拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』をめぐって*1
 
塩川伸明
 
T 本書の狙い
 
 @拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)の狙いを一言で言えば、「地域ごとの各論を踏まえた総論」ということになる。15の連邦構成共和国すべてのほか、代表的な自治共和国・自治州を加えて約20の単位について、それぞれ一次資料に基づいた研究を積み重ね、それと連邦中央の動向をかみ合わせることで全体像を描き出すことを試みた。これがあまりにも野心的過ぎる無謀な試みだということは百も承知の上だが、次世代の研究者たちがもっと精密な研究を進めるための踏み台ないし捨て石となることを目指した。おそらく今後は、地域・時期・論点のどれをとっても各論的な研究が活発化するだろうが、それだけでは、それらの相互関係がつかめなくなる恐れがある。その意味では、本書のような無謀な作品にもそれなりの存在意義があるのではないかと考えたい。
 取り組みはじめた時点では、資料上の限界から大まかな概観以上のことはできないという前提の上で、「できるだけ幅広い視野を持った概説」に取り組もうと考えていた。手の届く資料が限られている以上、その範囲であれば一人の人間でも一通り読むことができるだろうし、それに基づいて一応の全体像をまとめることができるのではないかと考えた。
 そのようにして出発したことに基づく「概観的書物」という性格は、大きな意味では、その後もあまり変わらなかったが、時間を経るうちに、当初ごく少なかった資料が――アルヒーフ(文書館)の公開にせよ公刊資料の増大にせよ――どんどん増えてきて、とても追いつけない状況となった。資料の海の中でアップアップせざるを得なくなり、それでいて「各論を踏まえた総論」を書こうという野心は持続した。そのため、どうまとめあげられるものか見当が付かないままに資料を集め、乱雑な星雲状態の草稿を書きためるという状況が長いこと続いた。それでも、年齢と体力の限界を意識して、とにかく自分にできる限りのものをまとめようとして書き上げたのが本書である。
 
 A最重要の主題としては、「現存した社会主義体制の最後」という問題と「多民族連邦国家の解体」という問題とがある。
 私はこの間ずっと、ややもすれば同一視されがちなこの二つが実はイコールではないということを強調してきた。本書では、二つの問題の区別を前提して、後者の方に力点をおいた。もっとも、二つの問題は完全に無関係ではないことから、前者についてもある程度論じるという形になった。
 
U 研究経過
 
@1991年8月
 たまたまクーデタの時期にモスクワに居合わせた。クーデタが短期間のうちに失敗に終わり、ソ連共産党が一挙に解体に追い込まれるのを目にする中で、「これでペレストロイカは終わった」ということを強く感じた。そして、今やペレストロイカが終わったからには、これまで現状分析の対象としてきたものを今後は歴史研究の対象としてもよいのではないかと考えた。多くの同業者のうち、現代に力点をおく人はソ連解体後のロシア・旧ソ連諸国の現状分析を続け、歴史に力点をおく人は古い時代(多くは帝政期あるいはスターリン時代)の研究に向かったが、私はそのいずれでもなく、「歴史としてのペレストロイカ」研究を始めた。このような選択をした人は、よかれ悪しかれ、他にはほとんどいないのではないかという気がする。
 
A1990年代から2000年代へ
 1999年に長期在外研究に出発する直前に、一種の序論として、『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』(勁草書房、1999年)を刊行した。これはいわば「理論編」であり、「実証編」のための素材をモスクワ滞在中に集めるという狙いがあった。
 2000年夏に長期在外研究を終えた時点では、主な素材集めはこれで一段落したように感じたが、実際にはとてもそれどころではなく、その後も長期にわたる補充作業を続けた。そうした中で、全体を過度に厚いものにしないためには、歴史的背景を別個にまとめておいた方がよいのではないかと思い立ち、『多民族国家ソ連の興亡』(全3巻、岩波書店、2004-07年)を刊行した。先の『現存した社会主義』に続いて、いわば第2の序論を書いたことになる*2
 
B2013年、定年退職
 まとまりのない星雲状態の草稿を長らく書きためてきたが、定年退職という区切りを迎えて、自分の年齢と体力を考慮するなら、どんなに不十分であれ、とにかくこの段階でとりまとめてしまうしかないと決断した。その時点では、最終的とりまとめは2、3年で済むのではないかと思ったが、意外に長引いた。
 
C2017年、ロシア革命100周年アニヴァーサリー
 100年というのは大きな区切りであるため、たくさんの記念企画があり、私もいくつかの文章を書いたり、研究会やシンポジウムで発言したりした。それらの文章を中心に編んだのが前著『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)である。前著と新著はもちろん別々の作品だが、新著の仕上げに集中している中で前著を編んだため、新著の問題意識が前著にも反映し、ある程度共通する性格を持つことになった。新著では連邦再編の試みが国家の解体に行き着く過程の追跡に最大の力点をおいたが、前著ではその背景に当たるような諸問題について幅広く論じた。先に刊行した『現存した社会主義』と『多民族国家ソ連の興亡』が本書をとりまとめる前の2つの序論だったとすれば、『歴史の中のロシア革命とソ連』はいわば本書のスピンオフのようなものということになる*3
 
D長期の作業の中でどのような変化があったか
 人によっては、どこかの時点で決定的な視座転換を経験したとか、何らかのクルーシャルな資料に接して見方をドラスティックに変えたというようなことがあるかもしれない。しかし、私の場合、どこかで決定的な変化があったということはなく、どちらかというと淡々として作業を進めてきた。それでも、あれこれの新資料に接したり、他人の研究から示唆を受けたり、自分の草稿を見直したりしているうちに、少しずつ見方が変わってきた面はもちろんある。そうした変化は、個々には比較的小さなものだとしても、それらが長い期間にわたって積み重ねられていくうちに、その累積結果としては、当初よりもかなり隔たってきたように感じられる。
 かつてペレストロイカを現在進行形で観察していたときには、当然ながら、あれこれの動きに共感したり、危惧を覚えたり、反撥したりしていた。ただ、自分は当事者ではなくあくまでも外部からの観察者だという自覚があり、「こうすべきだ」とか、「こんなことをするのは馬鹿げている」といった論評は控えてきた。そして、自分が共感する動き――主として、いわゆる「改革派」――に対しては「ひいきの引き倒し」にならないよう、その中の否定的側面を見落とすまいと努めたし、逆に反撥する部分――主として、いわゆる「保守派」――に対しては彼らにも彼らなりの論理があるのだということを認識しようと努めてきた。そうはいっても、それは「心構え」のレヴェルにとどまり、どうしても眼前で急転回する事態に翻弄されて、「泣くな、笑うな、理解せよ」という箴言――元はスピノザらしいが、トロツキーの好んだ言葉――を守ることができずに、大喜びしたり、泣きたくなったりしたことも稀ではない。大まかにいって、1989年秋の東欧激動や「ベルリンの壁」開放あたりまでは大喜びする面が大きかったが、その後、ペレストロイカが一種の転機を迎える中で次第に懸念が強まり、はらはらしながら見守るような心境になっていった。
 いま述べたように、自分が共感する動きに対しては「ひいきの引き倒し」にならないように注意し、自分が反撥する部分にも彼らなりの論理があるのだということを認識しようと努めるという姿勢は当初からのものだが、はじめのうちは単なる「心構え」に過ぎなかったものが長い作業の継続の中で次第に内実を与えられてきたように感じる。だからといって、かつて共感していた「改革派」はまるで間違っていたとか、かつて反撥していた「保守派」の方こそが正しかったのだというような、かつて優勢だった見解と正反対の極論に走るのでもなく、できるだけ多面的なアプローチを通してバランスのとれた見方をするよう心がけてきた。不十分ながらそれがある程度進展したのは、もちろん多数の資料の出現のおかげだが、それだけでなく、時間の隔たりによって、かつては熱く胸を騒がす対象だった出来事が、もはや「よしかれあしかれ過去のものだ」と見えるようになってきたという面も大きい。「歴史として見る」とはそういうことではないだろうか。
 もっとも、完全に距離を置ききって、何の共感も反撥も懸念も覚えなくなったということではない。もしそのような感覚になってしまったなら、そもそも研究意欲も持続しないかもしれない。かつて胸を騒がしていた当時の感覚を何ほどか残しながら、それに左右されることがあまりなくなり、できるだけ多面的でバランスのとれた像を淡々と描写するのが目標だという風になってきた。それがどこまで成功しているかは自分で云々すべきことではなく、まさしく読者の審判に委ねるほかない。
 
