1968」に関する若干の覚書[1]

 

塩川伸明

 

 

T 「1968」の語で何を意味するか

 

 1968年前後の時期に世界各地で繰り広げられた各種の社会運動について、今年〔2018年〕がちょうど50周年に当たることから、いろいろな記念行事のようなものが行なわれている。とはいえ、そこで取りあげられるあれこれの事象は非常に雑多であり、そこに単一の本質のようなものがあるとは思われない。むしろそれは多種多様な運動を大きく包括した総称のようなものと考えられる[2]。その雑多性と関係して、時間的な幅も一義的ではない。どの事例をどの観点から観察するかにもよるが、1968年よりも前や後に大なり小なり延長して考えることもできる(そのため、「1968年論」と並んで「1960年代論」が議論されることもよくある)。つまり、「1968」という語を標題として何事かを論じようとするのはあくまでも便宜的なシンボルとしてであり、その前後の――観点次第で長くも短かくも考えられる――時期に起きた多様な運動の総称として便利だからにすぎない。

 こういうわけで、「1968」の語には、内容的にも時間的にも曖昧性がつきまとう。それでも、「1968」を一種のアイコンとしてとりあげ、それをめぐって議論することに実質的な意味がないというわけではない。一つには、国境を超えた情報流通が拡大した時期であるため、あちこちの運動に関する情報が瞬時に遠くまで伝わり、相互刺激するという関係があった。それ自体としては異質な性格をもつ運動であっても、マスメディアで伝えられる情報によって、あたかも同質であるかのイメージを多くの人びとがいだき、そのことによって相互に鼓舞されるという関係があった。そこには誤解の要素も含まれたが、それによって現に当事者たちが鼓舞され、各種運動の拡大を促したという限りでは、そうしたイメージ自体が現実的な意味をもつ要因だった。

 いってみれば、「1968」を構成する様々な運動は「呉越同舟」の関係にあった。この言葉は、通常、「同舟ではあっても、呉越(つまり異質)だ」ということに力点をおく形で使われる。だが、力点を置き直して、「呉越ではあっても、とにかく同舟だ」という側面に注目することもできる。呉も越も同じ舟に乗っていれば、知らず知らずのうちに相互接触・相互影響関係が生じることがあり、その中で、それぞれの性格に変容が起きたりする。つまり、1968年の大衆運動には雑多かつ異質な――ある意味では相互に矛盾さえする――諸要素が流れ込んでいたが、それらが異質性を潜在的なものにとどめつつ同じ舟に乗ったことが大きなうねりをつくり出したと考えられる。

 また、それらの運動には、緩やかな意味での共通の背景もある程度あった。ごく大まかにいうなら、第2次世界大戦後20年ほどを経る中で、少なくともいわゆる「先進国」の多くでは、一応の平和が維持され、ある程度の経済発展と社会的安定がもたらされた。そうした中で、戦乱や絶対的貧困の問題は後景に退いたが、その代わりに、種々の新しい社会的矛盾が登場した。そして、戦後初期のベビーブーム期に生まれた世代はこの時期に青年となり、どの程度自覚的にはともかく、新しい社会的矛盾に突き動かされた各種運動の担い手となった。

 そうした緩やかな共通の背景の上で、また情報流通による相互刺激もありつつ、各国ごとに多様な反応が示され、また一国内でも多様な運動が展開された。以上をまとめて全体としていえば、「雑多で異質な要素を含みつつ、相互刺激によって盛り上がった一連の現象の総称」ということになるだろう。

 以上では、大まかな全体像について考えたが、個別例の内実が多様であった以上、ここから先は個別例に即して考えなくてはならない。当然ながら、自分がある程度以上知っている事例以外については発言することができない。私の場合、ある程度語れるのは日本についてとソ連・東欧圏に限られ、それ以外のさまざまな地域(アメリカ、西欧諸国、中国、東南アジア、中東、ラテンアメリカ等々)については発言資格がない。日本およびソ連・東欧圏と限定しても、そこには多様な要素が含まれるが、ここではその「全体像」を考えようとするのではなく、とりあえず私の関心を引く側面に着目することになる。

 

U 日本について[3]

 

 世界史的な構造でいえば日本は欧米諸国ともにいわゆる「先進資本主義国」に属し、その意味で、ごく大まかには「同じ」グループに属した。しかし、現実の社会運動はそれら諸国で異なった形で展開された。どの国にも多様な潮流が存在し、それらが複雑な相互関係を織りなしていたことを思うなら、それらを適切に国際比較するというのはあまりにも巨大な課題であって、簡単に論じられるような問題ではない。ここでは、とりあえず私の関心を引く側面に限って簡単に考えてみたい。

