帝国の民族政策の基本は同化か?――一九九八年度大会「ロシア・ソ連の帝国的秩序」セッションの反省に寄せて
 
塩川 伸明
 
 一九九八年度ロシア史研究会大会において「ロシア・ソ連の帝国的秩序」というセッションがもたれ、私は竹中浩、西山克典とともに報告者に指名された。報告自体は別に発表予定だが(報告そのものはA、関連する拙稿として@B)、ここでは、このセッションにおける議論がやや生煮えに終わったのではないかという観点から、議論の前提に関わるような事柄について、若干の反省を試みたい。この小論は、そうした意図から書かれたので、実証的歴史研究そのものではなく、一種の問題提起的エッセイだということを予めお断わりしておきたい。ロシア・ソ連史から離れた抽象論や、ロシア・ソ連史の中でも私自身が直接研究していないような事柄に触れるので、「研究」と称し得るような精度をもったものではない。そのような文章を『ロシア史研究』誌に掲載していただくことが妥当かどうか、ためらいがないわけではないが、議論の前提を明確にするために多少なりとも意味をもちうるのではないかというのがささやかな期待である。
 
     一
 
 大会における私の報告は言語政策を題材としながら、伝統的な「帝国」観に対して反省と再考の必要性を問題提起しようという狙いをもっていたが、限定された事実の解説に時間をとられ、その意図を十分展開することができなかった。竹中報告は、対象とする時期も問題領域も私の報告とは異なるが、問題意識において共通するものをもち、従来の帝国論・ナショナリズム論で自明とされがちだった仮定を疑うという問題提起をするものだった。西山報告は、その冒頭で、「冷戦の終結にともなう民族主義の抬頭その(〔ママ〕)惨劇から、帝国再考の動きがでている」として、やはり「帝国再考」の問題に触れている。もっとも、西山報告はせっかく序論でそうした問題を出しておきながら、本論では、「自決の論理」と「中央への統合と分断の論理」を二項対立的に対置するという、オーソドックスな発想の色が濃く、冒頭の問題意識があまり生かされているようには思えなかった。コメンテーターの高田和夫の発言も――当日司会をつとめた石井規衛がいみじくもいったように――「オーソドックスな」観点からのものであり、フロアからの発言も、一部の例外を除きほぼ同様だったように思う。
 「オーソドックス」(あるいは古典的)ということは必ずしも悪い意味ではない。むやみやたらと新奇な流行を追うのに比べれば、「再考」論に対して「一見新しいようだけど、それでどうしたの?」という問題を突きつけることは、はるかに有意味でありうる。だから、ここで「帝国再考」派と「オーソドックス」派を単純に対置して、前者の優位を主張するといった党派的な議論を展開するつもりはない。ただ、それにしても、「再考」ということの中身は何であるのかを明確化する作業はやはり必要だろう。大会当日の討論が空回りしたのも、その点が不明確だったためと考えられるからである。
 帝国と民族に関する「オーソドックスな」議論として私が念頭においているのは、次のようなものである。即ち、帝国は中心民族の文化に周辺民族を同化させようとする。それは「文明」の名において自己の支配を正当化しようとする「オリエンタリズム」である。それはまた周辺民族の文化を奪うことであり、極めて非人間的な抑圧である。そうした抑圧に抗して、諸民族が自己の文化を取り戻していく過程が、自決なり自治なり文化的自治なりといった(これらの戦略のどれを重視するかは論者によって異なる)民族運動である。なお、ここで「帝国」のうちにソ連を含めるか否かは、かつては論争的だったが、最近は急速に常識化し、全く論争的でなくなった。そこで、ロシア帝国=ソ連帝国を通じて上記のことが同様にいえるという見方が、今ではほぼ通説化している。このような「通説」「常識」についてどのように考えるか、これが問題である。
