、まあしかし我慢できないほどの不満ではない、という状況だったと思います。「世の中こんなものだ」というあきらめでもって、その体制を受容していたのではないかと思いますね。「これじゃあだめだ」というのは主にインテリであって、大多数の庶民がそうだというわけじゃない。
 
ゴルバチョフ、シェワルナゼ外交――その成功と敗北
 
Q ゴルバチョフが登場してからの話に移りたいと思います。ゴルバチョフとシェワルナゼのコンビで、国際関係というか対外政策においては、かなり緊張緩和とかそういう前進が大きく見られたわけですけれども、一方では、国内問題、とりわけ経済分野での改革というのが、相対的に見れば非常にうまくいかなかった、あるいは遅れたということがあったと思います。一方は滅茶苦茶うまくいって、もう一方はほとんどうまくいかないというようなことというのは、どこに原因があってそういうふうにしか動かなかったのであろうか、ということがよく分からないのですが。
塩川 イメージとしてそういうふうに見られがちなんですけれども、実際はそうでもないんじゃないかなと思いますね。
 まず外交のほうですけれども、これはおっしゃるようにわりとうまくいった時期がありますが、それは1989年末くらいまでで、そこから先は違うと思います。89年末、マルタ会談で冷戦の終焉を米ソ首脳がお互いに確認した。ここまではいわば上り坂なわけです。これは比較的容易に進んだというのは、やはり外交というのはトップリーダーが決断をすれば、それで決まる面がわりと大きいわけですね。経済というのはありとあらゆる、官僚から労働者から農民から、一般市民がどういうふうに動くかという問題ですから、非常に複雑であるのに対して、外交のほうは比較的トップリーダーの決断によって変わりうる、それはあると思います。
 ところが、90年以降になると、非常に違ってくると思います。どういうことかといいますと、ゴルバチョフやシェワルナゼが期待していたのは、自分たちの側が歩み寄ればアメリカの側も歩み寄ってくる、そして冷戦という構造そのものがなくなっていくということですね。これを彼らは期待していたし、また世界中の多くの観察者もそれを期待していたと思います。他方、アメリカの当局者が何を腹の中で考えていたかは、ちょっと定めがたい面がありますけれども、少なくともある時期までは、交渉相手のメンツをつぶさないために、かなり相手をおもんぱかるといいますか、そちらが譲歩するならこちらも譲歩しましょう、という態度をとっていたと思います。
 しかし90年、91年というのは非常に大きく変わっていくわけです。その一つはドイツ統一ですね。これをいわゆる西への吸収合併方式、NATO残留、という形でやっていく。ドイツが統一するということ自体は、ベルリンの壁が89年末に崩壊した時点でもう明らかだったわけですけれども、それをどういう手法でどういう形でやっていくか、統一後のドイツがどうなるかということについては、いくつかの選択肢があったわけですね。それが圧倒的な西への吸収合併、NATO残留、という形になった。これはソ連側から見れば敗北以外の何ものでもない。
 それからもう一つが湾岸戦争ですね。これは、アメリカが冷戦後の世界において一人勝ちであるということを宣言したことになります。ソ連は元来イラクの友好国だったわけですけれども、アメリカに追随する以外は何もできないということですね。ですから、米ソ、あるいは東西の両方が相互に歩み寄るということじゃなくて、一方が他方に一方的に勝っちゃう。これは実は冷戦の構図がなくなったのではなくて、構図はそのままで勝負がついた、こういう形に変わってしまっている。これはもうゴルバチョフ、シェワルナゼ外交の敗北ですね。
 ですから、90年、91年になって、ゴルバチョフもシュワルナゼもソ連で支持率が急速に下がっていく。これは外交における敗北ということで、「国を売ったのはだれだ」という責任追及をされるわけです。外交については、決して全部うまくいったのではなくて、うまくいくかに見えた前半と、一挙に暗転した後半、やや単純化していえばそういうふうに大きく分かれると思います。
 
シェワルナゼ辞任――ゴルバチョフは、かばいきれず
 
Q 先ほどの、89年までと90年以降の問題にいくらかかかわると思いますけれども、シェワルナゼが、90年末だったと思いますが、「独裁が台頭しつつある」という警告と共に辞任しますね。あのちょっと前ぐらいから、シェワルナゼとゴルバチョフの間に何らかの齟齬が起こって、通俗的にいえば仲が悪くなったとか、盟友関係が壊れていくというような事態があったようなことを聞いていますが、その辺の離反の問題というのは、90年以降起こった外交の敗北という、現実の評価の問題として起きたことなのでしょうか。
塩川 つまり直接担当者たるシェワルナゼは責任の逃れようがないわけですね。敗北ということに対する責任追及の矛先は、まずシェワルナゼに向かうわけです。これに対し、ゴルバチョフに限りませんけれども、最高のトップに立つ人は、自分のすぐ下の部下が何らかの領域でケチをつけた、ミソをつけたというときに、どこまでかばいきれるかという問題ですね。考え方が近いか遠いかということとは別に、あまりかばいすぎたら自分も一緒に沈没する。「自分は違うんだ」といって距離を置かないと、自分の地位が保てないということがあるわけですね。ですから微妙にシェワルナゼと距離を置くようになったと思います。
 ただ、ゴルバチョフ自身がそれまでの外交にずっとコミットしてきたわけですから、基本的な立場がそんなに開いたというふうには、私は思わないですね。ただあの時点での、特に軍をはじめとする国内世論の外交敗北に対する不満の声というのは、非常に強かったですから、やっぱりそれは人身御供をつくらなきゃしょうがない、という状況に追い込まれていたと思います。
Q そのへんの外交敗北なんかから来る、そういう批判の圧力の中で、結局ヤナーエフという副大統領が選ばれざるをえないような状況になってきたということですか。
塩川 あれは大した意味はないだろうと思いますけれども(笑)。しょせん二流の人ですから。
Q ええ。ただヤナーエフを副大統領にしようという勢力は、91年8月のクーデターというのをその時点で既に考えていた…
塩川 そこまではまだ考えてないですね。だれも、ヤナーエフは何もしないだろうと思ってたでしょう。非常に無難な、毒にも薬にもならない人という人選です。いざクーデターが起きた時に、名目上は副大統領を表に立てないと仕様がないから担いだというだけであって、彼は何らイニシャチヴをとってないと思います。
 