 大まかな印象として、欧米諸国に比べ、日本の「1968」には建設的な遺産が少なかった。このことを苦い思いをもって確認しないわけにはいかない。グローバルな「1968」研究において、欧米諸国についてはある種の「遺産」が指摘されることが少なくない。もっとも、それは手放しの賛美ではなく、後続世代からする「1968年世代」への批判もあり、「1968の脱神話化」も叫ばれているが、「脱神話化」の必要性が指摘されること自体、一定の「遺産」評価がかなりの程度広まっていることを前提するだろう[4]。これに対し、日本では、当事者による回顧的文章は別として、第3者からの見方は比較的冷ややかで、「受け継ぐべき遺産はあまりない」という見方がこれまでのところ優勢である。その代表例は小熊英二の記念碑的な大著である[5]。もっとも、小熊著は多様な事例を百科全書的に取りあげているので、全体が一色に塗りつぶされているわけではなく、どの部分に着目するかによって異なるイメージが浮かび上がる。相対的に肯定的印象を残すのはベ平連を扱った個所である。これに比して、全共闘運動および新左翼諸党派を扱った個所では、どちらかといえば批判的な論調が――部分的にはそれにとどまらない要素もなくはないが――表に出ている。

 小熊著と対照的に、小杉亮子の新著『東大闘争の語り』は、日本の「1968」にもそれなりの「遺産」があったことを示そうとしている[6]。もっとも、小杉は冒頭で日本の「1968」についてはネガティヴなイメージが優勢であることを確認した上で、それだけにはとどまらない要素を掘り起こすという形で論を進めている。そのような作業が必要だと小杉が考えたということ自体、全社会的に目立つ形での「遺産」は相対的に小さかったことを物語っている。別の言い方をするなら、小熊は日本の「1968」がこれまで(主として当事者たちによって)過大評価されてきたという判断に立って、過大評価批判に力点をおいたのに対し、小杉は日本の「1968」があまりにも低く評価されすぎてきたとの観点から、部分的な復権を試みているという関係にある。両者の方向性は逆だが、いずれも定量的な議論をしているわけではないから、どちらが「全体像」に近いかを論じることはできない。そして、小杉の試みはあくまでも個別事例に即した部分的な復権論である以上、小熊的な観点を全面的にひっくり返しているわけではない。両著を全面的に衝突するものとして二者択一的に捉えるよりも、一方の軽視している側面を他方が重視しているという意味で相互補完的に考えた方が実り多いのではないだろうか。

 私自身の観点を述べるなら、小熊著に示されている辛口の批評(当時の運動におけるさまざまな欠点の指摘)は、大まかな傾向性の指摘としてはかなりの程度当たっていると考える[7]。但し、このように述べることは小熊著を全面的に肯定することを意味しない。小熊は他のテーマについては対象への内在的な理解ときめ細かい分析を特徴としているにもかかわらず、全共闘および諸セクトについては、細やかさを欠いた外在的な観察にとどまる傾向がある。大まかな傾向性の指摘としては一応当たっている命題も、往々にしてスウィーピングに過ぎる形で全称命題的に提示されており、具体的な歴史の襞に立ち入る姿勢に乏しい(多くの当事者が小熊著に感じる苛立ちはその点に起因するだろう)。

 もっとも、そうした欠陥はやむを得ないものではないか、そしてそこにはわれわれ当事者世代の責任が大きいのではないかとも感じる。当時若かったわれわれがその当時にきめ細かい自己認識を提出できなかったのはまだしも無理からぬことだとしても、その後も長いこと、きちんとした自己認識を踏まえた議論が提出されてこなかった(皆無だったとまではいえないが、概していえば非常に少なかった)[8]。そのことが大きなツケとして残っていると考えないわけにはいかない。これも漠然たる印象論だが、1960年安保前後の運動については、20-30年ほど経つうちにかなり多くの回想が出たのに対し、「1968」前後の運動については相対的に少ない。ここには、思い出すことが辛いような暗い経験が多かったことが作用しているのではないか。

 とはいえ、ごく最近になって、ようやく重い口を開こうとする気運もなくはない。50年という歳月が過去を冷静に振り返ることをようやく可能にしたという面もあるし、当時20代だった人たちが70代に入る中で、「生きているうちに証言を残しておかなくてはならない」という義務感のようなものが生まれてきたようにも感じられる。一口に当事者といっても多様な人々が含まれるから、十把一絡げに特徴付けるわけにはいかないが、少なくとも一部には、「我らかく闘えり」といったタイプの自己満足にあきたらず、もっと真剣な自己反省の議論を提出しようとする気運も出てきた[9]。これはまだ部分的なものにとどまっており、系統的な形をとっているわけではないが、もしこの種の作業が今後もっと進むなら、将来の歴史家がこの問題に取り組む際に批判的に検討すべき素材としての意味をもつだろう。

 以上、研究史に関わって考えてきたが、研究史を離れて日本の「1968」の特徴――ここで特に問題にしたいのは、建設的な「遺産」があまり多くなかった理由――について考えるなら、どういうことが言えるだろうか。そこにはいろんな要素があるから、全面的に論じるのは大きすぎる課題となるが、とりあえず一つの特徴として、いわゆる新左翼諸セクト――後から振り返って、実態に即していえば「戦闘的旧左翼[10]」――の役割がよかれ悪しかれ大きかったという事実が指摘できるのではないか。

