乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊――「第二世界」のポストモダン』講談社選書メチエ、二〇一五年
 
 
     一
 
 近代ロシア文学・思想を専攻する若手の俊秀による野心的な現代ロシア論である。ロシアへの関心が全般的に衰えている現状のなかで、若手による野心的かつ刺激的な著作が出たことは大いに歓迎される。とはいえ、私は本書を論評するのに適任ではなく、この小文を書き始めてからも戸惑いと躊躇いが消えない。
 本書の大まかな概要を、不正確のそしりを恐れず敢えて単純化して言うなら、広義のポストモダン哲学・思想の観点に立って、後期ソ連から現代ロシアに至る様々な著作家――文学者・哲学者・思想家・批評家・記号学者等々――の仕事を紹介し、それを通してロシアの現代を考えようとした著作とでも言えるだろうか。これに対し、私はそもそもポストモダン哲学・思想なるものに「なかなか飲み込めない」という印象を拭えないし、本書で取り上げられている多数の論者たちの作品にもあまり通じていない。にもかかわらず本書が気になるのは、その対象である後期ソ連から現代ロシアという時期が私の研究対象と重なるからである。いってみれば、著者と私は比較的似た対象について、大きくかけ離れた観点・方法から接近しようとしているという関係にある。社会科学および歴史の観点と文学批評・哲学・思想の観点がすれ違うことは、それ自体としてはやむを得ないことである。私は本書のあちこちに疑問や違和感を覚え、ところによっては不正確ではないかと感じたりするが、その大部分は著者にとってはあまり重要でない第二義的な個所だろうと思われ、そういう個所について重箱の隅をつつくような批判をしても大した意味はないと感じる。他方、著者自身が最も力を込めているらしい個所の多くは、私には「よく分からない」というしかない。こういうわけで、なかなか論じにくい相手なのだが、それでもいくつかの点で、多少なりとも触れあうところがないわけではない。
 著者自身の狙いはどうあれ、本書はかなり長いタイムスパンをとり、様々な世代の人々を登場させている。また、主要対象はロシアだが、随所で欧米諸国や日本の例を引き合いに出して、共通性や差異について論じている。その意味で、本書には歴史・世代論・比較現代社会論などといった性格があり、それらは社会科学にとっても重要なテーマである。ただ、社会科学の書物と違って、それらをあまり体系的に論じようとしないため、どう受け止めてよいのかに戸惑いがつきまとう。
 いうまでもなく、広義のポストモダン哲学・思想*1は、欧米諸国や日本でもここ三、四十年ほどかなり流行している――流行最盛時からかなりの時間が経って「もう古い」とされることも多いが、それでも結構根強い人気を保っている――潮流である。そういう観点に沿って考えるということは、ソ連およびロシアをそれだけで孤立した主題とするのではなく、他の諸国と共通の土俵で考えようとする試みのように受け取れる。他面、本書はロシアという国の特殊性の解明を主要課題としているかにとれるところもあり、他国との共通性と独自性とをどういう連関で理解しているのかが分かりにくい。
 また、後期ソ連と現代ロシアを一書で論じる場合、「ソ連」と「ロシア」の異同――両者は基本的に異なる存在なのか、それともむしろ連続性の方が大きいのか――という大問題がある。更に、「後期ソ連」は「ソ連」の一時期ということに尽きるのか、それともむしろ「典型的なソ連なるもの」とは異なりつつあったと見るべきか、「後期」のうちの「最末期」(ペレストロイカ期)はどうか等々、いくつもの難問がある。本書は各所でこうした問題に関連する示唆的な記述をしているが、それをどう受け止めるべきかについてあまり明確な説明はなく、多くが読者の解釈に委ねられているように見える。
 
