『京大1969』という本を読んで
 
 
 1960年代末から70年代初頭にかけての時期に全国各地で燃えさかった大学闘争――いわゆる全共闘運動――については多くの書物が出ているが、最近刊行された松本卓也・福家崇洋・渡辺恭彦編『京大1969――「自由の学風」の闘争史』(青土社、2026年)は、半世紀以上を隔てた地点から当時の京都大学における闘争を振り返った書物である。編者たちは3人とも当時は生まれていなかった世代に属し、そういう人たちが年長者たちを論じたり、話を聞いたりして編まれた本ということになる。
 私は京大について直接知るところは比較的わずかだが、間接的にある程度知っている人物とか事件はいくつかあり、その意味で本書の問題設定に関心を引かれた。京大闘争に限らず、ある程度大きな大衆運動というものは、雑多な人々を引きつけ、その性格も多彩である。従って、その運動を全体として「こういうものだ」と決めつけることはできないし、いくつかの面を描いても、そこからこぼれ落ちる要素は必ずある。私は本書を読んで、これまで知らなかった多くのことを教えられたが、私が多少なりとも知っていたことが全然触れられていないというケースにも気がついた。小さな例を挙げるなら、1969年1月に「京大入試粉砕」を掲げて何人かの東大全共闘学生が京都を訪れ、何人かが逮捕されたが、その中に私の友人も含まれていた。また、この前後の時期に私と同じ組織に属して、ともに運動をしていた京大出身者が複数いるが、そういった人たちは本書には姿を現わさない。これを記すのは批判のためではない。どんなに分厚い本でもすべてを書き尽くすことは不可能であり、ある人にとっては記憶から離れない例も他の角度からすれば視野の外に落ちるというだけの話である。
 本書は3つのパートからなっている。そのうちの第1部は「資料集」と題され、当時のさまざまな文書がファクシミリ版(写真製版)で多数印刷されている。これは丁寧に読めば貴重な資料たりうるものなのだろうが、たくさんの文書をそのまま読んでも、一つ一つの背後にどういう事情があったかはすぐには分からない。私のように京大の事情を直接はよく知らない人間にとっては、この部分を読み解くことは当分できそうにないというしかない。
 第2部は「論考」、第3部は「インタビュー」となっていて、わりと読みやすい文章が収められている。もっとも、その主題にどこまで引きつけられるかは各章ごとに異なる。以下、あくまでも私個人の関心という角度から、ある章はやや詳しく、ある章は簡略に論じてみたい。
 先ず、松本卓也による医学部闘争論がある。それなりに興味深い議論なのだろうし、東大の医学部闘争と比較してみることにも意義があるのだろうが、いまの私には立ち入ることができず、とりあえず放置するしかない。
 次に、小林哲也が野村修(1930-1998年)を論じている。私は当時、野村(京大教養部でドイツ語を教えていた)がラディカルな立場からいろんな発言をしているのをある程度読んだ覚えがあるが、その記憶はおぼろげなものでしかない。本書の小林論文は野村について立ち入って考えるための出発点たりうるものだろうが、比較的短い文章であるため、これだけで何かを考えるというわけにはいかない。
 その次に、池田恭哉の高橋和己論がある。いうまでもなく、高橋は多くの重要な仕事を残した文学者・中国文学研究者であり、多くの人が彼について論じているのは当然である。私は彼のことをそれほどよく知っているわけではないが、とにかくいくつかの作品を読んだし、『憂鬱な党派』については小文を書いたこともある(拙著『脱領域の読書――あるロシア研究者の知的遍歴』人文書院、2025年、第6章)。そうした観点からこの池田論文を読むと、確かに重要な問題を扱っているのだが、紙幅が限られているせいもあって、やや物足りない印象を残す。こういう主題について論じるためには。論文ではなくて一冊の書物が必要ではないだろうか。
