丸山眞男・民主主義・東大闘争(紛争)――一つの試論
 
塩川伸明
 
 
一 はじめに
 
 丸山眞男(一九一四‐九六年)をめぐっては擁護論と批判論の双方の立場から膨大な量の議論があり、「丸山産業」が成り立っているという観さえもある。その膨大さおよび賛否双方の熱量は、その枠外にいる人間――私自身を含め――にとっては「食傷気味」という感覚を引き起こす面がある。それでいながら、丸山本人についても各種丸山論についても完全に無視することはできず、どこかしら気になるという感覚も去らない。私は丸山自身についてであれ、膨大な量にのぼる丸山論についてであれ、系統的に追ってきたわけではないが、それなりに気にかけてはきた。若い頃から丸山の種々の著作――『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』『後衛の位置から』『戦中と戦後の間』『「文明論之概略」を読む』『忠誠と反逆』等々――を折りにふれて読んできたほか、死後にあらわれた種々の丸山論についても、網羅的にではないにせよ代表的と思われる著作はかなりの程度読んできた*1
 この小文執筆のきっかけは、最近刊行された清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』および若干の関係稿*2を読み、それに引きずられて『丸山眞男回顧談』『自己内対話』その他若干の著作を読み直したり、いくつかの丸山論を再読したりしたことにある。いま挙げた清水著は、タイトルだけを見ると数多い類書にまたもう一冊を付け加えるだけであるかにも見えるが、読んでみると、ステレオタイプ的に広まっている「丸山イメージ」の当否を丹念に検証して、「批判的継承」あるいは「継承的批判」をしようという姿勢に貫かれていると感じた。「丸山学」の専門家でない私としては、清水の議論がどこまで万全かとか、他の丸山論に比べてどの程度のオリジナリティがあるかを精密に判定することはできないが、ともかくその真摯な姿勢はこの本を類書から区別しているように感じられた。
 同書およびその他若干の関連文献を読み漁っているうちに、一つの思いつきとして、《迷い、悩み、屈折を重ねた人間》として丸山を捉えることはできないだろうかという妄想のようなものが浮かんだ。彼も人間である以上、そうした面があるのはいってみれば当然のことである。にもかかわらず、丸山の書き残した文章の多くが精緻な論理性を誇っているために、あたかも彼には完成した思考・思想があったかのようなイメージがあり、ある人はそれに心酔し、ある人はそれに反撥しているのではないだろうか。これに対して、悩みや揺れや屈折に着目するのは、彼を等身大に見ることを助けてくれるのではないだろうか。別の観点からいうなら、かつては遠く高いところにいるように見えた丸山――その「高さ」は畏敬の念を呼び起こすこともあれば、むしろ反逆の対象という感覚をもたらすこともある――を、それほど遠くにいるわけではない、悩んだり、迷ったり、屈折したりした「普通の人間」「生身の人間」として見ることができるのではないかということである。そうはいっても、日本政治思想史を専攻するわけではなく、丸山の著作および各種丸山論を徹底的・網羅的に検討してきたわけではない者が「等身大」「生身の丸山」を理解できるというのは単なる錯覚、思い込みであるおそれは大きい。そういうおそれをいだきつつ、とにかくそのような妄想に多少なりとも形を与えてみたいというのが小文の執筆動機である。なお、この小文を書くに当たって、丸山の著作にしろ各種の丸山論にしろ、かつて読んだ文章を部分的に読み返したものの、徹底的に掘り返すことまではしていない。比較的よく知られていると思われる丸山の文章やその特徴づけなどについてその都度丁寧に注記することは省き、特に必要性の高いと思われる個所に限って典拠を注記する。どの場合に「特に必要性が高い」と判断するかはやや恣意的になるかもしれないが、本格的学術論文ではないということで御宥恕を乞いたい*3
 
二 戦後初期から一九五〇年代にかけて
 
1 民主主義への「転向」
 
 ここでは戦後初期における丸山と民主主義の関係を主題とするが、その前提として、戦前・戦中の丸山についても簡単に一瞥しておく。若き日の丸山は、当時の日本では異端の思想だった自由主義に惹かれており、旧制高校時代に治安維持法違反で逮捕された経験もあった。他面、彼が学び、やがて助手を経て助教授となった東京帝国大学法学部には、体制内で自由主義を護持しようとする人たちがかなりおり、逮捕後に官憲の監視下にあった丸山は南原繁をはじめとする恩師たちに守られていた。そうした経験をもつ丸山は、いわゆるオールド・リベラリストないし「重臣リベラリズム」に育てられ、広い意味でその系譜のなかにあった。戦後の丸山はそうした「重臣リベラリズム」から離反して独自の民主主義論を打ち出すことになるが、それでもやはりオールド・リベラリズムとの間に一定の連続性を維持していたのではないか――これは戦後の丸山を考える際の一つの前提になるのではないかと思われる*4
 とにかく、丸山の出発点は広い意味での自由主義であって、人民主権という意味での民主主義ではなかった。戦時下の発言が民主主義を掲げなかったのは当時の言論統制下の限界と見られなくもないが、それだけではなく「民主主義」というものそれ自体への一定の懐疑をいだいていたように見える。また、戦後になると、世の中の大勢が大逆転して誰も彼もが民主主義を唱える情勢となる中で、戦争直後の丸山は「猫もしゃくしも民主主義革命といってワァワァいう気分に反感をもっていた」という。そうした彼が民主主義を奉じるに至るにはいくつかのステップが必要であり、そこには自ら「転向」と呼ぶような転回があった。もともと天皇制否定論に立っていたわけではなく、また人民主権を唱えていたわけでもない丸山がその立場を鮮明にするのは、戦後すぐにではなく数ヶ月の模索を経てのことだった。有名な「超国家主義の論理と心理」は一九四六年五月の発表だが、本人の晩年の回想によれば、「ぼく自身も「転向」をしているわけです」、「〔この論文は〕ぼくの自分史にとっては画期的でした。前から考えていたことを、言論が自由になって発表したということでは決してないのです。……敗戦からは半年たっているわけです。その間、迷いに迷いました」という屈折の産物だった*5
 その後、一九四八年前後に占領政策の転換(いわゆる「逆コース」)があったのをうけて、丸山を含む若手学者たちが組織した公法研究会は官吏制度の民主化や日本国憲法の改正を提唱した。彼らが一九四九年四月に発表した「憲法改正意見」によれば、憲法の第一章は「人民主権を宣言する章」とすべきであり、「天皇制の廃止による共和制とすべきことが理想」だが、それは将来のこととして、「実現可能な改正案ということになれば、天皇制を承認した上で人民主権を明確にすべきである」と記していた*6。こうして、丸山が原則のレヴェルで天皇制を否定し、人民主権の立場を明確にするには戦後数年の模索があったということになる。
 
2 「ラディカルな精神的貴族主義」と「ラディカルな民主主義」
 
 丸山が以前から奉じていたリベラリズムと戦後初期にいだくようになった民主主義は、もっと後の時期になると当然に結合したものと見なす考えが広まり、今日では「自由民主主義」「リベラル・デモクラシー」という言い方が広く常識化している。だが、本来、両者は容易に結びつくものではなかった。丸山はそれをどのようにして結びつけようとしたのか。ここで想起されるのは、やや後の時期の発言だが、一九五八年の講演「「である」ことと「する」こと」の中にある「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくこと」の必要性という言葉である*7。ここで「精神的貴族主義」とはリベラリズムの精神を受け継ぐものであり、丸山はそれを保存しつつ「ラディカルな民主主義」と結びつけようとしたように見える。元来公表を予定しなかった手帖のなかに「自由は必然的に貴族的である」とか、「身分は名誉感を伴い、身分的特権はこの名誉感に裏打ちされて義務意識を伴うこととなる(いわゆるノブレス・オブリージュ)」とかいった記述があるが*8、身分的特権と義務を表裏一体とする「貴族的なもの」を重視する発想は丸山に一貫していた。もっとも、それが文字通りの狭い身分的貴族を指すのでは民主主義にそぐわない。そこで、あるがままの民衆がそのまま民主主義の担い手となるのではなく、民衆自身が「精神的貴族」となっていく可能性に期待するという考えが「ラディカルな精神的貴族主義とラディカルな民主主義の結合」という表現に託されたのではないか。そして、そのためには、彼自身を含む知識人がそのような方向での啓蒙活動に責任を負うという――これもノブレス・オブリージュ意識の一つの現われ――ということであるように思われる。
 実際、戦後初期の丸山は民衆啓蒙活動にかなり熱心に取り組んだ。三島市の「庶民大学」講座や信濃教育会の講演などの例がよく知られている。もっとも、その後の彼は徐々にそこから離れ、大学のなかに立てこもる――いくつかの時期には社会的発言もかなり積極的に行なったが、それは「いやいやながら引っ張り出される」という感じのものだったように見える――態度を強めた。その間の事情は明らかでないが、結果論的に言えば、民衆が「精神的貴族」になるのはあまりにも困難だったことに気づかされたのかもしれない。この点については後でも立ち返ることになる。
 
