米田綱路『モスクワの孤独――「雪どけ」からプーチン時代のインテリゲンツィア』(現代書館、二〇一〇年)
 
 
 私がまだ若かった一九六〇年代末から七〇年代にかけての時期に、ソ連という国に関心を寄せる人たちの間では、「異論派」とか「地下出版」とかが一種のブームだった。ソ連の公式文献はつまらないものばかりで、およそ読む気になれない、それよりも「地下出版」の文献こそ、内容豊富で、読むに値する――そんな風な雰囲気があった。ソルジェニツィン――一九七〇年にノーベル文学賞受賞、七四年国外追放――は一種のヒーローだったし、《現代ロシア抵抗文集》という八冊ものシリーズが刊行されたりしていた(勁草書房、一九七〇‐七三年)。このシリーズに収められたのはチュコフスカヤ、ダニエル、シニャフスキー、グロースマン、アマルリーク、マルチェンコといった人たちの著作だが(これらの名前は、ここで取り上げる米田著にも繰り返し登場する)、それ以外にも、様々な傾向の「異論派」の刊行物が日本語に訳されていた。これらとはやや毛色が違うが、作曲家のショスタコヴィチが実は内心で異論をいだいていたことを示す回想なるもの――実は偽書だったのだが――も邦訳されて、大きな反響を呼んだことがある(1)
 それから数十年の歳月が過ぎ、状況は大きく変化した。先ずゴルバチョフ期に検閲がゆるみ、それまで「地下」にあった文献が怒濤のように「地上」に現われ、短い興奮期の後には、「もう飽きた」という感覚にとって代わられた。やがてソ連という国自体が消滅して、「粗野な資本主義」ともいうべき状況が訪れると、「政治の季節」は過去のものとなり、言論の自由とか精神性とかいった高尚な議論よりも金儲けが全てだという雰囲気が広まった。そうした経緯を経た今日では、かつての「異論派」知識人たちの議論はまるで遠い昔のことであるかのように見える。日本でも、当時のことを振り返る議論は極度に乏しい。
 そのような状況の中で、ソ連時代から今日に至るロシアのインテリゲンツィヤを主題とする書物が刊行された。これはちょっとした驚きである。なお、ここでいう「インテリゲンツィア」とはロシア特有の概念で、単に高度の教育を受けたとか、専門知識を持っているというだけではなく、権力と対峙して、精神の自由を守ろうとする、特殊な性格を帯びた知識人の類型を指している。そのような意味でのインテリゲンツィヤは一九世紀ロシア文学の主要登場人物であり、英語でもintellectualと区別されるintelligentsiaというロシア語由来の言葉が使われたり、日本における外来語としてもロシア語風に「インテリゲンツィア」という言葉が使われるのは、その世界的な影響力を物語っている。そして、二〇世紀ソ連の「異論派」もその系譜を引き継ぐ人たちとして、世界各国で熱い議論の対象となっていた。しかし、いまではそうした議論全体が忘れられて久しくなり、おそらく今日の若い世代にとっては、この主題はほとんど未知のテーマだろう。他方、私のような世代の者にとっては、「ずいぶん久しぶりだなあ」という感覚を起こさせる。著者は一九六九年生まれとのことなので、このテーマが流行だった時代のことはほとんど知らないのではないかと思われるが、そういう世代の人が、どのようにしてこのテーマにたどり着いたのかに興味を引かれた。
 本書のうち、分量的に最大の部分(全体の約八割)を占めているのは、スターリン時代末期からブレジネフ期までのソ連を描いた第一‐一〇章である(その後の第一一、一二、一三章は、それぞれゴルバチョフ期、エリツィン期、プーチン期をわりと簡略に描いている)。いま述べたように、「異論派」的なインテリゲンツィアはかつて日本でも強い関心の対象だったことがあるから、描かれていることそれ自体は、それほど新鮮な印象を与えるものではない。それでも、多くの人から忘れられている主題だから、若い世代にとっては一種の再発掘というような意味をもつのだろう。私自身にしても、かつては熱心に読んでいたが、その後やや忘れかけていたことを思い起こさせてくれるという意味での恩恵があった。もっとも、それだけなら「既知のことを思い出した」というにとどまるが、本書には、それだけにはとどまらない要素もいくつかある。この小文では、本書全体をまんべんなく論評するのではなく、いま述べたような観点から私の目を引いた個所に集中して、いくつかの感想を書きとめておきたい。
 