民主化が進めば進むほど、経済改革は困難に――少し経済改革を始めただけで、もう悲鳴が上がった
 
塩川 次に経済のほうですけれども、外交と違って経済というのは、少数のトップリーダーがどう決断すればどう変わるというものではなくて、本質的に複雑な対象なわけですね。ちょっといじればどうなるというものではない。しかも、これまで人為的に非常に低い水準に多くの物資の価格を抑えてきた、ということがありましたから、価格を自由化すれば大幅な物価値上げになる。それから、これまで非常に効率の低い経営をやっていて、あまり必要でない人まで企業に雇っていた。これを、企業を合理化するということはどんどん首を切っていかなかればいけない、こういうことを含むわけです。物価上昇、首切りというようなことは、決して人気のいい政策ではないのは明らかです。経済学者は最初からそれをしなければいけないということははっきり言っていたわけですけれども、政治家はこれに踏み切ることができない。ですから、ある意味では民主化が進めばすすむほど、経済改革というのは困難になってくる。こういうジレンマがあるわけです。
 それから、これまで社会主義というものがどんなに非効率だったにせよ、それなりに一応動いてきたわけですけれども、それを壊してまた別のシステムに置き換えていくのには、どうしても時間がかかるわけですね。これは今日われわれが目にしているところですけれども、体制の移行期にはむしろ生産が落ち込むわけです。
 経済改革に対するある種の幻想が経済学者以外の人にあって、経済改革すればすぐ良くなるはずだという期待感を人に抱かせてしまった、というところに問題があったと思います。経済改革というのは決してそんなに簡単に人々の生活を良くするものではありません。長期的にはそうなる方向を目指すものですけれども、短期的には生産が落ち込み、物価が上がり、失業が出て、社会福祉も削減される、こういう時期を通るということなわけです。ゴルバチョフの時期には、それを少しだけ始めた。でも、少し始めただけで、もう悲鳴が上がったということですね。
 実は、エリツィンの時代になって、ある意味では当然予想された事態ですけれど、経済実態はソ連時代よりもはるかに悪くなったわけです。経済改革にある程度手をつけた時点で経済実績が悪くなるのは、むしろ当然のことであって、なぜと問うほうがおかしい(笑)。それはむしろ当然の結果である、と言うべきではないかと思います。
 
ペレストロイカ後期に国民の不満が高まったのは、実態が悪くなったからではなく、希望だけがかきたてられる「期待の爆発」
 
塩川 そういうわけで、経済改革をやるぞといっただけですぐに経済実態が改善されるわけはないのですけれども、言論が活発化すると、無責任に希望だけがふくれ上がらせられるという面があるわけですね。ペレストロイカ後期に非常に国民の不満が高まったのは、実態が悪くなったからというよりは、希望だけがかきたてられたからという面があります。
 「期待の爆発」という言葉がありますけれども、そのことによるギャップの拡大ですね。それまでは、別にそんなに良くなると思っていなければ幻滅もしないで済んだのが、今や改革の時代、ペレストロイカの時代で、どんどん良くなるはずだというような、何となくムードだけがかきたてられて、ムード先行で期待値だけがワーッと上がっていく。で、現実はあまり良くならない。しかし、実は「あまり良くならない」程度であって、決してガクッと落ち込んだわけではないんですね。だけど期待のほうがどんどん大きくなれば、そのギャップが不満感として爆発する、それがペレストロイカ後期の現状だったと思いますね。
 経済実態からいえば、むしろソ連解体後のほうがもっと悪くなっているわけですけれども、今度はむしろ人々は疲れちゃって、反抗する元気もないというようなことがあります(笑)。ですから国民の反抗というのは、生活水準が悪くなると反抗が高まり、良くなると収まる、というものではないんですね。そこのところはむしろ非常にズレがある。
 