 西山報告の冒頭で指摘されているように、旧ユーゴスラヴィアの内戦を端的な例とする民族主義の悲劇は、その直前まで「自決」を賛美していた人たちに冷水を浴びせ、民族主義へのアンビヴァレンスを広めた(1)。それと裏表の関係として、「帝国」についても、微妙な捉え方の変化が進行している。ある時期までは、「帝国」とは悪の象徴だったが、むしろ多民族共存のある種の方式――少なくとも、ある程度そのような可能性をはらんでいた――ではないかといった議論が徐々に広まってきた(決定的には旧ユーゴスラヴィア内戦からだが、理論的再考の開始自体はそれにやや先立つ)。ハプスブルグ帝国やオスマン帝国については、そうした「帝国再考」論は徐々に増大し、珍しいものではなくなっている。
 これに対し、ロシア帝国/ソ連帝国に関しては、そのような「再考」論が比較的少なく、古典的な「民族の牢獄」的把握がなお大多数を占めている(ロシア帝国=「民族の牢獄」論の批判的再検討としてD参照)。ソ連については、それを「帝国」ととらえること自体が最近までタブーだったため、帝国と把握して糾弾するというタイプの議論が、今なお「新しい」ものとして受けとめられているという事情がある。しかし、それだけであれば、今ではもはや新鮮ではなく、むしろ流行に乗った陳腐な議論と化しているし、何よりも「帝国再考」の問題提起を無視し、伝統的な「帝国」論の当てはめに終始することになりかねない。
 ここで、「再考」論は帝国(主義)の弁護論になるのではないかという疑問が出されるかもしれない。これはなかなか微妙な問題である。これまでステレオタイプ的になされてきた糾弾のあり方に対して疑問を呈する限りでは、「弁護論」という風にみられる要素がないわけではない。しかし、問題は糾弾か弁護かという二者択一にあるわけではない。ステレオタイプ的な糾弾が不正確な認識に基づいていたとするなら、それは糾弾としても十分な迫力をもちえない。「再考」は、ある種の「罪状」に関する限りは確かに「無罪」を主張するかもしれないが、その代わりに、別の――ひょっとしたらもっと深刻な――「罪状」を指摘することになるかもしれない。ともかく、「再考」の狙いが「弁護」ということに結びつけられて政治的に非難されるというのは不幸なことである。
 
     二
 
 やや迂遠ではあるが、ロシア・ソ連の例から離れて一般的に帝国と同化という問題について考えてみたい。一般論として、帝国の民族政策の基本を同化と捉える議論は広くみられる。ここには、近代日本の植民地統治において同化政策が基本とされたという事情が関係しているのかもしれない(最近の議論の例として、E参照)。だが、帝国の民族政策は必ず同化主義をとるのか、また同化に反対しさえすれば「解放的」=「進歩的」ということになるのかといえば、そう簡単にはいえないという点に問題の複雑さがある。小熊英二によれば、日本の同化政策に影響を及ぼしたフランスでは、同化論の背景に、人間はみな等質な理性をもつ存在だから教育さえ与えれば同化されるという啓蒙主義的発想があったが、そうした発想は一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて疑念にさらされ、また同化主義的統治のコストが高くつきすぎるという事情から、同化主義が放棄され、伝統的慣習を温存した間接統治に向かいつつあった。この新政策の背景には、「劣等人種」を同化することはできないという差別意識があったから、同化否定論が直ちに解放的とはいえない。そして近代日本で同化主義を批判した論者にも、このような二〇世紀フランスの議論の影響があった(F)。ここでは、差別にも普遍主義的観念に立つ同化主義と差異を強調する隔離主義とがあるという、重要な問題が提起されている(G64-65も参照)。ということは、普遍論(同化主義)を批判して差異論(民族のアイデンティティー重視)を説けば隔離主義にからめとられ、逆に、後者を批判して普遍主義を説けば同化主義にからめとられるという深刻なディレンマがあるということでもある。
