《書評》
松元雅和『平和主義とは何か――政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書、二〇一三年
 
 
 《戦争と平和》という主題がきわめて重要なものであり、多くの人々の関心の対象となっていることは、改めて確認するまでもない。近年では正規の戦争という形をとらない軍事力行使がむしろクローズアップされる傾向があり、そのことを念頭におくなら「軍事力の行使と非行使」という風にでも定式化した方がよいかもしれないが、あまり見慣れない表現をとる代わりに、常識的な「戦争と平和」という言葉遣いで新しいタイプの軍事紛争をも含んで考えることには十分な意味があるだろう。この問題が国際政治や軍事・外交といった分野で現実政治の事例に即して広く論じられているのはいうまでもないが、事柄が深刻であるだけに、思想や哲学などといった、やや抽象レヴェルで物事を考える人たちもしばしばこの問題に引きつけられているようである。本書もその一例であり、「政治哲学で考える戦争と平和」という副題はその狙いをよく示している。
 多くの人の関心を引く主題であるだけに、類書も数多い。私はその種の議論をある程度追ってきたとはいえ、その全容をフォローしているわけではなく、研究史の中での本書の位置のようなことについて何かを言おうとするつもりはない。ただ、素朴な読後感として、全体として明快な文章で書かれていること、また結論を急がず、丁寧に対話を心がける論じ方をしている点には好感をいだくことができた。
 
     一
 
 著者は先ず、一口に「平和主義」といっても、その内実は多様であることを指摘し、それらを強度と範囲の観点から分類して、結論的に「絶対平和主義」と「平和優先主義」の二類型を提示している。そのどちらか一方が正しいというようなことを著者が説いているわけではない。だが、どちらかといえば前者はよく知られてきたのに対し後者はあまりよく認識されていないという差があり、また個人的信条の観点でなく政治的選択の観点に立つなら後者の方が有意味性が高いとして、相対的な軸足を平和優先主義の方におくというのが、第一章における立場表明である。
 これは十分理解できる考えであり、私自身も多くの点で共感する。その上でちょっとした我流の補足を加えるなら、平和優先主義の絶対平和主義との違いは、状況によっては「この場合は例外的に暴力を認めざるを得ない」という判断を下すことがありうるという点にある。そのこと自体は不可避だとして、いろんな場面で次々とそうした「例外」を認めるなら、事実上、いつのまにか非平和主義に移行してしまう可能性もないとはいえない。そのことを念頭におくなら、絶対平和主義的心情は、そうなることへの歯止めとしての意味を持ちうるのではないだろうか。「絶対平和主義は駄目だ」とあっさり決めつけて、「だから平和優先主義しかないのだ」と結論するか、それとも、現実世界では平和優先主義をとるしかないにしても、それをできる限り絶対平和主義に近づけて実践しようと考えるか――ここには微妙ながら重要な差があるように思われる。
 著者は次いで平和主義を「義務論」の観点と「帰結主義」の観点に分けて検討している(第二、第三章)。このような議論の立て方は、いかにも政治哲学の専門家にふさわしいもので、手際のよい論述がなされている。この二つの観点は異なるものだが、相互排斥的というわけでもなく、むしろ両面から考える必要があるというのが著者の考えであるように見える。ある特定の原理で全てを割り切るのではなく、多面的に考えていこうとする姿勢には共感することができる。
 このように平和主義の内実を分析してきた著者は、次いで、正戦論、現実主義、人道的介入論という三つの議論を取り上げて、それらとの対話を試みている(第四‐六章)。自己の主張と異なる見解に対して、それらを頭から退けるのではなく、粘り強く対話しようと試みる態度にも共感を覚える。その対話の細かい内容にまで立ち入るつもりはないが、大まかな感想として、啓蒙的小著にしてはかなり高い水準に達しているのではないかと思われる。
 小さな疑問を記すなら、これら三つは「非平和主義」として位置づけられているが、そう言い切ってよいのだろうか。もし「平和主義」の語で絶対平和主義を念頭におくなら、これらがそれに反対の立場だというのは明らかであり、その意味で「非」の語を使うのは正当だろう。だが、著者はどちらかと言えば平和優先主義を重視している。そして、平和優先の考えと正戦論、現実主義、人道的介入論とは常に矛盾するとは限らないように思われる。「軍事力行使は原則としては好ましくないものだが、特定の場合に限り、やむを得ず正当化される」という発想がその底にあるとすれば、それは平和を「優先」していないとは言い切れない。著者がこれらと対話を図っているのも、相手がむやみな好戦論者ではないことを認めているからだろう。だとしたら、それらを一括して「非平和主義」と呼ぶのはややミスリーディングではないかという気がする。
 あるいは、ただ単に一般論として「できれば平和の方が望ましい」と言うだけでは平和を優先したことにならず、「少なくともこの程度にまで優先しなくては平和優先主義とは言えない」という基準のようなものがあるのかもしれない。その基準がどういうものであるかが本書で明示されているわけではないが、そうした論点を意識させること自体が本書の功績なのかもしれない。
 
