エンツォ・トラヴェルソ『全体主義』(平凡社新書、二〇一〇年)
 
 
 「全体主義」という言葉は、さまざまな文脈でそれぞれに異なった意味を込めて使われ、しばしば激しい論争の対象となってきたが(1)、本書はそうした論争的用語を概念史風に取り扱い、この語の用法とその含意を簡潔に整理した著作である。議論の力点は思想史におかれており、それ以外の角度からこの概念に接近しようとする人にとっては多少物足りないかもしれない。また、テーマの論争性からして、あれこれの異論や疑問が百出することは避けがたい。そういう点を留保した上で大まかにいえば、手際よい概観として、それなりに有用な小著だと言える。
 「全体主義」という言葉が、相当広い範囲にわたって使われていながら、その理解をめぐって異論と論争が絶えない――そもそも、この用語を使うこと自体が既に論争的である――のには種々の理由がある。その一つとして、後でも触れるように、この語の使われ方の歴史的変遷には大きな曲折があり、どの時期のどういう知的雰囲気を背景にするかによって、受けとめ方が極端なまでに異なるという事情が挙げられる。
 またもう一つには、この語がさまざまな知的活動の領域にまたがって使われ、それぞれに含意や射程が異なっているという事情もある。政治評論や政治宣伝の文脈で広く使われたのは周知のところだが、そのことは、価値評価と強く結びつけられ、感情論を伴いやすく、冷静な議論に載せにくいという帰結を招いた。純然たる政治論はさておき、より学問的な議論においても、この語の使われ方には大きな幅がある。管見の範囲でごく大雑把に言うなら、文芸批評とか思想・哲学の分野で、この語は最も大きなインパクトをもってきたように見える。これと対照的に、実証分析を課題とする歴史研究においては、ある時期以降、全体主義概念はあまりにも大雑把であり、精緻な検証に耐えるものではないとの批判が高まり、この言葉は過去のものとなっている。政治学の場合、その中の下位分野によって事情が異なる。政治理論の領域ではこの語の哲学的含意が重視されるが、政治史ではそれほど積極的には使われず、比較政治学ではこの概念を限定的に利用することが多い。ここで「限定的」というのは、権威主義体制の研究に際して、「権威主義体制は全体主義と同じではない」と論じるために、いわば否定形でこの語が使われるにとどまり、「全体主義」とされる体制自体にはあまり注意が払われない傾向があることを指している(2)
 さて、ここでとりあげるトラヴェルソの著作にはいくつかの特徴がある。その一つは、いかにもイタリア出身の学者らしく、イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国の動向を重視している点である。これは、アメリカを中心とする英語圏の文献を偏重しがちだった従来の研究に比べて、議論の幅を広いものとしており、一つのメリットといえるだろう。
 本書のもう一つの特徴は、議論のタイムスパンが長いことである。全体主義論の起源が両大戦間期にさかのぼるということ自体は従来から知られていたが、華やかな論争が展開されたのが冷戦期以降だったことから、それ以前の起源について詳しく触れられることは従来あまりなかった。これに対し、本書は両大戦間期および戦時中にかなりの紙幅をさいている。第一‐五章がこれにあたり、分量的に全体の半分近くになる。これは本書のユニークな特徴といえるだろう。
 初期の全体主義論について論じた部分で先ず目を引くのは、何人かの論者が自ら「全体主義」という言葉を使って議論を展開していたという指摘である。これが注目に値するというのは、以下のような事情による。