E各種回想および新資料類の意義
 回想にせよ、新資料にせよ、今まで知られていなかった情報がみつかると、「これでとうとう真実が明らかになった」という感覚を呼び起こしやすい。実際、「新資料発見に基づく画期的な新研究」と称している作品を読むと、しばしばそういう感覚が誇らしげに表出されている。しかし、そこで「新発見」とされたのとは別の回想や資料にぶつかると、「別の角度からの真実」があったということに気づかされる。
 同じ出来事ないしテーマに関する資料の種類が増えてくるにつれて、それらを相互につきあわせて、相対的にバランスのとれた見方が可能になる。これはどこまで行っても切りのない作業であり、どこかで完成ということはありえない。とはいえ、一つの出来事について異なる見地からのいくつかの資料に接して、それらを見比べる作業を進めていくと、ある程度の安心感がわいてくる。
 
V 総論部分について
 
1 大きな流れ*4
 
@ 前提
 「ソ連体制およびソ連国家はどのようにして終末を迎えたか」という問いに対して単一の答えを出すのではなく、重層的に論を積み重ねる形で考えたいというのが私の基本的発想であり、有志舎本の第3章で「後期社会主義」という概念を出したり、第4章で「ペレストロイカの初期・中期・末期」という区分を出したのは、そうした重層的考察への布石という意図があった。ソ連の終末は必然だったか否か、それは自然な成り行きという意味での「自壊」だったのか、他の道がありえたか等々の問いがしばしば出されるが、これはそもそも無限定に答えられる問いではない。ソ連史の全体を念頭におくのか、そのうちの「後期社会主義」の局面に注目するのか、その中でもペレストロイカ開始後を取り上げるのか、さらにペレストロイカの中でも初期・中期・後期のどの局面に注目するかによって、答え方が異なってくるはずだというのが私の考えである*5
 ゴルバチョフ期の時期区分をより細かくするなら、「ペレストロイカ初期」に先だって「最初期」(ゴルバチョフ登場からペレストロイカ開始まで)がある一方、「後期」に続く「最末期」があった(「ペレストロイカ末期」は1990-91年頃を指し、1991年8-12月は「最末期」ということになる)。「体制」の最後と「国家」の最後を区別する観点からいうなら、「体制」は「末期」の段階で事実上の終末に行き着いていたが「国家」が解体したのは「最末期」のこととなる。以下、こうした時期区分に立って簡単に変化の過程およびそこにおいて注目すべきポイントを記してみたい。
 
A「最初期」(ペレストロイカ前夜)について
 ゴルバチョフ登場の意味を考えるには、ブレジネフ末期の状況を思い起こす必要がある。広く指摘されるように、当時、老人政治は極点に達しており、ある種の「手詰まり」が感じとられるようになっていた。老人政治には生理的な限界がある以上、当然ながら集団的世代交代が迫っていた。もっとも、それがどのような政策変化をもたらすかは別個の問題であり、それがペレストロイカに直結したわけではない。つまり、ペレストロイカそのものが予感されていたわけではないが、なにがしかの変化が迫ろうとしていたということである
 ブレジネフ期に代表される「後期社会主義」においては、イデオロギーの空洞化・儀礼化が強まっていた。だからといって、イデオロギーが単純に無意味化したというわけではなく、体制存続の危機が迫っていたとはいえない。儀礼には儀礼としての意味があり、誰もがそれを守るだろうという想定が広まっている間は、体制はとりあえず安定しうる。他面、内的信念は脆弱化していたから、新たな条件の下で変化が始まると、驚くほど急速に体制が終末に向かうことになった。つまり、正統性が内的に脆弱化していながら、その脆弱性がなかなか表面化せず、外面的安定性を保持するという奇妙な二面性がブレジネフ期の特徴をなしていた。
 ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと最高指導者の死去が相次いだ後にゴルバチョフを書記長に選出した党エリートたちの思惑を考えるなら、若手指導者への待望が指導部レヴェルに広がっていたと考えられる。そうした若返りは何らかの改善ないし刷新をもたらすだろうという合意もかなり広く分かち持たれていた。問題は、「何らかの改善ないし刷新」の中身である。現体制の基本的構造を保存しながら、その部分的改良ないし改善を進めようとするのがアンドロポフの路線だったが、ゴルバチョフ最初期においては――ゴルバチョフ自身も含めて――そうした「改善」路線の継続が想定されていた。ここまではかなり広い合意があったが、いったん始まった変化は、そこにはとどまらなかった。
 
B「最初期」から「初期」へ
 ゴルバチョフは書記長に選ばれた時点で明確な改革構想を持って登場したわけではない。だが、いわゆる「改革派」系知識人を側近として集める中で、徐々に変化の内容を拡大するようになった。そうした拡大が進む中で、「保守派」と呼ばれる潮流が――はじめのうちは秘かに、次第により公然と――現われ、当初は一体だった指導部内での分岐が進行するようになった。もっとも、いわゆる「保守派」は旧体制そのままの固守を目指していたわけではなく、アンドロポフ流の「改善」路線の踏襲をよしとし、ゴルバチョフがそこから離れたことを批判するというのが基本的構図である。
 ゴルバチョフ登場から約一年後の1986年春には、「初期ペレストロイカ」とも呼ぶべき局面が始まった。後のエスカレートと対比していえば、これを「穏健ペレストロイカ」と呼ぶこともできる。この当時の変化は、後から見ればささやかなものだったが、当時はそれでも画期的なものと見えた。その雰囲気を活写したものとして、和田春樹『私の見たペレストロイカ』(岩波新書、1987年)は当時の状況をよく伝えている。と同時に、その後の変化を見届けた上で振り返っていうなら、本書はまだ牧歌的で夢のあった時代の産物だという印象を抱かされる。
 
C「初期」から「中期」への移行
 初期に追求された「社会主義改革(あるいは社会主義の再生)」はそのものとして完結することはできず、「脱社会主義化をはらむ体制転換」へと移行した。前者がその枠内にとどまり得なかったということは、指令経済と一党制を柱とする従来型の社会主義体制を部分的な改革や修正によって再生させることはできなかったということであり、その意味では、「社会主義体制の改革/社会主義の再生は不可能だった」という言い方に理がある。
 もっとも、「社会主義」という言葉は定義次第で融通無碍に解釈できるので、この言葉を最大限に広く定義するなら、かつて「社会主義」と考えられていたものをほとんど全て放棄しても「まだ社会主義の枠内だ」と言って言えないわけではない。これは言葉の定義次第であり、定義に関わりなく正しいとか正しくないと決められるような事柄ではない。一般に言葉というものは狭義・広義・最広義など、種々の定義がありうる。研究者が分析概念として言葉を使うときには、あまり広すぎる定義は無内容になりやすいことに注意すべきだが、学者以外の人々の実際の言葉遣いとしては非常に広い定義で使われることがよくあるという事実を視野に入れないわけにはいかない。特に政治家は、あえて非常に広い定義をとることによって、異なるものを「同じ」であるかに見せかけるレトリックを利用することがある。研究者は自分の分析概念としてはこれに幻惑されるべきでないが、研究対象としてはそういうことがあるという事実を確認しておく必要がある。ゴルバチョフが遅い時期まで自分は社会主義の理念に忠実だと言い続けたのも、その典型例である。
 ペレストロイカ中期以降の「改革派」が目標としたのは、もはや従来的な意味での「社会主義」の再生ではなく、市場経済およびリベラル・デモクラシー型政治制度を基本的に受容した上で、そこに部分的に「社会主義的」要素を加味した政治経済体制への移行とまとめることができる。これとセットにして、対外面では面子を失わない形での冷戦終焉が目指された(対外面については3で後述)。
 これは従来の体制と原則的に異なる体制への移行を意味するが、「社会主義的」な粉飾を施すことで質的変化を目立たなくさせ、そのことによって抵抗をなるべく小さくし、混乱とコストの小さい形で移行を実現しようと試みたということであり、いわば「〔体制移行の〕軟着陸」路線と呼ぶことができる。別の比喩でいうなら、「社会主義の安楽死」路線――旧来の社会主義体制から事実上離脱しながら、その露骨な明示を避けることによって抵抗を最小限にとどめようとする――ということができる。
 軟着陸の一つの重要な要素は、共産主義から(広義の)社会民主主義*6への事実上の転化である。共産主義と社会民主主義は長らく「社会主義」の二大潮流として対立し、互いに相手を「偽の社会主義」と見なしてきたが、この時期のソ連の「改革派」は共産主義の社会民主主義への接近をよしとする考えに傾斜していた。長らく対立していた論争相手への接近は、はじめのうち、あまり公然たる形をとることができず、それと明示されない形での秘かな接近という形をとったが、その接近は次第に明瞭なものとなっていった*7。この点で大きな役割を果たしたのはシャフナザーロフとチェルニャーエフという二人の補佐官である。彼らはブレジネフ期のうちに内心で社会民主主義に近づいており、その立場から体制内改革を説いていた。ゴルバチョフ自身はそういう考えを持っていたわけではないが、彼らを補佐官とすることによって、次第にその影響を受けるようになった*8。もっとも、ゴルバチョフと補佐官たちの間には微妙な差異と緊張もあり、そうした緊張関係の展開も歴史の興味深い要素をなしている。
 