3 社会主義・マルクス主義・スターリン主義
 
 もともと丸山は若い時期から社会主義思想の洗礼を浴びていたし、一九四〇年代末に始まるいわゆる「逆コース」やアメリカにおけるマッカーシイズムへの反撥などもあって、時事的な問題に関して「左翼」的な姿勢を示すことが多かった。とはいえ、マルクス主義を全面的に受け入れたわけではなかったし、ソ連に対しても日本共産党に対しても批判的な態度を保持していた。そういう彼が一九五六年のスターリン批判およびハンガリー事件に強い関心をいだいたのは当然である。その年のうちに書かれた「スターリン批判の批判――政治の認識論をめぐる若干の問題*9」は彼がスターリン批判をどのように受け止めたかを示す重要論文であり、また翌年公表の座談会(江口朴郎、竹内好、埴谷雄高、吉野源三郎とともに)「現代革命の展望――「ハンガリア」論争批判*10」もある。これらの文章は彼がスターリン批判およびハンガリー事件の衝撃を正面から受け止めようとしたことを物語る。これは私自身の専門とも関わって、本来なら深く突っ込んで検討すべき重要テーマだが、そのためにはかなり本気で準備をしなくてはならず、いまはその余裕がない。とりあえず、スターリン批判の受容に関わる二つの試論の参照を乞うにとどめたい*11
 とにかく丸山はその後も、広い意味での社会主義およびマルクス主義――前者は非マルクス系統のものも含む――への関心ないし期待をいだき続けたようであり、そこにおいてはソ連および日本共産党と異なる潮流への関心が大きな位置を占めていた。イタリア共産党および構造改革派への関心がその一つのあらわれであり*12、イギリスのニューレフトへの関心がもう一つのあらわれといえるだろう*13。なお、ほぼ同じ時期に日本でも、日本共産党から離反した「新左翼」と呼ばれる潮流が登場しつつあったが、その内実は多様であり、そこには「ニューレフト」と共通する面と異質な面とがあった。諸潮流が星雲状態にあった当時、それらの間の複雑かつ微妙な関係が当事者によって明晰に意識されていたわけではないが、後から振り返っていうなら、丸山は「〔イギリス流〕ニューレフト」に共感する一方、「〔日本の〕新左翼」には違和感を覚えたということであるように見える。そのことは、やがて明らかなものになっていく。
 このように社会主義・マルクス主義・スターリン主義・ニューレフト/新左翼という一連の問題に強い関心をもっていた丸山は、その後も関心を失ったわけではないだろうが、直接関連する発言はあまりしないようになっていく*14。そのこととの関連性は定かでないが、一九五八年の発言として、彼にとって天皇制とマルクス主義の二つが長年にわたる「格闘」の相手だったが、近年そのどちらも「フニャフニャになり」、そのことが「スランプ」のもととなったという発言があるのは興味深い*15ともかく、一九六〇年代半ば以降、管見の限り、社会主義関連の発言はめっきり減っていく。彼が再びその問題に立ち戻るのは一九八九年以降のことだったように思われる(末尾で後述)。
 
三 六〇年安保とその後――民主主義論の屈折的転回
 
1 「戦後民主主義のチャンピオン」という虚像?
 
 「六〇年安保闘争」の時期の丸山は代表的なオピニオン・リーダーの一人であり、少なくとも外観的には颯爽として活躍していたように見える。しかし、その背後で、この時期およびその後の彼の言動にはいくつかの屈折がつきまとっていたのではないかと思わせるところがある。そのことを垣間見させる発言の一つとして、安保闘争高揚絶頂時の座談会(一九六〇年五月二七日)で「長い宿酔の時期がやってくる」との予見を述べ、数年後にそれを自ら引用して、「そのあとの宿酔のひどさは私の予想を上まわった。……私はあの闘争に一市民として参加したことにいまもって悔いるところはないが、右のような宿酔現象のひどさには少なからず失望した」と書いている*16。ということは、彼は自分が代表的論客のように見られていた「六〇年安保闘争」のなかに、必ずしも同調しきれないものを見ていたということなのではないか。
 五月一九日の衆議院特別委員会における強行採決後、彼は安保条約それ自体よりもむしろ民主的手続きの蹂躙への抗議に力点をおく運動にコミットし、そのことによって「民主主義」擁護者というイメージを強めた。このときの運動の中で主要スローガンとされた「民主主義を守れ」という言葉はあたかも「守るべき対象としての民主主義」なるものが現に存在しているかの印象を与える。しかし、戦後の日本に民主主義が定着していて、それが強行採決によって突然揺るがされたというような単純な考えを丸山がもっていたわけではないはずである。ここにはいくつもの問題が関わっているが、一つの焦点は「制度」というものの評価に関わるだろう。丸山は民主主義を制度と運動の緊張をはらんだ総体としている――より整理された後年の議論では、理念・運動・制度の三つとされる――が、そこにおいて「制度」は「運動」に支えられねば形骸化すると指摘する点で形式的制度万能論と距離を置く一方、「制度」を軽んじる傾向にも批判的という二面性があった。民主的手続き蹂躙に抗議するということは、とりあえず「制度」としての民主主義の擁護を意味するが、手続きを政府が自ら蹂躙しているということは戦後日本の民主主義が「制度」としても十分確立していないことを意味し、そのことに対する「運動」側からの批判が不可欠だということを意味した。一面で「制度」というものを擁護するが、他面、形式的制度だけで足れりとしないという両面作戦的な思考法はあまり分かりやすいものではなく、大衆運動の高揚に取り囲まれていた丸山は自分の本心が理解されていないという孤立感を抱いたのではないか。
 このように、実際には「民主主義の高揚」を手放しで称えていたわけではないにもかかわらず、丸山には「戦後民主主義のチャンピオン」といったイメージがつきまとっている。その一つのきっかけは、『現代政治の思想と行動』増補版への後記(一九六四年)で「戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」という言葉を使ったことにあった*17。丸山自身はそもそも「戦後民主主義」という言葉をあまり使わなかった――「戦後民主主義」という場合の「戦後」とはいつを指すのか、「民主主義」という場合に制度と運動のどちらを重視するのかといった腑分けなしにこの言葉を使うのは混乱のもとだと考えた――し、「虚妄」に賭けるという、いささか奇をてらった表現は、文字通りの意味というよりは一種の反語的表現だったろう。ところが、この言葉およびそれに付随するイメージがひとり歩きして、ある種の丸山像が流布していったことに彼は戸惑いをかかえていたのではないだろうか。
 