 「戦闘的旧左翼」は「本来の旧左翼」(日本共産党)同様、規律性を持った組織と体系性を持ったイデオロギーを重視するという特徴をもっていた。これは今から振り返っていうなら「古い」要素である。だが、当時、後につながる「新しい」運動のあり方はまだ十分成熟しておらず、そうした状況下においては、旧左翼――「本来の旧左翼」と「戦闘的旧左翼」の双方――がかなり大きな位置を占めていたという事実も見ないわけにはいかない[11]。「旧左翼」に特徴的な組織性・規律性・イデオロギー的求心性は、運動の準備・組織化・持久性などに関してそれなりの役割を果たした。そうした要素は、当時生まれつつあった「新しい」要素と相容れない要素を潜在的にはらみつつも、当面緩やかな提携関係にあり、そのことが運動の高揚を可能にしたとみることができる。先に述べたように、「呉越同舟」ではあってもとにかく「同舟」だったことがそれらの間に相互接触・相互変容をもたらしていた点も注目される(「旧左翼」の中にも、知らず知らずのうちに「新しい社会運動」的な要素が部分的に浸透していたし、その逆もまたあった)。

 「旧左翼」のうち「本来の旧左翼」(日本共産党)はよかれ悪しかれ、その後も生き延び、現代日本政治に一定の位置を占めているのに対し、「戦闘的旧左翼」は全体として凋落した。そのため、後から当時のことを振り返って考える際には、この要因は視野から排除される傾向がある。確かに、後への発展性が小さかったのは事実であり、今日的観点から復権しようという意図は私にはない。ただ、歴史に即していう限り、その当時における位置は実際問題としてかなり大きなものがあった。そうである以上、その役割と限界、いわば長短ないし功罪を総合的に位置づける必要がある。

 もちろん、「功罪」のうち「罪」の部分が非常に大きかったことを忘れるわけにはいかない。組織性・規律性・イデオロギー性の重視といった特徴は、強みであると同時に弱みでもあり、自己の正しさへの独善的確信、組織指導部から末端への一方的指令などは、周囲の一般活動家を遠ざける要因ともなった。それでも、運動高揚局面においては広汎な大衆運動と結びついて解放的雰囲気を醸し出すことに貢献する面がある程度まであったが、運動後退局面における悪あがきは種々の陰惨な現象をもたらした。その典型が暴力化のエスカレートであり、そしてあまりにも多くの死者・重傷者を出した「内ゲバ」だということはいうまでもない(その他に、運動内部におけるジェンダー・バイアス再生産という問題もあるが、これはこの潮流に固有というよりも、その当時の種々の運動にほぼ共通した現象だったように思われる)。

 こういった一連の問題については、これまでにも多くの人によって繰り返し指摘されており、結論的には動かしようがない。ただ、これまでの議論の多くはややもすれば結果だけを取りあげた外在的指摘にとどまっているように思われる。「負の歴史」をその襞に分け入って解剖する作業は今後の課題として残されている。

 

V ソ連・東欧圏について[12]

 

 先ず、大まかな背景を簡単に確認するなら、この地域における1968年は、「第2次世界大戦後約20年」というだけでなく、むしろそれ以上に「スターリン批判後十数年」という時代状況によって特徴付けられる。1953年のスターリン死去、56年のフルシチョフによるスターリン批判演説を契機とする変化の開始から十数年の経過を経た時期ということである。もっとも、その変化は直線的に進んだわけではなく、巻き返しを含む一進一退だったのは周知の通りである[13]。また、戦後復興が一段落する中で、指令経済の限界が次第にあらわになり、各種の改革の試みが現われたことも重要な背景である。そこにおける各種改革の相互関係――とりわけ経済改革と政治改革の間の照応と緊張――は単線的ではなく、それぞれの国ごとの条件に応じて異なる形で展開したが、とにかくソ連、チェコスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラヴィアその他各国で1950-60年代を通じて種々の動きが進行した。

 こういった背景のもと、1968年の東欧諸国では、チェコスロヴァキアを先頭にハンガリーでもポーランドでも重要な変動が進行した(なお、当時のソ連では体制批判の動きがそれほど活発ではなく、明確な異論派は孤立していたが、それにとどまらない側面もあったことについては後述する)。この過程を全面的に描き出すのは巨大すぎる課題であり、ここでその課題に取り組むことはできない[14]。ここでは、近年の1968年論におけるある種の偏りについて先ず考えてみたい。それは、当時においては最も重要視されていた「社会主義改革」論への関心が昨今ではやや薄れてきているのではないかということである。

 一つの手がかりとして、有名な現代史家トニー・ジャットの記述をとりあげてみたい。彼はある個所で、1968年における西ドイツの左翼とワルシャワやプラハの乖離を強調し、彼らの志向は実は正反対だったと論じている[15]。この指摘は非常に印象的であるため、他の論者たちに強い影響を及ぼしている[16]。これらはどれも短文であるため、含意は十分明確に展開されていないが、《西欧の若者は社会主義を志向していたのに対し、チェコスロヴァキアはそこから離れようとしていた》という対比が示唆されるような書き方になっている。東西ヨーロッパ間のギャップへの注目自体は重要であり、情報不足や誤解の要素が多々あったのも事実である。だが、それをこのように定式化してしまうのは過度の単純化に導くおそれがあり、ミスリーディングではないかという気がしてならない。