D「中期」から「後期」への転化
 「軟着陸」路線が具体化されていくにつれて、種々の困難性が表面化し、左右両極からの批判も高まったのが後期の特徴である*9。この時期の対立の基本構図を比喩的に説明するなら、「社会主義の安楽死」路線に対して、「安楽死などではなく、一挙に殺害してしまえ」という立場をとるいわゆる急進派と、「安楽死ではなく、あくまでも社会主義再生を目指すべきだ」という立場をとるいわゆる「保守派」がゴルバチョフの中道路線を挟み撃ちにしたということになる。この攻防は1991年の8月政変で頂点に達した。
 
E「最末期」
 1991年8月クーデタの失敗によって全ては決したかかの通念が広まっている。しかし、実際には、8月末から12月にかけて数ヶ月の攻防があった。特に重要なのは、ロシア共和国指導部内で路線が分岐しだしたことである。8月末の時点でソ連指導部の弱体化とロシア権力の地位上昇は明確だったが、ロシアの中での路線闘争――連邦全体の改革を率いるロシアか、「ロシア一国社会主義」か――が浮上したことにより、不透明な情勢が現われた。エリツィンが長期休暇を取り、しばらく態度を明らかにしなかったことも、これに拍車をかけた(10月に休暇から復帰してからも、しばしば読みにくい態度を示した)。
 この時期の政治闘争の主要な争点は、市場経済化の手法――いわゆる「ショック療法」をとるか否か――および同盟条約問題――分権的にもせよ同盟を維持するのか、それとも国家そのものを解体するか――の2点にあった。この二つは論理的には次元を異にするが、ロシア指導部にとって、他の共和国と足並みをそろえつつ一挙的な価格改革を実施するのは至難だったことから、ショック療法採用と「一国資本主義」路線とがリンクする形で採用されることになった。
 
2 「軟着陸」路線の評価
 
 「軟着陸」の実現が極度に難しかったこと、また結果的に成功しなかったことは明らかである。私は有志舎本でも『国家の解体』でも、ペレストロイカ中期から後期にかけて「軟着陸」路線が各種の困難をかかえながらも一定期間模索されたことについてかなり詳しく書いたが、それは「成功したはずだった」と考える――いわゆる「未練論」に立つ――ことを意味するわけではない。この路線の実現が完全に不可能だったとまで言えるかは微妙だが、とにかく成功可能性が非常に低かったことは明らかであり、それが実現しなかったことを「惜しいチャンスを逸した」と残念がるわけではない*10
 この問題は歴史研究における価値評価という問題と関わる。過去に起きた現実に対して、「もっとよい道」がありえたかどうかを考えることは「未練論」に陥りやすい。しかし、他の可能性が一切ありえなかったという必然論――あるいはむしろ宿命論――に立つなら、硬直した歴史の見方になってしまう。ここで必要なのは、ありうべきオルタナティヴを念頭におきつつ、しかし、「よりよきオルタナティヴが実現したはずだ。それが実現しなかったのは、残念な偶然に過ぎない」とする未練論をも斥けることではないだろうか*11
 大きな犠牲と混乱を伴うハードランディングに比べるなら、より小さな犠牲とコストで体制転換を乗り切る「軟着陸」の方が「よりよい」ものだったと考えるのは、別段おかしなことではない。そして、そうした「よりよい道」を探ろうとした人たちの営為を跡づけて、記録することも無意味ではないはずである。ただ、そうした人たちの成功可能性を過大評価するなら、現実離れした空論になる。私はゴルバチョフだけでなくシャフナザーロフやチェルニャーエフといった補佐官たちの提言をかなり重視したし、それ以外にも何人かの知識人が、紛争を煽るよりも合意による解決を求める提言をしていたことを各所で紹介した。しかし、そうした提言が実現する可能性が高かったという描き方は避け、その種の提言は無力なものにとどまったことをその都度指摘した。たとえ現実政治的には無力だったにせよ、より理性的な道を提言する人がいたというのも一つの歴史的事実であり、「これが実現したはずなのに」という未練意識なしに、とにかくそうした提言があったということを一つの事実として書き記すことにはそれなりの意味があるのではないかという意識がその背後にあった*12
 補足するなら、「解体の不可避性をどう考えるか」および「"point of no return"はどこにあったのか」という問いは*13、多くの人が共通に抱くであろう疑問だが、この問いに対しては、「不可避性」あるいは「必然性」という言葉をどの程度強いものとして捉えるか――100%の実現確率を想定するのか、95%以上ということか、90%か、80%か等々――によって答え方が異なり、また現実の歴史においてはその確率が時間の経過の中でいくつかのステップを踏んで変化したと考えたい。ゴルバチョフの連邦/同盟再編の試みが成功する可能性はもともとあまり高くはなかった――「それが実現するはずだったのに、惜しいチャンスが偶然的要因によって失われた」というような未練論はとらない――が、それでもはじめのうちは完全に無視できるほど極小というわけではなかった。1991年8月政変が選択の余地を大きく狭める画期だったことはいうまでもないが、有力ライヴァルたるエリツィンの態度が不明瞭だったせいで、なにがしかの不確定性がなお残った。12月8日のベロヴェジャ合意は更に大きな画期だが、この時点では3人の首脳の合意だけで国家解体を確定することができるのかどうかという問題が残った。3共和国の議会が――それぞれに異なったニュアンスの留保を伴いつつではあるが――ベロヴェジャ協定を批准し、中央アジア諸国がアシガバート会議で――これまた若干の留保付きだが――独立国家共同体(CIS)への合流を決めたことにより、国家解体は最終的に確定し、ゴルバチョフも抵抗を断念した。こうした一連のステップはそれぞれに"point of no return"の候補と見なすことができるが、それは観点次第であり、どれか一つを排他的に「正解」とする必要はないだろう。
 
3 対外面――冷戦の終わり方
 
 私の書き方が十分明快でなかった面もあるが、「冷戦の終わり方」について改めて考えてみるなら、a)相互接近と和解としての冷戦終焉、b)「威厳を保った整然たる後退」、c)「算を乱した壊走」の3通りに分けて考えるのが適切と思われる*14。ゴルバチョフの当初の願望はaだったが、ある時期以降、その不可能性が明白になった。その意味では、これを幻想と批評するのは正しい。もっとも、これが可能だということをゴルバチョフが信じなかったなら、そもそもこのプロセス全体が始まることもなかったろう。従って、これは幻想だとしても、歴史に一定の役割を演じる有意味な幻想だったといえるのではないか。
 aが行き詰まった後の選択はbとcいうことになるが、この段階では主導権は欧米側にあったから、ソ連側の対応の巧拙もさることながら、欧米の政治家たちがbをどこまで容認しようとしたか、それともむしろcを選好したのかという問題を考える必要がある*15。先ずアメリカについて言うなら、レーガン期およびブッシュ期にそれぞれ国務長官を務めたシュルツとベイカーはbを重視していた。逆にcを鼓吹した急先鋒はチェイニー――ブッシュ(父)時代の国防長官、後にブッシュ(子)のもとで副大統領――だという点で衆目の一致がある。1989年初頭にブッシュ政権が発足した直後、しばらく対ソ政策が定まらない時期が続いたが、その後、チェイニーは対ソ外交から外された模様である*16。その後のブッシュ政権で重要な位置を占めたスコウクロフト(安全保障担当の大統領補佐官)はc寄りの立場をとっていた。こうしてブッシュ大統領は、bを主唱するベイカーと、cの立場に立つスコウクロフトの上に乗って、両者の間でバランスをとっていたように見える*17。その他に、レーガンの対ソ政策アドヴァイザーをつとめ、1987-91年には駐ソ大使となったマトロックの二冊の回想は、彼がbの立場に立っていたことを示している*18
 西ドイツの場合、コール首相(キリスト教民主同盟)とゲンシャー外相(自由民主党)の間に連立政権内の微妙な差異があり、ゲンシャーは時として最重要の政策決定から排除されたりしたこともあるが、とにかくゲンシャーはb路線の代表者だった*19。その他、イギリスのサッチャーおよびフランスのミッテランも、ゴルバチョフにbの余地を与えるべきだと考えていたが、彼らの役割は米独に比べれば小さかった(またサッチャーは英国内で孤立しつつあった)。ともかく、欧米の主要政治家たちの態度が統一されていない中で決定的な位置を占めたのはブッシュとコールだが、二人とも必ずしも一貫していたわけではなく、ブッシュはベイカーとスコウクロフトの間で揺れていたように見える。あえて推測するなら、ブッシュは主観的にはbを目指し、それが実現できると考えていたが、ソ連情勢に対する読み間違いのために、bのつもりでいながらcになってしまったのではないか。この仮説に立つなら、ゴルバチョフが「威厳を保った整然たる後退」を成し遂げることができずに「算を乱した壊走」に至ってしまったのは、ブッシュ(やコール)がソ連情勢を読み誤ったことを一つの要因としていたとも考えられる。
 なお、冷戦研究会での合評会において吉留公太はスコウクロフトとベーカーの対比に触れながら、後者の影響力は早い時期から低下していたと指摘した。これは重要なポイントであり、私もなるほどと感じた。ただソ連側とりわけシェワルナゼ外務大臣の目から見れば、彼の外交交渉の相手はベーカーおよびゲンシャーであり、たとえアメリカおよび西独国内でベーカーやゲンシャーの路線が有力でなくなっていたとしても、シェワルナゼはベーカーとゲンシャーを信じ、彼らに期待をつないだと考えられる*20。そこにはある種の甘さがあったと論じることもできるかもしれない。とにかく、交渉の直接担当者たるベーカーとゲンシャーが対ソ協調を重視するかの態度をとったことは、ソ連側に一種の幻想を与えたように思われる*21
 