     二
 
 一つの具体的な手がかりとして、ユルチャクという論者を取り上げてみよう。彼の名前は本書の各所で繰り返し論及されており、著者にとってかなり大きな位置を占めていることが明らかである。他方、彼は本書の登場人物たちの中では相対的に社会科学に近く、私にも比較的近い感じがあって、その意味でここに取り上げるのに適した例である。簡単に経歴を記すと、ブレジネフ期ソ連で育ち、ソ連最末期に出国してアメリカに渡り、アメリカで人類学者となった後、何回か祖国を訪れて、人類学者としてのフィールドワークを行なった成果に基づいて、『無くなるまでは永遠だった』という意味深長なタイトルの本を書いた*2。この著作は日本のロシア研究者にもかなり注目されており、私自身もかつてかなり詳しく論じたことがある*3。その観点を簡潔に要約するなら、ソ連における公的言説は真か偽か、また人々はそれを信じていたのか虚偽と見なしていたのかという二項対置自体を無効とし、むしろ儀礼として公的言説を一応受容することが、それによって規定し尽くされない領域での自発的かつ有意味な活動を可能にしていたというものである。公的言説の真偽を問題にしない「普通の」人々は、熱心な「真の信者」(確信的な体制派)と異なることはもとより、「虚偽」を告発する確信的な反体制派――ソルジェニツィン、またチェコスロヴァキアのハヴェルの名がすぐ思い浮かぶ――とも異なっている。このようなユルチャクの見方は、イデオロギーの儀礼化が進行した後期社会主義時代を理解する上で示唆するところが大きい*4
 ユルチャクの仕事を高く評価する点で著者と私は合致しているが、それをどのように位置づけるかについては微妙な問題が残る。一つには、ユルチャク自身、こうした特徴をソ連だけのものとするのではなく、アメリカを含む現代社会の一般性として考えているようにとれるところがある。だからといって、アメリカもソ連も同じだなどという乱暴な話をしているわけではなく、ソ連――とりわけブレジネフ期のソ連――の固有の特徴に注目しながら論を進めているのだが、そこにおける基本的なものの見方には、ソ連を過度に特殊視しない観点があるように思われる。著者もこの点にある程度触れてはいるが、あまりその問題には踏み込んでいないような印象を受ける。というのも、「ロシアは西側*5にとって他者である」という物語が本書の主要なモチーフとなっており、それが「第二世界」という言葉――おそらく欧米諸国を「第一世界」と見なしているのだろう――に象徴されていることから、ロシアと欧米諸国は並列というよりは対置の関係にあるかの印象が生じるからである。
 といっても、著者がロシア/ソ連を比較不能の特殊性一色で描いているというわけではない。この点で一つ興味深いのは、日本との類似性の指摘である。これは重要な指摘だと私も思うが、問題はそれをどういう文脈におくかである。日本もアメリカもソ連も広い意味での現代社会として、個性的差異を含みつつも一つの視野の中に収められると見ているのか、それとも日本とロシアはともに後発国として括られ、欧米諸国ないし「西側」と対比されるのか、両様の解釈ができるが、どちらかといえば後者の方に傾斜しているような印象がある。「モダンが確立しないまま、プレモダンがポストモダンに直結してしまった」とか、「近代自体が借り物だった日本やロシア」といった表現にそれは現われている(三三、三五頁)。いってみれば、「先進国」に対比される後発国の一般性という観点である。確かに、これはこれで興味深い観点であり、私もかなりの程度同感する*6。だが、それが全てなのか、いわゆる「先進国」――この概念も突き詰めて考えようとすると厄介な問題が出てくるが、西欧および北米諸国が主として念頭におかれる――とは完全に無縁なのかという問いである。
 また、先の命題は、「プレモダン→モダン→ポストモダン」という順序が典型としてあり、日本やロシアはそこからの逸脱だという捉え方にもとれるし、そもそもそのような直線的順序を典型として想定すること自体に問題があるという捉え方のようにもとれる。私自身は第二の解釈の方に共感するが、著者の真意がどこにあるのかは読み取りにくい。
 