国民が買いだめしちゃう――供給量は減ってない、需要が増えている
 
Q 商店に商品がほとんどないというか、ウインドーからほとんどものがなくなったというような事態がペレストロイカ後期のほうにあったと思いますが、あれはモノがないのじゃなくて、どこかに大量に隠匿されているとか、そういうことだったんですか?
塩川 それもありますけど、財政規律が緩んで、企業もある程度賃金決定を自由化すると賃金をつり上げることがありますし、それから政府が「民主化」圧力のもとで社会保障出費なんかも増やしますし、住民の手元の貨幣がだぶつくわけですね。貨幣流通量がものすごい勢いで増えていたわけです。だから買い切られちゃうわけです。誰かが売り惜しみしているというよりも、国民が買いすぎちゃう。買いだめしちゃうわけです。ちょうどオイルショックのときの日本のトイレットペーパー騒動と同じで。
Q 全部家の中にあったみたいな…
塩川 そういうことになるわけですね。
Q お店になくて…
塩川 店にないというのはそういうことなんです。しかしそれは安い値段を据え置いてるからそうなるわけです。これをバッと値段をつり上げれば、需要に水がかけられますから、不足が解消するのは当然です。
 もちろんどんどん押し詰まっていきますと、最終的には生産が落ち始めますけれども、その直前ぐらいまでは、決して供給量は減ってない。需要のほうが増えているということなんです。大量飢餓が発生するんじゃないか、と一時期言われたことがありますが、あれは完全に無責任なデマですね。そういう無責任なデマが飛び交うということが、心理的な不安を増幅するということのほうが、むしろ大きい要因であって。
Q それが分からなかった。モノがないからもうだめなんじゃないかと思った。(笑)
塩川 もちろん中には買いだめのできない人もいますから、局部的な現象としてはほんとに食うに困る人が出てきますけれども、それは局部的な現象であって、全体量としては十分足りていたんです。
Q レストランのメニューを見ても、魚料理と肉料理の1種類ずつしかなくて。どっちにするかみたいな。
塩川 それは流通の不備ですね。流通の不備はものすごい。今でも多少そうだけれども。きめ細かい流通の調節というのができませんと、全体量として足りていても、いつでもどこでもあるというわけにはいかないということです。
 
500日経済改革案――連邦と共和国の財産の分捕り合戦
 
Q シャターリンの500日経済改革案というのがありましたね。あれをめぐってかなり綱引きがあった。
塩川 あの時の最大の問題は、経済政策をめぐる論争だったはずのものが政治シンボル化してしまったことです。純粋に経済政策だけの選択でいえば、何もあんなに大騒ぎする必要はなかったわけです。経済政策というのは量的かつ複合的なものですから、その中でのさじ加減をどうするかということで、妥協的な調節はいくらでも可能なわけですね。二者択一的に百かゼロかというふうなものではない。ところが政治闘争のシンボル化したために、これを丸飲みするかしないか、しなければ裏切りだ、こういうレトリックが使われたわけですね。これは、非常に不幸なことだったと思います。
 500日案が、そのものとして採択されなかったことをもってゴルバチョフが経済改革から後退した、というふうにその当時よく言われたわけですけれども、私はそれは違うと思います。後退ということではなく…経済改革をある一定の手法で進めようとしていた。ただ、その主導権をだれが握るかということが最大の問題で、エリツィンは自分が主導権を握りたかった。それが受け入れられなかったということに対して、これでなければ経済改革ではないんだ、そういうレッテル貼りをしたわけですね。
 これは、連邦と共和国の権限争いが一番関係しているわけです。それまでのソ連では、ほとんどあらゆる生産手段が国有であり、国有ということは、管轄がいくつかに分かれていて、連邦で管轄するもの、共和国で管轄するもの、地方自治体で管轄するもの、いろいろあったわけですけれども、いちばん中枢部分、大きな役割を果たすのは連邦管轄だったわけですね。それを共和国が、「これは自分のものだ」といって接収する。そういうことがそのころから始まったわけですね。
 だけどそれは、経済改革をするかしないか、という話とはちょっと別の問題であって、要するに、これまで国有財産だったものを民営化していくときにだれが乗っ取るかという、財産の分捕り合戦なわけですね。今日に至る「マフィア経済」みたいなものの出発点が、ここにあったと思います。ある種のルールをつくって、法律を定めて、それに則って民営化を進めていくか、そんなことをやっているとまどろっこしい、「とにかく俺はここを乗っ取るんだ」と誰かが宣言すればそれで自分のものになるというやり方か、ですね。後者のやり方がいったん正当化されれば、我も我もと、乗っ取りをやらないほうが損だということになりますから、早い者勝ちで、いわゆる「仁義なき闘争」になってくる。そういう仁義なき闘いというものが、今日に至るまでずっと続いているわけですけれども、その出発点になったのが、実はこの500日案をめぐる政治闘争だったというふうに、今から見ると見えますね。
Q 当時のルイシコフ政府が、結構500日計画に直接強く反対をして足を引っ張った、と言われていたと思いますけれども。
塩川 それがまさしく、いま言った政治闘争との絡みですね。エリツィン側は共和国が経済改革の主体になっていくんだということで、連邦政府の出る幕はない、と言ったわけです。ある企業がロシアにあればロシアが取るんだ、連邦政府は引っ込んでろ、そういう話です。
Q その辺に頭に来てたということですか?
塩川 それはルイシコフとしては絶対にのめない話ですね。経済改革をするかしないかじゃないんですね。どっちもするんだけど、誰が中心になって推進して、その際に民営化のヘゲモニーは誰が握るかということ、つまり今まで国営だった財産を誰が乗っ取るか、こういう話なんですね。連邦政府も決して民営化反対ではなくて、その少し後に民営化の法律をつくってますし、それは進めようとはしているわけです。だけど、それを連邦の法律に則って進めるのでなくて、連邦政府や連邦の法律なんていうのは一切関係ないんだ、共和国は共和国で法をつくってやっていくんだ、こういう路線が提起された。それを最も強く出したのがエリツィンのロシアであり、そうすると他の共和国も、「全部ロシアに取られちゃ大変だ」というので、俺も取ろう、あれも取ろうということになる。あるいはロシア共和国が取るんだったら、その下の州も取ろうとか、モスクワ市も取ろうとか、そういう話になっていくわけですね。
 まあ、ある意味では滅茶苦茶な話です。国立大学は国立大学であるのがけしからん、設置形態を変えろ、という話はありうると思いますけれども、そうするときに、いきなり東京都は、東京に東京大学があるからこれは東京都立にする、文京区は、文京区にあるから文京区立にする、というようなことで分捕り合戦をやったらどうなるか(笑)、そういう話ですね。
 
