和田春樹『スターリン批判――1953-56年*1』(作品社、二〇一六年)を読む*2
 
 
 昨年(二〇一六年)はスターリン批判やハンガリー事件のあった一九五六年の六〇周年に当たった。にもかかわらず、そのことに注目する人があまり多くなかったのは残念なことである(ハンガリー事件六〇周年についてはハンガリー学会が研究集会を組織したようだ)。そういう中で、日本を代表する練達の歴史家によってこの主題に関する充実した好著が著わされたのは慶賀すべきことである。
 本書の主要対象は一九五〇年代半ばのソ連――また、間接的にポーランド、ユーゴスラヴィア、中国、日本などといった隣接諸国の動向も――である。私はソ連史専攻とはいえ、この時期を専門研究の対象としているわけではなく、そのため資料状況や細かい事実経過には通じておらず、その意味ではあまり適切な評者とは言えない*3。ここでは、長年にわたって和田春樹という稀有な歴史家から間近で多くを学んできた者という立場から、この作品の特徴について思いをめぐらしてみたい。
 
一 長めの前置き――さまざまな一九五六年、さまざまな歴史家たち
 
 「歴史は現在と過去の対話だ」(E・H・カー)とは言い古された言葉だが、現代史の場合、歴史家の同時代経験ないし時代感覚と研究対象の間の距離感が時の経過とともに急速に変化し、また世代差も無視できない意味を持つために、「対話」も独自の様相を帯びるという特殊性がある*4。この一般論を一九五六年のスターリン批判やハンガリー事件に当てはめるなら、大まかにいって一九三〇年代末までに生まれた人々にとっては直接見聞することのできた出来事、それよりやや若い世代にとっては、自分自身が直接見聞したわけではないが、年長者から聞かされて、ある程度身近な感覚のもてる対象、そしてもっと若い世代にとっては純然たる過去ということになるだろう*5。こうしたことを念頭におき、本論に入る前の前置きとして、さまざまな歴史家たちにとっての一九五六年について考えてみたい。
 
@E・H・カーの場合
 E・H・カー(一八九二年生まれ)がスターリン批判に際して何らかの反応を示した形跡はなきに等しい*6。その一つの理由として、当時既に六〇代半ばに達していたカーは若い世代のように素朴な衝撃を受けることはなかったのだろうという推測が成り立つ。また、もともとカーは三〇年代のソ連をリアルタイムで観察しており、スターリンの恐怖政治についても、どこまで詳しくかはともかく、一応承知していた。その彼が三〇年代末以降に「親ソ的」になったのは、理想主義の観点ではなくリアリズムの観点からだった。そういう経緯を思い起こすならば、今頃になってスターリンの残虐行為が暴かれたからといって、特に驚き慌てることはないと考えたのではないだろうか*7
 
Aエリック・ホブズボームの場合
 ホブズボームはカーよりも二世代ほど若く、まさしくロシア革命の年たる一九一七年の生まれで、五六年には四〇歳になる直前だった。彼は約半世紀後に当時のことを回顧して、これは「今から振り返っても息詰まる思いのするトラウマの年」であり、イギリス共産党員たちはいわば集団的神経衰弱に瀕していたと回想している*8。彼以外にも、西欧や日本の知識人でこの衝撃を深く受け止めた人々は少なくない。イギリスのある高名なロシア研究者は、私との個人的な談話で「われわれ一九五六年世代」という言葉を使ったが、これはある範囲の人々の集団的なメンタリティを反映しているものと思われる。
 
Bベネディクトおよびペリーのアンダーソン兄弟の場合
 有名なアンダーソン兄弟のうち、兄のベネディクトは一九三六年生まれ(二〇一五年逝去)、弟のペリーは一九三八年生まれで、二人とも五六年には成人になるかならずかという歳だった(和田と同世代に当たる)。ベネディクトの回想には、当時のことに関する面白いエピソードがある。一九五七年にモスクワで国際青年祭が開かれたとき、イギリス共産党は青年共産党員を大量にモスクワに送り込むべく列車をチャーターしていた。ところが、ハンガリー事件の衝撃で大量脱党現象が起き、列車の予約からも脱落者が続出した。「イギリス共産党は列車のチャーターのためにすでに大枚をはたいており、相手が共産主義者であるかどうかにかかわらず、とにかく列車の切符を捌かざるを得なかった」。そこでアンダーソン兄弟はこのモスクワ旅行に便乗して、政治集会には参加せず、オペラ、バレー、博物館、史跡などの見学をエンジョイした、というのである*9。ホブズボームが深刻に悩んだのとは対照的に、この二人は共産党員たちがショックを受けているのを尻目に、安上がりの観光旅行をする機会をつかんだというわけである。
 
C和田春樹の場合
 本書のあとがきにも述べられていることだが、第二〇回ソ連共産党大会でフルシチョフのスターリン批判秘密報告が行なわれた一九五六年二月には、和田は大学受験の真っ最中であり、ソ連情勢に眼を配ってはいなかったようだ。四月に東大に入学した和田は、はじめのうち大学生活への適応に集中していたとのことで、秘密報告の英文テキストがアメリカ国務省によって公表された六月の時点でも、すぐには強い関心を寄せなかったように見える。六月刊行の『世界』七月号――この号には、福田歓一「スターリン批判をどう受け取るか」や、討論「ソ連の変貌――それは民主主義の再生か」が載っている――について、「格別の印象は残さなかった」とのことである*10
 これは当時の左翼知識人や左翼学生たちの反応と大分異なる。というのも、当時の日本の新聞・雑誌を見るなら、 既に二月の段階で、本書でも取り上げられているミコヤン演説やパンクラートヴァ演説が衝撃的なものとして大々的に報道されているし、三月になると、どうやら秘密報告があったらしいという情報がもたらされて、強い関心の的となっていたからである。東大駒場キャンパスではフルシチョフ秘密報告が強烈な話題となり、はやくもその日本語版が五月ごろにでまわり、学生活動家の間で廻し読みされたという証言もある*11。この証言は細部の正確さに疑問の残るものではあるが、大まかな意味で当時の雰囲気を物語ってはいるだろう*12。こういった左翼知識人や左翼学生の動向に照らすとき、和田は高校時代からロシア語とロシア文学に親しんでいたとはいえ、それはソ連とか社会主義とかへの関心と直接結びついてはおらず、そうした関心はむしろ相対的に希薄だったと考えられる*13。和田が社会主義圏の動向への関心を深めたきっかけは、六月にアメリカ経由で広く報じられたフルシチョフ秘密報告ではなく、むしろ一〇月のハンガリー事件の方だった*14
 
D私自身の場合
 当時小学校低学年だった私には、当然ながら直接の記憶は全くない。ただ、メルボルン・オリンピック*15でハンガリー選手とソ連選手が水球の試合で乱闘を演じ、プールに血が流れたというニュースを聞いて(まだテレビがなく、ラジオの時代)、非常に暗い印象を懐いた微かな記憶がある。それから十年あまりを経て高校生から大学初年くらいの時期になると、多くの先輩たちからスターリン批判やハンガリー事件の話を盛んに聞かされたり、関連する文章を読みかじったりして、これが現代史の大きな区切りだったのだろうという感覚を懐くようになった(岩間のように「つい最近のこと」とは思わなかったが)。この感覚は、ある意味で私の現代史への出発点となった。
 
 以上、いくつかの例を挙げたが、これらのうち相対的に最年少の私も、今では結構な年長者となってしまっている。もっと若い人たちにとって、一九五六年は生まれるよりもずっと前の遠い昔の出来事であり、何か特別のきっかけがなければ関心を寄せることもなければ、そもそも全く知りもしないだろう。そういった世代差があること自体は自然なことであり、とりたてて良いことでも悪いことでもない。ただとにかく世代差に伴うパースペクティヴの違いを踏まえた上で、相互のコミュニケーションを図る必要があるだろう。
 