     *
 
 先ず第一・二章で作家・ジャーナリストのイリヤ・エレンブルグが取り上げられているのが目を引いた。エレンブルグは一時期まで日本でも有名だった文学者であり、彼の回想は一九六〇年代前半にソ連で公刊されて、日本でも邦訳(『わが回想――人間・歳月・生活』改訂新装版、全三巻、朝日新聞社、一九六八‐六九年)によって知られていた。もっとも、当時刊行された版には、実はかなりの削除部分があった。米田著は、ソ連末期の一九九〇年に刊行された完全版の回想や複数の評伝などをもとにして、この回想の出版をめぐってどのような攻防があったかを詳しく跡づけている。これが興味深い紹介であるのはもちろんだが、それだけであれば、他にも類似の例は多数あり、それほど強く私の関心を引くことはなかったかもしれない。ペレストロイカ期からソ連解体後にかけて、かつて部分的削除を伴ってしか公刊されなかった作品や全面禁止されていたものが一挙に解禁された例は、枚挙にいとまがない。エレンブルグもその一例だが、最初のうち、「遂にここまで来たか」という知的興奮を伴っていたその種の現象も、次第に「慣れ」の対象となり、あまり人を驚かさなくなっていることが少なくない。
 私がむしろ注目したのは、インテリゲンツィア――先にも記したように、単に知識人という意味ではなく、権力と鋭く対峙する特異な類型の知識人――に強く惹かれる著者が、エレンブルグという、ある意味では体制と妥協しながら生きた文学者の軌跡を丁寧に追いかけているという事実である。本書の中心部分をなす第三章以下では一九六〇年代後半以降の純然たる「異論派」が主要テーマとなっているのに対し、エレンブルグが活躍した一九二〇‐六〇年代にはまだ「異論派」という言葉自体が存在しなかったし、仮にそういう言葉があったとしても、彼はそれに該当しない。彼はロシア革命後のかなりの期間、故国を離れて西欧で過ごしていたが、政治亡命者だったわけではなく、ソヴェト政権ともつかず離れずの微妙な関係を維持していた。一九三〇年代半ばにはソ連政府公式紙たる『イズヴェスチャ』のパリ特派員となったこともあるし(2)、独ソ戦期にはナチ・ドイツに対するソ連防衛の論陣を張って、ソ連を代表する戦場ジャーナリストの役割を果たした。一九五四年の小説『雪どけ』は、スターリン死去直後のソ連の雰囲気を代表する作品として有名になった。他面、彼は当時のソ連体制とべったり密着していたわけではなく、それどころか、しばしば権力との間に厳しい緊張関係を抱えていた。そのことは、あちこちを削除された回想からでも窺うことができ、おおよそのことは以前から知られていたが、今回、米田著によってその間の事情が一層詳しく明らかにされたわけである。
 抑圧的な体制の中で、部分的に体制と妥協しつつ、秘かな抵抗を試みたり、権力の太鼓持ちにとどまらない独自性を発揮しようとした人間は、ソ連史であれ他の諸国であれ、諸種の例がある。ソ連以外の有名な例としては、ナチと協力しつつ、他の芸術家を庇護していたとされる指揮者フルトヴェングラーの名が挙げられる。より微妙だが、哲学者ハイデッガーのナチとの協力問題は多くの人たちの関心を引いてきた。戦前から戦中にかけての天皇制日本についても、同種の例は多数挙げられるだろう。そうした政治体制のもとでは、正面からの体制批判は自殺行為であり、ともかくも生き延び、できればある種の独自性を保ったり、他の人々を庇護したりするためにも、ある種の妥協は不可避である。だが、そうした妥協は、「ミイラ取りがミイラになる」危険性もはらんでおり、際どい綱渡りである。「生き延びるためにやむをえない」という口実で、止めどない妥協に転落していく可能性も常に残っているからである。
 エレンブルグもまた、そうした微妙な綱渡りをしていた人たちの一人、その典型的代表だった。彼の回想の公刊に尽力した『新世界』誌編集長トワルドフスキー――彼はまた一九六〇年代前半にソルジェニツィンに作品公刊の場を提供したことでも知られる――もまた、同様の立場にあった(もっとも、より「公的」な立場にある度合いの高いトワルドフスキーとエレンブルグの間にはかなりの緊張もあったことが米田著に指摘されている)。ソ連国内で公的に刊行される著作物を多数書いていた以上、少なくとも外面的には「ソヴェト的」な立場の人と見なされることになるが、そうした人が内面でどのような葛藤を抱え、また検閲当局とどのような攻防を繰り広げていたかは、息詰まるドラマのような迫力を持つテーマである。この「協力」というテーマについては、後でまた立ち返ることにしたい。
 
