世界史の中の社会主義――ロシア革命八〇周年に寄せて
 
*社会主義在世界史中的意義」(季衛東氏による中国語訳、香港中文大学『二十一世紀』一九九七年一〇月号掲載)の日本語原文。
 
 
 
 ソ連・東欧で激しい変動の起きた一九八九年はフランス革命二〇〇周年の年でもあったが、その前後の時期にあらわれた種々のフランス革命論のうち、特に目立ったものをやや極端に図式化していうなら、次の二つの見解が注目を引いた。その第一は、従来「人類の進歩の里程標」とみなされてきたフランス革命は、実はそのようにみなされるべき事件では全くなく、むしろ、思い上がった「進歩」思想の実験のために多大の犠牲を払った悲劇的出来事だったとするものである。この見方によるならば、フランス革命渦中の「テロル」は、進歩のためのやむをえざる代価などではなく、進歩主義的革命思想がいかに残忍なものであるかを象徴的に示すものだということになる。そして、フランス革命の後継者とみなされるロシア革命がスターリンの時代に大規模なテロルを引き起こしたのも、革命というものの当然の帰結とされる。
 これとは対照的な第二の見方は、フランス革命が今ではかつての栄光を失っているという説に反論して、それはやはり進歩的意義をもっていたとする。まさにフランス革命二〇〇年に当たる一九八九年に東欧諸国で起きた市民の反乱(東欧革命)は、人権思想や自由と民主主義の思想が東欧諸国にまで及んだことを示すという意味で、フランス革命の今日的意義を再確認させるものだったというのである。
 この二つの見方は、フランス革命評価では正反対だが、ともに社会主義の現状を念頭において議論がたてられるという点では共通している。そればかりではない。第一の見方はフランス革命の否定的側面を引き継いだものとして社会主義をとらえ、第二の見方は社会主義を打倒する市民運動こそがフランス革命の後継者だとしているが、両者ともに社会主義を否定的に評価する点では共通性をもっているのである。二〇世紀が終わりに近づいた時点でフランス革命を振り返った代表的な議論が、社会主義の否定的総括を基軸におく限りで奇妙な一致を示しているというのは、今日の状況を象徴している。
 大きな歴史的事件の何十周年とか一〇〇周年とかが祝われるとき、一時的にその事件への興味が高まるが、それが過ぎると、あたかも通過儀礼としての埋葬式典が済んだかのように、その出来事への関心が急速に低下するというのは、よく見られる現象である。フランス革命二〇〇周年もそうだったし、明治維新一〇〇年(一九六七年)とか、マルクス死後一〇〇年(一九八三年)といった記念行事も、それを境にそれへの関心が失われていく画期だったように思われる。記念日が盛大に祝われ、多くの講演がなされたり論文が書かれたからには、その後はもう忘れてもよい、という心理が作用するのだろうか。
 これに対し、ロシア革命の場合、八〇周年を待たずに、現実の歴史過程がそれを葬ってしまった。もはや、埋葬の式典さえも必要としないかのごとくである。だが、そのように安易に忘れ去られようとしているからこそ、やはり埋葬式典は必要なのではないだろうか。丁寧に葬る作業さえなしに、あまりにも安易に歴史のごみ箱に放り込まれたものは、いつか復讐を企てないとも限らない。私は、あえて死者を呼び起こそうとするものではないが、少なくとも丁寧な死後解剖と埋葬作業は必要だと考える。フランス革命二〇〇年が社会主義を念頭におかずには議論できなかったという事実に示されるように、社会主義圏の出現と崩壊は二〇世紀における最大級の歴史的事件だったのに、それを、ただ単にいまでは滅びたからというだけの理由であっさりと忘れ去ってよいとは思われない(1)。ロシア革命と社会主義は、それをどうとらえるかはさておき、二〇世紀という時代を総括する上で、その基軸におかれざるを得ない現象だったのである。
 
 