二 本書の全体的な特徴
 
1 対象への取り組み――一九七七年論文から本書へ
 
 先ず第一に特筆されるのは、対象に対する長期にわたる持続的関心と新資料の博捜である。 著者がこの主題にはじめて取り組んだのは、今からほぼ四〇年前の一九七七年の先駆的な長編論文だった*16。今回の著書は、この数十年の間に新たに利用可能となった大量の資料を駆使して、旧論文の基礎にあった仮説を検証し、大筋としてそれは維持できるという自信を示す一方(あとがき、四一二頁)、各所で個別の事項の解釈が誤っていたとして、種々の訂正を施している。旧論文を新資料に基づいて検証する――大筋はさほど変わらないが、細部が大幅に拡充され、具体的な叙述が詳しくなっている――というスタイルは、『テロルと改革――アレクサンドル二世暗殺前後』(山川出版、二〇〇五年)の場合と似ている。
 ここ数十年の間に利用可能となった新資料が幅広く利用されているおかげで、本書は細かな事実経過を詳しく明らかにすることに成功している。具体的にいつ、どこで、どういう人が、どういうことを語ったり考えたりしたかが詳しく叙述されており、そのおかげで、当時の状況が、その当時の人たちの目を通す形でヴィヴィッドに浮かび上がってくる。これが第一の特徴であり、最大のメリットである。
 
2 個々の登場人物の内面への深い関心
 
 本書の主眼は具体的な個々人の生き様への強い関心にある。逆にいえば、政治メカニズムや社会構造への関心は相対的に薄い。池田嘉郎のゼミにおける報告レジュメ(前注3)のうち、最も大きな比重を与えられている「論点1」はむしろ政治メカニズムの問題を重視するかに見え、これはこれで成り立つ批評だが、本書の狙いという点からはややすれ違っている観がある。和田はこれ以前のいくつかの著作で社会経済構造や政治制度についても詳細かつ綿密な分析を行なってきたが、本書においては、その種の関心は後景に退いており、これは意識的な選択ではないかという気がする。構造・制度・メカニズムの探求も歴史学の重要テーマではあるが、それは本書の主要課題ではなく、後続研究者たちに委ねられているということではないだろうか
 個人への関心を「アクター中心主義」とする批評もある(前注3の伊東孝之報告)。これはある角度からみた場合の特徴づけとしては、まんざら当たっていないわけではないが、和田理解として内在的ではないように思う。「アクターと構造の相互関係をどう捉えるか」とか「平常時には構造の役割が大きいが、変動期においてはアクターの役割が大きくなる」といったタイプの議論は政治学の分野ではお馴染みのものであり、伊東がそのように論じるのはごく自然である。しかし、和田の研究は性格を異にする。政治学やその他の「通常の」社会科学では、対象から距離を置いた第三者的な観察と分析が前提されているのに対し、本書ではむしろ少なからぬ数の登場人物への熱い共感が全体を突き動かしている。
 本書のまえがきやあとがきに表出されている価値観は、「人間とはどのような社会にあっても、国家の統制に抗して自らの信念に基づき社会の不正義を正すために努力せずにはおれないものだ」(一三頁)、「歴史を動かすために人々がどのように努力し、苦闘したか。それを私はあらためて深く知り、強い感動を禁じえなかった」(四一二頁)というものである。個々人の内面への関心は、このような価値観と深く結びついている*17
 この引用文に示されるように全体としての基本図式は明快だが、具体的な叙述はそれほど単純ではない。現代史研究においてあれこれの登場人物に共感したり反撥を覚えたりするのはある程度まで不可避だが、そうした感情に引きずられて、共感する人々の役割を過大に描いたり、反感を覚える人々を単純な悪者として描くのでは本格的な歴史にならない。練達の歴史家である和田はそういうことは百も承知であり、真っ白な善玉と真っ黒な悪玉が戦っていたというようなお伽噺をつくっているわけではない。そうではなくて、各人の中に複雑な多面性があり、黒白双方の要素を抱えていた人たちが複雑に交錯する中で、結果的に圧政への反逆と真実の回復という「善」の実現に近づいていくという歴史観であるかに見える。この観点は一般論としては共感しうる。問題は、それがどこまで徹底して貫かれているか、ときとして単純な善玉・悪玉史観に傾斜した個所がありはしないかという点にある。この点については、後でやや詳しく検討してみたい。
 
3 ストーリーテリングの巧妙さ
 
 本書の一つの顕著な特徴は、ストーリーテリングの巧妙さにある。そのおかげで、通常の学術書とは違って、専門外の一般読者が読んでも、まるで歴史小説でも読むかのような感興を受けることだろう。一例として、歴史家ドミトリエフの日記からの抜粋が効果的に挟み込まれていて、当時の知識人がどういう感覚を持ちながら生きていたのかが理解できる書き方になっている。また、シーモノフをはじめとする文学者たちの回想類も各所で効果的に紹介されていて、当時の知的雰囲気をよく伝えている。
 これはもちろん大きな長所である。そのことを認めた上での疑問として、あまりにも語り口が見事であるため、「ひょっとしたら読者は著者の巧みな語りにだまされてしまっているのではないか」という疑問を惹起する余地がある。細部を気にしながら意地悪い読み方をするなら、原資料から直接には引き出せない大胆な解釈や評価を断定的に述べている個所もあちこちにあり、また個人的感情がこもっていると感じられる修飾語句も散見される。こうした点についても後で検討することにしたい。
 
4 徹底した時系列主義(論点別整理の排除)
 
 和田のいつものスタイルだが、本書は徹底した時系列的叙述で貫かれており、論点別の整理は敢えてしようとしていない。おそらく、これは意識的選択なのだろうと思われる。こういうスタイルをとることのメリットは、たとえば上層部の動き、知識人や民衆の動き、ポーランドやユーゴスラヴィアとの関係、日ソ関係の展開などといった諸々の事項が同時的に進行していたことがよく理解できる点にある。その反面、論点別整理が排除されているため、離れた個所で関連する論点が出てくる場合、読者としてはつながりが理解しにくい。せめて相互参照をもう少し緊密にしてほしかったという感想を懐く。
 
三 どの程度まで善玉・悪玉史観か、歯止めはどこまで効いているか
 
0 まえおき
 
 本書を貫いているのは、権力と民衆という二分法、そして後者の側への熱い共感である。こういう観点は、ややもすれば単純な善玉・悪玉史観に導きやすい。しかし、賢明な著者はその陥穽を意識していないわけではなく、あちこちでその歯止めとなることを書いている。問題は、そうした姿勢がどこまで貫かれているかにある。さまざまな登場人物に即して、この点を検証してみたい。やや長くなるので、あらかじめ大まかな全般的印象を述べておくなら、和田は「善玉・悪玉」図式のうち、「悪玉」と見なされやすい人物について過剰に悪魔化する誘惑とは一線を画しており、リアルな観察を心がけているが、「善玉」的な人々のうちの少なくとも一部については、全面的な理想化は避けつつも、時として思い入れ過多に陥っているのではないかという気がする。その結果、権力政治に関する和田の分析は冷徹かつリアルだが、知識人や民衆を論じた個所では、時としてやや評価が甘くなるきらいがあるのではないかと思われる。
 
1 「悪玉」と見なされやすい権力者について
@スターリン
 著者がスターリンを単純に悪魔化していないことは、晩年に至っても人を見る眼力を失っていなかったという指摘に窺える(四三頁)。健康状態悪化、パラノイアのせいで統治能力を失っていたという説に反論し*18、むしろ「スターリン主義政治の究極的実践」と述べた個所もある(四三‐四四頁)。後者はどういうことを指しているのか説明が欠如しているが、ロシア史研究会における合評会(前注3)の際に補足説明があった。それによれば、金日成による朝鮮戦争開始を認めたこと自体がおかしいと言えばそれまでだが、とにかくいったん戦争が始まったことを前提する限り、一貫性のある指導をしていたという趣旨だとのことである。それはそうかもしれないが、だとすると、朝鮮戦争開始を認めたこと自体の意味を問題とする余地があるかもしれない。また、朝鮮戦争以外の諸側面における指導、とりわけモロトフやミコヤンといった最側近にまで疑惑をかけたことなども含めて考えるなら、やはり理性的配慮が――完全に失われていたというのではないにしても――やや薄れかけていたのではないかという疑問を出す余地はあるだろう。
 やや小さな点にこだわったが、いずれにせよスターリンをひたすら邪悪な独裁者として描き出すのではなく、それなりに合理的な配慮や眼力を持った政治指導者ととらえる観点は、単純な善玉・悪玉史観への一応の歯止めと言えるだろう。
 