4 連邦/同盟再編の試みについて
 
@連邦/同盟再編に関する軟着陸路線
 ペレストロイカがある程度進んだ段階では、従来の集権的な連邦国家をより分権性の高い同盟ないし共同体に再編すべきだという点では、大多数の関係者間に大まかな合意ができつつあった。この合意をゴルバチョフと諸共和国代表の交渉を通して具体的な条約や関連協定にまとめあげようとしたのが、1991年4月の「9プラス1」およびそれに続く「ノヴォ=オガリョヴォ交渉」であり、これを連邦/同盟再編に関する「軟着陸」路線と呼ぶことができる。
 問題は、大まかな合意は一応あっても、それをどう具体化するかという点では異論が続出し、交渉は難航したたという点にあった。なお、ここにおける異論は必ずしも《中央vs諸共和国》という構図ではなく、むしろ諸共和国間に複合的な対立があった(つまり、諸共和国は一致団結して中央と対決したわけではない)。
 いずれにせよ、多数の当事者たちの合意を取り付けるのは非常に複雑かつ困難な作業だった。その点に注目するなら、その試みが成功しなかったのは「必然」だった、つまり無駄な努力だったと見ることもできる(考えようによっては、合意など重視せず、一方的に結論を押しつけた方が簡単だったという見方もありうる)。とはいえ、そのように断定するのは後知恵史観になる。本書では、成功可能性が小さかったことを見据えつつも、とにかくそういう試みが一定期間持続したことを確認した。
 従来の研究では、共和国指導者たちがゴルバチョフに反抗的だったということばかりが強調されがちな傾向があった。だが、拙著で示したように、ゴルバチョフ批判の急先鋒たるエリツィンも、ときとしてゴルバチョフに妥協的・協調的態度を示したことがある。ナザルバーエフはもっとゴルバチョフ寄りだった。アメリカの研究者ヘンリー・ヘイルは、ゴルバチョフの改革構想は、それ自体としていえば成功可能性があったし、現にそれに近づいた、それが崩壊に行き着いたのは偶発的な事情による、と論じている*22
 話を広げていうなら、歴史上の他の大国の解体との比較、とりわけ大英帝国の英連邦への転化との比較をどう考えるかという問いが立てられる*23。大英帝国の英連邦への転化にせよ、アメリカ合衆国、ドイツ連邦共和国そのほか様々な連邦もしくは複合国家との比較という論点は、本書執筆中に私の念頭に一貫してあったものである(十分な知識がないため、詳しく立ち入ることはしなかったが)。そればかりか、当時のソ連の様々な専門家たちの頭の中にも、他国との比較という論点が意識されていたことを窺わせる資料はあちこちにある。このように(社会主義体制をとらない)他の複合国家との比較が可能だというのは、大変興味深い事実である。
 もっとも、ソ連の場合、社会主義体制をとっていたことと連邦制の間には密接な関係があり、両側面を完全に切り離すわけにはいかない。しかし、ペレストロイカの末期には、事実上の脱社会主義化が目指されるようになる中で、(社会主義体制をとらない)他の複合国家との比較という論点が浮上し、他国の経験を教訓化して生かそうとする試みもあった。その試みが結果として成功を収めなかったのは冷厳な事実である。もっとも、かつて危機を比較的うまく乗り切ったかに見える英連邦およびその中核たる連合王国で、今日、ブレグジットを契機に新たな分解の可能性が浮上している点も注目に値する。
 
A全面的内戦の回避
 以上では、軟着陸がある程度試みられながらも成功しなかったという観点から考えてきた。しかし、「軟着陸」とか「ハードランディング」とかいう言葉は比喩であるため、観点を変えてみるなら、「それほどハードではなかった」と見ることもできないわけではない。ユーゴスラヴィア各地で起きたような流血の内戦がソ連全土で起きるという状態を想定して、それとの比較でいえば、「最悪の事態は避けられた」「完全な軟着陸ではないまでも、それに近かった」という言い方もできる。では、そうなったことの理由は何か。
 ソ連解体が全面的な内戦を伴わなかった理由として最も大きいのは、それまでの連邦制国家構造において連邦構成共和国という地位を持っていた単位が名目的にもせよ「主権国家」という体裁を付与されており、「擬似国民国家」的な体裁を持っていたこと、各共和国ごとに民族エリートが形成されており、特にブレジネフ期にその権力が拡大していた――アンドロポフおよび初期ゴルバチョフはそれを揺さぶろうとしたが、成功しなかった――ことが挙げられる*24。連邦構成共和国が「主権国家」だというのはもちろんフィクションだったが、ペレストロイカの過程でフィクションに内実が与えられ、一種の「受け皿」が形成されたことが解体過程を相対的にスムーズなものとした。これに対して、連邦構成共和国という地位を持たなかった地域で紛争が起きた場合には、決着がより困難であり、往々にして流血の内戦が起きた。チェチェン、ナゴルノ=カラバフ、アブハジア、南オセチア、沿ドネストル地域などはその典型例である。
 なお、2008年の南オセチア戦争、2014年以降のウクライナ危機をソ連解体時に既にレールが敷かれていたものとして必然論的に論じる傾向が一部にあるが、留保抜きにそう断定するのはやや性急な観がある*25。ソ連解体過程に即して考えるなら、連邦構成共和国間の対抗関係は――そこに下位地域の問題がからまない限りは――平和的取引での調整が可能であり、現にできた。その際、下位地域を連邦/同盟再編交渉から排除するというのが、ペレストロイカ末期におけるロシア指導部の方針であり、1991年における力関係から、この方針が貫徹された(つまり、連邦構成共和国間の境界については、uti possidetisの原則がとられた)。その際、交渉過程から排除された下位地域は、連邦構成共和国=独立国家に従属させられることに大なり小なり抵抗したものの、結局、大多数はそういう地位に甘んじることで決着した。武力紛争の起きた一部の下位地域でも、1990年代半ばまでに停戦に漕ぎ着け、全面解決ではないまでも一応平和的な状態に移行した。21世紀に入ってからいくつかの地域で軍事的衝突が再燃した――2008年の南オセチア、2014年以降のクリミヤおよびドンバス、2020年以降のナゴルノ=カラバフ――が、これらはそれぞれに個別のきっかけがあり、偶発性の契機も作用しているので、それらを一括して必然と見るのは性急である。
 ソ連解体時に下位単位を排除して連邦構成共和国だけを独立国とする方式がとられたことの意味について、多少補足しておきたい*26。これは今日の戦争ともつながる重要な問題である(クリミヤおよびドンバスの例を想起)。ソ連解体決定時に交渉から排除された下位単位のうちのいくつか――チェチェン、ナゴルノ=カラバフ、南オセチア、アブハジア、沿ドネストル地域――で武力紛争が起きたことの意味を無視することはできないが、それ以外の下位単位の多数は従属的地位を大なり小なり不承不承ではあれ受け入れ、武力紛争には至らなかった。また1990年代前半の武力紛争は数年以内に停戦に漕ぎ着けた。こうしたことを考えれば、それが直ちに今日のような大戦争につながったとはいえない。最大の問題はクリミヤ――および条件は異なるがドンバスも――だが、ここをめぐっては1991年8月政変直後から問題が浮上したとはいえ、その段階では武力紛争化は避けられ、1997年のロシア=ウクライナ条約およびその後の国境画定によって基本的には落着した。そのようにしていったん落着した問題が2014年に激しい勢いで蒸し返されたことの意味については、別個に考察するべきだというのがとりあえずの見通しである。
 