 もっと話を広げ、西欧で根強かった(あるいは今でも根強い)自民族中心主義(エスノセントリズム)と文化相対主義の関係について、文化人類学者の問題提起をうけて考えてみたい。浜本満によれば、文化相対主義とは本来、「反・自文化中心主義」という観点を打ち出して西欧中心的発想に反省を促した点に意義があったが、ただ相対主義だけを強調するなら、「自文化中心的な相対主義」(2)になることもありうるという。つまり、自分の見方の正しさを疑うことなく、他者を、奇妙ではあるが「文化が違うのだから」放っておこうとする態度である。こうした「いいかげんな相対主義」は「いいかげんな普遍主義」とよく似ており、両者の違いは、優越性に裏打ちされた非関与の姿勢か、他者を飲み込もうとする攻撃の姿勢かの違いだけである。前者は後者の西欧中心主義を「彼らをして彼らだけの世界に住ましめよ」という「アパルトヘイト」におきかえたに過ぎない(HI)(3)。考えてみれば、アパルトヘイトにせよ、ホロコーストにせよ、他者を同化しようとしたのではない。同化の対象ではないからこそ、分離したり、虐殺したりしたのである。その意味で、「同化が帝国の民族政策の基本だ」「同化的でないからリベラルだ」ということには決してならない。
 「これまで帝国の同化政策によって抑圧されてきた文化の奪回が即ち解放だ」という考え方についても、それが一種独自の「本質主義」になるのではないかというデリケートな問題を小田亮が提起している。ここで「本質主義」とは、特定の集団に属する人間すべてに共通する「本質」を想定する考え方のことである。文化人類学は、あらゆる文化や民族や伝統は人為的な虚構であるとして、このような「本質主義」を批判してきた(非本質主義あるいは構成主義)。この発想は、サイード(「オリエンタリズム」)、ホブズボーム(「伝統の発明」)、アンダーソン(「想像の共同体」)などに共通する。この辺までは、今日では広く受けいれられ、常識化した考えだが、より深刻な問題はその先にある。近年、世界各地で「アイデンティティの政治」――少数民族やエスニック・グループの自己主張、さらに、安易な並列は問題だが、ある種の抽象レヴェルでの共通性をもつ問題としてフェミニズムやゲイ解放運動など――が高まっているが、そこでは、自分たちの文化や民族の「本来の肯定的なアイデンティティ」を取り戻そうとする考えがとられることが多い。とすると、これは西欧中心主義や男性中心主義とは異なった形ではあるものの、やはり一つの「本質主義」ではないかという疑問が浮かぶ。従来オリエンタリズムや排他的ナショナリズムを批判してきた非本質主義は、ここで微妙な立場に立たされる。
 一つの選択肢は、本質主義批判を一貫させて、被抑圧民族や女性の側の本質主義にも反対するものだが、この立場は、被抑圧者の解放運動への無理解という非難を浴びせられる。第二の選択肢は、支配文化の本質主義を批判しつつ、被抑圧者の対抗言説には理解を示すという使い分けの態度をとるものだが、これは論理一貫性を欠くだけでなく、個々人を再び共同体や伝統という牢獄に閉じこめようとするアパルトヘイト的発想につながるのではないかとの嫌疑から免れられない。あるいはまた、第三の道として、「クレオール主義」「ディアスポラ性」を説く考え方――文化的アイデンティティが操作・構成されるものだということを強調し、文化的アイデンティティの固定化を乗り越えようとする――もあるが、これもまた、メトロポリスに住む知識人のみに許される越境性やディアスポラ性を理念化するか、あるいは逆に旧植民地の文化の「クレオール性」を実体的な理想としてしまうことになるという問題がある。こうして、どのような態度をとっても、「アイデンティティの政治」と非本質主義の対立という根本問題に答えるのは容易ではない(以上、KL参照)。
