オーランドー・ファイジズ『囁きと密告――スターリン時代の家族の歴史』上・下、白水社、二〇一一年
 
 
 副題(英語ではPrivate Life in Stalin's Russia)の示すように、スターリン時代のソ連を生きたさまざまな家族の私生活を、当時の日記、私信、当事者の回想、そして聴き取り調査などに基づいて、多面的に復元しようとした書物である。
 スターリン時代のソ連がいかに苛烈な時代だったかについては、これまでに膨大な量の文献があり、大まかな意味ではほぼ書き尽くされた観がある。本書の新しさは、マクロな全体像よりもむしろミクロな側面に目を向けて、当時の人々の家庭生活・私生活の細部や内面を描き出そうとした点にある。これが可能となったのは、いうまでもなく、ソ連最末期のペレストロイカ以降、多くの人々が回想を書いたり、あるいは以前は秘かに保持されていた私的文書の収集と公開が始まったり、オーラル・ヒストリーの試みが広がったりしたからである(スターリン時代についての回想は、それ以前からもいろいろな分野のエリートたちによって書かれていたが、それが市井の人々を含めて急激な広がりを見せたのは比較的新しい現象である)。本書の功績は何よりも、こういった各種の素材に基づいて、有名・無名取り混ぜて多数の人々や家族のライフ・ヒストリーを精細に描き出した点にある。
 その反面、そうしたミクロな描写をマクロな全体構造と関連づけて説明しようとした個所は、私の見るところではあまり成功していない。本書はその分厚さ(上下巻あわせて一〇〇〇頁を超える)からも窺えるように、数多くの個別具体的な事実を提示しているが、あまりも多様な事例が列挙されているため、どの個所をどのように読むかによって、印象が相当大きく異なってくる。主題の性質上、全般的印象が暗いのは当然だが、それは単純にどこもかしこも同じように真っ黒だというのではなく、いわば微妙なニュアンスの差をもった「さまざまな暗さ」がある。読んでいて心の底まで冷え冷えとしてくる個所もあれば、全体が暗いからこそ微かな光明に触れるだけで心温まる感じを受けることもある。そのような多様な現実を描写しているのは本書のメリットだが、それらを全体としてどのように捉えたらよいのか、途方に暮れる読者もいることだろう。その点を補うつもりか、著者はミクロな事実描写の合間合間に、マクロな全体状況についての示唆を挟み込んでいる。だが、その大半は特に新奇というわけではないし、ところによっては、やや粗雑な図式化だったり、不正確だったりする個所もないではない(末尾の補遺参照)。
 こういうわけで、興味深い個所とそれほどでもない個所とが雑然と並んでおり、その膨大さともあいまって、読み通すのも困難だし、どう評価してよいかにも戸惑いを覚える著作である。ここでは、とりあえずこういった面に着目すると読みやすくなるのではないかという一つの思いつきを記してみたい。
 先に述べたように、本書では有名・無名取り混ぜて多数の個人・家族が扱われているが、その中には、繰り返し何度も登場して、いわば「狂言回し」のような位置を占める人たちがいる。ゴロヴィーンという一家もそうだし、相互に姻戚関係にあったシーモノフ家とラースキン家もそうである。ゴロヴィーン家については既に紹介があるので(1)、ここではシーモノフ家、とりわけその一員である作家コンスタンチン・シーモノフに注目してみたい。本書のうち、シーモノフに関する記述を合計すると、全部で約一八〇頁ほどになる。薄い単行本一冊に匹敵する分量である。著者はこのように散漫な大著を書くよりも、シーモノフ伝に絞った小著を書いた方がよかったのではないかというのが私の感想である。
 コンスタンチン・シーモノフ(一九一五‐七九年)は、ある時期のソヴェト文学を代表する作家の一人であり、いくつかの作品が邦訳されてもいて、それなりに知名度の高い人物である。もっとも、今となっては「過去の人」というイメージが強く、私もその名は一応知っていたものの、作品を読んだこともなければ、経歴についてもさしたる知識を持っていなかった。ところが、本書の記述を読むと、このシーモノフという人物は端倪すべからざる個性の持ち主だったらしいという印象が湧いてくる。