5 個人としてのゴルバチョフ〔およびエリツィン〕評価について
 
 よく「ゴルバチョフは国外では高く評価されてきたが、国内では評価が低い」と言われる(2022年8月30日にゴルバチョフが死去したときにあらわれた論評の大多数はそういう対比に基づいていた)。しかし、このような対比はスウィーピングに過ぎ、正確でない。国内でも国外でも、時期によってかなり大きな評価の揺れがあった。
 先ず、最初のうちは、「模様眺め」ともいうべき態度――留保付きでの慎重かつ相対的な評価――が内外とも優勢だった。その後、1988‐89年頃になると、ソ連国内でも人気が高まったし、国外(欧米や日本)では「ゴルビー・ブーム」が生じた。しかし、ペレストロイカ末期になると、国内では幻滅が急速に広がり、ゴルバチョフ支持率は1990年の間に急落した*27。ロシアにおけるゴルバチョフ評価が低いという通念が当てはまるのはこの時期以降のことである。
 国外についていうと、その後の評価は一様でない。マスコミおよび一般国民は一挙に関心を失い、ほとんど忘れかけたが、たまに思い出す場合にはかつての肯定的イメージを保存していることが多い。しかし、ロシア・旧ソ連諸国の動向を追い続けている観察者の間では、国内での評価急落に影響されて、わりと批判的な見地が優勢となっている*28。日本でも、「あの当時はゴルバチョフの理想主義的空論に幻惑されていたが、冷静に考えてみると、ゴルバチョフの指導は場当たり的で、まるで評価できない」といった見方をする人が増えた。
 私自身についていうと、ペレストロイカの初期から中期くらいまではかなりの程度ゴルバチョフおよびペレストロイカの進行に共感をいだいていたが、次第にその矛盾に注目するようになった。その後、ペレストロイカを歴史として見るようになる中で、肯定か否定かと単純に割り切ることのできない諸側面をなるべく総合的に視野に入れるよう努めてきた。とにかく、現在の私は単純なゴルバチョフ賛美論にも否定論にも与しない。ただ、一部の「ロシア通」の人たちの間に見られる「かわいさ余って憎さ百倍」的な非難の噴出に対しては、一線を画したいという気分がある。
 ゴルバチョフ評価と裏表の関係にあるのはエリツィン評価である。一つの有力な評価として、「マキアヴェリズムを欠き、理想主義的に過ぎたゴルバチョフvs猪突猛進型で強い破壊力を持つエリツィン」というイメージがある。これはごく大まかにいえば当たっているところがある。だが、よく見てみると、ゴルバチョフもときとしてマヌーヴァーをしたり、権謀術数に頼ったりしている――そのために理想からの逸脱を批判された――し、直情径行のイメージのあるエリツィンも、意外に柔軟性を示したり、妥協的になったりした――そのことは「民主派」内での亀裂と論争を生み出した――ことがある。そのことと関係して、両者の対抗関係は一方的に高まり続けたのではなく、歩み寄りの試みとその破綻を何回も繰り返すというジグザグを経ながら終末へと至った。このことは『国家の解体』で詳しく跡づけたとおりである。これは「両者の和解の試みが結実していればよかったのに」という未練論を述べるためではなく、現実の歴史過程の複雑性を浮き彫りにしたかったからである。
 
W 各論部分について
 
 これは本書の本体部分をなし、あまりにも膨大であるため、丁寧に解説することは到底できない。ここでは、全体的な要約や解説ではなく、ややエピソード的に、いくつかの論点に触れるにとどめる。
 
1 各論全般
 各地域にはそれぞれに異なる個性があり、それらをどのように整理するかの基準も一つだけではない。歴史、文化、経済状況その他、種々の指標があり、それらの組み合わせ方次第で異なる分類が可能となる。とはいえ、相対的に目立ちやすい区分というものがないわけではない。最も顕著なのは、独立派(バルト3国、グルジア、アルメニア、モルドヴァ)と非独立派(中央アジア、ベラルーシ、ロシア内自治共和国など)の差異である。とはいえ、どちらのグループも決して一様ではなく、それぞれに個性差がある。
 共和国単位での比較だけでなく、それらの内部での動きも重要である。どの共和国も一枚岩ではなく、多様な政治潮流が存在していた。それも、《共産党vs民主派》というだけでなく、共産党もいくつかの潮流に分かれ、「民主派」の中にもいろんな流れがあった。地域内部での対抗関係は、はじめのうちあまり目立たなかったが、時間の経過の中で次第にあからさまになった。そのタイミングにも地域差がある*29
 一つの重要な論点として、いわゆる民族・民主派への評価がある。当時は(そして、かなりの程度今日まで)いわゆる民族・民主派を民衆を代表する運動と見なし、これを肯定的に評価する見方が主流だった。しかし、その後の紛争拡大を見る中で、疑問も生じてきた。そのことはナショナリズムというものへの視点とも関連する。当時は、(ロシアを除く)諸民族のナショナリズムを肯定的に評価し、それを応援する論調が主流だった。その後、いくつかの地域での民族間衝突の事例を見る中で、ナショナリズムへの否定的評価も現われるようになった。もっとも、「被抑圧民族のナショナリズムは進歩的だ」というレーニン以来の考え方もまだ残っている。
 本書ではいくつかの地域での紛争をとりあげたが、それらがどのような形で展開したかも興味深い論点である。もちろん、個々の紛争ごとに種々の差異があるが、その点はさておき、大まかな傾向として、初めのうちは平和的な論争・対抗だったものが、小競り合いや部分的暴力の段階を経て、遂には大規模な暴力的衝突に至るという例が多い。そうしたエスカレートの過程を跡づけることに、拙著ではかなりの力点をおいた。事後的にいえば、どこかにある一線があったということになるが、渦中においてはその一線を見定めることはできず、きわめて流動的な状況があった。
 多くの場合、現地の政治指導部(各地の共産党)は、はじめのうち紛争の拡大を抑えようとしてナショナリズムを批判する態度をとっていた。しかし、次第に自己の地位を保持するために、むしろナショナリズムを煽る側にまわるケースが多い(共産党の民族主義化)。これも注目に値する論点である。
 
2 個々の地域に関するいくつかの問題
@中央アジア
 中央アジアについての見方として、欧米でもモスクワ知識人の間でも「保守的」という見方が優勢である。そのため、欧米文献やモスクワ文献に依拠していると、そうしたイメージに引きずられやすい。それはそれで一面の真実ではあるのだろうが、私としてはそれだけには尽きない側面を探ろうと試みた。
 関連して、資料についていうと、1986年のアルマアタ事件の時点では、当時の新聞報道を通して実態に迫るのは至難だったが、その後の真相解明運動の高まりのなかでカザフ紙の報道が次第に率直になった。そのほか、ミュンヘンのサミズダート資料(Материалы самиздата)が役に立った。これとは対照的に、1990年のドゥシャンベ事件の時のタジキスタン紙Коммнист Таджикистанаは、異例なまでに率直な報道によって、指導部内亀裂をあからさまなものとした。このことは後のタジク政治の展開にも影響したと考えられる。
 
Aバルト三国
 ここでは早い時期から種々の動きがあったが、「独立」を明示する動きが表面化するのはペレストロイカ開始から少し経ってからのことだった。拙著で重視したいくつかの画期として、まず1988年に各共和国共産党指導部の交代があり、これは条件つきながら人民戦線主流派と共和国共産党の提携を可能にした*30。次いで、1989-90年には独立論が高まり、共産党も独立派と残留派に分裂した。その分裂の仕方およびその後の経過は3国それぞれに異なる。1990年になると、中央との対抗が一段と高まったが、それでも対話の余地はまだ完全になくなってはいなかった。
 ロシア語資料でどこまで実態に迫れるかというのは、バルト三国についてはかなり深刻な問題であり、ソ連時代最末期以降については現地語の知識なしに本格的な研究を進めることはできない。ただ、逆にいえば、最末期近くに至るまでは、かなりの程度ロシア語資料の有用性が高いという感触がある。初期についてはコムソモール紙が共産党紙よりも率直な情報を伝えている。その後、人民戦線の刊行物も現われたし(Атмода, Балтийское время, Вестник народного фронта (Издание народного фронта Эстонии), Возрождениеなど)、ロシア語での資料集もある(Эстония. Контуры этнополитической эволюции. 1988-1993 гг. Очерки . Документы. Материалы. т. I, II, М., 1994など)。政治の主導権を独立派がとった場合、その立場をロシア語で伝える新聞として、リトアニアのЭхо ЛитвыおよびラトヴィアのДиенаが重要である*31(エストニアの場合、共産党の分裂の仕方が入り組んでいて、中間派がわりと多かったせいもあって、上記2紙に匹敵する新聞が出なかった模様)。
 冷戦研究会における合評会では、小森宏美からエストニアに関するいくつかの指摘があった。どれも貴重な情報提供だったが、いずれも拙著の記述を反駁するというよりはそれを別の角度から補うものであるように感じた。一例として、1991年1月の「血の日曜日」事件に際して、サヴィサール・エストニア首相がヤーゾフ・ソ連国防相に宛てた書簡(1月9日付)をエストニアの文書館で見出したもののコピーを示してくれたのは大変ありがたい資料提供だった。拙著では1月12日の連邦評議会における応酬を紹介したが、それにやや先だってこのようなやりとりがあったという事実は、このように緊迫した状況の中で現地政権と連邦中央の間で水面下の交渉が進んでいたことを物語る点で非常に興味深い*32
 
