バーバラ・デミック『密閉国家に生きる――私たちが愛して憎んだ北朝鮮』中央公論新社、二〇一一年
 
 
 北朝鮮に関わる報道や論評の類は多数出まわっているが、陰々滅々たる印象ばかりが先立ち、手にとって読む気にもなれないことが多い。描かれている対象自体も陰鬱だし、それを取り上げる側の姿勢も、他者の悪口を言って溜飲を下げるといった感じのものが多く、触れるだけで気分が落ち込んでしまいそうな気がする。
 そういう中で、ここで取り上げる本は、どんなに抑圧的な国家にも人間が生きており、彼らは様々な人間的な悩みや葛藤を抱え、苦しみやささやかな喜びなどを感じ、努力したり挫けたりを繰り返しながら生きているのだという事実に読者の眼を向けさせようとしている点で異色な作品である。
 著者は二〇〇一年から五年間、『ロサンゼルス・タイムズ』紙のソウル特派員として韓国および北朝鮮の取材に携わり、その後の時期も含めて通算七年間、北朝鮮からやってきた人々(いわゆる「脱北者」)とのインタヴューを重ねたとのことで、その産物が本書である。その際、叙述の力点が日常生活や生活感覚におかれているのが、本書の際だった特徴である(本書の原題には、Ordinary Lives in North Koreaという副題が付いている)。そのおかげで、およそ人間的な感覚をもって想像することの難しかったあの国が、普通の人々の眼にはどのような相貌をもって立ち現われているのかを、相当リアルに描き出すことに成功している。これは並々ならない功績と言えるのではないかと思われる。
 もっとも、私自身は北朝鮮についていうにたる知識を持っておらず、従って本書の価値についてきちんとした評価ができるわけではない。おそらくあからさまな歪曲や間違いの類はあまりないのだろうと思うが、ここで取り上げられた事例がどの程度代表的かとか、当事者の証言につきまとう誇張や一面性の度合いといった問題については、にわかには何とも言えない。ただ、あくまでも漠然たる印象だが、全体としてリアルかつ細やかな観察が多く、優れた作品といってよいのではないかと思われる。こう感じる一つの理由として、私自身がスターリン時代のソ連社会について研究してきたこととの類推がある程度効き、強度の抑圧社会における生身の人々の生活感覚に関する描写としてうなずける点が多いということがある(もっとも、スターリン時代のソ連と現代の北朝鮮の間にはかなり大きな違いもあるような気もする。この点の比較は今後の検討課題である)。また、本書は全体としてインタヴューの積み重ねから構成されているが、巻末に各章ごとの内容に関連する参考文献を記した原注がついていて、これを見ると、この「謎の国」についても結構研究が積み重ねられており、それらを参照することで、個々の証言の背後にある社会構造についてもある程度堅実な知見が得られるらしいという点も、本書の信頼性を高めるのに役立っている。著者独自の工夫としては、多数の脱北者たちのうち、出身地を同じくする人たちに焦点を当てることで、証言の相互チェックと事実検証を容易にしたという点がある。その出身地とは、北朝鮮北部にある清津(チョンジン)という町(北朝鮮第三の都市)で、本書は同地を舞台にした一種の定点観測ともいうべき性格を帯びている。この手法は他の地域との比較ができないという不利益を伴うが、一つの都市における具体的な実情をできる限りリアルに描く上では大きな効果をあげている。
 本書に描かれている北朝鮮社会の実態は、マスコミで伝えられている像と大きく隔たるものではなく、驚天動地の大発見があるわけではない(逆にいえば、突拍子もない常識はずれの論を出しているわけでもない)。情報統制とか、極度の貧窮とか、飢饉とかいった言葉は、ある意味では聞き慣れたものである。だが、それらが抽象的な言葉として、あるいは他者非難と自己肯定の道具として羅列されているのと違って、そうした現実の中で人々がどうやって生き抜いているのかがリアルに描かれているのを読むと、胸の詰まる思いがしてくる。著者は一〇〇人以上の脱北者に取材し、そのうちで最も詳しい情報の得られた六人を特に選び出して、彼らのライフヒストリーを精密に描き出しているが、これを読むうちに、それらの主人公の揺れ動く心情がまざまざと思い浮かんでくる。ほんの一例だが、「韓国人が同情してくれると彼はそれを蔑みと取った。北朝鮮の体制は大嫌いなのに、韓国人に批難されると、懸命に弁護した」(三四七頁)とか、脱北者は「自分が生き延びるために自分は何をしたか、それを思うと自己嫌悪に陥る」(三五四頁)といった言葉に接すると、心を揺さぶられる思いがする。
 
 本書の直接的な対象は二一世紀に入って以降の北朝鮮だが、それ以前の時期に軽く触れた記述もいくつかある。それによれば、一九六〇年代までの北朝鮮経済は韓国以上の発展を見せていたという(四九、八六、四〇九頁など)。それが一九七〇‐八〇年代に逆転し、次第に韓国に水をあけられるようになったわけだが、それでも直ちに悲惨な飢饉に見舞われたわけではなく、決定的な落ち込みは一九九〇年代にやってきた(八九‐九〇、一四九‐一五〇頁など)。仮にこうした時期区分が当たっているとしたら、「北朝鮮の経済は滅茶苦茶だ」という「常識」は、もう少し歴史に即して、詳しく検討する必要がありそうである。一九六〇年代までにおける北朝鮮の「優位性」は、あるいは一定の誇張があったのかもしれず、「地上の楽園」といったプロパガンダはもちろん論外だが、それにしても、今のような惨状が建国から一貫して続いていたわけではないのだとしたら、その背景や根拠についてもっと掘り下げる必要があるだろう。
 一九七〇‐八〇年代における停滞と相対的な遅れは、その当時における社会主義圏全体の動きと符節をあわせているように見える。もっとも、他の社会主義国では、停滞からの脱却を求めて経済改革へ、そして更には体制転換へと向かったわけだが、北朝鮮がその道をとらなかった――部分的な改革の試みは何度かあったようだが――ことの理由や、その意味についても考える必要があるだろう。しかし、何といっても最大の打撃が一九九〇年代にやってきたとすると、その大きな要因として、ソ連という国の消滅、そしてその後のロシアが北朝鮮への援助を激減させたことの重みについて考えないわけにはいかない。
 ソ連解体は、多くの人によって「何はともあれ、抑圧的な帝国が滅びたのはよいことだ」という感覚で受けとめられている。もちろん、それにはそれなりの理由がある。だが、それまでソ連からの援助への依存度の高かった国にとっては、これは決定的な打撃だったのではないだろうか。北朝鮮以外の例としてはアフガニスタンが思い浮かぶ。ゴルバチョフ期のソ連は一九八九年にアフガニスタンからの軍撤退を完了したが、その後も、「国民和解」政策をとるナジブラ政権への援助は続いた。しかし、ソ連解体の衝撃の中で一九九二年にナジブラ政権が倒れると、その後には長く続く内戦の時期が訪れた。ある意味で、北朝鮮の飢饉とアフガニスタンの内戦は、ソ連解体を引き金としたという意味で一定の共通性があると言えるかもしれない。現在、オバマのアメリカはアフガニスタンからの撤退を目指すと同時に、撤退後の治安への不安にもつきまとわれ、ただ単に手を引きさえすればよいのかという疑問に悩まされている。ソ連にせよ、アメリカにせよ、過去の関与に問題があったのは当然だとしても、だからといって単純に手を引きさえすればよいのか、それはかえって無責任ではないかという問いは、深刻なディレンマを突きつけている。
 
(二〇一一年九月)
 
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