ゴルバチョフ政権の空洞化――ソ連各共和国の独立、主権宣言
 
Q そういう意味ではその時点でもうすでに、ソ連邦の実態としては崩壊している…?
塩川 エリツィンがロシア政権をそういう方向にもっていった90年の後半以降、だんだんそういう方向に向かいつつあったということだと思いますね。とにかくソ連の中のロシアというのは、人口で約半分の比重を持っているわけです。そのロシアで、政権はエリツィンが握ったわけだし、ロシア共産党というのはエリツィンともゴルバチョフとも対立している勢力が握るということになって、結局のところ、ゴルバチョフとしては、政権の側も共産党の側も両方ともロシアでは基盤がなくなっちゃったわけですね。
 ですから、90年後半段階では権力が空洞化しているわけですね。非常にゴルバチョフの立場が弱くなっていた。ただ、それでもとにかくかろうじて、それまでの法制に基づいた正統性というものを持ってるし、外国から認められた元首であるし、いろんな共和国の利害が対立している場合に、その上に立つ調停者としての役割を果たせるということで、かろうじてもう1年半頑張ったわけですね。
 そうした調停者としての役割さえ認めない、ということまで突き進むかどうかというのが、いちばん最後の決断ですね。つまり、ソ連というものを今までのような形では残さないというのは、かなり広い合意ができつつあったわけですけれども、各共和国が独立国になっても、EUを始め、世界中にいろんな国際協力機構というのがありますが、やっぱり国際協力というのは必要だから、何らかの形で緩やかな同盟関係を維持する必要があるのではないか。その役割をゴルバチョフに与えるという形で進めるか、もうゴルバチョフには一切出番はないというふうにするか、その分かれ目が91年末に現れてきます。
Q それが新連邦条約という名前で呼ばれたものですか。
塩川 新連邦条約作成の試みは、1990年後半から91年末まで、ゴルバチョフの呼びかけでずっと続けられ、その中で新しい連邦(同盟)の中身をより分権的なもの、事実上の国家連合のようなものにしていくという方向性が打ち出されつつありました。ただ、それでも、その緩やかな同盟ないし連合において調停者的役割を果たすのはゴルバチョフと想定されていたわけです。ところが、91年12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシだけで連邦解体を宣言するというのは、ゴルバチョフにはもう出番はない、ということを突きつけて、完全に主導権は自分の側に奪う、そういう宣言だったんですね。
 
ソ連大統領制の意味――ゴルバチョフには理性とか言葉に対する信頼がオメデタイほど大きかった
 
Q ゴルバチョフが大統領制を導入しますけれども、あれは拡散した権力を集中するという意味なんですか。
塩川 もう少し、質問の趣旨を敷衍していただけますか。
Q 党の権威が下がってきて、党書記長の統制力が失われてきているところで、国家元首として統制を強めようという…
塩川 ええ。共産党から国家機構へと権力の重心を移していくということでしょうね。共産党の幹部の中でゴルバチョフの路線に完全に賛成した人というのはほんとに少数しかおらず、これを権力基盤とし続けるわけにはいかない。そこで、共産党から自立した権力基盤をどうやってつくるか、というのがゴルバチョフの非常に大きな課題だったわけですね。大統領というのは一応一つの試みとはいえばいえるけれども、しかし全く成功しなかったですね。
 そして、連邦で大統領制ができると各共和国も次々と「共和国大統領」というポストを導入して、権力の共和国への拡散がどんどん進んじゃうわけですね。やっぱりそれはエリツィンのほうがずっと、「死んでも権力を離さないぞ」という、根性みたいなのが強いものがありますね。
Q ということは、ゴルバチョフのほうにはそういう権力欲みたいなものが希薄だったということですか。
塩川 そうですねぇ、人物評価というのはなかなか難しいですけれども、今から見るとそういうことですかね。やっぱり理性とか言葉とかいうものに対する信頼が、後から見ると、ちょっとおめでたいほどに大きかったという感じがして(笑)。なりふり構わず権力にしがみつくとか、そのためにはありとあらゆる手を打つという、そういう権力政治家としての資質というのはあまりなかったように思いますね。
Q そんな感じがしますね。
塩川 どっちがいいのかというのは、これは難しい問題でしてね。政治家としてはやっぱり権力闘争に勝ち抜かなければ話にならないという面がありますけれども、そればかりでいいのかという問題もあるだろうし(笑)、やっぱりゴルバチョフはああいうスタイルでやるしかなかったんでしょうね。
 
ゴルバチョフとエリツィンの対立――同じ歳のエリツィンが遅れて中央に出てくる
 
Q ゴルバチョフとエリツィンの対立というか、最終的には敵対する関係になったと思いますが、それのきっかけは何だったんですか。
塩川 いろんな事情の積み重ねがあったと思います。どちらも1931年生まれで同じ歳ですよね。中央に出る前も、ゴルバチョフはスターヴロポリという地方の第一書記をやって、エリツィンはスヴェルドロフスクという州第一書記をやっていて、同格だった。しかしゴルバチョフの方が一歩早く中央に出て、エリツィンが遅れて中央に出て、しかもその時もゴルバチョフほど高い地位ではなかった。もうその時点でエリツィンは面白くなかったという説がありますね(笑)。ゴルバチョフは、歳は同じだろうが、とにかく自分がランクが上なら上から見下ろすというようなところがあったみたいで、エリツィンとしては最初の段階から、「俺はおまえの下じゃないんだ」と言いたいところがずっとあったような感じですね。
 最初の時期はそういう個人的な肌合いの違いとかがあっても、政策面での違いというのはほとんどなかったと思いますね。87年に一度エリツィンが失脚するわけですけれども、この時点でも、私の感じでは、はっきり異なった政策をエリツィンが提起して切られたというよりは、個人的野心のぶつかり合いでああいうふうになったというだけのことであって、それだけ取ってみれば大きな出来事ではなかったんじゃないかと思います。
 ところが、ちょうどああいう時代だったものですから、失脚したという事実が彼をヒーローにしたわけですね。最初から、いわゆる急進改革派とか民主派のリーダーという感じで登場したわけではないのです。いわゆる急進改革派とか民主派というのは、あまりこれまで政治と縁がなかったインテリなんかの中から出てきたわけですけれども、インテリは言葉は達者だけれども政治的リーダーがいない。そこでエリツィンというのが、担ぐのにちょうど都合がいいということで、この両者がドッキングしたわけですね。
 