Bサカルトヴェロ/グルジア/ジョージア
 ここでは幾重にも折り重なった重層的対抗構図があり、それを解きほぐすのは容易ではない。トビリシ政権とアブハジア、南オセチアの対抗関係は周知のところだが、アブハジアと南オセチアの間にも種々の差異があるし、それぞれの中にも複数の政治潮流があった。
 トビリシの政治に関しては、共産党が早い時期から民族主義化して独立論に転じたこと、多数登場した野党の間での抗争が激しく、「独立」という共通目標を掲げながらの内部抗争が絶えなかった点が注目される。
 1990年11月に政権の座についたガムサフルディアの統治については、モスクワのメディアだけでなく欧米のメディアでも権威主義性がしばしば指摘されたが、それをどう理解するかも大きな問題である。ある意味では、ソ連解体後に多くの国で観察されるようになった《資本主義経済化と権威主義的統治の結合》という傾向の先駆といえるかもしれない。
 
Cアルメニアとアゼルバイジャン
 この地域についても様々な論点があるが、ここではただ一つの個別事例に触れておきたい。拙著454−461頁でスムガイト事件後のアゼルバイジャン共産党およびコムソモールの反応について述べたが、これはこの事例に限らず、より広い観点から深刻な意味を持つもののように感じられる。スムガイト事件直後のアゼルバイジャン、とりわけ青年組織の間では、自分たちの仲間から暴行を振るう者が現われたことを「身内の恥」とする意識が前面に出ていた。しかし、やがて特定組織が上部から人身御供的に責任を押しつけられることへの反撥、またアルメニア側の問題が不問に付されていることへの反撥が強まり、対抗意識が高まっていった。これは、何らかの残虐行為を行なった「加害者」側が、「罪の意識」を全然持たなかったということではなく、ある程度まで持ちながら次第に逆転していくという心理的メカニズムを物語るものとして大変興味深い。これは他の事例(端的には中国・韓国との関係における日本)にも共通する問題ではないかと思われる。
 
Dモルドヴァ
 モルドヴァは広い意味では「独立派」ということになるが、他の独立派共和国とはいくつかの点で異なっていた。その内容についてここで詳しく書くことはしないが、歴史的経緯、隣接するルーマニアとの関係、沿ドネストル地域の存在、共産党の変容の仕方の独自性、そして人民戦線の相対的弱さ(ルーマニアとの統一を掲げることによって支持率を落とした)など、興味深い論点が多々ある。沿ドネストル地域とガガウス人地域の共通性と差異も重要である。
 資料についていうと、Советсккя Молдавия(1990年8月にСоветская Молдоваと改題)が重要だったが、1991年8月政変時に発行禁止にあったため、その時期の動きを探ることが困難になった(Независимая Молдоваは10月に刊行開始)。その代わりに、労働組合の新聞 Голос народаが独立宣言採択前後の時期を詳しく伝えており、貴重な資料となっている。
 
Fウクライナ、クリミヤ、ベラルーシ
 たくさんの論点があり、ここで丁寧に触れている余裕はないが、とにかく今日の状況を念頭におきながら考えると、非常に大きな変化があったことを意識させられる。最近の戦争から遡及的に過去を論じる人が多いが、実はかつてはかなり異なっていたということを確認した上で、そこから今日に至る変化をどう見るかが大きな課題となるだろう*33
 あまたある論点のうち、主だったものを簡略に挙げるなら、キエフ、リヴォフ、ドンバス、クリミヤといった諸地域の対比(それぞれについて地方新聞を検討した)、また東方典礼カトリック(ユニエイト)および独立ウクライナ正教会(アフトケファル派)といった問題が顕著な位置を占める。後者は「政治と宗教」という一般論にとどまらない「諸教会間の政治」という主題になる。
 
Gロシア共和国
 従来、ロシアとソ連とはややもすればほぼ同じような存在と見なされがちであり、その区別が論じられることもあまりなかった。しかし、実はソ連と区別されるロシアの位置という問題はきわめて興味深い主題である。その独自性はペレストロイカ前半にはあまり明確ではなかったが、後半には一挙に重みを増した。拙著の第8章が比較的短く、第一部の末尾におかれているのに対して、第10章がずっと長く、第2部の前の方におかれているのも、そうした事情を反映している。
 
Hロシア内の民族地域
 ここには多数の地域が含まれ、ここで詳しく立ち入ることはしない。ただとにかく、ソ連・共和国・内部地域という3層構造の政治が展開した点がペレストロイカ後期の特徴であり、これはソ連国家の解体過程のあり方にも大きく影響した。
 
X 限界および反省
 
 欲張りすぎたという点は言わずもがなであり、ここでくだくだしく述べることはしない。
 拙著はほぼ30年近い作業の産物だが、長期にわたって書き続けることには独自の困難が伴った。その一つとして、初期に気づいていなかった重要な論点に遅い時期に気づくということがよくあった。そうした論点に関する初期の草稿は、記述が不十分だったり、アンバランスだったりする。そのことに気づいた場合、可能な限り補充調査を行ない、全体として一貫性ある記述にするよう努めたが、それが比較的うまくいっている個所とそうでない個所がある。
 また、作業の途中で、過度に厚くなりそうだということを意識して、いくつかの個所では当初の草稿をかなり思い切って縮減したが、他面では、いくつかの個所では、資料紹介に熱がこもり、冗長になってしまった。そのため、細かすぎて冗長な個所とややあっさりとまとめた個所との間に不均等性がある。もちろん、できるだけ平準化するための努力を払ったが、どうしてもでこぼこが残った。
 もう一つ、これは私の研究スタイルの癖のようなものだが、半ば歴史学的、半ば政治学的という中途半端さがある。そのことと関係して、理論への関心がなくはないが、最初に理論枠組みを固めてから出発するのではなく、無手勝流の模索の中で次第に理論図式らしきものを探るというスタイルをとっている。結果的にいくつかの図式らしきものを出しているが、あまり整然たるものとはなっていない。これを踏み台に、後続研究者が様々な理論的含意を引き出してくれるなら、これ以上嬉しいことはない。
 今述べたことと関連して、力不足で、最後のまとめをすることができなかった(→次項)。
 
Y 「その後」について
 
@ソ連亡き後の世界
 拙著の本文は1991年12月25日という時点で唐突に終わっている。とはいえ、「その後」を全く意識していないわけではない。独立した終章ないしエピローグのようなものを置くことも考えたが、うまくまとまらなかったため、「あとがき」の冒頭で軽くその後の展望に触れるにとどめた。
 「あとがき」では、「ポスト・ポスト冷戦期」「ポスト・ポストソ連時代」という言葉を使ってみた。その趣旨は、ソ連解体後しばらくの間は「社会主義圏がなくなった」「冷戦が終わった」ということが時代全体の重要な特徴をなしていたが、時間が経つにつれて、それ以外の諸問題が多数浮上し、もはや「ポストソ連時代」「ポスト冷戦期」という特徴づけでは済まなくなったということを意識していた。
 拙著刊行直後に書いた「「民主主義の後退」か「民主化論」の陥穽か――体制転換後30年」という小文(『UP』2021年9月号)はその点を多少なりとも補おうとしたものである。そこで記したように、数十年前まで実在していた現実というものは、「過去」になったからといって、跡形もなく消え去ってしまうわけではない。たとえば、昨今「新しい冷戦」ということが盛んに取り沙汰されているのは、かつての「冷戦」の記憶が今なお人々の意識のなかに焼き付いており、現在の「新しい冷戦」がそれとどこまで、どの程度似ているのかという問いが有意味なものとして意識されていることを物語る。国際関係の緊張の高まりと対応するかのように、各国ごとの政治に関しても、一時期進むかに見えた「民主化の波」が後退して、「権威主義化の波」がやってきたという議論も盛んだが、これはペレストロイカおよび冷戦終焉の時期に流行した「民主化」論を反転させたかのごとき様相を呈している。かつて進んだ「民主化」が何らかの理由で「後退」に転じたのか、それともむしろかつて流行した「民主化」論自体に陥穽ないし錯誤がはらまれていたのではないかなど、さまざまな観点がある。
 いずれにせよ、現在の状況について考える上で、当時に関するイメージ――大なり小なり変容や思い込みを含んだ、必ずしも正確とは限らないイメージ――が一定の影を落としていることは明らかである。「近い過去」は単純に消え去るものではなく、その記憶や残像が大なり小なり今日の人々の意識に焼き付いているる。そのイメージと過去の現実の間には種々のズレがはらまれているが、そうしたズレ自体がその間の変動の一種独自な反映であり、その有意味性も時代状況に規定される。そのように考えるなら、「近い過去」は「現代」の一つの構成要素をなしているといえるのではないか。
 