     三
 
 本書の一つの特徴は、世代論について考える上での重要な素材を提供している点にある。書物の冒頭には「主要人物一覧」があり、それぞれの生年が明示されている(但し、何人かは「生年非公表」となっている)。相当大勢の人が挙げられているので、本来なら五つぐらいのグループに分けるべきだろうが、それでは話が細かくなりすぎるので、あくまでも便宜的にだが、三つぐらいの世代に分けてみたい。当然ながら、世代で全てを割り切ることができるなどと言いたいわけではない。同世代の人たちがみな同じ特徴を共有しているなどという乱暴な議論ができないことは自明である。その上、これだけ多くの人々を三グループにまとめてしまうのは、相当な無理を伴うし、ある世代と次の世代の中間に当たる人など、どちらに属すると定めがたい場合もある。そういった点を留保した上で、一応大雑把にいうなら、年長世代(一九二二年生まれのロトマンとジノヴィエフ、三〇年生まれのママルダシヴィリ、三三年生まれのカバコフら)、中間世代(一九四六年生まれのポドロガとグトコフ、四七年生まれのグロイス、四八年生まれのルイクリン、四九年生まれのヤンポリスキー、五〇年生まれのエプシュテイン、五三年生まれのゲニス、五五年生まれのエトキント、六〇年生まれのユルチャクら*7)、新世代(一九六四年生まれのアロンソンとリポヴェツキー、六五年生まれのクーリツィン、七四年生まれのマグーンら)となる(なお、これらの登場人物の一部は、いろいろな時期に出国して、アメリカなどで著作活動を営んでいる)。
 無理を承知の分類だが、こう分けてみると、ある種の大まかなイメージのようなものが浮かんで来る。先ず年長世代は、一九五六年のスターリン批判および六〇年代の相対的言論統制緩和の時代を青年ないし中年初期に経験しており、しばしば「六〇年代人」と呼ばれる。乱暴にいうなら、若い時期に「非スターリン化」「社会主義改革」への夢をいだき、それが窒息させられてからも秘かに夢を暖め続けた人たちであり、八〇年代後半に壮年に達した彼らは、ペレストロイカ初期から中期にかけての言論活性化を牽引した。ゴルバチョフその人も、その側近たちもこの世代に属する。
 これに対し、中間世代の場合、言論統制の一時的緩和から再引き締めに転じた六〇年代末――その象徴はチェコスロヴァキアへの軍事介入(一九六八年)――以降に青年時代を送っており、いわば「しらけた」世代とでもいったところがある。ペレストロイカ期にもまだ若かった彼らは、年長世代の希望をそれほど本気では共有せず、いわゆる「改革」の動きに対しても冷めた態度をとることが多かった。そして彼らはペレストロイカ末期になると、体制内改革の枠をはみ出した独自行動を取るようになり、それがソ連解体後の資本主義ロシアを形づくることになる。
 新世代は中間世代よりも更に若く、ペレストロイカ以前のソ連をほとんど覚えていないことはもとより、ペレストロイカも自分自身の直接的な経験ではなかった。つまり、ほぼ完全に「ソ連以降」の世代ということになる。
 こういう風に考えると、ロトマン(年長世代)とユルチャク(中間世代と新世代の中間)が相通じるものをもちながらもすれ違ってしまうという著者の議論(第二章)は、わりと納得しやすい。ついでにいえば、著者は新世代、私自身は中間世代に属するが、このことも著者と私の感覚の違いをある程度説明するだろう(もちろん、「世代が違うから話が通じない」などと言いたいわけではなく、パースペクティヴの違いを踏まえた上で、隔たりを超えたコミュニケーションを試みたいという趣旨である)。
 その上で、多少の疑問もないではない。著者は本書の各所でバーリンの「二つの自由」論を引き合いに出して、論を進めている。バーリンの議論は広く知られているところだが、簡単にいうなら、自己決定に内実を与えるものと想定された「積極的自由」は理念に基づく「われわれ」の強圧的統合に吸収されるおそれが大きく、それよりも権力からの自由を中軸とする「消極的自由」の方が重要だという考えとでも要約できるだろう。全ての自由主義者がこのように考えるわけではなく、これはバーリン一流の個性的なリベラリズムだが、とにかく重要な問題提起として多くの人々に広汎な影響を及ぼしてきた。
 本書はこのような「二つの自由」論を踏まえて、ロトマンは「消極的自由と積極的自由を分離しえないひとつのプロセスとして捉えていた」という(七九頁)。おそらくロトマンの解説としてはこれは当たっているのだろうと思われるが、バーリンにおいては二つの自由はあくまでも区別されるべきものだったから、ロトマンの自由理解はバーリンとは食い違っているということになる。他方、ユルチャクの考えは、本書の表現では「ミニマルな消極的自由」とされている(六六頁)。これはなかなか巧妙な表現であり、私自身も似た考えに傾く。しかし、バーリンの「消極的自由」は、その言葉遣いにもかかわらず「これこそが積極的自由よりも重要だ」という――その意味では積極的な――意義を付与されているのに対し、ユルチャクはそういう意義づけを敢えてしようとしないのだから、これはバーリン的な概念とは明らかに異なる*8。こうみてくると、二人の論者の考えを説明する上で、バーリンの用語はある程度役に立つ面があるものの、両者ともバーリン自身の考えとはかなり隔たっているということになる。そのこと自体は驚くに値しないことかもしれないが、バーリン的な構図は本書の主要登場人物にそのままは当てはまらないということをもっと明確にしておいた方がよいのではないかとの印象をいだいた。
 