 本書には、シーモノフの私生活と公的生活の双方が描かれているが、個々人の私生活描写に力点をおく本書の特徴からして、先ずもって注目されるのは私生活の方である。そして、この面からいうと、彼の女性関係がおよそ品行方正とは縁遠い奔放なものだった点が注目される。もっとも、それだけなら、芸能週刊誌にふさわしいゴシップと同質のものになりかねないが、これは偽善的な道徳主義が公的言説を強烈に支配していた時代のことだということを思い起こすなら、「よくあることだ」では片づけられない意味を帯びてくる。離婚が極度に困難にされ、「家族の強化」が叫ばれていた時代――ファイジズは何故か「スターリン支配の全期間を通じて、家族関係を破壊しようとする大々的な攻勢が繰り広げられてきた」などと頓珍漢なことを書いているが(下、三五一頁)、これは一九三〇年代半ばに家族政策の大転換があった後のソ連には全く当てはまらない――に、妻のことなどお構いなしに、次々といろんな女性――その多くは有配偶者――を追いかけまわす彼の態度は、「あの時代に、それも社会的に注目されやすい地位にあった人が、よく平気でこんなことをやっていられたものだ」という感想を呼び起こす。
 彼のドンファン的な行動は、スターリンその人の気をもませていた。シーモノフが追いかけた女性の一人ワレンチナ・セローワは、一時はスターリンの息子と情事をもっていた上に、英雄的軍人ロコソフスキー将軍との情事がスキャンダルとなって(双方とも既婚者)、軍の威信上の問題になっていたからである(2)。ところが、シーモノフはそうしたスキャンダルをものともせず、事実上、不倫相手へのラヴレターともいうべき詩を書いて、彼女に「待っていてくれ」と呼びかけた。この詩は、こういうわけで極度にプライヴェートかつ非道徳的な意味をもつものであり、スターリンは、こんな詩は二部印刷するだけで十分だ――二部とはシーモノフとセローワの二人分を意味する――と言ったと伝えられるが、にもかかわらず爆発的な人気を博し、ベストセラーとなった。前線で戦っていたソヴェト兵士たちは、この「待っていてくれ」という言葉を、銃後においてきた妻たちへの呼びかけと受け取り、熱烈に支持したからである(下、一三四‐一四三頁)。
 スターリンでさえも手を焼いた人気作家・詩人に対して、手心を加えることなく叱責することのできた人がただ一人だけいた。他ならぬ彼の母親である。ちょっとやそっと人気が出たからといって自惚れてはならない、私生活の醜聞を大っぴらにし、噂の的となることで文学上の成功を収めようなどとは心得違いも甚だしい、ソヴェトのエリート社会に這いずり込み、スターリン賞受賞を自慢などしているべきではない。このような耳の痛い説教を、彼女は息子に書き送っていたのである(下、一四六‐一四七頁)。
 私生活面はこのくらいにして、彼の公的な活動の側面に目を向けよう。一九三〇年代後半に成人したソヴェト作家として、当然ながら彼は熱烈なスターリン主義者だった。戦時中に共産党に入り、代表的従軍記者の一人として活躍し、ソ連の勝利のための自己犠牲を鼓吹する作品を多数書いた。こうした愛国主義およびスターリンへの熱烈な帰依は、単なる時流への追随や出世欲、あるいは反抗者に加えられる抑圧への恐怖心といったものに由来するのではなく、心底からの確信に基づいていた。独ソ戦期にはこうした自発性と愛国主義の結合が広範囲に見られたから、この時期に関する限り、これはそれほど特異なことではない。実際、この時代に人々はそれまでにない自由を感じ、「自然発生的な非スターリン化」(ゲフテル)が見られたこと、自由な市民が自発的に義務を果たす社会という観念の目覚めがあったことなどが、本書でも指摘されている(下、一八五‐二〇二頁)。
 戦後期(=スターリン最末期)になると、「自然発生的な非スターリン化」に歯止めがかけられ、政治的統制が再度強められたが、そうした中でシーモノフは、むやみな抑圧政策には同意せず、「ジダーノフシチナ」と呼ばれたイデオロギー統制や「反コスモポリタニズム」旋風(事実上のユダヤ知識人迫害)に対して、正面から反対はしないまでも、その過度の拡大を抑えようと努めていた。それと同時に、自分の作品がスターリンにどう評価されるかは、彼にとって最大の関心事だった。
 興味深いのは、スターリンが生きている間はその写真を自宅や事務所のデスクに置いたりしなかった彼が、むしろスターリン死後にその写真を飾るようになったことである。生きている間は持ち上げておきながら、死んだ途端に絶縁するような変節漢への反感がそこにはあった(3)。雪どけとスターリン批判が進行するなかで、シーモノフは次のように書いた。
 