 先にみたように、フランス革命がいまでも「進歩的意義」をもつとする主張の一つのよりどころは、一九八九年の東欧革命に人権思想が受け継がれているという点にあった。他方、ロシア革命をいまでも擁護しようとする人は、欧米の資本主義国がロシア革命の衝撃を受けて「福祉国家」に変容したという点を挙げることが多い。ロシアにとっては社会主義の実験は災厄だったとしても、むしろその外の先進資本主義諸国がより柔軟で、安定した状態へと脱皮する上で、ロシア革命の衝撃が役立ったというのである。
 このような議論は、革命というものが、それを実際に行なった国(フランスやロシア)のためではなく、それ以外の国(前者の例では東欧諸国、後者の例では欧米諸国)のためにあったかのように論じるという意味では、やや皮肉な性格を帯びている。ロシア革命後の災厄を自分自身でこうむった人たちは、それがアメリカや西欧の資本主義の高度化に貢献したなどと聞かされても、自分が報いられたという気にはあまりなれないだろう。とはいえ、世界史全体の流れの中でみるならば、そのような側面のあることはやはり認めないわけにはいかない。そこで問題となるのは、ロシアなり東欧諸国なりの内側から社会主義をとらえる見方と、その外側から世界史の中での社会主義の位置をとらえる見方とは、どのようにして総合することができるのかという点である。
 世界史全体の中でロシア革命なり社会主義なりをみるときに、それが大きな画期点と位置づけられるのは当然である。世紀の変わり目を目前に控えた今日、二〇世紀という時代をどうみるかが様々な人によって論じられているが、「一九一四年に始まり一九九一年に終わった、短い二〇世紀」という見方が多くの人から提出されている(2)。いうまでもなく、一九一四年とは第一次世界大戦開始の年であり、一九九一年はソ連解体の年である。ロシア革命が第一次世界大戦の渦中で起きたことを考えるならば、ロシア革命とソヴェト体制の始まりから終わりまでが「短い二〇世紀」の主要内容をなしているということになる。
 もちろん、「二〇世紀」という時代が社会主義によって覆い尽くされるというわけではない。社会主義体制は第二次世界大戦後に面積・人口ともに大きく拡大し、人類のかなりの部分を包摂したとはいえ、あくまでも世界の一部分に過ぎなかった。いわゆる先進資本主義国や発展途上国の動向の方が世界史全体の主導的要素だと考える方が、むしろ常識的であろう。しかし、その場合にも、それらの国々の変容に社会主義の影響が小さくない役割を演じたこと、そしてソ連・東欧の社会主義圏の崩壊は、間接的な形ではあれ、資本主義世界にも多大の影響を及ぼしていることは広く認められている。ホブズボームらの「短い二〇世紀」論にしても、社会主義国自体を正面から論じるというよりはむしろ、その外部世界への影響という点からみて、二〇世紀におけるその位置を論じようというものである。先進資本主義国を主たる対象として「二〇世紀型体制」を論じようとする場合にも、世紀前半における「自由主義の危機」が市場への信頼を掘り崩し、政府の役割が増大したこと、それが世紀後半に逆転し、「市場の失敗」よりも「政府の失敗」が重視されるような動向が生じたことが注目されており、その背後には、社会主義の興隆と衰退が暗に前提されている(3)
 こうしてみると、二〇世紀の世界史の中での社会主義の位置の大きさは、立場や観点を超えて共通に承認されていることになる。しかし、ほとんどの場合、議論は、(旧)社会主義圏の内側からではなく外から出されている。内からの議論もないわけではないが、その場合には、最近の崩壊という事実に圧倒されて、適切な距離をとることが至難となっている。旧ソ連・東欧の多くの人々は、社会主義の否定面を暴くことに専念するあまり、それが世界史の中でどういう役割を演じたかを考える余裕を失っているかのようである。
 では、社会主義圏の内側からの見方ということを念頭におきながら、なおかつ「世界史の中の社会主義」を論じることは可能だろうか。以下に記すのは、その作業のための一つの試論である。
 
 
 一九一七年以来の八〇年をごく大づかみに振り返り、世界の中で社会主義がどう受けとめられてきたかを概括するなら、次のようにいうことができよう。