     四
 
 もう一人別の例として、サカルトヴェロ/グルジア/ジョージア*9出身のママルダシヴィリという哲学者を取り上げてみたい。この人は哲学の世界では旧ソ連圏の内外を問わず相当有名なようだが、哲学に通じていない読者たちにはあまり知られていないだろう。私も彼の哲学そのものについては全く不案内だが、いくつかの断片的情報に接して、ある程度興味をいだいていた。先の分類でいえば、彼は年長世代ないし「六〇年代人」に属する。そのことは本書でも簡単に触れられているが、それに続く個所には、次のようにある。「『哲学の諸問題』の副編集長を務めるなどしたが、停滞期には不遇をかこつことになった。大学や研究機関に定職をもたず、発表媒体にも恵まれない境遇のなか、……」(一四六頁)。この書き方からは、公的機関に位置を占めることなく、「フリーの」著作家として活動していた人のようなイメージが生じる。しかし、いうまでもなく、ペレストロイカ以前のソ連において、どこにも所属しない「フリー」としての生き方が可能だったわけではない。どちらかというと不遇で、陽の目を見にくい人たちといえども、ともかく生きて活動していたからには、何らかの公的機関に籍を置いていたはずである。
 私も彼のことをそれほどよく知っているわけではないが、ママルダシヴィリの追憶に捧げられた公式ウェブサイトのうちの日誌の項に基づいて、彼の経歴を簡単に追って見ると、モスクワ大学の大学院で学んだ後、一九五七‐六一年に『哲学の諸問題』編集部員、一九六一‐六六年にはプラハの『平和と社会主義の諸問題』編集部に勤め、この時期に西欧とりわけフランスを何度も訪れ、アルチュセールの親友となったほか、サルトルをはじめ多くの西欧知識人と知り合った。一九六六‐六八年にはソ連科学アカデミー国際労働運動研究所の部長、六八‐七四年に『哲学の諸問題』副編集長、七四‐八〇年に自然科学・技術史研究所の上級研究員、八〇‐九〇年にはグルジア科学アカデミー哲学研究所の部長として勤め、この間、モスクワ大学などでしばしば講義を行なっている*10。なお、プラハの『平和と社会主義の諸問題』編集部には、ルミャンツェフ編集長の下に、チェルニャーエフ、フローロフ、アンバルツモフ、カリャーキン、ラツィス等々、後のペレストロイカのイデオローグとなる人たちが多数集まっていた*11。彼らは体制主流のイデオロギー官僚からはうさんくさく見られる立場にあったが、ソ連国外への「島流し」にあいながら、後に結実する理論的営為を続けていた。ここに名を挙げた人たちのうちのフローロフは、『哲学の諸問題』編集長を経てゴルバチョフ期に『プラウダ』編集長となる人物だが、ママルダシヴィリが同誌の副編集長になったのは、プラハでの縁のあったフローロフの引きではないかと思われる。また、国際労働運動研究所は名称からするといかにも公認イデオロギーの牙城のような印象を与えるが、実際には、ゴルドン、ナジーモワ、カリャーキンなど、いわゆる「改革派」系の知識人をかかえていた。こう見てくると、ママルダシヴィリの経歴は、ブレジネフ期のソ連で非主流ながらそれなりに公的な機関に一定の位置を占め、ペレストロイカ期に活躍する「六〇年代人」たちと重なるところが多いといえる。
 ペレストロイカ期になると、ママルダシヴィリは専門の枠を超えた社会的発言をするようになった。中でも注目されるのは、グルジアの野党勢力の間の「内ゲバ」に心を痛め、民族運動の過激化が権威主義化の兆しを見せたことに警鐘を鳴らしていた点である。日本ではあまり知られていないが、一九八九年四月のトビリシ事件以後のグルジアでは、多数の野党の競合状態が生じ、それらはどれもグルジア独立を目指す点では共通しながら、相互に激しい非難を投げつけあい、遅い時期になると暴力的衝突を繰り返し、そのうちの一派(ガムサフルディアの率いる「円卓会議=自由グルジア」)が政権をとってからは他の諸政党を激しく弾圧して、共産党時代と見まがうような権威主義的統治を布くようになった。そういう中で、比較的早い時期のママルダシヴィリの発言はグルジア人民戦線の創立大会について、民主的方法でもって非民主的な状態が現われたとの懸念を示した*12。政治情勢がより緊迫した一九九〇年秋の発言では、一部の民族運動活動家たちが他者の発言を封じようとしていることを指摘し、どうしてヘルシンキ運動を名乗る人権活動家〔ガムサフルディアを指す〕が市民的権利侵犯の体系に入ってしまい、人権の理解を欠いているのかと問いかけた。世論調査からしてガムサフルディアがグルジア大統領に選出される可能性が高いが、もしそうなったなら私はわが人民に反対しなくてはならなくなる、グルジア・ショーヴィニズムが鼓吹されている現状は嘆かわしい、と彼は述べた*13。人類学者のティシコフは一九九〇年代刊行の論文集への序文で、旧ソ連各地で新たな独裁への傾向が進行していると指摘する中で、故ママルダシヴィリはウルトラ・ナショナリストのガムサフルディアが権力の座に押し上げられる中で大衆を捉えたユーフォリア(多幸症)を共有しなかった稀有な人だと述べている*14。シェワルナゼの回想は同様のことを指摘した上で、ママルダシヴィリは一九九〇年一一月にパリからモスクワ経由でトビリシに向かう途上の空港の待合室で亡くなったが、彼は心臓病よりも、同郷者たちからの敵意に、より強く苦しんだだろうと書いている*15
 いま紹介したのは、ママルダシヴィリの哲学思想とは直接関わらない、どちらかといえば外面的な経歴や社会的発言だが、本書で描かれている哲学者としてのママルダシヴィリ像とは、少なくとも表面的には、あまりぴったり重なり合わないようなところがある。それでも同じ人物である以上、この両面をどのようにして接合することができるのかを考えなくてはならないが、それは今後の課題だろう。
 