Aウクライナにおける戦争の勃発――新しい時代の始まりか?
 拙著執筆後しばらくのあいだ上記のようなことを考えていたが、2022年2月に戦争が始まったことによって、それが現代史の中でどういう位置にあるのか、近い過去の歴史は現在を説明する上でどこまで有意味かという問題に取り憑かれることになってしまった。
 拙著はソ連解体へと至る過程を主要内容としているが、現在の戦争はそれと地続きなのか、それとも解体以後(つまり本書が扱ったよりも後)の30年をこそ注視すべきかという問いがある。とりあえずは両方の面があると言うことしかできず、明確な結論を出すことはできない。それでも、必要に迫られて熟さない発言をいくつかしてきたし、今後もしばらく続けないわけにはいかない(末尾の付録参照)。それらの発言がどこまで妥当性を持つと見なされるかは、まさしく歴史の審判にさらされることになるだろう。
 
Z 次の仕事
 
@山川世界史セレクション
 山川出版の世界各国史シリーズ『ロシア史』(3巻本ではなく1巻本の方)の新装版。大半の章は微修正のみの再録だが、現代については最新の動向に関する補足を新たに書き下ろさねばならないということになった。具体的には、第12章第4節「21世紀のロシア」および第13章「周辺諸国の動向」を執筆することになった。これは期せずしてウクライナ戦争の背景をここ20-30年という幅で考えるという意味を持つことになった。長らくソ連国家解体過程の研究に集中していて、その後の時期の動向をあまりフォローしていなかった私にとって、これは悪戦苦闘を強いるものであり、多くの方々の助力を仰ぐ必要に迫られた。とにかくも四苦八苦の末に6月下旬に脱稿した。
 
A『国家の解体』に基づく、なるべく薄い小著
 拙著があまりにも厚すぎるものであることから、その内容をなるべく多くの読者に届けるため、こうした小著が必要だということは早い時期から考えていた。但し、単純なミニチュア版ではあまり意味がないので、重点の置き所をかなり変えて、独立した著作として読めるものにしたいと考えている。
 この小著については、2021年の間にある程度準備を進めかけたが、ウクライナ戦争および山川セレクションのせいで、執筆作業を一時停止せざるを得なくなった。そろそろこの作業に再度取り組もうと考えているところだが、長期的な歴史的展望を考え直す必要があるため、なかなかまとめの作業に取り組めないでいる。
 
 
【付録】ウクライナ戦争に関連する塩川の発言一覧
 『世界』2022年5月号、インタヴュー「ウクライナ侵攻の歴史文脈と政治論理」。
 『現代思想』2022年臨時6月増刊号(特集・ウクライナからの問い――歴史・政治・文化)、池田嘉郎氏との対談「戦争とアイデンティティの問題――ロシア史・ソ連史のパースペクティヴ」。
 東京大学グローバルキャンパス推進本部の主催で、役員・教員・職員を対象とした「ウクライナ・ロシア情勢について」というオンライン勉強会での講演。4月4日。
 YouTubeチャンネル「未来に残したい授業」への出演。5月17日収録。
     https://www.youtube.com/watch?v=7-eQ_fQihYo
 毎日新聞インタヴュー。6月3日夕刊。
 ルネサンス研究所主催のオンライン研究会における講演「ウクライナとロシア――ソ連解体後30年の歴史を振り返る」。6月14日
 桜美林大学リベラルアーツ学群における阿部温子氏の授業「エスニシティとネイション」でゲスト講義「ネイション形成とナショナリズム――ウクライナの場合」を担当。7月1日。
 医療介護福祉政策研究フォーラムの主催する「社会保障研究会」という場で「ロシア・ウクライナ戦争――背景・展開・現状」というオンライン講演。7月21日。
 「ロシア・ウクライナ戦争の背景」『歴史地理教育』2022年9月号。
 「2014年と2022年」『ユーラシア研究』67号(2022年12月刊行予定)。
 かわさき市民アカデミーでの連続講義『ロシア・ウクライナ戦争を考える』(10月から2023年1月まで)。コーディネーターおよび第一回を担当。
 兵庫県弁護士会主催のウェビナーで講演予定。11月16日。
 「ペレストロイカとウクライナ――ロシア・ウクライナ戦争の歴史的理解のために」『歴史学研究』2023年6月号予定
 
ホームページ上での発信:http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/
 「ウクライナ戦争をめぐって」(2022年3月)
 「ウクライナ戦争・再論」(2022年4月)
 「ウクライナの社会学者による現代ウクライナ政治の分析」(2022年4月)
 「ラリュエル『ファシズムとロシア』を読む」(2022年5月)
 「ウクライナとロシア――ソ連解体後30年の歴史を振り返る」(準備中)