 一九一七年のロシア革命はいうまでもなく、賛否双方からの激しい反応を呼び起こした。革命後の社会の実態は当時はまだ見定めがたかったが、ともあれ衝撃はきわめて大きかった。二〇年代から三〇年代にかけての包囲・孤立状態をソ連が生き抜き、「計画経済」とよばれるものをつくりあげたとき、その実態については肯定面・否定面双方からの種々の評価があったが、ともかく衝撃的な大事件だという受けとめ方は共通していた。三〇年代の資本主義世界の大不況との対比も印象的だった。ファシズム、ニューディール、そして戦後の福祉国家は、それぞれに異なった形においてではあるが、いずれも社会主義の衝撃を吸収しようとする試みだったのであり、その意味で社会主義の影響はきわめて大きかったといえる。
 ナチ・ドイツという強大な国との戦争をソ連が勝ち抜いたとき、社会主義の影響力は更に増大した。戦後、「ソ連圏」は地理的にも拡大し、国際政治における地位を向上させた。人類最初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げ成功(一九五七年)は、アメリカ合衆国に深刻な衝撃を与えた。こうして、一九六〇年代くらいまでは、社会主義の影響力は世界的にみてかなり強く、「歴史は社会主義に味方している」という考えは、それほど突飛なものではなかった。「東風が西風を圧倒する」という毛沢東の言葉は、当時の状況では、必ずしも空疎な政治的プロパガンダとばかりは受けとめられなかったのである。
 しかし、フルシチョフによるスターリン批判は、その批判がどこまで徹底していたかはさておき、スターリンのもとでの残虐行為を暴露し、「理想社会」の裏面を白日にさらけだした。また、一九五六年のハンガリー、六八年のチェコスロヴァキア、七九年以降のアフガニスタン、八〇‐八一年のポーランドという一連の事件はソ連の国際的威信を大きく引き下げた。更に、かつては経済成長促進に有利とみなされていた計画経済(指令経済)が次第にその限界を露呈した。
 スターリン批判以後のソ連・東欧では、政治面でも経済面でも、種々の改革が唱えられ、ある程度は実際にも試みられて、「社会主義再生」の希望がある範囲に広がった。しかし、そうした刷新にかけられた期待は、次第に落胆にとって代わられた。中国の文化大革命は、外部の一部の人には熱狂を、そして多くの人には強い反撥を呼び起こし、社会主義観の分裂を深めたが、毛沢東死後の中国はもはや「ソ連型と根本的に異なる、新しい社会主義のモデル」を提起するものではないことが明確になった。
 こうして一九七〇年代以降、社会主義はもはや外部世界にとって魅力をもつ存在であることを完全にやめ、むしろ沈滞と抑圧がその特徴とみられるようになった。八〇年代の社会主義改革の試み(特にソ連における「ペレストロイカ」)は一時的に「刷新」の期待をかきたてたが、それも失敗に終わり、遂に八〇年代末から九〇年代初頭にかけて、ソ連・東欧圏の崩壊が生じた(4)。そうした崩壊の具体的展開は誰にも予想できなかったが、漠然たる「行き詰まり」の感覚は既に七〇年代から八〇年代にかけて広まりつつあった。崩壊過程のあまりにも急速でドラマティックな展開は多くの人を驚かせたとはいえ、体制が大衆の支持を得ておらず、その意味で内的に弱体化していたということ自体は、崩壊に先立って広く認識されており、さほど意外なことではなかった。
 このようにみるならば、社会主義に対する見方は、一九六〇年代までの上昇局面と七〇年代以降の下降局面とに大きく分かれるように思われる。もちろん、このような二分は、議論を単純化するための便宜的図式であり、細かくみるならば、その図式をはみ出す要素は少なくない。