     五
 
 本書は全体として社会や政治の全体的な動きよりも知識人たちの言論や思想に力点をおいた書物だが、「はじめに」は「一九六八/一九九一年の亡霊」と題され、この言葉が本文の各所でもときおり引き合いに出される形になっている。「一九六八/一九九一年の亡霊」というのは歴史家にとっても興味を引くテーマだが、この言葉で何を意味しているのかがあまり明確に説明されていないため、隔靴掻痒の感をいだかされる。まず「一九六八年」についていえば、雑多な要素を含んだこの年の諸現象のうちのどの要素に着目し、それをどう捉えるのかが問題となるが、本書ではそうした議論はほとんど行なわれていない。もっとも、「一九六八年」は本書の中でそれほど大きな位置を占めていないから、ここで立ち入る必要はないだろう*16
 もっと引っかかるのは「一九九一年」の方である。これについてもあまり明確な説明はないが、あちこちの断片的な言及から、この年に東西対立が終わったと考えられていること、そして一九八〇年代後半のペレストロイカで燃え上がった権力批判の動きが九一年のソ連解体で成就したと捉えられていることが窺える(三‐四、一七頁など)。しかし、当時の歴史を跡づける観点からいえば、これは非常に大きな問題をはらんでいる。東西対立の終焉は、ベルリンの壁開放からマルタ会談(米ソ両国首脳の共同会見で冷戦終焉が宣言された)に至る一九八九年が頂点だったし、ペレストロイカの中での在野大衆運動も一九八九‐九〇年頃がピークで、その後は飽和感覚や疲労が広まり、目前の生活難に追われる日常生活の中で、むしろ退潮していった。一九九一年八月のクーデタ時には一時的に「反クーデタ」の大衆運動が高揚したとはいえ、それはごく短期的なものにとどまった。一二月のソ連解体は大衆運動の産物ではなく、むしろ大衆運動退潮後のアパシーの中で、少数の権力者間の抗争の産物として起きた。
 一九八九年と九一年はわずか二年の違いだから、その時期のことを専門的に研究する歴史家以外の人にとって、その程度の差はどうでもいいことと思われるかもしれない。ここで問題としたいのは、単に「八九年か九一年か」ということではなく、冷戦終焉および体制改革(脱社会主義)ということと国家の解体とは別の次元にあり、前者が後者を生んだわけではないということである*17。それなのに、あたかも権力批判の大衆運動がソ連解体をもたらしたかのような誤解が広まっていることは、一九九〇年代の理解に歪みをもたらし、それがひいては二一世紀以降の新しい動向を適切なパースペクティヴにおくことをも妨げている。
 本書は文学・思想の書であって社会や歴史の書ではないが、それでも後期のソ連(ブレジネフ期)およびペレストロイカ期については、思想や言説の背景としての社会状況もある程度解説されている。ところが、一九九〇年代については、個々の著作家の発言が紹介されるにとどまり、社会全般の動向はほとんど触れられていない。そして、一九九〇年代の説明抜きに二〇〇〇年以降の社会政治情勢に飛んでいるため、あたかも「現代のロシア」はプーチンとともに突然現われたかのような印象が生じてしまう。