Aベリヤ
 ベリヤはかつて「悪の権化」「血に飢えたサディスト」といったイメージで捉えられていた。おそらくフルシチョフが数多くの犯罪的所業を彼に帰したことと関係しているものと思われる。しかし、実際には、ベリヤはスターリン死去の直後から一連の新路線をとっていた。不法抑圧の解除、大赦令、東ドイツやハンガリーへの新しい政策、そして民族地域における政策の転換等々である*19
 このようなベリヤ観は、今では多くの研究者に共有されるようになっており、情報も豊富になっていて、ある意味で常識化しつつある。だが、一九七七年論文の段階ではこれは新鮮な見地であり、先駆的な意味を持った。本書におけるその拡充がどこまで十分かについては批評の余地があり、あれこれの不足を指摘することもできるかもしれない。「刹那的な、冒険的な脱スターリン化」といった特徴づけ(一六四頁)も、疑問を出す余地がある。それはそれとして別途検討する必要があるが、とにかくかつての先駆的な見地に立って、それをもう一歩進めようとしていることは疑いない。
 
Bモロトフとカガノーヴィチ
 スターリンとベリヤの描き方が単純な「悪玉」一色でないのに対し、この二人とりわけモロトフはほぼ一貫した「保守派」として、やや単純に描かれている観がある。もっとも、彼らに関する記述はそれほど詳しいわけではなく、本書の主要テーマとなってはいない。
 
 いくつかの例に即してみてきたが、全体として、本書における「悪玉」(権力者)の扱いは、個々の点ではいくつかの疑問の余地を残すにしても、基本的姿勢としてはセンセーショナリズムやカリカチュア化を排し、努めて冷静かつリアルに見つめようとするものになっている。ひょっとしたら、ここには和田の市民運動実践の経験が反映しているのかもしれない。長きにわたって各種市民運動に携わるなかで、和田は現実政治にもコミットし、自民党政治家などとも接触する経験を持ってきたが、その経験を通して、「自民党政治家にもそれなりに話の通じる人がいる」「権力政治家を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたのでは政治はできない」といった感触を持つに至ったように見受けられる。そのことが歴史研究にも作用して、「権力vs民衆」という二分法図式自体は維持しつつも、「権力」側の人を単純に悪魔化しない洞察を身につけるに至ったということではないだろうか。
 
2 「善玉」でもあり「悪玉」でもあると見なされうる人たち
@フルシチョフ
 フルシチョフはさまざまな限界を持ちつつもとにかくスターリン批判の火蓋を切って落としたという意味で、本書の最重要主人公の一人だが、そのフルシチョフに対する和田の視線は相当醒めている。大まかな粗筋をいえば、フルシチョフははじめのうちマレンコフ(軽工業重視)と対抗して、モロトフと手を組んで重工業重視路線を取り、スターリンについても肯定的に評価していた。スターリン時代におかされた過ちのいくつかが認められるようになってからも、その責任はベリヤに帰され、スターリンのせいではないとされていた。そのフルシチョフが種々の要因に突き動かされて、スターリン擁護論からスターリン批判に転じていく過程の追跡が本書の重要テーマとなっている。このような粗筋自体は既に一九七七年論文で示されていたものだが、本書ではそれを引き継ぎつつ、その精緻化が図られている。
 はじめのうちベリヤに責任を押しつけてスターリンを救おうとする立場をとっていたフルシチョフがスターリンその人の責任を認めるようになった契機としては、まず一九五五年五‐六月におけるユーゴスラヴィアとの交渉過程が重視され(二四五頁以下)、次いでその後のソ連共産党指導部内での応酬――とりわけモロトフとの対抗およびミコヤンの影響――が重視されている。先ず前者から見ていきたい。本書によると、このときフルシチョフは、かつてユーゴスラヴィアと対立したことの責任はベリヤにあるという立場を変えなかった。そしてユーゴスラヴィア側はソ連代表団のメンツをつぶすようなことはせず、あえて反論しなかった。しかし、彼らが何を考えているかは、フルシチョフたちに十分に伝わったという(二五二頁)。続いて、フルシチョフは帰国後も、ソ連とユーゴスラヴィアの対立を招いた責任者はベリヤであるという主張を全く変えていないとされている(二五五頁)。この関係はやや分かりにくい。ユーゴスラヴィア側があからさまにフルシチョフに反論するのを避けたにしても、その真意がフルシチョフに伝わったのであれば、もうこの頃からフルシチョフは変わりつつあったと見ることもできるのではないだろうか。党会議の場でどう発言するかということと、内心どう考えているかは別であり、ユーゴスラヴィア側の本心を悟ったフルシチョフとしては、徐々に考えを変えつつ、しかしそれを公けにすることをためらっていたというような解釈はできないだろうか。
 この後、一九五五年七月総会におけるモロトフとの応酬(二五七‐二六〇頁)が重視されており、これが一つの山だったようにも見える。もっとも、一九五六年二月に関する記述で、「明らかにフルシチョフはまだ迷っていたのである」ともある(二八七頁)。ここで「迷っていた」というのはどのレヴェルのことか――内心での判断のことか、どの程度のことをどのように公表すべきかという政治判断レヴェルか――がよく分からないが、とにかく複雑な揺れが続いていたことの窺える叙述である。
 細部についてはなお不明の個所も残り、詳しくは然るべき専門家の検討に委ねなくてはならないが、当初「スターリニスト」と自認することを厭わなかったフルシチョフがスターリン批判へと舵を切る転機を跡づけた第六章は多数の新資料を駆使しており*20、本書の白眉と感じた。
 
Aマレンコフ
 スターリン死去とベリヤ追放の後にフルシチョフとともに政権のトップに立ったマレンコフについては各所でかなり詳しく触れられているが、評価はやや明確を欠く気がする。「マレンコフはベリヤのような刹那的な、冒険的な脱スターリンの跳躍ではなく、慎重な、考え抜かれた非スターリン化の道に進み出ようとしたと言っていい」(一六四頁)という個所を見るなら、スターリンの主要後継者たちのうち、刹那的・冒険的なベリヤ、当初は保守的で一貫性のなかったフルシチョフに比して、マレンコフを最も高く評価する見地のようにもみえるが、そう明確に言い切っているわけではない。結局のところ、フルシチョフとの権力闘争に敗れて持続的な成果を残せなかったということで、やや消極的な評価になっているのかもしれない。
 
Bその他(相対的な小物たち)
 政権の周辺にいた多くの人々は、あの時代状況の中で誰しもが真っ黒でも真っ白でもなく、両方の要素を持つ灰色であるほかなかった。そのことを前提して、相対的に「白い」側面に力点を置いて描かれている人物と、「黒い」側面に力点の置かれている人物とがいるように感じられる。相対的に「白い」側面に力点をおいて描かれている人物の代表例はシェピーロフである(四三頁以降各所)
 これに対し、むしろ「黒い」側面が描かれている人物の例として、イデオロギー官僚のルミャンツェフ(各所に出てくるが、特に三六七頁)、歴史家のヴォロブーエフ、当時大学院生で後にゴルバチョフ補佐官となるチェルニャーエフ(この二人は二四〇頁)が挙げられる。いま挙げた三人のうち、ヴォロブーエフについてだけは、後年の後悔に触れている(第六章の注23)。では、ルミャンツェフやチェルニャーエフ――あるいは、その他多くの類似の人々――はどうなのかという疑問が湧く*21。ある時代状況下で、否応なしに「黒い」役割を果たさざるを得なかった人たちのなかにも、後年そのことを悔い、何らかの形でそれを補おうとした人たちは少なくない。たまたまヴォロブーエフが歴史家であって、和田のよく知っている人であるがために、彼についてだけ後年の後悔が紹介されているというのは、他の人たちとのバランスを欠くのではないかという気がする。
 