 次は、教育学部の大学院入試闘争を扱った駒込武論文である。大学院の入試に関わって粉砕ないし強行阻止を掲げた闘争が展開されたのは類例がほとんどなく、全国的に見ても京大の文学部と教育学部しかなかったらしいという。駒込は歴史家にふさわしく、教育学部大学院入試闘争の経過を丁寧に追っている(なお、駒込自身は東大の教育学部出身だが、後に京大の教育学部に就職して、その教授をつとめている)。京大教育学部共闘会議は当局に公開質問状を提出し、納得のいく回答が得られない限り院入試を延期するよう要求した。実際、入試はいったん中断され、教授会はその後の方針について学生たちと討論するという方針を明らかにした。その後、共闘会議に内部分裂が生じ、そういう中で学外で入試が行なわれた。これをうけた合格発表は、先に公けにされた「相互的討論」方針を踏み破るものであり、教授会内では一部の教員が異論を提起した。その後も種々の亀裂が続いたが、それは表面的に糊塗され、「自己の存在根拠とは何ら関わりのない」研究で糊口をしのぐ状況は今日まで続いていると指摘されている。現役の大学教授によるこのような問題提起は読む者を粛然とさせる。この章はすぐれた論文だと感じられるが、そういう文章を読むと大学院入試闘争が行なわれたもう一つの部局としての文学部はどうだったのかを知りたいという気持ちに誘われる。当時京大文学部に在籍していた谷川稔――本人の言葉では「弱小セクト学生」――の回想によれば、「当時京大L共闘に参加した者にとって、院進学は終生拭い去れない負い目、背教の十字架」であり、「留年や院浪人して「禊ぎ」できなかった筆者には、特注の針のむしろが待っていた」という(喜安朗・北原敦・岡本充弘・谷川稔編『歴史として、記憶として』御茶の水書房、2013年、188頁。なお、前掲拙著『脱領域の読書』127頁も参照)。こういう感覚を生み落とした文学部の大学院入試闘争はどういうものだったのだろうか。
 続いて、吉田寮の入退寮選考権確立をめぐる闘争について論じた大隈榮論文がある。この問題は現在にまで続く重要な意義を持っているようだが、私はあまり通じておらず、ここで立ち入ることはできない。
 その次は、木下知花の「榎美沙子と中ピ連」である。榎の名前は私も知っていたが、詳しいことは知らず、彼女が京大薬学部を卒業して製薬会社に勤務した経歴の持ち主だったということも知らなかった。榎と中ピ連の言動はその奇矯な側面ばかりが伝えられがちで、まともな運動とは見なされないきらいがあった。こうした奇矯な運動はフェミニズムの王道とは別物であり、むしろフェミニズムを失墜させるものだというイメージを私も持っていた。しかし、この木下論文によれば、それは偏見であり、女性が自らの身体への権利意識を主張するという現代的立場の先駆的表明だったという。十分理解できるわけではないが、とにかく重要な問題提起の論文であるように思われる。
 第2部の最後に置かれているのは、京大西部講堂とアングラ文化について書いた福家崇洋の論文である。この章の前半では60年代に再建された関西ブントのことが論じられているが、それとアングラ文化の関係はよく分からない。文化論の観点からは面白いテーマなのかもしれないが、私にとってはよく分からないというほかない。
 第3部は、当時あれこれの形で京大闘争に関わった当事者たちへのインタビューからなる。個々人の内面が分かるところがあって、興味深いパートとなっている。冒頭にあるのは最年長の山田稔(1930年生まれ)である。山田は当時教養部でフランス語を教えていたが、京大闘争で学生に同情し、しかしだからといって積極的に「造反」をアピールするよりも、むしろパロディめいた文章を書いていて、私もそのいくつかを読んだ覚えがある。もっとも、このインタビューは生真面目なもので、かつてのパロディ的な文章しか知らなかった私には意外な発見があった。
 その次に、中国史の小野和子のインタビューがある。女性研究者への差別と闘ってきた経緯が述べられており、末尾で矢野暢のセクハラ事件が触れられている。矢野は当時、京大東南アジア研究エンター所長で、小野が矢野を批判した論文を書いたのに対抗して名誉毀損裁判を起こした。これに対して小野は厳しい闘争を闘い抜いたことが語られている。これを読んで私が思い起こしたのは、東京大学出版会の現代政治学叢書(全20巻)で矢野が「政治発展」という巻を書くことになっていたのが実現せずに流れた(代わりに、総編集者たる猪口孝が書いて穴埋めをした)件である。当時、私はその件を印象深く眺めていた記憶がある(内輪話は、岩下明裕・竹中英俊『日本政治学出版の舞台裏』花伝社、2025年、93-94頁参照)。