 マルチカルチュラリズムをめぐる論争でも、同様の論点が取り上げられている(以下、M、N第五章、Oを参照)。たとえばカナダのケベック州では、英語に比べて劣勢となりがちなフランス語を守るために、非英語系住民の子弟を英語学校に通わせるのを禁止するという法的強制の手法がとられたが、これに対し、たとえある文化を保護するためとはいえ、そのような手法は自由主義的原理に反するのではないかという問題が提起されて、論争が展開された。このような「文化を守るための法的強制」という問題は、ペレストロイカ末期のソ連各共和国における言語法論争で浮かび上がったのと同質の問題――特に教育における選択制か義務制かという論点はウクライナで大きく浮上した(B参照、よりウクライナ民族主義者の主張に密着した紹介としてC89-99)――である。
 文化的多様性を尊び、優勢な文化による少数派文化の駆逐を恐れ、後者の保護を図るべきだと考えるという点までは、あまり異論はないだろう。だが、その保護のために「集団的権利」というものを認め、その実現手段として法的強制に訴えるということになると、議論が百出することになる。一つには、「集団の権利」を認めることは、「少数派集団」を一枚岩視することになるが、実は「少数派集団」の中にも個人の差がある以上、そのような個人の自由はどうなるのかという問題がある。ケベックのフランス語系住民の子弟の中にも英語に移りたいという人がいるだろうし、ウクライナ人の中にも、ウクライナ語よりもロシア語の方が身近だという人は少なくない。そうした人たちは「民族の裏切り者」であり、そのような「裏切り者」に対しては法的強制で罰するという態度をとることが許されるのかという問題である。
 もう一つの問題は、仮に「文化の存続」を「集団の権利」とする立場に立つとして、そのような権利を認められる集団を具体的にどのように認定するのかという点である。カナダにおけるフランス語系住民とか、かつてのソ連におけるウクライナ人とか、ロシアの中のタタール人とかは、「少数派」とはいっても比較的大きめの少数派であり、だからこそ注目を集めやすい。では、もっとずっと小さな集団はどうなのか。あらゆる文化は同等だという観点に立つなら、すべてが同等の権利をもつという考えが成り立つ。しかし、どのように小さな集団についてもとことんこれを貫徹することが可能だろうか。プラグマティックに難しいことはいうまでもないが、問題はそれだけではない。どのように小さな集団についても、その内部のより小さな集団を想定することができるし、複数の集団の境界に位置する人や帰属意識が流動的な人もいるから、それらのすべてに「集団的権利」を認めることは相互の衝突という問題を生じさせる。学校教育で「文法的に正しい形」を定めることもできなくなる(「間違った形」も独自な文化でありうる)が、そのことは、学校教育である言語の継承を図るという考え方自体を崩壊させる。こうして、あらゆる集団の権利をすべて法的に保護しようとする考えは内在的な論理的矛盾をはらんでいる。
 では、やはり集団的権利は認めるべきでなく、個人的自由主義の原理を固守すべきなのか。しかし、そのような自由主義は、結局のところ、事実において存在する文化的ヘゲモニーの優劣を放置することになるのではないか。また、個人主義的発想は、ややもすれば人間を孤立した相においてとらえがちだが、人間は社会的ないし対話的存在であり、集団的アイデンティティというものは――たとえその「集団」の単位が固定的なものではないにしても――やはり無視しがたい重さをもっているのではないか。ここで問題は振り出しに戻ることになる。
 このような議論に触れた論文を書いた杉田敦は、ポストモダニストが直面するディレンマを次のように要約している。即ち、一方では、「多数派のアイデンティティの自明性を暴き、それが暗黙のうちに行使している権力を告発するために、少数派の側もまたアイデンティティに目覚めることを奨励する」が、他方では、「あらゆるアイデンティティは、人間を一定の枠に押し込める点で抑圧的であり、少数派のアイデンティティといえども例外ではない」ため、「少数者のアイデンティティに完全にコミットするわけにも行かない」というのである(N190-191)。これは、先に紹介した小田亮の議論と同質の問題に触れるものであり、また私が問題としたいソ連民族政策の根底に横たわる問題でもある。そこで、大分遠回りしたが、ロシア・ソ連の場合に戻ろう。
 