3 「善玉」的な位置を占める人々
 
 著者自身のまとめ方では、スターリン批判を導く原動力となったのは収容所の中の囚人たち、古参ボリシェヴィキ、歴史家たちという三つの批判勢力だったとされている(四一二頁)。より細かくいえば、古参ボリシェヴィキと歴史家をつなぐ環としてのミコヤン、また歴史家以外の諸分野知識人(とりわけ文学者たち)を含めて、全部で五通りの人々が「善玉」的な位置を占めていると言っていいだろう。彼らについても、あちこちに批判的な記述があり、極端な美化がなされているわけではない。とはいえ、大詰めのあたり(第六‐九章)になると、著者の知人が重要な位置を占めるせいもあって、感情的な表現が各所に現われて、どうしても善玉と悪玉の攻防という印象を与えるように思われる。本書の最重要テーマに関わるだけに、やや丁寧に検討してみたい。
 
@収容所反乱
 政治の中枢から遠く離れた収容所での反乱が政治過程にどの程度影響を及ぼしたかは、なかなか確定しがたい微妙な問題である。本書では、「体制の深部から重大な批判勢力が立ち現われた」、そして「政治囚の反乱を遠い背景に持ちつつ」、スターリン批判を求める勢力が登場した、と書かれている(一四二頁)。「深部」という表現が具体的にどういうことを指すのかはっきりしないが、「遠い背景」というのは巧妙な表現で、まさにその通りと感じさせる。その上で、「遠い背景」と「近い要因」の関係はなお明らかでない*22
 収容所反乱に関して一つ気になるのは、その性格付けである。本書では、反乱を起こした人たちが共産党およびソヴィエト政権に信頼をいだいていたことが紹介されている(一三七、一四〇‐一四一頁)。他方、続く個所では「痛烈に党と政府を批判していた」とされている(一四一頁)。原則として政権中枢を信頼する人たちが、ベリヤその他の「冒険主義者」たちの責任を問い、ベリヤが追放されたからには自分たちへの処遇も変わって然るべきだと考えるというのは大いにありそうなことだが、それを党と政府への痛烈な批判と解釈するのは疑問なしとしない。
 
A古参ボリシェヴィキたち
 古参ボリシェヴィキはスターリン批判推進の主要な担い手として、歴史家たちと並んで重要な役割を付与されている。さまざまな「善玉」たちのなかでも最重要の位置を占めるのが古参ボリシェヴィキと歴史家たちだと言ってよいだろう。その彼らについても、無条件の賛美をしているわけではなく、ところどころで冷静な批判的視線を向けているのは著者の眼が心情だけによって曇らされていないことのあらわれである。たとえば、ペトロフスキーは党の統一を強調したが、「それが両刃の剣であったことは否定できない」(三二四頁)といった文章にそのことが示されている。古参ボリシェヴィキが「クラークを銃殺することに躊躇しない正統的なボリシェヴィキ」であり、「さしあたりボリシェヴィキに対してだけの公正な措置を求めていた」との指摘もある(二六五頁)。
 しかし、気になるところがないわけではない。一九三七‐三八年の「反ソ活動/反革命罪*23」の数を紹介した個所で、「市民・国民」という言い方を何度もしており(二八九、二九二、三〇七頁)、また「大量抑圧が国民全般・社会全般に猛威を振るった」と言い方もしている(三〇八頁*24。だが、反革命罪に問われた人たちを「市民・国民」の代表と見るのは妥当でない。反革命罪によって裁かれた人たちは、党政治局員や中央委員のような上級幹部よりは広いが、だからといって一般大衆を包摂するほど広くもない。もし「市民・国民」「社会全般」を問題にしたいなら、反革命罪だけではなく、一般刑事犯*25、諸民族の集団的追放、飢饉などまで含めて考えなければならないはずである。単純な数字だけとっても、テロルのピークたる一九三七‐三八年に反革命罪で処刑された人の数は約七〇万人である。もちろんこれだけでも十二分に非道なことではあるが、数百万とか数千万というレヴェルではなく、「国民全般」の代表というには距離がある。これに対して、一般刑事犯、諸民族集団追放、飢饉まで含めれば数百万、場合によっては一千万規模の犠牲になり、ここまで視野に入れるなら「国民全般」というにふさわしくなる。
 本書は一般刑事犯にも飢饉にも全く触れていないし、諸民族の集団的追放も部分的に触れるにとどまっている。これは古参ボリシェヴィキの視野の限定を引き継いでいるのではないかとの疑念を禁じえない。古参ボリシェヴィキたちの基本的な姿勢はスターリンにレーニンを対置するものであって、レーニン時代に弾圧された人々のことは全く視野に入っていない。もちろん和田はそのことをよく知っているはずである。にもかかわらず本書の記述は、古参ボリシェヴィキに引きずられたせいか、反革命罪に集中したものになっている。一九五六年から六〇年代にかけての議論がそのような限定を持っていたのはやむを得ざる時代的制約ということもでき、それ自体をとやかくいうつもりはない。ただ、そのように限定された事柄に集中した書き方をしながら、「市民・国民」「国民全般・社会全般」という言葉を何度も使うことにはやはり違和感がある。
 古参ボリシェヴィキたちへの思い入れと関係して、キーロフ問題へのこだわりがある。ここで「キーロフ問題」というのは、第一七回党大会における中央委員選挙でスターリンへの反対票がかなり出たという説、スターリンに代わるべき指導者としてキーロフを担ぐ動きがあったという説、そしてキーロフ暗殺はスターリンの指令によるという説を念頭においている。こうした説は古参ボリシェヴィキおよび彼らとつながる一部の歴史家たちによって広められ、欧米や日本の研究者にもかなり影響を及ぼしてきた。本書はこれらの説を「物語」という言葉で表現している(一八九、二七四‐二七八頁)。「物語」という表現は微妙なもので、「史実」と認定するわけではないが、そのように見なしうる余地も残したものであるように感じられる。「物語」の主要な語り手の一人シャトゥノフスカヤについて「特別な知性と闘争歴と強い性格を持った女性であったようだ」という思い入れたっぷりの記述があることも(一九八頁)、そういう印象を強める。「この物語は今日、確証されていない」という言葉がある一方、すぐそれに続けて、「しかし」として、いくつかの推測を述べたり(二七五頁)、「この主張は、ブレジネフの登場とともに否定されていく」という書き方(二七七頁、注1)も、だから本当は真実だったと言いたいかのようにも受け取れる。この点について、ロシア史研究会における合評会で質問したところ、そういう趣旨ではなく、ミコヤンや古参ボリシェヴィキらがこの「物語」を重視していたという事実に注目したとのことだった。これはこれで理解できる説明である。ただ、書き方が十分明確でなく、「物語」の語り部たちへの心情的傾斜が窺えることから、彼らと著者とが同一化しているかの印象を読者に与える記述だという気がする。
 