 石田紀カのインタビューがこれに続く。石田は公害問題の専門家であり、研究者としてだけでなく、実践的にも取り組んでいる人である。その取り組み方が真摯であるということは人づてに聞いた覚えがある。もっとも、私自身は残念ながらそれ以上のことを知っているわけではなく、ここに書くべきものもない。
 その次が池内了のインタビューである。池内は物理学者だが、ある時期以降は科学の社会的意味のような問題領域についても積極的に発言するようになった。私はそのいくつかを読んで、共感した覚えがある。もっとも、彼は京大から始まって、北大、東大、大阪大、名古屋大、総合研究大学院大学と渡り歩いているので、京大との関わりがそれほど大きいわけでない。
 松久寛の「工学の倫理を問う」と題されたインタビューがこれに続くが、残念ながら、これについては私の言えることはない。
 その次が上野千鶴子のインタビューである。上野はたくさんの文章を書いており、私はそのうちのかなりの部分を読んだことがあるので、このインタビューはそれほど新鮮には感じなかった。しかし、ここにはそれにとどまらず、いくつかの点で眼を引く新しい部分がある。先ず冒頭で聞き手が、上野は連合赤軍事件が「深いトラウマ」となり、「長く沈黙する」ことを余儀なくされたと書いていると指摘したのに対して、湾岸戦争に際して女性兵士の戦闘参加が問題となったことが暴力への女性参加について考え出すきっかけとなったと答えている。この問題はそれ以上発展させられていないが、少し先の方で、「これを言うのは本当に初めてなんですが、私は〔1967年10月に〕赤ヘルのブントの活動家にオルグされました」とある。これは新情報ということのようだが、関西地方は関西ブントが強かったし、上野の他の発言から彼女もその流れの中にあったろうと推測するのは不自然ではない。だから、これだけであればそれほど驚くことはないが、もう少し後の方で次のように語られているのが眼を引く。「少数派になればなるほど、退潮期になればなるほど、集団は追い詰められて過激化する傾向があります。〔中略〕私も長い長い退潮期の中で、少数派に転落していった集団の中で――これは本当に辛くて言いたくないことなんですが――男の子たちを煽る側にいたという記憶があります」。いつまでそうだったのかという点については、1969年4月に文学部に進学した頃に党派を離れたとある。ブント赤軍派が正式に旗揚げするのは69年夏のことだが、それにつながる動きはその少し前に始まっていただろうから、上野もそうした動きに連なっていたということなのだろう。連合赤軍事件はその数年後のことだが、集団リンチが発覚したとき、「やっぱりこうなるか」と感じたと語られている。集団リンチについてはそうだろうが、それが発覚する直前における浅間山荘での銃撃戦についてはどう見ていたか――心中で応援していたのかどうか――については何も述べられていない。以上、これまで語られていなかった部分を取り上げてきた。こういう書き方はやや意地悪な印象を与えるかもしれない。人についてこういうことを書いておきながら自分について何も言わないのはフェアでないから、その点について簡単に触れておく。私は当時、ブントとは異なる党派(中核派)に属していて、赤軍派に対しては何の共感もいだいていなかった。こう書くからと言って自分の先見の明を誇ろうというのではない。当時の私は、暴力闘争(赤軍派の戦術はともかく、暴力闘争一般)を是とする考えをいだきながら、自らそれを担うことのできない臆病さに強い劣等感をかかえていた。そうした暴力闘争至上主義的発想を振るい落とすようになったのは、フェミニズムとの接触による。だから、上野をはじめとするフェミニストたちには大きな恩義をかかえており、深く感謝している。