     *
 
 本書のうちでもう一つ、私の関心を強く引いたのは、異論派の間での論争、とりわけナジェージダ・マンデリシュタムとリディヤ・チュコフスカヤの間の激烈な論争である。
 ソ連の異論派たちが、体制批判という限りでは共通項をもちながらも、相互の間で種々の見解の違いをはらみ、往々にして激しく論争しあっていたことは、以前からよく知られていた。特に、最大の大物ともいうべきソルジェニツィンとサハロフの違い――大ざっぱなレッテルとして、前者がスラヴ派的、後者が西欧派的といった分類がよくなされた――については、多数の情報や解説があった(3)。しかし、そうした一般論を超えて、ナジェージダ・マンデリシュタムの『第二の書』をめぐる論争は、ここまで強い感情的反撥があったのかという思いを改めて引き起こさせる内容を持っている。
 有名な詩人オーシプ・マンデリシュタムの妻であるナジェージダの最初の回想は、英訳Hope Against Hope (Penbuin Books, 1975), 日本語訳『流刑の詩人・マンデリシュターム』(新潮社、一九八〇年)ともに広く知られていた。だが、それに続く『第二の書』は、英訳はされたものの邦訳はされず、日本ではあまり知られていなかった(私自身、英訳版Hope Abandoned (Penbuin Books, 1976)を一応買って持っていたが、読んではいなかった)。最初の回想が異論派に共鳴する読者層の幅広い支持を集めたのと対照的に、『第二の書』の方は、むしろ異論派の間に鋭い亀裂を引き起こしたことが米田著では紹介されている。それというのも、『第二の書』は異論派に属する多くの人を「裏切り者」として、しかも名指しで激しく論難していたからである。これに対し、これも代表的な異論派であるリディヤ・チュコフスカヤは、ナジェージダの独善主義を強い口調で弾劾した。
 どちらが正しいかなどということを、第三者が安易に云々することは許されないだろう。一方からすれば、裏切りは徹底して暴き、糾弾すべきであるのに対し、他方からすれば、そのような独善主義は自分一人を正しいとする思い上がりであり、あれこれの人を根拠不十分なまま中傷するのは権力者のやり口に酷似しているということになる。ともにスターリン時代に深く傷つき、体制にあらがい続けてきた異論派たちの間での相互非難がここまで深いということに、胸を衝かれる思いがする。この論争を扱った第六章は、本書中で最も強い印象を残す章となっている。
 