 通常、「主義」とか「イズム」といえば、当事者が自己の考えや理念を積極的に説いたものを指すのが普通である。ところが、「全体主義」の場合、これを自らの理念として主張する人は稀であり、むしろ他者が「あいつらのやっていることはこんなものだ」という説明のなかで、一種のレッテルとして使うことの方が圧倒的に多い。ある言葉が、当事者によって――本人の主観においては積極的なものとして――説かれているのか、それとも他人が批判や攻撃の意味を込めて使っている――そのレッテルを貼られた当人はそのレッテルを拒否している――のかは、決定的に異なる。レッテル貼りという現象自体は珍しいことではないし、同じ言葉が場合によって自称だったり他称だったりするというのもよくあることだが、自称する人が滅多にいない「主義」というのは、わりと珍しいだろう。こう考えるなら、「全体主義」の語はさまざまな「主義」のなかで特異な位置を占めるように見える。ところが、この言葉も、早い時期には一部の人たちによって自ら説かれたことがあるのである(特にイタリアで)。もっとも、そうした事例は量的に少ない上に、発言自体も体系的でなく、内実を明確にしたものではない。とすれば、そうした例があったという指摘は確かに興味深いものではあるが、ある時期以降はもっぱら他称=レッテルとして使われるようになったという趨勢をひっくり返すことにはならないと見てよいだろう(3)
 一九三三年のナチ政権成立後、「全体主義」の語は亡命知識人たちによって反ナチの立場から使われるようになった。その時点では、「反全体主義」は左翼のスローガンだったから、この概念がソ連にも当てはめられることは稀だったが、一部の幻滅した元左翼はソ連批判の文脈で、「全体主義」の語を使うことがあった(その先駆はヴィクトル・セルジュ)。一九三九年の独ソ不可侵条約以降になると、独ソ結託のイメージから、両者を「全体主義」と一括する議論も増大した。もっとも、論理的にいうなら、両者に対してともに批判的ということと、両者を「同一の体制」と見なすこととは別の話のはずである。トロツキーなどは、両者の社会的基盤の相違を強調しつつ、しかし「全体主義」という言葉を双方に使った。この時期の全体主義論は、特定の政治経済体制の内実を具体的に示そうとするよりも、ともに恐るべきものだという批判の姿勢を明示することに力点があったように見える。いずれにせよ、一部の元左翼――ないし異端の左翼――イデオローグの間で「全体主義」の語が使われ出したというのは興味深い事実であり、戦後にもさまざまな形で繰り返される現象の先駆をなす。しかし、一九四一年に独ソ戦が始まり、米英とソ連が「民主主義擁護」の「大連合」をつくるようになると、ソ連とナチ・ドイツやファシスト・イタリアを同列視する議論は影をひそめ、それに伴って、「敵」に与えられる名称は「全体主義」ではなく「ファシズム」ということになった。つまり、一九三九‐四一年に広まりかけた「全体主義」概念は一九四一‐四五年にはいったん背後に退いたわけである。
 以上、本書第一‐五章に即して、戦間期・戦中期についてみてきた。ここまでは、本書のうち比較的独自性の発揮された部分だが、戦後期になると、わりとよく知られた事項の復習という色彩が濃くなる。
 第六、七章は主に一九五〇年代、つまり冷戦初期を扱っている。この時期に全体主義論が隆盛を極めたのは周知のところである。細かく見るなら、この時期の議論にも種々の差異があり、それを一色に塗りつぶすのはやや乱暴なところがあるが(4)、当時の時代風潮のなかでは、全体主義論はアメリカの対ソ政策を正当化するイデオロギーという性格を色濃く帯びることになった。重要なのは、ナチズムが敗戦によってはじめて倒れたのと同様、ソ連体制の終焉は内からの変革を待つのではなく外からの打倒によるほかないと考えられたことであり、全体主義と闘う唯一の効果的な方法はソ連の敵を支援することだと考えられたことである。そのことは、発展途上国の軍事独裁政権を「反ソ」の一点で支持することを正当化する役割を果たした(一一九‐一二〇頁)。こうして、この時期に全体主義概念はそれまでよりも体系的なものにまとめられると同時に、濃厚なイデオロギー色を帯びるようになった。