     三
 
 ロシア帝国およびソ連の一つの顕著な特徴は、その「中心」であるはずのロシア人が、必ずしも国内の少数民族のすべてを下にみていたのではなく、むしろ「上」にみる相手をも含んでいた点にある。一般に西欧以外の後発諸国は、他者の中のあるものを自己より「上」、あるものを「下」に位置づけるという序列的観念を懐き、前者に対しては羨望と反撥の両面感情をもつ反面、後者に対しては見下しつつ庇護しようとする傾向をもつが、「上」とみなす相手を自己の政治支配下に抱え込んだという例は、ロシア帝国/ソ連以外にそれほど多くないように思われる。その意味では、通常いわれる「文明」の名による支配とか、「中心・周辺」関係というものは、ロシア帝国/ソ連には必ずしも当てはまらない(4)
 大会の竹中報告は、ロシア帝国において正教以外の宗派が一律に抑圧されたわけではないと指摘し、宗教政策の幅の大きさを強調した。中でもプロテスタントが相対的に優遇されたことの指摘は興味深い。細かくいうなら、ドイツ人のルター派信仰は維持された(但し、ドイツ人の中にはカトリックもいた)が、沿バルトでは正教化がある程度進行した。もっとも、エストニア人、ラトヴィア人にとってのプロテスタンティズムはスウェーデンやドイツから押しつけられたものだったから、彼らは正教化によってドイツ人支配から逃れられるという側面もあった。
 カトリック(ポーランド人、リトワニア人)は、プロテスタントよりも強い警戒の対象だったが、それはいわば「恐るべき敵」としてであって(この表現はD105)、「見下すべき後進性」としてではなかった。ここにも、支配者の自意識において「自分よりも上」とみなされる民族・文化を抱え込んだ帝国の特殊性が反映している。
 特異な位置を占めるのがユダヤ人である。ロシア帝国のユダヤ人のキリスト教への改宗がどの位あったか、私はよく知らないが、少なくとも一八九七年センサスでみる限り、イディッシュ語とユダヤ教の相関はかなり高い。母語がイディッシュ語である者のうち、宗教がユダヤ教である者の比率は、九九・八%にのぼる(21XXXIIより)。帝政の対ユダヤ人政策は、ロシア人に同化させていくというよりも、むしろユダヤ教徒=イディッシュ語話者のままにとどめて定住区に閉じこめる方が基本だったのではなかろうか。
 以上ではロシア帝国内の西方諸民族についてみたが、これに対し、東方諸民族に対しては、確かに蔑視的感覚がより強かった。とはいえ、それも一様ではない。帝政ロシアにとってイスラームとは何だったかという大問題に直ちに答える用意は私にはないが、かつてモンゴル=タタール帝国に支配された記憶をもつロシア人にとって、タタールとかイスラームという存在は、単純に軽侮しきれる相手ではなく、やはりどこかしら「恐るべき敵」だったのではないだろうか。エカチェリーナ期に、タタール人による遊牧カザフ人のイスラーム化が後者の「文明化」手段とみなされたという事情も、タタール人の特異な位置を物語っている。
 その後、カザフ人「タタール化」政策は放棄され、またムスリムを正教に改宗させようとする試みもなされた。しかし、そうした宗教的同化はどの位の規模だったのだろうか。私が専門的に研究していない時期のことなのでさしたる根拠をもっているわけではないが、ある民族の多数派ないしそれに近い部分が正教徒となるというほど大規模な改宗が進んだのは、イスラームが古くから根づいていた民族のうちにはほとんどなく、伝統的民間宗教に代わる位置をイスラームと正教が競合していたケース(チュヴァシ、モルドヴィン、ウドムルトなど)が主なのではなかろうか。