     *
 
 本書において著者は、「権力vsインテリゲンツィア」という対抗を中心テーマとし、一貫してインテリゲンツィアの側に視点を定めて、この対抗関係の展開を跡づけている。このようなテーマ設定は、ある時期までの日本では広く見られたものだったが、昨今では「流行外れ」のものになっている。一九世紀ロシアのインテリゲンツィアも二〇世紀半ばソ連の異論派もともに、かつての日本の知識人の問題意識とある種の共鳴現象を引き起こすテーマだったが、今ではどちらも「大時代」という印象を与え、「ファッショナブルでない」と受けとめられるようになっている。ここには、ここ数十年の日本社会の深部での変容が反映しているように思われる。
 権力とインテリゲンツィアを相容れない存在とし、一貫して後者の側からその対抗を見ていこうとする姿勢は、「反政治」という言葉に集約される。チェコスロヴァキアの異論派劇作家ヴァツラフ・ハヴェル(体制転換後にチェコ大統領となった)によるこの言葉は、本書の第九章で共感を込めて紹介されている。私自身は、「政治」というものに対して、一面で強い違和感をいだきながら、他面で、だからといって目を背けるわけにもいかないと感じ、いつのまにか「気の進まないままの政治学者」「政治学者らしくない政治学者」となった人間であり、そのため、「反政治」という言葉にも、曰く言い難いアンビヴァレンスを覚える。一方では、「そうだ。政治なんかに取り込まれてなるものか。徹底して拒否するしかないんだ」と叫びたい気持ちと、他方では、「本当にそういうだけで済むのか」という疑問とに引き裂かれるからである。もっと微妙なのは、「反政治」を掲げる人たちがこの言葉を一種のスローガンとして利用し、それ自体が政治的術策の具となってしまうことがあるということである。そうなると、「政治とは汚く厭わしいもの。反政治は清らかなもの」という二分法は必ずしも成り立たないということになってしまう。
 このことはまた、インテリゲンツィアが生き延びるためには、権力とのある種の「協力」や「妥協」が不可避ではないかという厄介な問題とも関わる。本書でも、そのことはいくつかの例で示されている。先に取り上げたエレンブルグもその例だったし、もっと後の時代では、流刑を解かれたサハロフがゴルバチョフと条件付きの「協力」を行なったことや、人権活動家セルゲイ・コヴァリョフのエリツィン政権への参加をめぐる論争などが紹介されている。
 「政治」というものを全否定するのが非現実的であり、「手を汚す」ことを恐れていては何も成し遂げられないという発想は、しばしば「より小さな悪」という言葉で表現される(4)。この厄介な問題に関する著者の姿勢には、微妙な揺れがあるように見える。ある部分では、批判精神をもったインテリゲンツィアといえども一定の条件下である種の妥協をせざるを得なかったことが共感を込めて書かれているが、別の個所では、「より小さな悪」という発想法自体を全否定するかのニュアンスが示されている(五二八、五四七頁など)。問題が困難なだけに、こうした揺れは不可避ということかもしれない。
 いずれにせよ、本書はインテリゲンツィアの側に視点を定めて書かれており、そのことの反射的結果として、「政治」の側の動向についてはあまり詳しくない。ところによっては、やや首をかしげたくなるような個所もないではない。どの権力者も判で押したように「悪玉」として描かれているのは、それなりに理由のあることだとはいえ、やや「ワンパターン」的な印象を与える(本書における「権力vsインテリゲンツィア」の対抗図式は、スターリン期、フルシチョフ期、ブレジネフ期、ゴルバチョフ期、エリツィン期、プーチン期を貫くものとして提示されており、そこに本質的な差異は認められていない(5))。もっとも、このことは著者の課題設定からして無理からぬことであり、あながち咎め立てすべきことではないだろう。ソ連および現代ロシアの政治の動向については、他に多数の関連著作がある。本書はそれらと違って、あくまでもインテリゲンツィアの側に視点を定めたという点にその価値があるのである。
 
