王前『中国が読んだ現代思想――サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』講談社選書メチエ、二〇一一年
 
 
 現代中国が世界全体にとっても、また日本にとっても、きわめて大きな存在感をもっていることは、改めて確認するまでもない。文化大革命期――あるいは日中国交回復以前の時期――の記憶を持つ世代にとっては、ここ数十年の巨大な変化は隔世の感をいだかせるものがある。その変化があまりにも大きく、多面的であるため、その過程をきちんとフォローしていない者にとっては、ごく大まかな像をつくるのも容易なことではない。
 一般的なイメージとして、現代中国は経済面ではほとんど資本主義化しており、急速な成長を遂げているが、政治的には共産党の一党支配が続いており、言論の自由も依然として保証されていないというのが常識だろうが、その相互関係をどう理解してよいのかはなかなかの難問である。しかも、聞きかじるところによれば、現代の中国では欧米諸国の様々な思想潮流が積極的に紹介され、ある種の流行を見ていたりするという。マルクス・レーニン主義や毛沢東思想と相容れないかに見える多彩な欧米思想が紹介され、熱心な議論の対象となっているということと、一党支配・言論統制の継続とは、一体どういう関係に立つのだろうか。こういう疑問をいだいていた私にとって、この本はタイトルを見ただけで魅力を感じさせるものがあり、そこにどのようなドラマが描かれているのかに心惹かれながら、本書を手に取った。私自身は本書のテーマに関して純然たる素人であり、内在的な批評ができるわけではないが、それでもいくつかの点で興味を引かれるところがあり、それを中心に感想を書きつづってみたい(1)
 本書では、およそ一九八〇年以降の中国で欧米および日本の様々な思想家たちの言説がどのように紹介され、議論の対象となっているのかが描かれているが、一読するだけで、そこに壮大なドラマが展開されていることが感得される。登場する思想家たちの名前をざっと列挙するなら、サルトル、カミュ、ウェーバー、ニーチェ、カッシーラー、ハイデガー、アドルノ、ホルクハイマー、フロム、福沢諭吉、フッサール、リクール、レヴィ=ストロース、フーコー、デリダ、ハーバーマス、ハイエク、バーリン、ロールズ、丸山眞男、シュミット、シュトラウス等々と、実に多士済々である。あまりにも多様な素材が取り上げられているため、読んでいて眩暈に襲われるような気がしてくる。
 本書で取り上げられている多数の論者たちの間に種々の対立や論争があるのは誰の目にも明らかだが、いま「眩暈」という言葉を使ったのは、単にそのことだけを指すのではない。もし明確に規定された土俵の上で論争が展開されているならば、まだしも話が分かりやすかっただろう。しかし、ここに登場する論者たちの間には複雑にねじれた関係があり、何と何がどのように対抗しているのかを見定め、それらの相互関係を整理すること自体が難しい。そのことが、読んでいて眩暈とか消化不全とかいった感覚に襲われる理由であるように思われる。このように入り組んだ難問に著者がどのように立ち向かっているのだろうかという点に興味をいだきながら、本書を通読した。
 いま書いた「ねじれ」の構造に著者自身が言及している例としては、「近代化」を中心課題とする現代中国において、いわば早熟的に「ポストモダン」思想が流行することの意味という問題があり、これは本書各所で論じられている。また、リベラリズムの摂取が主要課題であると同時に、リベラリズムに対峙する「毒」を含んだ思想(カール・シュミット、レオ・シュトラウスなど)が重要な役割を演じているということが、特に最終章で重要視されている。
 それ以外にも、「ねじれ」を感じさせる例は数多い。たとえば、第一章で取り上げられているサルトルについて考えてみよう。かつて「ブルジョア思想」として批判されていたサルトルが解禁されたこと、そこにおいて「自由」が大きなテーマになっていることまでは、比較的分かりやすい。それだけなら、まさしく「言論・思想の自由の拡大」の好例ということになりそうに見える。だが、サルトルが一時期、フランスの毛沢東派と行動を共にし、毛派の代表的人物とさえ見なされた――これはサルトル自身の思想に即していえば十分公平な評価ではないかもしれないが、そう見なされるに至ったのには、彼自身に責任がないとも言い切れない――という事情を思い出すとき(2)、毛沢東時代からの脱却を目指す中でサルトルがブームになったということには、歴史の皮肉のようなものを感じる。
 第一三章で取り上げられている丸山眞男の場合、「近代性」について深く考え抜いた思想家としての紹介が中軸になっており、それはそれで理解できることである。だが、その丸山が、中国の近代と日本の近代の比較に関して、『日本政治思想史研究』のあとがきで、むしろ中国の近代化の方を高く評価する見解を示したことは、本書では触れられていない。このあとがきで丸山は、同書の冒頭にあった「中国の停滞性に対する日本の相対的進歩性」という図式への反省を述べ、「カッコ付の近代を経験した日本と、それが成功しなかった中国とにおいて、大衆的地盤での近代化という点では、今日まさに逆の対比が生れつつある」と書き、人民中国への高い評価を明確にしている(3)。今日から振り返って、この丸山の言葉をどう受けとめるべきかは大きな問題だが、現代中国の「近代化」への教訓という観点から丸山を読む場合、この点は一種の「躓きの石」になるのではなかろうか。
 ソ連との比較についても考えてみたい。もっとも、本書の中でソ連への言及がそれほど大きな位置を占めているわけではなく、この点にこだわることは、下手をすると無い物ねだりや我田引水の類になりかねない。だが、かつてのソ連も中国も、ともに社会主義国――そこでいう「社会主義」とはどういうものだったのかという大問題があるが、その点はひとまずおく――であり、一時期の中国がソ連の強い影響下にあったという事実を念頭におくなら、両国の比較は決して無意味な作業ではないはずである。そして、ごく単純にいうなら、スターリン時代のソ連と毛沢東時代の中国の間には一定の並行関係があり(実際、本書第一章には「ジダーノフの幽霊」への言及がある)、ペレストロイカ期からソ連解体期にかけてのロシアと現代中国との間にもある種の並行関係があると、ひとまず言えるだろう。だが、一歩立ち入って考えるなら、それらの間には幾重にもねじれた関係があり、それらを整序して同じ土俵の上に載せるのは至難の業である(4)。本書で取り上げられている様々な思想家たちについていうなら、彼らの多くはロシアでもいろいろな形で議論の対象となっているが、その論じられ方は決して同じではなく、一体どのように対比したらよいのだろうかと考えると、これも相当な難問だということに気づかされる(5)
 以上、「ねじれ」の関係ということについて、いくつかの例に即して論じてきた。そうした問題の所在に著者が無自覚でないことは、本書のあちこちから窺うことができる。にもかかわらず、全体がある種の単一の図式にきれいにおさまってしまうような印象もなくはなく、その点では微妙な違和感をいだく。乱暴に要約するなら、「文化大革命期には極度に遅れていた中国が、ようやく古い束縛から解き放たれ、自由な模索を開始し、近代化に向けて前進しようとしている」という図式の中に、種々の潮流がみな収まるように描かれている感じがするのである。相互矛盾や緊張関係を意識しつつも、とにかくこれら全部が「進歩」の要因なのだという予定調和的図式になっているのではないか、といったら言い過ぎだろうか?
 