 第八章では、一九六〇年代以降、冷戦初期とは打って変わって全体主義論が急速に凋落したことが論じられている。その際、主要な要因は、アメリカのヴェトナム戦争に対する批判の高まりや、その他の要因も作用したニューレフトの台頭に求められている。アジアやラテンアメリカから見れば、西洋の反全体主義はまるで、自由を守るためではなく、帝国的・新植民地的な秩序を合法化するための口実と映ったという指摘もある(一二八頁)。これは一つの側面を言い当てているが、それだけだと、全てが政治イデオロギーに還元され、議論が単純化されてしまう。全体主義論が一九六〇‐七〇年代に凋落した一つの大きな理由は、ナチズムであれスターリニズムであれ、徐々に実証史学の対象となるなかで、あまりにも粗い図式である全体主義論に寄りかかっていたのでは本格的な歴史研究はできないとの自覚が広まった点にある。こうして、全体主義論は――特に歴史学の世界では――いったん知的議論の場から退場した。
 ところが、この概念の歴史の面白い点は、そうやって退場したはずのものが、その後に再びリヴァイヴァルしてきたという推移にある。その背景はいくつかの文脈に分けて考える必要がある。最も分かりやすいのは、冷戦終焉および「現存した社会主義」の退場に伴うイデオロギー状況の全般的変化だが、全体主義論リヴァイヴァルの兆しは、それにやや先立つ時期に始まっていた。
 トラヴェルソはこの時期のことを第九章(東欧諸国の異論派)と第十章(フランスにおけるイデオロギー的流行の変化)に分けて論じている。前者についていえば、東欧の異論派が当時の社会主義体制を痛烈に批判する論陣を張っていたことは以前からよく知られていたが、そこにおいて「全体主義」という言葉が占めた位置に着目した点が本書の特徴である。皮肉なのは、東欧異論派が「全体主義」という用語を発見したのは、西欧やアメリカの歴史家たちが実証分析の道具としてはこの概念は使えないと感じだしたのと同時期だったという指摘である(一四六‐一四七頁)。戦前・戦中期もそうだったが、この言葉の批判の武器としての意義と分析の用具としての意義の間には奇妙な食い違いがあり、前者の観点からこの用語を使う人たちは後者の観点には無頓着だったということになる(5)
 第十章におけるフランスについての記述は、かつて知識人の間でマルクス主義の威信の高かった国で、ある時期以降、それとは逆方向の流行が高まった事実を指摘している点で興味深い。一方の極から他方の極へと走るというのは「流行」というものにつきまとう現象であり、元左翼ほど極端な反共イデオロギーに傾斜しがちだというのも、ありふれたことである。私は以前から、フランスの知識人――ついでにいえば、フランス好きの日本の知識人も――の間にこういう傾向があるのではないかと考えていたのだが、それが本章で確証されているという印象を懐いた。
 全体主義論リヴァイヴァルのもう一つの起源は、一九八〇年代後半のドイツ歴史家論争――ナチズム登場はソ連における赤色テロルへの反応だったとするエルンスト・ノルテの問題提起をめぐる大論争――にあった。この論争は、本書では、冷戦終焉後を扱った次章で取り上げられているが、時期的にはむしろ冷戦終焉前夜に属する。いってみれば、本格的な冷戦終焉の少し前に、そこにつながるイデオロギー状況の変化が萌しており、それが一九八九年以後に全面化したと考えることができるだろう。もっとも、その時点では後の経過が見通せなかったせいか、当時の西ドイツ「進歩派」およびそれに共感する日本のドイツ史家たちは、ノルテの問題提起をあっさりと一蹴し、ナチズムとスターリニズムの比較可能性という議論そのものを無視する傾向があったが、これは批判の仕方として浅かったという気がする。このときに「進歩派」のノルテ批判が浅かったことが、まもなく訪れた冷戦終焉後の新しい状況に対応しきれないという事態を生むもととなったのではないだろうか(6)
 とにかく、ソ連解体後の世界では、一挙に全体主義論が復活し、大流行を見るに至った。本書からやや逸脱するが、日本の場合、かつての「第一の流行」時に全体主義論があまり入っていなかったせいもあり、今回の「第二の流行」をあたかも新鮮なものであるかのように受けとめる態度が相当広い範囲にわたってみられる。先述したフランスとやや似ているが、かつてマルクス主義が一種の「知的権威」だったことから、その「権威」を引きずりおろそうとするマルクス主義批判が流行となり、その一環として全体主義論が広められているわけである。一時期の「権威」がしばらくしてから失墜するというのはごく自然な成り行きであり、それ自体をとがめる必要はさらさらない。だが、それが一つの流行から他の流行へという「衣装の交替」だけを意味するなら、不毛と言わなくてはならない。近年の全体主義論リヴァイヴァルが、純学術的というよりもむしろ、かつてとは異なった意味で政治イデオロギー的な色彩を濃厚に帯びていることを思うなら、なおさらである。