 興味深い問題として「異族人」政策の揺れがある。「異族人」は、帝国の一般法に服さず、地方的慣習と伝統的リーダーシップを保存し、徴兵免除をはじめとする一定の特典を享受した。ここで「特典」と「蔑視」「差別」が表裏一体だという点に注目したい。スロクムによれば、「異族人」の当初の意味は、「まだ同化されていない」諸民族ということだったが、次第に、「同化されえない」諸民族という意味になった(S174)。前者の捉え方では、彼らは同化を進めるべき対象――そして同化が完了するなら、彼らはもはや「異族人」ではなくなる――とされるのに対し、後者の捉え方では、ロシア帝国は永遠に異質なるものを抱え込まなければならないということになる。そこには、「異なるもの」への違和感・蔑視とともに、彼らを同化することができないという無力感が潜んでいる。
 帝政末期の言語政策に関しては、西山報告と私の報告がともにイリミンスキー方式に触れたが、微妙な評価の差がある。西山の「〔イリミンスキー方式が〕新たなロシア化の方式として成立した」という評価にはいくつかの疑問がある。第一に、イリミンスキー自身にせよ、彼に協力した教育者たちにせよ、通常の意味の政治家ではなく、彼らの教育方式は、政治家の思惑に沿うこともあれば沿わないこともあった。政治家があるときにこれを利用しようとしたからといって、それを帝国の政策そのものと等置するのは乱暴ではなかろうか(この点はQRなども指摘している)。一般に、ある政策が中央の政治家によってどう位置づけられていたかということと、それが現地の活動家によってどのように実践されていたかということとは区別されねばならない。私の報告で一九二〇年代の「現地化」政策の二側面の区別をいったのもそのことを念頭においていた。これは当たり前のことではあるが、ロシア帝国/ソ連に関しては、これまで中央の政策に偏した研究ばかりが多過ぎたように思われる。ソヴェト時代についていえば、中央の政策重視という点で従来と同様の認識をもちながら、その評価をかつての肯定的評価から最近の否定的評価へと単純に転倒する類の議論が多いように思われてならない。
 第二に、宗教的同化(正教普及)と言語的同化(ロシア語普及)の区別という問題がある。イリミンスキー方式は確かに前者を目指したものだが、後者の要素はあまり強くない。その意味で、全面的ロシア化主義とはむしろ対立する。
 第三に、ロシア帝国の言語政策は、民族ごとに大きく異なった。従来の研究では、しばしばポーランド、沿バルト地域、ウクライナにおける「ロシア語化」政策のみが強調され、それがロシア帝国の言語政策そのものだと解釈されがちだったが、西山報告はそれとは全く異質なイリミンスキー方式(諸民族の母語による教育)に注目した。それは大きな功績だが、これを帝国の同化政策そのものと位置づけるのでは、従来と逆の偏向に陥りかねない。
 ロシア帝国の言語政策を整理して考えるなら、次のようないくつかの類型が挙げられる。先ず、ドイツ語やポーランド語のように、ロシア語よりも強い文化的ヘゲモニーをふるう言語に対抗し、沿バルト地域や旧ポーランド領におけるそれを排除するためのロシア語化政策がある(バルトについてP参照)。これは確かに「同化」の一つの形態だが、そこにおける対抗の相手は、ドイツ人とかポーランド人といった従来の支配層であり、その地における農民にとっては、これまでの支配者からのある種の「解放」を意味する面があった。
 次に、「ロシア語」の一支脈をなすとみなされた「小ロシア語」が「大ロシア語」から自立した言語となり、「ウクライナ」ナショナリズムが高揚することへの対応としての、ウクライナにおけるロシア語化があった。なお、ウクライナ人は当時の認識では「ロシア人」の一部だったから、それを「ロシア化」するというのは一見語義矛盾的にもみえる。しかし、ウクライナ人(小ロシア人)とベラルーシ人は「ロシア人」の一部のはずでありながら、実際にそうなりきっているかというとそうではないという微妙な二面性があった。本来「ロシア人」である以上絶対に「異族人」ではありえないはずの彼らについてさえも「異族人」という言葉を当てはめる用語例が現にあった(S188-189)ということは象徴的である。そのため、ウクライナ人(小ロシア人)・白ロシア人を「ロシア化」する必要はやはりあったのである。