マスコミなどでの通俗的な時事解説では、ロシアはプーチン時代になって突然権威主義化し、欧米と対決的になったかに描かれることが少なくない。専門的にロシアのことを追っている人たちにとっては、これはあまりにも大雑把なイメージであり、エリツィン時代に既に権威主義的統治様式への傾斜やNATOとの対立が進行していたことはよく知られているのだが、本書における現代ロシアの政治的側面への中途半端で不用意な言及は、ジャーナリズムでかきたてられている通俗的イメージを増幅することになりかねない*18
 社会や政治の動向を論じるのが著者の課題ではないのだから、一九九〇年代から二〇〇年以降への変化ということについてあまりこだわる必要はないかもしれない。ただ次の個所だけは、本書の主題と密接に関連するものとして、多少立ち止まってみるに値する。それは一九九〇年秋に開かれたある国際会議でソ連と欧米の知識人たちが意見を交わしたところ、意外な見解の違いが表面化し、参加者たちに大きな衝撃を与えたという記述である(一七九‐一八二、二〇四‐二〇五頁)。これは非常に興味深いエピソードである。ペレストロイカ進行の中で、ソ連の知識人たちは欧米の理論を吸収し、欧米の理論家たちもソ連の改革に期待して、両者の合流が新しい展望を切り開くのではないかとの期待が広まったのも束の間、両者の間の意外な溝が露わになり、当事者たちに冷や水を浴びせることになったというのは、大変刺激的な話であり、現代世界理解にとって重要な難問の所在を示す。実は私自身も、まさに同じ一九九〇年に訪ソしてソ連の知識人たちと話し合ったときに、ここに描かれているのと似たすれ違いを感じた経験があり、本書を読みながらそのときの記憶がよみがえった。
 問題は、本書におけるこのエピソードの叙述が、二〇〇六年に行なわれた座談会における回顧的発言に依拠していることである。二〇〇六年といえば、一九九〇年から一六年も隔たった時点である。十数年というのは決して短い時間ではない。その間にいろいろと新しい出来事が起き、当事者たちもいろんな経験をする中で考え方が変わった面もあるだろうし、そのことを通して過去の記憶も気づかないうちに変容していた可能性がある。一九九〇年の国際会議の場で当事者間に起きた意見対立や混乱は、その時点では未整理で、もっと混沌としていたと見る方が自然だが、十数年の時間を経てからの発言は、それをすっきりとした形で整理してしまっているのではないか――一種の「後知恵」効果――という気がしてならない。一九九〇年の国際会議の模様をその時点での記録に基づいて整理し、それが十数年の経過を経る中でどのように振り返られるようになったかを考えるという手順が必要なのではないだろうか。
 
     *
 
 予め危惧していたように、外在的な感想と批評に終始してしまったような気もする。著者と私の専門および世代の隔たりから、それはある程度までやむを得ないことかもしれない。そうした隔たりを意識しつつも、それを超えた対話――一種の「異種格闘技」――を試みた小文として、なにがしかの意義をもちうれば幸いである。
 
(二〇一六年一〇月)