 実際、「上昇局面」と位置づけた時期にも、社会主義の否定面は大なり小なり知られており、それに注目した人も少なくなかった。特にスターリン時代の暴政に関する情報は、細々とではあれ、外部世界に伝わっていたし、第二次大戦後の社会主義圏拡大も、多くの東欧諸国にとっては「外から」押しつけられたことが明白だった。しかし、一九三〇年代の、「ファシズムか反ファシズムか」という対決状況では、ソ連を「反ファシズムの砦」とみなし、その内部における暗黒面には敢えて目をつぶろうという考えが、西欧の「進歩的」知識人の間では優勢だった(ロマン・ロランなど)。また、戦後の東欧社会主義化がソ連軍の力によって「外から」押しつけられたものだとしても、それを「内から」歓迎する勢力もないわけではなかった。ドイツのブレヒト、ポーランドのランゲ、ハンガリーのルカーチなど、教条マルクス主義者とはいえないような左翼知識人たちが、それぞれの亡命地から自発的に帰国して祖国の「社会主義建設」に協力したことは象徴的である。中国やユーゴスラヴィアのように、ソ連軍の力ではなく自力で、「内側から」社会主義化を遂行した国では、社会主義は民族解放と結びつけられ、高い威信を享受し得た。その意味で、「上昇局面」という特徴づけは、多少の留保はあるにしても、大まかには妥当する。
 他方、「下降局面」においても、その下降は一直線ではなかった。一九七三年以降の石油価格の世界的上昇は産油国たるソ連を利し、その経済停滞を糊塗した。ブレジネフ期のソ連は、少なくとも表面的には強大かつ安定した国とみえたし、そのため、体制に批判的な勢力も、その根本的打倒よりは体制内での部分的改良を考える傾向が強かった。とはいえ、それは積極的選択というよりは、やむをえざる消極的選択であり、体制の優越性への確信は、指導部レヴェルにおいてさえ空洞化しつつあった。
 こうして、二つの局面への区分は種々の留保をつけなくてはならないにしても、大まかな趨勢としては、このような二分は有効性をもつといえよう。では、このような二つの局面を経た社会主義観の変化を、世界史全体の、より大きな流れの中に位置づけるなら、どのようなことがいえるだろうか。
 
 
 ここでは、一つの仮説として、一八世紀以来の「近代化」と一九世紀末以来の「組織化」という二つの趨勢を近現代世界史の基底にあった大きな流れと考え、両者の重なり合いと転換の中に、社会主義の運命を位置づけてみたい。
 先ず、一八世紀以来の「近代化」の時代ということについて考えてみよう(5)。この時代にあっては、後発国(一九世紀末から二〇世紀前半にかけてのドイツ、日本、ロシアなど、そして第二次大戦後の多くの発展途上国)は、先発国(欧米諸国)に追いつくために「近代化」を至上命令とし、そのためにはいかなる犠牲をもいとわないという発想が正当化された。その推進者として、特に後発国では国家が大きな役割を果たした。「近代化」は一面では人間理性・科学・技術の役割を拡大するが、他面でそれが国家の力によって強力に推進されたことは、啓蒙的理性と権力との逆説的結合を意味した。進歩観念の普及と、それを正当化理由とした残虐行為の拡大とが「近代化」の時代の大きな特徴だった。
 第二に、一九世紀末以降、「組織」の役割が拡大し、「組織化の時代」と呼ばれる時期が到来した。「組織」は「近代」の産物であるが、同時に、「近代化」の特異な推進の仕方でもある。工業化・都市化など狭義の意味での「近代化」は「組織化」によって強力に推進されるが、もし古典的「近代」を個人主義とか市民社会によって特徴づけるなら、「組織化」はむしろその基礎を掘り崩すものでもある。その意味で、「近代化」と「組織化」は一面では矛盾しながらも他面では同調・増幅しあうという両面をもつアンビヴァレントな共生関係にあった。こうした状況は一九世紀末に始まり、第一次世界大戦で一層高まって、一九三〇年代には一つのピークを迎え、第二次大戦後も数十年間持続した。こうして、一九世紀末から二〇世紀の最初の四分の三くらいまでの時期は、「組織化の時代」として特徴づけられる。「近代化」と「組織化」とが重なり合った時代といってもよい。
 ところが、ある時期以降、「近代」的価値が疑われるようになってきた。ポスト近代論の内実はいまだ明瞭になっていないにしても、多くの人が「近代以後」を考えるようになり、歴史の新しい段階への予感が広まってきた。社会経済面での「近代化」(工業化・都市化)は、終わったわけではないまでも、何が何でも追求されるべき至上の価値という輝きを失った。「近代」のもう一つの柱である「国民国家」についても、そう簡単に退場はしないにしても、かつてのような絶対性を失い、様々な意味で相対化されつつある。「民族自決」の限界性がしばしば指摘されるようになってきたこと、上(国際組織)への統合と下(地域)への分権とによって国民国家が挟撃されていること、経済のボーダーレス化によって「国民経済」の枠が不明瞭化しつつあることなどはそのあらわれである。