 以上のいずれとも異なるのが一連の東方諸民族の場合である。ここではロシア語による教育は現実性が低かったため、イリミンスキーの唱えた「母語による教育」がとられるようになった(必ずしも一貫してではないが)。なお、ヴォルガ流域の中でもタタール人などとチュヴァシ人などとの区別が必要である。西山は前者を念頭においてイリミンスキー方式が失敗したと断じるが、後者においてはそれなりの成果をあげたという差異がある。タタールにおいてはイスラームが深く根づき、独自の宗教的・文化的伝統を破壊するのは困難だったのに対し、ヴォルガの他の諸民族に関しては、タタール化かロシア化か現地民族言語の利用かという三通りの選択があり、第三の道が相対的にはリベラルなものとして受容される余地があった。だからこそ、この教育方式がレーニンの父を通してレーニンに影響することもありえたのではないだろうか。
 ソヴェト時代については別稿(AB)で論じたので、ここでは簡略な言及にとどめる。ロシア帝国とソ連は、その領域および住民の民族構成において、多少の出入りはあるもののほぼ連続し、ロシア人による他民族支配という問題状況も引き継がれた。ロシア帝国は、その「中心」たるロシア人が内心「自分よりも上」とみなす民族を支配下に包摂するという特殊性をもつ帝国だったが、この点もソ連に共通する。そうした共通性の基盤の上で、ソ連の顕著な特徴は、原則ないし建前として民族自決を高唱し、諸民族の同権をうたい、後発的とみなされた諸民族の民族的発展を奨励しようとした点である。そうした原則ないし建前がしばしば言葉にとどまり、実質を伴わなかった事実はこれまでよく指摘され、知られもしてきた。これに対し、あまり注目されてこなかった、より深刻な問題は、仮にそうした建前がある程度現実化された場合にも、そのこと自体が別のディレンマをはらんでいたという点である。ソ連民族政策に関する従来の議論では、自決が尊重されたのか同化(ロシア化)政策が継続したのかという二者択一が問題とされがちであり、ソヴェト体制に好意的な論者は前者の側面を強調し、否定的な人々(最近一挙に急増した)は後者を強調しがちだったが、私見ではどちらも正しくない。問題は、ソヴェト政権の民族政策は原則としては非同化的だったが、非同化政策=解放的とはいえないという点にある。
 「現地化」政策の評価については大会報告で述べたので繰り返さない。領域的自決か文化的自治かという点に関しては、ソ連の民族政策がレーニン以来領域的自決論中心でオーストリア・マルクス主義流の文化的自治を否定してきたということを強調し、後者を再評価しようという考えが近年急速に高まり、一種の流行の見方となっている。それ自体は理解しうるものだが、ソ連が文化的自治の要素を全面的に排除したかに考えるのは正確ではないし、領域的自決に代えて文化的自治論をとりさえすればすべてが解決すると考えるのも安易である。
 大会報告で提起した「大きな民族」と「小さな民族」の区別は、まだ煮詰まらないものだが、「同化か民族性尊重か」という論点を考える上で重要な問題を提起しようとしたものである。民族性尊重の政策をとるためには、集団的単位(地域的であれ超地域的であれ)の設定が不可欠だが、そのような集団的単位設定は必ず、より小さな集団を排除する。一般に、これまで不利な条件下におかれてきた何らかの集団について、その不利性を補うような積極的政策(アメリカ的にいえばアファーマティヴ・アクション)をとろうとするなら、その集団を明確なカテゴリーとして定義づけ、各個人がどのカテゴリーに帰属するかを確定せねばならない。ところが、集団というものは多様な区切り方が可能であり、各個人がどの集団に属するかも一義的ではない。にもかかわらず、特定のカテゴリーおよび帰属が法的に確定されるなら、それ以外のカテゴリーや帰属意識は切り捨てられる。つまり、特定集団の文化尊重や不利益補償措置は、他の集団の切り捨てと表裏一体とならざるを得ない。これは、この小論の二で触れた問題とつながる。二であえて遠回りな議論をしたのはそのような問題を提起したかったからである。