 一方からいえば、西欧や日本における当時の左翼運動の多くは「ソ連型ではない社会主義」を志向していたのであって、チェコスロヴァキアがそこから脱却しようとしていたのと同じ意味での社会主義を目指したわけではない[17]。他方からいえば、 チェコスロヴァキアをはじめとする東欧諸国の改革運動の趨勢は、当時はまだ社会主義そのものの否定ではなく、あくまでも社会主義を前提しつつその改革を目指すという性格のものだった。ところが、《西では社会主義志向、東ではその逆》といった単純な対比では、その点が見失われてしまう。

 いわずもがなのことの再確認になるが、「プラハの春」の最大のスローガンは「人間の顔をした社会主義」というものだった。これは、現にある社会主義が「人間の顔」をしていないという糾弾の要素と、社会主義は本来「人間の顔」を持つはずだという期待の両面の込もった表現である。今日の1968年論ではこの言葉が往々にして忘れられている――といって語弊があるなら、少なくとも軽く見られている。それは、後から振り返って、「人間の顔をした社会主義」とか「改革された社会主義」などは幻想的期待に過ぎなかったとする見方が優勢になっているからである。後知恵的にいえば、そういう見方が説得力を持つことは否定しがたい。だが、当時の状況を歴史内在的に理解するためには、そうした後知恵をいったん括弧に入れる必要がある。

 当時のチェコスロヴァキアの人々の意識に関わる貴重な素材として、開放的な雰囲気の中で広く行なわれた世論調査データがある。それによれば、当時のチェコスロヴァキア国民の間にはまだ社会主義への肯定的イメージが広がっていたこと、共産党主導の「上からの改革」への信頼も厚かったことが明らかである。たとえば、資本主義発展の道に入る方がよいか社会主義建設を続けた方がよいかという問いに対して、7月上旬の時点で前者は5%、後者は89%という圧倒的な差があった。集団農業がよいか個人農の優越を支持するかという問いに対しては、前者が62%、後者が20%となっている。政治面についてみるなら、19681月以前の共産党に対しては当然ながら信頼度が低かった(信頼する23%、信頼しない48%)のに対し、7月時点での党に対しては、信頼する51%、信頼しない16%と、逆転している。3月時点での言論の自由への評価は、「十分」という回答が61%に達する一方、「まだ足りない」とするものは14%にとどまる。現状の政党システム――共産党の他、衛星政党として社会党と農民党が存在していた――への評価は高くなく、「共産党の指導的役割」への賛成率は11%にとどまる(反対が83%)が、あるべき野党の性格としては、「共産党と一致する社会主義的プログラムをもつが、その実施において異なる概念をもつ党」が48%、「共産党とは異なる社会主義プログラムをもつ党」が22%で、「資本主義復活を強調する反社会主義綱領の党」を選ぶものは皆無だった、等々である[18]

 先に触れたジャット自身、実は、別の個所ではこういった事実を意識していることを窺わせる記述を行なっている。「一九六八年の学生や作家や党の改革派たちが「ほんとうに」求めていたのは共産主義をやめて自由な資本主義にすることだった、「人間の顔をした」社会主義に彼らが熱狂したのは要するにレトリック上の妥協もしくは習慣に過ぎなかったのだ、などと推測するのはまちがいだろう。それとはまったく反対に、「第三の道」つまり自由な諸制度と共存可能な、集団的な目標とともに個人の自由をも尊重する民主的な社会主義が存在するという考えが、ハンガリーの経済学者のみならず、チェコの学生の想像力を惹きつけたのである[19]」。ここに示されているのは、当時のチェコスロヴァキアで追求されていたのは社会主義の否定(=資本主義化)ではなく、むしろ社会主義理念の再生だったという理解であり、上に触れたような《西では社会主義志向、東ではその逆》といった図式とは相容れない。

 ここにはジャット自身の評価におけるある種の分裂があるように感じられる。この点を理解する一つのヒントとなるのは、もう一つ別の個所にある次のような記述である。「共産主義は改革可能だ、……民主的多元主義の中核にある理想はマルクス主義的集団主義の諸構造とどうにか両立できる――こうした幻想は一九六八年八月二一日、戦車によって蹂躙され、二度とよみがえらなかった[20]」。これは大まかにいえばほぼ妥当な指摘である。問題は、軍事介入によって「幻想」とされたものが、それ以前からもともとそうでしかありえなかったのかどうかという点にある。結果を見た後からさかのぼって考えるなら、それは最初から望みのない期待だったという評価が自然であるように見える。ただ、それはあくまでも後知恵であって、19688月以前には多くの人々はそう考えていなかった。ジャットの書き方がその点を軽く扱っているのは、彼自身が同時代的観察よりもむしろ1980年代以降の認識に基づいて書いているのではないかという気がする。実際、彼の回想によれば、彼は1968年当時プラハやワルシャワで起きていたことについて何の関心も知識もなく、大分後になってからチェコスロヴァキアに関心をいだくようになり、チェコ語を勉強して現地を訪問するようになったとのことである[21]