     *
 
 いま書いたように、政治の動向をそれ自体として追うのが本書の主要課題でない以上、その点についてあまりこだわるのは適切でない。ただ、政治とインテリゲンツィアが無縁な存在ではなく、むしろ拮抗しあう同時代現象であることを思うなら、インテリゲンツィアの社会的位置が政治との関わりでどのように変化したかという問題だけは、多少こだわってみるに値する。その点の考察の欠如が私の感じた本書の弱点であるので、最後に、簡単に私見を述べてみたい。
 ソ連時代には、「中間層」と呼びうるような社会層は比較的薄かったが、それでも長期にわたる工業化・都市化・公教育普及の中で、高等教育を受け、専門知識を持つ人たち――前の方で定義したような意味での「インテリゲンツィア」とはいえないが、ともかく一種の「知識人」ないし「専門家」たち――は徐々に増大してきた。彼らの多数は、徹底して権力と対峙するというほどの気概は持たなかったが、イニシャチヴを発揮する余地の乏しい社会への不満をいだくという限りでは、異論派とある種の共通感覚も持っていた。異論派の文献が「地下」とはいえかなりの範囲で流通し、インテリゲンツィアならぬ知識人や一部エリート層の間でさえも一定の影響力をもっていたことは、異論派の孤立を相対的に緩和した。そうした背景があったからこそ、ペレストロイカという現象も起こりえたし、その中で、かつての異論派の言論は短期間に広く受容されるようになったのである。
 これに対し、体制転換後の状況は大きく異なる。ソ連亡き今日、中間層の多くは、資本主義化の中で金儲けの自由を獲得することで満足し、かつてのような権力との対峙という感覚をもたなくなった。ここに、現代のインテリゲンツィアの孤立の原因がある。つまり、かつての異論派がそれ自体としては少数者であっても、内心である程度共感するという広義の支持層をそのまわりに持っていたのに対し、今日の体制批判者は、そのような支持層を持つことができにくくなっている。その孤立は、ある意味でソ連時代よりも深いとさえいえる。
 体制転換(社会主義の否定)およびソ連国家の解体を一種の革命と見るなら、革命の過程では旧権力への強い糾弾と自由への希求が高く掲げられながら、革命の達成後に精神的自由が保持されず、権力との緊張精神も失われているのは、逆説的な現象であるように見える。しかし、考えようによっては、これは革命というものの一般的特徴なのかもしれない。フランス革命についての古典的著作であるアレクシス・トックヴィルの『アンシァン・レジームと革命』には、次のような指摘がある。
 
「あらゆる時代において、政治的自由への渇望は、人類史上の最も重大なものと正当にみなされているものへと人々を突き動かしてきたが、その背後にあるのは何かということについて、私は何度も考えてきた。……ある国民がまずいやり方で統治されているとき、国民が自ら統治したいという願望を発達させるのは分かりやすい話である。しかし、この種の独立への欲求が、特定の除去可能な原因――専制的政府の邪悪な行為――による場合には、それは短期的なものに終わる。当初の状態が過ぎ去ると、独立への欲求は弱まり、自由への本物の愛とみえたものは、実は圧政者への憎悪に過ぎなかったことが分かる。……
 自由への真の愛は、物質的繁栄の展望によって鼓舞されるものではない。実際、短期的にはその展望は怪しいものである。確かに、長期的にいうならば、自由はそれを確保するすべを心得ている人たちに安寧と福祉、そしてしばしば大いなる繁栄をもたらすだろう。にもかかわらず、当面は自由が繁栄にとって不利となることもあり、むしろ専制の方が短期的繁栄をもたらすかもしれない。実際、自由を物質的利益によってのみ評価する人々が自由を長く保持することは、決してなかったのである」(6)
 