 もっとも、いつの時点からはっきりと「近代」が終わるというような画期点はないし、「近代以後」とは「近代」の終了なのか、むしろそのより高度な段階への移行なのかについても議論が分かれている。その意味で、「近代以後」の世界史的意義づけはまだ確定していないが、ともかく二〇世紀の後半は、「近代からポスト近代への移行」を様々な形で繰り返し試行する時代という風にとらえられるだろう。
 他方、一九八〇年代前後の時期になって、「組織の限界」がいわれるようになった。特に大規模ヒエラルヒー型組織の非効率性が指摘され、小規模組織やその柔軟な結合としてのネットワークの意義が重視されるようになった。情報処理技術の新しい展開は、集権管理から分散管理への移行を促した。小規模組織やネットワークは、「近代」を超える(ポスト近代を担う)ものなのか、それともむしろ「近代」的価値を新しい条件下で再生復活させようとするものかについても両論があり、安易に結論は出せないが、ともかく、ひたすら大規模組織化が推進され、それが進歩だとする発想は過去のものとなった。上述の「近代化の時代」のたそがれが二〇世紀の後半に長期的に進展しつつあるのと重なりあいながら、「組織化の時代」も二〇世紀の最後の二〇年くらいの時期に終わりが感じとられるようになった。
 このようにみるならば、「暦の上ではない、実質的な意味での二〇世紀」は、多くの論者がいうように一九一四年から一九九一年までというよりも、むしろ一九世紀末(およそ一八七〇‐九〇年代)から二〇世紀末(およそ一九八〇‐九〇年代)までであり、その内実は、「組織化」によって「近代化」を推進しようとする趨勢によって特徴づけられるということになる。そして二〇世紀末は、一八世紀以来続いてきた「近代化」の限界が感じとられる趨勢と、一九世紀末以来続いてきた「組織化」が終わろうとする趨勢との重なり合いで特徴づけられるということになる。
 このような全般的背景の中でみるとき、「現存した社会主義」は、「組織化」によって「近代化」を推進しようとする試みの最も極端で徹底した例だったということができる。晩年のマルクス、エンゲルスは一九世紀末に「組織化」の初期的兆候に注目し、これを社会主義への胎動とみた。レーニンも第一次大戦期の統制経済の中に「社会主義への前進」をみたが、これは彼ひとりの発想ではなかった。よりユートピア性の濃い他の社会主義者にしても、「組織化」の進展の先に社会主義を考える点では共通していた。トロツキーにしろ、ブハーリンにしろ、その点では同様だった。異端のボリシェヴィクであるボグダーノフの思想や、「ロシア・アヴァンギャルド」に属する芸術家たちなどをとりあげてみても、科学・技術・工業発展・組織化などを無条件に「進歩」とみて、その「進歩」の体現者として社会主義を考える発想は当時広くみられた。より広くいえば、ソ連の内外を問わず、科学・技術・組織・進歩への信仰が多くの人をとらえたのが現代という時代だったのである。ボリシェヴィズムはその最も極端で尖鋭な体現者だった。
 ソ連の歴史は曲折しており、特に、スターリン独裁の時代がその前後の時代と連続しているのか断絶しているのか、言い換えればスターリン時代こそが社会主義というものを典型的に代表しているのか、それともスターリン時代は社会主義の歴史の中では一つの逸脱に過ぎないのか、という問題が様々な論者によって熱心に論じられてきた(6)。微視的な視点からすれば、もちろん種々の断絶と転換があり、ソ連史の七〇年を一括してとらえるのは乱暴な議論である。にもかかわらず、巨視的な観点からするならば、ある時代の特性を刻印されていたという限りでの一貫性を否定することは難しい。確かに、スターリン時代のいくつかの特徴――例えば個人崇拝の極端化、広汎にわたる非道な抑圧――はその後の時代にははるかに規模を縮小させ、その意味では特定の局面に限定された現象だったといえる。しかし、「新しい文明の建設者」という自己規定、そこにおける科学・技術・組織への信奉、中央集権的組織による諸政策の権力的推進はソ連史を一貫した特徴である。