(二〇一一年一〇月)

(1)本書に関する内在的な書評として、中島隆博「現代中国政治史思想史の誕生」『UP』二〇一一年九月号がある。
(2)海老坂武『サルトル――「人間」の思想の可能性』岩波新書、二〇〇五年、一三五‐一四七頁参照。
(3)丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、一九五二年、あとがきの七頁(『丸山眞男集』第五巻、岩波書店、一九九五年、二八九‐二九〇頁に収録。後者では旧字体が新字体に改められており、ここでもそれに倣った。傍点は原文のもの)。私はこの文章を数十年前に読んで以来、頭の片隅に漠たる記憶としてとどめていたが、正確な出典は思い出せずにいた。私の質問に答えて、この出典をご教示下さり、私の記憶を新たにして下さった松本礼二氏に感謝する。
(4)私はこれまで何度か、中ソ/中ロ比較の試みに関与したことがあるが、どれも不完全燃焼に終わり、十分な比較論にたどり着くには至らなかった。近藤邦康・和田春樹編『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』東京大学出版会、一九九三年への寄稿、座談会(加々美光行・緒方康、両氏と)「中国とロシア――その党史と政治改革の構図」愛知大学『中国21』第一四号(二〇〇二年)、「ペレストロイカ・冷戦終焉・ソ連解体――二〇年後の地点からのパースペクティヴ」(ユーラシア地域大国比較シンポジウムでの講演、法政大学、二〇〇九年一二月一二日。その記録は、北海道大学スラブ研究センター『比較地域大国論集』第三号、二〇一〇年に収録)。
(5)一つの思いつきとして、個別の事例に即した詳しい比較を最初の手がかりにすることが考えられる。たとえば、本書第二章で取り上げられているマックス・ウェーバーについていうなら、ウェーバー自身が一九〇五年の第一次ロシア革命を熱心に注視して大論文を書いたことに始まり、「ロシアとウェーバー」というテーマをめぐっては膨大な量の議論がある。そうした「ロシアとウェーバー」問題と「中国とウェーバー」問題とを交錯させるのは容易な業ではないが、とにかく興味深い課題であると思われる。同様のことは、他の様々な思想家についても当てはまるだろう。
 
 
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