壊し屋としてのエリツィンと民主派インテリ――どちらがどちらを利用するか
 
塩川 何人かの人が後に回顧してますけれども、インテリの側は、エリツィンに対してある種の不信を持ってはいたけれども、ただ突撃宣言を発するだけの人間であって、それ以上のことはどうせしないだろう、と軽く見ていた。だから古い権力構造を壊す間だけ使えば、あとは自分たちの世の中だと思って、一時的に利用するつもりでエリツィンを担いだ。しかし、政治力からいうと、エリツィンのほうがはるかに上であって、インテリなんていうのは、ある時期エリツィンの都合のいいように利用されて、ポイと放り出されるということだった。どっちがどっちを利用するかといえば、利用するつもりの民主派が利用されて捨てられたという形に、結果的にはなっていったということじゃないかと思います。
 エリツィンにとっては、あまり特定の政策というのにコミットするということはないんですね。スターリンとよく似ていますけれども、その時その時にこういうふうに言うのが自分にとっていちばん有利である、ということを言ってるだけなんです。ですから、ゴルバチョフと政策で食い違ったというよりは、権力をだれが握るかというところでいちばん衝突した。
Q たまたまその時期として、経済問題での急進改革派の上に乗っかったから、そこの部分の政策的な齟齬があるように客観的には見えたという…
塩川 そういうふうな構図で当時は盛んに説明されたわけですよね。しかし今から見ると、どれだけ実質的な争点があったのか、というのは非常に怪しく見えるということですね。
 
エリツィンは、全く違うことをガラッとやっても平気な人です――神経がタフだ
 
Q 先ほど、ゴルバチョフが理性や言葉に対する期待がおめでたいほど大きかった、ということを言われたのが印象的だったんですけれども、それをドライブする力をゴルバチョフ自身が持っていたらどうだったのか、といういうことは、これは架空の議論でしょうね(笑)。
塩川 もちろんさっきはちょっと誇張して言ったので、ゴルバチョフといえども政治家ですから、権謀術数の要素もなかったわけじゃありません。ですけれども、少なくともエリツィンと比較的して足りなかった、ということになるだろうなということですね。
Q あのスタイルとしては…
塩川 いったんあるスタイルで売り出したということがあると、そのスタイルでの成功がその人を縛るという面もあるでしょうね。やっぱりゴルバチョフは言論の自由化、インテリにどんどん勝手に議論させるということで人気を博したわけですからね。そうすると、その後で全くガラッと違うことをやるというわけにはいかない。その点、エリツィンは、全く違うことをガラッとやっても平気な人ですからね。そこは神経がタフだなと思いますね(笑)。ゴルバチョフは、一度ある政策でもってアピールしたら、それを撤回することはできないという人だと思いますね。
 バルトやなんかの流血事件にしても、あれは、ゴルバチョフがどの程度その背後で、「やむをえない」ぐらいまでのことを言ったかというのは、はっきりしない面がありますけれども、少なくとも自分が号令をしたことはないし、流血の後はすぐ止めようとするわけですね。だけれども、これは非常にデリケートな話だけれども、ある局面で思い切って軍を投入するとかということをやったほうが、政治家としては勝つということがあるわけですね。
 
武力行使をためらわない人間の方が権力を維持する――エリツィンの流した血とゴルバチョフの流した血
 
塩川 あの当時、ゴルバチョフ政権の時代に軍による流血事件が何件かあったということを、あれだけ批判した勢力によって押し上げられたはずのエリツィン政権が、その何十倍、何百倍の血を流しても持ちこたえているわけです。これはすごいことですよ。ゴルバチョフ時代の流血というと、トビリシ、バクー、ビリニュス、リガ、4件ですね。エリツィンになってからは、モスクワでの大きな衝突事件(93年)で100人以上の死者を出し、チェチェンでは、政府側だけでも、そして、99年以降の第2次作戦だけで死者が1万を越えていますけれども、反対側を入れるとどうなりますかね、おそらく10万の桁になるんじゃないか。ゴルバチョフ時代と桁が三つぐらい違いますね。
 もちろん、むやみやたらとタカ派というか、武力行使するのを安易に肯定するわけではないけれども、どうも現実問題としては、そこでためらわない人間のほうが権力を維持している。そこでためらった指導者というのは、なんか弱い指導者というイメージを持たれて、権力闘争で負けていくという、非常にいやな話ですけれども、悲劇的な対比があるような気がしますね。
Q 中国なんかの場合(天安門事件)もそういうことが言える可能性がありますね。
塩川 そうですね。だから結局、中国の道が良かったという人は、ソ連解体後のロシアでも多いですね。
 それから、さっき、外交面での敗北に触れた時言った話ですが、東欧の勢力圏を失ったことに関して国内で突き上げがあったとき、そのたびにゴルバチョフは、「だからといって、また戦車を出せというのか」と言ったわけです。つまり「戦車を出す」というオプションはない、と…それだけはできないんだ、ということで自分を縛っているわけですね。これは非常に立派な事なんだけれども、しかし、そのことによって国内での権力基盤は非常に弱くなっちゃう。こういうのを見ていると、つくづく政治家というのは因果な職業だなという気がしてきますね。
Q 彼の政治家の資質からして、そういう限界というのは最初からあったということでしょうか?
塩川 そうかもしれないですね。ただそのおかげで、これは一応ありがたいことに、と言っていいと思いますけれども、失脚しても別に命を奪われるわけでもないし、幽閉されるわけでもなくて、今でもロシアのマスコミに出てきて、ご隠居さんとして大所高所からものを言うという立場にはあるわけですね。まあゴルバチョフみたいな人は、むしろ権力者であり続けるよりも、そういうほうが似合っているんじゃないかな。そういう場では正論を言って、それで終わりで済むわけです。しかし、どう頑張っても現実政治の世界に返り咲くことはない。本人は野心はあるんですけれども、支持率なんかからいうとものすごく低くて、現実政治家としては全く評価されてない。ただ、評論家的な立場としてはそれなりに場を与えられているということですね。
 