Bミコヤン
 二大「善玉」たる古参ボリシェヴィキと歴史家たちをつなぐ位置にあったのがミコヤンである。他の「善玉」たちが政治家ではないことを思えば、政治家たちの間では彼こそが最大の「善玉」であるかのような位置づけになっている。
 そのミコヤンに対しても、冷静に突き放した指摘がないわけではない。「もとより彼も忠実なスターリン派であった」とか、「ミコヤンもまだそれ〔スターリン主義的な立場〕を抜け出していなかった」というような個所がそれである(三六、一一八頁)。しかし、前者の指摘の前後には、「ミコヤンの方はもう少しスターリンをつきはなして見ていたので、事態をより深刻に考えていた」とか「ミコヤンは自己の運命を凝視していた」という、意味不明で典拠指示もない記述があって(三六‐三七頁)、「忠実なスターリン派」という特徴づけを薄めるかにとれる形になっている。別の個所では、「スターリンを引き合いに出して、切り抜けていくというこのやり方が注目されねばならない」とあるが(一九二頁)、どういう意味で注目されるのかの説明がない。スターリンの名を借りつつ、事実上スターリン離れをしていこうというだけであれば、フルシチョフを含め他の多くの政治家たちにも共通した発想であり、ミコヤンの独自性とは言い切れないのではなかろうか。
 政治家を評価する際に厄介なのは、さまざまな考慮に基づいてその都度の発言を使い分ける政治家が内心でどのように考えていたのか、またそのこととも関係して、表面上近い立場にあるかに見える人たちがどの程度実際に近いのかといった事情がなかなか判定しがたい点にある。フルシチョフとミコヤンは、ごく大まかにいえば比較的近い立場にあったと見なされることが多いが、本書によれば、彼らはある時期まで疎遠な関係にあった(一〇七頁)。そして、一九五五年にユーゴスラヴィアとの交渉過程でスターリン問題が重要な論点となったとき、ミコヤンは「ユーゴ問題の責任はスターリンその人にあると、ここではっきり指摘した」とある(二五九頁)。スターリン時代の暴虐を暴く情報をどのように調査し、それをどの範囲に公表するかという問題が浮かび上がった年末には、フルシチョフとミコヤンが一対一で会い、ミコヤンは次のように語った(と、後の回想でミコヤンは書いている)。
「いつかは全党に対してではなくても、スターリン死後の大会の代議員に対してだけでも、何があったのか報告しなければならない。もしもわれわれが今度の大会でしないで、いつか誰かが、次の大会を待たずにそれをやれば、われわれは過去の犯罪に対して全面的に責任があるとみなす正当な根拠をみなが持つことになる。……このことを自分のイニシャティヴでやれば、大会代議員に誠実に真実を話せば、われわれは許してもらえる。多かれ少なかれ負っている責任を許してもらえる。少なくとも、彼らは、われわれは誠実に、自分のイニシャティヴですべてを語った、このような黒い事案の創始者ではないと言ってくれるだろう。われわれは自分の名誉を何としても守るのだ。そうしないのなら、われわれは不名誉な存在となるだろう」(二七〇‐二七一頁)。
 この言葉はドラマティックであり、全編のハイライトである。こうした個所を読むと、動揺するフルシチョフに対して、明確なスターリン批判を求めるミコヤンという図式が鮮明に浮かび上がる。ただ、ここでの典拠がミコヤンの後年の回想(死後の一九九九年に刊行)だという点が気にならないではない。他の視点からする別の「真実」が物語られる可能性がどのくらいあるかは別として、クルーシャルな局面で一個人が果たした役割を本人の回想だけで論じるのは歴史家として慎重さを欠くということにならないだろうか。ここには、ミコヤンが歴史家たちと親しく、歴史家たちが著者と親しいという関係が影を落としているのではないか――このように疑ってしまうのは下司の勘繰りかもしれない。
 
C歴史家たち
 歴史家たちはスターリン批判を求める多様な勢力のなかでも最も重要な位置を与えられている。とりわけ、和田が深い親交を結んでいたブルジャーロフ(一九八五年死去)に関する記述は詳しく、その苦闘が具体的に跡づけられている(各所で触れられているが、特に三五一‐三五四頁など)。そのブルジャーロフについても、辛辣な評価を示すドミトリエフの言葉が紹介されているのは目を引く。そこでは、「ブルジャーロフは本質的には、宣伝家、叫ぶ人、金切り声を上げる人に過ぎない」と述べられている(三七五‐三七六頁)。ドミトリエフは地味ながら鋭い観察を書き残していた人として高い評価を与えられているから、このブルジャーロフ評――やや敷衍していうなら、批判の舌鋒は鋭くとも深みに欠けるという趣旨だろう――についても和田はある程度まで共感していると思われる。しかし、この個所は全体の流れから孤立しており、そこから何らかの含意を引き出すことはなされていない。
 ブルジャーロフと並んで、というよりもむしろ彼以上に重要な位置にあったのがパンクラートヴァである。彼女はブルジャーロフより十歳ほど年長で、本書の主要対象時期には『歴史の諸問題』誌の編集長が彼女、副編集長がブルジャーロフという関係にあった。彼女は一九五二年の第一九回党大会で党中央委員に選出され、第二〇回党大会の公開会議ではミコヤンと並ぶ大胆な重要演説を行なった(三〇四‐三〇五頁)。こうした地位からして、彼女は当時の革新的歴史家の筆頭的な位置にあったといえるだろう。他面、彼女の経歴は相当の曲折を経ており、ソ連における良心的歴史家の置かれた困難な位置を象徴する存在でもある。初期について言えば、彼女は若くして革命運動に参加したとはいえ、一貫した「古参ボリシェヴィキ」だったわけではなく、エスエル左派での活動を経てから共産党に入った。夫が「トロツキスト」として逮捕された後に離婚したり、一時共産党から除名され、復党した時期に恩師ポクロフスキーが公的批判の対象となると、党への忠誠心を示すためにポクロフスキー批判の急先鋒となったりした。戦時疎開先のカザフスタンで『カザフ共和国史』作成に尽力した後、激しい論争に巻き込まれた。こうした経歴は、その人生および研究の歩みが屈曲に満ちていたことを物語っている。本書でもそうした経歴が簡潔に述べられているが、その個所の結びは「その半生には複雑なものがあり、矛盾を見る目を保ちつづけていた人であった」という、やや文学的なもので、「複雑」ではあっても節を曲げなかったという側面を強調するものになっている(一五二‐一五五頁)。
 先にドミトリエフのブルジャーロフ評――彼は「宣伝家、叫ぶ人」に過ぎないとする――に触れたが、それに対比していうなら、パンクラートヴァはよりキャリヤが長く、社会的地位も高く、党への忠誠心も深かったが故に、過去の汚点に自己が深く関与してきたという自意識を持たざるを得ず、その分、屈折した反応を示さざるを得なかったという面があるのではないだろうか。彼女は第二〇回党大会後の三月に、共産党中央委員会宣伝扇動部の指示でレニングラードに派遣され、歴史学の任務に関する講演を行なった。本書はこの講演について、「彼女の地位では強いことが言えたはずがない」「パンクラートヴァは苦しい立場で、はっきりと割り切れない講演をしたのである」とした上で、その場で出された多数の質問のなかには、政治指導部によるスターリン批判の不十分性を鋭く衝く問いかけが含まれたことを紹介している(三三〇‐三三四頁)。彼女は党中央委員の一人として公式見解を擁護しなくてはならない立場にあり、内心ではそれらの質問に痛いものを感じつつも、それを正面から言うこともできないという苦しい状況に追い込まれたように見える*26。他方では、「保守派」からの巻き返しもあり、パンクラートヴァとブルジャーロフに率いられる『歴史の諸問題』誌への攻勢はハンガリー事件の起きた一九五六年一〇‐一一月以降に一層強まった(三八九‐四〇〇頁)。一方では不徹底なスターリン批判のあり方への批判の声を聴きつつ、他方では「保守派」からの圧力にさらされ、失意の状況に追い込まれるなかで、彼女は一九五七年五月に死去した。
 パンクラートヴァの死去については、自殺説がある*27。ことの性質上、真偽は確定しがたいが、彼女に近かった人たちに由来する情報である以上、無下に退けることもできないように思われる。党指導部による公式のスターリン批判に対する両翼からの反撥が彼女を板挟みの状況に追いやっていたことを思うなら、そういうことがあってもおかしくはない。ところが、和田はこの自殺説には何も触れず、真偽を検討しようともしていない。確たる証拠のない事柄については論じないという禁欲的実証主義に徹するなら、それは当然だとも言える。だが、本書の他の個所では、史料だけでは確定しきれない事柄について想像をまじえた推測による記述を辞しておらず、禁欲主義に徹しているわけではない。それでいながら、この点に関してはあえて立ち入っていないのはどういうわけだろうか。
 個別的な問題になるが、一九五一年のネチキナ論文に触れた個所には疑問がある。和田によれば、ネチキナはここで「すべてのケースを「最小の悪」というのが正しいのか。併合が「善」であったケースもあるのではないか」と述べたとされている(一五一頁)。これではまるで、彼女がロシア帝国の植民地併合を部分的にもせよ「善」として正当化したかのようにとれる。「最小の悪/より小さな悪*28」という概念の歴史を丹念にたどった立石洋子の研究によれば、この定式は当初、ロシアと同じ正教の伝統を持つウクライナとサカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)*29だけに限定して使われ出し、その他のケースはすべて「悪」と見なされていたが、次第にこの定式が他のケースにまで拡張適用され、それどころか、むしろ積極的「善」だとする議論さえ現われるという風潮のなかで、それに歯止めをかけようとしたネチキナは、併合の後に起こった「善」と見なされうる現象――ロシアの「進歩的」プロレタリアートとの合流など――と、ロシアの支配自体を分けて分析すべきだと主張したのであり、併合が「善」であったケースもあるなどと主張したわけではないはずである*30
 