 この問題はペレストロイカ期から独立後にかけての各共和国言語法制(B参照)にも受け継がれている。独立後のエストニアやラトヴィアにおける在住ロシア人に対する政策が人権侵害として取りざたされる事実はよく知られているが、これを「ペレストロイカ期の独立運動は進歩的だったが、独立後の少数民族政策は差別的で問題だ」という風に機械的に切り離して片づけるわけにはいかない。ある意味で、諸共和国の民族運動は「自決」を至上価値とする点でレーニン的発想を忠実に受け継いでおり、彼らがソ連体制で育ったことを皮肉な形で証明している。そのような自決論の連続性は、それら諸国の独立の実現を相対的にスムーズなものとしたが、同時に自決にはらまれるディレンマをも引き継ぐ結果となったのである。
 
(1)C1-2も参照。但し、同書の全体がこの視点で貫かれてはいないように思われる。
(2)この言葉づかいについては多少の疑問があるが、ここでは立ち入らない。
(3)なお浜本および後出の小田の議論についてJも参照。
(4)石田雄は「日本」「日本人」の範囲が可変的だとし、中央と周辺の序列が同心円的になっていたとする(E下、164)。ロシア帝国/ソ連の場合、その範囲が可変的だったのは同様だが、「同心円」構造をいうことはできない。
 
@塩川伸明「ソ連言語政策史の若干の問題」北海道大学スラブ研究センター、重点領域研究報告輯、No.42、一九九七年。
A塩川伸明「ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第四六号、一九九九年。
B塩川伸明「言語と政治――ペレストロイカ期の言語法問題」皆川修吾編『移行期のロシア政治』渓水社、一九九九年。
C中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』東京大学出版会、一九九八年。
D松里公孝「一九世紀から二〇世紀初頭にかけての右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター」『スラヴ研究』第四五号、一九九八年。
E石田雄「『同化』政策と創られた観念としての『日本』」上・下『思想』一九九八年一〇、一一月号
F小熊英二「差別即平等」『歴史学研究』一九九四年九月号。
G梶田孝道「『多文化主義』のジレンマ」『世界』一九九二年九月号。
H浜本満「差異のとらえかた――相対主義と普遍主義」『岩波講座・文化人類学』第一二巻(思想化される周辺世界)、岩波書店、一九九六年所収。
I浜本満「文化相対主義の代価」『理想』一九八五年八月号。
J大塚和夫「女子割礼および/または女性性器切除(FGM)――一人類学者の所感」江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、一九九八年所収。
K小田亮「しなやかな野生の知――構造主義と非同一性の思考」『岩波講座・文化人類学』第一二巻(思想化される周辺世界)、岩波書店、一九九六年所収。
L小田亮「発展段階論という物語――グローバル化の隠蔽とオリエンタリズム」『岩波講座・開発と文化』第三巻(反開発の思想)岩波書店、一九九七年所収。
Mチャールズ・テイラーほか『マルチカルチュラリズム』岩波書店、一九九六年。
N杉田敦『権力の系譜学――フーコー以後の政治理論に向けて』岩波書店、一九九八年。
O杉田敦「寛容と差異――政治的アイデンティティをめぐって」『新・哲学講義』第七巻(自由・権力・ユートピア)、岩波書店、一九九八年所収。
P竹中浩「帝政期におけるロシア・ナショナリズムと同化政策」『年報政治学一九九四』岩波書店、一九九四年。
Q奥村庸一「一九世紀ロシア民衆教育改革の性格について――対東方民族『異族人教育規則』(一八七〇)の検討」『日本の教育史学』第三九集(一九九六年)。
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『ロシア史研究』第64号(1999年4月)
 
 
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