 今日、多くの論者が「社会主義改革」という契機を軽視しているのは、8月の介入以後の事態、そして何よりも1989年を見た後の地点に立って過去を振り返っているからではないかと思われてならない。今から考えるなら、社会主義改革などというものはそもそも不可能なものであり、そんな馬鹿げたものに期待を託す方がおかしいという見方が自然かもしれない。だが、そのような見地が広まったのは、まさしくこの改革運動が押しつぶされたからであり、それ以前には、まだそうなるかどうか明らかでなく、うまくすれば成功するかもしれないという見方がかなり広く分かちもたれていたというのも歴史的事実である[22]1968年の8月以前というのはそうした期待が広範囲に共有されたほとんど最後の時期であり、8月の軍事介入、そしてその後の「正常化」は、「社会主義改革」への期待に大きな打撃を与えた。この点はソ連・東欧圏における「1968」の意義を考える上で見落とせない重要性を持っている。

 19688月介入を契機とする社会主義改革論の凋落は、1980-81年のポーランド(「連帯」運動)ではもはや「人間の顔をした社会主義」というスローガンが掲げられることはなかったという事実に象徴される。ポーランドでも1968年頃までは、批判的知識人たちの間にマルクス主義の非教条的な解釈およびそれと結びついた社会主義改革論がかなりの程度広まっていたが、学生・知識人たちの運動が鎮圧された後に多くの知識人たち(ユダヤ系の人々を多数含む)が相次いで出国したことは、この国における知識人と労働者の乖離とも相俟って、その後の体制批判運動の主要な流れがもはやマルクス主義再解釈でもなければ社会主義改革でもなく、むしろ社会主義と縁遠いカトリックを精神的主柱としたものになっていくという流れを強めた。

 もう一つの流れとして、軍事介入による改革鎮圧を経験しなかったハンガリーの場合、当時の東欧諸国中で最もラディカルな市場型経済改革を実施することができたが、その実験を十数年進める中で、市場経済を機能させるためには所有改革が不可欠ではないか――ということはつまり、「市場社会主義」ではなく資本主義化の選択を意味する――という考えが広まった。そのことは1989年の本格的体制転換に先だって、事実上それを準備する意味をもった[23]

 もっとも、より丁寧に見ていくなら、社会主義改革という考えが1989年までに完全に消滅したというわけではなく、むしろ1989年前後に短い復活があったというのも興味深い歴史的事実である。チェコスロヴァキアの場合、「プラハの春」のシンボル的存在だったドゥプチェクの短い復活がそれを象徴する。より重要なのは、ソ連におけるペレストロイカの展開である。結果的にはこれも「社会主義改革」として完成することなく、むしろ「脱社会主義」へと行き着いたが、そこに至る歴史過程にはそれなりに興味深い背景があった。あまり広く知られていないことだが、1968年当時のソ連では、軍事介入を正面から批判した人は少数にとどまったものの[24]、それとは別に、秘かに「プラハの春」に共感し、8月の軍事介入を残念に思った人たちが少なくなかった。そうした感覚は当時の条件下では公然と表出される余地がなかったが、20年後には彼らの多くが熱心なペレストロイカ支持者として積極的に発言するようになった。彼らにとって、1968年の軍事介入は「折角の改革の動きを見殺しにしてしまった」という強い悔恨の情を生み出すものであり、そうした悔恨の情がペレストロイカ推進の一つの原動力となったという意味で、1968から1989への一定の連続性の要素を見ることができる[25]。またもう一つの間接的な連関として、プラハに本拠地を置いていた『平和と社会主義の諸問題』誌の編集部には正統派的立場から距離をおいた改革論者が結集しており、その中には、後のペレストロイカのイデオローグとなる人たちが多数含まれていた(チェルニャーエフ、シャフナザーロフ、フローロフ、アンバルツモフ、カリャーキン、ラツィス等々)[26]。特にチェルニャーエフとシャフナザーロフの二人がゴルバチョフの補佐官となったことは、後期ペレストロイカを社会民主主義化の方向に進める上で大きな役割を果たした。

 この点に関連して微妙なのは、他ならぬゴルバチョフの場合である。彼はモスクワ大学の学生だった1950年代前半に、チェコスロヴァキアからの留学生だったムリナーシと親友になったが、そのムリナーシは1968年当時、チェコスロヴァキア共産党中央委員会書記として「上からの改革」を主導する立場にあった[27]。もっとも、大学卒業後の彼らの路は分かれ、交流もいったん途絶えたし、1968年時点でゴルバチョフが体制批判的な態度をとったわけでもないが[28]、やがてゴルバチョフがソ連共産党書記長となってペレストロイカを開始する中で、彼らの交流も復活した。ソ連解体後に二人は長い対談を交わして、共著を出版したが(注27の末尾参照)、そこでは二人とも社会民主主義の立場を明瞭にしている(但し、その成功可能性については、より楽観的なゴルバチョフと悲観的なムリナーシの間にニュアンスの差がある)。