D文学者など
 本書では、このほか、歴史学以外の諸分野の学者、文学者、音楽家、バレリーナ等々といった多彩な人々が取り上げられている。なかでも大きな位置を占めるのは文学者たちである。文学者の回想類が多用されているのは和田の文学好きの反映であり、本書の記述に光彩を与えている。その上で、漠然たる感想だが、スターリン批判推進の中心勢力とされる歴史家たちに比して、文学者たちの立場はよりアンビヴァレントだったように感じられる。もちろん、歴史家も文学者も多様だから、それぞれを一枚岩的に見ることはできない。ただ、ごく大まかな傾向性として、歴史家はその使命に忠実であろうとするなら史実の歪曲に抗議し、隠されていた史料の発掘や公開に尽力することを職業的義務と考えるのに対し、文学者は個々人の内面の複雑さを描き出し、善と悪とをきれいに分けきらない複雑微妙な状況を描き出そうとするとはいえないだろうか。本書に多数の文学者が登場するにもかかわらず、主要なスターリン批判推進勢力を列挙する際には文学者が歴史家と並記されていないのは、そうした事情によるように思われる。文学者の作品や日記、回想などは、むしろその時代を生きた知識人たちのメンタリティを知る上での素材としての意味が大きいように感じられる。
 たとえば当時の代表的な文学者であるトヴァルドフスキーもシーモノフもともに、スターリン死去に際して大いなる悲しみを詩に表現したことが紹介されている(六四‐六六頁)。これは彼らだけの特異性ではなく、他の多くの人々も同様ではあるのだが、その感覚を詩的に表現した点が、後世の歴史家から見れば当時の一般的メンタリティを理解する素材となっている。エフトゥシェンコやエレンブルグもそれぞれに独自な軌跡をたどっており、ソヴェト政権への距離の取り方も微妙だが、いずれも当時の知識人の感覚を物語る記録を残している。特にエレンブルグの回想は資料としての有用性が高く、本書でも活用されている*31。もっとも、彼の有名な小説『雪どけ』については、タイトルが人々の心を捉え、この時代の社会の流行語となったとはいえ、「本来的には、これはそれほど大した作品ではなかった」との評価が示されている(一八二‐一八三頁)。
 一連の文学者のうち、新しい潮流を世に出す上で大きな役割を演じたのは、『ノーヴイ・ミール』編集長のトヴァルドフスキーである(二〇三頁以下)。もっとも、彼の貢献は文学者たちの多様な表現の自由を確保しようとしたという点――ソルジェニツィンを世に出したのもその一例――が主なものであり、政治や歴史認識に直接関わるものではなかったように見える。小さな例だが、ハンガリー事件後にフランスのサルトルらがソ連に抗議したときに、それに反論してソ連政府を擁護する公開書簡に彼も名を連ねたことが紹介されている(三八九頁)。
 ある著作を読んで、そこに書かれていない事項に触れるのは、いわゆる「無い物ねだり」であり、内在的批評を目指す者がとるべき態度ではない。ただ、ある事柄に著者が注目せず、読者が注目するという対比は、それぞれの関心の所在の差を示すという限りでは、全く意味がなくもないかもしれない。ここでは、そのような観点から、本書に出てこない文学者関連の逸話を二つ挙げてみたい。
 先ず、シーモノフの浩瀚な回想は本書でも効果的に利用されているが、和田が紹介していないあるエピソードが私にとってはきわめて印象深い。彼はスターリンが生きている間はその写真を自宅や事務所のデスクに置いたりしなかったが、スターリン死後にその写真を飾るようになった、また自己の詩からスターリンの名を削るようにとの上からの指示に抵抗した、という逸話である*32。これを知って思い起こされるのは、太宰治の小説『パンドラの匣』で、「天皇陛下万歳!」という叫びは戦時中は古かったが、敗戦後の占領下においては自由思想となったという台詞を叫ぶ登場人物のことである。外形的にいえば「保守反動」的な立場だが、時流に抗するという意味では気骨を示したともいえる微妙な態度である。ファイジズによれば、シーモノフは晩年に至るまで異論派と同調することはなく、体制内に公認の座を占めていたが、同時に、体制への批判と過去の自分自身の言動への悔恨を深め続けていたという。
 もう一つの例は、詩人アフマートヴァと並べて名を挙げられている児童文学者リディヤ・チュコフスカヤ(三二一頁)に関わる。彼女の父親チュコフスキーは、ハンガリー事件後にソ連政府を擁護する公開書簡――ショーロホフはもとより、トヴァルドフスキー、シーモノフ、シャギニャン、エレンブルグ、ベルゴーリツらも名を連ねた――への署名を拒んだ少数の気骨ある人として紹介されている(三八九頁)。こうした紹介自体には異論ないが、後にチュコフスカヤとナデジダ・マンデリシュタム(オーシプ・マンデリシュタムの妻)の間で激しい論争が起き、互いに相手を「裏切り者」呼ばわりするほどの激烈さに至ったという事実の方が私にとっては強烈な印象を残している*33。この厳しい論争は、ともにスターリン時代に深く傷つき、体制にあらがい続けてきた異論派たちの間での相互非難の深さを物語り、読んでいて胸を衝かれる思いがする。
 いま挙げた二つの例はどちらも個別的なものであり、それを取り上げなかったからいけないといった性格のものではない。どのように分厚い著作であっても、ありとあらゆる関係事項を片っ端から取り込むことができないのは自明であり、取捨選択というものは常に不可欠である。ただ、その際の選択の基準はどこにあるのかという点が私には気になる。和田はあくまでも明るく、前向きで、健全な精神の持ち主である。本書がスターリン批判を推し進める「善玉」を主役に据え、熱い共感を寄せているのはそのことを端的に物語る。そうした歴史家たちの代表的な位置にあったパンクラートヴァの死が自殺だったかもしれないとか、スターリン死後にわざわざスターリンの写真を飾るようになったひねくれ者がいたとか、異論派知識人の間で深刻な仲違いが起きたといった問題は、そういう前向きで健全な精神にとっては、あまり重要視するに値しないのだろう。これに対して、私がそういった類のことに関心を引かれてしまうのは、私の性格がひねくれているからなのかもしれない。とはいえ、私とても、後ろ向きで退廃的な態度をよしとするわけではない。できることならば、前向きの健全な精神を持ちたいと私も思う。ただそのためにも、こうした暗い側面に目を背けない態度が必要なのではないだろうか。つまらぬ無い物ねだりを書いたのはそういう思いからである。
 