 ともかく、本書の第十一‐十二章では、近年の全体主義論リヴァイヴァルが紹介されると同時に、その批判も提起されている。全体主義論の一つの特徴はナチズムとスターリニズムを比較し、その同質性を論証しようとするところにある。比較という観点をとること自体は当然のことであり、退けるべきことではない。かつてドイツ歴史家論争に際して「比較可能性」という問題設定自体が無視されがちだったことを思うなら、両者の比較は、むしろもっと真剣に取り組まれるべき課題というべきだろう。そして、本格的な歴史研究の土俵に載せられるなら、両体制は顕著な類似性と同時に、無視できない異質性ももっていたことが明らかとなる。このことは本書第十二章にも指摘されている通りである(7)
 かつては、二つの体制を同じ土俵で論じようとする人は、「お前はナチズムを相対化することで、その犯罪を軽く見せようとするのか」という非難にさらされた。ところが、今日では、両者が完全に同じではないと指摘すると、「お前はいまでもまだ共産主義を弁護するのか」という非難が浴びせかけられるようなご時世である。ここには、価値判断と歴史的実態解明とが密着させられ、後者を冷静に進めようとすること自体が前者の観点からの非難攻撃にさらされやすいという状況が反映している。この点、本書の終わり近くで次のように指摘されているのは興味深い。
 
「何百万人もの死をもたらしたこの二つのかたちの体制が、いずれも断罪されるべきことに疑いの余地はないが――恐怖に上下の差はなく、一方の犠牲者が他方より記憶や悲嘆に値するなどという区別はない――、それでも、啓蒙主義的合理性に対する両者の矛盾的関係(一方は相続人たらんとし、他方は埋葬人たらんとした)に由来する相違は、最後まで残るだろう。そして、まさにこの相違を隠蔽していたのが、両体制に共通する要素に目を向ける全体主義の概念だったのである」(一七七頁)
 
 歴史家たちの間では、さまざまな論争をくぐり抜けた後で、改めてナチズムとスターリニズムの比較という課題に取り組もうとする気運がある。その中で代表的な位置を占める論集が、『全体主義論を超えて』と題されているのは象徴的である(8)。両体制を比較してはならないとか、いかなる共通性もないと言い張る態度はもはや過去のものとなったが、だからといって、両者を単純に同一視したり、「全体主義」という用語で全てを了解しようとするのも、歴史的事実に即そうとする態度ではない。
 結局のところ、「全体主義」という用語は、「その意味が玉虫色に変化する、論争のための言葉」であり、分析の用具としては使えないが、にもかかわらず、この言葉はある時代を象徴するものとしての意味をもっており、それを忘れ去ることはできないというのが著者の結論のようである(一八六‐一九一頁(9)。もっとも、著者自身の議論も微妙に揺れており、どういう点にその意義を見ているのか必ずしも明瞭でないところがある。思想史研究者としての著者にとっては、現実の歴史的存在としてのナチ・ドイツ、ファシスト・イタリア、スターリンのソ連等々の分析よりもむしろ、さまざまな傾向の知識人たち――容易に思い浮かぶ例として、ハンナ・アーレント、ジョージ・オーウェル、そして本書には登場しないが藤田省三等々、多くの名前が挙げられる――の思想の方が主たる関心事なのだろうし、そのような考察にとっては、彼らが多様な意味を込めて使ったこの言葉は、思想を照らし出す鏡のようなものとして有用ということだろう。それは十分理解できることである。ただ、それが現実の歴史とどういう関係にあるかは、また別個の問題である(10)
 
(二〇一一年五月)

(1)私自身、これまでに何度か、この概念をめぐる論争に触れたことがある。主なものとして、塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、第V章、『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、第U章第2節など。