2 「永久革命としての民主主義」
 
 丸山は岸信介首相をいただく自民党政府に対して批判的であることはもちろん、日本共産党の方針に対しても批判的だったから、その限りでは、当時生まれつつあった広義の「新左翼」的な動きにつながる側面もあった。しかし、このときに接した新左翼的知識人――吉本隆明、谷川雁ら――の急進主義に対しても彼は批判的だった。その一つの要因として、新左翼的潮流の中に制度軽視の傾向があることを感じ取り、制度には制度なりの意味があるということを強調せねばならないと感じたことがあるように見える。戦後日本にはあたかも制度としての民主主義がもちこまれたかのようだが、実際には制度としての民主主義も未確立だというのが彼の考えだった。この点と関連して、一九六七年の森有正との対談における発言が興味深い。この対談で森が日本に一応制度としては民主主義があると言ったのに対し、丸山は「私はね、それを「制度はあるけれども」とは言わないんですよ。民主主義的な法律はあるんですよ、実定法はある。六法全書にちゃんと書いてある。けれどそれは制度とはいえない。社会制度というものは習慣と切り離しえないものだと思うのです。……民主主義はまだ制度にも十分なっていない。法律があり、すこしずつは「習慣」の裏付けもできつつあるから、ゼロとはいえないけれども、制度化されているとはいえない」と説いている*18。ここには、制度としての民主主義は日本にはまだない、むしろこれから積み重ねていかねばならないという考えが示されている。これは「制度はあるけれども、それだけでは足りない」とか「制度なんていうものはそもそもナンセンスだ」といった発想とは明確に異なる立場である。
 「永久革命としての民主主義」という有名な言葉もこのような考えに基づいて出されたもののように思われる。そしてこの言葉が提出された一つの契機として、六〇年安保時きに接した新左翼的知識人の急進主義に対する批判があったのではないかという仮説が浮かぶ。この言葉に関する丁寧な検討を行なった清水著の第2章によれば、この言葉を丸山が最初に使ったのは六〇年安保直後の手帖への記入(八月一三日)であり、公刊物としては同年九月の『週刊読書人』が早い例だという。これに続いて『現代政治の思想と行動』第三部への追記(一九六四年)、ずっと後になって一九八八年に中国人留学生との会合、また八九年の「戦後民主主義の『原点』」でもこの言葉が使われた。また、広く有名になったきっかけは安東仁兵衛の回顧的発言(一九九六年)だという*19
 このように「永久革命としての民主主義」という言葉は丸山によって何度か発せられているが、それらはどれも短文であり、詳しく展開されているわけではない。内容的に考えるなら、「革命」という言葉から示唆される急激な変動よりも、むしろ粘り強く地道な改革の積み重ねを重視する発想ととるのが自然だろう。あえて敷衍するなら、「民主主義」というものはどこかに完成形があるわけではなく、常に形骸化・空洞化の可能性にさらされており、それに抗して不断に活性化の試みを重ねていくことが必要だという主張と解釈することができる。この考えは啓発的であり、学ぶところが大きい。現代の主流的な比較政治学においては、ある国の政治体制は民主主義であり、ある国の政治体制は権威主義であるといった分類が自明のように受け入れられているが、丸山流の発想によるなら、通常「民主主義国である」とされる国も完全な意味で民主主義を体現しているわけではなく、それどころかそのような自己満足が広まることはその空洞化を招きやすいということになるはずである。
 こういうわけで、実質的内容には共鳴するところが大きいが、実質を離れたワーディングには疑問が残る。実質的には改革の積み重ねを重視する考えであるにもかかわらず、マルクスやトロツキーを連想させやすい「革命」という用語法を丸山がとったのはどうしてだろうか。もともとマルクスの「永久革命」も意味の確定が困難な言葉だった*20。また、トロツキーの場合は元来、一九〇五年の第一革命時にブルジョア革命からプロレタリア革命への連続的転化を説いた議論であって、社会主義政権下で「永久」に革命が続くという意味ではなかった。ところが、そのような解釈が一部に広まっており、丸山もそういう解釈に沿っているのではないかと推測させられるところがある。中国で「不断革命」という言葉が使われたのも混乱増幅のもととなったのかもしれない。
 いずれにせよ、丸山の「永久革命」は、その実質的な意味内容に即していえば、マルクスともトロツキーとも異質のものである。にもかかわらず、敢えてそれと近いものと解釈されやすい言葉を使ったのはどうしてだろうか。丸山はマルクス主義そのものを全面的に受け入れたわけではないが、マルクス主義を限定的に評価し、また各国共産党に代表される正統左翼に批判的という限りで、トロツキーに対してある程度シンパシーを感じていたところがあるように見える。そのことが彼にこの言葉を使わせた一つの理由だったのではないだろうか。だが、現実のトロツキーは、丸山が考えたようなことを考えていたわけではない。それなのにトロツキーを連想させやすい「永久革命」という語を使ったのは、新左翼系論者をからかいたいという気持があったのかもしれないが、それはかえって誤解を広げる結果になったのではないか。
 東大闘争/紛争時に丸山を吊るし上げた全共闘系学生に対して、丸山は「非日常的な状態の永続、もしくは非日常的な手段の永続的な行使が永久革命だという定義を、トロツキーはどこで言っているか」と問い返したという*21。この反問は、おそらくあまりトロツキーを読んでいなかっただろうと想定される学生をやり込めるための修辞的疑問としては有効だったろう。だが、そういう丸山自身、トロツキーをそれほど熱心に読んでいたわけではなく、彼の「永久革命としての民主主義」論はトロツキーとはおよそ無縁だった。にもかかわらずトロツキーを連想させやすいこの表現を使ったのは、かえって混乱のもととなったのではないか。「戦後民主主義の『虚妄』に賭ける」という言葉にせよ、「ナチズムもしなかった暴挙」(これについては後述)にせよ、本格的に展開された論文ではない断片的な発言が彼を有名にした代わりに、彼をもみくちゃにしてしまったと思われてならない。
 
四 東大闘争/東大紛争*22とその後
 
1 機動隊導入と丸山
 
 東大闘争/東大紛争時の丸山については多くの議論があり、清水著も大きな紙幅を割いている。ここではその全容を追うのではなく、いくつかの重要な節目における丸山の言動を追ってみたい。とはいっても、背景として闘争/紛争の経緯についてもある程度押さえる必要があり、簡単に要点をまとめておく*23
 東大闘争/紛争は一九六八年三月の医学部学生処分問題に端を発し、六月の安田講堂占拠および機動隊導入を機に一挙に拡大した。七月初めには学生たちが安田講堂を再占拠し、東大全共闘が結成された。一〇月までの間に全学部がストライキに加わり、大学当局と学生たちの間での対峙が続いた後、一一月初頭に大河内一男執行部が退陣して、加藤一郎総長代行の率いる新執行部が登場して、学生に交渉の呼びかけを行なった。学生側にとってはこの呼びかけにどう応じるかが問題となり、それと関係して、全共闘系と民青系のどちらが主導権をとるかの駆け引きが深刻化した。ほぼ時を同じくして、文学部における「八日間団交」(林健太郎学部長の長期間軟禁)があったが、この出来事はマスコミが学生に対して批判的な論調に大きく傾斜する契機となった。そのこととも関連して、日本共産党中央は東大の共産党=民青系学生に「全共闘=暴力学生」との対決強化を指令し、それまである程度全共闘とも提携する面のあった民青の路線を転換させた*24。民青と全共闘の対抗はこれ以降急激に強まり、ゲバルト闘争が全面化したが、そのことは警察導入の重要な背景となった。
 一二月二三日に加藤総長代行から全共闘に最後の話し合いの申し入れがなされたが、二四日に全共闘から拒否回答があり、打開の道は閉ざされた。このことの評価をめぐっては様々な見解がある。少なからぬ論者は、全共闘が交渉に応じなかったのは政治的未成熟のあらわれであり、これによって「玉砕」への道が確定したとしているが、清水著はこの問題に関する丸山の理解を批判している点が独自である。丸山は全共闘が「七項目をのむかどうかでなくてのみ方がなのだ」と言い出したと理解して、これは「擬似宗教革命的な性格」をあらわにしたものだと捉えた。これに対し清水は「加藤執行部は七項目要求をほとんど容れたと〔丸山は〕いうが、文学部処分の白紙撤回の要求だけは呑まなかった」と指摘し、ここには全共闘への理解しそこないがあると述べている*25
 ともかく一九六八年末のこうした経緯を経て、一九六九年一月一八‐一九日には機動隊が導入されて、いわゆる「安田砦」攻防戦となった。その直前の丸山私案(一月一三日)は次のような構想を示していた。まず第一段階として、全共闘・民青双方に武装解除の最後通牒を送り、また諸党派最高幹部にインフォーマルに接触して、ゲバルト休戦および武器撤去に努力させる。第二段階として、構内における武器の押収に限定した警察力の導入、さらに機動隊常駐を覚悟した全学封鎖解除を想定する、というのである。この私案は即時の「大掃除」を要求する強硬論とは異なり、段階的かつ限定的に警察力に依存するという構想だが、それが現実化しうるかどうかは政府および警察の反応にかかっていた。丸山はこの「私案」とは別に、法学部付属明治新聞雑誌文庫主任として、文庫保全のため「万全の措置」をとるよう加藤総長代行に要請してもいた(一月一五日)。この「万全の措置」が何を意味するかは明示されていないが、加藤は機動隊導入の決断の際にこれも考慮したと説明した。結果的に実現したのは、丸山の期待とは違って無限定の機動隊導入と常駐というものだったが、そこに至る経過は錯綜していて解きほぐしにくい。推測するなら、教官たちの間でも意見が十分まとまらない中で、加藤代行は丸山の提案をも念頭に置きつつ限定的な警察力利用を考えて、それを政府に通知したのに対して、政府側が主導権を握って限定を外させたということだったのではないか*26
 こういう風に見てくると、丸山は一月一八日の機動隊導入およびその帰結に直接の責任があるわけではないが、それでも間接的には全く無縁とはいえず、十分な歯止めをかけられなかったという意味では、広い意味での連帯責任があったということであるように思われる。おそらく丸山自身、そのことを薄々自覚しながら、公然とそれを認めることができないというディレンマに陥ったのではないか。そこには、教授会同僚たちへの責任感、尾鰭を付けた過剰な責任追及への反撥、身体的不調等々が複合的に関係していたように思われる。
 