四 その他
@論旨と直接関わるわけではないが、本書では、「ソ連」という国名が「ソヴィエト連合」と訳されている。原語(ロシア語でсоюз, 英語でunion)をどう解釈すべきかをめぐっては、これまでに膨大な議論があった。それはフェデレーション(フェデラーツィヤ、連邦)なのか、コンフェデレーション(コンフェデラーツィヤ、国家連合)なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、等々である。ところが、本書では新しい訳語を提唱するに際して、そうした議論は全く振り返られておらず、これまでにあった「連邦」「同盟」を退けて「連合」とすることの理由も、何も説明されていない。著者が「連合」という訳語にどういう意味を込めようとしているかは分からないが、言葉のニュアンスとしては、コンフェデレーションに近いように見える。もしそういう含意だとすれば、明らかに不適訳である。著者の影響力が大きいだけに残念なことである。
 ごく簡略に私見をまとめるなら、次の通り*34。アメリカ合衆国が建国の時点ではコンフェデレーションだったのが、合衆国憲法制定を通してフェデレーション化したというような経緯はソ連でもよく知られており、英語の直輸入形たるフェデラーツィヤ、コンフェデラーツィヤといった用語を使った論争も行なわれていた。ソ連の国名に使われたсоюз, unionという語はフェデレーションともコンフェデレーションとも異なる単語であるため、語義的には両様の解釈が可能だが、ソ連憲法制定時にスターリンが「われわれはコンフェデレーションではなく、フェデレーション国家をつくろうとしているのである」と述べたことは、союз, unionはフェデレーションだという公定解釈を確立した。この公定解釈は数十年間安定していたが、ペレストロイカ期の一九八八年以降、союз, unionをコンフェデレーション化すべきだという主張がバルト諸国などから現われ、論争が続いた。こうした経緯を念頭におくなら、フェデレーションだという公定解釈が安定していた一九二四‐八八年については「連邦」の語を使うのが適当だが、その公定解釈が確立する以前の一九二二‐二四年、またそれが揺らぎだした一九八八‐九一年については、フェデレーションを意味する「連邦」ともコンフェデレーションを意味する「連合」とも異なる別の訳語をあてる必要があり、さしあたり「同盟」を使うのが適当と考えられる。同じ原語に時期によって異なる訳語をあてるのはあまり好ましくないが、現に当事者の意識が変化した以上――そしてまた、最も長期にわたる一九二四‐八八年について従来の定訳たる「連邦」がふさわしい以上――、このように訳し分けるのが相対的に無難な選択と考える(かつて「ソ同盟」という訳語が使われたことがあり、これは直訳的には当たっていたが、その時期にはフェデレーション論が確立していたので、「連邦」の語を避ける必要はなかった。この訳語が廃れた後になって、新しい条件下で「同盟」と訳した方がよい状況が生まれたのは一種の歴史の皮肉である)。
 
A本書は中国共産党の「プロレタリア独裁の歴史的経験について」論文(一九五六年四月)について、「初めてスターリン問題に関する系統的な論述」「鋭い思想」というきわめて高い評価を示し、続く百花斉放についても「驚くほど大胆な提案」という、これまた高い評価を示している(三三九‐三四〇頁)。その一方で、その後の反右派闘争への転換には触れていない。百花斉放・百家争鳴と反右派闘争の関係をどう捉えるかはこれまでも大きな論争のあったところだが、そうした論争は本書の枠外におかれている。前注26の丸山眞男や福田歓一らを含め、日本の少なからぬ知識人は、ソ連のスターリン批判は底が浅かったが中国の方が深いとして、後者に共感を示していた。和田もそれに近い考えなのだろうか?
 
B一九五六年六月にレーニンの「遺書」が公表されたことが三五五頁で触れられている。それ自体は正しい記述だが、アメリカ国務省がフルシチョフ秘密報告に続いてこの「遺書」も同時期に発表していたという文脈を確認しておいた方がよかったのではないだろうか。
 
Cソ連を構成していた共和国の数は最盛時に一五とある(四一三頁)。実際には、一九四〇年に一六となったのが最大であり、その年に生まれたカレロ=フィン共和国が一九五六年にカレリヤ自治共和国に格下げされて一五となった。
 
D悪名高い「階級闘争激化論」について、本書は一九三七年二‐三月総会のみに言及しているが(四一七‐四一八頁の解説など)、その起源はもっと古く、一九二八年七月の共産党中央委員会総会や二九年四月の党中央委員会・中央統制委員会合同総会にさかのぼる。もっとも、二〇年代末と三七年が同じということではなく、その間の三六年憲法採択時に社会主義建設の基本的完了が宣言され、敵対階級が消滅したとされたという差異がある。このような公的自己認識のもとでは、国内の社会構造としては「階級闘争」の基盤そのものがなくなったはずだが、外国帝国主義から送り込まれたスパイ・「人民の敵」により国際的な意味での階級闘争が進行しているとされたのが三七年理論の特徴である。二‐三月総会のスターリン報告が、「打ち破られた階級の残党がソ連でひとりぽっちであるのではないことに注目しなければならない。かれらはソ連の国境の向こうに直接の支持者をもっている」と強調したのはそのことを物語る。
 
E第五章の注54における出典注は、タイトルに一部脱落がある模様。
 
F各所にスミルノーフという人が出てくる。これはありふれた苗字であるため、どのスミルノーフなのか――そもそもあちこちに出てくるスミルノーフは同一人物なのか――という点が疑問となる。索引ではイニシャルがア・ペ、主な経歴としてはロシア共和国副首相とあるが、これは一九三八年に処刑された人物であって、そういう人が本書に登場するはずがなく、明らかな人違いである。
 
(二〇一七年二月)