 やや話が広がりすぎたが、とにかくソ連のペレストロイカは「プラハの春」的な社会主義改革を今度こそ成功させようとする志向を初期の原動力としていたという意味で「1968」との間に連続性をもっている。もっとも、ペレストロイカは一貫してそのような性格のものとしてとどまったわけではない。時間の経過の中でペレストロイカはエスカレートを重ね、最終的には「社会主義改革」を超えた「脱社会主義」へと行き着いた。そうした転換はそれとして押さえておかねばならないが、その上で微妙なのは、「脱社会主義」の道筋にも二通りのシナリオが想定されたという点である。上に名を挙げた人たちに即していえば、ゴルバチョフ、シャフナザーロフ、チェルニャーエフらが――後の二人は早い時期から、そしてゴルバチョフは比較的遅い時期に――たどりついたのは、基本的に資本主義システムを受容しつつ、その野放図な展開に政策的歯止めをかけようとする社会民主主義の路線(ムリナーシの考えでもあった)をとろうという考えだった。これに対し、ペレストロイカ末期に急激に高まったのは、社会民主主義を共産主義と同列視して、あらゆる「社会的なもの」を忌避する市場原理主義・ネオリベラリズムの潮流であり(これは当時の世界的風潮でもあった)、これがゴルバチョフ流の改革を押し流したのがソ連最末期の現実だった[29]

 ソ連の最期がこのような形をとったことは、単に「ソ連型社会主義」とか「マルクス=レーニン主義」とかの敗北というにとどまらず、社会民主主義をはじめとする「社会的なもの」を重視しようとする潮流全般の衰弱をも意味した。それから十数年の間、世界的にネオリベラリズム――それと関連して国際政治的にはアメリカの単独行動主義――が制覇するかに見える状況が生まれたのはそのことを背景としている。負けたのは共産主義(あるいは「ソ連型社会主義」)だけでなく、社会民主主義を含めたおよそあらゆる傾向の社会主義総体だったといわざるを得ないような傾向が現出した(日本では共産党よりも社民党の方が壊滅的打撃を被った)。

 もっとも、そうした状況がその後もそのまま定着し、持続しているというわけではない。ソ連・東欧圏解体から20年以上を経る中で、一時的に我が世を謳歌したネオリベラリズムへの批判も高まり、アメリカの覇権も弱まるという新しい状況が生じている。その中で、一部には、忘れられた「社会主義」を再考しようとする動きもみられる。しかし、その際に、かつて試みられて敗北した「社会主義改革論」の歴史が顧みられることはほとんどない。かつてソ連・東欧圏に存在した社会主義については否定的だが、それとは異なるものとして何らかの意味での「社会主義」を考えようという立場をとるなら、かつての社会主義改革の試みおよびその挫折は重要な参照例となるはずだが、そのことは滅多に意識されていない。これも、ソ連・東欧圏に関する「1968」論における「社会主義改革」ファクター軽視と関連しているのではないだろうか。

 

W 歴史における「古い」要素と「新しい」要素

 

 この覚書では、日本については「戦闘的旧左翼」、ソ連・東欧圏については(脱社会主義ならぬ)「社会主義改革」という側面に力点をおいた。これは1968年における「古い」要素への着目ではないかという批評がありうる。確かに、これが全てないし最重要の側面だと主張するなら、その批判は当たっているだろう。しかし、私はそのように主張したいわけではなく、ただ単に、忘れられがちなある側面に注意を促そうとしたに過ぎない。

 「1968」に限らず一般的に歴史というものは、「古い」要素が一方的に減少し、「新しい」要素がこれまた一方的に成長していくというような単純な形で進むものではなく、むしろ両方の要素が複雑にからみあう形で進行する。事後的な観点に立って過去を眺める際には、往々にして「新しい」要素のみが注目され、「古い」要素は軽視されがちであり、それはそれで自然な面があるが、それだけでは当時の状況を全体的に理解することはできない。

 「1968」に即していうなら、そこにおける「新しい」要素については、既に多くの人によって様々な角度から論じられている。「豊かな社会」が到来し(但し、これはいわゆる「先進国」に限っての話)、それに伴って脱物質的な価値が大きな位置を占めるようになったこと、関連して各種の新しいサブカルチャーが登場し、一種の文化変容が見られるようになったこと、古典的労働運動に代わる「新しい社会運動」が前面に立ち現われるようになり、組織のあり方もヒエラルヒー型のものからネットワーク型のものへと重点が移動してきたこと等々である。もっとも、それらがより顕著な形をとるのはもう少し後のことであり、1968の時点ではまだ漠たる予感にとどまったというべきだろう。

 いってみれば、1968年とは、「ポスト近代」的様相が萌芽的に現われつつも、まだ本格的な「ポスト近代」状況にはなっていなかった時期であり、「ポスト近代」前夜的な状況も色濃く残っていた時期だった。今日の「1968」論においては「ポスト近代」に引きつけた議論が優勢であり、それにはそれなりの意味があるが、当時の状況を歴史的に再現する観点から言えば、「ポスト近代」前夜的な状況の側面にも注目する必要があるのではないか。この覚書がそのような側面に力点をおいたのは、そうした考慮による。

 

201811月初稿、20191月一部改稿)