2 全共闘vs丸山
 
 一九六九年一月の「安田砦」決戦後、各学部でストライキ解除が相次ぎ、授業が再開されるなかで、授業を実施しようとする丸山とそれを妨害しようとする全共闘系学生の間で強烈な対峙状況が現出し、それと関連して、いわゆる「造反教官」――代表的には、教養学部助教授だった折原浩――や学外の「新左翼」系知識人たちとの間でも論争が繰り広げられた。もっとも、それは語の本来の意味での「論争」というよりも、互いに軽蔑の言葉を吐き合うだけのすれ違った関係だったように見える。
 この時期に丸山が全共闘系学生および「造反教官」や「新左翼」系知識人を厳しく批判し、「当局寄り」の態度を示したことについては幾通りもの事情が重なっていたと考えられる。一つには、戦時中の彼が官憲の監視下にありながら東京帝国大学法学部に庇護されるという経験をもっていたことに由来する法学部研究室への愛着が挙げられる。この点は多くの人が指摘している*27。この点を重視するなら、東大紛争/闘争時の丸山の言動は東大法学部への愛着によって説明されるという風にも考えられる。もっとも、彼は東大法学部に対して完全に無批判だったわけではなく、「戦争中まともだった分、戦後の自己批判が足りない」という意識ももっていた*28。法学部を無批判に全面賛美していたわけではないが、かといって徹底的に突き放すわけでもないという中途半端さがあり、そのことが彼の発言を歯切れの悪いものとしたということが一つの要因として考えられる。
 それだけであれば、東大闘争/紛争との関わりは間接的なものにとどまるが、より具体的には、一九六七年二月の学部長選出時にいったん当選した丸山が辞退したため、長年の友人である辻清明が学部長となったという事実があった。結果的に、辻は直後に起きた困難な事態への対処に苦慮せざるを得なくなり、丸山としては旧友への負い目の感覚があったようである。また、恩師である南原繁は当時機動隊導入を督促していたが、丸山としては恩師の言動を批判できなかったという面もあった*29
 そうした一種の「しがらみ」は一つの重要な要素だったと考えられるが、清水はその点の指摘にとどまらず、丸山の思考法に根ざす側面に注目して「自己内対話の失敗」があったのではないかと書いている。「自己内対話」は丸山の思考法を象徴する言葉であるだけに、ここに丸山の限界を見る清水の議論は重大な意味を持つ。清水によれば、丸山の好んだ「他者を他在において理解する」という標語はカール・マンハイムに由来すると解釈されてきたが、実はマンハイムの用語と微妙に異なる。マンハイムが説いた民主的対話は「他性(Andersheit)」への好奇心を基礎とするのに対し、カール・シュミットがマンハイムを誤読して、それをヘーゲル的な「他在(Anderssein)」に置き換えたのに丸山は気づかなかったのではないか、というのである。かなり抽象度の高い議論であり、どう受け止めるべきか迷うところがあるが、マンハイムの「他性(Andersheit)」とは自己とおよそ異質の発想を持つ人たちとの対話を含意するのに対し、丸山がシュミットの影響で説いた「他在(Anderssein)」との対話としての「自己内対話」とは、自分自身の中に他者があるかのごとくに想定してそうした自己内他者と対話するということであって、その外に出ることがないという趣旨にとることができる*30
 もう少し具体化していうと、「丸山が他者をその他在において理解する対象として、理性をもたない子供を除外していた」のではないかという点が問題となる。ヘーゲル的知性はカント的啓蒙同様、幼児への根本的好奇心が弱く、理性を持つ大人しか相手にしないのではないかというのである*31。もっといえば、幼児か大人かというだけでなく、大人のうちでも理性的討論に習熟した人たちしか相手にしないということにも通じる。丸山が全共闘学生を「駄々っ子」視したのもその例とされる。それどころか、普通の「理性を持つ大人」を相手にしたときも――彼が対等と見なした少数の知識人を例外として――実は、あまり耳を傾けようとしなかったのではないかとの示唆もある。「丸山が自由闊達談論風発で何時間も座談し、他人の思考の惰性を揺さぶったことは多くの証言があるが、今日はみなさんのお話を聞きたいとの丸山の発言から始まる会合が、たいていは丸山の独演会で終ったように、一方的なお説拝聴も生じやすかった」とか、「丸山を囲む学者の研究会で丸山が発言すると満座森閑としてひたすら拝聴する権威主義の空気」があったという記述がそれである*32。清水はこうした議論の末に、「〔東大紛争において〕丸山の学問は試されなかったかもしれないが、他者を理解する知性が試されたのではないか」としている*33
 前述したように、丸山は元来、「ラディカルな精神的貴族主義とラディカルな民主主義の結合」という考えをいだいており、あるがままの民衆がそのまま民主主義の担い手たるわけではないが、啓蒙活動を通して民衆が「精神的貴族主義」を身につけていく可能性に期待をかけていた。しかし、彼の想定する「精神的貴族主義」の基準はあまりに高く、多くの人々がそこに達することは期待できそうにないというペシミズムが徐々に彼のうちに兆していたのではないだろうか。六〇年安保の頃から兆した民衆運動への失望は全共闘との対峙の中で一層強められたように思われる。
 