ソ連共産党という組織――各国共産党の独立と保守
 
Q 共産党組織というのは、ぼくはよく分からないのは、ソ連共産党というのがありますね。各共和国にも共和国の共産党というものがあるんですね。
塩川 ソ連共産党と別個の組織ではないですけれど。
Q 要するに支部みたいなものですか。
塩川 支部みたいなものです。ただ名称がそういう言い方になってるんですね。ウクライナ共産党とかエストニア共産党とか。ソ連共産党ウクライナ支部というのと実質は同じです。ただ「ロシア共産党」という組織は1990年までつくられませんでしたが。
Q バルト三国なんかから最初に出てきた、各国の共産党がソ連共産党から離脱したいというのは、国が独立したいということと全く同じことと考えていいんですか。
塩川 全くでもないですけれども、平行して出てきます。ソ連共産党の中でどういう位置を占めるかという党の中の関係と、国家の中の関係というのは、別といえば別です。ただバルト三国の場合、かなり重なっていたでしょうね。他方、中央アジアなんかだと話は違ってきます。つまり中央のペレストロイカが及んでくるのを防ぐために、地方の共産党組織を中央から自立させたいというのがありますからね。各地域の共産党が自立化していくというのは、いわゆる急進改革の方向、あるいは独立の方向だけじゃなくて、もっと保守的な方向にも作用するので、それは地域によって意味が違います。そういう違いはあるけれども、全般的にペレストロイカの趨勢の中で、共産党においても中央に対する批判が表面化してくる、これは非常に大きなことですね。
 これもやっぱりゴルバチョフにとっては、ある意味では結果論になりますけれども、ナイーブな、民主主義というものに対する信頼があって、「党内民主主義」の原則を実行しようとした副産物というところがあります。これまでのように上から下に命令するのをやめて、地方のことは地方に任せるという風にしたらば、地方共産党組織がどんどん言うことを聞かなくなっちゃった。急進改革派であれ保守派であれ、どっちもそれぞれ違う方向にどんどん逃げていくということだったわけですね。権力維持の観点からいえば、せめて保守派だけでもつなぎ止めておくということが、中央集権制を貫けば可能であったかもしれない。それもしなかったということですね。
Q そうすると、例えばリトアニア共産党が入っている建物というのは、ソ連共産党の所有物なんですか。
塩川 それはそうなんですけれども、ただもう一つ、ソ連共産党の財産はいったいどうやって形成されたのか、という問題があります。それはソ連共産党が、党員から党費を集めたり機関誌を売ったりした売上だけから形成されたのか、それとも国費を流用したのではないか、こういう疑惑がかけられるわけです。かなり国費を流用してそれを党の名前で登記したのだとすれば、「それは横領したんだから戻せ」という話になるので、共産党の建物、あるいは出版社、印刷所、こういったものの財産争い、これが至る所で問題になってくる。これも正確には突き止めようがないわけですね。力の強いほうが取るという感じになって(笑)、共産党が強ければ「これは共産党のものなんだ」と言って押さえるし、反対派側が強ければ、これはこうなんだと押し寄せるし、そういう争いが至る所で起きるわけですね。
 元をただせば、おそらく丼勘定でやっていたと思いますから、何%が党の正当な収入で、何%が国費を流用したのかということは、おそらく決めようがない、水掛け論みたいなところがあると思います。しかし政治闘争が非常に激化しているときには、そういうことをできるだけ冷静に分けていくというのじゃなくて、とにかく力の強いほうが分捕るという形になりますから、そうなると暴力的衝突も起きてくるわけですね。
 リトアニアでの流血も、結局、いちばん直接なきっかけはそういうことで、ある建物を誰が占拠するとかしないとかいうことで……
Q 党機関紙の印刷所なんかでしたね。
塩川 そういう風なことから起きるわけですね。もちろんこれがすべてではないと思いますけれども、少なくとも表向きの説明だけからいえば、それは軍事力を行使することに対する一応の説明にはなるんですね。ある集団の合法的な所有物を別の集団が不法に占拠しようとした、と。それを防衛するために、しかも向こう側が武装しているからこっちも武装して防衛線を引かざるをえない、そういうことから衝突が起きたというのが…それがどこまで本当かウソかというのは、またちょっと定めがたい面がありますけれども…少なくとも最初から独立政権をひっくり返すとか、そういう名目でなされたわけじゃないんですね。
 