     二
 
 以上では、簡単に本書の全体像を概観したが、以下、特に目にとまった個所を二、三取り上げてみたい。
 先ず、市民的防衛による非暴力抵抗について述べた個所がある(一六六‐一六八頁)。日常生活のあらゆる場面において侵略軍に対する軽蔑や嫌悪、非協力の姿勢が広範に示されるなら、統治の試みは空転し、占領は侵略国にとって高くつく政策となる、という指摘である。このような抵抗が常にうまくいくという保障があるわけではないが、かといって軍事的抵抗の方がより有効だということが決まっているわけでもない。少なくとも、侵略に対する一つのありうべき対応としてこのような道もあるということを考えておくのは有意味なことだろう。
 私がこの個所に目をとめたのは、たまたま少し前に読んだ井上達夫『世界正義論』とのある種の対比を感じたからである。井上は同書で、絶対的平和主義の説く非暴力抵抗はどんな暴力にも反撃しないことを意味するが、これは道徳的聖人の論理であって並の人間が担える倫理ではないと論じ、従って自衛のための戦力の保有と行使への権利を保持することは非難できないと書いている(1)。ここで井上が批判しているのは絶対的平和主義だから、松元の言う平和優先主義とは必ずしも抵触しないのかもしれない。それにしても、非暴力抵抗は道徳的聖人の論理であって、並の人間が担える倫理ではないという主張には、やや性急なところがある。非暴力抵抗は「相手がいくら暴力をふるい、大量の血を流しても、こちらからは一切手出しをしない」という極限形態しかあり得ないわけではなく、侵略軍の行動を麻痺させることで暴力の発動を最小化させるような形をとることもありうる。そうした戦術が常にうまくいくとは言えないまでも、とにかくそういうこともあり得るのだと意識することは、非暴力抵抗の意義をより広く理解させてくれる。松元の指摘はそのことを思い起こさせてくれる点で有益である。
 本書で著者が挙げている例に付け加えていえば、一九六八年チェコスロヴァキアの事例を想起することもできる。同年八月のワルシャワ条約機構軍による侵攻後、プラハ市民は軍に対して、水や食糧をはじめとして一切の援助を拒んだ。町の道路標識も施設の看板も外されたため、市内に駐留する軍は全く動きがとれなかった。改革派活動家を逮捕しようとする自動車のナンバーが広く知らされため、弾圧も遂行が困難だった。マスコミは軍事制圧下でも、それまでと同じ姿勢での報道を続けた。国会には議員が泊まり込み、過半数の議員によって介入への抗議声明が採択された。こうして、ワルシャワ条約機構軍は一応プラハ市内を制圧してはいても、実効的支配はできないという状況が現出した。このような状況が約一週間にわたって続き、占領統治を空洞化させたのである(2)。その後のチェコスロヴァキアの歩みについては別個に考察せねばならないが、とにかくこれは非暴力抵抗が大量流血といった犠牲を伴わずにかなりの成果を上げた重要な事例と考えることができる。更にいえば、このときの軍事介入は、ソ連国内においても、社会主義改革に期待をかけていた多くの人々に強いトラウマを残し、その痛恨の思いが二〇年後のペレストロイカの一つの原動力となった(3)。敢えて飛躍した言い方をするならば、一九六八年におけるチェコスロヴァキアの人々の非暴力抵抗が二〇年後のソ連・東欧圏全体の平和的な変革(4)を生み落とす一つの要因となったとさえ言えなくもない。
 