3 錯綜する諸論点
 
 丸山と全共闘学生および「造反教官」や「新左翼」系知識人の対立・相互嫌悪・蔑視には複数の論点が複雑に絡み合っている。ここでは、そのうちのいくつかを取り上げてみたい。
 丸山批判者たちがしばしば引き合いに出す丸山発言として、一九六八年一二月の法学部研究室封鎖時に彼が「〔こんなことは〕軍国主義もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と述べたとする毎日新聞報道がある。全共闘・ナチ・軍国主義をすべて一緒くたにするような発言はいかにも乱暴なものであり、当時もその後も丸山批判の絶好の材料とされた。伝えられるような発言を実際に丸山がしたのか、仮にしたとしてそれはどういう意味だったかをめぐっても種々の論争が繰り返されてきた*34。おそらく丸山が第一義的に言いたかったのは、ナチよりはむしろ「日本軍国主義もしなかった」ということだった。戦時中の丸山にとって法学部研究室は「国内亡命」の場であり、「別世界のようにリベラル」だった。つまり、日本軍国主義は法学部研究室には手を出さなかったということが丸山にとっては重要であり、それとナチは同列に並べられるものではなかったはずである。では、「ナチもしなかった」とは絶対言わなかったかというと、そうでもなく、一瞬口走ったのは事実らしい、但しその文脈および趣旨は通常理解されがちなところとは異なる、というのが清水説である*35
 この問題発言を学生たちから糾弾されたとき、彼は「君たちは平素ブル新〔ブルジョア新聞〕などといいながら、都合のいいときだけ、ジャーナリズムの記事を信用するのか」と反問した。後年の文章として、「マスコミが私の言葉として報道する片言隻句をそのままうのみにして」という一句もある*36。こうした反問は相手をやり込めるためのレトリックとしては有効だったろう。だが、「片言隻句」が不正確なら不正確だと明言すればいいのに、どうしてそう言い切らないのかという疑問を残す。おそらく、「ナチ」発言を全然しなかったわけではなく、ただそれが文脈から切り離されてそれだけ拡大してとりあげられたことに痛い思いをしたということではないか。なお、清水は晩年の丸山がナチ発言を事実と認めたという証言を長男の丸山彰から引き出している*37
 丸山が全共闘および彼らを支持する「新左翼」系知識人たちから激しく批判された一方、丸山の側も彼らに対して濃厚に否定的な評価を下していた。ここにも複数の要因が絡み合っている。前述のように丸山はイギリスの「ニューレフト」に親近感をいだいていたから、日本でクローズアップされた「新左翼」にも最初のうちはある程度の期待感を持っていておかしくない。その期待感が裏切られたという思いが「一体何がニュー・レフトなのか!」「ニュー・レフトを自称する全共闘はどこまでニューなのか」という叫びを生み出したのではないか*38
 丸山が全共闘および「新左翼」のどのような側面に特に注目して幻滅したり、批判したりしたかもいくつかの要素に分かれる。一つは、全共闘の運動に「政治的ロマン主義」(シュミット)や民族的伝統への回帰を嗅ぎつけたことが挙げられる*39。清水は丸山がそのような印象をいだくようになった一つの契機として、「駒場共闘焚祭委員会」という団体の主催した三島由紀夫との討論会(一九六九年五月二三日)を挙げ、これを全共闘の代表と見なすのは不適切だと論じている*40
 もう一つには、全共闘および「新左翼」の一部から出された「戦後民主主義ナンセンス」論への反撥があった。丸山は病気入院後、「このところ、東大紛争、いな全国的大学紛争に関連して、戦後民主主義への否定的言辞がひときわ高くなった。というより、事、評論界に関しては、戦後民主主義を正面から擁護する言論はほとんど見当たらない」と書き付けた*41。続く個所では、「戦後民主主義」という場合に憲法体系、現実の政治体制、運動、理念といった諸側面のうちのどれを念頭におくのかという弁別が必要なのに、それが欠けているという嘆きが表出されている。ということは、彼自身はそれらを弁別しており、憲法や理念はさておき「現実の政治体制」を無批判に擁護しているわけではないのに、そのように誤解されて批判を受けるのは耐えがたいという感覚が込められているように思われる。確かに、過熱化した運動の中で、そうした弁別を欠いた安易な議論が出たことは疑うべくもない。だが、全てがそういう議論でしかないという思い込みもまた論争相手に対する誤解ではないかという自己懐疑はここにはない。「現実の政治体制」に批判的という限りでは「新左翼」と丸山とは一致していたはずだが、「戦後民主主義」のまるごと否定か擁護かという硬直した二者対立図式が優越しているかに双方とも思い込んだように見える。いずれにせよ、丸山は全共闘および「新左翼」を「政治的ロマン主義」「民族的伝統への回帰」「戦後民主主義否定」で特徴付け、深い嫌悪感と軽蔑感をいだいた。
 しかし、全共闘と丸山の間には一切共通の要素がなかったかと言えば、そうではなかったというのが清水の主張である。「「全共闘の学生は、丸山から自己否定の思考と日本社会批判の論理を学んでおり、民主主義の思想を継承していた」。見田宗介も鶴見俊輔も「全共闘は戦後デモクラシーの最も正統なる継承者である」という認識をもっていた。ところが、丸山にはそう考えることができなかった、と清水は指摘している*42
 清水によれば 「〔東大全共闘によって盛んに唱えられた〕自己否定の思想は丸山の思想と似ていたし、丸山から学んだ学生も少なくなかった」。そして、丸山の側も六八年暮れの段階では法学部闘争委員会への一定の期待をいだいていた。にもかかわらず、結果的には互いに相手を理解できず、強い憎悪の感情をいだくに至った。そうした不幸な相互関係を周囲で観察していた人たちの間では、どうしてそうなってしまうのかという戸惑いがあり、高畠通敏のようにこれを「一種の近親憎悪」と解釈する見解もあった*43。近親憎悪という現象自体はありふれたものだが、一九六九年の状況は相互の対立・嫌悪・侮蔑を絶頂に至らせ、それを抜き差しならぬものにまで煮詰めたということなのかもしれない。
 
4 その後
 
 丸山は一九六九年二‐三月に何回か授業再開を試みて学生たちに吊るし上げられた後、病気入院し、その年度の授業は休止となった。彼はその年のうちに東大を去ることを決意したようだが、すぐにはそれを実現することができず、一九七一年三月に東京大学を五七歳で早期退官した。以後、七〇年代初頭の丸山は心身の不調に悩まされたのか、ほとんど文章を公けにしていない*44。七二年には有名な「歴史意識の「古層」」を発表しているが、これはもっと以前に執筆していたものかもしれない*45。とにかく、彼が徐々に知的活動を再開するのは彼が六〇代に入った一九七〇年代半ば以降のことである。そのなかで、彼は本来の専門たる日本政治思想史の研究に集中し、政治学一般について論じたり政治評論めいた文章を書いたりすることはほとんどなくなった。本人の有名な発言に倣うなら、「夜店」をたたんで「本店」に集中したということのように見える。
 もっとも、一九七〇年代以降の丸山が民主主義論について何も語っていないわけではなく、いくつかの断片的発言でときおり触れている。清水はこの側面に特に注目し、東大闘争/紛争直後の時期に混迷していた丸山は一九七〇年代後半から立ち直り、民主主義の原点を語り始め、そのなかで全共闘との距離をわずかに縮めだしたと論じている*46
 そのことを示すかに見えるいくつかの発言が清水によって紹介されている。たとえば一九七四年の九州大学での講演記録によれば、「僕は、戦争直後はもう少しいい日本が来ると思いました。率直に言って解放感がありました。もちろんいろんなことありましたけど、焼跡民主主義ですね。焼跡民主主義が完全にレールに乗っちゃった。制度化された。だから戦後民主主義ってのイメージ自身が非常に違っている。……それはともかくとして、僕はそういう意味で戦争直後よりはペシミスティックになったと言える」とある*47。ここに窺われるのは、戦争直後の「焼跡民主主義」に期待をいだいた丸山がその後の「戦後民主主義」の実態に失望したという感覚である。深読みするなら、一九六〇年代後半の学生が「戦後民主主義」の実態に不信をいだいたのとある程度似た感覚と言って言えなくもないかもしれない。
 続いて一九七七年の発言では、「ある意味での混沌とした、極端にいえばアナーキスティックなものまで含んだ、多様な可能性を含んだ戦後初期の状況」を原点ないし出発点とし、そうした「軌道が敷かれる前の戦後」と「高度成長期以後の戦後」の違いを強調して、「全てにレールが敷かれ、全てがセメント化され、全てが……規格化され、その型が押しつけられ、それを民主主義と受け取っている若い世代が戦後民主主義クソくらえと思うのは、もっともではないでしょうか」とある*48。これは、「戦後民主主義ナンセンス」論に理解を示すものととれなくもない(もっとも、丸山はこの時期においても、学生たちは制度化された民主主義への反撥にとどまっていて理念および運動としての民主主義という側面への理解を欠いているとしていて、全共闘への批判的姿勢を変えてはいない)。
 それとは別だが、一九八〇年の談話で、丸山は「専門バカ」との批判に教授たちがたじろいだことを批判して、「そういう意味では、大学闘争には意味があった、逆説だけれど」とも語っている*49。こういう風に見るなら、本格的和解には至らないまでも、丸山の全共闘との溝はある程度埋められつつあったのではないかという解釈を清水は示唆している。
 他方、かつて東大全共闘代表だった山本義隆は「自己否定」という言葉がひとり歩きするのを見て「使うのにためらいを感じる」ようになった*50。同じ山本は最近の著作で「現在の私は、丸山批判のようなものをあまり正面に出したくない気分でいます」と書いている*51。清水はこうした例を挙げて、「敗戦後の民主主義が元全共闘の人々によって継承されるまでにも長い時間がかかった」と記している*52。いったん煮詰まった近親憎悪がほどけるのは容易なことではなかったが、とにかく長い年月の後に、ある程度は相互に敵対感情がやわらぐ方向に向かったのではないかという示唆がここにはある。もっとも、それはあくまでもその可能性が見え始めたということであり、全面的な和解とか相互理解とまで言えるものではなかった*53
 