[1] この覚書は元来、20181215-16日に開かれた国際シンポジウム「1968年再考」(東京大学)の組織者に送った小文に基づいている。2日間にわたるシンポジウムのうち総合討論は2日目に予定されていたが、私は別の用件があってその日には出席できないことが事前に確定していたことから、一つの参考資料として書いたものである(覚書は組織者から登壇者たちに送られたとのこと)。それからしばらくの時間を隔てた今回、比較的軽微な修正を施してホームページ上に公開することにした(20191月)。

[2] この点に関しては、小熊英二「「1968」とは何だったのか、何であるのか」『思想』2018年5月号の指摘に同意する(小熊の仕事の全体的評価は複雑な問題だが、後注5・7を参照)。

[3] 私は日本近現代史の専門家ではなく、この主題について研究者として発言する資格はない。他面、当時の運動の当事者の一人ではあるが、ただ単に当事者としての思い出や思い入れを語ろうとするつもりもない。かつて当事者の一員として関わった運動について、距離をおいた地点から、社会科学研究者・現代史研究者として考え直してみたいという気持がこの節の背後にある。といっても、まだ初歩的な問題提起に過ぎず、更なる再検討を必要とすると考えている。

[4] とりあえず、西田慎・梅崎透編『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』ミネルヴァ書房、2015年に収録されている一連の論考、油井大三郎編著『越境する一九六〇年代――米国・日本・西欧の国際比較』彩流社、2012年、また野田昌吾  「「一九六八年」研究序説――「一九六八年」の政治社会的インパクトの国際比較研究のための覚え書き」『大阪市立大学法学雑誌』第57巻第1号(2010)など参照。

[5] 小熊英二『1968』上下、新曜社、2008年。同書に関する私の批評は、塩川伸明ホームページの「読書ノート」欄収録の小文で最初の感想を述べ、その後の再考を「新しいノート」欄収録の再論で述べた。

[6] 小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』新曜社、2018年。同書への私の批評は塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に収録。

[7] かつての運動の当事者たちの間には小熊著への感情的反撥が広がっている。私は同時代人としてその感覚は分からないではないが、感情的反撥にとどまるべきではなく、ひとまず辛口批評を正面から受けとめた上で応答すべきだと考える。なお、小熊はこの旧著で一定の結論を出した後、「日本の1968年についてはもう分かった」と考えたのか、主たる関心を別の方向に移したようで、持続的にこの問題に取り組んではいない。2018年は1968年の50周年であることから、前注1のシンポジウムで基調報告をしたり、前注2の報告論文を書いたりしているが、それはかつて大著を書いたからという理由で引っ張り出されたに過ぎず、彼自身の内発的意欲があったようには見えない。いずれの報告も手際よい整理であり、いくつか面白い指摘もなくはないが、全体として新しい境地を拓こうとする意欲を感じさせるものではないので、ここで取り上げることはしない。

[8] 小杉がその著作で「沈黙」「語りにくさ」に触れているのもこれと関係する。

[9] 小杉著は大勢の当事者にインタヴューすることで、彼らが過去を振り返る端緒をつくった。同書をめぐる読書会(2018914日、東京)には、何人かの当事者世代――当時の立場も、その後の軌跡もそれぞれに異なる――が出席し、多面的な議論が提出された。それ以外にも、近年、関係者たちによる発言の例が徐々に増えつつある。この覚書の準備中に出たものとして、座談会「東大闘争50年:「確認書」の意義と今日の大学」『季論2142号(2018年秋)があり、初稿脱稿後に新たに出た著作として、富田武『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書、2019年)がある。その他、やや特異なシリーズとして社会評論社の「レッド・アーカイヴズ」があり、それ以外にもいくつかの関係文献が出ているし、今後も増えるだろう。一般論として、当事者が後に書いた文献は、その人の個別的な視点からする一定のバイアスを含んだ証言という性格をもつが、後続世代の歴史家たちがそれらを批判的観点から比較吟味するなら、歴史像構築のための有用な素材となるだろう。

[10] 「戦闘的旧左翼」という造語は、大嶽秀夫『新左翼の遺産――ニューレフトからポストモダンへ』東京大学出版会、2007)が「革命的旧左翼」という表現をとっているのに示唆を受けて、それを若干修正したもの。

[11] 大野道夫「『青年の異議申し立て』に関する仮説の事例研究」『社会学評論』第41巻第3号(1990年)は当時の運動を「社会主義運動」と「新しい社会運動」という二潮流に分けて考察し、少なくとも東大闘争においては前者の役割が大きかったとする。ここでいう「社会主義運動」派には新左翼諸セクト(本稿の用語では「戦闘的旧左翼」)と民青の双方が含まれている。

[12] この節の主題は私の専門と関わるため、本来であれば語るべきことは非常に多い。しかし、ここでは限られた視点からの問題提起を試みるにとどまる。

[13] 和田春樹『スターリン批判』作品社、2016年、および同書に関する私の論評(塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に収録)参照。