 中野敏男のインタビューがこれに続いている。私は中野との直接の接触はほとんどないが、私の妻が高校時代に彼と同級だったことから、ごく表面的なことだけは聞き知っていた。高校卒業後、先ず京都大学に入り、学生運動に関与してから、かなり長い空白の期間を経て東大に入り直し、社会学者になったということは一応知っていたが、より立ち入った経過については、このインタビューを読んではじめて知った。それによれば、彼は1970年に京大に入ってすぐに、京大C戦線(教養部戦線)で活動するようになった(なお、全共闘運動は「ポツダム自治会を否定する立場から、自治会の運動ではなく任意参加型」の運動をつくったと述べられているが、これは正しくない。1968年の東大では代議員選挙も行なわれていたし、自治会もあった。自治会と全共闘は最初から二者択一で出発したのではなく、ある程度並行する形で運動が進んだ後に分かれていった)。その中で毛沢東派への傾斜が進み、東京のML派の一部と提携して、マルクス主義青年同盟(マル青同)が形成された。ところが、このマル青同は内ゲバに巻き込まれ、1975年5月には岡山大学の寮を襲撃して、一人の死者を出すまでに至った。中野自身はこの実行行為に関与していなかったが、組織に関与してはいたので、これを痛切に受けとめた。彼はこのときに組織を離れたが、それは彼らの行動を批判するというよりも脱落に過ぎず、心に深い傷が残り、反省も長く苦しいものだったという。彼はこの後3年ほど、金沢に隠れていたが、それは偽名を使っての生活であり、「虚飾に満ちた夜の街での仕事」で収入を確保していたのだという。こういう生活を数年送ってから、大学に入り直して「根本的に考え直してみよう」と思うに至ったという。このような語りは率直なものだが、いくつかの点がはっきりしない。彼はマル青同の中でどういう位置にあり、どのように行動していたのか、内ゲバが始まる中でどのように振る舞っていたのか、また3年間の逃亡生活の後、改めて学問に志したのはどのようにしてか、そうしたことがこのインタビューではあまり明確に物語られていない。その一方では、かつてのC戦線の活動についてはわりと肯定的に振り返られているように見える。こうした問題に正面から向き合うのは容易なことではなく、このインタビューがそこまで踏み込んでいないのは無理からぬことともいえるが、それでも物足りないという感は残る(私自身のことに触れるなら、現在、自分史を何らかの形でまとめようと作業中だが、まだ形を取るには至っていない)。
 続いて、高城修三(ペンネーム)のインタビューがある。芥川賞を取った作家だが、残念ながら私は彼の作品を一つも読んだことがない。そういう人がかつて京大吉田寮に入り、一時はその執行委員長をしたというのは興味深い話だが、どういう人なのかに通じていない私としてはとりたてて取り上げて書くべきことがない。
 その次は、鵜飼哲のインタビューである。鵜飼という人はフランス現代思想に通じた哲学者で、著作も多いが、私はあまり読んだことがない。このインタビューもいろいろと面白い論点に触れているが、残念ながら私の立ち入れる余地はない。
 このパートの最後に、本書よりも前に行なわれた池田浩士のインタビューが載せられている。池田が京大に赴任してから36年後の2004年に定年退職を迎える直前の時期に行なわれたインタビューである。長い期間を取り扱っており、このインタビューも相当長文である。あちこちに興味深い発言があるが、私は池田の仕事に通じていないため、この章についても立ち入って論じることはできない。
 全巻の末尾に、藤原辰史によるエピローグが置かれている。藤原はまだ若い人だが、多くの著作や論文を書いている。私はその全容を知っているわけではないが、いくつかの文章に接して、強い印象を受けてきた。本書では、いくつかのインタビューの聞き手となっており、本書の成立に大きな役割を果たしているように思われる。このエピローグ自体は比較的短いものであり、とりたてて何かを取り上げる必要を感じさせるものではない。ただとにかく、駒込武や藤原のような現役の京大教員が京大闘争の歴史を振り返る著作に参加していることには大きな意味があるように思われる。
 あらかじめ断わっておいたように、この小文はあくまでも私の個人的関心に引きつけて書いたものなので、あまり一般性を持つものではない。各章への感想はやや長めのものとごく簡略なものとがあって、バランスのとれたものではない。そういうものではあるが、私にとってこういう本を読んで、こういうことを考えたのには大きな意味があったと感じる。
 
(2026年3月)