宇野重規『政治哲学的考察――リベラルとソーシャルの間』(岩波書店、2016年)を読む
 
 
 歴史家の仕事と思想・哲学研究とは、深いところで一定の関係があるはずだが、実際の作業としてはかなり性格を異にし、なかなか対話を交わしにくいところがある。著者のこれまでのいくつかの作品から私は多くを学ぶと同時に、もう一歩踏み込んだ対話を交わすにはどうしたらよいのかをめぐって考えあぐねさせられるという経験を何度かしてきた。
 著者の仕事の一つの特徴として、フランスの思想・言論界と英米の思想・言論界の双方に通じていて、両者の間での文脈の違い――同じ言葉でもしばしば意味が違っている――を踏まえた比較や交通整理を明快に行なっている点が挙げられる。また、広い意味でリベラルと呼ばれる潮流――これ自体、決して一枚岩ではない――を重視しながらも、それを他の諸潮流との関係のなかにおき、種々の再考を重ねている点も注目される。本書の副題「リベラルとソーシャルの間」もそうした姿勢を象徴しているだろう。専門の遠い私にその全容が十分理解できるわけではないが、ともかくこうした点には強い共感をいだき、今回も多くを教えられたという気がする。
 著者自身がどこまで力点をおいているかということから離れて、私自身の観点に敢えて引きつけて個人的な感想を述べさせてもらうなら、いくつかの点が特に目を引いた。
 本書の一つの柱である共和主義という主題について、「共和主義への関心の高まりは、社会主義に代わる、リベラリズムへのオルタナティブとしての役割を期待されてのものと考えられる」(9頁)と書かれた個所がある。社会主義と共和主義はもちろん全く異なる概念だが、前者が衰退した後を埋めるような位置に後者があるという考えであるように見える。更にいえば、本書全体を貫くキーワードたる「ソーシャル」という言葉も、socialismはもはや擁護できなくても、socialなものの意義を見失ってはいけないという発想があるように感じられる(市野川容孝『社会』岩波書店、2006年を想起させられる)。本書の序に「リベラル派と……ソーシャル派とが連携することの意義」という言葉があるのも、こうした推測を裏付けるように思われる。
 それだけではない。社会民主主義や福祉国家とは区別される共産主義についても、注目すべき言及がある。共産主義は「ヨーロッパの一つの共通言語の役割をも果たした」とか、その後退は19世紀以降のヨーロッパを彩った一連の理念の終わりをも意味する、といった記述である(229-230頁)。もちろん、これは共産主義を肯定する立場から言われているわけではないが、ともかくその終焉を単純に「当たり前かつ目出度いこと」と片付けることなく、より深刻に受け止めようという姿勢のあらわれととることができる。
 そうはいっても、著者がこうした論点に本格的に取り組んでいるわけではない(社会主義には立ち入らないという注記が291頁にある)。著者にとって付随的な個所に私が注目してしまうのは我田引水のそしりを免れないかもしれない。そのことを認めた上で、現に著者がこのように示唆的な記述をあちこちでしている以上、そこから更に議論を発展させるならもう少し本格的な対話ができるのではないかという気にさせられる。
 もう一つ、全く別の問題だが、「ヨーロッパとはつねに多元的な世界であった」(235頁)という個所が眼にとまった。これはある意味で常識的な指摘かもしれない。だが、考えてみると、多様な民族、宗教、文化が併存したり、法・制度が一元的でないのは何もヨーロッパだけではなく、世界の多くの地域で共通に見られる現象である。近年の歴史的帝国研究は、多くの帝国でその中枢部が周縁部を単純に従属させたり多様性を押しつぶしたりしたのではなく、中枢と周縁の非対等性を前提した上で条件付きの寛容と多元性を保持してきたことを重視している。このような意味での多元性と、ここで著者が重視する多元性とをどのように比較していくか――これもまた非常に重要かつ興味深い課題ではないかと感じた。
 (Facebookの私のタイムラインに2016年8月16日に記入した文章)。