編集長は要求する。
私の詩からスターリンの名を削るように。
だが、私の心の中に残るスターリンは、
彼にも削れない(下、四二六頁)。
 
 ここに窺えるのは、時流におもねるのを潔しとせず、流れに抗して信念を貫こうとする気骨あるスターリニスト(!)の像である(戦時中は「天皇陛下万歳」と叫ばなかったのに、敗戦後の占領下でわざわざ「天皇陛下万歳」と叫ぶようになった日本人がどれだけいただろうか?)。彼が前任の作家同盟書記長ファヂェーエフと違って、スターリン批判という「信念の危機」に際して酒浸りになって自殺することなく、その職責を全うすることができたのは、そうした芯の強さのおかげだったということなのだろう。
 だが、話はここで終わらない。スターリン批判が流行だった時期にそれに追随せず、「保守的」立場を固守した彼は、むしろその後になって、スターリン批判の立場――というよりもむしろ、スターリン時代に自分自身が果たした役割への激しい悔悟――に移行するようになる。彼が過去の過ちを償おうとして取り組んだことの一つに、ブルガーコフの小説『巨匠とマルガリータ』公刊への尽力があった。
 『巨匠とマルガリータ』といえば、二〇世紀ロシア文学に関心をもつ人なら誰もがその名を知っている小説であり、スターリン時代に秘かに書かれていた異端の作品のなかでも最大の傑作と目されているものである(複数の邦訳がある)。この作品の公刊――それも、スターリン批判が後退して言論統制が再度強まりつつある時代状況のなかで――に成功したことは、シーモノフの現代ロシア文学への最大の貢献と言えるかもしれない。
 彼は晩年に至るまで異論派と同調することはなく、体制内に公認の座を占めていたが、同時に、体制への批判と過去の自分自身の言動への悔恨を深め続けていた。もし彼がもう数年生き長らえてゴルバチョフとペレストロイカの時代を迎えたなら、どういう風に反応しただろうかという思いを馳せたくなってくる。
 もちろん、シーモノフの例は、スターリン時代を生きた人々の中でも特異なものであり、とうてい「代表的」な存在ではない。そのことを確認した上での話だが、とにかくこういう風に生きた人がいるのだという事実は、読者に多くのことを考えさせる。それに、どのような社会、どのような時代にしても、「代表的」「平均的」な人々だけからなるわけではなく、むしろそれぞれに特異な個性を持った無数の人々の複合的な総体が社会を構成する。そうした個性的な事例のいくつかを具体的に叙述した点に本書の意義がある。それをうけてソ連史の全体像をどう再構成するかは別問題であり、著者自身の下手なまとめ方はむしろ折角の成果を損なっていると感じさせられるところもあるが、とにかくこのような考察の素材を豊富に提出しただけでも十分な成果というべきだろう。
 