*1本稿は冷戦研究会(2022年9月24日、オンライン)における拙著合評会のために準備した報告草稿に若干の補訂を施したものである。補訂に際して、合評会の場で3人の書評者(溝口修平、小森宏美、吉留公太の各氏。以下では敬称略)から出された批評に触発されたところが大きかったので、記して謝意を表したい。なお、本来であれば、書物の主要内容を詳しく丁寧に紹介しつつ補足や反省について述べるべきところだが、本書の場合、それをやっていたらあまりにも長大なものになってしまうことが予想され、そこまで徹底するのは実際的でない。そこで、やや恣意的になるが、多くの読者に関心があるだろうと想定される事項をいくつかピックアップして、意図や反省について述べさせていただくことにする。あまり体系的でなく、思いつき的な雑文になってしまうことについてはご寛恕を乞うしかない。
*2そのように二つもの序論を書いたため、本書それ自体の序章は比較的短めのものにとどめた。「序章が意外に短い」という感想をいだいた人がいたが、そうなったことの一つの理由はいま述べたような事情にある。
*3なお、有志舎本については、以前に冷戦研究会で合評会を開いていただいたときに準備した報告原稿をもとにした文章をホームページに公開したことがある。これは『解体』とも関係するところがあり、今回の小文とも部分的に重なるところがある。
*4総論は有志舎本と重なるところがかなりあるため、この項目で述べることのかなりの部分は、『国家の解体』と有志舎本とにまたがることになる。前注3の別稿も参照。
*5ペレストロイカの初期・中期・後期への区分とは別だが、ソ連全体の歴史についても、長期・中期・短期という異なる観点の積み重ねが必要だということについて、塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、2010年、第V章参照。
*6ここで「(広義の)社会民主主義」という言い方をするのは、社会民主主義という概念には相当大きな幅があるということを念頭においている。社会民主主義自体を主題として議論をする場合には、その内実を丁寧に考えることが当然必要となる。しかし、当時のソ連では、ともかくも社会民主主義に接近するかどうかという点が大問題であり、その内実にまで立ち入った議論が行なわれる状況ではなかったことから、ここではその問題に立ち入らない。
*7欧米の研究者のうち、ゴルバチョフの社会民主主義化を重視しているのはアーチー・ブラウンとスティーヴン・コーエンである。Archie Brown, Gorbachev Phenomenon, Oxford University Press, 1996;(邦訳『ゴルバチョフ・ファクター』藤原書店、2008年)、Id., Seven Years That Changed the World, Oxford University Press, 2007; Stephen Cohen, Soviet Fates and Lost Alternatives: From Stalinism to the New Cold War, Columbia University Press, 2009. 彼らの着眼は重要だが、いくつかの問題点がある。社会民主主義化の可能性を過大評価し、それが実現しなかったことを嘆く未練論に傾斜している点、またソ連が共産主義離れした画期を早めに想定しすぎている点が特に目立つ。私自身は、後期のゴルバチョフを事実上の社会民主主義路線とする解釈をブラウンおよびコーエンと共有するが、どうしてその路線が成功し得なかったのかの解明をより重視する観点に立っている。
*8代表的な画期として、1989年11月のゴルバチョフ論文「人道的・民主的社会主義」、1990年7月の第27回党大会における攻防、そして次の時期のことになるが91年7月総会に提出された党綱領草案などが挙げられる。ソ連解体後になると、ゴルバチョフは自ら公然と社会民主義者を名乗り、一時はロシア社会民主党を率いたが、泡沫政党以上の存在になることはできなかった。
*9なお、何が「右」で何が「左」かは見方によって異なり、ある観点から「右」とされる立場が他の観点からは「左」とされることもあるので、この言葉遣いにとらわれるのは適切でない(西欧ではナショナリスト的傾向を「右派」と呼ぶのが通例だが、ある時期以降のロシアでは経済的自由主義が「右派」と呼ばれるようになった)。いわゆる「保守派」の中にも種々の論者がいるが、その多くはペレストロイカ以前の体制への回帰を求めるという意味での「保守」ではなく、「社会主義再生論」の立場に立っていた(たとえば、市場とか自由選挙とかをそれ自体として否定するのではなく、その「行き過ぎ」に歯止めをかけようという態度)。
*10ソ連およびその継承諸国に即してみる限り、(広義の)社会民主主義への転化という形での軟着陸が極度に難しく、ほとんど成功可能性がなかったのは明らかだが、これはむしろソ連以外の諸国を視野に入れた一般論で考えるべき論点となる。ヨーロッパのいくつかの国では、市場経済および政治的リベラリズムの基本的受容を前提した上で、種々の傾向の社会民主主義の実践が現に試みられた例があるから、それらまで含めた最広義の社会主義がおよそ一般に不可能な幻想だと決めつけるのは性急だろう。もっとも、ヨーロッパ以外の諸国ではそうした試みは微弱であるし、そのヨーロッパでも近年では社会民主主義の退潮が目立つことを思うなら、全世界的に見てもどちらかといえば悲観的な観測に分がありそうに見える。もっとも、これはソ連史を離れた一般論であり、本論からいえば余計な脱線である。
*11未練史観とオルタナティヴ論の違いについて、有志舎本の第8章のほか、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、2004年、第11章参照。
*12藤澤潤「ソ連のコメコン改革構想とその挫折――一九九〇‐九一年の域内交渉過程を中心に」『史学雑誌』第130編第1号(2021年)は冒頭で「ゴルバチョフの構想は全くの絵空事というわけでもなかった」と指摘した後、しかしその試みは結果的に失敗に終わったと述べて、1990-91年におけるコメコン改革ないし後継組織設立をめぐる交渉過程を詳しく跡づけて、コメコンは東欧革命に伴って直ちに自然消滅したのではなく、諸アクターの複雑な動きの交錯が絡み合って解散へと行き着いたということを明らかにしている。この見方は私の見地と近い。また、文脈は異なるが、上垣彰は、「市場ボルシェヴィズム」のオルタナティヴと想定される「穏健なリベラリズム」は現実には実現しなかったが、それが将来的に根付く可能性が絶対にないとは言えないと論じている。上垣彰「「グローバル・リベラリズム」とロシア――上からの啓蒙の実験」村上勇介・仙石学編『ネオリベラリズムの実践現場――中東欧・ロシアとラテンアメリカ』京都大学出版会、2013年。
*13この問いは冷戦研究会における合評会で溝口修平が提出したものである。
*14bとcの対比については有志舎本の167頁で触れたが、aとbの違いは明示的に論じてはいなかった。先に「面子を失わない形での冷戦終焉」という表現を用いたが、aとbは外形的にいえば、いずれも面子を失わないという意味での共通性がある。そのため、aからbへの目標移動はあまり目立たない形をとってなし崩しに進める余地がある。ゴルバチョフがどこまで自覚的だったかは定かでないが、彼は事実上、その目標をaからbへとずらした――しかし、結果的にはそれに成功せず、cへと追い込まれた――と考えられる。この問題に関し、不十分ながら、『国家の解体』738-743頁参照。
*15メアリー・サロッティの『1989年』は現実にとられたドイツ統一方式を「プレハブ・モデル」(既存の構造を東に拡張する)と名付け、これは当時の現実の中では最も成功可能性の高い選択肢を巧妙に選んだことを意味するが、他のモデルが絶対に不可能だったとまでは言えないと指摘し、またプレハブ・モデルの一環たる統一ドイツのNATO帰属はロシアをヨーロッパの外に放置することを意味したが、そのことへの自覚の弱さが後に禍根を残したと指摘している。彼女の著作はソ連についての踏み込みは弱いが、アメリカ、西ドイツ、東ドイツについては相当詳しく、参考になる(但し、残念ながら邦訳はよくない)。Mary Elise Sarotte, 1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, new and revised edition, Princeton University Press, 2014.塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に原書および邦訳書のそれぞれに関する批評を載せてある。私のbとcは、彼女の表現で言えば、それぞれ「ヒロイック・モデル」と「プレハブ・モデル」に相当する。
*16この点を特に重視するのは、M. Meyer, 1989: The Year That Changed the World: The Untold Story Behind the Fall of the Berlin Wall, Pocket Books, 2009(邦訳『1989 世界を変えた年』作品社、2010年)。
*17吉留公太『ドイツ統一とアメリカ外交』(晃洋書房、2021年)。これに対して、米政権内の不一致をより小さく見る見解として、志田淳二カ『米国の冷戦終焉外交――ジョージ・H・W・ブッシュ政権とドイツ外交』(有信堂、2020年)がある。私見は吉留説に近い。
*18Jack Matlock, Jr., Autopsy on an Empire: The American Ambassador's Account of the Collpase of the Soviet Union, Random House, 1995; Id., Reagan and Gorbachev: How the Cold War Ended, Random House, 2004.
*19ゲンシャー外交については、板橋拓己『分断の克服1989-1990――統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(中公選書、2022年)が詳しい。
*20シェワルナゼの二冊の回想参照。Э. А. Шеварднадзе. Мой выбор. В защиту демократии и свободы. M., 1991 (邦訳『希望』朝日新聞社、1991年)、он же. Когда рухнул железный занавес. Встречи и воспоминания. М., 2009.
*21板橋『分断の克服』は、ゲンシャーは「東西融和・和解」型の冷戦終焉というヴィジョンを保持していたが、一面におけるその成功が、結果的に「勝敗区分」型の冷戦終焉に貢献したという逆説を提起している。
*22Henry E. Hale, The Strange Death of the Soviet Union: Nationalism, Democratization, and Leadereship, Harvard University Press, March 1999, p. 5.この論文およびそれに続く彼の著作は実証史学的には十分深くなく、難点があるが、とにかくここに示された観点は有意味である。
*23冷戦研究会における合評会では小森宏美がこの点に触れた。
*24もう一つの理由として、1991年には既にユーゴスラヴィア内戦が始まっていたことから、「あのようになることだけは避けねばならない」という意識が政治家たちに強く作用したことが考えられる。ユーゴスラヴィアの連邦制とソ連の連邦制は共通する面とそうでない面とがあり、その精密な比較は今後の興味深い課題だが、前者で先に大きな悲劇が起きたという事実が後者における同様の悲劇の回避――といっても、全面的な回避ではなく、部分的には避けられなかったが――に貢献したという関係があるように思われる。
*25松里公孝は分離主義運動が非承認国家として結晶化し得たのは黒海地域のみだとして、他の地域と対比している。松里「宗教とトランスナショナリズム――レニンゴル、沿ドニエストル、クリミアに共通するもの」六鹿茂夫編『黒海地域の国際関係』(名古屋大学出版会、2017年)、294-297頁。これによるなら、これらの事例はあくまでも限られたものであり、他の地域に一般化できるわけではないということになる。
*26この論点は、冷戦研究会における合評会で溝口修平が提起した。
*27多数のデータがあるが、代表的な例示として、塩川『冷戦終焉20年』131頁のコラムE、また『国家の解体』743頁参照。
*28ゴルバチョフに対して向けられる批判には雑多な種類のものがある。ペレストロイカの目標自体が不十分もしくは非現実的だったという見方と、目標はよかったのだが戦術や人事に問題があったとか、個人としての不決断や動揺を重視する見方とがある。目標の解釈にしても、あくまでも社会主義の枠内に囚われていたとする見方と、その枠を超えようとしてはいたが、それが途中で挫折したという見方がある。「民主主義」との関係でいえば、当時の「民主派」はゴルバチョフが民主主義に背いて権威主義に傾斜しているという非難を浴びせたが、逆に、必要な権威行使を避けすぎた弱い指導者だったとか、理想主義的に過ぎて、マキアヴェリズムを欠いていたとする観点もある。マキアヴェリズムの欠如を特に強調するのはジェリー・ハフである。Jerry Hough, Democratization and Revolution in the USSR, Brookings Institution Press, 1997.塩川伸明「二つのゴルバチョフ論」東京大学出版会『UP』上下、1999年1月号、2月号参照。ソ連解体の決定的瞬間にゴルバチョフが実力行使を避けたことについては、『国家の解体』2189頁参照。
*29資料との関係についていうと、多くの地域でコムソモール紙は早い時期に多様な報道を始めた。そのため、グラースノスチが本格化する前夜については、コムソモール紙の有用性が高い。顕著な例として、ラトヴィア、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなど。Советская молодежь (Рига), Молодежь Грузии, Молодежь Азербайджана, Комсомолец (Ереван).
*30この点を特に強調するのは、シモニャンである。Р. Х. Симонян. Эстония. Обретение второй независимости. М., 2016.
*31余談になるが、来日したあるラトヴィア人歴史家に、ロシア語資料では大したことが分からないだろうと言われたので、Диенаの名を挙げたら、これがソ連解体に先だつ1990年11月に刊行され始めたことを知らなかったのに驚いた記憶がある。
*32ついでにいうなら、おそらくリトアニアやラトヴィアでも類似の試みがある程度まであったのではないか、ただそれが流血回避に役だったケース(エストニア)とそうでないケース(リトアニア、ラトヴィア)があったということではないかという気がするが、この辺は今後の検討課題である。
*33「ペレストロイカとウクライナ――ロシア・ウクライナ戦争の歴史的理解のために」という拙稿を現在準備中(『歴史学研究』2023年6月予定)。「ウクライナとロシア――ソ連解体後30年の歴史を振り返る」という文章も準備中。