 今から一世紀半も前に書かれたこの言葉は、一九九〇年前後の脱社会主義革命にも見事に当てはまる。その時期には「自ら統治したいという願望」が広がり、「政治的自由への渇望」によって旧権力が打倒されたかに見えた。しかし、「当初の状態が過ぎ去ると、独立への欲求は弱まり、自由への本物の愛とみえたものは、実は圧政者への憎悪に過ぎなかった」。そればかりか、社会主義を貧困と同一視し、経済的繁栄を資本主義化に求めた結果は、「専制の方が短期的繁栄をもたらす」という発想が多くの国民の支持を得るという状況である。「自由を物質的利益によってのみ評価する人々が自由を長く保持することは、決してなかったのである」という言葉は、ここでも適切である。
 もっとも、これを一種の運命論的な法則のようなものと見なすのは、あまりにもシニカルな見方になるだろう。大衆運動には波の干満のようなものがあり、高揚局面の後には退潮局面が来るのがならいだとしても、その退潮が永続するということまで運命づけられているわけではない。また、今日のロシアの言論にいくら制約があるにしても、ブレジネフ期以前のソ連のような状態にまで逆戻りしたわけではない。歴史は常に新しい可能性に開かれている。その点を留保した上での話だが、一時期に高揚した権力批判や自由の叫びがそう簡単に定着するわけではないことは、この間の現実から明らかである。しかも、なまじ金儲けの自由が開かれた上に、言論についても過去との相対比較では自由度が広がった以上、それらを超えて更なる思想・信条の自由を確保しようとの願いは、かつてほど熱烈なものではなくなってきている。今日のロシアがいくら外部から「権威主義化」を指摘されようとも、そうした批判が国内で反響を見出すことがソ連時代以上に少ないのは、こうした事情による。
 
(二〇一一年三月)
 
【追記】ソ連の異論派の内情を当事者が振り返った興味深い回想として、ジョレス・A・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ『回想 1925-2010』現代思潮新社、二〇一二年が出た(この小文で触れたエレンブルグに関する記述が八八‐九五頁にある)。
 
 

(1)ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』中央公論社、一九八〇年。これはショスタコヴィチ本人が秘かに書いていた回想という体裁に即していえば偽書だが、それにしてもよくできた偽書ではあり、興味深い著作だった。というのも、当時のソ連の「体制内抵抗者」的な知識人たちの発言(ショスタコヴィチ自身のソ連の公刊物での発言も含む)をあちこちにちりばめて書かれており、その意味では、ある時代のある社会集団の集合的心性を物語る資料となっているからである。
(2)これはおそらく、彼の学生時代の旧友ブハーリンが一九三四年に同紙編集長に就任したことが関係している。ブハーリンは一九二〇年代には共産党の最高指導部の一員だったが、二〇年代末以降、その地位を低下させていた。その彼が辛うじて保持したポストが『イズヴェスチャ』編集長の座だった。
(3)ソ連時代にも多数の情報があったが、それらを集大成した近年の作品として、ロイ・A・メドヴェージェェフ、ジョレス・A・メドヴェージェフ『ソルジェニーツィンとサハロフ』現代思潮社、二〇〇五年がある。なお、ロイ・メドヴェーデフ『社会主義的民主主義』(三一書房、一九七四年)は、異論派の多様な諸潮流を手際よく整理している。
(4)『汚れた手』というタイトルの戯曲がサルトルにあり、丸山眞男もこれに言及している。『増補版・現代政治の思想と行動』未来社、一九六四年、三二五‐三二六頁。また、「より小さな悪」の概念は、たとえばE・H・カーとかマイケル・イグナティエフといった、かなり異なるタイプの思想家がともに重視したものである。塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、二〇一一年、三〇四‐三〇六、三一九頁参照。
(5)欧米や日本のジャーナリスト・評論家がプーチン期ロシアの権威主義性を批判する際、「エリツィン期には民主化が進んだのに、プーチンになって逆行した」という風に論じられることが多い。これはエリツィン期を過度に明るく描き出し、エリツィンとプーチンの間に存在する連続性の要素を見落とすという点で一面的な見方である。これに対し、本書の見方は、エリツィン初期に既に後退を見出すもので、十分精密とはいえないものの、上記のような一面的評価からは免れている。
(6)Alexis de Tocqueville, The Old Regime and the French Revolution, (tr. from the French), Gloucester, Mas.: Peter Smith, 1978, p. 168.