【補遺】
 本書のうちには、明らかに誤っていたり、研究上の手続きとして厳密を欠く個所がいくつかあるが、それらを重箱の隅をつつくようにして列挙するのも消耗な作業である。ここではただ、わりと多くの読者の目を引くのではないかと思われる一つの点に限って、簡単に触れておきたい。
 本書の序章に、「ソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々の数は控えめに見積もっても二五〇〇万を下らないと言われている」という個所がある(上、二五頁)。先ず確認しておかなくてはならないのは、この数字は、処刑とか獄死といった形で非業の死を遂げた人たちだけでなく、逮捕されたり追放されたりしたが、生きて釈放を迎えた人たちも含んでおり、しかも逮捕者のうちには政治犯だけでなく一般刑事犯も含まれ、重罪だけでなく軽罪者も含むということである(量的にいえば、政治犯よりも一般刑事犯が多く、重罪よりも軽罪が多い)。一般刑事犯も体制の苛酷な政策の産物だと考えることもできるから、これらの全体が広義の「犠牲」だとする見方はそれなりに成り立ちうる。ただ、これらがそれぞれ相当大きく異なったカテゴリーに属する以上、その点を曖昧にしたまま単純に並列するのは問題である。詳しい説明なしに「犠牲」という言葉を使えば、多くの読者は「殺された」と受け取るだろうことを思うなら、なおさらである。
 ファイジズがその推計の典拠として挙げているのは、マイケル・エルマンの論文Michael Ellman, "Soviet Repression Statistics: Some Comments," Europe-Asia Studies, vol. 54, no. 7, 2002――これは部分的な論争性を免れないとはいえ、基本的には手堅い研究である――である(上、巻末逆ノンブル、一〇頁)。しかし、読み比べてみると、ファイジズはエルマンをいくつかの点で誤解している上に、エルマンの挙げていない数字をたくさん挙げていることが分かる。つまり、ファイジズはエルマンという「権威」を引きあいに出していながら、実はその典拠によっては裏付けられない数字を挙げているのである。これは研究者にしては相当お粗末な態度だと言わねばならない。
 スターリニズムの犠牲の規模という問題に関しては、塩川伸明『終焉の中のソ連史』朝日選書、一九九三年、第Y章を参照(この旧稿は今から二〇年近く前のものであり、その後の研究の進展により、あちこちで小さな補正を要するが、大きな基本線は今でも維持できるものと考えている)。最近の研究は数多いが、いくつかの例として、上記エルマン論文のほか、Stephen Wheatcroft, "Victims of Stalinism and the Soviet Secret Police: The Comparability and Reliability of the Archival Data - Not the Last Word," Europe-Asia Studies, vol. 51, no. 2, 1999; id., "The Scale and Nature of Stalinist Repression and its Demographic Significance: On Comments by Keep and Conquest, " Europe-Asia Studies, vol. 52, no. 6, 2000; Christian Gerlach and Nicolas Werth, "State Violence - Violent Societies," in: Sheila Fitzpatrick and Michael Geyer (eds.), Beyond Totalitarianism: Stalinism and Nazism Compared, Cambridge University Press, 2009を挙げておく。また、規模の推定と価値判断がどう関わるかという厄介な問題に関しては、塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』岩波新書、二〇〇八年、一七四‐一七七頁参照。
 
(二〇一一年六月)

(1)『国家学会雑誌』第一二三巻第一・二号(二〇一〇年)における松井康浩の紹介参照。なお、松井はファイジズの記述はこれまでの研究史の到達点を踏まえているものの、特に新奇な歴史解釈が打ち出されているわけではないと指摘している。
(2)「セローワ、シーモノフ、ロコソフスキーの連合」の頭文字が、ロシア式にはSSSR、英語式にはUSSR、つまりいずれにせよソ連の国名と同じ略称で広く話題になっていたというのは、思わず噴き出したくなるエピソードである(下、一三三頁)。
(3)一九五三年のスターリンの死と五六年のスターリン批判の間の時期に、スターリンへの批判的態度がどの程度まで広まっていたかは微妙な問題だが、少なくとも大都市の知識人の間ではそうした態度が次第に広まりつつあり、シーモノフはそうした風潮に反撥したものと思われる。
 
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