エピローグ――一九八九年前後の丸山
 
 以上、一九七〇年代末ないし八〇年代初頭までの丸山の軌跡を追ってきた。その後、彼は一九九六年に八二歳で死去するまで思索と発言を続けたが、その中で一九八九年前後という時期はある種の転機だったように思われる。転機ということの意味は、外面的な事情と彼の内面の双方に関わる。まず外面についていえば、この時期はソ連で「ペレストロイカ」と呼ばれる大がかりな変動が進行し、八九年にはベルリンの壁が開放されて冷戦が終焉に向かい、九一年にはソ連が解体するという激動の時期だった*54。それはまた、日本では昭和天皇の病気と「自粛」を経て八九年一月の死去に至る時期でもあった。丸山にとって天皇制とマルクス主義が長年にわたって「格闘」の相手だった――もっとも、一九五〇年代後半には両方とも「フニャフニャになり」、そのことが丸山の「スランプ」のもととされていたことについては前述――ことを思えば、その両者がこの時期に最終的な終焉を迎えたことは、丸山にとって深い感慨をもたらしたと考えられる。
 他方、丸山自身に即していうと、それまで著作集刊行に消極的だった彼は、七〇代に入ったという年齢を考慮したのか、著作集の準備を始めてもよいと考えるようになり、関連して、自分の過去に関する聞き取りにも応じるようになった(後に『丸山眞男回顧談』としてまとめられる聞き取りが行なわれたのは一九八八‐九四年のこと*55)。長いこと小人数で続けられていた「正統と異端」研究会も、この時期にとりまとめを目指すようになり、メンバーを拡大して活性化を試みた*56
 そうしたなかで丸山は、長年の「格闘」の相手だった天皇制と社会主義についての考えを改めてまとめることを思い立ったようである。一九八九年には「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」「戦後民主主義の原点」といった文章を書いて、天皇制および民主主義に関する自己の思想の形成について自ら振り返った。他方、社会主義については、回顧談のための聞き取りに列席していた岩波書店編集部によれば、「ソ連東欧圏が激動に見舞われたころは、毎回、この世界史的激動の実況解説で、興奮を禁じえませんでした」とのことで、丸山から「お駄弁り」があったらしいが、その具体的な発言内容は明らかでない*57。その少し後、一九九一年末のソ連解体を経てまもない時期のインタヴューでは次のような発言がある。
 「社会主義といわれると、広い意味では賛成でしたね。それは今でもそうです。だからこのころ腹が立ってしょうがない。社会主義崩壊とかいわれると。……「どこが資本主義万歳なのか」ってね。日本というのはひどいね、極端で。二重三重のおかしさですね。第一にソ連的共産主義だけが社会主義じゃないということ、第二にマルクス・レーニン主義は社会主義思想のうちの一つだということ。それからたとえマルクス・レーニン主義が正しいとしても、それを基準にしてソ連の現実を批判できるわけでしょ。それもしていない。ソ連や東欧の現実が崩壊したことが、即、マルクス・レーニン主義全部がダメになったということ、それから今度はそれとも違う社会主義まで全部ダメになったということって短絡ぶり、ひどいな。日本だけですよ、こんなの」*58
 その他、一九九五年の鼎談でも「この頃、いよいよ本当の社会主義を擁護する時代になったなあ、という気がしているんですよ」と語るなど、同趣旨の発言がいくつかある*59。当時噴出していた社会主義全否定論に丸山が反撥して、むしろ「いよいよ本当の社会主義の時代になった」という天の邪鬼的発言をしていることは、時流におもねることを潔しとしない反骨精神を示すものとして、多くの論者によって注目されてきた。もっとも、これらの発言はどれも断片的なものにとどまり、真意を詳しく説明してはいない。丸山がこれらの発言で念頭においていたのがソ連型社会主義でもマルクス主義でもなく、広い意味での社会連帯主義的な発想だということは明らかだが、それ以上の踏み込みはない。
 「ソ連型でない社会主義」論は決して新しいものではなく、丸山自身およびその系譜を引く人たちによって何十年も前から論じられてきた歴史がある。イギリスのニューレフトへの関心や、日本でも構造改革派(およびその思想的源流としてのグラムシ)への関心については前述した。だが、それらの試行や模索およびその限界をどのように振り返るのかという問題は、ここでは立てられていない。「日本だけですよ。こんなの」と語られる理由も説明されていない。現実には、「ソ連型でない社会主義」「マルクス的でない社会主義」論は、欧米諸国でも日本でも――また、あまり表には出ない秘かな形でソ連・東欧諸国でも――数十年にわたって多様な形で論じられてきた。それらの中には、時により所によりある程度の勢力をなしたものもあるとはいえ、それらが全体として打撃を受けたというのがソ連解体後の状況だった。そのことを思えば、それを「日本というのはひどいね」「日本だけですよ。こんなの」と言って片付けるのは安易であると思われてならない
 今日、ソ連解体から数十年の時日を経る中で、一時期の「資本主義勝利」論およびネオリベラリズムの全盛は翳りを見せるようになり、再び「資本主義の危機」「民主主義の危機」がいわれる状況が生じている。しかし、そのことを指摘するリベラル知識人たちはこれまでのところ積極的オールタナティヴを見出すことができているわけではなく、むしろ左右のポピュリズムに押され気味だというのが厳しい現実である。この状況は、現状への批判的姿勢を保とうとしつつも具体的な展望を見出せずにいるという点で、一九八九‐九一年頃の丸山と相通じるところがあるようにも見える。本稿の冒頭で《迷い、悩み、屈折を重ねた人間としての丸山》という観点を示唆したが、社会主義への両義的かつ中途半端な発言はその象徴と言えるかもしれない。
 
(付記)本稿が試論=私論の域を出ないことについては冒頭で断わったとおりだが、執筆途上で新しい事態に遭遇した。当初の目論見としては、一通り書き上げた後で大学図書館に出向いて関連文献に当たり直し、いくつかの個所について再確認することを予定していたのだが、新型コロナ・ウィルス感染症(COVID-19)の広がりの中で、高齢者は外出を控えねばならなくなり、また大学図書館も閉鎖されてしまったため、再確認の作業を行なうことが不可能となった。心残りではあるが、この状態が短期的に変わるとも思えないので、このままの形でいったん公開し、諸兄姉の批判を仰ぐこととした。
 将来、この試論=私論を改訂することがあるかもしれないが、その場合には、いま挙げた点を補充するにとどまらず、全面的に増補改訂したいという野望がないわけではない。しかし、それが実現するか否かは未知数と言うほかない。
 
(二〇二〇年一‐五月執筆)