 これは、ソ連(および「ソ連型」の社会主義を押しつけられた東欧諸国)だけの問題ではなかった。ユーゴスラヴィアや中国のように「ソ連型」に反逆して別の形の社会主義を建設しようとした諸国も、いま述べたような意味での基本特徴についてはソ連と共有していた。そればかりか、社会主義圏以外の国でも、ボリシェヴィキの実験における極端さに対しては種々の異論があったとはいえ、「近代化」「組織化」が時代の趨勢である限りは、これと完全に無縁とはいえなかった。先進資本主義国でも、「自由で民主的な社会主義」へのあこがれとか、「計画経済」の要素の導入の試みなどが繰り返されたこと、発展途上国にとっては「社会主義的発展モデル」が魅力的にみえたこと、そして社会主義諸国内に住む体制批判勢力にとっても、社会主義の全面否定よりも「人間の顔をした社会主義」が目標とされたこと――これらのことは、ある時期まで「社会主義」が時代の趨勢に沿うものと受け取られていたことを物語っている。これが二〇世紀という時代の一つの大きな特徴だったといえる。
 このようにみるなら、現存した社会主義は、ある時代の特徴――いわば「時代精神」――を最も先端的に、かつ凝縮して体現したものととらえることができる。もっとも、ただ単にそういうだけなら、その社会の独自な個性が明確にならず、「時代性」一般に解消されかねない。ここで注目したいのは、「時代性」を他国と共有しながらも、それを最も極端に徹底して実現しようと試みたが故の独自の個性である。いうまでもないが、「最も極端に徹底して実現しようと試みた」ということは、決して、それを本当に実現したということではない。あまりにも極端に推し進めようと試みることは、かえって、公式制度と非公式実態の乖離を広げ、その目標とは裏腹の現実を生み落とした。そこには、社会主義以前からの伝統・文化との癒着も含まれる。(旧)社会主義諸国の現実は、表向きの公式制度だけではなく、そのような非公式の実態を含めた総体としてとらえることが必要である(7)
 その意味で、「現存した社会主義」の実態は「組織化」による「近代化」という言葉の表の意味だけには尽くされないが、いわばその裏面に含意されるものを含め、その極端化・徹底化という点に、その基本的な特徴をもつものだった。その試みの限界・欠陥については以前からも批判が絶えなかったが、大きな時代の趨勢という意味ではそれを否定しきれない――あるいは少なくとも無縁ではいられない――というのが「二〇世紀」という時代の特徴だった。
 しかし、一九八〇年代前後に、流れは逆転した。「近代化」も「組織化」もともに魅力的な目標であることをやめ、先に述べた意味での「二〇世紀」に終わりが訪れたのである。ソ連・東欧圏の崩壊は、そうした世界史的な転換の最も端的なあらわれととらえることができる。ソ連・東欧圏の崩壊と時をほぼ同じくして、先進資本主義諸国では「市場の復権」論が高まり、発展途上国でも「社会主義モデル」が魅力を失って市場型の発展モデルが注目されるようになったことに示されるように、これは世界全体を蔽う大きな趨勢である。ソ連・東欧圏でも、多くの旧体制エリートはそれほど徹底した抵抗なしに体制転換を迎え、それどころか旧ノメンクラトゥーラのかなりの部分は「新ブルジョアジー」に喜々として乗り移っているが、このことは、社会主義体制固持への確信が体制の中枢的担い手にさえも欠如していたことを示している。中国やヴェトナムの場合、共産党支配と市場経済移行とを結合する政策がとられているが、これは、社会主義時代の支配層が資本主義経済に適合して生き残ろうとする試みとみることができる(旧ソ連の中央アジアで、かつての共産党指導者が、資本主義化を権威主義的方法で推進する政権に今もそのまま残っているのは、この点で示唆的である)。
 
 