ソ連の解体――ロシア、ベラルーシ、ウクライナの決断と他の共和国の関係
 
Q 91年12月に、ロシアとベラルーシとウクライナの三国でソ連の崩壊を宣言して、独立国家共同体をつくるという声明を出すわけですけれども、基本的にはあの行動自体は違法な行動だという解釈でいいんですか。
塩川 革命というのは法を破る行為ですからね(笑)。違法だ合法だは言っても始まらないことですけどね。一番問題なのは、ソ連を構成した他の共和国の意向をどこまで考慮するかということですね。特に中央アジア諸国ですけれども、彼らを無視して3国だけで結論を出してしまったのは明らかにおもしろくなかったわけですね。おもしろくなかったけれども、だから反対するのか、それとも、おもしろくないけれども追随するのか、そういう選択を強いられて、結局追随した。そのことによって、3国の決定は事後的に正当化されたということになるわけですね。
Q その三つの国がソ連崩壊を宣言したときには、実際にはウクライナだけが国民投票で独立するかどうかを決めて、「独立する」というのが多かったという、そういうプロセスを踏んでいて、ロシアとかベラルーシではまだそういうことが国内的に行われてないですね。後では行われるんですか。
塩川 ロシアは最後まで独立宣言はしてないです。ロシアは奇妙なんですね。「ソ連から独立した」のか、「ソ連を継承した」のか、これははっきりしないんですね。その時によって違ったレトリックを使うわけです。ロシアも他の共和国と並ぶone of themだったとすれば、「ソ連から独立した」はずなんですけれども、ソ連の中枢であったとすれば、そうではなくて、「ソ連を引き継いだ」ということになるわけですね。結局、領土を縮小してソ連を継承したという形になったわけです。しかし、その直前まで言っていたレトリックは、「独立」というニュアンスをほのめかしていたので、そこは使い分けがありますね。
 さっきもいったことですが、これまでのようなソ連はもう維持できないということはゴルバチョフも含めて広い合意事項となっており、各共和国の独立への動きも止めようのないものになっていたわけですが、その「独立」をどのような形で進めるかには、いくつかの考え方がありました。独立国同士の間でも同盟とか国際協力機構というのはあるわけだから、ソ連というものがこれまでのとは違う形になって、独立国同士の共同体とか同盟とかというものに生まれ変わるとすれば、各共和国が独立するということと、「生まれ変わったソ連」の中にいるということは矛盾しないわけですね。これまでのソ連であれば独立国と両立しないけれども、そういう形での再編成ということならありうる。それがゴルバチョフの推進してきた流れですが、それを断ち切るという考えがもう一つあって、その両者の綱引きの結果、最終段階でロシアがすべての結び目を断ち切るような形での決断をする。これは他の共和国の独立志向を重んじたからではなくて、むしろ、ロシアにとって、ほかの共和国を抱え込むことが重荷になるというのがいちばん大きな理由だったと思います。中央アジアを無視して結論を先に出し、後から既成事実を押しつけたのは、その端的なあらわれです。
Q この三国だけでやっちゃったということですけれど、カザフスタンにも核兵器が残ってたわけですね。
塩川 はい。
Q その辺のことというのはあまり考えてないんですかね。
塩川 既成事実をつくれば後はついてくるという、そういう手法ですよね。カザフのナザルバエフにあらかじめ連絡したという説と、しなかったという説と両方ありますけどね。しかし、仮に連絡したとしても、結論はもう決まっていて、「これに調印しろ」ということですから、押しつけには変わりありません。だから、ナザルバエフは最初非常に怒ったんですよ。怒ったんだけれども、しかし自分はプラグマティストだから、「覆水盆に返らず」といいますか、ここまで進んだものをひっくり返すことはしない、と。その決断は非常に大きかったと思いますね。ナザルバエフが反対したからといってどうなるものでもないけれども、少なくとも、ほかの共和国もみんな三国の決定に合意を与えたという形になるかどうかの違いは大きかったですね。
 さっき違法かどうかという問題が出ましたけれども、最初から違法であるかないかが決まってるんじゃなくて、他が認めるかどうかによって違法になるかならないかが決まるわけですね。両方の可能性があったんだけれども、「まあ違法でないことにしようよ」と皆言ったから、そうなったということじゃないでしょうかね(笑)。
 
ロシアがどんどんソ連の国家機関を接収し始めた
 
塩川 法律的な手続きをいえば、いくらでも問題があるといえばあるんですね。そもそも、まだソ連という国はあったわけだから、その国家機構が自己解散を決定するかしないかという問題もあって、これも、するべきだというのと、そんなのは必要ないというのとありました。ある人たちはやっぱり形をつけようとするし、しかしそういうことをやってると時間がかかるから、そんなの関係ないんだというほうが流れとして非常に強かったんですね。
 財産争いが絡みますから、時間がかかってくると、その間に分配をどうするかという問題が起きてくるわけですね。一刻も早く接収するということで、ロシアが、その直後からどんどんソ連の国家機関を接収し始めた。いろんな共和国が集まって議論していたのでは、最終結論はもう動かないにしても、交渉過程でもめる可能性があるわけですね。それを避けたかったんですね。
Q 結局ロシアはソ連を継承したということで、各国にあったソ連大使館の大使とかはほとんど全部代わったんですか。
塩川 人はどうでしょうかね。むしろ同じ人がやってる例が多いんじゃないですか。建物は、ソ連大使館がロシア大使館になっちゃってるわけですね。あれは、他の共和国も何分の一かの持ち分があるという言い方もできなくはなかったと思いますけれども、それは全部ロシアが接収したわけですね。
Q 国連の常任理事国もですね。
塩川 国連の議席というもの自体が、他の共和国は新規に加入を認めてもらうという手続きが必要だった(ウクライナ、ベラルーシは元から議席を持っていて例外)わけですけれども、ロシアは新規じゃなくて、ソ連の議席をそのまま引き継いだということですね。それは国際社会としても、わずらわしい手続きを踏むよりも、一つだけ継承国があったほうが面倒がないということも、便宜の問題としてあります。ただ、理論的にはちょっとすっきりしないところがありますね。
 