*1 「広義」というのは、そこにかなり雑多な要素が含まれることを念頭におくからだが、そうした多様な諸要素をどういう風に腑分けしたらよいのかも、なかなかの難題である。なお、私のホームページの「読書ノート」欄には、金森修著、ソーカル=ブリクモン共著、またド・マン論争など、若干の関連原稿がある。
*2 Alexei Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation, Princeton University Press, 2006. 半谷史郎氏による邦訳が準備中である。
*3 塩川伸明「《成熟=停滞》期のソ連――政治人類学的考察の試み」(東京外国語大学)『スラヴ文化研究』第九号(二〇一〇年)。
*4 イデオロギーの役割およびその時間的経過の中での変化について、塩川伸明『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、第U章参照。
*5 ついでながら、本書を離れた一般論だが、「西側」という用語法について触れておきたい。冷戦期には「東西両陣営の対立」という見方が有力であり、そうした対峙の一方を「西側」と呼ぶのは常識的な用語法だった。だが、その意味での「東西両陣営」が無くなった冷戦後に、まだ「西側」という言葉が使われているのはどういう意味なのか、そこには「西欧」と「ロシア」を文明論的に対置する発想があるのか、そうだとしたら、キリスト教圏でない日本はどう位置づけられるのか等々、多くの疑問がある。にもかかわらず、多くの人が「西側」という言葉を使うこと――そして日本を「西側」のうちに含めること――に躊躇いを感じないのはどうしてだろうか。本書の場合、「西側」という言葉は前半ではあまり頻繁に出てこないが、終わりの方では頻発され、「ロシアvs西側」という二項対置が前景化するような印象を受けた。ともかく、私自身としてはこの言葉は避け、「欧米諸国」ないし類似の表現をとることにする。
*6 前注で述べたことと関係するが、もしこのような観点に立つなら、日本は「先進諸国」と区別される「後発国」であり、その意味で「西側」には含まれないということになるはずである。
*7 ユルチャクは新世代に入れてもよいのだが、やや「ませている」感じがあることから、とりあえず中間世代の方に入れてみた。所詮は便宜的な分類なので、どちらでなくてはならないということはない。
*8 私は三〇年ほど前の旧著で、スターリン期ソ連に「ある種の自由」が残されていたと書いたことがある。『「社会主義国家」と労働者階級』岩波書店、一九八四年、終章、『ソヴェト社会政策史研究』東京大学出版会、一九九一年、第九章。そこには幾重もの留保を付け、公的に確認された権利としての自由ではなく、体制の論理の逆説的な結果として残されていたカッコ付きの自由に過ぎないことを強調しておいたが、それでも「自由」という言葉を使っただけでスキャンダラスな反応を招いてしまった。その当時、ロシアとイギリスの思想史に通じた故・今井義夫から、塩川のいう「ある種の自由」はバーリンのいう「消極的自由」に当たるのではないかと質問されたことがあるが、その問いに対して私は、自分のいう「ある種の自由」はバーリンの消極的自由よりももっとずっと消極的な自由だと答えた。ユルチャクの「ミニマルな自由」も、これに類似した性格のもののように思われる。
*9 「サカルトヴェロ/グルジア/ジョージア」という面倒な書き方をすることについては、私の小文「「サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)」と「ハイアスタンあるいはハヤスタン(アルメニア)」 」(私のホームページの「新しいノート」欄に収録)参照。なお、「サカルトヴェロ」は国名であり、民族名は「カルトヴェリ」なので、ママルダシヴィリは現地式には「カルトヴェリ人」ということになる。本文では、以下、便宜上「グルジア」と記す。
*10 http://mamardashvili.com/chronicle.html
*11 Г. Шахназаров. Цена свободы. M., 1993, c. 331; Archie Brown, Seven Years That Changed the World: Perestroika in Perspective, Oxford University Press, 2007, pp. 161-163.
*12 Комсомольская правда, 21 июля 1989 г., с. 2.
*13 Московские новости, 1990, 37 (16 сентября), с. 7.
*14 Valery Tishkov, Ethnicity, Nationalism and Conflict in and after the Soviet Union: The Mind Aflame, London: Sage Publications, 1997, p. xiv.
*15 Эдуард Шеварднадзе. Когда рухнул железный занавес. Встречи и воспоминания. М., Издательство "Европа", 2009, c. 253.
*16 熟さない試論=私論だが、「歴史の中の一九六八年」という小論を私のホームページの「新しいノート」欄に載せてある。
*17 詳しくは別個に論じなくてはならないが、とりあえず塩川伸明「ロシア革命百周年を前にして――ソ連国家の終焉過程」『学士會会報』第九二一号(二〇一六年一一月)参照。
*18 本書の主題でない事項についてあれこれの不正確さをあげつらっても仕方ないが、二〇一四年の「マイダン革命」で倒されたヤヌコヴィチ政権を「親ロシア政権」の一語で片付けている点についてだけ、一言触れておく。このような特徴づけが安易に過ぎることは、松里公孝や服部倫卓の一連の論文で詳しく論じられている。