 以上にみたように、社会主義体制はある世界史的流れの最も極端で徹底した試みとして登場し、その流れの反転時に崩壊したということができる。もっとも、歴史は閉じたものではないから、今後の展望についてあまり固定的な予測をするのは軽率である。「近代化」も「組織化」も、かつてのような輝きを失ったとはいえ、まだ消え去ったわけでもなければ、完全に終わったわけでもない。「市場の復権」にしても、一時期のような市場万能論に立った手放しの礼賛はいまでは後退し、その限界もまた真剣に問題とされている。ただ、かつてのような社会主義への回帰はほぼあり得ず、市場が万能でないからといってそれに代わるものも見いだせないという不透明感が最近の状況の特徴となっている。
 ある時代が終わった後にどのような時代がやってくるのかは、誰にも予測できない。以前の時代の中枢的な特徴は、かつてのような核心的意義を失うにしても、その個々の要素は新しい条件下で生き続けるかもしれない。社会主義にしても、かつての実験がそのままの形で繰り返されることはほぼないだろうが、類似の思想が人々をとらえることは、あり得ないことではない。「思想としての社会主義」は、「現存した社会主義」とは区別されたものとして生き続けるかもしれない。自由競争で敗者となる弱者への視線とか、平等への志向というものは、単純に消え去るものではないからである。また、一八世紀以来の産業文明が大きな曲がり角に来ているとするなら、効率主義も考え直されるかもしれないし、そうだとすれば、専ら「効率」の基準から社会主義を断罪する議論も、その基準自体が再考の対象となるかもしれない(もっとも、従来の社会主義思想の大半は「近代主義」の枠内にあったから、その意味では、「近代以後」の時代への先駆性を誇ることはできないが)。
 こうして、今後の歴史の展開については、様々な可能性を留保しておく必要があるだろうが、ともかく、一八世紀以来の「近代化」と一九世紀末以来の「組織化」という二つの大きな流れが、いまや曲がり角に来ていることだけは確言できよう。その二つの流れの最も極端で徹底した体現者たる社会主義の崩壊は、現代という時代を理解する上で、大きな意味をもっている。
 
 
(1)このような観点を、私は、塩川『社会主義とは何だったか』、同『ソ連とは何だったか』(いずれも勁草書房、一九九四年)で提出した。
(2)典型例として、Eric Hobsbawm, Age of Extremes: The Short Twentieth Century 1914-1991, London, 1994 (ホブズボーム『二〇世紀の歴史――極端な時代』上・下、三省堂、一九九六年)。
(3)例えば、佐々木毅「二〇世紀型体制についての一試論」『思想』一九九五年一〇月号。
(4)この過程については、塩川「ペレストロイカ・東欧激動・ソ連解体」『講座世界史』第一一巻、東京大学出版会、一九九六年、参照。
(5)「近代化」とは何を意味するかとは、きわめて大きな問題であって、ここでは論じきれない。さしあたりここでは、工業化・都市化・国民国家化を「近代化」の主要な内容として考えておく。それ以外に、例えば個人主義精神の普及とか、国家から自立した市民社会の成熟などを近代社会の重要指標とする考えもあるが、とりあえず除外しておくことにする。
(6)塩川『終焉の中のソ連史』朝日新聞社、一九九三年、参照。
(7)「現存した社会主義」をこのような観点からとらえようとする試みとして、Nobuaki Shiokawa, "Toward a Historical Analysis of the 'Socialism That Really Existed,' in Shugo Minagawa (editor in Chief) and Osamu Ieda (editor), Socio-Economic Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World, Slavic Research Center, Hokkaido University, Sapporo, 1996.
 
 
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