*1丸山死後に現われた関係文献としてとりあえず思い出すものを年代順に列挙する。「みすず」編集部編『丸山眞男の世界』(みすず書房、一九九七年)、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、二〇〇二年)、第二章、小林正弥編『丸山眞男論――主体的作為、ファシズム、市民社会』(東京大学出版会、二〇〇三年)、水谷三公『丸山眞男――ある時代の肖像』(ちくま新書、二〇〇四年)、石田雄『丸山眞男との対話』(みすず書房、二〇〇五年)、竹内洋『丸山眞男の時代――大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書、二〇〇五年)、『思想』二〇〇六年八月号(特集「丸山眞男を読み直す」)、苅部直『丸山眞男――リベラリストの肖像』(岩波新書、二〇〇六年)、『KAWADE道の手帖・丸山眞男』(河出書房新社、二〇〇六年)、三谷太一郎『学問は現実にいかに関わるか』(東京大学出版会、二〇一三年)第U部、『現代思想』二〇一四年八月臨時増刊号(総特集「丸山眞男生誕一〇〇年」)、都築勉『丸山眞男、その人、歴史認識と政治思想』世織書房、二〇一七年、松本礼二『知識人の時代と丸山眞男――比較20世紀思想史の試み』(岩波書店、二〇一九年)、三宅芳夫『ファシズムと冷戦のはざまで――戦後思想の胎動と形成1950-1960』(東京大学出版会、二〇一九年)序章および第V部、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会、二〇一九年)、小尾俊人『小尾俊人日誌、1965-1985』(中央公論新社、二〇一九年)など。おそらく網羅的に挙げるならこの数倍になるだろうが、とにかく死去の直後から今日に至るまでほぼ間断なく関連書が出ていることに改めて気づかされる。
*2前注の清水著に加えて、同「重臣リベラリズム論の射程――松沢弘陽・植手道有編『丸山眞男回顧談』」(『政治思想学会会報』第二六号、二〇〇八年七月)、同「丸山眞男、戦後民主主義以前」(九州大学『法政研究』第七八巻第三号、二〇一一年一二月)。なお、『丸山真男と戦後民主主義』五頁によれば、丸山の名前を「眞男」と表記する慣行が一般化したのは一九九〇年代以降のことであり、一九五〇年代末‐八〇年代においては「真男」という表記の方が普通だったとのことで、同書は一貫して「真男」の表記をとっている。
*3この小文は当初、清水著への書評ないし読書ノートのようなものとして書くつもりで執筆し始めたが、書いているうちに、ある程度清水から独立した議論を出してみたいという気がしてきたため、書評とは異なる体裁をとることにした。実際、私見と清水の見解の間には大小いくつかの差異があるが、それにしても清水著が本稿成立の重要なきっかけとなったことは以下の本文や注に見られるとおりである。同氏に深い謝意を表したい。
*4このあたりは、本来ならもっと丁寧に論じるべき論点が多々ある。丸山は学生時代から社会主義思想の洗礼も浴びており、マルクス主義関連の文献も読んでいたから、完全に自由主義と同調したわけではなかった。ただ、戦時下の「非常時」色が濃くなる中で、一種の「人民戦線」的発想から自由主義を評価する考えに傾斜したらしい。また、後に批判的に捉えることになる「重臣リベラリズム」については、誰を代表例として、そのどのような側面をどのように批判するかは一義的でなく、あまり簡単に片付けることはできない。しかし、これはあまりにも複雑な問題であり、ここで立ち入ることはできない。
*5松沢弘陽・植手道有編『丸山眞男回顧談』上、岩波書店、二〇〇六年、二〇三‐二〇五頁、下、一‐六七頁、丸山眞男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」(『丸山眞男集』第一五巻、岩波書店、一九九六年)など。関連して、清水「丸山眞男、戦後民主主義以前」二三一‐二三二頁、苅部『丸山眞男』一三九‐一四一〇頁も参照。
*6清水『丸山真男と戦後民主主義』四六‐四七頁。
*7丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、一九六一年)一七九頁。もともと一九五八年一〇月の講演が翌年一月に毎日新聞に掲載されたものの採録。
*8丸山眞男『自己内対話』(みすず書房、一九九八年)三三‐三四、一五六‐一五七頁(前者は一九五〇年度のノート、後者は時点不明)。
*9『世界』一九五六年一一月号に掲載。後に「スターリン批判における政治の論理」と改題して『現代政治の思想と行動』第二部に収録されたが、そこにはかなり長い追記および「増補版附記」がつけられている。
*10『世界』一九五七年四月号に掲載。後に『丸山眞男座談セレクション』上、岩波現代文庫、二〇一四年に収録。
*11塩川「スターリン批判と日本」(塩川ホームページの「研究ノート」欄に掲載)および和田春樹『スターリン批判』への読書ノート(同じホームページ中の「新しいノート」欄に掲載)参照。
*12構造改革派との関係は、代表的イデオローグたる佐藤昇との交流、また教え子の一人だった安東仁兵衛との接触に象徴される。代表的著作として、梅本克己、佐藤昇との共著『現代日本の革新思想』一九六六年(対談が行なわれたのは一九六四‐六五年)が挙げられる。なお、丸山が中国をどう評価していたかは微妙である。全面肯定ではなかっただろうが、ソ連よりはましという意識があったようにも見える。この点については今後の課題としなくてはならない。
*13丸山の影響下にあった人々によるイギリス・ニューレフトの紹介として、福田歓一・河合秀和・前田康博訳『新しい左翼』(岩波書店、一九六三年)がある。また、酒井哲哉「未完の新左翼政治学?――丸山眞男と永井陽之助」(『現代思想』二〇一四年八月臨時増刊号)一三〇‐一三一頁も参照。
*14「私はどのような意味で社会主義者であるか、もしくはありたいか」に関する簡単な走り書きがある。丸山『自己内対話』二四七‐二四八頁。丸山と社会主義については、三宅『ファシズムと冷戦のはざまで』第一一章も参照。
*15座談会「戦争と同時代――戦後の精神に課せられたもの」『丸山眞男座談』第二巻、一九九七年、二三四‐二三五ページ(初出は『同時代』一九五八年第八号)。
*16丸山眞男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社、一九六四年、第三部への追記、五七一‐五七二頁。
*17同上、増補版への後記、五八四‐五八五頁。なお、これは最終校正時に「タンカを切りたく」なって書き付けた言葉だった。ところが、そのタンカがひとり歩きして有名になったことに丸山は困惑したという。大熊信行とのすれ違った論争について、清水『丸山真男と戦後民主主義』九‐二四頁参照。
*18清水『丸山真男と戦後民主主義』一五八頁から重引。なお、この対談が行なわれたのは一九六七年九月か一〇月だが雑誌公表は六八年一月号のこと。
*19最初の用例は、丸山『自己内対話』五六頁。より広い検討は、清水『丸山真男と戦後民主主義』三八‐三九、五五‐六二、三〇五頁。
*20良知力「革命史における言葉の虚像について」『思想』一九八二年五月号。
*21清水『丸山真男と戦後民主主義』六二頁。
*22立場によって「東大紛争」とも「東大闘争」とも呼ばれる出来事だが、教官としての丸山にとっては「紛争」だったことから、清水『丸山真男と戦後民主主義』では一貫して「紛争」の表現がとられている。
*23東大闘争/紛争の経過については関連文献が多数ある。代表的なものとして、小熊英二『1968』上(新曜社、二〇〇九年)、第一〇‐一一章、小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』(新曜社、二〇一八年)、富田武『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書、二〇一九年)など(これら三著については私は読書ノートを書いて、ホームページ上に公開してある)。教官側の動きについても種々の文献があり、『丸山眞男回顧談』では下巻の21章がこれにあてられている。加藤一郎総長代行の補佐に当たった坂本義和は『人間と国家――ある政治学徒の回想』下(岩波新書、二〇一一年)、第一〇、一一章で内情をかなり詳しく書いている(なお、丸山より一世代若い坂本は多くの点で丸山と近い位置にあったが、一九六九年一月の時点では丸山は坂本の対応に批判的だったことを示す証言がある。『小尾俊人日誌』四一‐四二頁)。その他、いわゆる「造反教官」の立場からの総括として、折原浩『東大闘争総括――戦後責任、ヴェーバー研究、現場実践』(未来社、二〇一九年)、また当時経済学部の助教授だった兵藤サの『戦後史を生きる――労働問題研究私史』(同時代社、二〇一九年)、第W章も参照。
*24東大の民青系活動家のなかにはこの転換に不満をいだく人たちも少なくなかったようだが、とりあえずは全体として党の指令に従った。それから数年後になって、民青系活動家のかなりの部分が党中央から離反した(いわゆる新日和見主義事件)。当事者の回顧として、川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(同時代社、二〇〇七年)、平田勝『未完の一九六〇年代』(花伝社、二〇二〇年)その他があり、研究としては小杉『東大闘争の語り』がかなり詳しく触れている。