フランス革命とロシア革命
 
Q これも一言や二言でお話を聞けることではないんだろうと思いますけれども、ロシア革命をやった革命家たちは、かなりフランス革命を勉強してたし、意識をしていた側面が非常に強かったと思いますけれども、そういう意味で、ロシア革命とフランス革命という二つの革命を比較した場合、どちらのほうがより大きく世界に影響を与えたか、というようなことを考えた場合、どういうことが言えるでしょうか。
塩川 そうですねぇ……。ロシアの革命家は非常にフランス革命のことを意識して、ある意味では、その延長上に自分たちを位置づけていたということは明らかですね。非常に巨視的な歴史でいえば、フランス革命からロシア革命を通じて、約200年間の世界の歴史は、フランス革命の生み出した時代だったということになるのかもしれないですね。
 ちょうどフランス革命200周年のとき(1989年)がペレストロイカの時期で、フランス革命の評価をめぐってもいろんな論争がありました。フランス革命についてもある時期まで、とにかくあれは人類の進歩の一段階で、民主主義を発展させたというような見方が通説的だったと思いますが、むしろそうじゃなくてフランス革命は非常に犠牲が大きくて、たくさんの無駄な血を流した、残虐な行為をやった、という見方がかなり出てきたりしました。ロシア革命がそれを引き継いだということが、その裏に意識されていたからだと思いますけれども。そういう見方が出てくることは、それはそれなりに自然だと思います。
 最初に私が申した話ですけれども、革命というのは非常に残虐で大量の血を流すものだから、そういうのはやめたほうがよい、しかし古い体制にも問題があったから、保守でも革命でもなくて改良していこうという議論は、抽象的に考えると、確かに成り立つことところがあります。しかし歴史においては、しばしば改良が革命よりも難しい、ということがあるんじゃないかということですね。革命というのは、一握りの狂信者とか陰謀家が勝手なことをやったということでは済まない。多くの人がそれに賛成して積極的にそれを担ってきたということが、非常に重い事実としてあるのではないか、歴史の認識の問題としてはそういう問題があるのではないかと思いますね。
 
ブルジョワ革命と社会主義革命の違いと共通性
 
Q フランス革命というものが、基本的には民主主義という思想を残したということであるとすると、ロシア革命というのは、結局何を残したというふうに。社会主義というものが結局残らなかった、という判断に立つとすると、ロシア革命が残したものというのは何になるんでしょうか?
塩川 「フランス革命で民主主義が残った」ということになるのかどうでしょうか。民主主義思想というのはもっと前からもあったし、あるいはその後、フランスに直ちに全面的に定着したわけでもないでしょう。そういうスローガンを掲げて争われた一つの事件ではあったけれども、それによってすべてが実現したとかいうことではないんじゃないかと思いますね。それはロシア革命にしても同じことです。
 ある種のスローガンを掲げて、大衆が熱狂的にそこに巻き込まれて、ある事件を起こした。もちろん結果的に、目指されたものは実現しなかった。およそ歴史上のあらゆる変革というのは、そのままに実現するものなんてのはないんじゃないですかね。人間が何かこういうふうにしようと思って社会を動かして、その通りになるということは…そう簡単に世の中というのは動いていくものではないわけですから。およそあらゆる革命は裏切られるというふうに言ってもいいでしょうか。
 こういっただけでは身も蓋もないので、もう少し補足しますと、フランス革命にせよ、ロシア革命にせよ、社会的不正をただし、恵まれない人々の生活を改善しよう、そして人間の理性に基づいて合理的に運営される社会を建設しようという動機に鼓舞されていたと思います。巨視的にいえば、どちらも18世紀以来の啓蒙思想の子だったといえるかもしれません。もちろん、そうした変革の主体としてどのような社会層を想定するかとか、将来の合理的社会のイメージをどのように描くか、という点では、いわゆる「ブルジョア革命」といわれてきたものと「社会主義革命」といわれてきたものの間に大きな違いがありました。それでも、先にいった動機に関する限りでは、両者に共通するものがあったと思います。そして、そのような発想は、確かにその後も多くの人の共感を呼ぶものでした。今でも、その「遺産」は完全に消えてはいないと思います。
 しかし、前にも触れた点ですが、そうした動機に基づく運動が「革命」という形をとった時に、いかに大きな犠牲をもたらすか、という事を示したという点でも、両者は共通していると思います。その意味では、啓蒙思想に始まりフランス革命を経て社会主義の実験に至る長い過程が終わりに近づいたのが現代だという様な見方も出来るかもしれません。
 もっとも、もう一つの逆説は、そうした社会主義を終わらせるに当たって、またしても「革命」という手法が取られたことです。ペレストロイカ期のソ連では、「もう革命の時代は終わった」として、破壊を伴わない変革を呼びかける声がありましたが、そうした声はやがて革命的熱狂によってかき消され、ボリシェヴィキ革命に酷似した権力奪取がエリツィン派によって実行されました。これが「革命の時代の最終幕」を意味するのか、それとも何度となく繰り返される革命のもう一つのサイクルに過ぎないのか、それが明らかになるのは、21世紀も大分経ってからのことでしょう。
 
(2000年10月5日・東大でインタビュー・西井一夫、本多正一)
 
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