     三
 
 疑問点についても記しておきたい。
 先ず、小さな例だが、「現実主義者にとっての原体験は、ナチス・ドイツ〔へ〕の宥和政策が失敗したことにあるようだ」「ヒトラーに対峙した経験は、平和主義を論駁するのに十分である」という個所がある(一六一‐一六二頁)。この記述は、宥和政策は平和主義の産物であり、それを批判するのが現実主義だという構図を前提しているように読める。しかし、本書において典型的な現実主義者として取り上げられているE・H・カーは、『危機の二〇年』の初版(一九三九年)で宥和政策を正当化していた(第二次大戦後の再版では削除されている)。カーという人には複雑な多面性があり、単純に彼を「現実主義者」と描いてよいかには疑問の余地があるが、彼が一九三九年の時点で宥和政策をよしとしたのは平和主義的発想によるというよりは、むしろそれこそが現実主義の観点から見てリアルな政策だと判断したからだと思われる(それからしばらくして、今度はスターリンのソ連に対して過大評価というべき態度をとったのも、共産主義的理念に感染したからではなく、ソ連の力量を高く見積もることが「リアル」だと判断したからだろう)(5)。一口に現実主義といってもいろいろな種類があるが、「常に戦争の方が平和よりも現実的だ」などと硬直的に考えるのではなく、「それぞれの場合ごとに、戦争と平和のどちらが現実的かを判断して政策を決定すべきだ」という主張だとするなら、個々のケースにおいて平和的政策を唱道してもおかしくはないし、実際にそうした例は他にもある。こう考えるなら、ナチス・ドイツへの宥和政策の失敗は平和主義の失敗を意味するとばかりは限らず、ある種の現実主義的思考――一九三九年時点のカーのような――の失敗でもあったということになるはずである。
 
      四
 
 もう一つの論点として、第六章で取り上げられている人道的介入について考えてみたい。この問題は多くの論者の関心を引きつけているホットな論点だが、著者はこの問題について次のように論じている。基本的前提は、ある国で大規模な人権侵害が生じており、当事国の政府が侵害の主体であるか、あるいはそれを阻止する意思や能力を持たない場合に、他の国家や国際組織が人権侵害阻止のために軍事干渉を行なうことの是非が問われる、ということである。下手な介入はかえって無辜の市民の犠牲を出すおそれがあるが、逆に介入しないことも人権侵害の放置を意味し、無辜の市民の犠牲を防げないというディレンマが提示され、これにどう答えるかが問題とされている。
 このような図式化は著者に限らず、一般的によくとられるものだが、そこにはある種の暗黙の前提があり、それ自体を問い直す必要があるのではないかというのが私の考えである。この図式においては、「ある国」(大規模な人権侵害の起きている国)と「他の国や国際組織」がそれぞれ別個の存在として捉えられており、その上で、後者が前者にどのような態度をとるかが問題とされている。そこにおいては、決断を迫られるのは「善意の第三者」だとの想定があり、もっといえば、具体的に念頭におかれているのはアメリカやNATO諸国を典型とするいわゆる先進諸国――あるいはそれらによって主導される「国際社会」――だということが暗黙に前提されている。これに対し、大規模な人権侵害が生じているのは、「先進諸国」から地理的・心理的に遠くに位置する国々であり、「先進諸国」の市民はそれに対して「高みの見物」を決め込むのか、それとも種々のコストを覚悟しつつ敢えて介入すべきかの選択が迫られている、という発想が論者たちの共通の前提となっている。しかし、このような図式化を前提して議論を進めること自体に疑問の余地があるのではないだろうか(6)
 現代世界において「先進諸国」と「そうでない国々」とはもともと相互に無関係な存在ではあり得ない。そこには、どれほど明確に意識化されるかは別として、もともと複合的な相互関係があり、一方が他方に対して「善意の第三者」という関係にあるわけではない。そして、どこかの国で大規模人権侵害が起きたとするなら、「先進諸国」はその直接的原因をつくったとは言えないまでも、その遠因となる諸要因を、意識せずにもせよ自らつくり出している可能性がある。そのことを知らないような顔をして、自分たちが「善意の第三者」であるかに振る舞うのは偽善的なところがある。旧ユーゴスラヴィアで一九九〇年代初頭に起きた内戦の一つの背景は、IMFなどの推奨する「ショック療法」型経済政策が連邦政府によってとられ、それが共和国間対立を昂進させたという事情にあったし、連邦解体が急激に内戦へと転化した一つの要因として、ドイツをはじめとするいくつかの国によるクロアチアやボスニア=ヘルツェゴヴィナの性急な独立承認があった。IMFやヨーロッパ諸国は、もちろん内戦や人権侵害をもたらそうとしてそうした政策をとったわけではないが、結果的にそれにつながる政策をとったという意味では、それまで無関係だった「第三者」などではない。
 それだけでない。アメリカを典型とする「先進国」がどこかの国に「人道的介入」を行なうか行なわないかの選択は、介入と不介入のどちらが国際的なスケールでの「人道」に合致するかの判断によるとは限らず、それらの国々の間の相互関係を前提に、(不)介入がもたらす利害の計算に基づく面がある。アメリカのコソヴォ紛争介入にボンドスティール軍事基地確保という狙いがどの程度作用していたかを正確に確定することは難しいにしても、とにかくそれがアメリカの利益になるという判断抜きに介入が決断されたとは考えにくい。
 敢えて乱暴に要約するなら、介入するかしないかの判断を迫られている「先進諸国」はもともと介入対象国に何の関わりも持たなかった「善意の第三者」などではなく、以前から複合的な相互関係の網の目に巻き込まれ、間接的にもせよ、人権侵害現象の遠因を自ら作り出していた可能性がある。そして、大規模な人権侵害があからさまになった――少なくともそのように報道された――後に介入するかしないかの決断は、言説の次元においては「正義」の言葉で正当化されるにせよ、政治家の判断としては、(不)介入のもたらす利害にも規定される面がある。もちろん、そこにはもっと多くの要因がからんでおり、上記の点が全てだとまで言うならあまりにも性急な議論になってしまうが、とにかくそのような側面が全くないとは言えないだろう。だとしたら、その側面を視野の外に置いたまま議論を続けることには、ある種の歪みがあるのではないかと思われてならない。
 