(2)関連して、他の分野では社会主義の全時期が「全体主義」とされがちであるのに対し、比較政治学ではスターリン時代のみを全体主義とし、その後のソ連・東欧諸国については「ポスト全体主義」とするのが主流である。ここでも、「この時期はもはや全体主義ではない」という方に力点があり、全体主義だったとされる時期について掘り下げた認識を得る努力が払われることはあまりない。
(3)別の例でいえば、「原理主義(fundamentalism)」という言葉も、もとはある種のキリスト教の流派が自ら説いた考えを指したが、最近では他称=レッテルとして――それも「イスラーム原理主義」とか「市場原理主義」というように、当初とは違った対象に当てはめて――使われることの方が多くなっている。こう考えると、「全体主義」という語の使われ方と「原理主義」という語の使われ方にはある種の類似性があると言えるかもしれない。なお、「資本主義」はそもそも思想や理念を指す言葉ではないから、これらとは次元を異にする。
(4)一つ興味深いのは、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』のもととなる初期の論考においてはもっぱらナチズムが対象となっていて、共産主義やソ連には触れられていなかったという指摘である。彼女がソ連をも対象に含めるようになったのは、スターリニズムに批判的な元ドイツ共産党員で、彼女の再婚相手となったハインリヒ・ブリュッヒャーとの接触に負うという(一一〇‐一一一頁)。
(5)なお、この章には、「ソヴィエト連邦の衛星国は、スターリニズムの青ざめたコピーに過ぎなかった」という記述がある(一四五頁)。だが、それをいうなら、ブレジネフ期のソ連も「スターリニズムの青ざめたコピー」と化していたし、統制の緩んだ東欧諸国は単純な「衛星国」というわけではなくなりつつあった。こういう点に無頓着であるのは、著者が思想史に主眼を起き、現実の歴史にはあまり重きをおいていないことのあらわれである。
(6)ドイツ歴史家論争については、J・ハーバーマス、E・ノルテほか『過ぎ去ろうとしない過去――ナチズムとドイツ歴史家論争』人文書院、一九九五年。私自身はドイツ史の専門家ではなく、素朴な観察者に過ぎないが、当時のノルテ批判の浅さが、後にノルテ流の議論が勝ち誇る結果を招いたのではないかという気がしてならない。塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、二〇一〇年、二一二頁、また「スターリニズム・全体主義論・比較史――バベロフスキ氏の報告原稿に寄せて」『現代史研究』第五七号、二〇一一年も参照。
(7)一例として、「ロシアの収容所世界に死が深く刻まれていたとしても、死はいわば〈副産物〉だったのであり、ナチスの絶滅収容所のような直接の〈目的〉ではなかった」という指摘がある(一七一頁)。
(8)Sheila Fitzpatrick and Michael Geyer (eds.), Beyond Totalitarianism: Stalinism and Nazism Compared, Cambridge University Press, 2009.塩川「スターリニズム・全体主義論・比較史」(前注6)も参照。
(9)この観点は、川崎修のアレント論――全体主義論は現実の歴史描写ではなく、ある時代の「悪夢」を描き出したものとして精神史的意義がある――と相通ずるところがある。川崎『「政治的なるもの」の行方』岩波書店、二〇一〇年、一三七頁。塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、二〇一一年、第八章も参照。
(10)ついでだが、訳者も現実の歴史にはあまり深い関心をもたないようで、訳文にはところどころ不適切な個所がある。たとえば、「地方の集産化」という見慣れない表現が各所に出てくるが、これは農業集団化のことを指している。