[14] 1968年チェコスロヴァキアにおける「プラハの春」については数多くの文献があり、その整理自体が一個の研究対象となる。ここでは、やや古いが古典的な大著として、Gordon H. Skilling, Czechoslovakia's Interrupted Revolution, Princeton University Press, 1976, また当事者の一人による興味深い回想として、Z・ムリナーシ『夜寒――プラハの春の悲劇』新地書房, 1980を挙げるにとどめる。長期的な歴史におけるムリナーシの役割については後でも触れる。

[15] トニー・ジャット『ヨーロッパ戦後史』みすず書房、2008年、上、539頁。

[16] ノルベルト・フライ『1968年――反乱のグローバリズム』みすず書房、2012, 190-198頁、西田・梅崎編、前掲書、12, 263-264頁。

[17] 「ソ連型」でない社会主義としての毛沢東主義への親近感が大きかったとする説もしばしば唱えられている(特にフランスでそのような傾向が強かったとされる)。もっとも、これ自体が印象批評の域にとどまっている観もあり、それがどの程度一般的だったかは別個の検討を要する。また、若者たちとは異なる大人の知識人たちの動きの例として、『世界』196810月号に掲載された知識人アピール「チェコ事件について世界の知識人に訴える」は、ソ連とアメリカの双方への批判的姿勢を明示して、社会主義擁護論と一線を画している(このアピールの執筆者は坂本義和であり、後に『坂本義和集』第2巻、岩波書店、2004年に収録された)。

[18] Skilling, op. cit., chaps. XII and XVIIに詳しい。星乃治彦『社会主義と民衆――初期社会主義の歴史的経験』大月書店、1998年、第3章にも同様の調査結果が紹介されている。

[19] ジャット、前掲書、上、563頁(強調は原文)。

[20] 同上、571頁。

[21] トニー・ジャット『記憶の山荘――私の戦後史』みすず書房、2011年、142-144193-201頁。これがどこまで率直な回想なのかには疑問の余地があるが(ジャットと私は同じ年の生まれだが、同時代人として、この回想の記述はにわかに信じがたい思いがする)、それはさておき、とにかく彼が当時は何も知らなかったと書いているのは、その1968年論は同時代の観察に基づくものではなく、大分後になってからの認識を過去にさかのぼらせたものだということを物語っている。

[22] 具体例をいちいち挙げることはしないが、当時大量に出た同時代文献を見れば、そのことは明らかである。

[23] このような考えはハンガリーだけでなく、他の東欧諸国や秘かにソ連の経済学者の間にも広まっていた。W. Brus & K. Laski, From Marx to the Market, Oxford, 1989(ブルス、ラスキ『マルクスから市場へ』岩波書店, 1995年)、Janos Kornai, "The Affinity Between Ownership and Coordination Mechanisms: The Common Experience of Reform in Socialist Countries", in Oleg T. Bogomolov (ed.), Market Forces in Planned Economies, London: Macmillan, 1990など参照。

[24] 松井康浩「ヘルシンキ宣言とソ連・東欧諸国の異論派たち」『ロシア革命とソ連の世紀』岩波書店、第4巻、2017年は孤立した知識人の抗議デモを紹介している。

[25] いくつかの典型例として、Д. Гранин. Письмо в Прaгу // Московские новости, 1989, 48 (26 ноября), с. 6; Отто Лацис, Тщательно спланированное самоубийство. М., 2001, c. 87-152; Len Karpinsky, "The Autobiography of a 'Half-Dissident'," in Stephen F. Cohen and Katrina Vanden Heuvel (eds.), Voices of Glasnost: Interviews with Gorbachev's Reformers, W. W. Norton, 1989など。

[26] Г. Шахназаров. Цена свободы. M., 1993, c. 331; Archie Brown, Seven Years That Changed the World: Perestroika in Perspective, Oxford University Press, 2007, pp. 161-163.

[27] 19684月の「行動綱領」作成の主要メンバーだった彼は、8月の軍事介入後にフサーク指導部への批判的態度を貫いたため、1970年に共産党を除名された。やがて「憲章77」の発起人となり、出国を余儀なくされた後はウィーンを拠点とし、西欧社会民主主義の立場で長らく活動し続け、欧州議会の議員にもなった(1997年死去)。1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長となった直後に、当時まだあまり諸外国で知られていなかったゴルバチョフについて、「自分は彼のことをよく知っている。彼は大きな改革を始める可能性がある」という大胆な予測をして、世界中のソ連ウォッチャーの注目を集めた。Archie Brown, "Introduction," to M. Gorbachev and Z. Mlynar Conversation with Gorbachev: On Perestroika, the Prague Spring, and the Crossroads of Socialism, Columbia University Press, 2002, pp. vii-xxi.

[28] ゴルバチョフ自身による当時の心境の説明は事後的な正当化の要素を含んでいるが、それなりに興味深い証言となっている。Gorbachev and Mlynar, op. cit., pp. 5-6.

[29] ペレストロイカおよびソ連解体については、塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、2010年、「ペレストロイカからソ連解体へ――過程と帰結」東京外国語大学『スラヴ文化研究』第11号、2012年、「一九一七年と一九九一年」『現代思想』20178月号、「ポスト社会主義の時代にソ連と社会主義を考える」『ニュクス』(堀之内出版)第5号(2018年)など参照。