(二〇一三年八月)

(1)井上達夫『世界正義論』筑摩選書、二〇一二年、二八五‐二八六、二九四‐二九七頁。
(2)H. Gordon Skilling, Czechoslovakia's Interrupted Revolution, Princeton University Press, 1976, Chapter XXII.
(3)ゴルバチョフその人が、学生時代の親友ムリナーシ――一九六八年の「プラハの春」で大きな役割を果たした後、一九七七年に出国し、社会民主主義の立場に立った政治活動を西欧で続けた――との対談で、一九六八年とペレストロイカの関連について詳しく語っている。Mikhail Gorbachev and Zdenek Mlynár, Conversation with Gorbachev: On Perestroika, the Prague Spring, and the Crossroads of Socialism, Columbia University Press, 2002.ブレジネフ期に逼塞を強いられていた知識人たちがペレストロイカ以降に当時を振り返った回想的叙述は数多い。作家のグラーニンはプラハの友人に宛てた手紙で、一九六八年の軍事介入のことを、「ペレストロイカの先駆」をソ連軍が押しつぶした行為だったとして、「自分の国、自分の党、自分の政府があれほど恥ずかしかったことはない」と書いている。Д. Гранин. Письмо в Прaгу // Московские новости, 1989, 48 (26 ноября), с. 6. 他の例として、Len Karpinsky, "The Autobiography of a 'Half-Dissident'," in Stephen F. Cohen and Katrina Vanden Heuvel (eds.), Voices of Glasnost: Interviews with Gorbachev's Reformers, W. W. Norton, 1989; Отто Лацис. Тщательно спланированное самоубийство. М., 2001など。
(4)「平和的な変革」という特徴づけには一定の留保をつける必要がある。最大の例外がルーマニアの流血だということはいうまでもない。体制転換そのものとは次元を異にするが、いくつかの地域では民族紛争が暴力的な形をとった。それ以外の地域の場合、体制転換が平和的に進行した後に、「粗野な資本主義化」「マフィア資本主義」といった現象が生じ、テロを含む多数の暴力行為を生み出した。そうした留保はあるが、ともかく体制転換のきっかけをつくったソ連のペレストロイカは、一九八九年頃までは基本的に合法的・漸進的・平和的プロセスとして進んだ(その後に、「革命的」破壊の局面にとって代わられたが)。
(5)カーについては、塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、二〇一一年の第九章「E・H・カーの国際政治思想」参照。
(6)以下で論じる一連の問題につき、塩川『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦』、第二、三、七章などを参照。