*1表紙および奥付けには、「一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか」という文句が副題風に添えられている。しかし、これは著者の了解なしに出版社が独断で付けたものだとのことであり、本書の性格の要約としてふさわしくない。著者の意に沿うように修正するなら、「一人の独裁者の死をきっかけに、いかに知識人と民衆が歴史を動かしたか」とでもなるだろう。
*2本稿は、本書の合評会(冷戦研究会、二〇一七年二月一二日)に際して作成した原稿を微修正したものである。なお、この合評会は、著者本人が基調講演を行なった後、ロシア史(塩川)、ユーゴスラヴィア史(岡本和彦)、中国史(松村史紀)という三つの角度からの書評報告という構成で行なわれた。
*3本書の直接的対象に近い見地からの論評も、既に何人かの人たちによって行なわれている。ロシア史研究会の合評会(二〇一六年一二月三日)では、フルシチョフ期を専門とする河本和子、同時期の東欧史に詳しい伊東孝之が評者として報告した。また東大文学部西洋史池田嘉郎ゼミ(同年一二月一九日)では池田およびフルシチョフ期専門の松戸清裕が報告した(こちらには私は出席しておらず、討論の模様を知っているわけではないが、池田のレジュメはフェイスブック上にアップロードされている)。
*4この問題については、塩川伸明「現代史における時間感覚――事件・歴史家・読者の間の対話における距離感」中部大学『アリーナ』(風媒社)第一〇号、二〇一〇年(この論文は、塩川伸明ホームページの「これまでの仕事」欄に全文をリンクしてある)。
*5私が学部学生だったとき、岩間徹が授業で「皆さん、よく覚えておいでのように、スターリン批判の頃は……」と語ったことがある。これは一九七〇年代初頭の頃、つまり一九五六年から十数年後のことだった。当時二〇代に入って間もなかった私にとって、十数年昔のことというのは、まだ物心もついていない時期のことで、覚えていようはずもなかった。「この先生はなんと見当違いのことを言うんだろうか」と内心思った記憶がある。しかし、だんだん自分が歳をとってくると、十数年前の出来事というのは、「ごく最近のこと」として意識に焼き付いているものだと感じるようになった。あのときに岩間さんがああ言ったのは、彼にとっては自然な感覚だったのだろうなと、遅ればせに気づいた。
*6Jonathan Haslam, The Vices of Integrity: E. H. Carr, 1892-1982, New York, 1999, p. 177(『誠実という悪徳――E・H・カー1892-1982』現代思潮新社、二〇〇七年 、二五八頁)。
*7塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦』有志舎、二〇一一年、第九章(「E・H・カーの国際政治思想」)、および「E・H・カーのロシア革命論」東京大学『社会科学研究』第六七巻第一号(二〇一六年二月)参照。
*8Eric Hobsbawm, Interesting Times: A Twentieth-Century Life, Allen Lane, 2002, pp. 205-206(『わが20世紀・面白い時代』三省堂、二〇〇四年、二〇五頁)。
*9ベネディクト・アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、二〇〇九年、三九‐四〇頁。なお、ウィキペディアのペリー・アンダーソンの項には、彼が「一九五六年のハンガリー動乱に衝撃を受けた」とある。だが、本文に紹介した逸話に照らすなら、これはその時点での反応ではなく、後年の衝撃をさかのぼらせた記述のように思われる。
*10和田春樹『ある戦後精神の形成』岩波書店、二〇〇六年、二三〇頁。
*11富岡倍雄「ブント結成まで」島成郎監修『戦後史の証言・ブント』(『ブント〔共産主義者同盟〕の思想』別巻)、批評社、一九九九年、一二一頁。この富岡論文の初出は、『ブント〔共産主義者同盟〕の思想』第五巻(マルクス・レーニン主義)、批評社、一九九四年、一三頁。
*12これらの点について、詳しくは「スターリン批判と日本」(塩川伸明ホームページの「研究ノート」欄に収録)で論じた。
*13和田の還暦時の座談会「ロシア・ソ連研究の三八年」『社会科学研究』第四九巻第六号、一九九八年、九〇、九二頁参照。
*14本書のあとがきに述べられているほか、和田『ある戦後精神の形成』二三四‐二四一頁も参照。
*15最近になって確かめたことだが、この年のオリンピックは南半球での開催のため、一一‐一二月という遅い時期のことだった。つまり、一〇‐一一月のハンガリー事件の余韻さめやらない時期だったということになる。
*16和田春樹「スターリン批判」東京大学社会科学研究所編『現代社会主義』東京大学出版会、一九七七年。
*17前注3の河本和子報告もこの点に注目していた。
*18但し、ここで注56(四五一頁)に挙げられている横手慎二『スターリン』中公新書、二〇一四年、二七二頁は「健康状態悪化」「パラノイア」とは書いておらず、この批判はあまりフェアでない。
*19なお、民族政策に関し、本書ではリトアニア、西ウクライナ、ベラルーシに即した記述があり、エストニアにも一言だけ言及がある(九三‐九四一一五頁)が、ラトヴィアには触れていない。実際には、ラトヴィアにおけるベリヤ時代についても新しい情報が近年明らかにされつつある。
*20ユーゴスラヴィアとの交渉に関する新資料は二〇一四年刊。また党中央委員会総会議事録は北大所蔵のマイクロフィルム版を利用している。
*21和田はヴォロブーエフの「後悔」に触れた個所に続けて、チェルニャーエフの回想は「この活動をはっきりと説明していない」と書いている(第六章の注23)。チェルニャーエフの書き方は和田の基準からして十分「はっきりと」したものではないということかもしれない。だが、あまり誇らしくないことに関与し、それが辛くなって他のポストに転じたことはとにかく書かれている。А. С. Черняев. Моя жизнь и мое время. М., 1995, с. 222-224.
*22富田武『シベリア抑留』中公新書、二〇一六年、一七〇頁によるなら、一連の収容所暴動の情報に鼓舞された日本人捕虜たちは一九五五年一二月から翌年三月にかけてハバロフスク矯正労働収容所でストライキを決行したという。どういう情報がどのように伝わったのかとか、ストライキの情報が収容所管理部を経て上層部にどのように伝わり、どういう政策変化を引き起こしのかなど、なお検討すべき問題が残っているが、この種の情報が積み重ねられるなら、「遠い背景」と「近い要因」の空隙も次第に埋めらていくかもしれない
*23二八八頁の表の典拠とされている文献では「反ソ活動」という言葉が使われているが、当時の用語ではこれは「反革命罪」と呼ばれるのが普通である(ロシア刑法典五八条)。一九六〇年の新しいロシア刑法典(第七〇条で反ソ煽動宣伝罪を規定、一九六六年の改正で「ソ連の国家体制および社会体制を誹謗する故意の虚構を口頭で組織的に流布する罪」などが追加された)以後は、「反革命」という表現はあまり使われなくなり、「国家犯罪」とされるようになった。
*24なお、二九二頁本文で、「大量抑圧の数字と目標数字などのやり方は、ソ連社会主義が終わるまでは公表されることのない資料であり、事実であった」とあり、それにつけられた注1(二九三頁)でゲティらの一九九三年論文が最初としているが、これは正しくない。これらの数字が公表されだしたのはソ連解体前夜の一九九〇年のことである。ゲティらの一九九三年論文は拙著『終焉の中のソ連史』と同じ年の刊行だが、拙著第Y章で一九九〇年頃までの情報に基づいて行なった叙述に比して、特に新しい情報を含んでいるわけではない。
*25一般刑事犯と政治犯の関係は微妙である。両者はもちろん性格を異にする別のカテゴリーだが、形式上前者に属する人たちのなかに事実上後者に該当する人が含まれることもあっただろうし、純然たる前者にしても、体制の全般的な苛酷さの産物という面があるから、広い意味での犠牲に含めて考えることもできなくはない。いずれにせよ、犠牲者の規模を考える際には、どのようなカテゴリーをどのような定義のもとで考えるかをはっきりさせないと、異なった性格の数字が雑然と並べられることになって混乱を招く。
*26この時期のパンクラートヴァについては、立石洋子「「雪解け」と歴史学――A・M・パンクラートヴァの活動を中心に」中嶋毅編『新史料で読むロシア史』(山川出版社、二〇一三年)に和田著よりも詳しい叙述がある。なお、余談になるが、『世界』一九五六年一一月号に掲載された丸山眞男の有名な論文は、当初「『スターリン批判』の批判――政治の認識論をめぐる若干の問題」と題され、スターリンを批判するのはよいとしても、その批判の仕方が浅いのではないかという問題を摘出していた(後に「『スターリン批判』における政治の論理」と改題されて、『現代政治の思想と行動』に収録され、さらに後に、『丸山眞男集』第六巻、岩波書店、一九九五年に収録)。当時の丸山は知る由もなかったことだが、もし丸山が実際よりも長生きして本書を読み、レニングラードの聴衆がパンクラートヴァに浴びせた質問とか科学アカデミー熱力学実験所の党員会議で発せられた声(三三六頁)とかを知ったなら、「ソ連にも自分と似たような反応をした人が結構たくさんいたのだな」という感慨をいだいたのではなかろうか。
*27ユルゲン・クチンスキー『クチンスキー回想録』大月書店、一九九八年、一一六頁、立石洋子「パンクラートヴァとタルレ――スターリン期のソ連を生き抜いた二人の歴史家の生涯」中部大学『アリーナ』(風媒社)第一〇号、二〇一〇年、三五頁、立石「「雪解け」と歴史学」二一七頁参照
*28ロシア語наименьшее злоの直訳は「最小の悪」で、英語lesser evilの直訳は「より小さな悪」だが、実質的に区別する意味はなく(実際、英語圏の論者は前者のロシア語を後者の英語に訳している)、どちらの表現をとっても大差ない
*29「サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア」という見慣れない表現をとることについては、拙稿「サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)とハイアスタンあるいはハヤスタン(アルメニア)」(塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に収録)参照。
*30私はネチキナ論文を自ら検討してはいない。本文の記述は、立石洋子「国民統合と歴史学――スターリン期ソ連における「国民史」論争」東京大学大学院法学政治学研究科博士論文、二〇一〇年、二八一‐二八三頁に基づく(この学位論文を改稿した同題の著作では、この部分は紙幅の制約のため省略されている)。
*31エレンブルグの回想は一九六〇年代前半にソ連で公刊され、日本でも邦訳『わが回想――人間・歳月・生活』(改訂新装版、全三巻、朝日新聞社、一九六八‐六九年)によって知られていたが、当時の版にはかなりの削除部分があった。完全版が刊行されたのはソ連末期の一九九〇年のことであり、和田もその新版を利用している。この過程については、米田綱路『モスクワの孤独――「雪どけ」からプーチン時代のインテリゲンツィア』(現代書館、二〇一〇年)第一‐二章が詳しい。
*32正直にいうなら、私はこの分厚い回想をまだ読み終えていない。本文に書いたのは、オーランドー・ファイジズ『囁きと密告――スターリン時代の家族の歴史』上・下、白水社、二〇一一年の紹介による。同書への私の読書ノート(塩川伸明ホームページの「短評欄」に収録)も参照。
*33この論争については、米田、前掲書、第六章に詳しい。私の感想は同書への読書ノートで述べた(塩川伸明ホームページの「短評欄」に収録)。
*34現在準備中の著書でより詳しく論じる予定だが、とりあえず、塩川伸明『国家の構築と解体――多民族国家ソ連の興亡U』岩波書店、二〇〇七年、序章および第一章を参照。