*25清水『丸山真男と戦後民主主義』二八二‐二八三頁(批判対象とされる丸山の文章は、『自己内対話』一二九‐一三〇頁)なお、この点と関係して清水は東大闘争における文学部処分問題に大きなウェイトを置いており、闘争全体の始点に関しても医学部処分と文学部処分を同列においている。本書に収録されなかった清水の別稿「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」『国立歴史民俗博物館研究報告』第二一六集(二〇一九年)も参照。他の多くの東大闘争論が医学部処分問題に最大のウェイトを置き、文学部処分はそれほど重視していないのと対比するとき、これは清水の特徴だが、その背後にあるのは、一九六八年末におけるギリギリの収拾工作においてこの点で筋を通すことに重要な意味があったという理解がある(なお、当時、私自身は教養学部前期課程の学生だったため、本郷各学部の事情にはあまり通じていなかったが、医学部処分についてはいろんな情報が届いたのに対し、文学部処分についてはほとんど記憶がない)。
*26清水『丸山真男と戦後民主主義』二〇二‐二〇五頁。なお、佐藤栄作首相の日記は、「昨夜加藤代行総べてカブトを脱ぐ。即ち当方に一任とす。勿論十項目」の覚書〔確認書のこと〕など守る考へのないことが明となった」と記しているという。同、二二四‐二二五頁。
*27代表的には、小熊英二(インタビュー)「丸山眞男の神話と実像」『KAWADE道の手帖・丸山眞男』(河出書房新社、二〇〇六年)、二‐五頁。
*28『丸山眞男回顧談』下、七七、八二、二二二、二六七頁、清水『丸山真男と戦後民主主義』一四八、一八八‐一八九頁。
*29『丸山眞男回顧談』下、二四七‐二四九頁、清水『丸山真男と戦後民主主義』二五五‐二五六頁。
*30清水『丸山真男と戦後民主主義』一三八‐一五〇、二七四‐二七五頁。
*31清水『丸山真男と戦後民主主義』一五〇、二二一、三〇一頁。
*32清水『丸山真男と戦後民主主義』一四五頁、一六七頁の注10。
*33清水『丸山真男と戦後民主主義』二九八頁。
*34和田英二『東大闘争――50年目のメモランダム』(ウェイツ、二〇一八年)の第二部は「ナチ発言」に関する詳しい検証を行なっている。それによれば、毎日新聞報道が軍国主義を先に置き、ナチを後に置いているのに対し、後に吉本隆明らによって広められたヴァージョンではナチの方が軍国主義よりも前に置かれていること、また往々にして六八年一二月の封鎖――これは東大法学部闘争委員会によるもので、教官たちとの間である程度の相互了解があった――と六九年一月の封鎖――これは東大全共闘を支援する諸セクトによるもの――が混同されていることなどの混乱があり、結論的に、ナチ発言は実際にはなかったとされている。これに対して、清水は和田説は論証が不十分だと批判する(清水、一九八頁の注10)。
*35文脈としては、ゼミ生である杉井健二という人に向けて個人的に説教するつもりの発言が杉井ではなく別の記者に聞かれて記事にされてしまったのだというなお従来、この記事を書いたのは内藤国夫と考えられてきたが、実際には松尾康二という記者だったという。また、ナチはユダヤ人教授を大学から放逐していたため研究室封鎖の必要を感じなかったから、「ナチはしなかった」ということ自体は価値評価を離れた歴史的事実だともいう。清水『丸山真男と戦後民主主義』一八〇‐一九六頁。
*36清水『丸山真男と戦後民主主義』一九五‐一九六頁。
*37『週刊読書人』二〇二〇年三月二〇日(河野有理の書評への回答)。
*38『自己内対話』一三〇、一九五頁。もっとも、立ち入っていうなら、丸山は全共闘および「新左翼」系知識人を十把一からげにしていたわけではなかったようである。一つには、やや意外ながら、彼は諸セクトよりもいわゆるノンセクト・ラディカルに対してより辛かったかに見えるところがある。そうした評価は当時法政大学教授だった藤田省三に明瞭であり、藤田は戦略と方針を持ったセクトをある程度評価する一方、ノンセクトに対して厳しかった。『小尾俊人日誌』二五八‐二五九頁(市村弘正と加藤敬事の対談)。丸山も藤田の考えに共感したのかもしれない。また、もう一つには、丸山の眼は主として東大全共闘――その中でも特に法学部共闘委員会――に注がれており、他大学まで含めた全共闘運動一般についてはあまり語っていない。『自己内対話』二二七頁には、日大全共闘を相対的に評価するかに見える文言がある(そのことと、丸山の長男である彰が日大全共闘の活動家だったこととの間にどういう関係があるかは分からないとしか言いようがない)。これらの点については、未解明の課題として残すほかない。
*39「ロマン主義」については『丸山眞男回顧談』下、二六〇頁。古代からの連続性については 『自己内対話』一一九頁。
*40清水『丸山真男と戦後民主主義』二九四‐二九六頁および三一四頁の注33。清水はこの討論会の主催者は実際には東大全共闘ではなかったと指摘し、この催しの過大評価を批判している。この指摘はある程度まで当たっているが、全共闘の雑多性を考えるなら、そうした面が全然なかったかに考えるのは逆の行き過ぎではないかとも思える。私自身の記憶でいうと、この三島討論会に自分自身は出席しなかったし、「変なことをやる奴らがいるな」という感覚だったが、ああいう企画に飛びつく人たちも全共闘のなかには結構いるのだろうなとは思った。
*41『自己内対話』一八五‐一八六頁、清水『丸山真男と戦後民主主義』二六七頁。
*42清水『丸山真男と戦後民主主義』二九九‐三〇〇頁。ここに注34がついていて、塩川の小杉亮子読書ノートの一節が引かれている(同、三一四‐三一五頁)。これは直接には小熊英二に対する反論だが、小熊が一方に行き過ぎた――全共闘は戦後民主主義を全否定したという理解――のに対し、清水は逆方向に行き過ぎてはいないかという気もする。
*43清水『丸山真男と戦後民主主義』一八九、二八三、二八六、二九一頁、三一一‐三一二頁の注20。
*44このこととの関連は定かでないが、丸山の弟子たちの中で特異な位置を占めていた藤田省三と丸山の関係がこの時期に非常にデリケートなものとなり、そのことも丸山を悩ませたようである。この問題に関しては、『小尾俊人日誌』が貴重な資料となっている。
*45この作品について正面から論じるのは私の能力を超えるが、本稿の課題との関連で仮説的にいうなら、全共闘および「新左翼」のうちに「日本的なもの」への先祖返りを嗅ぎつけた丸山は、彼らへの期待に裏切られたという思いを募らせ、そのことが日本的伝統は打ち壊しがたいという宿命論的な理解につながったのかもしれない。彼自身は元来、宿命論的発想をとらないはずだが、民主主義を含めた「外来思想」が入ってきても「古層」は執拗に蘇るという感覚が「執拗低音」の語に表明されているように見える。
*46清水『丸山真男と戦後民主主義』三〇三‐三〇六、三一七‐三一八頁。
*47清水『丸山真男と戦後民主主義』三〇二‐三〇三頁。なお、この講演の録音は長らく行方不明だったが、二〇一四年に九大法学部の倉庫で発見されたとのこと。
*48清水『丸山真男と戦後民主主義』三〇三‐三〇四頁。
*49清水『丸山真男と戦後民主主義』三一三頁の注24。
*50清水『丸山真男と戦後民主主義』三一〇‐三一一頁の注15に引用されている。
*51山本義隆『私の1960年代』(金曜日、二〇一五年)、一二四頁。
*52清水『丸山真男と戦後民主主義』三一八頁。
*53清水著に関する読書会が「戦後研究会」という場で催されたとき(二〇二〇年一月二二日)、出席者たち――その多くはかつての全共闘運動の参加者かあるいはシンパシーをいだく人たちらしかった――の発言には、「いま思えば、あれほど丸山と対立する必要はなかったのに」というニュアンスのものと、「いまでも丸山を許すことはできない」というニュアンスのものの双方があった。ついでながら、かつて全共闘系学生だった人たちと民青系だった人たちの間でも、長期にわたる敵対と憎悪の時期を経て、そろそろ和解に向かおうという気運と依然として相互理解は難しいという感覚の双方がある。
*54このプロセスに関して、とりあえず塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、近刊)の第二部を参照。
*55この聞き取りは一九八八年四月から九一年五月にかけて一六回行なわれた後、大分間隔をおいて一九九四年一一月に「再開第一回」として行なわれ、これが最後となった。『丸山眞男回顧談』下、あとがき、三二七‐三三〇頁。
*56この研究会は当初は丸山、藤田省三、石田雄の三人が中心で、その後は丸山と石田の二人で一九八八年まで続けられていたが、この時期に相対的に若い世代の飯田泰三、杉山光信、松沢弘陽といった人たちを加えた。もっとも、結果的にはこの努力は実を結ばず、「明白な終結宣言を伴わない終焉、いわばプロジェクトの自然的衰弱死とでもいう結果」に至った。石田『丸山眞男との対話』七八‐八三頁。
*57清水靖久「重臣リベラリズム論の射程」一〇頁。
*58「同人結成のころのこぼれ話」『復刻版思想の科学』一九九二年(『丸山眞男集』第一五巻)。
*59座談会「夜店と本店と」(石川真澄、杉山光信と)『図書』一九九五年七月号(『丸山眞男座談』第九巻、岩波書店、一九九八年)。三宅『ファシズムと冷戦のはざまで』三二五‐三二六頁も参照。